江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(21年1月31日)

2021-01-31 12:10:28 | Weblog

日曜礼拝(公現後第四)       2021.1.31

    「不幸が不幸で終わらない人生」 マルコ5:25~34

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第五日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、ライブ礼拝を通して、礼拝をささげることができますことを感謝致します。1月も今日で終わります。新しい年を迎えて一か月が終わり、いかがでしたでしょうか。明日から2月が始まります。昨年からの新型コロナウィルス感染症の影響で、新しい年になっても2回目の緊急事態宣言が出され、新規感染者の数が増加して、どうなるものかと思っておりましたが、少しずつですが、減少傾向にあるようです。私たちは、困難の中にあっても、私たちを守り支えて下さるお方を知っています。2月の月に期待して、神様を信頼して、今日の礼拝をもって1月を、感謝を持って閉じたいと思います。

 今日はマルコによる福音書5章25節から34節を通して、「不幸が不幸で終わらない人生」と題してお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、イエス様に近づこう

 今日は、12年間という長い間、出血の止まらない難病で苦しんだ女性のお話しです。

旧約聖書には、出血を伴う病気をただの病気ではなくて、汚れていると考えられていました。当時の考え方の中には、「人間の血はその体内にある限り、命の源である。しかし、いったん体の外に出ると汚れたものになる。」というものがあったようです。宗教的に汚れがあると考えられ、礼拝に出席することや宗教行事に参加することが許されませんでした。 

ユダヤ人にとっては、礼拝に参加することが神の民の一員であることのしるしであり、喜びでした。その喜びも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまったのです。自分は神の恵みを受けることのできない者、資格のない者、落ちこぼれた人間で、誰も顧みてくれないという絶望を経験したのです。また、出血がある間、汚れた者とされ、彼女が触れたもの全て、人であれ、物であれ、汚れたものであるとされていました。当然、彼女に触れた人やものも汚れたものであり、彼女と接触する人はだれもいなかった。つまり、12年間誰とも交わることができなかった。スティ、ホームで年頃の彼女は、同じ年の人々と楽しい話も交わりもできなかった。それだけではなく、家族とも話されていたでしょう。また、結婚することもできず家族を持つこともできなかった。人並みのささやかな幸せを得ることができませんでした。この病気を治すためにはどんなことでも試したでしょう。良い医者がいると知ったら、その医者に診てもらったでしょう。しかし、彼女の病気を治すことのできる医者はいませんでした。聖書には、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(26節) ルカによる福音書にもこの記事はありますが、「医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」(ルカ8:43)とあり、マルコのように、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」ときつい表現ではありません。ルカは医者でしたから、同業者をそこまで悪く表現できなかったのでしょう。しかし、現実はマルコが記した通りだと思います。彼女は、医療的にも、経済的にも、宗教的にも、社会的にも苦しめられてきたのです。そして、どこにも希望を見出すことができないでいたのです。

 私は、皆さんご存知のように膝のために随分苦しみました。良い医者がいないかとインターネットで調べて、せっせと通いました。しかし、一向に良くなりませんでした。良いサポーターがないかとインターネットで探し、薬局に行くと膝の痛みに効くようなサポーターがたくさんあるので、たくさん買って試してみましたが、どれも効果はあまりありませんでした。たくさんのお金を使っても治ることはありませんでしたし、結局手術をするという結論にいたりましたが、今度は片方の膝が痛くなり、いろいろ試している所です。

彼女の病気は、本当に青春を、人生を奪われたような、絶望を彼女にもたらしました。

 しかし、彼女はイエス様のことを聞いたのです。27節に、「イエスのことを聞いて、」とあります。詳訳聖書には、「彼女はかねがねイエスのうわさを聞いていたので、」とあります。リビングバイブルには、「イエスがこれまでに行ったすばらしい奇跡を耳にした彼女は」とあります。イエス様が、目の見えない人の目を開かれたとか、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにしたとか、立つことのできない人の足を癒して立たせた、治らないとされている、また汚れたものとされている重い皮膚病の人を癒されたということを聞いたのです。そして、彼女はイエス様に最後の望みを託して近づくのです。

