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帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

レーシング タクティクス

2010年08月24日 | 研究-教育・育児
私の知る某所でこんなことがありました。

毎日海に出て、毎日トレーニングを重ね、そんな青年達のところに一週間の合宿でやって来たのは小柄な15歳の女の子。

その施設の行う訓練の厳しさは有名ですが、強風から微風まで、元々世界的ヨットレーサーを育てる学校でもあった訳ですから、レースを含めて激しい訓練が毎日行われています。

さて、そうしたトレーニングを受けて来た青年達、中には身長が180Cmを超え、体重も8kg以上とその女の子の倍近い子もいます。

そこでは訓練にディンギーを使用しておりますが、何故かというなら容易に扱えるようにはならないからです。

一般で思われているのとは大きく異なり、ヨットの世界は大型より小型の方が難しく、特に操艇の難しさはディンギーが一番、しかし逆にディンギーをパーフェクトに乗りこなせることは、どんな大型ヨットも容易に動かせる事を意味しているます。

なぜなら、ディンギーはバラスト(船体を安定させる錘)がない分、簡単に沈し、風に対して敏感で操作と艇の動きが密接に連動しています。
常に緊張を崩さず、瞬時で判断して操作が出来ないと、まともに走らせることも出来ないという乗り物なのですね。

また艇の大きさと体重がダイレクトに関係し、風の強さに対してハイクアウト出来る重量の重さ分を推進力へ変換できる事から、大人用のディンギーでは重い方が当然に有利。

体重の軽い女の子では圧倒的に不利というのが常識です。

女の子はほぼ一週間という滞在期間でしたが、そこでは数回、数日に渡りレースが行われました。

レース前、青年達を指導しているコーチから「絶対に女の子にだけは負けるな!」と、しっかりハッパをかけられた青年達、「大丈夫ですよ!」と全員が自信満々。

さて、沖合で始まったレース、海上スタートからまず飛び出したのは青年達、少し遅れて女の子。

このまま、常識通りに体重と体力に勝る男の子達がレースで圧勝・・・・と、なるはずだったのですが・・・。


第一マークを廻ったところでトップを走っている青年をわずか体重40kgの女の子がかわし、以降どんどん引き離してそのままゴール。

これでムキになった青年達はそれまでの笑顔が消え、余裕はどこかに飛んでしまい、小さな女の子相手に真顔で食らいつくも、圧倒的な上がり角度と次々繰り出してくる戦術(レーシングタクティクス)に次々と巻かれ、コースから押し出されたり、スタボー取られて頭をつぶされたり、ただただ惨敗の繰り返し&情けない+みっともない。

結局、青年達は一度も、女の子の前を走る事なく全レースは終了しました。

たった15歳のしかも小さくて体重も軽い、どう考えても負けるはずの無い女の子相手に全く太刀打ちできないという、青年達には現実という鉄槌が振り下ろされたわけです。

コーチ達はそれを分っていてレースを行わせた訳ですが、実はこの娘、ついこの間まで世界レースに出場するための練習を積んできたわけで、レースに勝つための戦術が全て頭に入っています。

ヨットレースは知・体力・勘・運の総合力そのものであり、ヨットをいかに早く走らせられるかという操艇技術はもちろん、レース運びや戦術を構築してそれを仕掛ける技術と度胸、それらが全てバランスよく出来ねばトップを走ることは出来ません。

言い換えると、ただ腕力に勝った青年達による力業では、頭脳を駆使した実戦闘の前には全く歯が立たないのは、当たり前の事でもあるわけです。

さて、恥ということを知った青年達、この先自分のどこに問題があるのか?、そして自分はどうするべきか?、それをこの経験から大いに学んでもらいたい、と僕は思うのですね。


フラ

2010年07月27日 | 研究-教育・育児
自分が教育研究でお世話になっている施設では、女子にフラダンスを教えています。

ふとしたことからその世界に触れた娘ですが、すっかりその踊りと音楽に引き込まれ、現在メキシコ民族舞踊と平行して習い、練習をしています。

運の良いことに両方ともかなり有名な方に指導を頂いたおかげで人前で踊ることが多くあります。

今日は池袋、一日別々の場所で4ステージをこなすことになり、「つかれた~」なんていいいながら戻って来ました。

ちなみに僕は一日追っかけ、撮影&あっシー君(死語)をやらされてました。

これが終われば、我が家に本格的夏シーズンが到来します。


バック転と夏休み

2010年07月21日 | 研究-教育・育児
以前ここで書いたことがあると思いますが、危ないことが大好きな我が娘。
バック転が普通に出来る様になり、現在連続バック転とバック宙へ移行中。

そういえば、もうそろそろ夏休みだよな~ なんて話を家内にしたところ、「何言ってるのよ?」との返答。

なんでも自分で勝手に講座やら何やら予定を満載状態にして(土日省く)、朝から夕方までほぼ一夏を毎日学校へ通うそうだ・・・

(@@;)げげ! ”夏休み=遊び” という概念しか頭にない僕には信じられないこと。

いままで勉強しろ等と煩く言った事は無いし、娘が自発的にやっているのだけど、僕にしてみれば「夏休みは遊ぶもんだせ!」と口から出そうになる。

出そうになるというのは、下手なことを言うと逆襲される事があり、それが怖い・・・

(^^;)はは ← 意気地なし

無駄というのは、人間性を育てる上でとても大切なものなんだけど・・・

大学、もしくは専門学校へ行くのか行かない知らないし、高卒で就職するのかどうかも知らない。

聞いてくればアドバイスはするけれど、なんかおもしろ事を考えているようでもあり、逆に堅実なことをかんがえているようでもある。

夏は始まったばかりだ。

終えた時、今、そして少し先、もっと未来

2010年06月30日 | 研究-教育・育児
トイレの神様/植村花菜


今日はいつもと違う曲を紹介します。

どうしても自分と重なる部分が有る、なんて思ってしますわけですが、娘にトイレ掃除を教えたのは自分、そのときの言葉がこの動画と全く同じでした。

家の場合は娘が小学校五年生くらいからだと思いますが、ただただ素直な娘を前に、それが故に親として放つ一言々がどう娘の未来を変えてしまうだろうか?と、恐れていた事を思い出します。

この曲ではお婆ちゃんと暮らしていたとありますが、自分は常に子供の側にいるという考え方ですから、ある意味この曲の歌詞のようにあったと思うわけですが、それはある意味母親(家内)より長い時間かも知れません。

五目並べはしませんでしたが、二人で夏の森にクワガタを捕りに行き、二人揃って全身蚊に刺されたり、叱り飛ばした後で指切げんまん、泣いているのにウインドサーフィン教えたり・・・
そうした帰り道は、いつも二人でアイスクリームを買って食べていた。

「綺麗になるから」と、この曲みたいに娘に話しても、汚いという意識が常に先に立つのが普通ですから、洗剤付けたスポンジで便器の奥まで腕を突っ込んで洗う事を教えたこともありました、もちろん同じ事を娘に強制はしません、親の姿だけで十分だからです。

そういえば、それ以降ですかね、トイレ掃除を嫌がらずにしてくれるようになったのは・・・・  

子供は育つ過程でいろいろなことがある、そうほぼ確信めいて思うわけですが、何より大切なのは、自分(親として)に明らかな誤りがあったとき、そうしたときに親として子にどう謝れるかという事。

子に謝ると言うことは、ある意味難しいことでもあるのですが、その親の姿勢が子を大きく成長させるわけで、親が無意味な意地を通すようなら子の心は小さく育ち、親という人間をそのまま見せれば、多くを学ばせて人に好かれる人間に育つと言うことでしょうか?

中学生くらいに成長する頃から、当然のことですが子供は反抗期に入ります、そして高校生になれば親の元を離れていくのが人の本能です。

寄り添う対象が親ではなく、友達であり、好きな人であり、そうして親から少しずつ幸せになりつつ家族はバラバラになっていくわけで、それが普通であって成長なわけですが、今の普通は明日には普通でなくなり、やがてはウインドも行かなくなり、アイスクリームも一緒に食べてくれなくなるでしょう。

ささやかな瞬間にある幸せというのは、一瞬で消えていくもので、それが自立であれば、時としてそれは親にとって凄惨な残酷さを併せ持ちます。

しかしながらそれが無ければ親は子離れできず、それ以上に親離れ出来なかった場合の子供は苦痛にあえぐことになります。

親のつらさが多い分、子は楽に親離れ出来る物、そうではないでしょうか。

これは非対称なシーソーのようなもので、親の純粋な気持ちだけであれば、容易にバランスが取れるものを、”親の為の利益”をそこに少しでも織り込むと、それは何倍にも重さとなって子に跳ね返り、子は苦しまねばならない。

そうして自立が出来る余裕の無くなった子は非行や不良行動という形で親の我が儘から身を守ろうとする。

親というのは、わが子に接する以上に自分に厳しくあらねばならないと思うわけですが、現実というのは難しいですね。

やがては迎える子の独立、それと引き替えに親にもたらされる物は老いという現実です。 人は老いるために子を育て、老いるために生きているのではないではないか?

