江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(20年12月27日)

2020-12-27 12:16:20 | Weblog

年末感謝礼拝(降誕後第一)    2020.12.27

呪いが祝福に変わる」 マタイ2:1~12

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第四日曜、2020年の最後の日曜日、年末感謝礼拝となりました。今年は、新型コロナウィルス感染症の拡大のために苦しみの年、辛い年となりました。クリスマスも、いつものような華やかなクリスマスではなく、遠慮しがちに、規模は小さく、イエス様の誕生をお祝いいたしました。キャンドルライトサービスは、初めてのライブ配信のみでした。多くの方々がご覧下さったことだと思います。

 私たちは、2020年の最後の礼拝を迎えました。年末感謝礼拝、何か感謝なことがありましたか。コロナ、コロナの一年、ボクシングのボディーブローのように、じわじわときいて来る苦しみ、心も体も疲れ果てて、毎日の新規感染者の数で一喜一憂して、抜けることのないトンネルの中にいるような、真っ暗闇な状況、希望の光が見えないそのような一年であったかとも思います。しかし、神様は多くの恵みも用意しておられたように思います。苦しみの中にも恵みがありました。闇にも光はあったのです。私たちがどのような苦しみや痛みを経験しても、救い主イエス様はいつも共におられたのです。そして、私たちを支え、守り、導いて下さったのです。そのことを覚えて感謝を現したいと思うのです。

 今日は、マタイによる福音書2章1節から12節を通して、クリスマス物語ですが、「呪いが祝福に変わる」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様との出会いで人生が変わる

 1節には、「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」とあります。東の方というのは、単なる東という地理的な方向を示すというだけではなくて、「東」という言葉が、表現が、聖書の中では深い意味を持っているようです。

 創世記11章にあるバベルの塔を築こうとした人々は、「東の方から移動してきた人々」(創世記11:2)とあります。バベルの塔を築くことは、神様に対して対抗しようとする力であり、人間の権威や権力で何とかしようとする動きです。人間は、昔も今も、この権力や権威で何かをしようとします。カインは、弟アベルを殺害した後、エデンの東、ノドの地に住んだ、と聖書は記しています。ノドは、「流浪の地」という意味があるようです。自分の居場所を求め続け、さまよい続けている生き方のようです。イスラエルを脅かす人々は、常に東の方からやって来ました。アッシリアもバビロンもそうです。東というのは、イスラエルにとっては、あまり好ましくない場所でした。イスラエルにとっては、呪われた場所とでも言っていいでしょう。この東方、東から占星術の学者たちは来たのです。この学者たちも、彼らの国では、権力も権威も財力もある人々でした。

 占星術の学者たちは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。ユダヤ人の王として生まれた救い主の誕生を、イスラエルからはるか遠く離れた学者たちが、星の異常な輝きに救い主誕生のしるしとして捉え、長い旅路の果てにエルサレム、ヘロデ王の宮殿にやって来たのです。ユダヤ人からすれば、救いは選民のユダヤ人だけに与えられたもので、異邦人には与えられていないと考えていました。しかし、神様が、かつてユダヤ人が捕囚されていた東の地で、ユダヤ人の救い主待望の考えを、占星術の学者たちは伝え聞いており、その事を知っていたので、ユダヤ人の王として生まれた出来事を受け入れて、はるばるエルサレムにやって来たのです。本来、東の地、呪われた場所から彼らはやって来て救い主に出会い、人生が変えられていくのです。私たちもかつて罪の中にあった者ですが、呪われていた者でしょう。しかし、救い主イエス様との出会いが祝福と変えられたのです。

 

 二、権力に勝る神様の導き

 東方から来た占星術の学者たちは、エルサレムのヘロデ王の所に向かったというよりも導かれたと言ったほうがいいでしょう。ユダヤ人の王として生まれたのですから、王の宮殿にいるものと思ったのでしょう。学者たちは、イスラエルに来て、誰に尋ねても救い主誕生の出来事を知る人がいなかったのです。彼らは、2節にあるように、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と問いました。3節を見ると、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあるように、ヘロデ王も誰も救い主イエス様の誕生を知らなかったのです。リビングバイブルには、「それを聞いたヘロデ大王は、ひどくうろたえ、エルサレム中がそのうわさで騒然となりました。」とあります。

 ヘロデ王という人は、支配者としての王、自ら王として君臨するためには、ありとあらゆることをやった人物でした。彼は、両親も兄弟も近親者も殺害したのです。その人物に不安を感じたら、恐れを感じたら、抹殺してきたのがヘロデ王でした。ですから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と聞かされて、ヘロデ王は不安を抱き、ひどくうろたえたのでした。彼の頭には、その者を見つけ出して抹殺するという考えがあったことでしょう。

 占星術の学者たちが、ヘロデ王の所に行ったので、ヘロデ王にユダヤ人の王、救い主の誕生の知らせを彼は聞いたのです。神様は、東方から来た占星術の学者たちを時の権力者ヘロデ王の所に導いて、ユダヤ人の王、救い主の誕生を知らせたのです。ヘロデ王は祭司長や律法学者たちを集めてメシア誕生の場所を問いただしました。そして、その場所はベツレヘムであることがわかったのです。

 自分の王としての地位を守り続けて来たヘロデ王は、新しい王の存在を恐れたのです。東という言葉が示す人間の権威や権力を誇示する者が、エルサレムの宮殿にもいたのです。神様は東から来た学者たちに、このヘロデ王にわざわざ合わせたように思うのです。

 ヘロデ王は、その子を詳しく調べ、見つかったら知らせるように、自分も拝みに行くからと伝えたのでした。この子を抹殺しようという魂胆が見え見えです。ここにもこの世の権威や権力で何とかしようとする人間の思惑があるのです。

