江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年4月30日)

2017-04-30 12:25:01 | Weblog

賛美礼拝(復活後第二)      2017.4.30

        「神さまの言うとおり」 列王記下7:1~11

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。4月の第五日曜日を迎えました。新年度、2017年度は一か月を終わることになります。今日は賛美礼拝として、愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を心から賛美できることを感謝致します。

昨日からゴールデンウィークが始まりました。休みが長い人で9日間、短くても7日間の休みとなります。海外、日本と旅行をされている方もおられますし、久しぶりに出会う友人やご家族とのお交わりもあるでしょう。どこへ行っても人人人なので、家でのんびりという方もおられるでしょう。私と家内、教会学校教師の数名の方々は、長崎で開催される日本ナザレン教団、オールメンバーズキャンプに参加します。全国から110名の方々が集まる予定です。集会が祝福されますようにお祈り下さい。

水曜日の祈り会は、朝も夜も人数的には少ないと思います。夜は特に少ないと思いますので、ご自宅でゆっくりされる方々は、水曜日の祈り会に出席して、いつもとは違うゴールデンウィークを体験されてはいかがでしょうか。きっと、恵まれることでしょう。

先週は、教会総会が行われ、2016年度の行事、会計決算の承認と感謝、2017年度の行事と予算を承認していただき、神様に期待して、この年度も歩ませていただきたいと心一つにしたことでした。また、役員選挙が行われ、2017年度の役員の方々が選ばれました。役員のためにお祈りして下さり、お支え下さいますようにお願いいたします。

さて、今日は、旧約聖書列王記下7章1節から11節を通して、「神さまの言うとおり」と題してお話いたします。

Ⅱ本論部

一、神様の言葉を信じられない私と共にいる神様

アラム王のベン・ハダドは、全軍を招集して攻め上りサマリアを包囲しました。ですから、サマリアは大飢饉に見舞われました。聖書は、「ろばの頭一つが銀80シェケル、鳩の糞四分の一が五シェケルで売られるようになった。」(列王記下6:25)とあります。リビングバイブルには、「ろばの頭一つが一万五千円、鳩の糞0・五リットルが九百円」とあります。イスラエル人は、汚れた動物とされるろばの頭さえ食べるようになったのです。律法を忠実に守るイスラエルの人々も飢饉にはどうすることもできませんでした。背に腹は代えられないのです。エサウが食べ物を前にして、ヤコブから長子の権利をこの食べ物と交換してと言われて、腹ペコのエサウには、目の前の食べ物と比べて長子の特権はどうでもよくなったように。人は食べるためには何でもしてしまうのだと思うのです。

列王記6章28節から31節には、二人の母親がいて、一方の子どもを食べて、翌日、もう一方の母親に子どもを食べようと言うと子どもを隠してしまった、という話があります。子どもを愛する母親でさえ、腹がすけば、極限状態になれば、子どもさえ食べてしまうのです。こんなひどい状態はエリシャのせいだとイスラエルの王は、エリシャに刺客を送り命をねらいます。イスラエルの王の使者の言葉、「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何が期待できるのか。」(列王記下6:33) リビングバイブルには、「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」とあります。

どうでしょう。生ける真の神を信じるイスラエルの人々は、サマリアがアラム軍に包囲された。神様はアラム軍から守ってくれなかった。飢饉がひどくなり、食べ物を与えて下さらないから、汚れた動物ではあるのにろばの頭が一万五千円で売られ、鳩の糞四分の一が九百円で売られるような、あり得ない状況から神様は守って下さらない。そして、母親が自分の子どもを食べてしまわなければならないような状況を、神はなぜ許され、助けて下さらないのか。「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何が期待できるのか。」 「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」と思わざるを得ない。特に普段から神様を信じていないイスラエルの王や家来たちは当然、神様の助けに期待できなかった。期待しなかったのです。

私たちは、聖書に記された神様、天地宇宙を創造され、イエス・キリストをこの世界に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さった。そのような愛で愛して下さっているのにもかかわらず、私たちは、いろいろな苦しみや悲しみを経験します。「なぜ、そんな!」と思うような、びっくりするような苦しみや痛みを経験することが確かにあるのです。その苦しみや悲しみが続くと、助けがなかなか与えられないと神様を信じている私たちも、もしかしたら、「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何が期待できるのか。」 「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」というような思いになってしまうことがあるのかも知れません。

でも、神様は、イエス様は、見捨てておられるのではありません。助けられないのではありません。助けることができるのです。もし、助けを与えないとするならば、そこには深い神様の思い、おこころ、みこころが確かにあるのです。私たちの苦しみと共にイエス様はおられるのです。私たちが苦しければ苦しいほど、イエス様のまなざしはより強く注がれ、イエス様がそば近くにおられることを信じましょう。

 

二、神様の約束の言葉はすでに語られえている

「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」というイスラエルの王の使者の言葉に対してエリシャは語るのです。皆さんと共に7章の1節を共に読みましょう。「エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる」」 リビングバイブルには、「あすの今ごろには、サマリアの市場で小麦粉十二リットルと大麦二十四リットルがそれぞれ三百円で売られるようになる。」とあります。

考えられないような苦しみを経験しているサマリアの人々に、神様なんて信じられない、という彼らに、明日の朝には、市場では安売りセールが行われるとエリシャは、神様の言葉を語ったのです。良き知らせを語りました。信じられないような良き知らせでした。その言葉を聞く誰もが、「ええっ、本当に!」と驚くような内容です。この状況で、信じられない神様の言葉でした。

イエス様の弟子たちは、イエス様が十字架で死んで墓に葬られ、三日目によみがえったというイエス様の復活を信じることができませんでした。イエス様が復活したという天使の言葉を伝えた婦人たちの、イエス様がよみがえられたという言葉は、ばかげた、たわごとだと思ったのでした。イエス様は、トマスには、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と信じられないトマスに語りかけられたのでした。

私たちは、苦しみや悲しみから助け出されない時、不幸が続く時、神様を信じられないようになる時があります。また、その苦しみや悲しみが大きくて、希望も無くなってしまった時、神様の言葉を、良き知らせを信じられないことがあるように思うのです。

王の介添えの侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」(7:2)と言いました。苦しみが大きければ大きいほど、悲しみが深ければ深いほど、良き知らせ、神様の約束の言葉を信じることができないことがあるのです。

「おいしい話には裏がある」とよく言われます。儲け話ほどもうかることはない。だまされるということがよくあります。ですから、良き知らせに対して、私たちは自己防衛するのです。おいしすぎる話ほど信用できないのです。「あすの今ごろには、サマリアの市場で小麦粉十二リットルと大麦二十四リットルがそれぞれ三百円で売られるようになる。」というのは、おいしすぎる内容ではないでしょうか。王の介添えの侍従が、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言ったこともわかるような気もするのです。