そう思うわけですが、それってとても幸せな事なのですね。

親元を離れた子は、やがて来る現実に必ず打ちのめされます、それは親が歩んできた道のりと同じ物であり、ゆえに親は一度羽ばたきはじめた翼をたたませるようなことが有ってはならない、

空を飛んでいる限りは目的地にたどり着くまで羽ばたき続けなくてはならず、途中で後ろを振り返れば木にぶつかり、羽根をやすませれば地に落ちる。

疲れて振り返る我が子の懐かしい表情に、親として甘えず、あえて厳しくなければならないこともある、それが親。

自分が娘の前から姿を消すのは、とりあえずまだ当分先のことだと思うのですが、
人は死んだ後に何を残したか?というのがとても大切で、それは有形の財産ではなく、かけがえのない思い出と、自分の思いを我が子が、その子へと伝えることの出来る思い出ではないだろうか?

見返りを求めては行けない、ただ子の心を育てるためにある、それが親で、たったそれだけの存在ではないだろうか。




どうしてご飯をつくらなきゃいけないの?

2010年06月20日 | 研究-教育・育児
以前、どこぞのホームページだったか忘れましたが、ネットで有る女性が書き込んだのを見たことがあります。

その内容というのは、「何でご飯を私がつくらなきゃいけないの?」というもので、
その女性の主張とやらをまとめるならこうなります。

・自分は料理が苦手だ
・お総菜なんかいくらでもスーパー等で売っている
・旦那は文句言わない
・女性がご飯をつくらねばならないという意味が理解できない
・料理なんて楽しくないし、そんな時間があるなら他のことしたい

現在生じている具体的問題点として
・子供が泣きながらお母さんの手作りご飯が普通に食べたいと泣く


まあ、全体を通して悩むと言うより、そうした自分の姿にシンクロする者達が肯定してくるのを待って、自己肯定したいというのが至極簡単に見えてしまうわけです。

文の作成能力からそれなりの学歴はもっているようですが、
僕から見るなら幼稚園児並の心と思考能力しか持っていない可愛そうな女性、いや人間という事。

こうした主張が単なる我が儘であるかどうかというのは、現在のように便利な世の中になってくると、ある意味合理性と言う面からだけ見るなら妥当という側面もあって、

一概に自分勝手とも言うことは出来ない・・・・

しかし、この女性にとって不幸でならないのは、ご飯という物が持っている人の成長に欠かすことのできない無形の栄養であるという点を理解しようとせず、いや理解する事すら出来ない。

という、人間としての極基本的なものが欠けている事がたまらなく不幸でならない。

栄養がきちんと取れ、食事を毎日正常に取っていれば子供は普通に成長する、当たり前の事だけど、身体成長に必要な物質がきちんと体に取り込まれれば物理的に体は成長するわけだ。

しかし、これはあくまでも子供に物質を与えているだけに過ぎず、これはご飯ではない。

一番問題なのは、”物質が子供の心を育ててくれるわけでは無い”ということ。

体は物理的に成長しても、子供の心という物は、物質で育つのではなく、あくまでもご飯で育つものだからだ。

物質だけ与えてまともな人間性が育つというなら、母親はいらず機械にやってもらえれば素晴らしい人間がいくらでも育つことになる。


料理が苦手だ、だからやりたくない????

何でもそうだけれど、全ての人が全て上手に料理できるわけではない、学校のテストじゃ有るまいし、出来不出来が味の全てではなく、苦かろうが、味がおかしかろうが、それを食卓で食べた子が「うわー変な味」なんていいつつ、「やっぱり~?」「仕方ないから目玉焼きつくるからそれで食べてね・・・」なんて親子が交わす心のあり方が人間性を育てる。

人のつくるご飯は物質ではないからだ。

昔と異なり、食事の総菜はいくらでも、かつ簡単に手に入る世の中だけど、どうしても忙しいとき、手をかける時間の無いときにそれらの力を借りることに何ら問題ない。

「またかよ~」  「ごめんねこのところ忙しいから・・・我慢してね」 そこにご飯という物が出現する。


旦那は文句を言わないから、これで良いのだ、なぜなら自分は料理苦手だし、総菜買ってくりゃ問題ない????。


はて? 本当に旦那はこうした家庭のあり方に問題意識を持っていないのだろうか?

自分の伴侶がどう考えているか? また人の心をどう理解して読み込む力を持っているかという事がここにも現れていて、残念ながらこの女性は人生最大の人間関係である伴侶の心すら理解できないということらしい。

人は普段の生活において常に他人の心を推し量りつつ、適度な間隔を置きつつバランスをとって生活している、

それは夫婦とて全く同じ事であり、何も言わないから良いのだ、ではなく、本当は何を思っているのだろうか?、そして自分はどうあるべきか?という事を常に心の中心へ置くからこそ夫婦という物は一生添い遂げられるわけだ。

自分の伴侶が母親の手作り料理で育ってきたのなら、妻であるこの女性のあり方に常々疑問を持つのは当然のことで、しかしながらそこには”いつか解ってくれるだろう”という心がある。

何も言わないから良いわけではないのだ。

ご飯の意味は食事とは大きく異なる、食事は礼儀作法を含んだ形式的な物を多数含む、しかしご飯はそこに愛情の要素を多分に含み言葉そのものに暖かさをもつ。

子供はオギャーと生まれた後は、親の作るご飯で成長する、そこには単なる物質摂取ではなく、愛情接収という心の成長のために欠かせない栄養価があるのだ。

よく、「何で女が食事をつくらねばならないの?」という疑問を抱く女性が多いが、人間の歴史と本能というものを少しでも勉強すれば、それが大きな過ちであることに気づく。

これを無理にねじ曲げる事は、本能に違う不自然な精神状態を子供の心に作り上げることそのものでしかなく、間違った自由と平等で育った粗末な人間性に、”人の心を読み取れない自分勝手”が入るとこうした思考になる。

料理は歴史過程で男性が都合良く押しつけてきた業であり、女性はそれから解放されねばならない、というのがその根底に有るのだと思うが、そうした洗脳すら存在しない未開の地含め太古の生活を紐解けば、現実は常に女性がご飯をつくっている。

なぜなら、子供の肌色の変化一つ、鳴き声一つで健康状態が読み取れる能力は男性にはなく、それは右脳左脳を強力に接続している女性の脳機能そのものが子供を育てる女性の本能と共にご飯をつくる事へ結びつているからだ。

男性がご飯をつくっては駄目なのか? もちろんそんなことは無いし、時間があるならどんどんやれば良いと僕は思っているが、それを子供の肌色一つとリンクさせる能力がないうえに、忍耐を要求される毎日のご飯づくりには根本的に向かない。

生活のためという負荷がかかるとエンジン始動する様に男はできている訳だが、例を上げるなら素晴らしい料理を提供しているシェフはほぼ全員が男であるが、それは仕事における究極を求めるやはり男の本能の結果であり、ところがグルメ料理はご飯ではない。

本来向かない事への負荷を不要に強制すれば、そうした負荷をかけてこない女性へ自然に心が目が映っていくのも男の本能であり、伴侶の姿に自分の母親の姿を重ねてしまうのもこれまた男の素直な思考だ。

どうしてもそれをねじ曲げたい女性は、そうした男を見つければ良いだけのことで、しかしながら本来有るはずの自然な人の姿を自分の都合で押し通すような事をすれば、かならずどこかにその歪みは現れる。


一番顕著なのは子供の心に現れてくるが、子供という生き物はその幼少期に自分と自分の周りを取り囲む人間関係の基準が、同じ社会を構成している他人の家族と同じであることを極めて望むように出来ている。

当たり前のことだが、これは本能そのもので、それは自分の成長に必要な保護と環境(もちろん愛情含む)がまんべんなく整っているかを知らないうちに推し量り、あるときは求めながら生きているわけだ。

これに変化が訪れるのは思春期以降、言うなれば反抗期の到来で、このあたりから人と同じなのではなく、異なる自分を自分自身と社会に求めるようになる。

これが反抗期であり、また人類が世界中に広がってきた力の源になっている。

泣いてまでご飯をつくってと懇願する子の目には、他の家庭で普通に食べているお母さんの手づくりご飯がそこにあるわけで、そこに願うは、現在自分に注がれていない形の愛情を欲する心がダイレクトに現れており。

子供といのはそうした毎日の愛情を、毎日食べながら大人まで成長するもので、それは時に親の押し付けで有ったりすることもあるし、自分から要求したりもあったり。

そうしたごくわずかなやり取りの中に存在する親の心のあり方というものを多数経験するからそこ、人間として他人の心を正確に読み取れる力がつくわけだ。

もし、母親が人の心を読み取ることなく、そのまま努力もせず、子の心を自分の理屈で通そうとするなら、その相乗状態によって欠落してきた愛情を求める子供の心は、必ず思春期以降に別の形となって跳ね返して来るようになる。

父親の身勝手はさほど子供の精神に影響を及ぼさないが、ダイレクトに愛情という面で子どもの精神てき成長と結びつている母親の身勝手は、そこに愛情という価値を見出さない形で施してきた一切の所業は、本来ある筈のそれが欠落した子へと成長するのは当然で、その反動が将来あらゆる形となって、この母親のところへ”注がれ返してくる”ということだ。

この家庭の未来の姿が僕には見えすぎるほど見えてしまうわけだが、それを否定できる程の人間性というものを見出すことが母親の書き込みには無い。

この泣いている子が反抗期になって、初めてその欠落している部分どういったものなのか?を我が子の行動で思い知らされることになろうなどと、今は考えてはいないだろう。




まさか・・・・涙が出るほど、その感動!

