神社の世紀

 神社空間のブログ

神社とは何か(7)

2012年09月02日 19時36分54秒 | 神社一般

★「神社とは何か(6)」のつづき 

 地縁集団的な「場所」としての神社について掘り下げてみる。 

 宮本常一の有名な『忘れられた日本人』の冒頭には、対馬にある伊奈の集落で、神社にある建物の中に村中の主立った者たちが集まって泊まり込みをしながら寄り合いをし、村内の重要な決定をしてゆく様子が描かれている。

 「伊奈の村は対馬も北端に近い海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二日目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄り合いがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。〈中略〉いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話し合っている。雑談をしているようにみえたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得がいくまで何日でも話し合う。はじめには一同があつまって区長から話をきくと、それぞれの地域組でいろいろにはなしあって区長のところにその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループへもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとって夜も昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。」
 ・宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫p11~14 

 宮本は伊奈の区有文書を貸してもらえるよう、その寄り合いにかけたのだが、朝、最初にそのことが議題にあがると、「重要なことだから、よく話し合おう。」ということになって協議は別の事柄に移ってしまった。その後、区有文書のことに話が戻ると誰かがこれと関係がありそうな話をし、そうすると別の者がまたその話から連想された別の世間話をひとしきりする。そしてまた別の話の話題に移って、また戻る。そんなことを繰り返して議論はゆっくりと展開し、最後にやっと宮本を案内してくれた老人が、「どうだろう、せっかくだから貸してあげたら…。」と言い出し、他の者もそれに賛成したので貸してもらえたという。 

 伊奈ではこうした寄り合いが昔から行われており、かつては「夜になって話がきれないとその場に寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論が出るまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得いくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。(前掲書p16~17)」という。


伊奈久比神社


同上


同上
 

伊奈には現在、主要な神社として上県郡の式内社、伊奈久比神社と
能理刀(のりと)神社の2社が鎮座している
後者はかつて熊野権現と称し、『対州神社誌』には卜部の祀る官社であったとある
式内社の行相神社に比定する説もあるが、現在はやや荒廃しているようだ 

宮本が寄り合いに同席したのは、この二社のどちらかだったのではないか


能理刀神社
 

 こういう話し合いは、会社でやったらダメ会議だが、昔の村落共同体で行われるぶんには極めて有効であったことがよく分かる。 

 伊奈の寄り合いは神社で行われているが、おそらく対馬の他の村落でもこうした例が多かったのではないか。私が対馬を旅行したとき、当地の神社では拝殿のなかに囲炉裏がきってあって、内部がまるで山小屋のような感じになっているものが多かった。おそらく、伊奈と同じような寄り合いの場所として使われるので、そうした設えがあったことだと思う。そう考えながらそれを眺めると、冬になって村人たちが囲炉裏端に寄って話し合っている情景が目に浮かぶようだった。

対馬によくある囲炉裏がきってある拝殿内部の例
(上郡町志多留の五王神社で撮影)
 

 神社の敷地内に公民館が建っているのは全国どこでもよく見かけるが(寺院の敷地内にそれがあるパターンは少ない感じがする。)、これも対馬に限らず古くから神社でこうした寄り合いが行われた伝統の名残だろう。神社の由緒だの伝承だのも、こうした寄り合いの席上で口承されたものが多かったのではないか。
 神社に隣接してゲートボール場(グラウンドゴルフ場?)があるのもおなじみの光景だが、実際に老人たちが競技をしている様子を見ていると、自分が玉を打つ順番でない時はずっと駄弁っている。ああいうのも神社が寄り合いの場であったふんいきを伝えるものかもしれない。いずれにせよ、神社はそれが鎮座する村落において、市役所や公会堂のように公的な空間として機能していた。 