けれども、神様の言葉は、私たちが信じる、信じないにかかわらず、神様の言葉として宣言されるのです。全能なる神、復活の主としての神様の言葉なのです。私たちは、私が信じる、信じられるということではなく、神様の言葉としてしっかりと受け取り、自分が信じられるから信じる。信じられないから信じないという自己防衛ではなく、神様を神様として、その神様が語られた言葉として、信じ、受け入れたいと思うのです。

 

三、神様の言葉の実現のために人が用いられる

聖書には、偉大な預言者、指導者が神様に用いられています。信仰深い人、信仰の強い人が用いられています。けれども、神様はまた、弱い者、小さい者を神様の大切な働きのために、重要な役割に用いられるのです。

ここに、重い皮膚病を患っている4名の人がいました。その病気のゆえに、サマリアの人々と共に城門の中で暮らすことは律法では許されていませんでした。彼らは、城門の中にいる人々からの残り物で生きることができたのです。ですから、城門の中でさえ、「ろばの頭一つが一万五千円、鳩の糞0・五リットルが九百円」ですから、「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」というのが城門の中ですから、この4人はサマリアの人々からの残り物をもらうことは不可能だったのです。だから、このまま座っていても死ぬだけなら、敵ではあるけれども、アラム軍に投降し、食べ物をもうおう。殺されても同じことだと、話し合って4人は、アラム軍の所に行ったのです。

すると、そこには誰もいなかったというのが現実でした。聖書は、「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせたため」(7:6)とあり、アラム軍は恐れて、馬も、ろばも捨てて陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去ったのでした。これが神様の方法でした。人間の誰もが考え付かない方法、神様の方法でした。

思い皮膚病を患っている4人は、天幕に入り、おなかがすいていますから、飲み食いし、金や銀や衣服を持ち出して隠し、違う天幕に入り食べ、金や銀や衣服を持ち出したのです。バイキング料理に群がる空腹の人のようですね。おさらに食べ物をいっぱい入れて、テーブルに置いて、また、大きいさらにいっぱい入れて、テーブルにと何度も繰り返す。自由に思うだけ食べられる。バイキング形式はいいですね。大好きです。

けれども、4人はふと気づきました。9節を共に読みましょう。「彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」」 4人は、門衛に、アラムの陣営には誰もいない事、天幕がそのままであることを伝えました。王はアラム軍の策略だと言いましたが、家臣の一人が偵察を送り調べてみるように助言し、行ってみると4人の言った通りでした。それで民はアラム軍の陣営で好きなだけ自由に、食べ物や衣服などを得ることができたのです。その結果、「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる」というエリシャの言葉、つまり、神様の言葉は成就したのです。

「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言った王の介添えの侍従は、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」と言ったエリシャの言葉の通り、安売りセールを見ることはできましたが、民に踏み倒されて、それを食べることはできなかったのです。

神さまの言う通りになったのです。人間が信じようが信じまいが、疑おうがどうしようが、神様の言葉は実現するのです。聖書はそれを約束し、宣言しているのです。

 

Ⅲ結論部

私たちは、神様を信じていますが、あの侍従のように、聖書の言葉、神様の言葉を疑ってしまうことがあります。けれども、あの侍従のようには裁かれません。それは、神の子、イエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり死んで下さり、死んでよみがえって下さったことにより、私たちの罪が赦され、魂が救われ、永遠の命が与えられたからです。この良き知らせが、福音が私たちに与えられているのです。

あの4人がアラム軍の陣営に行くと、そこには誰もいませんでした。食べ物も金も銀も、衣服も好きなだけ自分のものにできました。敵を打ち倒すことも、追い払う必要もなく、そこには良き知らせの通り、恵みがあったのです。イエス様の十字架と復活は良き知らせです。私たちが信じようと信じまいと、神様の救いの業は完成しているのです。全ての人の罪はイエス様の十字架と復活で完成し、全ての人は救いの中に置かれているのです。

後は、その事実をありがとうございます、と感謝すればいいのです。もうすでに、救いの業は全ての人に、あなたになされていることを神様のみ業として感謝すればいいのです。

「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言った王の介添えの侍従は、裁きを受けましたが、私たちはイエス様の十字架と復活のゆえに、裁かれないのです。「神様はこんなひどいことをなさった。もうこれ以上、神様の助けなど期待できん。」と私たちが、苦しみの中で語ったとしても、私たちは裁かれないで、イエス様に愛されているのです。私たちは、この週もイエス様に愛されていることを感じながら、イエス様に信頼して歩んでいきましょう。

また、「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。」と4人の人が悟ったように、私たちは神様から多くの恵みをいただいています。また、この福音によって救いが与えられています。その恵みを、多くの人と分かち合いたいと思うのです。神さまの言う通り、聖書の言葉は、神様の言葉は実現するのです。「お言葉どおり、この身になりますように。」と信じられないような、救い主誕生の驚くべき告知を受けたマリアのように、神さまの言う通りなると信じて、聖書の言葉に触れてこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2017年4月23日)

2017-04-23 15:54:08 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一)      2017.4.23

      「ハートが燃える経験」 ルカ24:13~35

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。4月の第四日曜日、復活後第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

先週は、イースター、復活日礼拝でした。3名の姉妹方が、青葉台教会に入会され、青葉台教会の一員となられました。これから共に励まし合い、支え合い、祈り合って、信仰を全うしたいと思うのです。

昨日は、恒例のナザレンピックが行われました。例年よりも人数的には少なかったですが、初めての参加の方々もあり、新しい競技も加わり、とても楽しい運動会を行うことができました。長瀬兄や三浦姉を中心に、準備して下さった方々に心から感謝致します。参加して下さった方々、張り切って頑張って下さいました。ナザレンピックの祝福のために、祈って下さった方々にも感謝いたします。毎年、4月29日に行っておりましたが、今年は22日に行いました。今年参加できなかった方々は、来年は、ぜひご参加下さったらと願っております。3チームに分かれての応援でしたが、やはり自分のチームが頑張っていると、応援も熱くなり、心が燃える経験をしました。

本日は、ルカによる福音書24章13節から35節を通して、「ハートが燃える経験」と題してお話いたします。

 

Ⅱ本論部

一、絶望の中にあるあなたと共におられるイエス様

今日の箇所も復活の記事のひとつです。24章11節には、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とあります。イエス様は、復活されたのに、弟子たちはその事実を信じなかったのです。