 私たちの人生においても、いろいろなことをやっても、お金をつぎ込んでも、努力しても、どうにもならない事柄というものがあると思います。人間の力では、人間の何かではどうにもならないことがあります。しかし、イエス様には、あらゆる解決があるのです。彼女がイエス様を頼ったように、私たちもどのような事であれ、イエス様にお任せするならば、必ず解決が与えられるのです。ですからイエス様に近づきましょう。

 

 二、あなた一人のために

 彼女は自分の病気のことを誰にも知られないように、変装していたのかも知れません。彼女の病気の性格上、人前に出ることは許されませんでした。もし、知れたら殺されてしまうでしょう。ひそかに群衆に紛れてイエス様に近づいたのです。彼女は、「イエスがこれまでに行ったすばらしい奇跡を耳にした」とあるように、自分の病気を癒していただけると思ってイエス様の服に触れたのです。すると、何をしてもどんなことをしても、治らなかった病気、ありとあらゆる医者にも治せなかった病気が、イエス様にタッチした瞬間、自分の病気が癒されたことを感じたのです。と同時に、イエス様の内から力が出て行ったと聖書は記しています。

 彼女の計画は、誰にもわからないようにイエス様に近づいて、イエス様の服に触れて、病気をいやしていただいて、誰にもわからないように帰っていくというものでした。そして、帰って行こうとした瞬間、イエス様が振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われたので、彼女はびっくりしたのです。恐れたのです。自分の行動は自分しか知らないはず。イエス様の服に触れた事は知らないはず。病気が治ったことも自分しか知らない。

それなのに、イエス様というお方は全てを知っておられる。彼女は恐れました。そして、このまま立ち去ろうか、どうしようか考えたでしょう。イエス様の「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉に、弟子たちは、多くの人がイエス様に迫り、多くの人の手がイエス様に触れているので、だれが触ったという質問はおかしいですよ、という感じです。リビングバイブルには、「弟子たちはけげんな顔で答えました。」とあります。イエス様には多くの人が触れているので、誰かという見分けはつかない。だから、彼女はこのまま立ち去っても問題がない、と思ったでしょう。けれども、イエス様は触れた人を見つけようとして見回しておられたのです。彼女は、自分がイエス様に触れた事をイエス様はご存知だと知ったのです。そして、自分が確かに癒されたという事実を、イエス様の前に震えながら進み出て、全ての事を話したのです。自分が12年間出血を伴う病気であったこと、そのためにいろいろと苦しんだこと。そして、イエス様のうわさを聞いて、群衆に紛れ込んでイエス様の後ろから近づき、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、イエス様の服に触れるとたちまち病気が癒されたことを正直に話したのでした。

 多くの人の手がイエス様の服に触れたでしょう。しかし、彼女の触れた手、彼女が「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って触れたことに対してイエス様の内から力が出て行ったのでした。そして、彼女は完全に癒され、清められたのです。

 多くの人々がイエス様に願うでしょう。祈ることでしょう。そのような中で、その人の苦しみや悲しみ、状況を知って下さり、彼女の願いにイエス様は答えて下さったのです。 

イエス様は私たち一人ひとりのことをよくご存じです。どのような事で苦しみ、どのような事で悲しんでいるのか。痛んでいるのか。知っておられるのです。そして、私たちの持つ苦しみや悲しみ、痛みに対してイエス様は確実な解決を、癒しを、助けを持っておられるのです。ですから、イエス様に何でも、どのようなことでも頼っていいのです。

 

 三、一人よがりの信仰でさえも

 この女性は、イエス様の服に触れて癒されました。しかし、イエス様の服に力があったわけではないでしょう。イエス様自身の内からの力によって癒されたのでした。彼女は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ってイエス様の服に触れましたが、

言い換えれば、イエス様の服の御利益に預かりたいと願ったのです。誰にも気づかれないように、癒されて、恵みをいただいて帰るという考えでした。悪く言えば、イエス様の力を利用して得をするということでしょう。自分の事は隠しておいて、後ろからそっと恵みだけをいただくという自分勝手な行動かも知れません。本来の信仰の在り方とは、かけ離れたような彼女の行為だったのかも知れません。しかし、そのような彼女の自分本位な、自分勝手な行動に対して、そのことをイエス様は感じ取って下さったのです。受け入れて下さったのです。

