(ハイアーセルフ33さんからの投稿)
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みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。<私たちは神である!>
前回投稿した和尚の講話では、内省、自己想起、観照の違いについて語られてい
ました。http://blog.goo.ne.jp/flatheat/d/20100507
今回は「覚醒と観照の違い」についてです。お役に立てば幸いです。
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瞑想・・祝祭の芸術(絶版) *和尚ラジニーシ(めるくまーる刊)
(質問)覚醒awarenessと観照witnessingの違いは一体どこにあるのでしょうか?
(和尚)
覚醒と観照の違いは大きい。観照と言うのは依然として行為(アクト)だ。あなたが観照している。そこには自我がある。だから、観照という現象は主体と客体に分裂している。観照は主体と客体のあいだの関係だ。覚醒にはいかなる主体性も客体性もない。覚醒においては、観照している人は誰ひとりいないし、観照されている人も誰ひとりいない。覚醒とは全体的な行為だ。統合されている。そこでは、主体と客体が関係づけられずに溶け去っている。
だから、覚醒とは誰かが醒めているということではない。また、注意を払われている何かがある、ということでもない。覚醒は全体的だ・・・単一現象としての全体的な主体性と全体的な客体性だ。一方、観照にあっては主体と客体のあいだに二元性が存在する。
覚醒は無為だ。観照には行為者が含まれる。だが観照を通して覚醒が可能になる。なぜなら、観照とは意識的な行動のことだからだ。それは行動だが意識的なものだ。あなたは無意識でいながら何かをやるということはできる。・・・通常の私たちの活動は無意識的なものだ。・・・だが、そのなかであなたが意識的になれば、それは観照になる。だから、通常の無意識的な活動から覚醒に至るあいだには、「観照すること」によって埋められうる隙間がある。
観照とは覚醒に向かうひとつの技法、ひとつの方法だ。観照は覚醒ではない。だが、通常の活動、無意識的活動に比べればより高い段階だ。すでに何かが変わっている。活動が意識的になり、無意識が意識に取って代わられてきている。が、さらにまだ何かが変えられなければならない。つまり活動が無活動に取って代わらなければならない。それが第二段階になる。
通常の無意識的な行動から覚醒へと飛躍するのはむつかしい。それは可能だが非常に骨が折れる。だから、そのあいだの段階が役に立つ。意識的な活動を観照することから始めるなら、そのときには、どんな意識対象もなく、どんな意識主体もなく、まったくどんな意識的活動もない覚醒への飛躍が容易になる。このことは覚醒が意識ではない、という意味ではない。覚醒は純粋な意識だ。だが、それを「意識している者」はいない。
意識と覚醒のあいだには、まだ違いがある。意識は心(マインド)のひとつの質ではあるが全体ではない。心は意識的と無意識的、その両方でありうる。が、あなたが心を超越すると、どんな無意識もそれに対応する意識もなくなる。そこには覚醒がある。覚醒とは心全体が目覚めたということだ。いまやそこに古い心はない。だが、「意識している」という質がある。覚醒は全体的なものとなった。いまや心それ自体が覚醒の一部となったのだ。
「心が醒めている」という言い方はできない。ただ意味深長に、「心が意識している」とは言える。覚醒とは心を超越するという意味だ。だから、醒めている当のものは心ではない。心を超越し、心の彼方へ出てはじめて、覚醒が可能になる。意識(自覚)は心のひとつの質だが覚醒は超越だ。心の彼方へ越えてゆくことなのだ。
心はそれだけでは二元性をもたらす媒体だ。だから、意識はけっして二元性を超えられない。それは必ず「何かについて」の意識であり、また常に意識する誰かがいる。だから、意識は心の一部であり、一区分なのだ。そして心は、そのままでは一切の二元性、一切の分裂・・・それが主体と客体のものであろうと、活動と無活動の間のものであろうと、意識と無意識の間のものであろうと、一切の二元牲、一切の分裂の根源なのだ。二元性はどんなタイプのものでもすべて心的(メンタル)だ。覚醒は不二だ。だから覚醒とは無心の状態のことだ。
では、意識と観照の関係はどうなっているのだろうか? 観照とはひとつの状態であり、意識することは観照に至る手段だ。意識的になりはじめれば、あなたは観照を達成する。自分の行動を意識し、日々起こることを意識し、自分を取り巻くすべてのことを意識し始めれば、あなたは観照しはじめる。