 私たち人間の世界では、権力が物を言います。力で弱い者をねじ伏せます。最も小さく、弱く生まれた救い主を亡き者にしようとする人間の思惑があるのです。人間とはいつの時代も、権力、財力、数で勝負するのです。しかし、神様はそのような権力を誇示し、力を見せつけようとする人間の世界に、弱く、小さく、貧しい救い主を誕生させられ、苦しむ人々、痛んでいる人々、寂しい思いをしている人々に慰めと励ましを与えて下さるのです。

 

 三、神様が導いておられるとの確信

 占星術の学者たちが、ヘロデ王の宮殿から出かけると、東方で見た星が先だって進み、救い主のいる場所に導いたのです。10節には、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。10節の言葉を直訳すると、「彼らは、非常に大きな喜びを喜んだ。」というようになるそうです。リビングバイブルには、「躍り上がって喜びました。」とあります。彼らは、遠い国から星の異常な輝き、その星を見てユダヤ人たちが待ち望んでいた救い主の誕生を信じました。その救い主誕生を示した東方で見た星が出現して躍り上がって喜んだのです。ユダヤ人の王の誕生は間違いのないことだと確信したことでしょう。彼らはユダヤ人ではありません。異邦人ですから、ユダヤ人の王、救い主の誕生の祝い方は、何も知りませんでした。ただ、星を見て、何か導きを感じたのでしょう。でなければ、大切な仕事、与えられた地位を放り出して、家族を残して、危険を冒して来るはずがありません。彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、ユダヤ人の王、救い主の事はよくわからないままに、何も知らないままに飛び出して来たのです。急いで駆けつけて来たけれども、また星が現れて救い主の元へ導いたのです。ユダヤ人の王、救い主の誕生に全然関係のないような異邦人、占星術の学者たちであっても、神様は導いておられるのです。彼らは、これは、神様が働いておられること、神様が確かに導いておられるに間違いないと確信したのです。外国人、異邦人である自分たちでさえも、救い主を祝うことを神様が許しておられること、認めていて下さることがわかり、彼らは「非常に大きな喜びを喜んだ。」「躍り上がって喜びました」ということなのです。

クリスマスは、神様を信じているクリスチャンだけのものではありません。神様を知らない人、信じていない人にもゆるされているものです。日曜日の礼拝も、クリスチャンだけが、神様を信じている者だけに与えられているのではありません。神様を知らない人にも、信じていない人にも、神様に興味のない人にも、全ての人に開かれているものなのです。

 ある意味では、お膝元、エルサレムにいたヘロデ王や聖書や宗教の専門家、祭司長、律法学者たちさえも救い主誕生を知らないで、異邦人、外国人の占星術の学者たちから聞いて、初めて聖書を紐解き、その真実を知ったのです。聖書の事がわかろうが、わかるまいが、神様を信じていようが信じていなくても、教会は、礼拝は全ての人に開かれているので、安心して来ていいのです。

 学者たちは、確信したので、救い主がどのようなお方であっても、その環境や状況が自分たちの考えるようなことでなくても、救い主を礼拝しようと決心したのです。

 学者たちは、ユダヤ人の王、救い主の両親が貧しい状況であることは一目見てわかったでしょう。救い主が、自分たちと同じ小さな赤ちゃんであり、弱い存在であることを認めた上で、彼らはひれ伏して幼子を拝んだのです。幼子の前に礼拝したのです。東の国で高い地位、教養のある彼らが、礼拝し、高価な贈り物をささげたのです。

 占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。このユダヤ人の王と呼ばれたお方は、全人類の罪の身代わりに十字架刑にされたのです。そして、十字架の上には罪状書きがありました。そこには、ユダヤ人の王とありました。生まれたばかりの幼子はユダヤ人の王としての威厳はありませんでした。そして、ユダヤ人の王と罪状書きが書かれた十字架につけられたイエスは、救い主としての威厳もありませんでした。私たちの罪の身代わりに、傷つき、痛めつけられ、尊い血を最後の一滴まで流し、父なる神様から裁かれ、命をささげて下さったのです。私たちに代わって死んで下さったのです。死んで葬られ、三日目によみがえられたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命、復活の望みが与えられたのです。この恵みが全ての人に与えられるのです。

 

 Ⅲ結論部

 東方の占星術の学者たちは、ヘロデに幼子のことを知らせてくれと頼まれましたが、夢で、「ヘロデのところへ帰るな」とお告げを受けたので、別の道を通って自分たちの国へ帰って言った、と聖書は記しています。

 権力の象徴、呪いの場所、東から来た学者たちでしたが、神様の導きを信じ、救い主イエス様に出会い、今までの人生が変えられたのです。そして、別の道、新しい人生へと歩み出したのです。コリントの信徒への手紙の第二5章17節には、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。占星術の学者たちは、救い主イエス様を礼拝した。救い主を信じたということです。彼らは、新しい歩みを始めたのです。人間の権力、力で生きて来た人間の世界、そこには人間の欲と自己中心的な罪の道、呪いの道でしたが、救い主イエス様に出会い、イエス様を礼拝し、今までとは別の道、神様と共に歩む人生が始まったのです。 

 2020年は、いばらの道のりでした。苦しみと悲しみ、痛みの一年でした。呪いの年だと考える人もいるでしょう。新型コロナウィルス感染症拡大の状況の中でも、人間の権力や利権が渦巻き、苦しみに追いやられている人々が多くいます。

 でも心配しなくていいのです。神様が、独り子イエス様を人間の世界にお送り下さったのは、私たちを愛しておられるからです。神様が人間の世界に介入されたのがクリスマスです。私たちの苦しみを御存じの神様が、このままの状態を許すはずがありません。2021年、新しい年、神様のみ業が始まります。呪いが祝福に変わるのです。私たちはそのことを信じて、2020年の最後の週、2021年の最初の時を歩みたいと思うのです。