 もっとも市役所や公会堂というものは言うまでもなく、古くから日本にあったものではない。明治になってからヨーロッパ諸国の先例を輸入したものである。ところがわが国が開国した頃、ヨーロッパにおいてはもうすでに都市文化の上に育った市民社会が成熟しており、市役所などの公的空間もこうした社会・文化の産物であった。いっぽうわが国では、京都や大阪の堺のような少数の例外を除くとまだ市民社会が成熟しておらず、これは基本的に現在でもそうだと思う。したがって日本における公的空間としての市役所等はヨーロッパの市民社会の産物を形だけ借りて、まだ中身がそこに追いついていない状況なのである。そしてそれを考えるとこうして村落共同体が寄り合いなどを行う場として機能していた神社は、極めてローカルではあるものの、わが国の真性にして伝統的な公的空間なのである。 

 だが、神社がたんに村落共同体の公的空間にすぎなかったら、神社とはそうした集団の成員いがいの者に対してもっと閉鎖的で、ほんらい余所者の参拝など歓迎されなかったに違いない。ところが、私は全国各地のさまざまな神社を参拝してきたが、その際に土地の人から閉鎖的な印象をうけた経験があまりないのである。 

 例えば朝、田舎に鎮座する神社を参拝していると、境内を清掃していた土地の人が向こうから先に挨拶をしてきたり、他府県から来たことが分かると礼を言われたり、といった経験は神社巡りが好きな人なら誰でもしたことがあると思う。また、その神社の由緒について土地の人に聞く場合もほとんど抵抗を感じない。むしろ、仕事の手を休めてでも熱心に教えてくれたり、あるいは知らない場合は申し訳なさそうな顔をして、「もっと詳しい人がいるから」などと土地の古老の名前と家を教えられたりするのである。 

 考えてみるとこれは結構、不思議なことだ。言葉のイントネーションからしていかにも余所者という感じの者がやってきて、古くからその村落の信仰生活の中心であった施設について伝承やら旧社地やら祭神について根掘り葉掘り聞くのである。普通だったら、これとは真逆の反応が返ってきてもおかしくないだろう。ところが(繰り返しになるけれども)これまで私は全国いたる所でそうしたことをやってきたが、それで不愉快な反応が返ってきたという経験はまだほとんどしたことがないのだ。これはたまたま運が良かった所為なのか。 

 思うに、神社が公的空間であるというのは二面性があり、比較的閉じられたローカルな地縁集団のそれという面とともに、もっと広くその神社が鎮座している地域に限定されない不特定多数の人びとに開かれたそれという面もあるのではないか。後者はその神社の神聖なふんいきに対し、ある程度、自分を謹んで感謝の気持ちを抱くような者なら万人に開かれているという意味である。

 ちなみに、寺院と違って神社は観光地になっているような有名なものでも拝観料を取っているケースがほとんどない。これなども色々な理由が考えられるだろうが、その一つとして今、言ったように神社は万人に開かれた公的空間だから、拝観料など取ってはいけないという意識があるのではないか。 

 もともと神社にはあまり人を疎外しないようなところがある。例えば神社の境内ではよく子どもの姿を目にするし、シーソーやジャングルジムなどが設置してある神社もよく見かける。これは神社の境内が子どもが遊ぶのに手頃な空間を提供するからだろうが、それとともに、子どもが神社で遊んでいてもあまり注意されないからではないか。これに対し、寺院で子供が遊んでいると、どこか別の場所で遊ぶように大人から叱られる確率が高いように思う。これもやはり神社は「万人に開かれた公的空間」であるという意識がみとめられる例の一つと言って良いのではないか

神社の境内では子どもの姿をよく見かける
(大和国添上郡の式内社、和爾坐赤坂彦命神社で撮影)

 『日本書紀』には即位前の履中天皇や阿閉臣事代(雄略紀)が時の権力者からの追求を逃れて、石上神宮に隠れるエピソードがある。聖域としての神社にはこうしたアジールとして側面があった。
 正安元年(1299)に成立した絵巻物の『一遍上人絵伝』などを見ると、町にある神社には乞食が多く集まっていた様子が描かれている。神社は人が集まる場所なので物乞いをしに彼らが集まったのだろうが、そのいっぽうで、こうしたアジールとしての伝統から神社は乞食が居ても追い立てを食らう確率が少なかったのではないか。これもまた、神社が「万人に開かれた公的空間」であった事例の一つである。

  

「神社とは何か(8)」につづく