賛美礼拝(復活後第二) 2017.4.30
「神さまの言うとおり」 列王記下7:1~11
Ⅰ導入部
おはようございます。4月の第五日曜日を迎えました。新年度、2017年度は一か月を終わることになります。今日は賛美礼拝として、愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を心から賛美できることを感謝致します。
昨日からゴールデンウィークが始まりました。休みが長い人で9日間、短くても7日間の休みとなります。海外、日本と旅行をされている方もおられますし、久しぶりに出会う友人やご家族とのお交わりもあるでしょう。どこへ行っても人人人なので、家でのんびりという方もおられるでしょう。私と家内、教会学校教師の数名の方々は、長崎で開催される日本ナザレン教団、オールメンバーズキャンプに参加します。全国から110名の方々が集まる予定です。集会が祝福されますようにお祈り下さい。
水曜日の祈り会は、朝も夜も人数的には少ないと思います。夜は特に少ないと思いますので、ご自宅でゆっくりされる方々は、水曜日の祈り会に出席して、いつもとは違うゴールデンウィークを体験されてはいかがでしょうか。きっと、恵まれることでしょう。
先週は、教会総会が行われ、2016年度の行事、会計決算の承認と感謝、2017年度の行事と予算を承認していただき、神様に期待して、この年度も歩ませていただきたいと心一つにしたことでした。また、役員選挙が行われ、2017年度の役員の方々が選ばれました。役員のためにお祈りして下さり、お支え下さいますようにお願いいたします。
さて、今日は、旧約聖書列王記下7章1節から11節を通して、「神さまの言うとおり」と題してお話いたします。
Ⅱ本論部
一、神様の言葉を信じられない私と共にいる神様
アラム王のベン・ハダドは、全軍を招集して攻め上りサマリアを包囲しました。ですから、サマリアは大飢饉に見舞われました。聖書は、「ろばの頭一つが銀80シェケル、鳩の糞四分の一が五シェケルで売られるようになった。」(列王記下6:25)とあります。リビングバイブルには、「ろばの頭一つが一万五千円、鳩の糞0・五リットルが九百円」とあります。イスラエル人は、汚れた動物とされるろばの頭さえ食べるようになったのです。律法を忠実に守るイスラエルの人々も飢饉にはどうすることもできませんでした。背に腹は代えられないのです。エサウが食べ物を前にして、ヤコブから長子の権利をこの食べ物と交換してと言われて、腹ペコのエサウには、目の前の食べ物と比べて長子の特権はどうでもよくなったように。人は食べるためには何でもしてしまうのだと思うのです。
列王記6章28節から31節には、二人の母親がいて、一方の子どもを食べて、翌日、もう一方の母親に子どもを食べようと言うと子どもを隠してしまった、という話があります。子どもを愛する母親でさえ、腹がすけば、極限状態になれば、子どもさえ食べてしまうのです。こんなひどい状態はエリシャのせいだとイスラエルの王は、エリシャに刺客を送り命をねらいます。イスラエルの王の使者の言葉、「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何が期待できるのか。」(列王記下6:33) リビングバイブルには、「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」とあります。
どうでしょう。生ける真の神を信じるイスラエルの人々は、サマリアがアラム軍に包囲された。神様はアラム軍から守ってくれなかった。飢饉がひどくなり、食べ物を与えて下さらないから、汚れた動物ではあるのにろばの頭が一万五千円で売られ、鳩の糞四分の一が九百円で売られるような、あり得ない状況から神様は守って下さらない。そして、母親が自分の子どもを食べてしまわなければならないような状況を、神はなぜ許され、助けて下さらないのか。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何が期待できるのか。」 「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」と思わざるを得ない。特に普段から神様を信じていないイスラエルの王や家来たちは当然、神様の助けに期待できなかった。期待しなかったのです。
私たちは、聖書に記された神様、天地宇宙を創造され、イエス・キリストをこの世界に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さった。そのような愛で愛して下さっているのにもかかわらず、私たちは、いろいろな苦しみや悲しみを経験します。「なぜ、そんな!」と思うような、びっくりするような苦しみや痛みを経験することが確かにあるのです。その苦しみや悲しみが続くと、助けがなかなか与えられないと神様を信じている私たちも、もしかしたら、「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何が期待できるのか。」 「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」というような思いになってしまうことがあるのかも知れません。
