(ハイーセルフ33さんからの投稿)
精神世界の話の中では、「心の静寂・沈黙を守る」ことの大切さがしばしば語られています。なんといっても、そうしたことについて最も詳しく、かつ的確な説明で筆頭にあげられるのが和尚ラジニーシではないでしょうか。
ラジニーシの書籍出版社のHPには、瞑想(その本質は「観照」)について和尚の講話から引用されています。http://www.sakshin.com/
以下は過去の「和尚タイムズ」(第?刊))からの抜粋です。
HPにはこの内容はありませんが、あわせてお読みいただけるとよりいっそう理解が深まると思います。
◎「見守ること」から「無心」へ
(質問)親愛なる和尚、「見守ること」は、どのようにして「無心」(ノーマインド)へと成長してゆくのでしょうか?私は自分の思考と感情を、前にも増して「見守る」ことができます。そしてそれはすばらしいと感じます。でも、「無思考」の瞬間はごくまれです。
あなたが、「瞑想とは観照することだ」と言われるのを聞くとき、自分は理解しているように感じます。しかし無心(ノーマインド)について話されるときには、それは少しも容易なことには思えません。説明していただけますか?
**************************
(和尚ラジニーシ)
瞑想はとても長きにわたる巡礼の旅だ。私が「瞑想とは観照することだ」と言うとき、それは瞑想の始まりだ。私が「瞑想とは無心(ノーマインド)だ」と言うとき、それは巡礼の旅の終結だ。観照は始まりであり、無心は達成だ。
観照は無心へと到る方法だ。
当然あなたは、観照はより容易だと感じる。それはあなたに近いからだ。だが観照は種のようなものにすぎない。それから長い待機の期間がある。待機しているだけではない。この種は芽を吹くだろう、それは茂みとなり、ある日春が来て、茂みは花を咲かせるだろう、と信頼をしていなければならない。
種をまくことは、もちろんとても容易だ。それはあなたの手の内にある。だが花をもたらすことは、とてもあなたにはおよばない。あなたは地面全体を整えることはできる。だが花はひとりでにやって来る。それがやって来るよう強いるわけにはいかない。春はあなたにはどうすることもできない。だがあなたの準備が完壁ならば、春はやって来る。それはまったく保証されている。
それは完璧にいい・・・あなたが進んでいるやり方は。観照が道であり、そしてあなたは、ときたま無思考の瞬間を感じ始めている。それらは無心の一瞥(いちべつ)だ・・・ほんの一瞬の。
根本的な法則をひとつ覚えておきなさい。一瞬でも存在しうるものは永遠にもなりうる。あなたは、一度にふたつの瞬間を与えられているのではなく、つねにひとつの瞬間を与えられている。そしてひとつの瞬間を無思考の状態に変容しうるなら、あなたは秘密を学んでいる。そうなれば妨げるものはない。ふたつめの瞬間を変えられないという理由はない。それもひとつのものとしてやって来るだろう。同じ潜在力と可能性をもって・・・。
その秘密を知るなら、あなたは、あらゆる瞬間を無心の一瞥(いちべつ)へと開きうるマスターキーを握っている。無心は最終的な段階だ。マインドが永遠に消えてなくなり、無思考の間隙(ギャップ)があなたの本来的な現実(リアリティー)となるときだ。
そうした一瞥がわずかでもやって来ているなら、それは、あなたが正しい道の上にあることを、そして正しい方法を用いていることを示している。だが、ことを急いではならない。存在はとてつもない忍耐を要求する。究極的な神秘は、とてつもない忍耐を持つ者だけに開かれる。
ひとたび人が無心の境地にあれば、自らの存在から自分を引き離しうるものなど、なにもない。無心の力以上に大きな力はない。そのような人にはどんな危害も加えられない。執着がなく、欲がなく、嫉妬がなく、怒りもない。彼のなかには何も生じえない。無心とは雲ひとつないまったく純粋な空だ。
アヌプツタ、あなたは言っている。「見守ることは、どのようにして無心へと成長してゆくのでしょう?」