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日曜礼拝(20年12月20日)

2020-12-20 12:39:29 | Weblog

クリスマス礼拝        2020.12.20

神様のなりふり構わない愛の姿」 ルカ2:1~21

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます。アドベントクランツのろうそく4本に火が灯りました。2020年のクリスマス礼拝です。会堂に集って、あるいはライブ礼拝を通してご家庭で共に、心を合わせて礼拝できますことを感謝致します。

 新型コロナウィルス感染者の増加に伴い、移動が制限されたり、教会に集うことも戸惑うような状況でのクリスマス礼拝です。心からクリスマスおめでとうとは、なかなか胸を張ってといいましょうか。心からのお祝いは、遠慮しがちな状況です。けれども、私たちのために確かに救い主イエス様はお生まれ下さり、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、よみがえり、私たちの罪を赦し、魂を救い、永遠の命を与え、今も共におられるのです。今年のクリスマスは、規模は小さく、思いは大きく、信仰も高く、心から救い主誕生、クリスマスをお祝いしたいのです。

 今日は、ルカによる福音書2章1節から21節を通して、「神様のなりふり構わない愛の姿」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、この世の権力さえ用いられる

 1節には、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」とあります。「皇帝アウグストゥス」という人はローマ皇帝の最初の皇帝となった人物で、世界に名を遺した人であり、強い軍隊を率いて地中海の全体を支配したのでした。

一つの大きな帝国が、地中海世界の全体を支配したことによって平和がもたらされたのでした。アウグストゥスの本当の名前は、オクタビアヌスと言います。アウグストゥスの呼び名は、「尊厳ある者」「尊敬されるべき者」という意味があるようです。当時救い主と言えば、このアウグストゥス、オクタビアヌスのことであり、当時のローマのコインには、「神の子アウグストゥス」と記されていたようです。このオクタビアヌス、つまり

アウグストゥスの誕生日は、8月だそうで、8月を英語では、「オーガストAugust」で、

このオーガスト、8月はアウグストゥスから来ているようです。ローマ歴では、皇帝の誕生日8月を新年とした皇帝の誕生日でユーアンゲリオン(福音)の始まりと考えたようです。良き知らせは、アウグストゥスを指していましたが、歴史家ルカは、アウグストゥスの名前を残しながら、本当の福音は、イエス・キリスト様の誕生にあることを示しているのです。

 このアウグストゥスから全住民に住民登録をせよとの命令が出たのです。住民登録とは、ローマ帝国が住民から税金を取るという徴税を目的としたものでした。ヨセフはダビデ家に属していたので、ナザレからベツレヘムに行かなければなりませんでした。ベツレヘムは、ダビデ王の出身地でありましたから、この地で救い主が生まれるという事は、神様の御心でした。ミカ書5章1節には、「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」と預言されています。リビングバイブルには、「イスラエルの支配者が生まれる地となる。」とあります。

 ヨセフは、マリアを連れて行くことにしたのです。もし、ヨセフだけがベツレヘムに行っていたら、救い主はナザレで生まれることになり、預言の成就とはなりません。マリアが妊娠したということは、ナザレンの村の人々には秘密にしていたでしょうか。妊娠がわかれば大変な事になるでしょう。マリアには、ナザレには居場所がなかったのです。親戚のエリサベトの所にかつて三ヶ月滞在した経験がありますから、エリサベトの所でもよかったでしょうが、ヨセフはマリアを連れてベツレヘムに行ったのです。ナザレに留まることができないという困難、ナザレに居場所がないという状況も、救い主誕生のために、神様が導かれたように思うのです。私たちが、経験する思いがけない状況や環境、困難や苦しみがあったゆえに、神様のみ業が起こるという事を聖書自身が語っているように思うのです。

 

 二、救い主は最も汚れた場所に生まれた

 ヨセフとマリアは、大変な思いで、状況でベツレヘムにやって来たことでしょう。妊娠したことがないので、私にはわかりませんが、つわりがあったり、お腹の赤ちゃんが大きくなると腰が痛くなったり、様々な苦しいことが重なることでしょう。それをそばで見ているヨセフもナザレからベツレヘムに旅行する中で、いろいろと気配りや配慮のゆえに疲れたのではないでしょうか。ヘトヘトになってベツレヘムに着いたのはいいですが、どこの宿屋も満員です。日本では、Go To トラベルが全国で一時停止になりましたので、ホテルや旅館は、キャンセルで、ある旅館は3000万円ほどの損失ですと言っておられました。ベツレヘムの宿屋はどこも満室で、込み合っていたのです。

 降誕劇の定番ですが、ヨセフが宿屋を訪ねても、どこの宿屋もいっぱいなので、泊めてくれる宿屋はなかったのです。ですから、ヨセフとマリアには、ナザレにも居場所がなかったのですが、ベツレヘムにも居場所がなかったのです。リビングバイブルには、「宿屋が満員で、泊めてもらえなかったからです。」とあります。宿屋になかなか泊めてくれなかったというのは、満員でどうしようもなかったという理由の他に、もう一つ大きな理由がありました。それは、マリアの妊娠でした。イスラエルでは、律法には、出産に対する規定がありました。男の子を出産した時は、七日間汚れているので産婦は出血の汚れが清まるまで33日間の間、家にとどまる(レビ記12:2~4)ことが規定されていたんです。そして、清められるまでは、汚れていると考えられるので、産婦が触ったものはみな汚れるわけですから、妊婦を宿に留めて出産でもされたら、その部屋は一か月以上も使えない。いや、そんな人がいる宿屋には誰も泊まりたくはないでしょう。そのような理由で、今にも生まれそうなマリアのお腹を見ては、誰も泊めてはくれなかったのですが、家畜小屋には泊まることができたというわけです。いや、馬小屋、家畜小屋にしか泊まれない状況が、そこにはあったように思うのです。