2010年05月31日 | 研究-教育・育児

月曜日に休みだった僕、娘の体育祭を見に行ってきました。

土日があいにくの雨で本日まで延期となったわけですが、そこでは僕が今まで経験したことの無い、新たな感動をいただく事ができました。

通常体育祭といえば、生徒主体と看板を掲げていても、なんだかんだと結局学校主体であり、開会式の校長先生の長話はもちろんのこと、いたるところで先生が生徒を指示しているのが大半。

本当の意味での、生徒による生徒のためのイベントといえるものでは有りません。

ところがこの学校。

朝9時半頃に始まった開会式から夕方は6時半まで、全てにおいて先生という存在が殆ど無く、唯一それが確認できたのは教員リレーの選手としてだけであり、それもあくまで生徒と共に体育祭を構成する一部としてで、

あくまで先生はサポートでしかないわけです。

当然、先生の挨拶なんか一度もありませんし、マイク全く喋らないし、全て生徒だけ構成されている。

「これは面白い!」 そう感じた僕はその時点で引きこまれたわけですが、予想通り開館式から予想もしない展開の連続で、お義理程度に見て帰ろうと思っていた僕は、彼らのすばらしさにぐいぐいと引きこまれてしまい、結局最後までいさせられる?事になりました。

競技の構成ですが、全体を通して中学高校生が4つのグループに分かれ、それがまた二つ大きなグループを構成、
通常は4つのグループが互いに点を競い合い、騎馬戦等の大規模種目では二つの大きなグループに分かれて戦う。

故に、普通の学校で言うところの徒競走等は一切存在せず、有ってもハイライトのチーム対抗リレーくらいで、後は全て色分けされたグループが織りなすチームワーク競技主体であり、それで“順位”と“勝敗”が競われていく。

様々な種目があったのですが、この中でもなんといっても素晴らしかった競技を一つ紹介。

それは高校生による騎馬戦で、これは相手の帽子を取ってハイ終わり! という子供だましのチャチなもの、始まったとたんすぐにパン!パン!と終了合図が出て終わり(怪我されると学校困るから)等というお粗末な物ではない、

完全な組み討ち式で、とうぜん引き倒し、引きずり落とし、突き落とし、落馬しまくりで相手チームの騎馬を次々と壊滅させていく方式、いわゆる完全なるガチンコ勝負だ。

女子同士の戦いはすさまじいし、男子に至っては怪我人が出て当然というもので、
それだけでも凄いのに、これをさらに盛り上げるのは、男子の女子に対する応援と、女子の男子に対する応援。

午前中のハイライトであるこの騎馬戦ですが、対戦開始直前に男子が横一列にスクラム組んで相手のチームと対面で睨み合う。

睨み合っている間を応援旗を持つ団長が旗を振り回して互いのチームを挑発(がん付け、罵倒あり)しあうものだから、闘志は一色即発状態まで高まっていく。

「うら~!かかって来いや~!」、「うんだと?こらてめー!」なんてグランドいっぱいに展開されるわけですが、けして調子込んだ行いや、下品な罵倒というのは無い。

*私立校であることもそうですが、ここは子供人口の減少に対し、例え定員割れしようともけして入試水準(生徒の選定基準)を下げて生徒を集めよう等とはしないという学校の考え方が、こうした面で出ている・・・

特徴的なのは男子の、特に気合入った子達がこの騎馬戦(伝統)の為だけに、
昔の応援団顔負けのモヒカンやら逆立ちパンチ頭やらなにやらと、できるだけ相手をビビラセル為の服装と髪型、そして金髪に染めたり青や緑に染めたり(カラーヘアースプレーぶっ掛けてました)して強面となり、他の子達と共に全体をまとめているということ。

これが普通の学校なら、こうした髪や服装は当然の様に禁止されてしまう。

ところがここでは、普段の生活態度が適切であるがゆえに、こうしたイベントでこれが許されてしまうのですね。

さて、この興奮しきった雰囲気と緊張の中で開始された騎馬戦がおもしろくないわけがない。

対戦が始まるとほぼどちらかが全滅するまでやらせることから、見ている観客(親御さん)もみんな手に汗握るたたかいと興奮連発の素晴らしさ。

不思議なのは、こうした普通なら禁止になりがちな競技がこの学校では普通と実行され、男子は男子として男らしくあり、女子は男子に負けないくらい元気で、それでいておしとやか。

「女の子、女の子!」、「男の子!格好いい!」、「ゴリラ、ゴリラ!」なんていう集団応援が飛び交い、これで怪我してもだれも学校に文句言わないのは、すべて生徒達が計画・立案・実行しているから。

ほんの少し子供が痛い思いしたくらいで職員室に怒鳴り込むくだらない親が多い昨今、いまどき日本にこんな硬派?なことが平然とできる学校が有ったのかとある意味衝撃でした。

そして何よりすばらしかったのは一番最後の表彰式および終了式。

優秀チームの表彰から始まり、体育祭を実行してくれた中学生から高校生まで(基本は中高一貫教育ですから)の実行委員たちの紹介(当然に先生の存在はそこにありません)で締めくくり、最後に生徒全員がみんな肩を組んでケサラを歌う、

騎馬戦で活躍した敵味方の金髪やモヒカン達も当然の様に普通の子達とまざって、涙して歌っているこが沢山いた、確かにこれだけ一日おもいっきり自分たちを表現できれば、涙も出てくるのは当然だと思います。

この学校の生徒達の目が、なぜみんな輝いているのか?と言う理由がよくわかった・・・

正直、こんなすばらしい体育祭を今までの人生で見たことがありませんでした。

最後にジーンと目頭が熱くなってしまった僕、娘が楽しくて仕方ないと口にするここが、いかに素晴らしい処か、というのを肌で感じることのできた一日でした。

最高の一日でした

春の嵐とレース、そしてシルバー

2010年05月23日 | 研究-教育・育児

Mai Kuraki - If I Believe PV


春の嵐が荒れ狂う海で行われたヨットレース。

15才の娘が参戦しているワールドレース(今年はフランス)出場をかけた選考レースですが、
今回シルバーを頂くことができました。

*笹川スポーツ財団協賛

選手は皆小学生の頃から毎週ヨットスクールで習って成長してきた子達、そしてベテランセイラー相手
という苦しい戦いでした。


途中のぽかミスが無ければゴールドだったのですが・・・・、

(^^;) この辺が家の子らしい(笑) あはは

でも本部船でレースを見ていた世界的に名のあるベテランヨットマン達の暖かい言葉と励ましを
たくさん頂きました。

ウインドサーファーであり、同時にヨットマンでもある娘にとって、とても有意義な
一日になったようです。

最後に、どんな条件下でも戦う勇気を育てていただいた愛知県知は知多半島の河和にあるヨットスクール、
そして鎌倉は材木座にあるBe-Windsではレースタクティクスをたくさん学ばせていただきました。

本当に感謝しております、ありがとうございます。





写真は知り合いの参加者達に囲まれての一枚ですが、許可を得ていませんので、
顔は隅塗りにさせていただきました。




そういえばこんな事もあったな~ 
http://blog.goo.ne.jp/freedomeagle/e/f12e3ac91be48d57e961fabb0a0ef1c0

子供の成長と、なんとなく親の寂しさ

2010年05月21日 | 研究-教育・育児


毎日毎日、元気に学校、そして職場へ向かう子供達。
もっとも上の子はとっくに成人しているので、子供という感じではありませんが・・・

下の娘は今の高校が本当に楽しいらしくて、特にこのところは近いうちに行われる
体育祭でクラスTシャツを造る係りとか何とかで、しかもマークやら絵やら全部手作り
らしくて、いちいち手書きをしている?のか知らないけど帰宅は7時くらい。

