福乃丸おじさんの遠足

福乃丸が飽きるまでちょこっと城めぐり!

別府地獄めぐり

2022-11-28 16:03:05 | 日記

10月28日 別府観光名所である地獄めぐりは7か所あり、海地獄・鬼石坊主地獄・かまど地獄・白池地獄・血の池地獄・竜巻地獄・鬼山地獄とあり、その中から3か所行って来ました。

かまど地獄 古代より氏神の竈門八幡宮の大祭に地獄の噴気で炊いたご飯をお供えしたという習わしがその由来。その他にも地獄があり「地獄の1丁目~6丁目」と名付けられています。

1丁目 90℃ 熱泥がボコボコと湧いている。

2丁目 100℃ かまど地獄のシンボルてき存在。

3丁目 85℃ 透き通ったブルーが特徴

4丁目 80℃ 泥が盛りあがった様。

5丁目 95℃ 気温や天候によって色が変わる一番大きな地獄。

6丁目 95℃ 真っ赤な熱泥で小さいが深さが2m。

 

血の池地獄 2か所目の血の池地獄の入口

炭酸鉄やマグネシウムを含んだ熱泥の湯は血のように赤いことから血の池のよう。78℃

皮膚病に効くという血の池軟膏は、地獄から噴出する真っ赤な粘土からできている。

足湯

 

鬼山地獄 3か所目の入口

鬼山地獄は緑白色の熱水の池で別名「ワニ地獄」とも呼ばれる。

泉度99℃ 噴気110℃

噴気の中でクロコダイルやアリゲーターなどのワニが飼育されている。

はく製や標本など展示されているワニ標本館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大分府内城

2022-11-25 11:29:59 | 城めぐり

10月28日 大分県大分市にある。

大分府内城 別名「荷揚城・白雉城」

慶長2年(1597)福原直高が府内に入封後、築城を開始同年4年に望楼型の三重天守が築かれた。関ケ原の戦い後、竹中重利が創建当初の天守を新式の層塔型へと改めるなど大改修を行った。北方は海、東方は大分川に面した縄張りで本丸・二ノ丸・山里丸・北の丸が悌郭式に配された。寛保3年(1743)に城下から出火により天守のほか多くの建物が焼失、以後天守は再建されなかった。着到櫓などは大戦火で失われている。現在の建物は宗門櫓と人質櫓のみで、戦後西の丸西南角櫓・大手門・東の丸西南角櫓・廊下橋が再建された。三の丸には大分県庁と大分市役所が建てられている。

大手門 正式名称は多聞櫓門、1945年に大分空襲で焼失し1965年に復元された。

宗門櫓(平櫓)と西の丸西南角櫓

西の丸西南角櫓

左は西の丸西南角櫓、右後方に着到櫓(東の丸西南角櫓)

北東角の二階櫓

着到櫓(東の丸南西隅櫓)二重櫓で昭和20年の大分空襲で焼失するまで存続していました。そのご昭和41年に再建されました。

廊下橋 西の丸と山里丸および北の丸を結ぶ屋根付きの橋で平成8年に再建。

天守台 慶長7年(1602)に四重櫓の天守閣が築かれたが、1743年に焼失してしまった。以後再建されなかった。

人質櫓 本丸北東部の人質場と呼ばれた曲輪に文久元年(1861)に再建された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


岡城

2022-11-22 15:51:40 | 城めぐり

10月28日 大分県竹田市にある。

岡城  別名「臥牛城・豊後竹田城」

標高325m、比高95mの天神山に築かれた山城である。文治元年(1185)に緒方氏が築いたのが最初だと伝えられている、その後、元徳3年(1331)に志賀貞朝が入り城を拡張した。現在残る高石垣を多用した近世城郭となったのは文禄3年(1594)に中川秀成が入ってからのことである。本丸を中心に二ノ丸・三の丸・西の丸が置かれ高石垣が巡らされた。本丸には天守代わりの御三階櫓が、西の丸には御殿がつくられていた。明治になってから城の建物は解体されてしまった。

大手口から大手門へ至る登り通路

大手門

西の丸 三代藩主中川久清の隠居後の住まいとして御殿が造営された。城内で最も広い曲輪。

西の丸からの眺め

城内マップ

桜の馬場から左方向に中川覚左衛門屋敷跡の石垣が見える。

桜の馬場から正面には三の丸・本丸の石垣が見える。

西中仕切跡 城内で最も狭い場所で石垣により通路を折り曲げて防御の役割を果たしていた。

太鼓橋跡・鐘櫓跡 岡城の中心部への入口で、城内で最も重要な門。

三の丸跡 他藩からの使者や家臣が、藩主と対面する場とされています。

三の丸からの眺め

三の丸の見事な石垣

二ノ丸跡 月見櫓や御風呂屋など、特徴的な機能を持つ建物が並んでいた。現在ここには作曲家滝廉太郎の銅像があり、代表作「荒城の月」は岡城をイメージしたとされている。

本丸跡 中央には藩主の住まいとなる本丸御殿が建てられ、天守に相当する御三階櫓・多聞櫓・金倉などが御殿を囲むように配置されていた。

三重櫓からの眺めは兵庫県の竹田城を思い起させる見事な高石垣でした。

 

 


道の駅「北川はゆま」で車中泊

2022-11-21 17:00:03 | 日記

10月27日 宮崎県延岡市にある。

道の駅「北川はゆま」

東九州自動車道(延岡道路)北インターチェンジと接続され、高速道路からも利用が出来る。「はゆま」とは1300年前の飛鳥時代に設けられた駅制度のなごり駅馬(早馬)の古い呼び名だそうです。

車中泊する道の駅の時には、いつもレストランは終わっていることが多くまた食べられず。生しらす丼食べたかったな~!

お土産などは種類も多く、地元のお酒やオリジナル宮崎牛の加工品など見ていても楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


飫肥城

2022-11-21 07:55:46 | 城めぐり

10月27日  宮崎県日向市にある。

飫肥城  別名「舞鶴城、鶴城」

享徳元年(1452)島津季久へ入城したのが、資料上の初出である。初めは中国貿易で栄えたが、後に島津氏と伊東氏の攻防戦が繰り広げられた。天正15年(1587)九州平定に乗り出した豊臣秀吉にいち早く味方して伊東氏に飫肥が与えられた。関ケ原の戦い後は徳川氏より領地を安堵された。のちに伊藤祐が貞享3年(1686)から大改修により近世城郭として体裁を整えた。明治6年(1873)にすべての建物は取り壊されたが、昭和53年に大手門が再建され松尾の丸など城の内外も整備された。

大手門 飫肥杉を用いて木造二階、高さ12.3mの櫓門

大手門虎口 内側から見た大手門、内部は桝形になっている。

本丸へと続く石段

旧本丸跡 元禄6年(1693)本丸が完成移転するまで旧本丸が藩主の御殿だった。

現在の飫肥小学校グランドに本丸が移された。

松尾の丸 昭和54年に新たに建てられた御殿。江戸時代初期の御殿を参考に設計された。

内部の資料

豫章館(よしょうかん)明治2年(1869)伊東祐相と伊東祐帰父子が飫肥城を出て移り住んだ。それまでは藩主一門である伊藤主水の屋敷だった。