 救い主の誕生は、汚れた場所にしか泊まれないという最も低い場所、情けない場所、行きたくはない場所にお生まれになったということなのです。そして、これこそが、父なる神様の御心なのでした。生まれたイエス様は、当然、家畜のえさ箱、飼い葉桶の中に寝かされたのです。7節には、「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。場所だけではなく、人々の心に、困っている夫婦を迎え入れようとする思いがなかったのです。「言(ことば)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)と聖書自身が語っています。全世界の救い主として誕生されたイエス様でしたが、子どもが生まれるのに、祝福してくれる人は誰もいなかったのです。

 神様は、旧約の預言の成就のために、皇帝アウグストゥスの権力を用いられ、居場所がないというマリアの立場をも用いて、救い主は預言の通りにベツレヘムに生まれたのでした。全ては神様の御手の中にあることでした。私たちも、いろいろな状況の中で、受け入れられなかったり、無視されたり、居場所がないというせつない思い、辛い思いを経験することがあります。イエス様は、ご自分もその辛い経験を体験し、私たちの痛みや苦しみを理解して下さるのです。全ては神様の御手の中にあるのですから、何が起ころうとも、どのような苦しみを経験しようとも安心して、神様にお任せしたいと思のです。

 

 三、乳飲み子こそ救い主のしるし

 8節からは羊飼いのことが記されています。最も小さく、貧しく、汚れた場所に生まれたイエス様でしたが、神様は当時社会的にものけ者にされていた羊飼いに目を留めて下さり、救い主の誕生を誰よりも早く彼らに伝えたのです。旧約聖書に見る羊飼いには、悪いイメージはあまりないと思います。ダビデも羊飼いでありました。しかし、新約のこの時代は、羊飼いは職業柄、礼拝を守ることや聖書を読むこと、ささげること等できなかったので、律法の指導者たちからは、掟を破る悪い奴ら、どうしようもない存在だと言われ、羊飼いという職業は、臭い、汚い、きつい等、好まれない職業であり、親が羊飼いであったので、その働きを継ぐというのがイスラエルの伝統でした。一般の人々が眠っている時間に、仕事をしなければ食べてはいけない彼らであり、一生懸命に自分の仕事をしていた彼らは社会の隅に追いやられていたのです。そのような彼らに、驚くような知らせが届くのです。

 羊飼いたちは、主の天使の出現と主の栄光が周りを照らしたので非常に恐れたのです。

リビングバイブルでは、「恐ろしさのあまり震え上がりました。」とあります。天使は言うのです。10節、11節です。「「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」」 恐ろしさのあまり震え上がっている彼らに、「恐れるな。」と言いました。マリアにもヨセフにも語られたクリスマスのメッセージです。全ての人々にとって大きな喜びである救い主が、メシアが羊飼いたちのために生まれたのです。

 羊飼いたちは、毎週の礼拝を守っていたのではありません。羊の世話がありましたから礼拝には行けません。彼らは神様に出会いたいとも思っていなかったでしょう。神様は罪人には会って下さらない。正しい人、清い人には会って下さる。だから自分たちは神様に出会うことなど考えたこともなかった。しかし、神様の方は、礼拝も守れない、礼拝を守らない、聖書も読めない。聖書を読まない。奉仕もできない、奉仕をしない。献金もできない、献金をしないような彼らに出会って下さった。神様の栄光を見せて下さったのです。神様の前に最もふさわしくない者のところに、神様は来て下さったということなのです。私たちが、クリスチャンとして、クリスチャンではないとしても、ふさわしくないと感じる、あなたの所に神様は来て下さった。それがクリスマスなのです。

 12節を共に読みましょう。「「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」」 救い主であることの証拠は、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」なのです。そして、この乳飲み子が、大きな喜びの根拠なのです。救い主の証拠は、権力でもなく、強さでもなく、財力でもなく、数でもなく、きらびやかさや知識ではありません。「「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」」なのですから、最も小さく、弱く、貧しく、助けてもらわなければ生きていけない乳飲み子なのです。ここに、ここにこそ、神様のなりふり構わない愛の姿があるように思うのです。このお方は、生まれる時には居場所がありませんでした。新生児が生まれる場所としては不適切な場所でした。非衛生的な劣悪な場所でした。その居場所のなかったイエス様は、ご自分の居場所を十字架とされたのです。全世界の人を救うために十字架につけられ、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。死んで葬られ三日目によみがえられて、神であり救い主であることを証明されたのです。イエス様の十字架と復活のゆえに、私たちの罪が赦され、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命が与えられたのです。十字架と復活が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の救い主としての証とされたのです。

 

 Ⅲ結論部

 「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」は救い主の姿であり、神様のなりふり構わない愛の姿であったのです。羊飼いたちは、そのままの自分たちが、気を使うことなく、遠慮することもなく、救い主の所へ行って出会い確認し、喜び、賛美し、神様をあがめたのです。クリスマスは、誰もが気を使うこともなく、遠慮することもなく、イエス様に出会えることです。ふさわしくないと思う人にこそ、イエス様は、あなたのために生まれて下さったのです。そのことを覚えて、感謝したいのです。

 今日は、竹下太陽君が洗礼を受けられます。自分の罪を認め、イエス様を主と告白して、救いが与えられました。これからの信仰生活のために祈っていただきたいと思います。

 今年は、苦しみの年でした。しかし、その苦しみをも恵みに変えて下さるイエス様が恐れるな、と言われ、共におられますから、安心して、信頼して歩んでまいりましょう

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日曜礼拝(12月13日)