本来的な法則がある・・・思考はそれ自体は生命を持たない。それは寄生物だ。あなたがそれと同一化することにより、それは生きながらえる。「私は怒っている」と言うとき、あなたは生エネルギーを怒りに注いでいる。というのも、あなたは怒りと同一化してしまっている。
だがあなたが、「私は、自分の内側のマインドのスクリーン上に映し出される怒りを見守っている」と言うときには、もはやいかなる生命も、いかなるジュースも、いかなるエネルギーも怒りに与えられていない。
もはやあなたは同一化していないので、怒りがまったく不能になり、あなたに影響を与えず、あなたを変えず、あなたに作用しないのを、あなたは見ることができる。それはまったく虚ろで死んでいる。それが通り過ぎても、鏡はきれいなまま、マインドのスクリーンは空っぼだ。
徐々に、あなたは自分の思考から抜け出し始める。それが観照と見守ることの全プロセスだ。言いかえるなら・・ゲオルギー・グルジエフはそれを「非同一化」と呼んだ・・・あなたはもはや自分の思考に同一化していない。あなたはただ超然と離れている。まるでそれが、ほかの誰かの思考のように無関心だ。あなたはそれとの関係を断ってしまった。そうして初めて、あなたはそれを見守ることができる。
見守ることには一定の距錐が必要だ。同一化していると、距離がなく、それはあまりにも近い。まるで鏡を自分の目に近づけすぎているようなもので、あなたには自分の顔を見ることができない。一定の距離が必要だ。そうして初めて、あなたは自分の顔を鏡のなかに見ることができる。
思考が近すぎると、あなたは見守ることができない。自らの思考に影響され、それに染まってしまう。怒りはあなたを怒らせ、欲はあなたを欲張りにし、色情はあなたを淫らにする。まったく距難がないからだ。それらはあまりにも近いので、あなたは自分と自分の思考がひとつだと考えてしまう。
見守ることはこの一体性を壊し、分離を生み出す。見守れば見守るほど、距離はますます大きくなる。距離が大きければ大きいほど、思考はより小さなエネルギーしか、あなたから得ることができない。それにはほかにどんなエネルギー源もない。すぐにそれらは死に、消えてゆく。そうした消え去る瞬間に、あなたは無心の最初の一瞥を得る。
アヌブツタ、あなたが感じていることは、あなたが正しい道の上にいることの、大いなるしるしだ。探求者にとっては、自分が正しい方向に動いているのかどうかが、つねに問題になる。保険はないし、確証もない。あらゆる次元が開かれている・・・どうやって正しい道を選んだらいいのだろう?
これが、人はいかに選んだらいいのかという、その方法と基準だ。・・・
どのような道を進んでいようと、どのような方法論を用いていようと、それがあなたに喜びを、さらなる繊細さを、さらなる注意深さをもたらし、計りしれない幸福感を与えるなら、それは、あなたが正しい道の上にいる、ということの唯一の証だ。もしあなたがもっと惨めに、もっと怒りっぼく、もっとエゴイステックに、もっと欲深く、もっと淫らになるなら、それはあなたが誤った道を行っているということのしるしだ。
正しい道の上では、あなたの至福感は日々さらにさらに育ってゆくだろう。そしてすばらしい感覚的経験は途方もなくサイケデリックなものに、より色彩豊かなものになるだろう・・・この世界で一度も見たことのない色彩、この世界で一度も体験したこともない芳香に・・・。そうなれは道を誤るかもしれないという恐れなしに、道を歩むことができる。
こうした内なる体験は、あなたをつねに正しい道の上に引きとどめる。内なる体験が育っているなら、それはあなたが前進しているという意味だ、ということを覚えておきなきい。いまあなたは無思考の状態をほんの数瞬し得ていない・・・それは生やさしい達成ではない。それは偉大なる成就だ。というのも、人びとは長い人生のなかで、思考のない瞬間をただの一度も知ることはないからだ。
