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神社の世紀

 神社空間のブログ

湖北再々訪

2010年11月23日 21時00分00秒 | 徒然

  先週は天気に恵まれなかったので、湖北の神社めぐりリベンジ。

 長浜市高月町雨森の天川命神社で、黄色の巨人と久しぶりに再会。相変わらず壮観ですな

 足許から頭のてっぺんまで真っ黄色。スゲェ

 


 

 天川命(あまがわのみこと)神社は近江国伊香郡の式内社。現在は武速産霊命外57柱の祭神を祀っているが、ほんらいは天川命という地方神を祀る神社だったのだろう。この神はどういう神格だったのか。何か心惹かれる神名である。 

天川命神社の社殿

 

 

  こちらは長浜市高月町井口の日吉神社の近くにある池。長方形をしたこの池には大小2つの島があり、古代式庭園の遺構ではないかともされる。毎年、池辺にある紅葉が真っ赤に紅葉し、それが池に映るとまるで水面が燃えているようになるのだが、何と今年は整備工事中で池に水がなかった。残念。というか、ここはあまり綺麗に整備しない方がいいと思うよ

大小2つの島



池に水がある画像は2004年に撮ったものです。

 

 

 前回も紹介した長浜市高月町柏原の佐味神社もイチョウが見頃

  この神社、敷地はかなり狭いし、拝殿はなく小さな本殿があるだけのほとんどポケットパークみたいな神社なのだが、それでも目通り2mはありそうな杉が3本も屹立していて、古社であることを感じさせる



佐味神社の社頭

佐味神社の社殿

杉の巨木

同上

 ここは社地の中を小川が流れているのだが、のぞき込むとまだコンクリートで護岸されてなくて、それが妙に床しい。ずっとこのままでいいよ。

社地を流れる小川

同上

 

 

 長浜市湖北町山本にある朝日山神社の紅葉も見頃。

 

 

 湖北の晩秋でした

 

 


湖北再訪

2010年11月14日 18時58分22秒 | 徒然

 

 湖北地方の神社を久しぶりに訪れてみた。

 ここは紅葉が見事なので、毎年、この時期になると行ってみたくなる。今年は秋になって急に冷え込んだし、台風もあまり来なかったので、紅葉が綺麗になる条件が整っている。ということで、満を持して行ってみた。

 来てみると期待通り、木之本しゅうへんではカエデやイチョウがよく色づいていた。ちょっと残念だったのは、天気予報ではまる一日、お天気マークがついていたのに、実際には朝から少しづつ雲が増えてきて、午後になると完全に曇ってしまったことだ。しかし午前中はまだ断続的に日が差し込んできたので、朝の光線が充満する神社の境内で、紅葉を眺めることができたのは幸運だった。

 画像は式内社の意冨布良(おほふら)神社。滋賀県長浜市木之本町大字木之本にある。木之本は北国街道の宿場町であり、当社は街道沿いの古い家並みがつづく処からちょっと引っ込んだところに鎮座している。土曜日だったので木之本の駅から地蔵院の辺りにかけては観光客をみかけたが、ここはほとんど無人の状態だった。しかし、私なりに湖北の紅葉スポットを選べば(その場合はもっぱら神社だけになってしまうが)、はずすことのできない場所である。  

意冨布良神社

同上

意冨布良神社の社殿

ライオン・キングみたいな狛犬

 紅葉の名所というと渓谷とか山岳寺院の境内とかが多く、そういう場所はたいてい全山が赤や黄に染まるような土地である。これに対し湖北の紅葉はもっとスケールが小さく、神社や寺院の境内の中に赤や黄が点描的に配置してあるようなのがむしろ美しい。しかし、色づき方が非常に鮮やかなので、ヒョロっとしたカエデが1本あるだけでも、ものすごくアクセントになったりする。

 

 境内社の豊栄神社。じっさいは銅製の外灯の緑青が妖しいほどにもっと映えていたのだが、この画像ではそれが伝わってこない。こういう時、デジ眼が欲しくなるな。

 

 

 滋賀県長浜市高月町柏原にある式内社の佐味神社。国宝十一面観音像で有名な渡岸寺の近くに鎮座している。ここのイチョウの紅葉も好きなのだが、まだちょっと早かったようだ。あと一週間もすれば見事な黄色に染まるだろう。

 

 


かたじけなさに

2010年07月29日 23時57分53秒 | 徒然

 「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」は伊勢神宮を参詣した西行がうたったとされる有名な歌だ。ここにどのような神がいらっしゃるのかは知らないが、身にしみるようなありがたさがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれてしまった、という意味である。

 伊勢神宮の神々しいただずまいに触れた折りに、紀行文などでこの歌が引かれるのはよく見かける。が、そのいっぽうで古来、この歌は西行の真作であったかどうかの議論もある。ちなみにこの歌があげられているのは、「西行法師歌集」の三系統ある系統中、「板本系」のみなのだそうで、これだけでもちょっと怪しい感じがする。

 私も昔はこの歌が好きだったが、今は偽作じゃないかと考えるようになっている。そう考える理由はこうだ。「かたじけなさに 涙こぼるる」とあるが、ではどうして作者がそんなにかたじけなく感じたかがここでは全然、言葉で説明されていないのだ。

 むろんこれに対しては、「ここでのテーマは伊勢神宮のあの神々しいたずまいのことで、どうしてかたじけなく感じたかなんて説明されなくてもただちに共感できるし、ましてやそのことで欠落感など感じない。」という反論があることだろう。

 だが、ここは意見が別れるところかもしれないが、私はやっぱり欠落感を感じる。それも大いに。そもそもこの歌のテーマとなっている神宮の神域の神々しさを率直にうたうとすれば、神宮を訪れたらそこにある「○○」に触れていたく感動した、というふうになるとおもう。この場合、「○○」のところには「神々しさ」とか「神さびた趣き」とか「床しさ」とか色々な言葉が入るのだろう。それは歌人が自分の言葉でさがせば良いことだ。
 だが、この歌のどくとくな点は(そしてそのことが印象的にさせ、さらにはこの歌を有名にしているのだが)、言葉で伊勢神宮の神々しさを説明することをあえて放棄してみせていることにある。「どういう方がいらっしゃるのか分からないが、身にしみるようなありがたみがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれた。」── 、ここには「○○」に入る言葉を探そうなんて気持ちははじめからない。ただ何が何だか言葉では説明できないありがたみに圧されて落涙してしまった、というだけなのだ。

 普通の人が作ったのだったら、これでも良いだろう。だが、詩人である西行がこれを作ったというのならば問題がある。というのも、これでは言葉で処置できないことがらの存在を認め、あまつさえ大いにそれに心動かされて涙まで流してしまった、ということになるからだ。言葉をもって世界と渡り合うことを本務とする詩人にとって、これは敗北宣言に等しい。だから私は、この歌は西行のような本物の詩人の作ではなく、ディレッタントのそれであり、もし西行が生きていてこの歌が自分のものだとされていることを知ったら気を悪くしてもとうぜんだとおもう。



内宮