神社の世紀

 神社空間のブログ

神社とは何か(6)

2012年08月19日 23時41分37秒 | 神社一般

★「神社とは何か(5)」のつづき

 「場所」とは何か。 

 まず、「場所」と「位置」の違いから。 

 以前、ここでも紹介したが、植島啓司は『日本の聖地ベスト100』で、それまで定位置をもたなかった在来信仰による祭祀の場が、神籬や磐座のような地面の定着物を祭祀の対象とすることで固定化され、同一地点で反復して行われるようになったことが神社発生の契機であるとした。ようするに「神社=在来信仰の祭祀を行う定まった場所」という見解である。ちなみに、戦前の津田左右吉が書いた『日本古典の成立』にも、神社とは自然発生的に成立した、定常的に祭祀・呪術の行われる「場所」だとしている箇所があるので、こうした神社理解にはそれなりの歴史がある。 

 ただし、議論の趣旨から言って植島は、「場所」という言葉をたんに「地表上の正確な地点」という意味で使っている感じがする。そのような「場所」は情報値として緯度と経度しかもっていないので、「位置」と言い換えても差し支えないだろう。しかし、「位置」は「場所」ではない。「場所」とは、「位置」と、そこにあるもろもろの事物、例えば神社の場合で言うと神籬とか磐座とか社殿の建物とかに人間の活動が関係し、それによって意味が付着した状態になったものを言う(レナード・ウルフは『場所の現象学』で、「場所」の個性を構成するこうした「位置・活動・意味」の3点セットを、絵画におけるキャンバス・絵の具・画題になぞらえている。)。

 例えば、単なる住所は「位置」であるが、それが自分の生家のものであれば「場所」となる。

 ただし、生家はかなり個人的な「場所」であるが、その他にも集団的な「場所」である「ムラ」、大衆的な「場所」である「ディズニーランド」、国民的な「場所」である「国家」などがある。
 神社という「場所」も、それが「場所」である限り、これらいずれかの主体によって構造化されているはずだが、その特定はけっこう難しい。例えば神社は寺院と違い、どちらかというと個人の精神的な救済よりも、共同体などの社会集団の共通利益を擁護する性質が強い。そしてこうしたことは、特にある集落で古くから祀られてきたいかにも「村の鎮守さま」然とした神社に良く当てはまる。したがって、神社という「場所」は、基本的には地縁的集団によるものだという感じがする。

 しかし、例えば出雲大社や大神神社のように他府県にも熱心な信者がいるような、信仰圏の非常に広い神社の場合、もはや地縁単位の集団による「場所」としてだけでは捉えきれないはずである。また、天皇家の氏神で、かつては皇室以外の参拝ができなかった伊勢神宮は、普通の神社の場合のようには地元の地縁的な共同体とつながりがあるとは思えない。しかも伊勢神宮は現在でも近代以降のナショナリズムの記憶を引きずっており、国家的規模の「場所」として考えられる側面もある。が、そのいっぽうで、江戸期末から明治初期にかけて盛んであった「伊勢詣り」などは、信仰というより庶民のレジャーという色彩が強かったと言うが、今でもおかげ横丁の雑踏の中にはそうした大衆的な「場所」のふんいきも漂っている。

 いずれにしても、神社が主体のどのレベルによって構造化される「場所」であるか、という問題にはこれ以上、深入りしないことにする。それは知識社会学が取り組むような問題であり、あまりに深く追求すれば「神社とは何か」という問題からはそれてしまうだろう。繰り返しになるが、神社というものの古くからのありようを考えると、この「場所」は基本的には大字単位程度の地縁的集団によるものと考えるのが一番、しっくりする。一部の有名神社を除けば、だいたいそれを標準と考えて差し支えないのではないか。そこでこの場はとりあえず、神社とはそのような集団による「場所」ということにして話を進める

 

神社とは何か(7)」につづく

 

 

 



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