キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

現実と幸福

2008-06-15 01:48:30 | 人生の慰め
秋葉原の無差別殺人犯は、現実を直視せずして、

自分の妄想世界を膨らませた結果として、狂気に走ったと言われている。

しかし現実・現実と言うが、現実は人の数ほど存在する。

私が見ている現実と、あなたが見ている現実は、

同じものではない。

私は私の見るがままの現実を見て、あなたはあなたの見るがままの現実を見る。

ありままの現実を直視できる人間など、この世には皆無なのである。

そして、あの犯人も、彼の称する「現実」を見つめた結果として、

狂気に走ったのだと思う。


しかし考えてみれば、現実ほど酷いものはない。

現実を直視して幸福になれるかというと、決してそうではない。

私は学習塾の講師をしているが、まったくやってられない事柄ばかりだ。

塾はわかりやすく、点数を上げるための授業をする。

親もそれを期待し、生徒もそういう学習環境に慣れる。

そうして、学力と意欲の低下している昨今の生徒は、

口を開けば「その問題は試験に出るの?」だ。

試験をそんなに気にするなら、それだけやる気があるかというと、

やる気もまるでなし。ただただ点数を手っ取り早く上げてもらうために、

面の皮あつく講師に要求する。

「努力すれば何とかなるよね」と口だけは達者で、

真の努力を先延ばしするための免罪符でしかない。

まったく、やってられないことばかりだ。


現実はしっかりと見つめるべし、しかし現実によって人生を歩むべからず。

現実ほど人間の幸福感を失わせるものはない。

これ、職業のみならず、社会全体においても然り。

腕力と金力にものをいわせて不正がまかりとおり、(アメリカを見よ)

無垢な子ども(沖縄の現実を見よ)と純情な親心(拉致問題を見よ)が踏みにじられる。

現実だけを見つめて、人は不幸になるしかない。


しかし私は、主イエス・キリストの謙遜なる生涯とその十字架を見る時、

何とも言葉にできぬ安心感に満たされる。

その科学的根拠は、知らないし、どうでもよい。

信仰の精神作用に及ぼす影響は、暇な神学者にまかせておけばよい。

私が求めるのは、幸福の能書きではなく、その薬品である。

キリストの打ち傷は、この世に不満を抱き、しかも良心の苦悩に苛まれる私にとって、

ただ一つの特効薬である。


この世に疲れた人、本当の現実(神の現実)を見たい人は、

巷の書籍や新聞やブログを読む暇があるのならば、

聖書が伝える主イエスのご生涯を読んだほうがよい。



彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ書53-5)



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