二人の弟子が、エマオ、エルサレムから約11キロ離れた場所に向かって歩きながら、婦人たちの話し、つまり墓にイエス様の遺体がないという出来事について話し合い、「そんなことはあるはずがない。では遺体はどこへ行ったのか。」と論じ合っていた時、イエス様が二人に近づいて一緒に歩き始めたのです。 二人の弟子のうち、一人はクレオパという人物でした。クレオパとはギリシャ名で、ヘブライ名はクロパとなり、クロパの妻はイエス様の十字架に立ち会っていたようです。もう一人の名前は記されておりませんが、瀬尾要蔵先生は、ルカではなかったかと言っておられます。

16節を共に読みましょう。「しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとはわからなかった。」 現代訳聖書には、「ところが、主イエスの復活が信じられない彼らの目には、それが主イエスであることはわからなかった。」とあります。 リビングバイブルには、「しかし二人には、イエスだとはわかりません。神がそうなさったのです。」とあります。よく知っている先生であるイエス様が、彼らと共に歩いておられるのに、彼らはイエスだとは気づかなかったのです。

「目が遮(さえぎ)られる」というのは、見えるべきものが見えないということです。イエス様の姿は見ていながらも、イエス様だとはわからないのです。この二人の心境は、落胆と失望、疑問の中にありました。私たちも、信仰生活の中で、イエス様の姿が遮(さえぎ)られることがあるかも知れません。困難や悲しみ、絶望という出来事の中でイエス様が共におられるのに、イエス様が見えない、イエス様を認めない、という状況があるのではないでしょうか。

イエス様の、この弟子たちは、イエス様に希望を置いていました。イエス様だけが望みでした。イエス様に自分の将来を託していたのです。19節にある「行いにも言葉にも力のある預言者でした。」という言葉に表されているように思うのです。多くの奇蹟を行い、その奇跡に胸踊り、イエス様の権威あるお言葉に、この人にこそ人生をかけていこうと考えたのです。彼らの思いは、21節の、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」とあるように、イエス様を政治的な指導者、自分の願いをかなえてくれる指導者として思い描いていたということです。だから、イエス様が捕えられ、裁判を受け、苦しめられ、十字架刑になって死んでしまったという現実、事実は、今までに自分たちがイエス様に仕え、従い、努力してきたこと全てが、水の泡となり、自分たちの人生の目標が失われ、全ての事が否定され、絶望以外の何も残らないという心境でのエマオへの旅であったのです。

しかし、それがどのように自分の思い描いていたことが崩れ去ろうとも、願いがかなわず絶望していようとも、全ての事が否定され、人生の目標を失って、悲しみと苦しみ、絶望の中にあろうとも、イエス様はクレオパたちのそばに寄り添い、共におられたように、私たちと共にいて下さるのです。たとえ、目が遮られ、イエス様を認めることができなくても、イエス様は共におられるのです。私たちが気が付かなくても、イエス様は共に歩んでおられるのです。その事を覚えたいと思うのです。

 

二、聖書に帰れ

イエス様を、イスラエルを解放して下さる政治的な指導者として見ていた弟子たちは、イエス様が十字架にかかって死んでしまわれたことで、大きな悲しみと絶望を経験しました。3年と少しの間、どのような驚くべき奇跡を起こし、権威ある言葉を語って来られたとしても、死んでしまったら一貫の終わりなのです。死という事実の前には、奇跡も権威ある言葉も何の力にもならないのです。

彼らは、イエス様が十字架につけられた場所からエマオへと逃避しようとしていました。エルサレム、それはイエス様の十字架の死の場所、彼らは悲しみの場所から逃げ出したのです。ですから、そのような彼らには、落胆と失望と絶望しかなかったのです。

そして、弟子たちが婦人たちの言葉を聞いても信じないかたくなな心、イエス様が生きておられる、と聞いても、また、イエス様の遺体が見つからなかったことを聞いてもバカげた話だと信じなかったのです。

そのような弟子たちの姿に、イエス様は25節にあるように、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言われたのです。

弟子たちは、物分かりの悪さ、心の鈍さ、信じられないという不信仰がありました。これらの姿勢は、彼らがイエス様のそば近くにいて、イエス様から学び、教えを受け、驚くべき奇跡のみ業を見、権威ある言葉を聞いていても、弟子たちは、イエス様を理解することはなかったのです。放蕩息子の兄は、いつも父のそばにいながらも、父の心、父の兄に対する思いを理解できなかったのと同じだと思うのです。

私たちも、礼拝を守り、メッセージを聞き、聖書を読み、祈りの生活を送っていますが、イエス様を理解できないで、物分かりの悪さや心の鈍さ、信じられない不信仰が、時にはあるのではないでしょうか。

イエス様は、メシアである御自分を理解しない弟子たち、目が遮られてイエス様を認めることのできない彼らに、御自分の体を見せて、傷を見せて、私が十字架につけられたイエスでよみがえったとは言われませんでした。自分の体を見せるのが一番手っ取り早いことだったと思うのです。けれども、イエス様は、そのように見えると言う形では示しませんでした。

27節を共に読みましょう。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」 イエス様の十字架の死というものが、復活というものが、神様の偉大なご計画であること、聖書全体にわたって、その事が預言されている事、十字架の死と復活そのものが、神の愛の表れであり、救いの完成であることを、聖書全体を通して説明されたのです。イエス様の十字架の死は失敗ではなく、神様の救いのご計画、十字架の死を通さなければ復活がないことを示されたのです。

イエス様は、御自分の復活した体ではなく、聖書という視点で、神様のご計画という視点で、十字架の死と復活を見るようにと、聖書全体を通して教えられたのです。

私たちも、神様の奇蹟の業を経験したいと思います。神様の圧倒的な業を見たいと思います。けれども、神様から与えられたラブレター、聖書を通して、聖書全体を通して、神の業を見て行きたいと思うのです。

 

三、見えないからこそ心が燃えた

イエス様は、なお先に進もうとされたので、二人は日も傾いたので、一緒に泊まるようにと願い、イエス様を無理に引き止めたのです。イエス様は、家に入り、食事の席に着き、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡されたのです。5つのパンと2匹の魚で成人男性5千人を養われた時、イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱えて、渡されたことがありましたが、その時、二人の弟子もいたのでしょう。その光景を見ていて、二人の目が開け、イエス様だとわかったのです。

新改訳聖書を見ると、「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。」と表現しています。リビングバイブルには、「その瞬間、二人の目が開かれ、その人がイエスだとわかりました。と同時に、イエスの姿はかき消すように見えなくなりました。」とあります。

共に歩いてきた人物がイエス様だとわかった瞬間、イエス様の姿は見えなくなったのです。イエス様もいじわるだなあと思います。けれども、イエス様は無駄なことはなさいません。イエス様だと気付いた時、イエス様の姿が見えている必要がなくなったということです。イエス様が見えなくならなかったら、32節の事柄は起きてきません。見えるイエス様に集中し、見えるイエス様に頼るからです。しかし、イエス様だと気付いた時、見えなくなったからこそ、32節の事柄が出てきたのだと思うのです。32節を共に読みましょう。 「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

