ずっと以前のこと。男女のカップルが親密な行為に及んでいるらしい乗用車を見かけたことがある。
その車を見かけたのであって、男女の顔も姿も、最中の行為も眼にしていない。
東京の郊外。夜の遅い時刻だった。人通りはなく、走り去る車も少ない。
人家からかなり離れた、〈静寂閑雅〉と言えそうな路上。
友人が運転する車で送られて帰宅する途中、道に迷った。
「ちょっと聞いて来る」
と、彼が運転席から降り、停止しているその車に近づきながら声をかけ、すぐに戻って来るなり、
「最中だったよ」
と、小さな驚きと笑いの声で言った。
「ええっ!」
と、私も驚愕。
「シートを倒して、男がズボンを下げ、女性の上に重なっていた」
と、面白そうに笑いながら彼が言った。
カー・セックスという言葉は知っていたけれど、経験はない。
そのカップルはどこかの部屋まで待ちきれなかったのか、またはホテルからの帰り道で新たな欲望に身をゆだねたのか。
さまざまな想像をして私たちはクックックッと笑いが止まらなかった。
カー・セックスなど興味も好奇心もないかと言えば、そうとも言いきれないが、現実には不可能だと思う。
誰かに目撃されるかもしれないし、車の中での不自由な姿勢で身体があちこちにぶつかりそうだし、思いきり楽しめないのではないかという気がするからだった。
人気(ひとけ)のない公園や山道などでもそうだが、手や身体を洗っていない不潔感から拒絶反応が起きてしまいそうである。
やはり部屋の中のほうが、思いきり楽しめると思ったりする。
部屋の中と言っても、いろいろある。
ラブホテル、シティホテル、マンションの部屋など。
✩
シングルのY子は32歳。会社の事務員として働いている。3年前に夫を亡くした彼女は、小学生の男児とマンションで2人暮らし。
シングル・マザーになってから、彼女には愛人がいた。家庭のある男性で、初めて愛し合ったのはラブホテル。
その後もたいていラブホテルだったが、会う日が確実にわかっている時はシティホテルだった。予約なしだとシティホテルは空いていないことが多いからだった。
彼が出張から帰った日など、都心のシティホテルの部屋にY子が先に着いて待っていたりした。
また、幼い息子が週末や連休前などに、子供の多い姉の家に泊まりに行く。そんな夜は、彼がY子のマンションに来る。
ラブホテルとシティホテルとマンションの部屋。
彼女は、それぞれの部屋によって気分が変わることに気づいた。
ラブホテルには回転ベッドや、鏡張りの壁や天井、浴室にはエア・マットが置かれていたりする。
ベッドの枕元には避妊具の小袋。
精力剤ドリンクや性的玩具の自販機が設置されていたり。
まさにセックスが目的で利用するだけの部屋だった。
それらを眼にすると、いつもY子は、自分が途轍もなくふしだらで淫らな女になってしまったみたいな錯覚に包まれる。
抑えることもなく歓喜の声をあげ、鏡の中に自分たちの淫らな姿を見たくて大胆なポーズをしてしまったり。
中年近い年齢の彼は続けて何度も行うことは無理だったが、淫らな姿態で彼を挑発し、何度も彼を奮い立たせてしまいたくなる。
シティホテルでは、少し違っていた。ラブホテルより上質素材のベッドやカーペットやカーテン。
デラックス・ツインやダブル・ルームは室内が広々として、座り心地のいいソファもあり、バス・ルームの横に大きな化粧台とスツールが置かれている。
窓際に立って外の夜景を眺めると、感傷的で、贅沢で、甘いムードに包まれる。
ルーム・サービスで選んだ料理とワインを注文し、テーブル・ワゴンで客室に運ばれた後、彼と自分が世界で最高に素晴らしい恋人同士のような気分に包まれてくる。
さらに、Y子のマンションでは――。
そこでは、最も自分自身を、さらけ出せる部屋である。
彼に対して、気取りもポーズもない。夫の死後、移り住んだそのマンションは2LDK。幼い息子と暮らす部屋。
その生活のすべてを見せることになり、彼女にとっては意外と安心感のような感情に包まれる。彼に秘密は何もない。ベッドも衣服も本棚の本もドレッサーの上の化粧品もチェストの中の下着も――何もかもすべてである。
☆
「この部屋で会うと、一番、素直な気持ちになれるみたい」
セミ・ダブルベッドの上で、彼に寄り添いながらY子は言った。
「外で会うより、甘えん坊になるね」
「献身的にもなるでしょう」
「献身的」
「だって、夜食に、おにぎりやサンドイッチを作ってあげるし、肩を揉んであげたり、爪を切ってあげたり」
「外で会うより淫乱じゃなくなるみたいだ」
「あなたを愛してる自分に素直な気持ちになれるから、自分の欲望より、あなたに喜んでもらうことばかり考えちゃうの、うふ」
「じゃ、献身的なこと、してもらおうかな」
「うふ、うふふっ、くくくくくっ」
彼がY子の手を取って、身体の部分に押しつけ……。
結局、ホテルでの時と同じような展開になりそうな予感に、Y子は頭の芯も肉体も熱くなっていくのだった。