でも、神様は、イエス様は、見捨てておられるのではありません。助けられないのではありません。助けることができるのです。もし、助けを与えないとするならば、そこには深い神様の思い、おこころ、みこころが確かにあるのです。私たちの苦しみと共にイエス様はおられるのです。私たちが苦しければ苦しいほど、イエス様のまなざしはより強く注がれ、イエス様がそば近くにおられることを信じましょう。
二、神様の約束の言葉はすでに語られえている
「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」というイスラエルの王の使者の言葉に対してエリシャは語るのです。皆さんと共に7章の1節を共に読みましょう。「エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる」」 リビングバイブルには、「あすの今ごろには、サマリアの市場で小麦粉十二リットルと大麦二十四リットルがそれぞれ三百円で売られるようになる。」とあります。
考えられないような苦しみを経験しているサマリアの人々に、神様なんて信じられない、という彼らに、明日の朝には、市場では安売りセールが行われるとエリシャは、神様の言葉を語ったのです。良き知らせを語りました。信じられないような良き知らせでした。その言葉を聞く誰もが、「ええっ、本当に!」と驚くような内容です。この状況で、信じられない神様の言葉でした。
イエス様の弟子たちは、イエス様が十字架で死んで墓に葬られ、三日目によみがえったというイエス様の復活を信じることができませんでした。イエス様が復活したという天使の言葉を伝えた婦人たちの、イエス様がよみがえられたという言葉は、ばかげた、たわごとだと思ったのでした。イエス様は、トマスには、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と信じられないトマスに語りかけられたのでした。
私たちは、苦しみや悲しみから助け出されない時、不幸が続く時、神様を信じられないようになる時があります。また、その苦しみや悲しみが大きくて、希望も無くなってしまった時、神様の言葉を、良き知らせを信じられないことがあるように思うのです。
王の介添えの侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」(7:2)と言いました。苦しみが大きければ大きいほど、悲しみが深ければ深いほど、良き知らせ、神様の約束の言葉を信じることができないことがあるのです。
「おいしい話には裏がある」とよく言われます。儲け話ほどもうかることはない。だまされるということがよくあります。ですから、良き知らせに対して、私たちは自己防衛するのです。おいしすぎる話ほど信用できないのです。「あすの今ごろには、サマリアの市場で小麦粉十二リットルと大麦二十四リットルがそれぞれ三百円で売られるようになる。」というのは、おいしすぎる内容ではないでしょうか。王の介添えの侍従が、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言ったこともわかるような気もするのです。
けれども、神様の言葉は、私たちが信じる、信じないにかかわらず、神様の言葉として宣言されるのです。全能なる神、復活の主としての神様の言葉なのです。私たちは、私が信じる、信じられるということではなく、神様の言葉としてしっかりと受け取り、自分が信じられるから信じる。信じられないから信じないという自己防衛ではなく、神様を神様として、その神様が語られた言葉として、信じ、受け入れたいと思うのです。
三、神様の言葉の実現のために人が用いられる
聖書には、偉大な預言者、指導者が神様に用いられています。信仰深い人、信仰の強い人が用いられています。けれども、神様はまた、弱い者、小さい者を神様の大切な働きのために、重要な役割に用いられるのです。
ここに、重い皮膚病を患っている4名の人がいました。その病気のゆえに、サマリアの人々と共に城門の中で暮らすことは律法では許されていませんでした。彼らは、城門の中にいる人々からの残り物で生きることができたのです。ですから、城門の中でさえ、「ろばの頭一つが一万五千円、鳩の糞0・五リットルが九百円」ですから、「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」というのが城門の中ですから、この4人はサマリアの人々からの残り物をもらうことは不可能だったのです。だから、このまま座っていても死ぬだけなら、敵ではあるけれども、アラム軍に投降し、食べ物をもうおう。殺されても同じことだと、話し合って4人は、アラム軍の所に行ったのです。