完全に親の手を離れ、自分で考え、自分で行動し、何か失敗しても消して親のせいになどしない。

まあ、そうなって欲しくてこの子を育ててきたわけだけど、現実それがやってくると
親というのは寂しいものなのだとつくづく感じます。

心配して下手に僕が口を出すと叱られてしまうことが増えた、同時になんとなく寂しい

 (^^;)えへへ

一方、上の子も同様に社会の一員として働き始め、やはり毎日が楽しいらしく、
先輩とどこ行ったとか、アメリカ人の同僚と何したとか・・・

ただこちらは、だんだんと表に見えない社会の厳しさや、人種、文化の違いなどを深く
知る事から”それなりの難しさ”というものも肌で感じているらしく、娘ほど陽気な
毎日とはいかないようです。

二人とも幼い頃からきちんと叱るべき時は叱って育て(当然に体罰有り)、
特に上の子は親も体験したことがない厳しい環境で一年を過ごした経験から、苦しい事、
思うようにいかないこと、腹の立つこと等の、いわゆる生きて行くにもっとも難しい
問題と戦って耐え切り開いていく能力は十分に備わっています。

もし、これが褒めて育てたりしていたら・・・

そう考えると、恐ろしくてなりません。

なにしろ、褒められて育った子は常に人からの評価がその行動の中心にあり。
それが得られないと思ったとたん何もしようとしない、という最大の欠点(特徴)
を持つ上に、基本的に自発行動を起こそうとはしません。

*ただし指示を受けての行動は評価(褒めてくれることを期待して)されることが
容易に分かりますので、かなり良くやります。

いうなれば評価が得られない事に価値を見いだせない、その理由は自分の力と能力を
向上させる事や研ぎ澄ます事、いうなれば内面を磨くことに喜びを見いだせない人間
となるからです。

明らかに目に見えないものである、内面を磨くことは常に苦しさとの戦いであって、
ましてや誰も褒めて等くれないし評価もない・・・

人の成長は常に表れない事の積み重ねの上に、初めて結果が有るからで。
人からの評価で喜びを得て行動するか、自分自身を磨く無形のものに喜び感じて
行動するか?

という違いなのですね。


これは僕の教育研究から導きだされた結論です。

親は怖くて優しく、同時に子供の目の前にそそり立つ大きな断崖で無くてはならず、

厳しさがきちんと有る中で育つことが自分を磨く能力の基礎を育て、やがて本能によって
発動される反抗期にそれまで備わった基礎を応用して親を超えようとすることが、
その子自身を人間的に大きく成長させるわけです。

評価(褒められる)を中心に育った子が反抗期頃から戸惑いを生じ、引きこもり、不登校
となるのは、超えるべき姿として存在しない物わかりの良い親、そして自分自身を磨くことに喜びを見いだす訓練(教育)を受けていないから来るものなのだと・・・・







ZONE 笑顔日和 PV [HD]

2010年04月30日 | 研究-教育・育児
ZONE 笑顔日和 PV [HD]


相変わらず「海が好き!」と親の言うことなんか聞かない我が娘は昨日から合宿。

5月7日まで帰ってこないけれど、毎日笑顔で送れるだろうか?



何て考えたりもするのです。


ウインドサーフィンもヨットも、教えたのは僕。

輝ける季節は何をもたらしてくれるのだろうか?なんて考えもするけれど、

娘には僕より少しでも輝いた青春を送ってもらいたい、そう願うバカ親父です。



(^^)えへへ

俺はゴキブリってか? 笑

2010年04月28日 | 研究-教育・育児
最近ボーイフレンドが出来たらしい娘、まずお兄ちゃんとその彼女に話し、次に家内、最後に一番怖い僕へ話をしてきた。

「ん?」と思う物の、禁止するような考えもないし、特に介入しようなどとも考えないことから、いくつか基本的約束を提示してあっさりOKと返答。

ところが、今朝の話を聞いて大爆笑になったのは僕と娘。

自分のお弁当は自分で造るというのが娘の考えでして、起きてくるのが丁度自分が家を出る頃となりますが、今日は少し早い。

「ねえ聞いて!」、「変な夢見た~」とやってきたので、「どんな?」と聞き返すと、次のような内容でした。


気がつくと少し暗い体育館の中に自分(娘)と友達(女の子)そして見知らぬ男の子の3人がいたらしく、その体育館で何をしていたのかは知らないとのこと。

気がつくと床の隅に一坪ほど(畳二枚分)くらいの黒い固まりがあって、それが「ざざざ・・・」と移動している。

娘は「げ!」と思いながら近くによってみると、なんと”ゴキブリの大集団”らしく、気持ち悪くなって出口にから抜け出そうとしたら、なんとそのゴキブリ集団が素早く移動ながら自分達の行き先を塞ぐように動くらしく、簡単言うとブロックされている状態。

いくつかある出口を目指すも必ず先回りして出られない、そこでゴキブリを叩いて突破しようと試みたところ、全身にゴキブリが這い上がって「ぎゃ~!」となったところで朝だそうだ。

「なんでこんな夢見たんだろう?」と聞いてくる娘。

この時点で笑いをこらえきれなくなっていたのは僕、その顔をみて「???」という娘。

そこで、理由をそのまま教えると、そばにいた家内と一緒に大爆笑。

「はい!」 (^^)b

この夢ですが、占い云々何てことは関係なく、実に現実的な事から来ています。


まず体育館、これそのものは親という存在であり、保護そのものを表しています。
大きいので閉塞感は無い事が分かります。

薄暗いのはそこに心の落ち着気がある証拠。

本人以外の二人、そのうち一人の女の子は自分の中に隠された欲望で分身、もう一人の自分でそこに理想やら自分の嫌な面やら何やらがギッシリと詰まっている。

そして残りの男の子はボーイフレンドそのもの。

さて問題の黒い集団ですが、之は父親(僕)そのものでして、自分(娘)の行動にどういった反応(姿勢)を取るか分からない潜在的恐怖を表している。

ゴキブリで構成されているのは、本能的な物で自立を?阻む存在でもある。

「ゴキブリは俺だな!」と単刀直入に言った事が相当におかしかったらしく、しばらく笑っていましたが、まあ、僕自身も似て無いとも言い切れないし? 夢の分析結果が妙に現実的な的なのも有り思わず苦笑い。

さてこの分析、実は別の意味もあるのですが、朝にそれを話すほど時間もなく、僕は家を出てしまいましたが、次のことがとても重要なわけです。

ゴキブリの集団移動は常に自分についてまわる、社会常識や親の思いそのものでもあり、それが迫ってくると逃げるのは当然の事。
最後の方で叩いて突破を試みるのは自分への背徳心という側面を持ちこれでいいんだろうかという自分への問いかけ。

ゴキブリが体に這い上がってくるのは、自分が変化していくことに対する恐れでもあるわけです。

この這い上がってくるのは親ではないかと考える人も多いのですが、このゴキブリは単にブロックしていただけのことで、けして自ら襲いかからず、叩き初めてはじめて這い上がってきている。

そこに切り分け点があるわけです。

まあ、いずれにせよゴキブリの集団が僕であることには変わりないようでして・・・

(^^)ははは

ただこれが草原でゴキブリに追いかけられた夢でなくてよかったと僕はおもうわけです。


そういえばバスケット部の先輩生徒達からマネージャーやってくれないかと申し出があったらしく、断りたい気持ちと断りづらい気持ち、やりたい気持もあるしやりたくもないといろいろ混在して複雑な状態になっていたのも有るみたいなので、それ絡みかな?とも思いますが・・・

15mの爆風と7.5

2010年04月25日 | 研究-教育・育児
今週も家族で海。

午前中はヨットの適風だった事から娘が出艇し盛んに練習、息子と彼女は風があがってくるまで大仏様なんてのを見に行ったりとのんびり。

ところが午後は、朝の冷え込みから午後はサーマルが入ると予測してはいたけれど、平均10mから13mのどん吹きと予想外。

強風に強い娘は喜んでましたが、さすがにトレーナーが危険と判断してあがってきました。

一方、それとほぼ同じくして息子は7.5のセイルを乗せたソニックで出艇、この頃から瞬間15mオーバーがバシバシ、へたすると17m?のブローまでが入る爆風状態となり、ほかのウインドサーファーはみな3.8から大きくて5.0のセイルサイズにウェイブボードという上級者だけの世界、