そうした間隙(ギャップ)は育つだろう。あなたがさらに中心に定まり、さらに注意深くなるにつれ、そうした間隙はより大きくなっていく。そしてその日は遠くない。ふり向くことなく、迷うことなく進みつづけるなら。まっすぐに前進しつづけるなら、その日は遠くない。あなたは初めて感じる・・・・間隙は非常に大きくなり、数時間たっても、ひとつの思考すら生じない。いまやあなたは、無心のより大きな体験をしている。
究極の成就とは、二十四時間、あなたが無心に囲まれているときだ。それは、自分のマインドを使えないという意味ではない・・・これは無心について何も知らない人びとが言いふらしていることであり、真実ではない。無心とは、あなたがマインドを使えないという意味ではない。それはただ、マインドはあなたを使うことができない、という意味だ。
無心とはマインドが破壊されるという意味ではない。無心とはただ、マインドが脇に置かれるという意味だ。世間と意思を通じ合うことが必要なときはいつでも、あなたはそれを動かすことができる。それはあなたの召使だ。いま現在、それはあなたの主人だ。
あなたがひとりで坐っているときでさえ、それはぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃとしゃべり続けている。しかもあなたにはどうすることもできない。あなたはまったく無力そのものだ。
無心とはただ、マインドが適切な場所に置かれているということを意味する。召使であるかぎり、それはすばらしい道具だ。主人になるなら、それは実に不幸なことだ。それは危険だ。それはあなたの一生をめちゃくちゃにしてしまう。マインドは、あなたが他人と意思を通じ合いたいときの媒介にすぎない。だがあなたがひとりでいるときには、マインドは必要ない。だから使いたいときにはいつでも、それを使うことができる。
もうひとつのことを覚えておきなさい・・・マインドが何時間も沈黙したままでいると、それは新鮮に、若々しく、より創造的に、より繊細になり、休息を通して元気を回復する。
普通の人びとのマインドはおよそ三、四歳の頃に始まり、それから休日もないまま七〇年、八〇年もの間、継続しつづける。彼らがあまり創造的になることができないのは当然だ。彼らは疲れきっている。くだらないものごとに疲れ果てている。世界中の何百万もの人びとは、いかなる創造性もないままに生きる。創造性は、最大の至福に満ちた体験のひとつだ。だが彼らのマインドは疲れ果てている。彼らはエネルギーが満ちあふれている状態ではいない。
無心の人はマインドを休息させ、それをエネルギーに満ちた、この上もなく繊細な、命じられたときにはいつでも活動に取りかかれるものにとどめておく。無心を体験した人びと、彼らのことばが独自の魔力(マジック)を持ち始めるのは偶然ではない。
彼らが自分のマインドを使うとき、それにはカリスマがあり、それには磁力がある。それには途方もない自発性と、陽が昇るまえの、早朝の露のしずくの新鮮さがある。それにマインドは、表現と創造性のため、自然界でもっとも進化した媒体だ。
だから、瞑想の人は・・・、別のことばで言えば、無心の人は、散文でさえも詩に変えてしまう。いかなる努力もなく、彼の言葉は深い威厳に満ちるようになるので、どのような論証も必要ない。それそのものが論証になる。その言葉がはらんでいる力が自明の真実となる。論理や、教典からのどのような支持も必要ない。無心の人のことばには本来の確信が備わっている。それを受け取り、聴く準備があるなら、あなたはそれを自らのハートに感じる。自明の真実を・・・。
時代をさかのぼっても、ゴータマ・ブッダが自分の弟子に反駁されたことは一度もなかった。マハヴィーラも、モーゼも、イエスもなかった。彼らのことばそのもののなかに、彼らのまさに臨在のなかに、あなたを納得させる何かがあった。あなたを改宗させようという努力はこれっぽっちもないのに、あなたは改宗してしまう。
偉大なマスターたちのひとりとして、伝道師である者はいなかった。彼らは、誰ひとり改宗させようなどとはしなかったが、何百万もの人びとを改宗させてしまった。
