10月28日 大分県大分市にある。
大分府内城 別名「荷揚城・白雉城」
慶長2年(1597)福原直高が府内に入封後、築城を開始同年4年に望楼型の三重天守が築かれた。関ケ原の戦い後、竹中重利が創建当初の天守を新式の層塔型へと改めるなど大改修を行った。北方は海、東方は大分川に面した縄張りで本丸・二ノ丸・山里丸・北の丸が悌郭式に配された。寛保3年(1743)に城下から出火により天守のほか多くの建物が焼失、以後天守は再建されなかった。着到櫓などは大戦火で失われている。現在の建物は宗門櫓と人質櫓のみで、戦後西の丸西南角櫓・大手門・東の丸西南角櫓・廊下橋が再建された。三の丸には大分県庁と大分市役所が建てられている。
大手門 正式名称は多聞櫓門、1945年に大分空襲で焼失し1965年に復元された。
宗門櫓(平櫓)と西の丸西南角櫓
西の丸西南角櫓
左は西の丸西南角櫓、右後方に着到櫓(東の丸西南角櫓)
北東角の二階櫓
着到櫓(東の丸南西隅櫓)二重櫓で昭和20年の大分空襲で焼失するまで存続していました。そのご昭和41年に再建されました。
廊下橋 西の丸と山里丸および北の丸を結ぶ屋根付きの橋で平成8年に再建。
天守台 慶長7年(1602)に四重櫓の天守閣が築かれたが、1743年に焼失してしまった。以後再建されなかった。
人質櫓 本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に文久元年(1861)に再建された。