出て行く息子を「大丈夫かな~」と心配して見ている彼女(この子もウインドサーファーです)ですが、当の本人は悠然と疾走。

そうなのですね、家の息子はレーサー同等の腕を持っておりまして、某所では伝説となっています。
一時はプロへの道を考えたこともあるようですが、それで食べていけない現実を息子はよく知っており、安定こそが重要と大学に進学し、現在があるわけです。

しかしこれくらいの風になってくると、そこいら中からぶん殴られているようなもので、そんな中を平然とぶっ飛んでいる姿を見ると恐ろしい・・・   (@@);;汗タラタラ

自分(僕)なら恐ろしくて走れない様な条件下でも一向に平気なのですが、いくら能力の差が有るといえど、暴力的な風を何とも感じないほど軽い感覚で走れるというのは羨ましい限り。

見ていたこちらは何年たっても埋められないその差を力一杯味あわされたというか、
だいぶ追いつけただろうと自負していた我が身の甘さ、思いっきり味あわされました。

相変わらず息子にはかなわない  駄目親父→ (^^;)はは


春の雨と傘

2010年04月21日 | 研究-教育・育児
昨日、娘が帰宅すると玄関でごそごそやっている、「なにやってんだ?」と聞くと、
家の物ではないから使わないで、と張り紙している。

理由を聞くと、雨に濡れて歩いていたところに後ろから自転車で来た見ず知らずの青年に「これ使いな!」と傘を渡されたらしいのです。

「ふ~ん」と顛末を聞いていた僕ですが、これまでの中学時代と違って高校生になればいろいろな事がありますね (^^)。

「ところでこの傘どうやって返すの?」と聞くと。 「そうなの~、どうしょう」と言っている。

あはは(^^)

相手は「返してもらうことなんか期待していないから、もし再びあうチャンスがあったら、
でいいんじゃないか?」と答えておきました。

そういえば、娘が女である以上、こうした男性からのなささやかな支援(この先”ささやか支援”と書きます)というのはこの先幾度もあるわけでして、
こうしたさまざまな場面でどう対応するかに関して、娘が幼い頃から僕は非常に力を入れてきました。

「ありがとう」、この言葉はあたりまえですが、今回のような事、自分が雨に濡れるのを分かっていながらも「なぜ男性が女性を助けようとするのか?」という事に関しても、男の持つ本能的行動という面からの心のあり方等も踏まえて教えてきました。

時折、こうしたささやか支援に対して「いいえいりません!」とかたくなに断る女性がいます。

会社等で重い荷物を持っていた時なんかそうですが、どうみても大変だろう?、というすなわち男同士でも助けるような状況、しかも全く見ず知らずの関係という訳でも無い場面においてもです。

どう教育されてきたのかはわかりませんが、こうした場合に、申し出を受けること自体を敗北と考えている様でして、本人は男女平等なのだから助けなどいらないと言いたいのか?非常に不思議(不愉快)な思いをする事があります。


こうしたささやか支援の場合、男としてはそこには別段深い意味は無く、純粋な気持ちで動いているのが世の中の男性99%だと思うわけですが、もちろんその背景として女性は男性より弱い存在であるという本能がしっかりと動いています。

こう書くと「ほら、やはり女は弱い存在と考えているのね!」、「馬鹿にしないで差別よ!」と、目くじらたてて騒ぐ一部女性もいますが、身体的構造含め現実はこうした考え方にNOを突きつけているわけで、それをどう受け止めて考えを処理できるかという人間性の問題そのものでもあるのです。

さしも深い意味を持たないささやか支援に対する女性のこうした態度ですが、どちらかというと高学歴のインテリ女性に多く、そこには”なぜ人間に性別が存在しているのか”という事を原点とした幅広い考え方が存在せずに、いわゆるフェミニズム(性差など本来無く、後の教育や常識などの外的要因で男女は差別化される)を常に頭へ置いていることが多くあります。
男女のことになると何かにつけてそれを頭に置いて考えるようになってしまっている。

誰も仕掛けてないのに、それを挑戦と受け取る不要な競争意識を中心とした、まあ信じられないくらい貧祖な物事判断ともいえます。

まあ、これだけならまだともかく、それが本人の将来に多くの意味でマイナス要因として降りかかってくるという現実は、それが他人の気持ちを推し量ることのすらできない、きわめて自己中心的思考を他人に押しつける事そのものだと気づかないという不幸でもあるのです。

僕が娘を育てて来た過程で、男子の本能を中心とした行動の仕組みや、それにどう対処するかという話をたくさんしてきましたが、それを上記のフェミニズム思考と対比させつつ今回の件を考えるなら次のようになります。

事は単なる雨天下の傘を巡る貸し借りですが

男性の側からこうしたささやか支援の申し出があった場合、必ず一度は断るようにと言ってあります。

まあ、普通そうだと思いますが・・・

ささやか支援を申し出ると、「待ってましたと!」とばかりの反応や「やってくれる?」と初めからかwelcome状態になる女性もいますが、相手が特に近い関係だと多いですが、

これはダイレクトなものですから悪くはないものの、こうした態度に恥じらいはありませんし、男の側からすれば”当然だ”という態度に見えるもので、ていよく利用されている意識へと直結するので好ましい物ではありません。

ささやか支援の申し出を受けたら、まず一度は断る、それは”奥ゆかしさ”になると同時に、”自分のために傘がなくなってはこまるのでは?”、”私なんかのために大変な思いをさせてしまっては”という気遣いの心を感じる物です。

実は女性が気づかないうち、これによって男性は本能が発動されるようになっています。

男の本能といえば、性欲に絡んだお粗末な衝動という三流週刊誌バリの思考で考えられると困るのですが、本来本能は人の持つ全ての行動を司る基本プログラムであり純粋な物で、汚れた物ではありません。

さて、こうした奥ゆかしさを感じると、男はそこに好意、簡単に言うならかわいい、保護をするべき対象を感じるわけです。

しかし問題は、一度本能が起動すると、はじめはささやか支援だけだったものがプライドに変化することで、それを守るように男の思考は変化していきます。

傘の例で言うなら「俺は自転車だしすぐ家につくから」とか、「撥水の服を着ているから自分は大丈夫」とか、半分本当で半分言い訳のような、よく分からない理由をつけて初志貫徹(プライド=本能)を守る行動を取ろうとします。

さて、このあたりまではよくあることですが、実はこの先に、女性がどういった態度を取るかと言うことが後に大きな影響を及ぼします。

娘には、こうした場合に明確な断りをせず、考えなさい(仕草含めて)といってます。
もちろんそれは傘を貸してもらえることを前提にするための演技ではなく、申し出をしてくれている相手の心を中心に置き、訳の分からない考えや虚栄心を入れずに純粋に応じる方法を考えなさいということです。

そうした女性の姿勢は男性から見ると、自分の心(プライド)を察してくれている姿勢にみえ、非常に好印象となります。

女性にこうした面のプライド思考というものは存在しないのですが、その分理解できませんから、先も書いた様なフェミニズム思考や差別意識を持っているとそれがむくりと首をもたげ、また見ず知らずの男性という警戒感が先に立つことから冒頭の「いりません」を無神経に言い放ったり、全く無視して歩き出したりする・・・

こうした際に幼い頃から父親とどう接してきたかということが出てくるわけですが、それは何を学んだかという事でもありとても大切なわけです。

男という物は、女性を保護するように本能がプログラムされているのですが、これはどう時代が変化しても、社会や常識が変わっても、けして消去することができない永遠不滅の物で、
こうしたささやか支援を申し出ている際の心は深い意図など無く、純粋な保護本能で動いているわけでして、差別等という意識すらないのですがね・・・


話を戻しますが、こうした場合、男はほぼ全員、再再度ささやか支援を申し出てきます。
「いいから傘持って行きなよ!」とですね
断られるとプライドがもたないというか、メンツが潰れるというか、足場が亡くなる(笑)


この場合、”素直にささやか支援を受け取りなさい”と僕は娘に言っています。
同時に素直な心で「ありがという」と傘を借りるということです。

傘を借りたら、返さなきゃならないので、後で困るという考えもありますが、

実は、男の側にすれば、そもそもが見ず知らずの娘に傘を渡すわけですから、戻ってくる可能性が無い事をはっきりと認識しています。

さらに一瞬の接触ですから、数日もすれば顔を忘れてしまいますし、タイミング良く通学もしくは通勤の時間が重なることはそうそうありません。

女性側からすれば、その借りても換えせるか分からない、困るという考え、そして先も書いたようなフェミニズム的思考があって、受け入れない人もいます。

まあ、差別だ、勝ち負けだ等としか受け止められない人には、ある意味男に勝ったと満足感を覚える人もいるかと思いますが。


では、こうした女子のとる二つの行動にたいして、その後男性はどう反応するかということですが、

まずはっきりと断られる場合、それは男の持つ保護本能を拒絶されることそのものですから、プライドを木っ端みじんにされることを意味します。

女性にとってどうでもよいプライドですが、男にとっては非常に重要な意味を持つ物で、それは社会的ポジションをかなり低くみられたか、男性として魅力のない存在(子供のように女性から保護される程度)という判子を押されるに等しい意味をもちます。

