人はみな、正しさを求める者であるが、
所詮不完全なる人間であれば、
人間の称する正義というものはいつも、
我欲の新しい形態でしかない。
考えてみよ!
道義心において現代人より百倍高きギリシャの哲人(プラトン)でさえ、
正義の中に幾分かの利欲の念を混ぜたのである。
(正義の何たるかを説明するのに、利益問題から入ったのが良き証左)
ギリシャの哲人がそうである、現代人はなおさらのことである。
クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。
もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるであろう。
(エレミヤ書13-23)
クシュ人とは、皮膚の黒いエチオピア人である。
どんなに努力しても、黒い皮膚を真っ白くできないように、
真っ黒に染まった人間の心を、白くすることはできない。
ここに、人間及び人間社会のすべての不幸がある。
善を行なうことができない人間であれば、善を偽装することしかできず、
(詩篇14-1~3)
金銭欲のため、名誉心のため、あるいは家族のため、あるいは国家のためと称して、
政治家は自党のために国民を惑わし、官僚は安寧のために税金を貪り、
宗教家は己の心を神の声と錯覚し、教師は己の偽善を生徒に植え付けんとし、
一般民衆は「生活のため」と称して、輿論をもってお気に召す正義を主張せんとする。
(エゼキエル書22-24以下)
しかし、救いはある。
ピラトがユダヤの総督の時、ヘロデがガリラヤの国主の時、
カヤパが大祭司の時、すなわち、俗人と小人と悪人がこの世の天下にある時、
彼は来たり給うた。
なぜ?十字架に上るためである。
何一つ罪のない、むしろその行いは正しく、その言葉は真理に富み、
多くの者を救い・癒し・立ち直らせた至善の人間が、
悪に慣れ、神に反逆する我らの代わりに罰せられるためである。
(ローマ書3-21以下)
そして、唯一の善は神のみであること、
十字架の死にまで至ることを辞さなかった神の側に善があり、
我らの側に一片の善もないことを知らしめるために、
彼は来たり給うたのである。
喜ぶべきことである。
日本と世界がますます悪くなる時、落ち込んではならない。
それは、初めからわかっていたことである。
落ち込んでいないで、ますます彼の光明に浴する時である。
光臨む時、闇多し。
主の再臨はますます近くなっている。
人気blogランキングへ
所詮不完全なる人間であれば、
人間の称する正義というものはいつも、
我欲の新しい形態でしかない。
考えてみよ!
道義心において現代人より百倍高きギリシャの哲人(プラトン)でさえ、
正義の中に幾分かの利欲の念を混ぜたのである。
(正義の何たるかを説明するのに、利益問題から入ったのが良き証左)
ギリシャの哲人がそうである、現代人はなおさらのことである。
クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。
もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるであろう。
(エレミヤ書13-23)
クシュ人とは、皮膚の黒いエチオピア人である。
どんなに努力しても、黒い皮膚を真っ白くできないように、
真っ黒に染まった人間の心を、白くすることはできない。
ここに、人間及び人間社会のすべての不幸がある。
善を行なうことができない人間であれば、善を偽装することしかできず、
(詩篇14-1~3)
金銭欲のため、名誉心のため、あるいは家族のため、あるいは国家のためと称して、
政治家は自党のために国民を惑わし、官僚は安寧のために税金を貪り、
宗教家は己の心を神の声と錯覚し、教師は己の偽善を生徒に植え付けんとし、
一般民衆は「生活のため」と称して、輿論をもってお気に召す正義を主張せんとする。
(エゼキエル書22-24以下)
しかし、救いはある。
ピラトがユダヤの総督の時、ヘロデがガリラヤの国主の時、
カヤパが大祭司の時、すなわち、俗人と小人と悪人がこの世の天下にある時、
彼は来たり給うた。
なぜ?十字架に上るためである。
何一つ罪のない、むしろその行いは正しく、その言葉は真理に富み、
多くの者を救い・癒し・立ち直らせた至善の人間が、
悪に慣れ、神に反逆する我らの代わりに罰せられるためである。
(ローマ書3-21以下)
そして、唯一の善は神のみであること、
十字架の死にまで至ることを辞さなかった神の側に善があり、
我らの側に一片の善もないことを知らしめるために、
彼は来たり給うたのである。
喜ぶべきことである。
日本と世界がますます悪くなる時、落ち込んではならない。
それは、初めからわかっていたことである。
落ち込んでいないで、ますます彼の光明に浴する時である。
光臨む時、闇多し。
主の再臨はますます近くなっている。
人気blogランキングへ
そこに純粋さがあるかないか、邪な種が混じっているかどうか、どうして人にわかるでしょう。知っておられるお方はただお一人。
でも…。そんなことすら、もう、どちらでもよいのですね。誤解を恐れていては、本当にあったことすら語ることすらできない。誰がなんと言おうと、私は主に救われた。ただそれだけで十分です。喜びを共有できないけれども、それも仕方のないこと。すべては主がなさったこどなのだから、新たに何かを付け加えることもない。ただ単純に、主だけを見ていたい。
そう思わされました。