 イエス様は、癒して下さい、と面と向かってではなく、自分を隠して、後ろからそっと触れるという形でしかイエス様に近づけない、そのような形でしか救いを求めることのできない彼女と出会おうとされたのが、「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉の真意だと思うのです。

 教会の礼拝や集会に来ることのできない人もおられるでしょう。正面から型にはまった形での集会に来ることのできない人もおられるでしょう。バザーや何かの用事という形でしか、教会を見せて欲しい。あるいは、自分を隠して電話や手紙での関りをする方もおられるでしょう。正当的でなくても、どのような形であってもイエス様は、一人ひとりの思いを、心を感じ取って受け入れて下さるのです。イエス様と共に十字架につけられた犯罪人は、「私は罪を犯しました。悪い人間です。悔い改めます。赦して下さい。」とは言いませんでした。ただ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ22:42)と言っただけです。イエス様は、この犯罪人の思い、心を知って、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ22:43)と宣言されたのです。

 私たちの側は、私たちの思いや心は不完全で、自己中心です。自分の事しか考えません。私たちの側には、罪があり、問題があり、ふさわしくないものがあります。でも、イエス様は、イエス様だけは、私たちの精一杯の思いや願いを、タッチを、敏感に感じ取って下さるのです。私たちの不純な、自分勝手な、自分本位の願いや思いに答えて下さるのです。

 イエス様は、罪深い私たちのために、身代わりに十字架にかかり、尊い血を最後の一滴まで流し、命をささげて下さいました。私たちの代わりに死んで下さったのです。死んで葬られ、三日目によみがえりました。このイエス様の十字架と復活のゆえに、私たちの数々の罪が全て赦されて、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命、天国の望みが与えられたのです。この女性がイエス様にタッチした時、イエス様の内から力が出て癒したように、イエス様の十字架での流された血とささげられた命、死んでよみがえられたことにより、私たちは救われ、癒され、清められたのです。この事を覚えて感謝したいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、この女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われました。本当はイエス様の力が彼女を癒したので、「わたしがあなたを救った。」というのが正解です。しかし、あえて、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのです。自分を隠し、そっと触れて癒されて帰るという自分勝手な、信仰とは言えない彼女の一生懸命さ、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と藁をもつかむ思いでイエス様に頼った行動を「あなたの信仰」と言われ、「あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されたのです。

彼女はイエス様との出会いによって人生が変えられました。不幸の人生がイエス様の言葉、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」という宣言の言葉、神の言葉によって新しい人生、不幸が不幸で終わらない人生へと歩み始めるのです。私たちもこの週、「安心して行きなさい。」と言われるイエス様と共に、信仰の道を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(21年1月24日)

2021-01-24 12:07:42 | Weblog

日曜礼拝(公現後第三)         2021.1.24

  「神の恵みは注がれ続けていた」  ルツ記1:20-22.2:17-20

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、ライブ礼拝を通して、共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。緊急事態宣言が再び発令して、無会衆での礼拝を余儀なくされた教会もあり、礼拝そのものを休止した教会もあるようです。青葉台教会も、ライブ礼拝を見られる方々はライブ礼拝での参加、会堂に集うのは、原則奉仕者とライブ礼拝を見ることのできない方々としました。私たちは、新型コロナウィルス感染者の数が減り、一日も早く会堂に共に集い礼拝がささげられることを祈り待ち望みたいと思います。

 今日は、ルツ記1章20節から22節と2章17節から20節を通して、「神の恵みは注がれ続けていた」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、苦難の背後にも神様はおられる

 ルツ記は、1章1節に、「士師が治めていたころ」とありますが、士師記の最後の節、21章25節には、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」とあり、暗黒の時代でありました。

 飢饉がイスラエルの国を襲っていたので、エリメレク(私の神は王である)という人物は、妻のナオミ(喜び、快い)と二人の息子マフロン(病める者)とキルヨン(消え失せる者)とを連れて、ユダのベツレヘムからモアブの地に移り住んだのでした。イスラエルでは、「嗣業の地を手放してはならない」という規定がありました。しかし、エリメレクは、飢饉の苦しみのゆえに、自分の大切な嗣業の地を手放してまで、モアブの地へ家族を守るために移動しなければならなかったのでしょう。嗣業の地を手放すということには、大きな痛みがあったことだと思います。

