野に還る

ペンタックスをザックに
野山に花や鳥、虫たちを追う。
身を土に返すまでのほんの一時
さあ野遊びの時間の始まりだ。

初秋の乙女高原へ

2018-09-05 06:39:20 | ハイキング

 もう40年以上も前になる若かりし頃の話だ。「地図の通りに生きたくなかった」 から

 「なるべく人のいない道を探した」。ただ誰のものでもない私だけの人生を

生きたかった。 齢を重ねた今、「景色だけが変わり、未来は過去になる」……。

 これは大瀧詠一の「1969年のドラッグレース」のワンフレーズ。

 

 「私たちには焦らなくても 時間がある」と笑った君と「時間が無限に

なかったことを今ではよく知っている」僕と、一体どちらが正しかったのだろうか。

「瞼の裏を夢が走り去」る今になって、あのひたすら輝いた時間を思い起こす。

そこに答えはない。

「レースは終わりじゃないさ ゴールは霧の向こう」なのだから。

 興味のある方は歌詞はここにある。

 

  まるでアクセサリーのようなヤマハハコ

 

 さて9月に入って秋の風の吹き始めた乙女高原を訪ねた。焼山峠に車を止め

そこから歩き始めることにした。

 

 色づき始めたヤマハギ

 

 普段は地味なノダケの花が輝いていた。

 

 キク科の花

 

 キンミズヒキ

 

 しそ科のイヌゴマは至る所で見かけた

 

 マルバタケブキも盛りは過ぎたもののたくさん見られた。

 

 蕊の先がくるりんと輪を描いている

 

 まだ枯れずに残っていたウツボグサ、しそ科の花だ。

 

 展望台とあるので登ってみたが木々がおいしげり、展望はきかなかった。

 頂付近に咲いていたホツツジ

 

 ホツツジももう終わりなのだろう、花の間に実を着けている

 

 登り下りを繰り返して湿地に入った。

 

 ツリフネソウとキツリフネがともに咲いている。

 

 

 繊細な花タニタデ

 

 

 日当たりの良いとこに出るとハナイカリがたくさん見られる。

 

 私にはアザミの仲間も判別が難しい。これはノハラアザミでいいのだろうか

それともノアザミなのか それとも別の何かか

 

 舗装された山道でよく見かけるイケマ

 

 

 

 びっしりと花をつけたアキノキリンソウ

 

 これも秋の名がついたアキカラマツ

 

 オミナエシとオトコエシも秋の花といえるだろう

 

 

 ヒヨドリバナの仲間

 

 やっと巡り合えたフシグロセンノウ、ほかの花と違って数は少ない

 

 センニンソウ

 

 サラシナショウマにはヒョウモンチョウが集まっていた。

 

 針葉樹にサルオガセがついて原生林の雰囲気を醸している

 

 

 ツノハシバミはヨーロッパ原産のヘーゼルナッツの仲間

 子供のころ、この実を食べようと素手で触ってえらい目にあった。

 

 一輪だけ見つけたヤマオダマキ。

 

 歩くこと一時間半、やっと乙女高原が見えてきた。

 

 今日はここまで。

 


「街の中の岡本太郎 パブリックアートの世界」展を見てきた

2018-09-01 07:00:14 | 散歩

 川崎市の生田緑地にある岡本太郎美術館で7月14日~9月24日まで企画展

「街の中の岡本太郎 パブリックアートの世界」が開かれている。

  展示されていた「母の塔」の縮小模型

 

 春秋に生田緑地内で臨時開園されるバラ苑には毎年訪ねているのだが、

同じ敷地内にある岡本太郎美術館には今回で僅か二回目。 

 そういえば前回訪ねた時に食べたビーフシチューオムライスは何とも美味かった。

 

 美術館奥にあるひときわ目立つ「母の塔」

 7本の足で大地を踏みしめ全高30mにもなる美術館のシンボルタワーだ。

 

 写真撮影が許されているのは入り口と常設展の一部。企画展示だけは

 今回はすべて撮影が許可されているのが嬉しい。

  写真中央が常設展の入り口となっている。

 

 常設展で唯一カメラOKなのは椅子のコーナー。

言葉にしえぬ異彩を放つ空間がそこにある。

 展示されているのは「座ることを拒否する椅子」。

 

 常設展は以前も来たことがあるのでざっと見て企画展示のコーナーへ移動。

 「赤い手」「青い手」は1981年の制作。掌の中には眼らしきものがあり

 何やら得体のしれない生き物のような気配を放っている。

 

 中央にあるのは「こどもの樹」。2015年に閉館した国立総合児童センター「こどもの城」

の敷地内にあったもの。今はどこへ行ったのだろうか。

 

  これには「若い夢」とあったが、太郎の墓石のモチーフともなっている「午後の日」

に酷似している。

 頬杖している少年と解説にあるのだが、私には仮面を外そうとしている

ようにしか思えない。

 

 多磨霊園にある岡本家の墓地には太郎と父母の一平、かの子が眠っているのだが、

父親一平の墓石はこの「顔」がモチーフとなっている。

ちなみに母親のかの子の墓は観音像だ。

 

 1966年に制作された「若い時計台」は今も数寄屋橋公園の

一角にひっそりと立っているという(私は見たことがないが……)

 

 1959年に長野県千曲市にある戸倉上山田ヘルスセンターに設置された

「無籍動物」。65年に起きた長野松代の群発地震で壊れてしまったという。

 

 この日は平日、美術館は少数の人が展示を見ているだけで

落ち着いた静かな時が流れていた。

 

 1969年岐阜県犬山の日本モンキーセンターに設置された「若い太陽の塔」

高さは27Mもあるという。

 

  71年百貨店の外壁に飾られた「星・花・人」

 

 プロジェクトマッピングの展示もあった

 

 「躍動の門」は93年に浦安市運動公園に設置されたもの。

手前にあるのは「五大陸」

 

 

 渋谷駅構内にある「明日の神話」は長さ30M、高さ55Mにもなる巨大壁画。

太郎の代表作の一つとされている。

 

 

 とても有名な大阪万博のシンボル「太陽の塔」

 

 同じく万博の基幹施設の鍵とされているもの

 

 太陽の塔の塔のデッサン図

 

  親交のあった持田製薬株式会社の創業65周年記念として制作された「歓び」

 

 同じ読みを付けられた「喜び」は85年に川崎市の小学校のために作られたもの。

子供たちはリボンちゃんと呼んでいるそうな。

 

 

 

 太郎の作った作品は日本全国に散らばっている。

 

 その中には数十年の時の中で様々な理由で消え去ったものもある。68年に大田区に建てられた

マミ会館は建て替えのため現存していない。

 

 

 「作品が個人の所有物となることを拒みつづけ、誰でもいつでも見ることの出来る

空間に作品を創り続けた」そんな 岡本太郎の魂に触れることが僅かながらでも

出来た展覧会であった。「場との迎合を否定し、対立することでお互いの個性を

生かすという」太郎の精神は今の日本にこそ求められているように思う。

 それにしても、ビーフシチューオムライスは記憶の通り美味かった。

 

 この辺で。