2020-12-13 11:56:30 | Weblog

主日礼拝

2020.12.13

「Go To Jesus」

詩篇12篇(新共同訳)

 

Ⅰ導入部

  • みなさん、おはようございます。このようにして本日もみなさんとともに礼拝を捧げることのできる恵みを心より感謝いたします。
  • 祈りをもって、このメッセージを始めさせていただきます。…

 

  • アドベント第3週になりました。いよいよ、クリスマスが近づいています。私は1月から、詩篇から順番に語ってきましたが、アドベントの説教でも、詩篇を語るかどうかということは悩みました。
  • しかし、この詩篇を読むなかで、この詩篇から、クリスマスの恵みを聴くことができましたので、今回も詩篇12篇から、「Go To Jesus」と題して、クリスマスのメッセージを語っていきたいと思います。

 

Ⅱ本論部

一.苦しみのなかで祈る

  • この詩篇12篇も、これまでの詩篇と同様、「苦しみ」のなかにあるときの、1節によればダビデの詩であると考えられています。
  • 先ほど申し上げたように、この一年、私は毎月の礼拝説教のなかで、詩篇1篇から順番に1篇ずつ語らせていただきましたが、どれも非常に重い詩篇でした。
  • 当然、1月に詩篇を語り始めたときは、まさかこんな1年になるとは思いもしませんでしたが、新型コロナウイルス感染症の流行拡大は、私たち全員の人生に何らかの影響を与え、もちろん人によって差はあるかと思いますが、「苦しみ」を与えてきたのではないかと思います。
  • もちろん、コロナとは関係なく、この一年、さまざまな苦しみを経験された方もいらっしゃることでしょう。この一年間あなたが経験した苦しみを思い浮かべながら、2節からの御言葉に耳を傾けていただきたいと思います。
  • 2節、「主よ、お救いください」。主よ、助けてください。この状況から救ってくださいと、ダビデは祈り求めることから、この詩は始まっていきます。

 

二.偽りのことばと傲慢のことば

  • ダビデが、どのような状況のなかにいたのということは、この詩の続きを読むと分かっていきます。2節の続きからをお読みします。

 

12:2 主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。

12:3 人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。

 

  • ダビデが直面している状況のなかで、問題とされているのは、「ことば」であります。「ことば」でるわけですが、まず問題となっているのは「偽りのことば」です。
  • 2節にある「主の慈しみに生きる人」あるいは「信仰のある人」の対義語、すなわち逆のことばは、3節にあります、「滑らかな唇、二心をもって話」す人です。
  • 「滑らかな唇」って何やねん?と思われるかもしれませんが、これは別の翻訳ですと「へつらいの唇」となっています。つまり良いことばっかり言っている。褒め言葉を語るかもしれない。滑らかに、ペラペラと話している。でも、実際は「二つの心」つまり、本音と建前を使い分けて、「偽り」を語っている。

 

  • もちろん、この社会においては、偽りを語り続けるならば、罰を受けます。政治の世界も、ビジネスの世界も、あるいは友人関係であっても、嘘がバレたなら、その人の信頼は地に落ちます。それは神様がそのようにこの世界を造られ、今も神様が造られた「良さ」、良い部分が残っているからです。
  • 興味深いのが、2節の「信仰のある人」は、別の聖書の翻訳ですと、「誠実な人」となっています。信仰は誠実さをもたらすのです。クリスチャンは、人一倍誠実であることを求められているわけです。
  • しかし、ダビデの目の前には、平気で、その友にさえ嘘をつく人たちがいた。バレなきゃいい。嘘をついてでも、騙してでもこちらが得すればいい。もちろん、場合によっては計画的ではなく、とっさに嘘をつくケースもありますが、それがバレないように、嘘に嘘を重ねる。仮に嘘がバレても、「あれはそういう意味じゃなかった」と言い訳をして、誠実さとは程遠い生き方を選び取っている。
  • そのような現実は、私たちのなかにも、あるいは私たちが生きるこの世界にも確かに存在しますし、ダビデが生きる時代もそうだったわけです。「偽りのことば」が問題になっている。

 

  • もう一つ、ここで問題となっているのが、「傲慢なことば」であります。続く4節からをご覧ください。

 

12:4 主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。

12:5 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」

 

  • ここでは、そのような「滑らかな唇」と「威張って語る舌」がセットになっています。傲慢な、高ぶる言葉を語る。5節によれば、「舌によって力を振るおう」、ことばによって状況をコントロールしてやろう。
  • 確かに、ことばというものには力があります。ことばによって、人を励まし、喜ばせることができます。しかし同時に、だますこともできます。人を深く傷つけることができます。現在は指一本で人を殺せる時代だと言われますが、スマートフォンで書いたそのことばで、人を絶望の淵に叩き落とすことができます。
  • また、人間は、どのようなことばをかけられてきたかということで人格が形成されていくと言われますが、ことばは人を幸せにも、また痛めつけることもできるのです。

 

  • ここに描かれているのは、そのようなことばの力を自分のために利用しようとする人々です。「自分の唇は自分のためだ」と、自分の唇は神様のものではない。自分たちのものである。「わたしたちに主人などはない」。神さまは自分たちの主人ではないと、まさに「傲慢なことば」が語られる。
  • さらに、この詩篇の最後の8節には、このようにあります。

 

12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。

 

  • 「卑しむべきことがもてはやされている」。むしろ、悪を行うと、もてはやされる。そのような状況のなかで、ますます「勝手にふるま」う人々が増えていく。
  • このように、「偽りのことば」と「傲慢なことば」とが、支配する世界に、ダビデは置かれていました。

 