観照は意識の結果としてやってくる。観照を訓練することはできない。訓練できるのは意識だけだ。観照は結果として、影として、成果として、副産物としてやってくる。意識すればするほど、ますます観照に入ってゆき、ますます観照者であるようになる。だから意識(すること)は観照を達成する方法なのだ。
それから第二段階では、今度は観照が覚醒を達成する方法になる。だから段階は三つある。意識、観照、覚醒だ。が、私たちがいるところは最下位の地点だ。つまり無意識的な活動の中にいる。無意識的な活動が私たちの心の状態なのだ。
意識(すること)を通して観照が達成できる。その観照を通して覚醒が達成できる。そして、覚醒を通して<無達成なるもの>を達成できるのだ。覚醒のあとは何もない。覚醒こそ最後のものだ。覚醒は霊的進化の終わりであり、無覚醒はその始まりだ。無覚醒とは、物質として存在している状態のことだ。だから無覚醒と無意識とは同じものではない。無覚醒とは物質のこと。物質は無意識ではなく無覚醒なのだ。
動物としての存在は無意識的な存在だ。人間としての存在は、精神的(マインド)現象・・・99%の無意識と1%の意識という存在だ。この1%の意識というのは、あなたは1%が99%の無意識を意識しているということだ。だが、もし自分自身の意識を意識するようになったとき、その1%の意識は増大しつづけ、99%の無意識は減少してゆく。
もし100%意識的になったら、あなたは観照者(sakshin)になる。観照者になったら、あなたはそこから覚醒へと飛躍できる跳躍点に達したのだ。覚醒にあっては、観照者は消え、ただ「観照」だけが残る。あなたは行為者を失い、主体を失い、自我中心的(エゴセントリック)な意識を失う。そうしたとき、自我(エゴ)なくして意識だけが残る。円周が中心なくして残る。この中心のない円周こそ覚醒だ。いかなる中心もなく、いかなる根源もなく、いかなる動機づけもなく、それがよって来たいかなる源泉もない意識・・・源泉なき意識・・・それが<覚醒>だ。
だから、あなたは物質という無覚醒の存在から覚醒へと進む。それを神性と呼ぼうと、神的と呼ぼうと何んとでも好きなように呼ぶがいい。物質と神とのあいだ、その間の違いは常に「意識」の違いなのだ。
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みなさん、こんにちは。ハイアーセルフ33です。<私たちは神である!>
前回投稿した和尚の講話では、内省、自己想起、観照の違いについて語られてい
ました。http://blog.goo.ne.jp/flatheat/d/20100507
今回は「覚醒と観照の違い」についてです。お役に立てば幸いです。
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瞑想・・祝祭の芸術(絶版) *和尚ラジニーシ(めるくまーる刊)
(質問)覚醒awarenessと観照witnessingの違いは一体どこにあるのでしょうか?
(和尚)
覚醒と観照の違いは大きい。観照と言うのは依然として行為(アクト)だ。あなたが観照している。そこには自我がある。だから、観照という現象は主体と客体に分裂している。観照は主体と客体のあいだの関係だ。覚醒にはいかなる主体性も客体性もない。覚醒においては、観照している人は誰ひとりいないし、観照されている人も誰ひとりいない。覚醒とは全体的な行為だ。統合されている。そこでは、主体と客体が関係づけられずに溶け去っている。
だから、覚醒とは誰かが醒めているということではない。また、注意を払われている何かがある、ということでもない。覚醒は全体的だ・・・単一現象としての全体的な主体性と全体的な客体性だ。一方、観照にあっては主体と客体のあいだに二元性が存在する。
覚醒は無為だ。観照には行為者が含まれる。だが観照を通して覚醒が可能になる。なぜなら、観照とは意識的な行動のことだからだ。それは行動だが意識的なものだ。あなたは無意識でいながら何かをやるということはできる。・・・通常の私たちの活動は無意識的なものだ。・・・だが、そのなかであなたが意識的になれば、それは観照になる。だから、通常の無意識的な活動から覚醒に至るあいだには、「観照すること」によって埋められうる隙間がある。
観照とは覚醒に向かうひとつの技法、ひとつの方法だ。観照は覚醒ではない。だが、通常の活動、無意識的活動に比べればより高い段階だ。すでに何かが変わっている。活動が意識的になり、無意識が意識に取って代わられてきている。が、さらにまだ何かが変えられなければならない。つまり活動が無活動に取って代わらなければならない。それが第二段階になる。