これは奇跡だ。だが、その奇跡は休息したマインド、いつもエネルギーに満ちていて、ごくまれにしか使われないマインドゆえに可能になる。 あなた方に語りかけるとき、私はマインドを使わなければならない。ほとんど一日中、自分の部屋に坐っているとき、私はマインドのことはいっさい忘れる。
私はただ純粋な沈黙だ・・・そのときマインドは休息している。あなた方に語りかけるとき、それが私がマインドを使う唯一の機会だ。ひとりでいるとき、私は完全にひとりだから、マインドを使う必要はない。
アヌブツタ、あなたは言っている。「あなたが、瞑想とは観照することだ、と言われるのを聞くとき、自分は理解しているように感じます。しかし、あなたが無心について話されるときには、それは少しも容易なことには思えません」
容易なことに思えなくて当然だ。なぜなら、それはあなたの未来の可能性だからだ。あなたはすでに瞑想を始めている。それは初歩の段階にあるかもしれないが、あなたは私を理解しうるような、その一定の体験をしている。だが瞑想を理解できるのなら、まったく心配しなくていい。
瞑想は確実に無心へと育ってゆく。地図がなくても、ガイドがいなくても、すべての川が海へと流れてゆくように・・・。すべての川はひとつの例外もなく最後には海へと行き着く。すべての瞑想はひとつの例外もなく最後には無心の境地へと行き着く。
だがガンジスがヒマラヤのなかにあって、山々や谷の間をさまよっているとき、海とは何かをまったく知らず、その存在を想像することもできないのは自然なことだ。だがそれは大洋に向けて進んでいる。
なぜなら、水にはつねに最も低い場所を見いだす力が備わっているからだ。そして海は最も低い場所だ・・だから川はヒマラヤの峰々で生まれると、すぐにより低い場所へと動きはじめ、最後には海を見いだすことになる。
瞑想のプロセスはそれとはちょうど反対だ。それはより高い峰々に向けて昇ってゆき、そして究極の頂が無心だ。「無心」は単純な言葉だが、それはまさに光明を、解脱を、すべての束薄からの自由を、不死と不滅性の体験を意味している。
それらは大げさなことばであり、私はあなた方を恐れさせたくないので、だからこの単純なことば、「無心」を使っている。あなたはマインドなら知っている。だから、このマインドが機能していない状態を想像することもできる。
このマインドが機能しないようになれば、あなたは宇宙のマインド、普遍的なマインドの一部になる。普遍的なマインドの一部になるとき、あなたの個人的なマインドはすばらしい召使として機能する。それは主人を認識し、普遍的マインドからいまだ個人的なマインドにつながれている人々にニュースをもたらす。
私があなた方に話しているとき、実際には宇宙が私を使っている。私のことばは私のことばではない。それらは普遍的な真理に属している。それらが力(パワー)をもち、カリスマをもち、不思議な力(マジック)をもっているのもそのためだ。 (Satyam,Shivam,Sundram,#7から抜粋)
精神世界の話の中では、「心の静寂・沈黙を守る」ことの大切さがしばしば語られています。なんといっても、そうしたことについて最も詳しく、かつ的確な説明で筆頭にあげられるのが和尚ラジニーシではないでしょうか。
ラジニーシの書籍出版社のHPには、瞑想(その本質は「観照」)について和尚の講話から引用されています。http://www.sakshin.com/
以下は過去の「和尚タイムズ」(第?刊))からの抜粋です。
HPにはこの内容はありませんが、あわせてお読みいただけるとよりいっそう理解が深まると思います。
◎「見守ること」から「無心」へ
(質問)親愛なる和尚、「見守ること」は、どのようにして「無心」(ノーマインド)へと成長してゆくのでしょうか?私は自分の思考と感情を、前にも増して「見守る」ことができます。そしてそれはすばらしいと感じます。でも、「無思考」の瞬間はごくまれです。
あなたが、「瞑想とは観照することだ」と言われるのを聞くとき、自分は理解しているように感じます。しかし無心(ノーマインド)について話されるときには、それは少しも容易なことには思えません。説明していただけますか?