エルサレムからエマオへの道のり、11キロ、2時間から3時間、話した時、いや、聖書全体を説明して下さった時、心燃えていた。あの時、心燃えたよね、と彼らは確かにイエス様の姿は見えなくたったけれども、イエス様の存在がより身近に感じられたのです、そして、イエス様の復活を信じることができたのです。婦人たちの語ったことを信じることができたので、イエス様の復活を他の弟子たちに伝えたいと、そこから、また11キロ、歩いて2~3時間を戻って、弟子たちの所に行ったのです。肉体的には確かに疲れていたけれども、心は燃えていた。霊的には熱きものがわきあがってきた。信仰的には、喜びで満たされていたのです。二人の弟子は、エルサレムからエマオへの道のりは、失望と落胆と疑惑の思いで一杯でしたが、エマオからエルサレムへの道のりは、喜びと確信と祝福の思いで満たされたのです。エルサレムという場所、イエス様の十字架の死の場所が、復活のイエス様に出会って、悲しみの場所、失望の場所、絶望の場所ではなくなったのです。

私たちが、今、現実に経験する悲しみ、失望、絶望の場所が、喜びと感謝と祝福の場所と変えられることを聖書は私たちに約束しているのです。

Ⅲ結論部

使徒言行録8章には、エチオピアの高官の救いの話しがあります。フィリポの導きで、イザヤ書53章を通して、イエス様のことを解き明かしてもらい、フィリポから洗礼を受けました。すると、主の霊がフィリポを連れ去ったと聖書は記しています。そして、その後聖書はこう語るのです。「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」(使徒言行録8:39) 宦官は心燃やされて、喜びに満たされたのです。

聖書はイエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったことを語ります。身代わりとは、イエス様が死ななかったら、私が死んでいたということです。イエス様の十字架の死を通して私たちの罪が赦され、イエス様が復活されたので、私たちに永遠の命が与えられたのです。私たちは聖書、神の言葉を通して、神の愛に触れて、心燃やされる経験を持つことができるのです。私たちは、この週も聖書を通して、神の愛に触れ、心燃やされてイエス様に信頼して、イエス様と共に歩んでまいりましょう

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日曜礼拝(2017年4月16日)

2017-04-16 14:31:19 | Weblog

イースター礼拝(復活日)      2017.4.16

    「全くもって予想もしなかった出来事」 マルコ16:1~8

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。イースターおめでとうございます。イエス様が十字架にかかり死なれ、墓に葬られて3日目によみがえられたことを記念する復活礼拝、イースターの礼拝を迎えました。皆さんと共に、イースター礼拝をささげることのできることを感謝致します。先週の月曜日から土曜日まで、受難週の連夜祈祷会がありました。イエス様のエルサレム入城から埋葬までの聖書の記事を読み、祈りをささげることができました。時間と財をささげて祈祷会に出席して下さった方々に感謝致します。また、その置かれた立場で、祈祷会の時間に心を合わせて下さった方々、連夜祈祷会が祝福されるように祈って下さった方々に感謝致します。来年は、受難週の連夜祈祷会とは、また違った集会を考えたいなあと思わされました。たとえば、木曜日の聖餐礼拝とか聖金曜日礼拝とか、考えてみたいと思わされました。

今日は、全世界のキリスト教会でイースター礼拝が持たれ、復活の主をほめたたえていることでしょう。私たちの礼拝は、マルコによる福音書16章1節から8節を通して、「全くもって予想もしなかった出来事」と題してお話ししたいと思います。

 

Ⅱ本論部

一、既に備えられている

マルコによる福音書15章47節には、「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」とあります。彼女たちは、イエス様の十字架刑を遠くから見まもっていた女性たちでした。彼女たちは、金曜日の日没から始まる安息日のためにイエス様の遺体に香油を十分にぬって埋葬する準備ができないでいたのです。ですからイエス様の遺体を納めた場所を見つけていて、16章1節にあるように、安息日が終わって、イエス様に香油をぬることを計画していたので、イエス様の遺体がどこに納められているのかということが彼女たちには重要だったのです。

安息日が土曜日の日没で終わり、週の初めの日、日曜日の朝早くに彼女たちはイエス様の遺体が収められた墓に急いだのです。少しでも早く、イエス様にお会いしたい。そのお体に香油をお塗りして、ちゃんとした葬りの備えをと願っていたのです。

しかし、問題がひとつありました。イスラエルの墓は、岩を掘ってその入口の所に溝を作り、その溝に大きな石で入り口をふさいでいたので、その大きな石を誰かに転がしてもらう必要があり、その石を転がすことなしには、墓の中には入れないし、イエス様の遺体に香油を塗ることもできないのです。その事を彼女たちは話し合っていました。けれども、大きな石なのに、脇へ転がしてあってのです。

彼女たちは、入り口に大きな石があるので、どうしようもないからとあきらめることはありませんでした。誰かに石を転がしてもらわなければ、話になりませんが、彼女たちのイエス様に対する思いは、イエス様の遺体に香油を塗って差し上げたいという思いは、そのような障害は問題にはならなかったのです。とにかく、行ってみることにしたのです。すると、石は脇へ転がしてあったのです。

聖書には、「石は既にわきへ転がしてあった。」(4節)とあります。復活の朝、この事が起こりました。イエス様のために、香油を塗りたいと願う者に、「石は既にわきへ転がしてあった。」という神の栄光、み業を見ることができるのだと思うのです。

5節には、「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。」とあります。リビングバイブルには、「婦人たちはびっくり仰天、息も止まるほどでした。」とあります。それはそうでしょう。石が転がしてあることも驚きだったでしょうが、イエス様の遺体ではなくて、白い衣を着た若者が座っていたのですから、息も止まるほどだったのでしょう。

榎本保郎先生の新約聖書一日一章には、「右というのは聖書では神の側である。だから、若者は天使をあらわしていると思う。天使からイエスのよみがえりは告げられたのであって、人間が考えて理解し、納得できるものではない。」とあります。この若者から驚きの言葉が語られるのです。

 

二、信じられないことが起こる

6節を共に読みましょう。「若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」

婦人たちは、息も止まるほど驚きました。その彼女たちに、「驚くことはない。」と語りかけました。驚くことはない、と言いながら語られた内容は、さらに驚くような言葉でした。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

「復活した。よみがえった。いきかえった。」信じられない言葉です。かつて、プロ野球の日本ハム、ファイターズの監督のヒルマン氏が、優勝した時、「信じられない」という言葉を発して有名になりました。