通常の無意識的な行動から覚醒へと飛躍するのはむつかしい。それは可能だが非常に骨が折れる。だから、そのあいだの段階が役に立つ。意識的な活動を観照することから始めるなら、そのときには、どんな意識対象もなく、どんな意識主体もなく、まったくどんな意識的活動もない覚醒への飛躍が容易になる。このことは覚醒が意識ではない、という意味ではない。覚醒は純粋な意識だ。だが、それを「意識している者」はいない。
意識と覚醒のあいだには、まだ違いがある。意識は心(マインド)のひとつの質ではあるが全体ではない。心は意識的と無意識的、その両方でありうる。が、あなたが心を超越すると、どんな無意識もそれに対応する意識もなくなる。そこには覚醒がある。覚醒とは心全体が目覚めたということだ。いまやそこに古い心はない。だが、「意識している」という質がある。覚醒は全体的なものとなった。いまや心それ自体が覚醒の一部となったのだ。
「心が醒めている」という言い方はできない。ただ意味深長に、「心が意識している」とは言える。覚醒とは心を超越するという意味だ。だから、醒めている当のものは心ではない。心を超越し、心の彼方へ出てはじめて、覚醒が可能になる。意識(自覚)は心のひとつの質だが覚醒は超越だ。心の彼方へ越えてゆくことなのだ。
心はそれだけでは二元性をもたらす媒体だ。だから、意識はけっして二元性を超えられない。それは必ず「何かについて」の意識であり、また常に意識する誰かがいる。だから、意識は心の一部であり、一区分なのだ。そして心は、そのままでは一切の二元性、一切の分裂・・・それが主体と客体のものであろうと、活動と無活動の間のものであろうと、意識と無意識の間のものであろうと、一切の二元牲、一切の分裂の根源なのだ。二元性はどんなタイプのものでもすべて心的(メンタル)だ。覚醒は不二だ。だから覚醒とは無心の状態のことだ。
では、意識と観照の関係はどうなっているのだろうか? 観照とはひとつの状態であり、意識することは観照に至る手段だ。意識的になりはじめれば、あなたは観照を達成する。自分の行動を意識し、日々起こることを意識し、自分を取り巻くすべてのことを意識し始めれば、あなたは観照しはじめる。
観照は意識の結果としてやってくる。観照を訓練することはできない。訓練できるのは意識だけだ。観照は結果として、影として、成果として、副産物としてやってくる。意識すればするほど、ますます観照に入ってゆき、ますます観照者であるようになる。だから意識(すること)は観照を達成する方法なのだ。
それから第二段階では、今度は観照が覚醒を達成する方法になる。だから段階は三つある。意識、観照、覚醒だ。が、私たちがいるところは最下位の地点だ。つまり無意識的な活動の中にいる。無意識的な活動が私たちの心の状態なのだ。
意識(すること)を通して観照が達成できる。その観照を通して覚醒が達成できる。そして、覚醒を通して<無達成なるもの>を達成できるのだ。覚醒のあとは何もない。覚醒こそ最後のものだ。覚醒は霊的進化の終わりであり、無覚醒はその始まりだ。無覚醒とは、物質として存在している状態のことだ。だから無覚醒と無意識とは同じものではない。無覚醒とは物質のこと。物質は無意識ではなく無覚醒なのだ。
動物としての存在は無意識的な存在だ。人間としての存在は、精神的(マインド)現象・・・99%の無意識と1%の意識という存在だ。この1%の意識というのは、あなたは1%が99%の無意識を意識しているということだ。だが、もし自分自身の意識を意識するようになったとき、その1%の意識は増大しつづけ、99%の無意識は減少してゆく。
もし100%意識的になったら、あなたは観照者(sakshin)になる。観照者になったら、あなたはそこから覚醒へと飛躍できる跳躍点に達したのだ。覚醒にあっては、観照者は消え、ただ「観照」だけが残る。あなたは行為者を失い、主体を失い、自我中心的(エゴセントリック)な意識を失う。そうしたとき、自我(エゴ)なくして意識だけが残る。円周が中心なくして残る。この中心のない円周こそ覚醒だ。いかなる中心もなく、いかなる根源もなく、いかなる動機づけもなく、それがよって来たいかなる源泉もない意識・・・源泉なき意識・・・それが<覚醒>だ。
だから、あなたは物質という無覚醒の存在から覚醒へと進む。それを神性と呼ぼうと、神的と呼ぼうと何んとでも好きなように呼ぶがいい。物質と神とのあいだ、その間の違いは常に「意識」の違いなのだ。
物質的な生存は機械的・自動的に進行していくが、それは意識を伴わない繰り返しである。朝起きて顔を洗って服を着替えて食事をして電車に乗って仕事に行く・・無意識のうちにそれを続けている・・
ある日、ふと気づく。顔を今洗わないで昼にしてもいいのだ。朝食を抜いて歩いて仕事に行ってもいいのだ。仕事をやめてもいいのだ・・
「一瞬一瞬に360度の可能性が開けている」
こんなことを思い浮かべました。
観照者は消え、ただ「観照」だけが残るというのは、ただ見えているだけってことなんじゃないですかね?
