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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

僕が問題視するほめて育てるとは、肯定するほめて育てるとは。 その1

2008年05月15日 | 研究-教育・育児

 

僕はこのブログにおいて、“ほめて育てる事”に関して


強烈に問題視しているほめる、多いに肯定しているほめると二種類
ありま
す。


矛盾しているように見えるかと思いますが、この差は”ほめる”という行為
そのものに対する視点をどこにおいているか?という違いから来ています。


一つは人としての自然な心を基にしてほめる。

もう一つは、自分の我儘と身勝手な目的の為に子供をほめる場合です。


「ほめるとは本来どういったものなのか?」 という事を考えてみるなら、


親に「ほめよう!」という思いが生じたときであり、それはそのまま子供に
進歩(人格的成長)が見られた時でもあります。


身近な例をあげるなら、子供に家の手伝いを任せている場合等ですが。


単に親の言われてとおりにやることから一つ進歩して、掃除の方法を自分で
工夫したり、自主的に範囲を広げたりという時
などがまさにそうです。

これは子供の成長を願う親からしてみれば嬉しさそのものですから、その進
歩を賞賛したくなるのはあたりまえ。

ここで、ほめる(自然な心で)という行動がおきるわけです。


子供はその進歩や創意工夫、自主性の拡大に気付かずに行っていることもあ
りますし、分かっている時もる。


そこに親が正しく評価する(礼)ことによって、子供は親のなかに存在する
喜び、そしてそれに連なる多く”心”を学びます。


小さな事ですが、それが大人へと成長していく過程において幾千、幾万とい
う積み重ねられながら人格が成長するわけです。


これが古来からある“人としての自然なほめる”であり、当然に普通であ
ることや、当たり前の事をほめられることは有りませんでした。


勘違いしないでもらいたいのが、例えばそれが大人では当たり前にできる事
であったとしても、子供は日々成長しているという大きな違いがあること、

例えば一昨日と昨日が同じであればほめる必要などありませんが、これは出
来たことが当たり前となったからで、進歩が停滞したことを意味します。

 

しかし、昨日から今日にかけて新しい進歩があれば新たにほめる。

進歩を親が認識したときに礼をもって正しくほめることが一番正しいという
ことです。



さてこうした人としての自然なほめると全く対照的なのは、この15年
くらいの間に台頭してきた“ほめて育てる”という学者や教育評論家な
どが盛んに提唱する、親の我儘と都合よい目的の為に?ほめる行為で
す。

ほめられれば誰でも嬉しい、だからそれを上手に使って?“都合よく子
供の教育をしよう”というもので、最悪なものは叱る事にまでそれで代
用しようとするものですが、これは一見子供のためにという名目を被せ
た、子供の純真な心と感情を利用しただけの“親のための方法”でしか
有りません。



この根拠となるのが大脳生理学や認知行動学やらですが、これを全くあやま
って解釈している人たちがやたらと多く、実験で実証されているから良いと
薦めるわけですが。


そもそもこの大脳生理学や認知行動学自体が乳飲み子からはじまって成人ま
でにいたる人格的成長実験を何万件も行って実証した事実すらありえません
し、大脳と人間の行動を関連つけることは出来ても、人格そのものを育てる
事とは全く見当違いであることはほとんど知られていません。

書き始めるとやたらと難しくなるので辞めますが、成績を上げることは出来
ても人格を育てることとは無関係であるということです。

さらにほめると効果があるというデータが取れたとしても、同じほめるにお
いてそれを様々な種類にわけて乳飲み子の頃からデータを取ったわけでもな
く、最悪なのはほめる事の質(正しいほめる、間違ったほめる、親がほめる
場合と他人がほめる場合、等々まったく考慮されていません。

まとめると、大脳生理学や行動認知学は参考的一部分切りとりデータでしか
ないということです。

 

明日へ続く (^^)