 彼女たちの目的は、イエス様の遺体に香油を塗ること、あまり準備できなかった埋葬の準備を十分にすることでした。それが、彼女たちのイエス様に対する愛の表れだったのです。けれども、墓の中には遺体はなく、復活したと告げられたのです。そう言われたからと言って、信じられるような出来事ではありません。しかし、神様はイエス様の復活を天使を通して、神様の言葉、おこころを示されたのです。

 「ここにはおられない」と若者は言いました。「ここ」とはどこでしょうか。それはお墓です。お墓は、死んだ人が納められている場所です。そこに行けば、いつも死んだ人を思い、慕い、その人のことをいろいろと思い出すことができる場所です。先週、私たちは墓前礼拝を教会の墓地で行いました。愛する人々の遺骨がある場所、お墓です。石碑には、名前といつ生まれて、いつ亡くなられたのかという日付が書いてあります。イスラエルでは、遺体が葬られていたわけですから、そこから移動することなく、いつもそこに存在するわけです。

 女性たちは、十字架で死んだイエス様の遺体に香油を塗り、イエス様を偲びたいと願いました。香油を塗ることが自分たちの勤めであり、それがイエス様を愛すること、仕えることであったのです。しかし、イエス様の遺体はなく、復活されたと言われる。自分たちが準備した香油も、自分たちの奉仕も必要が亡くなったということなのです。葬りの準備がちゃんとできなくて、やり直したいという、その必要はなくなったのです。イエス様はよみがえられたからです。イエス様にとってお墓は必要がなくなったのです。悲しい場所が、神様のみ業が起こる場所となったのです。私たちが現実に、家庭や職場、学校で経験する苦しみや悲しみ、痛みや苦しみがあります。けれども、その場所が復活を象徴する神のみ業が行われるのです。息も止まるほどの驚くべきことが起こるのです。

 

三、イエス様にお目にかかれる幸い

7節を共に読みましょう。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねてから言われたとおり、そこでお目にかかれる。」と。」 弟子たちに告げなさい、という言葉で十分であったと思うのですが、「弟子たちとペトロに告げなさい。」と語りました。イエス様のことを3度知らないと言ってしまったペトロ、3度イエス様を知らないということを通してイエス様との関係を否定してしまったペトロの心境は、それはとてもつらいものがあったでしょう。勿論、他の弟子たちもイエス様を見捨てて逃げたのですから、イエス様を否定した。関係を切ったともいえるでしょう。しかし、ペトロは自分の意志で、3度イエス様との関係を聞かれながら、「そんな人は知らない」と言ったのですから、ペトロ自身は他の弟子たちとは違う、自分を責める思い、後悔してもしつくせないものがあって落ち込み、痛んでいた、そのペトロという名前を名指しで語られたのです。他の弟子たちもそうですが、特にペトロに告げなさいというのです。

ガリラヤに行かれる」と言われました。イエス様は、マルコによる福音書14章27節、28節で、「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われました。弟子たちがつまずくこともすでに知っておられ、ペトロの裏切りもご存知でした。けれども、イエス様は復活して後、ガリラヤに行くと言っておられた通りに、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねてから言われたとおり、そこでお目にかかれる。」と告げられたのです。

イエス様のお心は、イエス様を裏切ったペトロも、イエス様を見捨てて逃げた弟子たちも、彼らの行動を、言葉をお叱りになるというのではなく、復活された御自分との再会の場所として、すでにガリラヤを指定されていたのです。

ガリラヤという場所は、弟子たちの故郷であり、彼らがイエス様に初めて出会った場所です。自分たちが弟子として選ばれた場所です。イエス様の奇跡を見、イエス様の言葉を聞いた場所でした。女性たちにとっても、イエス様の身の回りの世話をし、共に過ごした場所でした。

今、弟子たちは復活の出来事をまだ知りませんから、イエス様の十字架の死を悼み、苦しみと悲しみの中にあるのです。ペトロは、自分の裏切りを後悔しているのです。そのような彼らに、ガリラヤへ行くように、そこでイエス様に会えるというのです。弟子たちにとって、ガリラヤに行くというのは、放蕩息子が挫折し、落ち込み、ボロボロの姿で父親の元に帰ったように、弟子たちも悲しみと苦しみを抱えながらのガリラヤへの旅となるのです。しかし、そこにはイエス様が待っておられるという女性たちの言葉があるのです。

今、挫折を経験しているでしょうか。失敗があったでしょうか。取り返しのつかない状況があるでしょうか。でも、大丈夫です。イエス様は、よみがえってガリラヤに行かれる。そこで、お目にかかれるという約束があるのです。この礼拝が、祈祷会が、デボーションの場所が、ガリラヤ、主とお目にかかれる場所ともなるのです。

 

Ⅲ結論部

8節には、女性たちが、経験した事、自分たちに語られた言葉があまりにも不思議で、信じられないことだったので、彼女たちは墓から逃げ去り、震えあがり、正気を失ったとあります。そして、自分たちの見たこと、聞いたことを誰にも話さなかった。話せなかったのです。しかし、時間が経ち、落ち着いて、彼女たちは、ペトロと弟子たちに語ったのだと思うのです。そして、弟子たちはガリラヤに行き、復活のイエス様に出会うのです。それは、ヨハネによる福音書20章、21章に記してあります。

女性たちは、自分たちで考えて、自分たちの計画で主の遺体に香油を塗ろうとしました。けれども、イエス様は復活されていたのです。私たちは、信仰を自分の努力やがんばりでする、というのではなく、イエスがよみがえられたという事実を知り、私たちは復活のイエス様に出会うのです。礼拝を通して、祈りを通して、賛美を通して、交わりを通して。イエス様は、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んで下さり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。そのことによって、私たちの全ての罪が赦されたのです。ここにいるすべての人の罪はイエス様の十字架で赦されているのです。そして、イエス様は死んでよみがえられ、今も生きておられるのです。私たちに永遠の命を与えて下さるのです。

イエス様の復活は、全くもって予期しなかった出来事です。しかし、それは神様のご計画でした。そして、私たちに復活の恵み、永遠の命を与えて下さるのです。それが、私たち一人ひとりに与えられるのです。与えて下さるのです。

今、私たちが神様からどんなに離れていても、神様の清さから遠く離れていても、あの墓場を、死の場所を恵みの場所に変えられたように、罪ある場所、神様から遠い場所を、驚くべき、信じられないような祝福の場所に変えて下さるのです。敗北の場所、そこでイエス様は待っておられるのですから、安心してこの週も、イエス様に信頼して歩んでまいりましょう。イエス様は、いつもあなたとそばにおられるのです。安心して歩みましょう。

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日曜礼拝(2017年4月9日)