無我の境地?
水の境地?
木の境地?
一休さんの超リアル木像の境地?
命を捨てた境地?
植物人間の境地?
覚醒を目指すためにはインドのヨガ修行者のような無飲食人間なった後、山の木々と共に何もぜず、何も思わず、ただ座り続けることが出来るようにならないといけないような気がしますが。。
てことでやっぱり
覚醒=植物人間ってことなんでしょうかね^^;
ここまできたら自然界の食物連鎖をはなれてしまって、もう生物であることができなくなるような気もします。
人はやっぱ、人であることが自然なんじゃないですかね?
人は感情の動物って言いますから、人らしく喜怒哀楽を求め感じて、最低限の弱肉強食(スーパーに並んでいる野菜を買って食べることも、間接的に野菜よりも強かったから食べることが出来たという意味で。牛豚鳥を買って食べることもまた)の食物連鎖を全うすることの方を望み、覚醒することを望まない方がいいような気がします。
2元性の元は美醜善悪ですよね?
善=利益、悪=不利益の発想を変えるだけでいいんじゃないですか?
不利益(損害)も悪としない。
不利益=教訓、レベルアップの元と捕らえて善に変えてしまえば、悪=善ですからね(笑)
悪は教科書
悪は飯の種(みんなの不便を解決する道具を作って売り出せば大富豪)
悪は和合の種(敵の敵は見方の理論)
悪もうまく利用し尽くせば、ちゃんと恵みをもたらしてくれるじゃないですか。
悪ってなんてすばらしい神様なんでしょう!
みたいなw
こんなん出ましたけどー。。
どうですか?
軽くなりました。
「意識する」
気がつくと無意識に「ああでもないこうでもない」
たとえわずかな時間でも
意識的にしてみます。
けど、本当は内側?が
みんな知ってるような気もするんだけど・・・。
ぶっちゃけ。
最後の最後は「○○○○○○」位の字数で全てを表すことができますよ。
でも、それに至まで、第1段階と第2に区切るのは、納得です。
(質問)***************
100%無意識=覚醒のような気が。
観照者は消え、ただ「観照」だけが残るというのは、ただ見えているだけってことなんじゃないですかね?
無我の境地?水の境地?木の境地?一休さんの超リアル木像の境地?命を捨てた境地?植物人間の境地?
覚醒を目指すためにはインドのヨガ修行者のような無飲食人間なった後、山の木々と共に何もぜず、何も思わず、ただ座り続けることが出来るようにならないといけないような気がしますが。。
てことでやっぱり覚醒=植物人間ってことなんでしょうかね^^;
ここまできたら自然界の食物連鎖をはなれてしまって、もう生物であることができなくなるような気もします。
人はやっぱ、人であることが自然なんじゃないですかね?人は感情の動物って言いますから、人らしく喜怒哀楽を求め感じて、最低限の弱肉強食(スーパーに並んでいる野菜を買って食べることも、間接的に野菜よりも強かったから食べることが出来たという意味で。牛豚鳥を買って食べることもまた)の食物連鎖を全うすることの方を望み、覚醒することを望まない方がいいような気がします。
2元性の元は美醜善悪ですよね?
善=利益、悪=不利益の発想を変えるだけでいいんじゃないですか?不利益(損害)も悪としない。不利益=教訓、レベルアップの元と捕らえて善に変えてしまえば、悪=善ですからね(笑)
悪は教科書 悪は飯の種(みんなの不便を解決する道具を作って売り出せば大富豪) 悪は和合の種(敵の敵は見方の理論)悪もうまく利用し尽くせば、ちゃんと恵みをもたらしてくれるじゃないですか。
悪ってなんてすばらしい神様なんでしょう!みたいなw
こんなん出ましたけどー。。どうですか
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>100%無意識=覚醒のような気が。
Wさんのご理解ではきっとこういうことなのでしょう。記憶としての「自意識」(自我)を、「意識」ととらえていて、覚醒したら自我がなくなるので「無意識」になるはずだと・・・。
でも前回、私が管理人さんにコメントしたように、自意識は「これが自分だ」といった自己感覚であり記憶です。それは何にも染まらない「気づき」としての実体ある純粋な意識ではありません。
>「観照者は消え、ただ観照だけが残る」というのは、ただ見えているだけってことなんじゃないですかね?
