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(14)伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その弐)】

2010年11月18日 01時00分02秒 | 伊勢津彦

 ★「伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)】酒見神社(その壱)」の続き

 上の1~3を総合すると、伊勢とつながりが強い酒見神社いったいの地域は、「裳咋モクイ臣」を介して、阿閉アエ氏の本貫地のあった伊賀国阿拝アエ郡と通底することになる。

 阿拝郡には穴石神社という式内社があった。とうがい式内社については有力な論社が2つあり、1つは三重県伊賀市石川にある穴石神社で、もう一つは同市柘植町にある都美恵神社だが、私は後者のほうがほんらいの式内社であると考えていることはすでに述べた(「伊勢津彦捜しは神社から【都美恵神社】」参照)。


 三重県伊賀市柘植町の都美恵神社は、式内・穴石神社の後裔社だろう。

伊賀市石川の穴石神社

 

石川の穴石神社は式内社ではないとおもうが、
その風致にはひかれるものがある。

 現在の都美恵神社があるのは伊賀市柘植町であり、『和名抄』の「柘植郷」はこのふきんにあったと考えられる。伊勢津彦捜しは神社から【伊勢命神社(4/4)】」でも述べたように、天平勝宝元年(749)の『伊賀国阿拝郡拓殖郷長解』には、拓殖郷の人として石部万麻呂、石部石村、石部果安麻呂という3名の磯部氏が載っている(「磯部」は「石部」にも作る。)。『姓氏家系事典』によれば、この3名も裳咋氏と同じ敢磯部であるという。

 ここでおもい出してほしいのは、『伊勢国風土記』逸文で穴志アナシの社にいた伊勢津彦が石で城を築いて立てこもっていたところ、そこに阿倍志比古アベシヒコが来て奪おうとしたが、勝つことができなかったという伝承である。


三重県伊賀市一宮の敢国アエクニ神社

同上
敢国神社は、伊賀国阿拝郡に登載のある式内大社で、伊賀国一宮。
現在の祭神は大彦命だが、ほんらいは阿倍志比古を祀っていたという説もある。

 

 式内・穴石神社はこの伝承に登場する「穴志の社」のことで、阿倍志比古は阿閉アエ氏(=敢アエ臣)の祖神だ。柘植郷は機内から東海方面に出る際の交通の要衝で、鈴鹿越えをする際の関門にあたっている。この伝承は機内勢力の先駆けであった阿閉氏の祖先が、伊賀を通って東海方面に進出しようとした際、柘植郷にいた土着勢力から強い抵抗を受けた記憶を伝えるものだろう。この伝承で阿倍志比古は、伊勢津彦に敗れたことになっているが、実際のヤマト王権は、雄略朝の頃にはとっくに関東まで勢力を広げていたのであり、柘植郷にいた土着民たちも、その頃には機内勢力に屈し、阿閉氏の支配下に入っていたはずである。

 磯部たちの先祖は古くから伊勢地方に土着していた海民であったが、漁労航海の技術に習熟していたため、王権の支配下に入ってからは「磯部」として統括されるようになった。古文献には磯部氏の名前がかなり多く残っており、彼らが海部や山部に匹敵する大集団だったことをうかがわす。
 磯部たちは近江、隠岐、讃岐、美作、佐渡などにもいたが、とくに東日本方面への分布が顕著であり、尾張、遠江、駿河、伊豆、相模、下総、常陸、美濃、信濃、上野などに磯部氏の人名や、磯部郷の存在がみとめられる。『姓氏家系事典』はこのことについて、「磯部はけだし海部と東西相対せしが如し。すなわち海部漁民は安曇氏これを率い、本邦西部に多く、これ(=磯部)は専ら東部に活動せり。しかしてその本拠は伊勢にして、伊勢に最も多きが故にまた伊勢部と呼ばれしものと考えらる。」と述べている。

 伊勢は畿内から東進してきた勢力が初めて海に出会う土地で、海路で東日本に進出する際にはその発進港となる。伊勢にいた磯部たちはその航海技術を買われて、ヤマト王権が海路で東国を目指す際の足になる機会が多かったろう。彼らが東日本に多く分布している理由はこれで説明できるとおもう。

 いっぽう、伊勢津彦の伝承も東日本に多い。しかも彼の伝承が残る国には磯部氏の存在がみとめられるケースが多いのである。伊勢津彦の本拠地であった伊勢が、磯部たちの本拠地でもあったことや、伊勢津彦を祀る穴石神社の所在地、伊賀国阿拝アエ郡柘植郷に磯部氏がいたことは上述のとおりだが、他にも次のような例がある。

 信濃は『伊勢国風土記』逸文の割註で、天日別命に敗れた伊勢津彦が逃れ去ったとされる土地だが、更級郡には『和名抄』の磯部郷があった。また、『姓氏家系事典』によれば後世、信濃には磯部姓の者が多かったという。ちなみに信濃は海が全くない土地だが、上代に海人族が多く活動していたことが特記される。

 相模国造は『旧事本紀』に、武蔵国造の祖である伊勢都彦命の三世の孫、弟武彦から出たとされている。相模には『寧楽遺文』に収められた天平十年の文書の中に「磯部白髪」の名があり、また、箱根神社の古鐘にある永仁四年の銘には「磯部安弘」の名がある。
 武蔵には『新編武蔵国風土記』の幸手宿村条に「磯部氏代々名主役を務む ── 」とあり、また、武蔵国一宮である氷川神社の社人には磯部氏がいたことがわかっている
。氷川神社といえば、古代において武蔵国造が奉斎した神社として知られる。

埼玉県大宮市高鼻町の氷川神社

氷川神社は武蔵国足立郡に登載のある式内明神大社であり、武蔵国一宮。
武蔵国造が奉斎した神社であり、
鎮座地は国造の居館があった場所と言われる。

氷川神社の神池

 

  こうしてみると巨視的にみれば、伊勢津彦の伝承の分布と、磯部氏のそれはよく重なるようにみえる。そして私はこうした状況証拠から、「伊勢津彦の信仰はもともと、古くから伊勢地方にいた海民たちのものであり、彼らが「磯部」として王権から統括されるようになってからも、こうした民間信仰は彼らの間に残りつづけた。磯部たちはヤマト王権が東国方面に勢力を拡大しようとした際、その海上輸送を担ったので、王権勢力の膨張とともに彼らの中で東国に居住する者たちが増えていった。これに伴い、伊勢津彦の信仰も東国方面に伝播した。信濃や相模などに残る伊勢津彦の伝承はこうして生じたものである。」というような見通しを立てている。


 ちなみに奈良期以降のわが国は、官道としてもっぱら陸路を重視するようになったため、海路の役割は後退していったが、律令制の衰退とともに再び海上交通は盛んとなる。こうした動きの中で中世期になると、伊勢神宮の祇官の活躍により、伊勢信仰は海上ルートを通じて諸国に伝播するようになったが、御厨ミクリヤの分布からいって、その伝播先は西日本よりも東日本のほうが圧倒的に多かった。伊勢津彦の信仰も、古代においてある程度これと似たような動きをみせていたのではないか。


★「伊勢津彦捜しは神社から【伊勢と磯部(2/2)酒見神社(その参)】」に続く。 

 


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