2017-04-09 19:32:23 | Weblog

日曜礼拝(受難節第六)      2017.4.9

        「たたけば罪の出るからだ」 ルカ23:32~43

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第二日曜日を迎えました。今日は棕櫚の主日、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されたことを記念する日でもあります。また、イエス様が金曜日に十字架につけられたわけですから、受難週という言い方もします。

 金曜日は、イエス様が十字架につけられたことを記念する聖金曜日です。青葉台教会では、明日の夜から土曜日の夜まで、毎晩受難週連夜の祈祷会を持ちます。どうぞ、祈祷会においで下さり、イエス様の苦しみ、十字架を思うと同時に、その先にある復活、イースターを覚えたいと思うのです。

 受難週の礼拝では、先ほどお読みいただいたルカによる福音書23章32節から43節を通して、「たたけば罪の出るからだ」という題でお話いたします。昨年の受難週の礼拝では、今日と同じルカによる福音書23節32節から43節からお話をいたしました。

 

 Ⅱ本論部

 一、十字架は定められた出来事

 今日はイエス様の十字架の記事の箇所です。イエス様がお生まれになった時、東方の占星術の学者たちが救い主のイエス様を礼拝するために訪れた時、黄金、乳香、没薬を献上しました。黄金は王としての贈りもの、乳香は祭司への贈りもの、没薬は死者への贈りもの、つまりイエス様の十字架の死というものが、生まれた時、占星術の学者のおくりものとして示されていたのです。

 イエス様が誕生して40日目に神殿に訪れた時、シメオンという人物は、イエス様の母マリアさんに、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。・・・あなた自身も剣で心を刺し貫かれます・・・」(ルカ2:34~35)と預言して語りました。イエス様の十字架の死を通して、母マリアが悲しむことを示しています。

 また、イエス様は、12弟子たちには、御自分が祭司長や律法学者たちに苦しめられ、十字架で死ぬことも語っておられました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(エルカ9:2)

 イエス様が、人間の世界に救い主として来られた目的は、全人類の罪の身代わりに十字架につけられて死ぬことでした。このことは、神様のみこころ、お心でした。

 イエス様の弟子であったペトロは、イエス様の十字架の意味を語っています。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました。」(Ⅰペトロ2;24)

 旧約の預言者イザヤは、「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)と十字架の預言をしています。

 イエス様の十字架の死は、イエス様が生まれる前から旧約聖書において、生まれた時、その贈りものを通して、また、イエス様の口を通して弟子たちに語られた言葉として、示されているのです。イエス様の十字架の死は、私たちの罪を赦すための神様のお心なのです。

 

 二、最も弱い場所に神の力が宿る

 イエス様は、犯罪人として、しかもその代表として十字架刑につけられました。3本の十字架、真ん中はイエス様、その右と左には犯罪人が十字架刑にされたのでした。この3本の十字架のまわりにはいろいろな人が見物していました。議員たち、つまり指導者たち、一般のユダヤ人たち民衆がいました。ローマの兵士たちもいたでしょう。

 35節には、議員たち、指導者たちの言葉があります。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 詳訳聖書には、せせら笑って、鼻で笑って言ったとあります。37節には、ローマの兵士たちもあざけり、侮辱の言葉として、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 リビングバイブルには「皮肉たっぷりにからかった。」とあります。イエス様の頭の上には、ユダヤ人の王と書いた札があったので、それを見て、そのように言ったのでしょう。39節には、イエス様と同じように十字架刑についている犯罪人の一人の言葉として、また、彼もののしって言うのです。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

 ユダヤ人の指導者たちも、ローマの兵士も、犯罪人のひとりも、「自分を死から救え」と十字架に磔(はりつけ)にされた救い主であるイエス様に言ったのです。つまり、しるしを求めたのでした。ユダヤの指導者たちは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で、男5千人を養った時、奇跡を見せた時、しるしを見せろと言いました。民衆たちは、イエス様の奇跡を神の業として見て信じました。けれども、指導者である彼らは、いくらイエス様が奇跡を見せても、しるしを示しても信じなかったのです。彼らが言うように、十字架からイエス様が降りても、彼らは信じなかったでしょう。

 よく、神様がいるなら見せろ、という人々がいますが、神様が見えても、幻覚だ、錯覚だと言って信じないのです。先週、水曜日の聖書の学びで、榎本先生が書いた新約聖書一日一章の中で、このような言葉を紹介しました。「信じないということはやさしいことだと思う。信じることが本当に難しい事だと思う。ところが自分はそんなことは信じられないと言って、鬼の首でもとったように、大きな顔をする人があるが、信じないことは赤ん坊でもできる。その信じられないことが信じられるようになることこそ大事な事である。」

 イエス様の十字架を見物している人々、ユダヤの指導者も、ローマの兵士も、犯罪人も、民衆も、メシア(救い主)なら、ユダヤ人の王なら自分を救えと、十字架につけられた無力なメシア、彼らの求めに答えられないメシア、また、期待に応えられないメシアをののしり、ばかにし、失望したのでした。

 私たちは、イエス様に失望することがあるでしょうか。祈っても、祈っても答えられない時、イエス様の助けがない時、イエス様の守りがないと感じる時、私たちはイエス様に失望し、がっかりすることがあるのではないでしょうか。しかし、イエス様の十字架そのものが、神様の愛のしるしなのです。十字架につくことが、神様の救いの方法なのです。

 

 三、大丈夫、あなたは救われる

 40節、41節を見ると、イエス様に対するののしりや侮辱に対して、特に犯罪人の言葉に対して、十字架につけられた、もう一人の犯罪人が語ります。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、このお方は何も悪いことをしていない。」 

 イエス様をののしり、侮辱した指導者たちも、ローマの兵士も、もう一人の犯罪人も、自分の事は棚に上げて、イエス様に対して、メシアなら自分を救え、と言いました。けれども、もう一人の犯罪人は、自分たちが十字架刑についているのは、自分のやったことに対して当然の報いとして受けているのだ、と自分が罪あるものであることを正直に認めているのです。けれども、他の者たちは、自分ではなく、他人の問題を取り上げるのです。それが、自己中心の姿だと思うのです。

 イエス様は、ヨハネによる福音書8章で、姦淫の現場で捕えた女性をつるし上げて、律法では石打の刑だけれども、どう考えるか、と問われた時、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい。」と命じました。律法の指導者たち、自分たちは正しい人間だと誇っていた人々、彼らも「罪のない者がまず石を投げろ」という言葉に、自分を見つめた時、人を責めることなどできない。自分にも罪があることを認めたのでした。

 私たちは、人の罪や失敗に、目が留めます。責めます。ののしります。侮辱します。きつい言葉を言います。けれども、自分を見つめ直す時、自分を責めることを躊躇するのではないでしょうか。

