ヘブル書を8章まで読了する。
その中で気づいたことを少し。
ヘブル書は一般的に「新約のレビ記」と言われていて,
ユダヤ教に代わるキリスト教の礼拝形式を語ったものとして解釈されることが多い。
だが,レビ記に則った礼拝的記述が多いからといって,
果たして,それをもってヘブル書著者がレビ記を範としたかというと,
それは安直に過ぎる解釈であると思う。
人は,目の前にある現実に抗議する時に,
その目の前の現実に模して(そうやって批判を込めて),物事を書く傾向がある。
すなわち,ヘブル書著者は,当時の宗教的礼拝に疑問を持っていたということは言えるだろうが,
それをもって,ヘブル書著者が礼拝及び儀式に興味があったということは言い過ぎなのである。
私がヘブル書を読んでいて気づいたことは,
この書が,非常に軍事的表現を好むということである。
旧約聖書の引用の大部分は,詩篇からの引用である。
しかもその詩篇の引用は,兵を招集したり,行進したり,凱歌をあげたり,
そうした時に歌われたものが多い。
ヘブル書の中心概念である「大祭司としてのイエス」も,
それは真正の王としての表現であって,
(理想的王は神と人の間に立つから,ある意味で大祭司なのである)
ヘブル書にしか用いられていない「先駆け」という語も,
敵陣に進入して偵察をする軍事用語である。
また,ヘブル書最後に引用された詩篇の言葉も,
神殿に進む軍隊の賛歌であることを考え合わせれば,
ヘブル書というものは,非常に戦闘的な書であると思うのである。
どの新約文書よりも「模範としてのイエス」を強調する姿勢を考えれば,
この書は,多分,最も最後に読まれるべき書簡であって,
成熟したキリスト者の読むべき,慰めとすべき,
「書簡の体裁をした福音書」であると感じた次第である。
ヘブル書研究は未だ完了していないし,詩篇の引用の動機,
及び,フィロン哲学との類似性も確認せねばならぬから,
全体の構想や強調点に関しては,後々のことになると思う。
だが,この書をもって「第五福音書」と呼ぶのは,
至極,適した表現であると思うのである。
その中で気づいたことを少し。
ヘブル書は一般的に「新約のレビ記」と言われていて,
ユダヤ教に代わるキリスト教の礼拝形式を語ったものとして解釈されることが多い。
だが,レビ記に則った礼拝的記述が多いからといって,
果たして,それをもってヘブル書著者がレビ記を範としたかというと,
それは安直に過ぎる解釈であると思う。
人は,目の前にある現実に抗議する時に,
その目の前の現実に模して(そうやって批判を込めて),物事を書く傾向がある。
すなわち,ヘブル書著者は,当時の宗教的礼拝に疑問を持っていたということは言えるだろうが,
それをもって,ヘブル書著者が礼拝及び儀式に興味があったということは言い過ぎなのである。
私がヘブル書を読んでいて気づいたことは,
この書が,非常に軍事的表現を好むということである。
旧約聖書の引用の大部分は,詩篇からの引用である。
しかもその詩篇の引用は,兵を招集したり,行進したり,凱歌をあげたり,
そうした時に歌われたものが多い。
ヘブル書の中心概念である「大祭司としてのイエス」も,
それは真正の王としての表現であって,
(理想的王は神と人の間に立つから,ある意味で大祭司なのである)
ヘブル書にしか用いられていない「先駆け」という語も,
敵陣に進入して偵察をする軍事用語である。
また,ヘブル書最後に引用された詩篇の言葉も,
神殿に進む軍隊の賛歌であることを考え合わせれば,
ヘブル書というものは,非常に戦闘的な書であると思うのである。
どの新約文書よりも「模範としてのイエス」を強調する姿勢を考えれば,
この書は,多分,最も最後に読まれるべき書簡であって,
成熟したキリスト者の読むべき,慰めとすべき,
「書簡の体裁をした福音書」であると感じた次第である。
ヘブル書研究は未だ完了していないし,詩篇の引用の動機,
及び,フィロン哲学との類似性も確認せねばならぬから,
全体の構想や強調点に関しては,後々のことになると思う。
だが,この書をもって「第五福音書」と呼ぶのは,
至極,適した表現であると思うのである。
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