これを極端に男は恐れますので、それを守るためムキになったりと、無理にでも傘を貸そうとしたりしますが、その背景にはこうした心の動きがあるのですね。

男子の側からのささやか支援に対する女性の反応で、男は社会における自分の位置づけそのものをみていると言ってもよいわけです。

もちろんそれが100%正解というわけでは有りませんが、それが本能なのですから仕方がない。

よく勘違いしている女性がいて、こうした申し出にすぐ性的な物を絡めた考えをする人がいますが、男からすれば”思い上がりもいい加減にしてくれ”と言いたくなるのは間違い有りません。

さて、もう一度ささやか支援の申し出を受けた場合、その場合どうするかについて、快く傘を受け取り、必ず頭を下げてお礼を言いなさいと娘には言っていたことを書きましたが、

今回はそのままそれにそって対応してくれた様です。

話を聞くと、その若い男性はうれしそうな顔をしてそのまま雨に打たれながら、行ってしまったとのことです。

僕は話を聞きながら、雨に濡れる濡れないなんていうのは、こうした場合全く関係ないんだよと娘に説明。

おそらくその青年、濡れて家に帰り母親から「傘は?」なんて聞かれ、無くしたとか誰かに持って行かれたとか答えて。

「本当に馬鹿だねあんたは!」なんて言われているわけですが、「うるせー」とか答えつつも心の中は何ともいえない満たされた気持ちになっているわけです。

逆に女性に受け取ってもらえなかった場合ですが、これは女性が考えているより冷たい感情に支配されています。

こうした二つの選択肢を持つ対応はたいてい瞬間のことで、また小さな事ですが、事はおとこの本能を中心としたプライドやその他に大きく関わることですから、女性の思いとは別に
後日明確に影響を及ぼしてきます。
これは傘の例なので後にはさほど影響しませんが、会社などのような継続して接触が続く場合にはそうはいきません。

まず、そうした男のプライドと気持ちを理解できる対応がとれると判断された子。

そうした娘には、あの子は本当に気持ちの良い子だという評価がされ、みんなから大切にされると同時に全体でその子を守ろうとする目に見えない共通意識へ変化します。

しかし、その反対の子に対しては、当然のことながら相当に厳しい見方をするようになります。

身内だろうか感情をシャットアウトできるという男の持つ能力は、女性の持ち得ない能力であると同時に大きな違いですが、当然それが働き始めます。
簡単に言うなら女性として見なさなくなるわけで、場合により同僚や友達とも見なさなくなる。

というのは、躊躇無くプライドを壊すのだから、当然に俺より優れているという意識をもってている”やつ”と判断され、競争の激しい男とまったく同一に扱われるうえ、そこには仲間意識すらない視線で態度に応じたレベルのことを”やって見せてもらおうじゃないか?”となる。 

当然のことながらプライドを壊された男が助けるようなまねは、”弱者が強者”を助ける形と処理されているので一切の支援(ささやか支援すら)もしませんし、求められても平然かつ冷たく断るように男は出来ています。

一度足蹴にされた自分に助けを求めるような女性の姿勢は、自分の都合だけで人を使う最低の態度としか男の目には写らないからです。

男としてのプライドを壊されたショックというのは、女性が考えるほど甘いものではなく、その女性がなにかでつまずいたり大変な思いをしようが、一切助けようという気持ちは起きません。

とくに仕事という分野においては男世界が今でも基本であり、そこには社会形成本能にもとづく適度な間隔をおいた相互扶助の構図で仕事はこなされて行きますから、またそれがあるからこそ一つ一つのプロジェクトなり何なりをやり遂げられるわけです。

ところが、男の社会でも独りよがりや自分勝手な人間は誰の助けも受けられずに葬り去られていく以上は、女性とて全く同様であり、ましてやそれが上記のことを起点としているならなおさらです。

こうした性差と男性の持つ独特の本能を踏まえず単なる勝ち負け的思考で物事に当たれば全てがうまくいかなくなるわけですが、それをもって職場の差別だ等と訴えるおろかな女性がいます。

しかしそれで勝ったとてその女性が幸せなるわけでもなく、それどころがその先に人生においてそれが看板となり、あらゆるところでつまはじきにされ、誰も受け入れてなどくれません。

僕は娘にいろいろな考え方を教えてきてますが、その中にお茶をいれるということがあります。

お茶くみという言葉はまるでオフィスにおける女性差別の代表みたいな扱われ方をされてますが、これに関して家では当然やるべき物として育てています。

その理由は至極簡単、かつ明確で重要な意味があり、

たかがお茶、その一つに様々な意味が有るからで、またそれをも教えています。

石田三成の三献茶は有名な話ですが、お茶を入れることそのものは、単にお茶入れるという人の行動でしか有りません。

しかしながら、秀吉がなぜそのお茶入れを芸術にまで高めたのかというなら、そのたった一つの好意にどれだけ多くの心や形を込められるか?という事そのものであり、創意と工夫の集大成でもある。

「何で女性がお茶を入れなきゃならないのだ?」と不満たらたらやる子と、適切な雰囲気、適切な時間、そして必要な分量や茶菓子を判断して出せる娘では、それそのものが人間性であると見なされるからなのです。

残念ながら世の中は偏差値が高い人間だけが幸せになれるようには出来てません、人間性こそが幸せを確約するもっとも確実な物なのです。

たかがお茶、しかしながらそれをどう考えるかによって変わってくるのは、様々なところに及びますが、
例を挙げるならそれをきちんと評価できる人間性を持つ男は、不満たらたらやる子より、きちんと出来る娘を当然に選びます。

「そんなのどうでも良いことだ!」と考える男は、不満たらたらに興じている女性を選びます。 生真面目はつかれる、そんなの適当で良いんだよとですね。

しかしながら双方が家庭を持つとどうなるか?

お茶入れ一つをきちんと評価出来る男は、家庭における妻の働き一つ一つをきちんと理解できるということそのものであり、そこに自然な感謝が生まれ、それが家庭を円満にしていきます。

しかしお茶入れを馬鹿にする男は、そもそもが一つ一つの基礎的なことに関する理解力が無いと言うことですから、妻のやるすべてをいい加減に扱いますし、そこに感謝もありません。
粗暴にすらあつかいますが、感謝の存在しない夫婦がどういった毎日を送っていくかということは考えずとも分かるかと思います。

これは無関係に見えながらも冒頭から書いている傘の事へダイレクトにつながるものであり、その基本的部分(人の心をどう扱うか)に差異など全く無いわけです。

僕は常々娘にこう教えています、女性らしさを失うと言うこと、男性らしさを失わせること、それは人(本能)の魅力を歪曲させることそのものであり、それは自分で自分を人という存在ではなくする事なのだと・・・・

真夜中の畑作業ってか(笑)

2010年04月13日 | 研究-教育・育児
いつものように起床。

あくびなんかしながらリビングに降りると、息子の彼女(Sちゃん)の靴がなぜか部屋の中に置いてある。

ビニールを引いた上ですが、なんで (・・)?

と靴を持ち上げるとビニールが濡れている。

夜にめっぽう弱い僕は、昨晩も早々の就寝でしたから、「雨なんか降っていたかな~?」なんてのんきに考えてしまうわけです。 (^^;)

そういえば夕方5時頃にSちゃんを迎えにいくと息子が出かけたのは知ってましたが、夕飯は家で食べると言っていたものの帰ってこなかったな~ と思い出し、しかしそれが濡れている靴と結びつかない 

「どうしたんだろ~?」 (^^;;)

いつものように5時に家内を起こして朝食となるわけですが、その際に「これどうしたの?」と聞いたところ、理由を聞いた僕は思わず苦笑い。

こんな事があったのです。

Sちゃんを駅でひろって家に帰る途中、農道の横に手で腕を振ってる人がいたらしく、ただし暗いので運転しながらだとはっきり分からずに行きすぎてしまったらしいのですが、

Sちゃんが「あれって何か理由が有って呼んでいたんじゃない?」と一言。 

事故だと困るので急遽息子がUターンして戻ってみれば、あんれま車が畑の中で立ち往生している。

(@@;) 「ゲッ!」 ←息子

ショートカットするつもりだったのか分かりませんが、農道の、特に奥の方は軽トラでもずぶずぶ潜り込むような柔らかいところがあり、夜だったこともあってタイヤがのめり込んで動けなくなったらしいのです。