 モアブの地へ移り住み、何とか生活は守られたのでしょう。家族が生きていくことができた。しかし、エリメレクはモアブの地で死んだのです。家族を守るために必死に働いたのでしょう。慣れない地での責任感やストレスが大きかったのかも知れません。慣れない地で病に倒れたのかも知れません。そこでナオミは、息子マフロンとキルヨンに、モアブの地で妻を得させたのです。マフロンの妻はルツ(友情)、キルヨンの妻はオルパ(神の豊かな女性、うなじ)でした。10年ほど、マフロンとキルヨンは妻と共に暮らしましたが、ナオミの二人の息子マフロンとキルヨンも、モアブの地で死にました。ナオミは、モアブの地で、最愛の夫エリメレクと最愛の息子たち、マフロンとキルヨンを亡くしたのです。マフロンの名前は「病める者」という意味があり、キルヨンの名前は、「消え失せる者」という意味があるようですから、名前の通りに彼らは死んでいったのでしょうか。

 夫と息子たちの死は、ナオミにとっては、飢饉のゆえに食べることが困難であっても、自分たちの嗣業を捨ててモアブの地へ来たことが招いた不幸だと感じていたでしょう。夫も子どもたちもいないナオミは後悔の日々を歩んでいたことでしょう。

 女性三人だけが取り残され、ナオミは自分の国へ帰ろうとします。神様の顧みでユダの地に食べ物があると聞いたからです。もう一つ、やはり人生の最後は自分の生まれた国でと考えたのでしょう。ユダの地へ帰る道すがら、ナオミは二人の嫁に、自分の里で幸せに暮らすようにと言います。オルパは帰りますが、ルツは、「あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。」(16節)と告白し、ルツのナオミとの同行に決意の堅い事に対して、ナオミはルツと共にユダの地に帰ったのです。人生思うようにならない事が多くあります。今の新型コロナウィルス感染症の事もそうです。しかし、神様の御手は働いているのです。

 

 二、小さくてもわずかでも与えられたものから始まるみ業

 ナオミとルツがベツレヘムに着くと、町中が二人の事でどよめいたのです。「ナオミが帰って来た。ナオミが帰って来た。」と口々にみんなが叫んだのでしょう。ナオミという名前の意味は、「喜び」とか「快い」という意味がありますから、「喜び、喜び、喜び、快い、快い、快い」とみんなが叫びました。するとナオミは言うのです。20節、21節のカッコです。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」 リビングバイブルには、「お願いだからナオミなんて呼ばないで。マラって呼んでちょうだい〔ナオミは「心地よい」、マラは「苦い」の意〕。全能の神様に、ずいぶんつらい目を見させられたんですから。 満たされてイスラエルを出て行ったのに、すべてをなくして帰って来たのです。主に見捨てられてこんな不幸に陥った私を、どうしてナオミなんて呼ぶのでしょう。」とあります。

  ベツレヘムからモアブへ行く時には、食べ物もあったのでしょう。エリメレクもマフロンもキルヨンもいた。しかし、モアブの地で大切なものを失い、愛する者の死で苦しみ悩み、何も持たないで帰って来た。私の名前の意味、快いなんて言葉は大嫌い。ナオミ、快い、喜びではなく、マラ、苦いと呼んでほしい。正直なナオミの言葉でした。13節には、「主の御手がわたしに下されたのですから。」と言っています。リビングバイブルには、「もう十分主から罰を受けたつもりですよ。」とあります。

 ナオミは、「全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」と言いました。神様が自分にひどい目に遭わせた。不幸に落とされた、と神様に見捨てられて、どこにも希望などはない、というような不信仰な言葉にも聞こえます。

