キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

正しさを打ち立てるために

2008-04-12 02:00:09 | 聖書読解
人はみな、正しさを求める者であるが、

所詮不完全なる人間であれば、

人間の称する正義というものはいつも、

我欲の新しい形態でしかない。

考えてみよ!

道義心において現代人より百倍高きギリシャの哲人(プラトン)でさえ、

正義の中に幾分かの利欲の念を混ぜたのである。
(正義の何たるかを説明するのに、利益問題から入ったのが良き証左)

ギリシャの哲人がそうである、現代人はなおさらのことである。


クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。
もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるであろう。
(エレミヤ書13-23)


クシュ人とは、皮膚の黒いエチオピア人である。

どんなに努力しても、黒い皮膚を真っ白くできないように、

真っ黒に染まった人間の心を、白くすることはできない。

ここに、人間及び人間社会のすべての不幸がある。

善を行なうことができない人間であれば、善を偽装することしかできず、
(詩篇14-1~3)

金銭欲のため、名誉心のため、あるいは家族のため、あるいは国家のためと称して、

政治家は自党のために国民を惑わし、官僚は安寧のために税金を貪り、

宗教家は己の心を神の声と錯覚し、教師は己の偽善を生徒に植え付けんとし、

一般民衆は「生活のため」と称して、輿論をもってお気に召す正義を主張せんとする。
(エゼキエル書22-24以下)


しかし、救いはある。

ピラトがユダヤの総督の時、ヘロデがガリラヤの国主の時、

カヤパが大祭司の時、すなわち、俗人と小人と悪人がこの世の天下にある時、

彼は来たり給うた。

なぜ?十字架に上るためである。

何一つ罪のない、むしろその行いは正しく、その言葉は真理に富み、

多くの者を救い・癒し・立ち直らせた至善の人間が、

悪に慣れ、神に反逆する我らの代わりに罰せられるためである。
(ローマ書3-21以下)

そして、唯一の善は神のみであること、

十字架の死にまで至ることを辞さなかった神の側に善があり、

我らの側に一片の善もないことを知らしめるために、

彼は来たり給うたのである。

喜ぶべきことである。


日本と世界がますます悪くなる時、落ち込んではならない。

それは、初めからわかっていたことである。

落ち込んでいないで、ますます彼の光明に浴する時である。

光臨む時、闇多し。

主の再臨はますます近くなっている。



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1 コメント

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Unknown (zero)
2008-04-13 23:06:51
キリスト者が主に救われたことを証ししたいと願う時、そこに私欲が混じっていないつもりであり、そうでありたいと願いつつ、証しします。

そこに純粋さがあるかないか、邪な種が混じっているかどうか、どうして人にわかるでしょう。知っておられるお方はただお一人。

でも…。そんなことすら、もう、どちらでもよいのですね。誤解を恐れていては、本当にあったことすら語ることすらできない。誰がなんと言おうと、私は主に救われた。ただそれだけで十分です。喜びを共有できないけれども、それも仕方のないこと。すべては主がなさったこどなのだから、新たに何かを付け加えることもない。ただ単純に、主だけを見ていたい。

そう思わされました。
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