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(和尚ラジニーシ)
瞑想はとても長きにわたる巡礼の旅だ。私が「瞑想とは観照することだ」と言うとき、それは瞑想の始まりだ。私が「瞑想とは無心(ノーマインド)だ」と言うとき、それは巡礼の旅の終結だ。観照は始まりであり、無心は達成だ。
観照は無心へと到る方法だ。
当然あなたは、観照はより容易だと感じる。それはあなたに近いからだ。だが観照は種のようなものにすぎない。それから長い待機の期間がある。待機しているだけではない。この種は芽を吹くだろう、それは茂みとなり、ある日春が来て、茂みは花を咲かせるだろう、と信頼をしていなければならない。
種をまくことは、もちろんとても容易だ。それはあなたの手の内にある。だが花をもたらすことは、とてもあなたにはおよばない。あなたは地面全体を整えることはできる。だが花はひとりでにやって来る。それがやって来るよう強いるわけにはいかない。春はあなたにはどうすることもできない。だがあなたの準備が完壁ならば、春はやって来る。それはまったく保証されている。
それは完璧にいい・・・あなたが進んでいるやり方は。観照が道であり、そしてあなたは、ときたま無思考の瞬間を感じ始めている。それらは無心の一瞥(いちべつ)だ・・・ほんの一瞬の。
根本的な法則をひとつ覚えておきなさい。一瞬でも存在しうるものは永遠にもなりうる。あなたは、一度にふたつの瞬間を与えられているのではなく、つねにひとつの瞬間を与えられている。そしてひとつの瞬間を無思考の状態に変容しうるなら、あなたは秘密を学んでいる。そうなれば妨げるものはない。ふたつめの瞬間を変えられないという理由はない。それもひとつのものとしてやって来るだろう。同じ潜在力と可能性をもって・・・。
その秘密を知るなら、あなたは、あらゆる瞬間を無心の一瞥(いちべつ)へと開きうるマスターキーを握っている。無心は最終的な段階だ。マインドが永遠に消えてなくなり、無思考の間隙(ギャップ)があなたの本来的な現実(リアリティー)となるときだ。
そうした一瞥がわずかでもやって来ているなら、それは、あなたが正しい道の上にあることを、そして正しい方法を用いていることを示している。だが、ことを急いではならない。存在はとてつもない忍耐を要求する。究極的な神秘は、とてつもない忍耐を持つ者だけに開かれる。
ひとたび人が無心の境地にあれば、自らの存在から自分を引き離しうるものなど、なにもない。無心の力以上に大きな力はない。そのような人にはどんな危害も加えられない。執着がなく、欲がなく、嫉妬がなく、怒りもない。彼のなかには何も生じえない。無心とは雲ひとつないまったく純粋な空だ。
アヌプツタ、あなたは言っている。「見守ることは、どのようにして無心へと成長してゆくのでしょう?」
本来的な法則がある・・・思考はそれ自体は生命を持たない。それは寄生物だ。あなたがそれと同一化することにより、それは生きながらえる。「私は怒っている」と言うとき、あなたは生エネルギーを怒りに注いでいる。というのも、あなたは怒りと同一化してしまっている。
だがあなたが、「私は、自分の内側のマインドのスクリーン上に映し出される怒りを見守っている」と言うときには、もはやいかなる生命も、いかなるジュースも、いかなるエネルギーも怒りに与えられていない。
もはやあなたは同一化していないので、怒りがまったく不能になり、あなたに影響を与えず、あなたを変えず、あなたに作用しないのを、あなたは見ることができる。それはまったく虚ろで死んでいる。それが通り過ぎても、鏡はきれいなまま、マインドのスクリーンは空っぼだ。
徐々に、あなたは自分の思考から抜け出し始める。それが観照と見守ることの全プロセスだ。言いかえるなら・・ゲオルギー・グルジエフはそれを「非同一化」と呼んだ・・・あなたはもはや自分の思考に同一化していない。あなたはただ超然と離れている。まるでそれが、ほかの誰かの思考のように無関心だ。あなたはそれとの関係を断ってしまった。そうして初めて、あなたはそれを見守ることができる。
見守ることには一定の距錐が必要だ。同一化していると、距離がなく、それはあまりにも近い。まるで鏡を自分の目に近づけすぎているようなもので、あなたには自分の顔を見ることができない。一定の距離が必要だ。そうして初めて、あなたは自分の顔を鏡のなかに見ることができる。
思考が近すぎると、あなたは見守ることができない。自らの思考に影響され、それに染まってしまう。怒りはあなたを怒らせ、欲はあなたを欲張りにし、色情はあなたを淫らにする。まったく距難がないからだ。それらはあまりにも近いので、あなたは自分と自分の思考がひとつだと考えてしまう。
見守ることはこの一体性を壊し、分離を生み出す。見守れば見守るほど、距離はますます大きくなる。距離が大きければ大きいほど、思考はより小さなエネルギーしか、あなたから得ることができない。それにはほかにどんなエネルギー源もない。すぐにそれらは死に、消えてゆく。そうした消え去る瞬間に、あなたは無心の最初の一瞥を得る。
アヌブツタ、あなたが感じていることは、あなたが正しい道の上にいることの、大いなるしるしだ。探求者にとっては、自分が正しい方向に動いているのかどうかが、つねに問題になる。保険はないし、確証もない。あらゆる次元が開かれている・・・どうやって正しい道を選んだらいいのだろう?
