福乃丸おじさんの遠足

福乃丸が飽きるまでちょこっと城めぐり!

赤穂城その後ハプニングが

2019-05-20 08:16:29 | 城めぐり

5月10日 兵庫県赤穂市にある。別名「加里屋城」「仮屋城」「苅屋城」

赤穂城の創築ははっきりとしていない。しかし、浅野長直が入城し三角州の先端という要害の地にあった陣屋を慶安元年(1648)に着手した工事によって近世城郭として整備した。築城にあたっては甲州流軍学と山鹿流軍学を取り入れ、折れを利用した縄張が極めて特徴的である。天守台は築かれたが幕府の許可が下りず天守は築かれていない。近くに赤穂城跡三の丸にあった大石内蔵助と藤井又右衛門の屋敷跡に建てられた赤穂大石神社がある。大正元年(1912)に創建されたもので祭神は赤穂義士47名で神社入口に像が並んでいる。

武家屋敷公園

本丸門

天守台

藩主御殿跡

大池泉

 厩口門(台所門)

 赤穂大石神社

大石内蔵助邸宅跡

大手門

旧赤穂城庭園

 

 

 

※この後岡山県の後楽園の駐車場に着いたとき、車の窓ガラスが壊れるハプニングが荷物がガラスに当たっていたらしい。慌てて近くのホンダカーズ岡山後楽園店に飛び込み相談、ガラスが届くのに数日かかるというのでガムテープ補修してもらいました。ホンダカーズ後楽園店の方ありがとうございました。ここでいったん家に帰ることにしました。

ホンダカーズ岡山後楽園店を約am11時に出てpm7時過ぎに着きました。

 

 


道の駅「あいおい白龍城」で車中泊

2019-05-19 05:55:27 | 道の駅

5月9日 兵庫県相生市にある。道の駅「あいおい白龍城」は中国風の建物なのはなぜ? 相生市は相生湾で5月に「相生ペーロン祭」が一大イベントの町で、白龍(パイロン)中国語でパイロンがなまったものがペーロンになり紀元前3世紀中国の戦国時代に競漕したのが始まりだそうだ。大正11年に始めたのが始まりで、今年も5月26日にペーロン競漕がある。何となく中国風の建物の意味が解ったような気がしました。この日も太鼓をたたきペーロンの練習をしていた。温泉施設もある。

相生湾

レストラン「ながさわ」で食事

シラス三色丼を注文、美味しく頂きました。

同じ栃木県の斎藤さん夫妻と知り合い、九州一周の目的でその途中にここで泊まって行くとのことでした。顔はNGなのでキャンピングカーをブログに載せました。

 

 

 


姫路城

2019-05-18 04:25:01 | 城めぐり

5月9日 兵庫県姫路市にある。別名「白鷺城」

姫路城の創築は南北朝時代の初めとされる。羽柴(豊臣)秀吉が姫山に三重の天守を築いて近世城郭としての体制を整え姫路城と改称した。今日に残る城の形にしたのは徳川家康の娘婿の池田輝政で9年の歳月を費やし慶長14年(1609)5重6階地下1階の大天守に3基の小天守を結んだ天守を中心に多くの櫓と門が並び建つ大城郭を築き上げた。その後本田忠政が西の丸などを増築し、複雑な縄張をもつ名城が完成した。明治時代に失われた部分もあるが、昭和の大修理が施され、平成5年に日本を代表する城として世界遺産に登録された。

菱の門

「は」の門南方から見上げた天守

天守の中

東大柱

「ぬ」の門

お菊井戸

とても綺麗なお城なので写真をたくさん撮りました。

 

 


明石城

2019-05-17 06:30:09 | 城めぐり

5月9日 兵庫県明石市にある。別名「喜春城」

明石城は松本城主だった小笠原忠真が元和3年(1617)に明石の地に入った。翌年、西国諸大名に対する監視と備えとして、2代将軍徳川秀忠より築城の命が下る。元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった付近の用材を用いて、元和5年(1619)から1年間で明石海峡を望む丘陵端に築城した。自然地形を巧みに利用した3重3段構えの堀と曲輪には、忠真の義父であり築城の指導にあったた姫路城主の本田忠政の手腕が発揮されている。連郭式の縄張の中心にある本丸には巨大な天守台が築かれたが天守は建てられなかったが4基の三重櫓が築かれ、今は2基が修復されながら現存している。

 

天守台

三重櫓

 

 

 

 


大阪城

2019-05-17 04:56:34 | 城めぐり

5月9日 大阪市にある。別名「錦城」「金城」

大阪城は、水運の便に恵まれた上町台地に豊臣秀吉が天下取りの拠点とすべく天正11年(1583)に築城を開始したことから始まる、天正13年(1585)には五重八階、黒漆塗りの下見板と金箔瓦、金飾り金具を付けた豪華な望楼型天守を完成させ、秀吉は天下人の権威を欲しいままに示した。しかし慶長20年(1615)の大阪夏の陣で、豊臣大阪城は天守もろとも炎上してしまった。その後、徳川秀忠は徳川への政権交代を天下に知らしめるために、豊臣大阪城の縄張りの上に盛り土をして、石垣を新たに積み直して城を築いた。そして秀吉の天守を上回る規模で白漆喰総塗籠の徳川大阪城天守を寛永3年(1626)に完成した。しかしこの天守も寛文5年(1665)に焼失してしまい、以後天守は存在しなかった。現在は3代目で天守は昭和6年(1931)に鉄骨鉄筋コンクリート造りの天守として誕生した。

巨城を実感させる広大な堀と壮大な石垣

桜門桝形の巨石

本丸天守

千貫櫓

大手門