その方(仮名Kさん)が途方に暮れてたところに息子が通りかかったとのこと。

息子とそのKさんが何とかならないか?といろいろやり始めるも、相手が土の軟らかい畑じゃそう簡単にいくはずがない、

しばらく自力脱出を試みて悪戦苦闘するも容易に出ず、こうしたときは飛ぶように時間が過ぎるわけですが、そのKさんの助手席に彼女がいたらしく、なんでも門限が厳しいらしくて近くの駅まで送ってほしいと途中でKさんからお願いされた息子。

その時点で息子も、Sちゃんもドロドロ。

駅まで送ってくれれば後は何とかしますから、お礼をとその方は懐から財布を取り出したらしいのですが、息子は絶対に受け取らなかったそうです。

その後すぐに息子達はKさんの彼女をのせて無事に駅まで送りとどけ、それで終わりかと僕はおもったのですが、「そのまま捨て置けない」とは息子でして再び田んぼに戻ってレスキュー作業開始したそうです。

「やっぱりな~・・・」  (^^;)笑 家の息子だとそうなると思います。

一方Kさんは、彼女を駅まで送ってもらうので息子とSちゃんが出た後に友達へ電話して助けを求めたらしいのですが、みんな「都合つかない」とか「そんなの俺には無理だ」とか断られたらしく、Kさんにしてみればかなりショックだったでしょうね~これは・・・。

しかし、なんで家内が詳しく知っているの?と思ったら、いつまでも帰ってこないのを心配していたところに電話連絡してきて、この時点ですでに夜9時半くらいだったらしいのですが、家内にインターネットで近隣JAFやレスキュー可能なところを探してくれという要請だったらしく、そこでいろいろ聞いたところ様子が分かったらしいのです。

しばらくレスキュー作業をやっていたらしいのですが、「こりゃ~スコップやら何やらが必要」と判断した息子は一度家に戻ってきて、この時点でもすでに12時越え。

家内は戻って来た泥だらけの二人に驚いたみたいですが、にもかかわらず長靴に履き替えてスコップやら何やらダットサントラックに積み込んで、二人とも向かったとかで、なんというかその話を聞いた僕はさらに苦笑い

二人のために夕飯を用意していた家内ですが、何時になるか分からないのでテーブルの上に準備だけしてSちゃんに泊まってもらうようにして寝たとのことです。

そういえば真夜中の2時頃にボイラーの音がしていましたから(僕はなんでこの時間にボイラーと思いながら寝ぼけてました)、二人ともその時間には戻って来てはいたようです。

家内が寝てしまって、以降の顛末は聞けませんでしたが、最終的にはレスキュー会社が来て引き上げたとのことです(後日談)。

しかし、飯も食わずに真夜中まで通りがかりの人を助けるとは、いいんだか悪いんだか?

「困っている人、苦しんでいる人がいたら、自分のできる範囲でいいから助けなさい、ただし一切の見返りを求めてはいけない」、と幼い頃より繰り返し教えてきたけれど そのままその通りに育ったようでして  (^^)はは

しかし、泥がつくからとか、汚れるのが嫌だとか、口だけ出して手を出さずに見ているだけという女の子が多い昨今、ドロドロになりながら黙って息子を補助し続けたSちゃん、こんな娘は金のわらじを履いても見つかるものではありませんよ本当に。

中学生の時に自分だけが劣等生なのだとひねくれて荒れ、ナイフ持って喧嘩するような仲間と問題行動やりまくっていたのはこの息子。

当然に勉強など出来るはずもなくてアルファベットの大文字小文字の区別すらつかないようないわゆる落ちこぼれ以下?だったのも我が息子。

いわゆるよい子で優秀な成績、模範的生活を送る偏差値エリートとはまったく逆の人生を歩んできた息子ですが、某人たちと出会ったことから途中で思い立ち、以降大学を卒業するまでにした勉学に関する苦しさや苦労、荒れていた頃から学んだ人の心に関しての多くのことはその経験にみあう人間性として身についていると思いますが、

この先この人間性をどういかしていくのでしょうかね? 親としてはかなり興味がそそられる話ではあります。 



二人の春

2010年03月18日 | 研究-教育・育児
生きていると、いろいろな事があります。

それは四季の様でもあり、希望に満ちた春、心がすさむ冬、やたらと順調にことが進む夏、そして物静かな秋というようにです・・・



昨年の今頃はどちらかというと冬で、でも力を蓄えて花吹雪を舞わせる桜のように明日を見つめていた我が息子。

今の様に経済が停滞し、日本の先行きに暗い影漂う状況では、恵まれた職に就くというのは本当に至難の技です。

昨年大学を卒業したものの、やはり今の状況に飲み込まれたのは息子とて例外ではなく、
友達含めて皆が適当なところで妥協していくなか、黙々とアルバイトを続けながら挑戦を繰り返しては現実に打ちのめされていたわけです。 

親も就職を焦らせるような事はせず、黙って彼を信用して見守るしか無かったわけですが、幸運にもわずか2%という門をくぐり抜けて春が来た。 といっても叩き上げが基本であるそこは必ず下積み職から始まるのが原則。


ただ、親方が日の丸というでっかい存在であることから、一度入ってしまえば極めて安定しており、特殊なそこは普通と異なって努力次第でいくらでもアップしていけるというのがここの持つ最大の特徴なのです。

親から見ればまだまだのヒヨッコの息子、まずはこれで足固めが完了、この先自分自身も安定させ(いま付き合っている彼女との結婚)、一番希望する道へ更なる努力を続けて舵を切るのか、それとも現在のところでそのまま上を目指すのだろうか?

すでに22歳という息子の人生に親が出る幕など無く、この先も見守っていくという事だけしか親には出来ない。

最後に、途方に暮れていた息子の側で常に支え続けてくれた、将来の伴侶(彼女)には親としてひたすら感謝の言葉しかありません。

良い彼女を持ったと僕は思っています、親として 「ありがとう」と言う言葉を贈らせていただきます。



技術者を粗末にしてきた日本企業、そのつけはすぐそこに

2010年02月25日 | 研究-教育・育児
今日はゴミの一人?(なぜゴミなのかは読んでいただければわかります)である僕が、日本企業衰退の根本原因をエンジニアの端くれという目線から書いて見たいと思います。


さて、まったくもってくだらない、民主党の人気取りパフォーマンスショウたる事業仕分ですが、今度はたれこみ(ねつ造)情報を基にして4月に再びやるとか何とか。

前回は科学技術をさんざんお粗末に扱ってましたが、今回はどうでしょうかね?


しかし、もっと深刻な事が長年この国で行われてきた事実は皆さんご存知ないかと思います。

戦後の焼け野原を世界第二位の国に押し上げたのは、この国の優れた技術力であることは誰も否定しないと思いますが、
バブル期にはどの国も追いつくことのできない優れた性能と信頼性で世界を席巻したMADE IN JAPAN。

それが今世界中の市場から弾き出され、代わりに韓国製と中国製が大半を占めるようになってきています。

圧倒的な人件費の安さによる値段で勝負する中国製はともかく、性能がほぼ日本製と同じで値段が少し安い韓国製がそこまで伸びてきたのはとても不思議な事に感じられるかもしれません。

ところがこれ、実は日本企業と韓国企業の戦いに見えつつ、その中身は若い日本人技術者と、会社から使い捨てのゴミとして捨てられたベテラン日本人技術者達との壮絶な戦いの末に現在があるのです。

昨年末の事業仕分けで一番目立ったのは、天下りの年収と科学技術に対する貧弱な理解度でしたが、こうしたことから見えるように、この国はその経済を支えてきた重要なもの(技術をもった人間)を粗末に扱う社会的風潮があります。

以前、ブルーレーザー特許が大きな社会事件となった事は皆さんもご存知かと思いますが、それは開発社員を粗末に扱った会社と、その努力を評価して裏から守ろうとしたアメリカ?の戦いでもありました。

その結果従来行われてきた日本の裁判では信じられない高額請求が今回は認められ、最終的にはその社員が勝訴したわけですが、その背景にはもし日本でお粗末な裁判結果が出ればアメリカがそれを手にし、

その先日本はアメリカ市場を始めとしたあらゆる応用分野で日本は追い出された挙句に膨大なロイヤリティを払わねばならないというおかしな事態が発生が発生することになるからです。

どこぞの評論家が「一人の技術者にこんな額を認めるとはおかしい!」と言ってましたが、実態はそんな簡単なものではないということです。

なぜこうした揉め事になったのかというなら、この社員は自分の信念に基づき、当時“絶対不可能”とされていた青色レーザーの開発をまったくの無償かつ奉仕で行ってきた事にあり、