これが、人はいかに選んだらいいのかという、その方法と基準だ。・・・
どのような道を進んでいようと、どのような方法論を用いていようと、それがあなたに喜びを、さらなる繊細さを、さらなる注意深さをもたらし、計りしれない幸福感を与えるなら、それは、あなたが正しい道の上にいる、ということの唯一の証だ。もしあなたがもっと惨めに、もっと怒りっぼく、もっとエゴイステックに、もっと欲深く、もっと淫らになるなら、それはあなたが誤った道を行っているということのしるしだ。
正しい道の上では、あなたの至福感は日々さらにさらに育ってゆくだろう。そしてすばらしい感覚的経験は途方もなくサイケデリックなものに、より色彩豊かなものになるだろう・・・この世界で一度も見たことのない色彩、この世界で一度も体験したこともない芳香に・・・。そうなれは道を誤るかもしれないという恐れなしに、道を歩むことができる。
こうした内なる体験は、あなたをつねに正しい道の上に引きとどめる。内なる体験が育っているなら、それはあなたが前進しているという意味だ、ということを覚えておきなきい。いまあなたは無思考の状態をほんの数瞬し得ていない・・・それは生やさしい達成ではない。それは偉大なる成就だ。というのも、人びとは長い人生のなかで、思考のない瞬間をただの一度も知ることはないからだ。
そうした間隙(ギャップ)は育つだろう。あなたがさらに中心に定まり、さらに注意深くなるにつれ、そうした間隙はより大きくなっていく。そしてその日は遠くない。ふり向くことなく、迷うことなく進みつづけるなら。まっすぐに前進しつづけるなら、その日は遠くない。あなたは初めて感じる・・・・間隙は非常に大きくなり、数時間たっても、ひとつの思考すら生じない。いまやあなたは、無心のより大きな体験をしている。
究極の成就とは、二十四時間、あなたが無心に囲まれているときだ。それは、自分のマインドを使えないという意味ではない・・・これは無心について何も知らない人びとが言いふらしていることであり、真実ではない。無心とは、あなたがマインドを使えないという意味ではない。それはただ、マインドはあなたを使うことができない、という意味だ。
無心とはマインドが破壊されるという意味ではない。無心とはただ、マインドが脇に置かれるという意味だ。世間と意思を通じ合うことが必要なときはいつでも、あなたはそれを動かすことができる。それはあなたの召使だ。いま現在、それはあなたの主人だ。
あなたがひとりで坐っているときでさえ、それはぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃとしゃべり続けている。しかもあなたにはどうすることもできない。あなたはまったく無力そのものだ。
無心とはただ、マインドが適切な場所に置かれているということを意味する。召使であるかぎり、それはすばらしい道具だ。主人になるなら、それは実に不幸なことだ。それは危険だ。それはあなたの一生をめちゃくちゃにしてしまう。マインドは、あなたが他人と意思を通じ合いたいときの媒介にすぎない。だがあなたがひとりでいるときには、マインドは必要ない。だから使いたいときにはいつでも、それを使うことができる。
もうひとつのことを覚えておきなさい・・・マインドが何時間も沈黙したままでいると、それは新鮮に、若々しく、より創造的に、より繊細になり、休息を通して元気を回復する。
普通の人びとのマインドはおよそ三、四歳の頃に始まり、それから休日もないまま七〇年、八〇年もの間、継続しつづける。彼らがあまり創造的になることができないのは当然だ。彼らは疲れきっている。くだらないものごとに疲れ果てている。世界中の何百万もの人びとは、いかなる創造性もないままに生きる。創造性は、最大の至福に満ちた体験のひとつだ。だが彼らのマインドは疲れ果てている。彼らはエネルギーが満ちあふれている状態ではいない。
無心の人はマインドを休息させ、それをエネルギーに満ちた、この上もなく繊細な、命じられたときにはいつでも活動に取りかかれるものにとどめておく。無心を体験した人びと、彼らのことばが独自の魔力(マジック)を持ち始めるのは偶然ではない。