 十字架につけられた、もう一人の犯罪人は、自分の罪を認めただけではなく、もう一人の犯罪人が、イエス様をののしったことを責めるだけではなく、「この方は何も悪いことをしてはいない。」とイエス様の無実を告白したのです。すごいことです。

 十字架刑になるぐらいですから、そうとう悪いヤツです。反省なんかするような者ではありません。けれども、イエス様のそばで、イエス様と同じように十字架刑につけられて、イエス様の表情や言葉を聞いて、彼は変えられたのです。マタイによる福音書では、十字架の場面では、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:44)とあるように、最初はもう一人の犯罪人同様、イエス様に「メシアなら、自分と俺たちを救え」と言っていたのです。それが、変えられたのです。変わったのです。

 皆さんと34節を共に読みましょう。「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」

 イエス様の周りにいる全ての者が、おまえがメシアなら、救い主なら、多くの人々を救ってきたように、自分を救え。全ての者がイエス様をののしり、侮辱し、からかうような中で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という祈りをささげられたのです。衝撃的な祈り、イエス様の赦し、父なる神様へのとりなし。この犯罪人は、イエス様をメシア、救い主、罪のないお方だと信じたのです。

 そして、彼はイエス様に言いました。42節を共に読みましょう。「そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」

 普通なら、「罪人の私を忘れて下さい。罪人の私を覚えていないでください。」となるように、思うのです。罪ある私、罪深い私は、神様に覚えられたくない。私の罪を忘れてほしいと。彼は、権威あるイエス様を認め、その権威あるイエス様に罪深い者、忘れ去られる存在ではあるけれども、人生の最後で、イエス様を救い主と認めた、愚かな自分を覚えていてほしいと願ったのです。するとイエス様は驚くべきことを彼に語られたのです。

 43節を共に読みましょう。「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」 罪の赦しの宣言と罪人として死んで行く必要がなくなったことを示されたのです。

 イエス様は、多くの罪を重ねた犯罪人と共に十字架について下さったのです。罪人と同じようになられたのです。罪のないお方なのに、罪ある者と同じ、十字架について苦しみ、血を流し、そして、命をささげて下さったのです。十字架につく、木に掛けるというのは、のろいの宣告なのです。イエス様はのろいとなって下さったのです。犯罪人の代表として、3本の十字架の真ん中で、人々の関心を御自分に向けさせたのです。両側にいる、神にも人にも見捨てられた犯罪人と同じように、イエス様も人にも、父なる神様に見捨てられた者となって下さったのです。

 そして、権威あるお方として、今日、一緒に神の恵みに預かること、救われることを宣言されたのです。私たちが、たとえ自分のような者が救われるはずはないと言っても、イエス様に救われない人はいないのです。神であるお方が、私たちを救うために、十字架にかかり、のろわれた者となり、私たちの罪を赦し、私たちを救い、天のみ国へ導いて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、十字架刑という最もみにくい場所で、処刑場という最も罪ある場所で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という執り成しの祈り、赦しの祈りをささげ、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、罪の赦しの宣言と天国の約束、永遠の命の約束を与えられたのです。それは、同じように、自分の罪を恐れ、罪に嘆いている私たちのためにも執り成しの祈りをささげ、大丈夫、私はあなたと共にいる。救いはあなたのものだ、と宣言して下さるのです。

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日曜礼拝(4月2日)

2017-04-02 13:09:16 | Weblog

日曜礼拝(受難節第五)      2017.4.2

        「横浜タラレバ信者」 ヨハネ13:21~30

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2017年度が始まりました。新年度の最初の礼拝です。新たなる思いを持って、毎週の礼拝を大切にしたいと思います。私は牧師として礼拝を大切にします。

皆さんは、信徒として礼拝を大切にしていただきたいと思います。

 2016年の1年間、愛する皆さんのお祈りとささげもの、ご奉仕に感謝致します。2017年度も、皆さんと共にイエス様の恵みを深く体験させていただきたいと思います。

 先週は、青葉台教会出身の門田純牧師のメッセージでした。牧師になって最初のメッセージを母教会でするということは、本当に素晴らしいことだと思います。今日から長崎教会の牧師としてメッセージをされ、牧会伝道をされますので、私たちは、祈りを持って支え続けたいと思うのです。大山裕昭牧師も青葉台教会出身で、今日から国立教会の牧師としての働きをなさいます。関東地区の同じ地区ですから、これからも良きお交わりをさせていただきたいと思います。祈りを持って支えてまいりましょう。

 後藤モニカ先生も金曜日に鳥栖に着かれ、今日から鳥栖伝道所で牧師として働かれます。祈りを持って支えてまいりましょう。

 私も青葉台教会に来て、17年目を迎えます。皆さんの祈りと愛と忍耐とにより、ここまでやってこられたというのが本音です。さらに、祈ってお支えいただきたいと思います。

 さて、私たちは、受難節を迎え、今日は受難節第五主日を迎えました。来週は、受難週を迎えます。私たちは、イエス様の苦しみを覚えながら、毎日を過ごしております。今日は、ヨハネによる福音書13章21節から30節を通して、「横浜タラレバ信者」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、裏切り者は誰だ

 ヨハネによる福音書13章2節には、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあります。リビングバイブルには、「夕食の間のことです。悪魔はすでに、シモンの子、イスカリオテのユダに、今夜こそ、かねてからの計画を実行に移す絶好の時だという考えを、吹き込んでいました。」とあります。 過ぎ越しの祭、イエス様が12弟子たちとの最後の食事、心待ちにしていた食事の席が裏切りの場所となるのです。

 そのような状況の中で、最後の晩餐の中で、イエス様は弟子たち、一人ひとりの足を洗われたのです。最後の晩餐の席上で、「弟子たちの中で誰が一番偉いか」と唾を飛ばしながら、競い合う弟子たち、明日十字架につけられるというイエス様の気持ちなど、この時の弟子たちには、わかりもしませんでした。そして、イエス様をお金で売ると言う裏切り者のユダの足をも、他の弟子たち以上に、愛を込めて洗われたのでした。

 確かに、サタンによりイエス様を裏切る考えを吹き込まれていたユダでしたが、イエス様は、そのユダをも愛し通されたのです。

 イエス様は、弟子たちの足を洗われた後、御自分の模範に従って、互いに足を洗い合うように、互いに愛し合うようにと勧められました。そして、その後、心を騒がせて言われたのです。21節のカッコです。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」衝撃的な言葉でした。リビングバイブルには、「ここでイエスは、こみ上げる悲しみを抑え、悲痛な声で叫びました。「そうだ。まぎれもない事実なのだ。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切るのだっ!」

 マタイによる福音書には、イエス様が、裏切り者がいることを語られた時、弟子たちが非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、ということが記されています。(マタイ26:22)