※過去の隔週刊誌連載エッセイ『官能トーク』より。掲載日不明。20年以上前。
その車を見かけたのであって、男女の顔も姿も、最中の行為も眼にしていない。
東京の郊外。夜の遅い時刻だった。人通りはなく、走り去る車も少ない。
人家からかなり離れた、〈静寂閑雅〉と言えそうな路上。
友人が運転する車で送られて帰宅する途中、道に迷った。
「ちょっと聞いて来る」
と、彼が運転席から降り、停止しているその車に近づきながら声をかけ、すぐに戻って来るなり、
「最中だったよ」
と、小さな驚きと笑いの声で言った。
「ええっ!」
と、私も驚愕。
「シートを倒して、男がズボンを下げ、女性の上に重なっていた」
と、面白そうに笑いながら彼が言った。
カー・セックスという言葉は知っていたけれど、経験はない。
そのカップルはどこかの部屋まで待ちきれなかったのか、またはホテルからの帰り道で新たな欲望に身をゆだねたのか。
さまざまな想像をして私たちはクックックッと笑いが止まらなかった。
カー・セックスなど興味も好奇心もないかと言えば、そうとも言いきれないが、現実には不可能だと思う。
誰かに目撃されるかもしれないし、車の中での不自由な姿勢で身体があちこちにぶつかりそうだし、思いきり楽しめないのではないかという気がするからだった。
人気(ひとけ)のない公園や山道などでもそうだが、手や身体を洗っていない不潔感から拒絶反応が起きてしまいそうである。
やはり部屋の中のほうが、思いきり楽しめると思ったりする。
部屋の中と言っても、いろいろある。
ラブホテル、シティホテル、マンションの部屋など。
✩
シングルのY子は32歳。会社の事務員として働いている。3年前に夫を亡くした彼女は、小学生の男児とマンションで2人暮らし。
シングル・マザーになってから、彼女には愛人がいた。家庭のある男性で、初めて愛し合ったのはラブホテル。
その後もたいていラブホテルだったが、会う日が確実にわかっている時はシティホテルだった。予約なしだとシティホテルは空いていないことが多いからだった。
彼が出張から帰った日など、都心のシティホテルの部屋にY子が先に着いて待っていたりした。
また、幼い息子が週末や連休前などに、子供の多い姉の家に泊まりに行く。そんな夜は、彼がY子のマンションに来る。
ラブホテルとシティホテルとマンションの部屋。
彼女は、それぞれの部屋によって気分が変わることに気づいた。
ラブホテルには回転ベッドや、鏡張りの壁や天井、浴室にはエア・マットが置かれていたりする。
ベッドの枕元には避妊具の小袋。
精力剤ドリンクや性的玩具の自販機が設置されていたり。
まさにセックスが目的で利用するだけの部屋だった。
それらを眼にすると、いつもY子は、自分が途轍もなくふしだらで淫らな女になってしまったみたいな錯覚に包まれる。
抑えることもなく歓喜の声をあげ、鏡の中に自分たちの淫らな姿を見たくて大胆なポーズをしてしまったり。
中年近い年齢の彼は続けて何度も行うことは無理だったが、淫らな姿態で彼を挑発し、何度も彼を奮い立たせてしまいたくなる。
シティホテルでは、少し違っていた。ラブホテルより上質素材のベッドやカーペットやカーテン。
デラックス・ツインやダブル・ルームは室内が広々として、座り心地のいいソファもあり、バス・ルームの横に大きな化粧台とスツールが置かれている。
窓際に立って外の夜景を眺めると、感傷的で、贅沢で、甘いムードに包まれる。
ルーム・サービスで選んだ料理とワインを注文し、テーブル・ワゴンで客室に運ばれた後、彼と自分が世界で最高に素晴らしい恋人同士のような気分に包まれてくる。
さらに、Y子のマンションでは――。
そこでは、最も自分自身を、さらけ出せる部屋である。
彼に対して、気取りもポーズもない。夫の死後、移り住んだそのマンションは2LDK。幼い息子と暮らす部屋。
その生活のすべてを見せることになり、彼女にとっては意外と安心感のような感情に包まれる。彼に秘密は何もない。ベッドも衣服も本棚の本もドレッサーの上の化粧品もチェストの中の下着も――何もかもすべてである。
☆
「この部屋で会うと、一番、素直な気持ちになれるみたい」
セミ・ダブルベッドの上で、彼に寄り添いながらY子は言った。
「外で会うより、甘えん坊になるね」
「献身的にもなるでしょう」
「献身的」
「だって、夜食に、おにぎりやサンドイッチを作ってあげるし、肩を揉んであげたり、爪を切ってあげたり」
「外で会うより淫乱じゃなくなるみたいだ」
「あなたを愛してる自分に素直な気持ちになれるから、自分の欲望より、あなたに喜んでもらうことばかり考えちゃうの、うふ」
「じゃ、献身的なこと、してもらおうかな」
「うふ、うふふっ、くくくくくっ」
彼がY子の手を取って、身体の部分に押しつけ……。
結局、ホテルでの時と同じような展開になりそうな予感に、Y子は頭の芯も肉体も熱くなっていくのだった。
※過去の隔週刊誌連載エッセイ『官能トーク』より。掲載日不明。20年以上前。