秩父地方には岩を祀った形跡のある神社が多い。その中でも先日、訪れた小野原稲荷神社は印象的だった。
当社は秩父市荒川小野原に鎮座している。秩父市街地から彩甲斐街道を山梨方面に向かうと道の駅を過ぎてから荒川にかかる橋がある。渡るとすぐに、街道に面して朱塗りの鳥居が立っているが、これが当社の一の鳥居だ。山間部にしては大きくて立派と言えるだろう。
稲荷神社という神社は無数にあるが、創祀が中世以前にさかのぼるものはほとんどない。したがって普通なら稲荷という神社にはあまり興味をひかれないのだが、当社は付近の環境に「これは古社ではないか。」と感じさせるものがあった。就中、辺りにただよう清浄な空気感が紛れもなく古社のものである。思わずそれに惹かれて参詣した。
一の鳥居
一の鳥居から眺めても、正面にまだ神社らしいものは見えない。分かるのはただ、奥のほうで道が山に取り付き、そこでカーブしながら上り坂がはじまる様子だけだ。こういう意外性ある奥行き感がまた古社っぽい。
社頭のふんいき
社地は一ノ鳥居から300mほど入ったところにあるが、社頭から眺めた時の印象はかなり凡庸だ。山の斜面にあるため、境内がそれほど広くないことが察せられるし、何度か火災に遭ったせいかあまり古木が見えないせいもあるだろう。鉄筋コンクリート造りの社殿も、正直に言っていささか興ざめする。ただし、看板にある由緒を読むと、やはり古社だという直感の正しかったことが分かる。
『参拝のしおり』にある由緒を引用する。
「今からおよそ千三百年ほど昔、孝徳天皇の大化四年という年は長い間、雨が降らなかったので、農作物が枯れそうになりました。そこで人々は高根山の中腹に集まり大きな岩を神座として雨乞いをしました。するとたちまち雨が降ってきたので人々は生き返ったような思いがしました。そして秋には豊年万作の喜びにわきました。
そこで人々は神の恵みに感謝して社(やしろ)を建て、この地の鎮守の神として敬いました。後、文禄三年(四百年ほど昔)現社地に遷座しました。こうして宝暦七年(二百四十ほど昔)伏見稲荷神社から正一位稲荷大明神の称号を拝受しました。
そして明治元年、稲荷神社と改称しました。昭和三十六年に火災のため旧社殿が焼失したので社殿を再建しましたが、昭和四十九年再び原因不詳の火災により全焼しました。現社殿は昭和五十年に造営したものです。」
全体にこの由緒には妙に気を惹くものがある。秩父地方にある古い神社の社伝には日本武尊の登場するものが多いが、この由緒にはそれがないことや、大化四年(648)というのも秩父地方にとってとりたてて意味をなさない年号であることなど、あまり紋切り型ではないところがかえってリアルである。高根山の中腹に祀ったという巨岩のことも磐座祭祀を思わせるし、とにかくこれを読めば明らかに古社だと了解される。
社頭からつづく石段は比較的緩やかだが、それが直角に折れると、南面する社殿の前まではかなり急になる。そして後者の途中、明神鳥居の向かって右側に、とても独特な曲面をもつ石垣がある。
反り返った石垣
同上
同上
同上
同上
宮屋根の反りに似ていることから、この石垣の勾配を宮勾配(扇の勾配)と呼ぶそうだが、私はこれまで他の場所でこれに似たものに出合った記憶がない。どことなく古代ローマの遺跡のような存在感があって、すごいインパクトだ。享保18年に築造されたそうだが、この年は前年の虫害によりひどい飢饉に襲われた。そこで当社は米穀を施して棄民の救済にあたり、このため人々は神恩に感謝し、進んでこの仕事に就いたのでたちまち完成したという。
当社々殿
上に引用した由緒にもあったとおり、当社は火災に遭っため、現在の社殿は昭和五十年に建築された鉄筋コンクリート製のまだ新しいものである。ちなみに、鉄筋コンクリート製の社殿がもっとも似合う神社は稲荷神社だと思う。
看板
さて、当社の濫觴と伝わる「神座として雨乞いの行われた大きな岩」はどこだろう、と思っていると、上のような看板が見つかる。さっそく磐座を期待してこの奥社に向かう。社殿の左手から細い道を登って5分ほどのところだ。
奥社
奥社内部
奥社があるのは社殿背後の尾根が突起状に高まったところで、一の鳥居の辺りから眺めるとちょっと神体山を思わすものがある。
鳥居と石標の間にある高まりが奥社のある地点
しかし、この奥社のところに岩石らしきものは見当たらなかった。そこでこの宮の前を通り過ぎて、同じ道をもう少したどると、尾根に沿って横たわる枕状の大きな岩の露頭に出合う。大きすぎてとてもカメラには収まらなかったが、これがかつての磐座かもしれない。
磐座? とても気になる岩の露頭
同上
同上
同上
岩の近くはたまたま用材林が伐採されていて見晴らしが利いた。武甲山がくっきりと眺められてハッとさせられる。あるいはこの岩は、この山を遙拝する祭祀と何か関係があったかもしれない。
岩の近くから眺める武甲山
同上
武甲山と言えば秩父神社の神体山だが、当社の祭神については諸説ある中で八意思金神の子、天下春命とするものがある(現在の公式の祭神は、八意思兼命と知知夫彦)。天下春命は武蔵国多摩郡や相模国愛甲郡の式内社の小野神社でも祀られているが、そうすると当社の鎮座地である小野原の「小野」も、こうしたことと関係があるかもしれない。
秩父神社
【小野原稲荷神社データ】
祭神は宇迦之御魂命、大宮比売命、神倭磐余彦命
由緒は上に引用した通りだが、当社は中世期にも栄えていたらしく、そのことが分かる「例大祭の由来」を『参拝のしおり』から引用する。
「今からおよそ八百年ほど昔、源頼朝は畠山重忠に命じて建久三年正月二十八日当社に参詣させ、天下太平をお祈りさせました。じつはその数日前、一月二十一日に、平忠光が頼朝の暗殺を企てて捉えられる、という事件が起こったのです。それで頼朝は神のご加護を祈ったものと思われます。その祈りが神に通じたものか、頼朝はその年の七月十二日には征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開くことができました。
それから毎年家臣をつかわして当社に参詣させたということです。こうしたゆかりで正月二十八日を祭の日と定めたと言われます。〈中略〉昭和十六年頃から例大祭は三月二十八日と定められました。」