神社の世紀

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伊吹山の神は誰ですか(3)

2011年12月25日 21時03分49秒 | 近江の神がみ

★「伊吹山の神は誰ですか(2)」のつづき

 山麓に湧き出る「命の水」で、伊吹山の神によって殺害された穀物神を復活させる祭祀は、水に関するとくべつな呪能をもつ者たちによって行われたに違いない。そうして実際に伊吹山麓の近江側には、そうした性能に秀でた巫女たちを出す一族が居住していた。息長氏である。

 息長氏は伊吹山麓の西側に広がる近江国坂田郡を本拠としていた。『延喜式』には敏達天皇の后で息長真手王の娘であった広姫の陵墓が坂田郡にあると記載され、郡の西南を流れる現在の天野川は『万葉集』に「にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも」と歌われた「息長川」に比定されるという

息長陵、滋賀県米原市村居田に所在
敏達天皇の后で息長真手王の娘であった広姫の陵墓に指定されている

 記紀にはだいたい彼らに関し、それぞれ繋がらない4系統の系譜記事があるが、そのうち、『古事記』応神段には、若野毛二俣王の系譜に登場する大郎子(意富々柕王)が「息長の坂君」の祖とあり、これが彼らの、いわば公式の始祖伝承となっている。しかしこの系譜は継体天皇擁立に協力した息長氏が、その功によって中央へ進出した際に造作されたものとみなされ、その成立時期は継体朝より前には遡らないだろう。

 そのいっぽうで、『古事記』開化天皇条には皇子である日子坐王に関し「近江の御上祝がもちいつく天之御影神の娘、息長水依比売をめとってお生みになった子は、丹波の彦多多須美知能宇斯王、次に水穂之真若王、次に神大根王、またの名を八爪入日子王、次に水穂五百依比売、次に御井津比売の五柱である。」とある。

 御上祝(みかみのはふり)は近江国野洲郡の式内明神大社、御上神社の神職のことで、当社は「近江冨士」の異名もある秀麗な神体山、三上山の麓に鎮座し、天之御影神(あめのみかげの神)を祀る。

国宝の御上神社本殿、簡素な雰囲気でどことなく鄙びているが、ゆるぎない存在感を示す
当社は本殿の他にも、国定重要文化財の楼門と拝殿がある等、神社建築の宝庫

本殿背後には扉がついており、いわゆる遙拝造りとなっているらしい
ほんらいは西側にそびえる神体山、三上山を拝していた名残らしいが、
南面する当社本殿は現在、三上山を拝する位置関係になっていない

本殿と三上山

三上山

 この開化天皇条の記事について三品彰英は『オキナガタラシヒメの系譜』で、「三上山の神(天之御影神)が三上の巫女(祝)に生ませた子がオキナガノミズヨリヒメであったというのであり、この所伝はオキナガ氏が中央の政治とは無関係に、祖先代々自家の始祖伝説として語り伝えていたものに違いない。」と述べている。その場合、息長水依比売の「水依」は「水霊の依り付く」の意なので、息長氏の間で自家の祖先として伝承されていたのは、水に関する強い呪能をもつ巫女の名前だったことになる。

 また、天之御影神という神についても鍛冶神の天目一箇神と同一神とする説などあるいっぽう、折口信夫がこれを霊水の神とみなしていることは無視できない。ちなみに現在の御上神社に湧水は見られないが、丹後国加佐郡の式内社、彌加宜(みかげ)神社は天之御影神を祭神とするとともに、本殿が井戸の上に載っており、また境内には「杜の清水」と呼ばれる大規模な湧水が見られる。

彌加宜神社々殿

当社は『延喜式』神名帳 丹後国加佐郡の式内社で、京都府舞鶴市字森井根に鎮座している

境内に見られる湧水(下池)

同上

境内の湧水(上池)

本殿の下にも湧水池があるという

本殿西側で神殿内の霊水を解放しており、
ペットボトルを持って汲みに来る人たちの姿をひっきりなしに見かけた

この湧水は享保四年の当社再建記に「延齢水」とあり、
長命を授かる霊水とされ、古くから「生命の水」としての信仰を受けてきたことを感じる

 さらに、日子坐王と息長水依比売の間に生まれた子どもたちにも、水穂之真若王(みづほのまわかのみこ)、水穂五百依比売(みづほのいほよりひめ)、御井津比売(みいつひめ)や、彦多多須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこ)の妻となった丹波之河上之摩須郎女(たにはのかわかみのますのいらつめ)等、水霊や穀霊に関係する人名がズラリと並んでいる。毎年、田植えの時期になると、伊吹山麓に湧き出る霊水の力で殺害された穀物神を復活させる祭祀を行っていたのはこのような人たちだったのだ。

 いっぽう、息長帯姫尊と呼ばれるように、父方が息長氏の系譜とつながる神功皇后は新羅遠征の際、皇后を乗せた船の立てる波が陸に押し上がり、国土の半分に達したので新羅国王を恐れさせた伝承をはじめ、水の呪能にまつわるエピソードが多い。あるいはそこに、「水の女」としての息長氏の巫女のイメージが混入しているのかもしれない。

 允恭天皇の后だった忍坂大中姫は、グズグズと即位を固辞する夫の所に、大手水の入った容器をもって進み、即位を迫る。この皇后は他にも気が強い性格だったことを示すエピソードが多いので、その中に埋もれて目立たないが、折口信夫はこの所作を天子即位蘇生のための禊ぎの奉仕の事例として『水の女』で取り上げている。
 忍坂大中姫は応神天皇の皇子、若野毛二俣王と息長弟比売真若の間に生まれており、母方が息長系の系譜に連なっている。ここにも息長氏出身の女性と水の呪能のつながりがハッキリと認められる。 こうしてみると伊吹山麓に見られる「生命の水」の信仰を支えていたのは、この氏族出身の巫女たちであったように思われる。

   

伊吹山の神は誰ですか(4)」につづく

 

 

 



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