きちんと自分の仕事をこなしつつも、就業後そして休日の貴重な自分の時間を全て注ぎこんで研究を続けた、しかしながらそれに対するほかの社員(社長まで)と会社の態度は「どうせ出来るはずなんかない!」そう言いながら皆で後ろ指さして笑っていたわけです。

ところがその社員は意思を貫徹して、見事それをやり遂げてしまった・・・、

するとそれまで馬鹿にしていた会社が突然豹変し「その特許は会社のものだ!」と声高にいい始めた。

自分の物だと会社が主張した理由は、この社員が研究をするに使用した機材は会社の所有物だからという、実にお粗末なもの。

こうした一例に見られるように技術者を粗末にする事は今に始まったことでなく、はるか昔からそうだったのですが、その背景には、技術というものは大学もしくは大学院を卒業したての頭(これをやわらかい思考というのだそうですが)で考えれば新しくて素晴らしいものができるとされ、

長くいた(経験を積んだ)技術者の頭は年を取ったから固くなって、ろくな物は開発出来ないという、肉体の衰え=技術の低下という体育会系が真っ青になるほど不思議な日本的オリジナル思想を背景にしています。

ところが現実には、蓄積を基本とする技術世界はその開発者が意欲を失わないうちは限りなく進化をし続けるものであり、特定の年齢(35歳から40歳)になればきっかり用を成さなくなるというものではない。

それどころか年齢と経験を積み重ねることで得られる広範囲な情報がさまざまなところに旨く生かされ、さらに高度な物を開発できるというということでもあるわけです。

こうした考え方が欠落している日本企業がおこなうのは、“技術者をゴミのように捨てる”という現実。

それでも昔はこれでも良かった・・・・、

というのは捨てられた技術者は他に行くところもなく、文句も言えずに悔し涙を隠しつつも、あえて不向きな営業職を強制させられたり、体力的にも問題があるのに不慣れな物流倉庫管理をやらされたり(東芝等実例)と、

簡単に言えばお前なんかもう使い物にならなくなったけど“おいてやってるんだから文句があるなら辞めろ!”ということです。

日本の奇跡的経済成長の影で、多くの技術者達が犠牲になり、泣き寝入りさせられて来たのがこの国の発展の陰部分にあったわけです。

ところがこの泣き寝入りの歴史に大きな変革期が訪れた。

それは民主化の進んだ韓国。

彼らが真横にある技術大国に追いつかんと日本を研究した中で目にしたのは、そこいら中に埋もれている元高度技術発展の主力達、そして無惨にもゴミのように扱われている姿。 
用無しと廃棄されたまだ若い老兵達(技術者)だったのです。

こうした惨状?を目にした彼らが取った方法は、会社の一線を退りぞかされ、倉庫の片隅においやられて日の当たらなくなったゴミ(優秀な技術者)を、もといた会社より遥かに高額で恵まれた待遇で大手韓国企業がバンバンと迎え入れる事。

雇われたゴミにしてみれば、といってもまだ35歳から55歳くらいの技術者にしてみれば、自分を粗末にした会社に対する憎悪は容易にパワーへと変換され、
そこにそれまでの経験で蓄積された高度技術を初めとする、会社組織や開発方法、特許含め日本製品そのものを知り尽くしている、

さらに、これまでのような「あーだこうだ」と日本独特の口出しや制限もされずに自由にやらしてくれるという、開発技術者にとって夢のような職場と環境を与えられたわけです。

もともと忠誠心が高い日本人のこと、ゴミ老兵達はプライドやそれまでを全て捨て、自分たちを大切にしてくれる新しい環境に忠誠をちかって全力で技術開発をはじめ、当然に開発スピードは加速していきます。

それに対して、若くて頭が柔らかい(日本企業の言い分)とはいえ、技術蓄積が浅い上に、ゴミとして捨てられていく先輩達の姿をみて仕事をしている日本企業の技術者が、あらゆる事を知りつくしている技術者と渡り合ったとて自然と能力差が生じるのは当たり前の事で、

技術の世界ではヒヨコがベテラン相手に勝てる見込みというのは、肉体的な能力以外はまずありません。

しかもそのゴミ老兵達は全ての技術を韓国の若い技術者にそっくりそのまま渡しながら自分たちに失われつつある若さ部分を補ってもらう形で共同開発しているのですから、層の全体的な厚さと力は膨大なものとなり、使い捨て理論の日本企業がどう頑張ってもかなうはずがない。

ゴミ老兵たちは過去に自分たちが開発してきた技術を隅々まで知り尽くしていますから、それは元の会社の製品が持つ問題も当然に知っているということで、それをカバーして余りある製品を開発できるのは当たり前のこと。 

これは自然に信頼性を日本製より高めることとなり、そうして開発された製品は韓国企業と日本企業の衝突する原因となるわけですが、元をたどれば特許を持つ日本企業の技術はすべて自分達が棄てたゴミが育て上げたものであり、そのゴミが最先端技術者として韓国企業で返り咲いて今度は日本製品をつぶすために全力で挑んでくるのですから、かなうはずがない。

何しろ彼らが開発する製品は、特許取得済みの技術よりさらに優れた技術に育て上げて(特許をうまくかわして)たものとなっているのですから。

当然にもとの技術すれすれに開発していることから、特許法に触れていると判断されやすく、しかしながら違反だといくら日本が訴えて泥沼化したとて、決着まで膨大な時間を消費するのが裁判であり、そんなことをしている間に揉め事の原因となった技術は骨董化、無価値なものをめぐって繰り広げる裁判の経済的損失が日本企業には大きくなりすぎて結局は和解しざるを得なくなるということ。

そうした戦略的なことまで含めて捨てられたゴミ達は良くわかっているのです。

まずは基礎的半導体技術だったメモリーを手始めに、やがて家電製品全体へと広がり、液晶テレビへと進み、日本製を次々と追い落としつつ“Made in 日本人技術者”製 韓国ブランドが飛ぶ鳥を落とすほどの勢いになってきた。

そこに来て、この10年くらいの間に、韓国企業躍進の秘密を見てきた中国が韓国よりさらに恵まれた待遇でこのゴミ達を獲得し始め、粗悪品質の見本みたいだったMade in Chinaの信頼性が急激に高くなりつつあります。

「なんで日本のために働かないのだ?」と批判する人たちもいます、しかしながら一生懸命働いてきた報酬がゴミ化という現実からくる考え方の変化を、一体誰が批判できるのでしょうか?

中国は民主国家ではなく人治国家ですから、その強力な政治指導体制の下に、自国の市場を盾として技術情報(車の制御系等(ブラックボックス)やコンピュータソフトのアーキテクチャ等など)をすべて政府に公開しない限りは国内で売らせないというやり方を海外に向けてとっており。

そこで得られた最新技術情報は日本から招き入れたゴミ(日本で捨てられた技術者)に与える肥料?(最新技術をさらに最新にするための情報)として利用し、当然ながらその成果は爆発的にあがって来ています。


日本が世界に躍進した原動力、それを粗末に扱った日本の企業は今、自分たちゴミとして処分した技術者達の持つ優れた知識と技術によって連日惨敗を余儀なくされている。

自分たちのやった過去(現在も)の行いが自分の首をじわじわ締め付けているのですが、それが日本企業のやり方なのですから仕方ないでしょう。


太平洋戦争で連合艦隊が壊滅に追い込まれたのは、神風攻撃機がほとんど撃墜されてしまったのは、物量の差もあれども、基はと言えば”日本人技術者”が開発したレーダーとレーダー連動射撃技術によるもので、

この技術を戦争前に日本は笑いものとし、足蹴にまでした。 開発者が悲しみくれていたのをイギリスとアメリカという国が評価し先進化させたのが結末に結びついた。


以前ノーベル賞をもらった田中さんが、社内では単なる平社員として粗末に扱われていた事
は日本企業の姿勢と有り様をそのまま映し出しているし、

テクノロジーの塊でもあるF1では、日本の持てる高度技術とこれまた膨大なお金を若い技術者とともに湯水のごとく注ぎこんだHONDAとTOYOTAは、遙かに小さな会社であるフェラーリ相手に全く勝てず、連戦敗退を出し続けたあげく、最近になって不景気を口実に撤退したことはみな知っていると思います。

ところがその常勝フェラーリのエンジンの開発は、同じく日本企業に捨てられたゴミ(日本人技術者)の手によるものだということ、

その人が日本にいたときはそのメーカがF1で無敵だったという事実、それを日本人全員は全く言ってよいほど知らない、 これがこの国がいま没落し続けている根本原因そのものであるという事すら知らずに・・・・



最後に、こうして書いている僕は日本の為に働いてはいるものの、常に忠誠心は星条旗の下にあり、その姿はゴミ老兵達に近いのかも知れない。
当然、粗末に扱われる日本企業で技術者として働こう等とは、想像すらしたくない。