  • 偽りのことばと傲慢なことばとが支配する世界。実はそれは、イエス・キリストが、あのクリスマスの夜に生まれた世界もそうでした。
  • イエス様がお生まれになった時代、ユダヤを治めていたのはヘロデという王様でした。彼のもとに、東の国から博士たちがやってくる。そして、こう言うのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

 

  • ヘロデ王はそれを聞いて、不安を抱いたと聖書に書いています。ヘロデ王は自分の権力が脅かされるのではないかと考え、恐れを覚えました。イエス様が生まれることになっているのはベツレヘムだということを調べた上で、博士たちに対して、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言います。
  • しかし、これはご存知の通り、大ウソで、本当は自分の代わりに王になるとされているその子を抹殺しようとしているのです。実際、その後博士が戻ってこないことが分かると、ベツレヘム周辺にいる一才以下の男の子を皆殺しにする命令を下します。文字通り、その傲慢なことばが、人を殺すのです。
  • 自分の利益のためなら、偽りを語ることも、嘘をつくことも厭わない。そして、自分こそがその王の地位にあるべきであり、そのためなら何を犠牲しても構わないという傲慢。そのような王が君臨する世界に、イエス・キリストは生まれたのです。

 

三.ことばが人となった〜Go To Earth

  • ここでもう一度詩篇に戻りましょう。偽りのことばが、傲慢なことばが、支配する世界のただなかで、詩人は、ダビデは、このようなことを語ります。6節からをご覧ください。

 

12:6 主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」

 

  • ダビデは言うのです。「主は言われます」。ここでダビデは、主のことばに注目します。偽りのことば、傲慢なことばに満ちている世界のただなかで、神のことばに耳をすますのです。
  • 主は言われるのです。「苦しむ者」が、「貧しい者」がいる。彼らは「呻いている」。あるいは嘆いている。そのような者たちに、彼らが「あえぎ望む救いを与えよう」。彼らが求めている、慕い求めている、「救い」を与えようと主は語られるのです。
  • この詩篇の冒頭の2節で、「主よ、お救いください」とダビデは叫んでいました。その叫びに、主は答えてくださった。「今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」

 

  • イエスさまがお生まれになった時代も、先ほど申し上げたように、ヘロデの支配下で、あるいはヘロデの背後にいて、軍事力を背景にして重い税金を取り立ていたローマ帝国の支配の下で、人々は苦しんでいました。このクリスマスの季節は、北半球では、寒く、また冬ですから、夜が長い、暗闇の深い季節です。
  • クリスマスという季節は、実は自死、自殺者が一番多い季節だと言われます。寒くなり、夜が長くなり、気持ちが落ちてくる。一方、街は華やかで、道行く人々は幸せそうで、自分とのギャップを感じる。そのようななかで絶望してしまう人々が多いそうです。
  • 世界で最初のクリスマスの夜も、世界を暗闇が覆っていた。この詩篇と同じように、2節にあったように、「主よ、お救いください」と人々は叫び求めていた。
  • その叫びに、もちろん主は、聖書のなかで、何度も助けを、救いを与えてくださいました。しかし、あのクリスマスの夜、主は「主よ、お救いください」という人々の叫びに、究極の答えを与えてくださったのです。主は立ち上がってくださった。具体的な行動を起こしてくださったのです。その独り子であるイエス・キリストを、この世界に送ってくださったのです。

 

  • 本日のタイトルはGo To Jesusです。みなさんはGo Toしていますか?Go ToトラベルやGo To Eatを使われた方もいらっしゃると思いますが、Go To Jesusはしているでしょうか?
  • クリスマスはChrist Mas(ミサ)、すなわちキリストを礼拝する日です。イエスのもとに行く日です。そしてそれは生き方です。クリスマスという生き方があるのです。教会で、キリストを礼拝し、そこから祝祷をもって遣わされる日常のなかで、キリストを礼拝し続ける。キリストを覚え、キリストに祈り、キリストを頼って生きること、それがGo To Jesusであると思うのですが、実はまず、Go Toしてくださったのは、Go To Earth、しかも全然お得じゃない、あらゆる犠牲を払ってこの世界に来てくださったのがイエスさまだった。

 

  • イエスさまは、特にヨハネの福音書において、「神のことば」であると言われます。ことばが人となった。イエスさまという人物が、「ことば」とは不思議な気もしますが、それはこういう意味であると言われます。
  • 神さまは、ことばでこの世界を造られました。この世界を見ると、特に美しい自然を見ると、神さまがどれだけこの世界を愛しておられるかが分かるのです。
  • 神さまは、アダムとエバが、人類が反逆した後も、「帰ってこい」「あなたを愛している」と語られ続けました。この6節のことばもそうです。イスラエルの民に語っているのです。苦しむ人・貧しい人はもちろん、「偽りのことば」「傲慢なことば」を語る者たちさえ向かっても語っているのです。「あなたを愛している。あなたを救いたいんだ。あなたを変えたいんだ。」

 

  • 旧約聖書のなかで、神さまは何度も何度も、イスラエルの民に、そしてイスラエルの民を通して、全世界に、何度も語ってきました。「わたしはあなたを愛している。あなたを救いたいんだ。あなたを変えたいんだ。」
  • そして、「わたしはあなたを愛している。あなたを救いたいんだ。あなたを変えたいんだ。」という神さまの思いが、神のことばが、最もはっきり現れているのが、イエスさまという存在である。

 

  • ご自分のたった独りの子どもを、この世界に送るほどに、あなたを救うために、ご自分のたった独りの子どもを与えるほどに、あなたを愛している。あなたを救いたい。この子にあなたの罪を背負わせ、十字架にかけることで、あなたを救う。復活の命、永遠の命を与える。あなたの人生を変える。
  • そして、イエスさまはもう一度来られる。今はアドベントとして、クリスマス、つまりイエスさまが最初に来られた日を待ち望んでいますが、私たちは第二のアドベントを生きている。つまりイエスさまがもう一度来られる日、すべての苦しみから解放され、新しい天、新しい地に迎え入れられるその日がやってくるのだ。
  • このような神さまの想いが、神さまのメッセージが、神のことばが、イエスさまというお方を見るときに分かるのです。