彼らが自分のマインドを使うとき、それにはカリスマがあり、それには磁力がある。それには途方もない自発性と、陽が昇るまえの、早朝の露のしずくの新鮮さがある。それにマインドは、表現と創造性のため、自然界でもっとも進化した媒体だ。
だから、瞑想の人は・・・、別のことばで言えば、無心の人は、散文でさえも詩に変えてしまう。いかなる努力もなく、彼の言葉は深い威厳に満ちるようになるので、どのような論証も必要ない。それそのものが論証になる。その言葉がはらんでいる力が自明の真実となる。論理や、教典からのどのような支持も必要ない。無心の人のことばには本来の確信が備わっている。それを受け取り、聴く準備があるなら、あなたはそれを自らのハートに感じる。自明の真実を・・・。
時代をさかのぼっても、ゴータマ・ブッダが自分の弟子に反駁されたことは一度もなかった。マハヴィーラも、モーゼも、イエスもなかった。彼らのことばそのもののなかに、彼らのまさに臨在のなかに、あなたを納得させる何かがあった。あなたを改宗させようという努力はこれっぽっちもないのに、あなたは改宗してしまう。
偉大なマスターたちのひとりとして、伝道師である者はいなかった。彼らは、誰ひとり改宗させようなどとはしなかったが、何百万もの人びとを改宗させてしまった。
これは奇跡だ。だが、その奇跡は休息したマインド、いつもエネルギーに満ちていて、ごくまれにしか使われないマインドゆえに可能になる。 あなた方に語りかけるとき、私はマインドを使わなければならない。ほとんど一日中、自分の部屋に坐っているとき、私はマインドのことはいっさい忘れる。
私はただ純粋な沈黙だ・・・そのときマインドは休息している。あなた方に語りかけるとき、それが私がマインドを使う唯一の機会だ。ひとりでいるとき、私は完全にひとりだから、マインドを使う必要はない。
アヌブツタ、あなたは言っている。「あなたが、瞑想とは観照することだ、と言われるのを聞くとき、自分は理解しているように感じます。しかし、あなたが無心について話されるときには、それは少しも容易なことには思えません」
容易なことに思えなくて当然だ。なぜなら、それはあなたの未来の可能性だからだ。あなたはすでに瞑想を始めている。それは初歩の段階にあるかもしれないが、あなたは私を理解しうるような、その一定の体験をしている。だが瞑想を理解できるのなら、まったく心配しなくていい。
瞑想は確実に無心へと育ってゆく。地図がなくても、ガイドがいなくても、すべての川が海へと流れてゆくように・・・。すべての川はひとつの例外もなく最後には海へと行き着く。すべての瞑想はひとつの例外もなく最後には無心の境地へと行き着く。
だがガンジスがヒマラヤのなかにあって、山々や谷の間をさまよっているとき、海とは何かをまったく知らず、その存在を想像することもできないのは自然なことだ。だがそれは大洋に向けて進んでいる。
なぜなら、水にはつねに最も低い場所を見いだす力が備わっているからだ。そして海は最も低い場所だ・・だから川はヒマラヤの峰々で生まれると、すぐにより低い場所へと動きはじめ、最後には海を見いだすことになる。
瞑想のプロセスはそれとはちょうど反対だ。それはより高い峰々に向けて昇ってゆき、そして究極の頂が無心だ。「無心」は単純な言葉だが、それはまさに光明を、解脱を、すべての束薄からの自由を、不死と不滅性の体験を意味している。
それらは大げさなことばであり、私はあなた方を恐れさせたくないので、だからこの単純なことば、「無心」を使っている。あなたはマインドなら知っている。だから、このマインドが機能していない状態を想像することもできる。
このマインドが機能しないようになれば、あなたは宇宙のマインド、普遍的なマインドの一部になる。普遍的なマインドの一部になるとき、あなたの個人的なマインドはすばらしい召使として機能する。それは主人を認識し、普遍的マインドからいまだ個人的なマインドにつながれている人々にニュースをもたらす。
私があなた方に話しているとき、実際には宇宙が私を使っている。私のことばは私のことばではない。それらは普遍的な真理に属している。それらが力(パワー)をもち、カリスマをもち、不思議な力(マジック)をもっているのもそのためだ。 (Satyam,Shivam,Sundram,#7から抜粋)