神社の世紀

 神社空間のブログ

孤独な場所で(9)【三笠の山にいでし月かも】

2012年12月03日 22時42分35秒 | 隼人たちと月神

★「孤独な場所で(8)」のつづき 

 春日山でこのような祭儀が行われたとすれば、それはいつの遣唐使が渡海する折りのことだったろう。 

 和銅三年(708)に、奈良に都が遷ってからであることは言うまでもない。そして遣唐使船の航路として、とくに唐から帰国の際、九州南部から沖縄、屋久島及、種子島といった南島へ漂着する可能性の高い航路が採用されていた時期の遣唐使だったことも間違いなかろう。というのもそれこそが、こうした祭祀と南九州にいた隼人たちとの間に繋がりもたらしたと考えられるからである。してみると、次の3回の遣唐使が候補としてあがってくる(遣唐使の回数は数え方によって違いがでてくるが、ここでは上田雄『遣唐使全航海』にしたがった。)。 

 ・第8回 養老元年(717)
 ・第9回 天平五年(733)
 ・第10回 天平勝宝四年(752) 

 ところで、有名な阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」は、唐にあった彼が、沖天の月を振り仰いで「この月は故郷の三笠山(=春日山)にかかる月とおなじものなのだ。」という感慨を詠んだものである。 

 第8回遣唐使の一員として大陸に渡り、科挙に合格して唐の官僚となった彼は、やがて玄宗皇帝からその才を愛でられるようになり、唐の官僚機構の中で栄達をとげる。日本から第9回の遣唐使が来た際もそのまま唐に残り、第10回のそれでようやく帰国をこころざすが漂流して失敗。結局、望郷の念にさいなまれながら唐土で没する。この歌については、第10回の遣唐使船で帰国する際の、送別の宴席で歌ったとかの諸説があるが、仲麻呂が隼人の巫女によって遣唐使の航海安全のために三笠山で行われた月神との神婚儀礼のことを知っており、この歌にはそのイメージが滲んでいると考えたらどうだろうか。 

 月には「月桂」の故事があり、目には見えても手が届かない遥かなあこがれという謂のあることはすでに述べた。大陸の古い伝説に起因するこうしたイメージは、わが国にも古くから伝わっており、したがって、仲麻呂がここで唐土に昇る月に三笠山のそれを重ねて歌っているのも、遥かな故郷へのあこがれを月に託しているのである。 

 だが、実際問題として彼と故郷の間には広大な海があった。それを乗り切ることは危険な航海を伴う(結局、彼を乗せた船は漂流し、故国にたどり着けなかったことはさっき述べた。)。隼人の巫女が遣唐使船の航海安全を祈願して春日山で月神と神婚していたと彼が知っていたとすれば、この歌には故郷へのあこがれだけではなく、さらにこうした航海が月神の加護によって成功してほしいという思いもまた含まれていたことになる。 

 それからまた、彼の場合、月桂の故事は通常とは異なり、あこがれの対象(=故郷)のほうが自分から離れて手が届かない場所にあるのではなく、自分のほうがあこがれの対象から離れた唐土にいる、という格好で立ち現れている。その場合、故郷から遠く離れた孤独な場所で月を介して故地と結びつくという点で彼の立場は、古くから自分たち一族が齊き祀ってきた月神と春日山で神婚した隼人の巫女とあまりにも似ている。そこに見られるイロニーにも、仲麻呂は気付いていたかもしれない。 

 よだんだけど、『万葉集』に阿倍虫麻呂という中級官人の「雨ごもる三笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は降ちつつ」という歌が載っており、ここにも三笠山の月のことが登場する。彼は藤原広嗣の乱の際、佐伯常人とともに例の板櫃川の戦いで隼人たち24人を率いて、広嗣側の隼人たちに投降を呼びかけた人物で、彼らと強いつながりがあった。 

 この歌は月見の宴席で作られたらしいが、それに同席した大伴坂上郎女は「山の端のささらえ壮士天の原門渡る光見らくしよしも」の歌を作っている。
 「ささらえ壮士(をとこ)」は月を擬人化した表現で、『万葉集』にはやはり同種の「天にます月読壮士(巻六・985)」「み空ゆく月読壮士(巻七・1371)」「月人壮士(巻十・2043、2051、222)」「月人壮(巻十・2010)」「月人乎止祐ヲトコ(巻十五・3611)」が見られる。これらが単なるレトリックではなく、古い時代の月神信仰を感じさせることはしばしば指摘されるが、こうしたことも、春日山を舞台とした隼人たちによる月神との婚儀が行われたことを暗示しているかもしれない。 

 いずれにせよ、仲麻呂がこうした儀礼のことを知っていたとすれば、それが行われたのはやはり第8~10回の遣唐使頃だったことになろう。 

 よだんも含め、かつて猿沢池に身を投げた采女の伝説について私が考えていたのは以上のようなことだった。それにしても、隼神社という神社についてもっと知りたい。藤原頼長(1120~1156)の日記である『台記』には、当社について「陸奥鼻節神社同神也」という興味深い記事がある。これをきっかけに東北に旅行して鼻節神社を訪れた。神社めぐりで東北を訪れたのはこれが最初だった。


鼻節神社々殿
 


社地遠景
 

 その折りに塩竃神社にも参詣した。塩竃神社は主祭神として塩土老翁神を祀っているが、一説によればこの神は鼻節神社のある七ヶ浜町花渕浜からこの地に上陸したとされ、鼻節神社の祭神は塩竃神社のそれと同躰とも言われる(ただし、鼻節神社の現祭神は猿田彦命)。 

 塩竃神社を訪れたのは夕刻だった。境内では会社帰りらしい背広姿のサラリーマンが神門の前で一瞬、足を止め、一礼してからまた家路を急ぐという姿を何度も見かけた。おそらく毎日の習慣なのだろう。都市の生活に息づいている神社というのは好ましいものだが、ここでは特にそれを感じた。社前の長い石段を下りて街中に出ると歩道の縁石がぴかぴか光っているような錯覚を覚えた。三笠山で行われた隼人たちの巫女と月神の婚儀の探求は、ひとまず雲散霧消してしまった感じだが、その時、これから東北にハマりそうな予感がした(じじつ、そうなった)。 

「孤独な場所で」(完) 

 

 

【おまけコラム:福江島の五社神社】 


福江島の五社神社
 

南回りルートで唐に渡る遣唐使船は、
五島列島でもっとも西にある福江島の三井楽町あたりから、
大陸に向かって一気に海に乗り出した
遣唐使たちにとってこの島は、
帰国するまでは最後に目にする国土であったのだ

島内には遣唐使にちなむ遺跡も少なくない 


門 

この島の大津町にある五社神社は、五島最古の神社と言われる
社伝によると持統天皇九年(695)正月二十八日、
天照大神、武甕槌神、経津主神の三柱を奉斎、
下って称徳天皇の神護景雲三年(769)正月九日に、
大和の春日大社から、天児屋根神、姫神の夫婦神を合祀したという 

こうした社伝に見られる当社と春日大社の関係は興味ぶかい
あるいは春日山の麓で行われた遣唐使の祭祀がこの地まで
波及したものではないか、などと考えてしまう 


社殿 


同上 


「筥崎鳥居」 

五島藩主だった五島盛利が石田陣屋や福江城下町の無事竣工に感謝し、
寛永十五年(1638)に奉納したもので完成度の高い優品である
福岡県の筥崎神社の鳥居に似ているため、この名で呼ばれるという