 

  • 7節では、「主の仰せ」、つまり主のことばは「清い」のだ。「土の炉で七たび練り清めた銀」、それは最高級の銀です。どんな宝も及ばない最高の価値ある存在がイエスさまである。
  • 8節、「主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。」神のことばは、偽りのことばでも、傲慢なことばでもない。それは誠実なことばである。神さまは絶対に約束を破ることがない。だから大丈夫なんだとダビデは歌っているのです。

 

Ⅲ結論部

  • 偽りのことば、傲慢なことばが支配する世界のなかで、それでも神のことばを聞こうとして、ご自身のもとに来る人を、イエスさまは絶対に見捨てることはありません。「今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう」と今もあなたを招いておられるのです。
  • だから、Go To Jesus、今日も私たちはイエスさまのもとに来ました。イエスさまを礼拝するために、Go To Jesusしたのです。これから始まる一週間、ひょっとしたら、偽りのことば、傲慢なことばに傷つけられるかもしれない。あるいは、私たちがそのようなことばを語ってしまうかもしれない。
  • 大切なのはそれに気づくことであります。もし、それに気づいたならば、私たちは急いで、このお方を拝みに行きたい。クリスマス、キリストを礼拝する生き方に戻り続けていきたい。永遠のことば、神のことばが人となったイエス・キリストに、誠実なことば、謙遜なことば、私たちを愛し、救い、造り変えることのできる方に、祈りながら、頼りながら、それぞれの場所に遣わされていこうではありませんか。お祈りしましょう。
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日曜礼拝(2020年12月6日)

2020-12-06 19:28:43 | Weblog

アドベント第二礼拝          2020.12.6

そこに愛はあるんか」 マタイ1:18~25

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第一日曜日を迎えました。アドベントの第二の礼拝です。新型コロナ感染者増加の中にありますが、会堂に集い、あるいは、ご家庭でのライブ礼拝を通して共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 毎年ですと、女性会のクリスマスがあり、駅前キャロルが昨日行われて、と話すのですが、今年は女性会のクリスマスも駅前キャロルも中止で、何かいつもとは違う流れの中でのアドベントを迎えております。

 いつもの12月、師走と言えば、クリスマスや新年を迎えて活気づいている季節です。しかし、新型コロナウィルス感染者の増加や医療のひっ迫で、不要不急の外出の制限願いが出されたり、飲食店の営業時間の時短要求が出たりと、クリスマスでお祝いするとか、年末年始に実家や故郷に帰って家族と過ごすという事も躊躇しなければならない事態です。ある意味では、一年で一番楽しめる季節に、じっと何もしないで、我慢して新年を迎えるという寂しい、辛い2020年だと思います。そのような状況で、私たちは、救い主イエス様の誕生に目を留めたいと思います。救い主の誕生だから、喜ばしいことか、というと、そうではない苦しみを経験した人物が今日登場するヨセフでした。今日は、マタイによる福音書1章18節から25節を通して、「そこに愛はあるんか」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、愛するがゆえに

 今日はイエス様の父として選ばれたヨセフの話です。聖書は、19節でヨセフの事を「正しい人であった」と紹介しています。リビングバイブルでは、「神の教えを堅く守る人」とあります。詳訳聖書には、「まっすぐな人」とあります。ヨセフは、律法に忠実な人、厳格な人、神様とのかかわりにおいて義しい人、曲がったことの嫌いな人と言えます。

 彼の職業は大工であったと言われますが、仕事においても人格においても真面目な人であったのでしょう。違う見方をすれば、ヨセフは偉大なダビデ王の子孫です。ダビデの子どもたち、子孫はイスラエルの王になった者もあり、偉大なダビデ王の子孫が大工であるという事は随分落ちぶれたという見方もできるかも知れません。聖書は、救い主はダビデの子孫からと預言し、ヨセフもマリアもダビデ王の子孫であったのです。

 ダビデ王家の子孫であったヨセフは、大工として汗を流し、つつましい生活を送っていたと言えます。そして、神様が救い主の母としてマリアを選ばれたように、大工として真面目に働き、律法にも忠実なヨセフを救い主の父として選ばれたのです。家柄としては申し分ないヨセフでしたが、大工として普通の生活をしていたのです。

 聖書は、18節で「イエス・キリストの誕生の次第」として、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

と記しています。先週の受胎告知でも、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)と天使が告げた言葉と同じです。

 19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。リビングバイブルには、「婚約を破棄しようと決心しました。しかし、人前にマリヤの恥をさらしたくなかったので、ひそかに縁を切ることにしました。」とあります。婚約は結婚と見なされ、1年間の期間をおいて一緒に住むようになるようですが、一緒に住む前に、マリアが身ごもっていることがわかったのです。ヨセフは律法に忠実な人であり、厳格な人、神様とのかかわりにおいて義しい人、曲がったことの嫌いな人でしたから、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。

 律法には、他の男と関係を持った娘をめとることは禁じられていました。また、このまま婚約を続ければ、マリアは不貞を犯したということで、周りの人々から責められ訴えられるのです。ヨセフがマリアを訴えたら、彼女は石打の刑で処刑されるというのが律法の定めだったのです。

 ヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず」とあります。新改訳聖書には、「さらし者にはしたくなかった」とあります。律法に忠実で正しい人であったヨセフは、マリアを愛するがゆえに、婚約をひそかに解消して、縁を切って分かれる決断をしたのです。それは、二人が遠く離れて二度と会えないことを意味していました。婚約破棄の事はマリアには内緒で済ませるつもりでいたのです。そして、この決断は、自分が愛し、大切に思っていたマリアを失う事になるのです。ヨセフの決心やこれからの行動は、愛のゆえなのでしょうか。そこに愛はあったのでしょうか。

 

 二、用いられることの痛み

 ヨセフは一人悩みました。マリアの妊娠は、マリアへの不信、怒り、恨みを生み出したのかも知れません。ひそかに縁を切ろうとしたことは、マリアを信じることができなかったからかも知れません。マリアは、天使から「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と告げられたことをヨセフに言わなかったのでしょうか。ルカによる福音書を見れば、天使が「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」(ルカ1:36)と聞いて、エリサベトの所に行ったので、ヨセフに言えなかったのでしょう。聖書は、「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」(ルカ1:56)とありますので、そこで妊娠が発覚したのでしょう。マリアは、エリサベトの家に三ヶ月いたと言えば、ヨセフの疑いもなかったのかも知れません。今の時代のように、すぐに連絡ができない時代でしたから、相手の状況をなかなか知ることができなかったのでしょう。マリアの妊娠という現実の前に、ヨセフは苦しみ悩み、絶望を感じ、マリアとひそかに離縁しようと決心したのです。そのように苦しんでいたヨセフにも告げられるのです。

 20節、21節には、「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 一緒に住めるというバラ色の人生からマリアの妊娠という奈落の底に突き落とされたヨセフでしたが、夢を通して天使が語るのです。恐れていた、おののいていたヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と宣言されました。天使の「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉に戸惑っているマリアに、「マリア、恐れることはない。」と宣言されたように、ヨセフにも「恐れるな」と宣言し、マリアとの決別を決心したヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と言われたのです。そして、その理由を、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われたのです。マリアの妊娠は、男性との関係ではなく、聖霊による、神の力によるものなのです。

男の子が生まれるのでイエスという名前を付けること、これもマリアに告げられたことでした。しかし、「この子は自分の民を罪から救うからである。」という内容は、マリアには告げられず、ヨセフだけに語られた内容でした。

 マリアもヨセフも救い主誕生に用いられた人物でした。「用いられた」という言葉は聞こえはいいですが、実際、悩み苦しむのです。神様が人間の世界に直接介入するという状況で、救い主誕生という驚くべき、素晴らしい神の業ですが、そのために用いられたマリアもヨセフも苦しみ悩み、痛みを経験するのです。マリアは、具体的に身ごもるのですが、

ヨセフにとっては、全く自分の知らない所での事柄に、戸惑い、マリアに対して怒りや恨み、憎しみがわいていたでしょう。マリアを信じることができなかったのですが、そのようにマリアの事を思って苦しんでいたヨセフに語られ、神様の偉大な業を伝えたのです。

 私たちも神様に用いられることがあります。しかし、それは、華やかさや誰もが認めるような出来事だけにではなく、用いられるがゆえに、苦しみ、悩み、痛みを経験することがあるのです。しかし、その苦しみや悲しみ、悩みや痛みは無駄になることはないのです。必ず益になり、祝福をもたらすものになるのです。そのことを信じたいのです。

 

 三、神であり人であることが救い主の証拠

また、天使はマリアが男の子を生むということは、旧約聖書にすでに預言されていたことであることを示すのです。22節、23節です。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」

 インマヌエルとは、イザヤ書7章にある、当時のユダの王アハズに語られたものです。神様に信頼するお方であることを神様自らが証しする一つのしるしとしてつけられた呼び名で、「神は我々と共におられる」という意味があります。この言葉は、共にあるという状態だけを意味するのではなく、「神性と人性が共にある存在」という意味で、神様と人が一つになったというユニークな存在のしるしであって、そのしるしは、「おとめが身ごもって男の子を産む。」ということです。

 フィリピの信徒への手紙では、2章6節~8節には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように、イエス様は神様としての在り方を捨てて、全く人として歩まれました。その歩みは、貧しい者、弱い者として歩まれました。貧しく、弱い者だからこそ、父なる神様に頼らなければならない存在として生きられたのです。神の国を伝える言葉も奇跡の業も、全て父なる神様の語られる通りに、ご命令される通りに忠実に従われたのです。人として人間の世界に遣わされたイエス様は、父なる神様に信頼して生きる模範となられたのです。そして、父なる神様のみこころは、イエス様が全人類の罪の身代わりに十字架にかかり、十字架で裁かれ、血を流し、命をささげることでした。死ぬことだったのです。しかし、死んで葬られたイエス様は三日目によみがえり神であることを示されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命が与えられたのです。人類の罪の身代わりになれるのは、人であり、神であるという存在のイエス様だけなのです。

 ヨセフに語られたのはまさにこの事、「この子は自分の民を罪から救うからである。」ということなのです。

 

 Ⅲ結論部

 ヨセフがマリアの妊娠に対して苦しんだ、悩んだことは、ヨセフがマリアを愛し、大切にしていたということだと思います。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」ということは、そこに愛があったのです。このようにマリアに対する、そして、マリアの身ごもったイエス様に対するヨセフの愛が、神様に対する忠実な従順が、イエス様の父なる神様への忠実な従順につながっているような気がします。イエス様の誕生も、イエス様の十字架と復活も、そこに神様の愛があったのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)「そこに愛はあるんか」という説教題ですが、「ここに愛がある」のです。イエス様の愛で私たちは今も愛されているのです。私たちも神様の愛に触れて、神様の愛に押し出されて、ここに愛があるとイエス様を紹介したいのです。このクリスマスの時期にイエス様の愛を紹介したいのです。この週もイエス様に愛されていることを覚えて、感謝して過ごしてまいりましょう。

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