ここで和尚のいう「観照者」ですが、冒頭和尚が説明しているような意味の観照を「為している主体」ということになっています。引用しておきます。
「観照と言うのは依然として行為(アクト)だ。あなたが観照している。そこには自我がある。だから、観照という現象は主体と客体に分裂している。観照は主体と客体のあいだの関係だ」
でも最後の方で和尚が「覚醒」を説明しているところでの「観照」についての意味はちがいます。そこでは、
「覚醒にあっては、観照者は消え、ただ観照だけが残る」
と言っていますから。ここでの「観照」は、「気づきがありつつ見守っている」だけです。Wさんもそう理解されていると思います。和尚の言葉は前回もコメントしたように、その時々で違う意味を持たせることがしばしばあります。
>無我の境地?水の境地?木の境地?一休さんの超リアル木像の境地?命を捨てた境地?植物人間の境地?
「気づいて」いるので、植物人間とはいえないでしょう。水や木は気づきがあるんでしょうかね? 気づく主体(実体)があるんでしょうか。そこがポイントです。
>覚醒を目指すためにはインドのヨガ修行者のような無飲食人間なった後、山の木々と共に何もぜず、何も思わず、ただ座り続けることが出来るようにならないといけないような気がしますが。
覚醒についてのいくつかの情報で、私が信頼に足ると思っているものは、みな「違う」といっています。
>てことでやっぱり覚醒=植物人間ってことなんでしょうかね^^;
植物人間は無自覚(気づきなし)です。覚醒は100%の気づきがあります。なのでこれは誤解です。
>ここまできたら自然界の食物連鎖をはなれてしまって、もう生物であることができなくなるような気もします。
もしそうならば、悟った人や、アセンデッドマスターは人間(生物)ではなくなってしまいます。(*^-^*)
>人はやっぱ、人であることが自然なんじゃないですかね?
もちろんそうですよ。ただ人間の進化の方向性、本来のあり方、本性は「覚醒している状態」です。そして素晴らしい潜在能力をもった超存在、ひとことでいうと、<私たちは神>です。
でもいっときは、二極性の体験のなかに身を置き、様々なことを学び、魂がそれを叡智にして進化してくというコースをたどります。でもそこに居続ける必要はないです。
>人は感情の動物って言いますから、人らしく喜怒哀楽を求め感じて、最低限の弱肉強食(スーパーに並んでいる野菜を買って食べることも、間接的に野菜よりも強かったから食べることが出来たという意味で。牛豚鳥を買って食べることもまた)の食物連鎖を全うすることの方を望み、覚醒することを望まない方がいいような気がします。
これも覚醒についてと、人間という存在についての誤解からきているようです。
>2元性の元は美醜善悪ですよね?善=利益、悪=不利益の発想を変えるだけでいいんじゃないですか?
二極性を全面的に受容して、何も望まず、ものの見方を変えるだけもいいですよ。ただ覚醒を望んで進化していく道もあります。それは魂からの欲求として自然にあがってくるものです。
>不利益(損害)も悪としない。不利益=教訓、レベルアップの元と捕らえて善に変えてしまえば、悪=善ですからね(笑)悪は教科書悪は飯の種(みんなの不便を解決する道具を作って売り出せば大富豪)
悪は和合の種(敵の敵は見方の理論)悪もうまく利用し尽くせば、ちゃんと恵みをもたらしてくれるじゃないですか。悪ってなんてすばらしい神様なんでしょう!
ええ、これはこれで大賛成です。まちがったことは何もありません。
最後に私からの提案としては、<自分は神(実在)>であり、本来「全知全能が当然である」ということだけは忘れないでください。それが「最短で進化できる信念」になりますから。
ハイアーセルフ33<私たちは神である!>(*^-^*)
ありがとうございます。
でも覚醒という状態には、どうしてもまだピンと来ませんでした。
考えれば考えるほど、思考停止に陥っていきます(笑)
無神論主義的なおれ的には、
私たちは神である!
と思うよりも、
私たちは自然である!
と思う方が心地がいいです。
神=自然ということで、勘弁してください(笑)
所詮言葉文章では伝えられない
伝えられるから頑張ってみようとか、違うよそれはとか、思考は考える
だけど全て罠だよ
思考に善いも悪いもない
思考が消えた無くなった瞬間=永遠至福が解る
考えても解らないのは当然
思考が無くなったら解るんだから
楽しく生きよう
リラックスリラックス
管理人さん
記事見ずに書いてますが後で読んでみますね(テヘッ
Wさん
気が向いた時でいい
やらなくてもやっても
みんな同じ方向に向かってる
楽しくウキウキして生きるのがやっぱり気持ちいいよね!
今この瞬間のことだけ意識して生きよう
リラックスリラックス
やっぱこれ大事かな