 イエス様の右側にいたヨハネは、ペトロの指図により、誰のことを言っているのかと尋ねると、イエス様は、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられたのです。

 詩篇41編9節には、「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします。」とあります。リビングバイブルには、「食事を共にした親友さえ、私を裏切りました。」とあります。 

 私たちは、日常の生活において、イエス様を信じる者として、イエス様を裏切るような言葉、裏切るような行動があるかも知れません。けれども、イエス様はそのような者さえも、愛して下さるのです。

 

二、イエス様は全てお見通し

 過ぎ越しの食事の席順は大切だと言われています。レオナルド・ダビンチ作の最後の晩餐、あの壁画は現代風のイスとテーブルでの風景です。けれども、当時のスタイルは、寝そべって肘(ひじ)をついてというような格好だったようです。そして、イエス様の右側には、ヨハネがおり、イエス様の左側にはユダがいたのではないかと想像できると考え人もいるようです。それは、イエス様とユダが他の誰にも聞かれずに会話ができるというような状況だったというのです。

 マタイの福音書では、弟子たちが次々と「「まさかわたしでは」と問い、最後にはイスカリオテのユダが聞きます。「「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」」(マタイ26:25)とあります。

 このようなやりとりは、他の弟子たちには聞こえなかったのです。イエス様とユダだけの知る会話だったのです。

 イエス様は、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」とヨハネの問に答えられましたが、その意味はわからなかったのです。イエス様は、食事では通例の事、パン切れを浸してユダに与えられたのです。通例のことなので、誰もユダが裏切るということを知ることはなかったのです。

 27節には、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」とあります。サタンは食事の前に、イエス様を裏切る考えを吹き込み、この時しかないという思いを与えていました。そして、イエス様が与えられたパン切れを受けた時、サタンが彼の中に入ったのでした。イエス様は、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われたのでした。

 イエス様は、サタンがユダに裏切りの考えを吹き込んでいたことを知っておられたでしょう。サタンがユダの中に入る隙をねらっていることも知っておられたでしょう。荒野の誘惑の時のように、「退け、サタン」と命令し、み言葉で、神の言葉で勝利することができたはずです。けれども、イエス様は、ユダがパン切れを受け取った瞬間、サタンが彼に入ったことを留めることも、あるいは、追い出すこともなさらなかったのです。

 沈黙の映画で、司祭が踏み絵の前に立たされた時、「わたしを踏みなさい」という声がしたシーンを思い出します。踏み絵を踏んで、信仰を捨ててしまうような者さえも、イエス様の赦しの中にある。いや、イエス様は、まさに私たちに踏まれるために生まれて下さったのです。

                                                                           

 三、どうであれイエス様を信じ抜く

 30節の最後には、「夜であった」という言葉があります。最初は、今日の説教題を「夜であった」にしようと思っていたのですが、変えさせていただきました。ユダの裏切り、それは夜であったのです。夜、それは闇の世界。罪の世界を表します。私たちは、その罪の中に生まれ、罪を犯し続けている者です。このままでは、滅びに向かっていた私たちを愛する神様が、イエス様を私たちの世界に遣わし、滅びに向かっている私たちを、私たちの罪を十字架で身代わりに死ぬことにより、尊い血を流し、命をささげて下さったおかげで、私たちの全ての罪を赦し、魂をきよめ、救って下さり、イエス様が死んでよみがえることにより、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。今も変わらずにその愛で愛しておられるのです。

 今日の説教題は、「横浜タラレバ信者」という題にしました。「東京タラレバ娘」というドラマが水曜日の夜10時からありました。30歳を過ぎた3人の女性が結婚を夢見て相手を探すというようなストーリーですが、特に主人公が、「あの時ああだったら」とか、「もっと、こうしていれば」と「タラレバ」ばかりを言って、紆余曲折の人生を送るというものです。

 イスカリオテのユダは、イエス様の12弟子のひとりとなって、とても喜んだはずです。言葉にも権威があり、奇跡の業は声も出ないほどに感動したのでしょう。このお方についていきたい。生涯ついていく。そう決心したことでしょう。けれども、イエス様は、そのお言葉の権威や奇跡を起こす力があるのにもかかわらず、時の権力者や指導者、有力者の所ではなく、弱い者、小さな者、貧しい者のところばかり。イエス様ほどの権威と力があれば、もっとこの世に、ローマ政府に認められ、高い地位や経済を自分の物にできるはずなのにと考えていたのだと思います。

 けれども、イエス様はユダが思い描くようには歩まれませんでした。ユダはがっかりしたのだと思います。イエス様に対する期待が大きかっただけに、失望も大きかったのです。

 イエス様は、もっと権力者や地位のある人と付き合っタラいいのに。もっと、自分の力を時の指導者に魅せつけレバいいのにと、タラレバで生きていたのでしょう。自分の思い通りに行かないので、タラレバと言っていたのでしょう。そこから、スキができ、イエス様をお金で売り渡すような、裏切り行為をしたのです。

 私たちも、信仰生活の中で、あの人がもっとこうしてくれレバいいのに、この人が、もっと頑張ってくれタラいのにと思うことがないでしょう。あるいは、教会に対して、牧師に対して、そして、神様に対して、自分の思い通りに、願い通りにしてくれレバいいのに、自分が考えた通りにしてくれタラいいのにと思うことはないでしょう。このようにタラレバの人生は、人のせい、教会のせい、牧師のせい、神様のせいにしてしまって、自己中心の世界、それがやがて、「夜であった」という状況になってしまうように思うのです。

 私たちは、タラレバが多い者ですが、イエス様は、そんなタラレバ信者をも愛し、受け入れ、祝福して下さるお方であるので、安心してイエス様に従いたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちは、「あの時ああだったら」とか、「もっと、こうしていれば」と後悔もし、人のせいや神様のせいにしたしまいやすい者です。けれども、信仰を守ったがゆえに、燃える炉の中に入れられたシャデラク、メシャク、アベドネゴのように、「たといそうでなくても」と、自分の思い通りに、願い通りにならなくても、私たちを愛し、命を投げ出すほどに私たちを愛しておられるイエス様が最善にして下さらないわけがないと信じて、状況がどうであれ、状況がマイナスであろうとも、イエス様を信じて、イエス様に全てをお任せして、この1年を歩ませていただきたいと思うのです。

 裏切ることが分かっていたユダの足を洗われ、愛を持って語られたイエス様は、私たちがどのように不信仰でも、罪を犯していても、イエス様の顔に泥を塗るような者でも、受け入れ、赦し、愛して下さるのです。イエス様の十字架と復活は、私たちの人生をやり直すことができるものとして下さるのです。この週も心配することなく、大丈夫だ、と言って下さるイエス様が共におられることを信じて、感謝して、意識して歩んでまいりましょう。

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