すると、そこには誰もいなかったというのが現実でした。聖書は、「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせたため」(7:6)とあり、アラム軍は恐れて、馬も、ろばも捨てて陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去ったのでした。これが神様の方法でした。人間の誰もが考え付かない方法、神様の方法でした。
思い皮膚病を患っている4人は、天幕に入り、おなかがすいていますから、飲み食いし、金や銀や衣服を持ち出して隠し、違う天幕に入り食べ、金や銀や衣服を持ち出したのです。バイキング料理に群がる空腹の人のようですね。おさらに食べ物をいっぱい入れて、テーブルに置いて、また、大きいさらにいっぱい入れて、テーブルにと何度も繰り返す。自由に思うだけ食べられる。バイキング形式はいいですね。大好きです。
けれども、4人はふと気づきました。9節を共に読みましょう。「彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」」 4人は、門衛に、アラムの陣営には誰もいない事、天幕がそのままであることを伝えました。王はアラム軍の策略だと言いましたが、家臣の一人が偵察を送り調べてみるように助言し、行ってみると4人の言った通りでした。それで民はアラム軍の陣営で好きなだけ自由に、食べ物や衣服などを得ることができたのです。その結果、「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる」というエリシャの言葉、つまり、神様の言葉は成就したのです。
「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言った王の介添えの侍従は、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」と言ったエリシャの言葉の通り、安売りセールを見ることはできましたが、民に踏み倒されて、それを食べることはできなかったのです。
神さまの言う通りになったのです。人間が信じようが信じまいが、疑おうがどうしようが、神様の言葉は実現するのです。聖書はそれを約束し、宣言しているのです。
Ⅲ結論部
私たちは、神様を信じていますが、あの侍従のように、聖書の言葉、神様の言葉を疑ってしまうことがあります。けれども、あの侍従のようには裁かれません。それは、神の子、イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり死んで下さり、死んでよみがえって下さったことにより、私たちの罪が赦され、魂が救われ、永遠の命が与えられたからです。この良き知らせが、福音が私たちに与えられているのです。
あの4人がアラム軍の陣営に行くと、そこには誰もいませんでした。食べ物も金も銀も、衣服も好きなだけ自分のものにできました。敵を打ち倒すことも、追い払う必要もなく、そこには良き知らせの通り、恵みがあったのです。イエス様の十字架と復活は良き知らせです。私たちが信じようと信じまいと、神様の救いの業は完成しているのです。全ての人の罪はイエス様の十字架と復活で完成し、全ての人は救いの中に置かれているのです。
後は、その事実をありがとうございます、と感謝すればいいのです。もうすでに、救いの業は全ての人に、あなたになされていることを神様のみ業として感謝すればいいのです。
「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言った王の介添えの侍従は、裁きを受けましたが、私たちはイエス様の十字架と復活のゆえに、裁かれないのです。「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」と私たちが、苦しみの中で語ったとしても、私たちは裁かれないで、イエス様に愛されているのです。私たちは、この週もイエス様に愛されていることを感じながら、イエス様に信頼して歩んでいきましょう。
また、「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。」と4人の人が悟ったように、私たちは神様から多くの恵みをいただいています。また、この福音によって救いが与えられています。その恵みを、多くの人と分かち合いたいと思うのです。神さまの言う通り、聖書の言葉は、神様の言葉は実現するのです。「お言葉どおり、この身になりますように。」と信じられないような、救い主誕生の驚くべき告知を受けたマリアのように、神さまの言う通りなると信じて、聖書の言葉に触れてこの週も歩んでまいりましょう。