福乃丸おじさんの遠足

福乃丸が飽きるまでちょこっと城めぐり!

大分府内城

2022-11-25 11:29:59 | 城めぐり

10月28日 大分県大分市にある。

大分府内城 別名「荷揚城・白雉城」

慶長2年(1597)福原直高が府内に入封後、築城を開始同年4年に望楼型の三重天守が築かれた。関ケ原の戦い後、竹中重利が創建当初の天守を新式の層塔型へと改めるなど大改修を行った。北方は海、東方は大分川に面した縄張りで本丸・二ノ丸・山里丸・北の丸が悌郭式に配された。寛保3年(1743)に城下から出火により天守のほか多くの建物が焼失、以後天守は再建されなかった。着到櫓などは大戦火で失われている。現在の建物は宗門櫓と人質櫓のみで、戦後西の丸西南角櫓・大手門・東の丸西南角櫓・廊下橋が再建された。三の丸には大分県庁と大分市役所が建てられている。

大手門 正式名称は多聞櫓門、1945年に大分空襲で焼失し1965年に復元された。

宗門櫓(平櫓)と西の丸西南角櫓

西の丸西南角櫓

左は西の丸西南角櫓、右後方に着到櫓(東の丸西南角櫓)

北東角の二階櫓

着到櫓(東の丸南西隅櫓)二重櫓で昭和20年の大分空襲で焼失するまで存続していました。そのご昭和41年に再建されました。

廊下橋 西の丸と山里丸および北の丸を結ぶ屋根付きの橋で平成8年に再建。

天守台 慶長7年(1602)に四重櫓の天守閣が築かれたが、1743年に焼失してしまった。以後再建されなかった。

人質櫓 本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に文久元年(1861)に再建された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


岡城

2022-11-22 15:51:40 | 城めぐり

10月28日 大分県竹田市にある。

岡城  別名「臥牛城・豊後竹田城」

標高325m、比高95mの天神山に築かれた山城である。文治元年(1185)に緒方氏が築いたのが最初だと伝えられている、その後、元徳3年(1331)に志賀貞朝が入り城を拡張した。現在残る高石垣を多用した近世城郭となったのは文禄3年(1594)に中川秀成が入ってからのことである。本丸を中心に二ノ丸・三の丸・西の丸が置かれ高石垣が巡らされた。本丸には天守代わりの御三階櫓が、西の丸には御殿がつくられていた。明治になってから城の建物は解体されてしまった。

大手口から大手門へ至る登り通路

大手門

西の丸 三代藩主中川久清の隠居後の住まいとして御殿が造営された。城内で最も広い曲輪。

西の丸からの眺め

城内マップ

桜の馬場から左方向に中川覚左衛門屋敷跡の石垣が見える。

桜の馬場から正面には三の丸・本丸の石垣が見える。

西中仕切跡 城内で最も狭い場所で石垣により通路を折り曲げて防御の役割を果たしていた。

太鼓橋跡・鐘櫓跡 岡城の中心部への入口で、城内で最も重要な門。

三の丸跡 他藩からの使者や家臣が、藩主と対面する場とされています。

三の丸からの眺め

三の丸の見事な石垣

二ノ丸跡 月見櫓や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が並んでいた。現在ここには作曲家滝廉太郎の銅像があり、代表作「荒城の月」は岡城をイメージしたとされている。

本丸跡 中央には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられ、天守に相当する御三階櫓・多聞櫓・金倉などが御殿を囲むように配置されていた。

三重櫓からの眺めは兵庫県の竹田城を思い起させる見事な高石垣でした。

 

 


飫肥城

2022-11-21 07:55:46 | 城めぐり

10月27日  宮崎県日向市にある。

飫肥城  別名「舞鶴城、鶴城」

享徳元年(1452)島津季久へ入城したのが、資料上の初出である。初めは中国貿易で栄えたが、後に島津氏と伊東氏の攻防戦が繰り広げられた。天正15年(1587)九州平定に乗り出した豊臣秀吉にいち早く味方して伊東氏に飫肥が与えられた。関ケ原の戦い後は徳川氏より領地を安堵された。のちに伊藤祐が貞享3年(1686)から大改修により近世城郭として体裁を整えた。明治6年(1873)にすべての建物は取り壊されたが、昭和53年に大手門が再建され松尾の丸など城の内外も整備された。

大手門 飫肥杉を用いて木造二階、高さ12.3mの櫓門

大手門虎口 内側から見た大手門、内部は桝形になっている。

本丸へと続く石段

旧本丸跡 元禄6年(1693)本丸が完成移転するまで旧本丸が藩主の御殿だった。

現在の飫肥小学校グランドに本丸が移された。

松尾の丸 昭和54年に新たに建てられた御殿。江戸時代初期の御殿を参考に設計された。

内部の資料

豫章館(よしょうかん)明治2年(1869)伊東祐相と伊東祐帰父子が飫肥城を出て移り住んだ。それまでは藩主一門である伊藤主水の屋敷だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鹿児島城(鶴丸城)と城山公園

2022-11-20 07:30:24 | 城めぐり

10月27日 鹿児島県鹿児島市にある。

鹿児島城(鶴丸城)

島津家18代当主家久が慶長6年(1601)ごろ築城を開始、慶長末年ごろ完成をみたとされる。背後の城山と麓の居館からなる城で、当初は山頂の曲輪が本丸・二ノ丸と呼ばれた。藩政の中心であった。麓の藩主の居館(のちの本丸)は三方を堀と高石垣で画し、御楼門を中心に左右に多聞櫓、御角櫓が配されていた。城は廃城後の明治6年(1873)に本丸が火災で焼失し、明治10年には西南戦争で二ノ丸も焼失した。

御楼門 鹿児島城では山麓の居館の門であった御楼門を2020年(令和2)に現位置に立体復元した。

高石垣

石垣に残る西南戦争の際についたといわれる弾痕

城山公園

城山展望台

展望台からの桜島

西郷隆盛洞窟 城山に立てこもり西郷が最後の5日間を過ごしたと伝えられる洞窟

 

 

 

 

 


人吉城

2022-11-18 12:13:02 | 城めぐり

10月26日 熊本県人吉市にある。

人吉城 別名「球麻城・三日月城・織月城」

建久9年(1198)人吉荘の地頭として下向した相良長頼の築城が伝えられている。天正17年(1589)相良長毎が大改修を開始。慶長6年(1601)に本丸、二ノ丸、堀、櫓、御門まで完成し、寛永年間(1624~44)に石垣が完成した。しかし明治5年(1872)から払い下げにより、城は石垣が残るのみとなった。平成5年に隅櫓・長塀・門櫓が復元された。

本丸 天守閣は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられた。

二ノ丸 城主の住む御殿が建てられ人吉城の中心となった場所。

中御門 三の丸から二ノ丸に向かう門

二ノ丸高石垣

三の丸 北・西に広がる曲輪

西の三の丸から御下門に向かうが工事のため行けませんでした。

多聞櫓・長塀・隅櫓を見学するのを忘れてしまった。無念!

 

 

 

 

 

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10月26日夕方に道の駅「えびの」の近くのコインランドリーで洗濯し、夜は「えびの」で車中泊する。