GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

異名というのは付いてまわるけど、弁解すれば・・・

2023-06-18 22:22:35 | 野球

 と言いながら早速書くけど、「フォークボールの神様」という異名はあまりにも有名やった杉下茂 氏が、亡くなられました・・・大往生でしたが、つい最近まで中日のキャンプに毎年臨時コーチとして行かれてて、拝見してたんで、意外でしたね・・・ただ本人が何べんも言ってる様に"私は、実際に殆どフォークを投げなかったよ。投げる・投げると思わせて投げないのも、駆け引きだからね。ああいうボールは、ここぞ一番の時に投げるものだ。それに私は、川上哲治さんの様な強打者をストレートやど真ん中のストレートで打ち取る事が、本懐だったんだから!それに簡単に三振に取れるんで、打者と対峙してても、全然面白くない!"と。さらに"いくら時代を経ようとも、やっぱり投手の投球の基本スタイルは、ストレートだ!"とも。川上氏が彼のフォークを"捕手が捕れない球を、打者が打てる訳がなかろう!"と言ったのは、「超々有名な話」ですな。あと何度も言うてるけど、ご立腹やったんは、"捕手主導のリードや配球"には(汗)投手自身が考えて、配球を組み立てるぐらいでなければ、ダメだと・・・さらに本当は、フォークではなくナックルを投げようとしたら、フォークに近いものを投げてたというのも言ってたような、詳細は、高橋安行 著の伝説のプロ野球選手に会いに行く内(ない)を参照してください(汗)

 杉下氏は、戦前生まれで帝京商時代は、長身もあったか一塁手(汗)さらに殆ど投手での出場は、無かったとの事!卒業後に応召。軍隊に入って鍛えられたんか、肩が強くなった。復員後は、いすゞ自動車に入社。そこで活躍。今とは逆で、退社後、明大に入学。中退の様な形で、1949年に中日に入団。ルーキーイヤーはそこそこの成績も、2年目には27勝を挙げる。翌年も併せて、2年連続の沢村賞を受賞。1954年のリーグ優勝に貢献!さらに疲労や故障と闘いながらも、文句無しのMVP級の大活躍で、日本一に貢献!!さらに中日は、同年以外1位からの日本一には輝いていない為、唯一の純粋な日本一の称号である(燃)!!1958年までに、通算211勝を挙げる。1959・60年は、形式上は中日の選手兼任監督。しかし契約上、投手としてはめったな事では登板出来ない契約を交わしており、実質監督専任となっていた・・・60年オフに一旦現役生活は引退し、監督も辞任し中日も退団。しかし大毎に移籍した際にオーナーの強い要請もあり、翌年の1961年に投手コーチ兼任投手として、現役復帰する(驚)!!ただ2年のブランクは大きかったか、4勝で終わり(それでも凄いけど)、今度こそ本当に引退する・・・引退後は、大毎や阪神の投手コーチ。さらに阪神では異例の外様の立場でも、監督を歴任!1966年の事やったけど、トラブルなどがあり1年も もたずに、休養の憂き目に遭ったが・・・2年後には、再び中日に呼び戻され、監督に就任するも一時は首位に立つも、そのあと調子を落として最下位まで落ち、またしてもシーズン途中で今度は、解任・・・まぁ監督の適性があったかどうかはよく判らんけど、大毎・阪神時代もそうで、のちのちの育て上げた投手を見ると、投手コーチ向きやったんかもしれませんな(汗)1976年からは、巨人の投手コーチとして、2連覇に貢献!1993年からは、西武の投手コーチとして2連覇に貢献。しかし本人は、「もう出来上がった投手達だったから何も言う必要が無かったよ、むしろもう1人の投手コーチの森繫和を一人前にしに来たようなものだった。西武時代が、一番楽だった」と述懐してますね(汗)アマチュア時代もプロ入り後も天知俊一(<現役時代>プロ選手経験なし<監督>中日・名古屋・中日)監督とは、蜜月の関係やったと思う。通算215勝ながら、大正生まれの為、名球会入りは、対象外(涙)監督・コーチ時代以外は、TBSの野球解説者。たくさんの芸能人・著名人が出演するオールスター感謝祭にも出演されてましたな。姿は見掛けんかったけど、あのクイズに参加してた!通算成績は、試525 215勝123敗 防2.23/試405 182勝215敗8分 率.458 でした。お悔やみ申し上げます・・・

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