しかし、彼女は、全能者という言葉を重ねます。全能者、つまり神様は、神様がそうなさろうと決められたなら、誰も押しとどめられない。邪魔できない。神様が決められたことに誰も逆らうことができない。神様は主権者であり、その御力をもってご自身の意志をことごとく実行されるのです。ナオミは、神様の前に恨み言を言っているのではなく、自分の嘆きを素直に表現しているのです。ナオミの言葉には、神様の主権を認め、そこに服するという信仰姿勢を失ってはいないのではないでしょうか。ナオミは、どのような苦しみを痛みを、絶望を経験しようとも、神様の主権を認めているのです。神様を信じ、認めながらも苦しみや痛み、絶望を経験した者の言葉だと思います。ナオミは、「主はうつろにして帰らせたのです。」「すべてをなくして帰って来たのです。」と言いましたが、ルツが共にいたのです。そして、このルツを通して、神様は驚くべきみ業をなさるのです。私たちも神様に見捨てられたような、不幸にされたような経験をします。全てを失ってしまった、というような経験があります。しかし、ナオミにはルツがいたように、失くしたものが多くあっても、わずかな持てるもの、力にはならない、頼りにはならないというもの、人を通して、神様は驚くような道を示して下さるのです。それを信じたいのです。

 

 三、神様に愛と恵みはいつもそばにある

 ナオミとルツがベツレヘムに着いたのは、大麦刈り入れの始まるころであったとあります。4月頃でしょうか。過ぎ越しの祭りの頃でしょう。二人はベツレヘムに帰っても、生活しなければなりませんでした。食っていかなければならないのです。ルツは当時、貧しい人に許されていた落ち穂拾いに行きます。現代で言えば、生活保護というような意味合いでしょうか。今日の箇所にはありませんが、2章3節には、「ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」とあります。新共同訳聖書では、「たまたま」と訳していますが、新改訳聖書や口語訳聖書では、「はからずも」とあり、リビングバイブルには、「なんと、その畑はボアズの畑でした。」とあります。「はからずも」とは、全ての事が神様の御手の中にあることと関連して用いられている言葉のようです。人間的に見れば、偶然、予期しない事と思われることの背後には、神様の見えない、見えざる御手があることを含んだ言葉のようです。私たちが偶然だと感じる事柄、たまたまだと感じる事柄の中にも、人間の思いを遥かに超えた神様の導きがあることを思わされます。

 ルツはボアズの所有する畑で一生懸命働きます。ボアズが訪れ、ルツに対して手厚いことをしてあげます。食事を与えたり、刈り取った穂をわざと落としてルツに拾わせようとしたのです。ボアズは、2章11節、12節で、「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」と、ルツの生き方、姿勢をほめています。ボアズがルツに親切にしたもう一つの理由は、ルツはモアブ人、偶像を礼拝する民族の出ですが、ボアズの母親もまた、偶像礼拝をするエモリ人という外国人でした。マタイによる福音書1章5節には、「サルモンはラハブによってボアズを」とあります。ボアズは外国人であった母の苦労を知っていたでしょう。同じ外国人であるルツに対して、ルツの大変さや状況がよく理解できたのではないでしょうか。

 ルツは通常では考えられないような量を持ち帰り、ナオミも驚きました。そして、ボアズの畑で働いた、と聞いてナオミは叫ぶのです。20節のカッコです。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」ナオミは更に続けた。「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」 リビングバイブルには、「神様のお恵みは、あなたが夫を亡くした時に終わったんじゃなかったのだわ。お恵みはずっと注がれていたのだね。だって、その方は一番近い親戚の一人なんですから。」とあります。

 「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」とナオミの人生は、夫が死に息子たちが死んだ時から終わっていた。それからの人生は惰性の人生だった。しかし、そうではなかった。リビングバイブルにあるように、「神様のお恵みは、あなたが夫を亡くした時に終わったんじゃなかったのだわ。お恵みはずっと注がれていたのだね。だって、その方は一番近い親戚の一人なんですから。」 不幸を経験した時、絶望を経験した時、神様の恵みはストップしたと思っていた。でもそうではない。神様の恵みというものは、不幸を経験し、絶望を経験し、悲しみや苦しみを背負っても、とどまるのではなく、注がれ続けているものであるということなのです。そのしるしは、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さり、墓に葬られましたがよみがえり、神様の力を現わして、私たちの罪を赦し、魂を救い、永遠の命を与えて下さったということ、ここに神様の愛が示され、イエス様の十字架と復活を通して、今も神様の恵みは私たちに注がれ続けているのです。

 

 Ⅲ結論部

 ナオミは、自分がモアブで経験した不幸は、神様のさばきだと感じていました。人の幸福は神様からの祝福、人の不幸は神様からの罰だと当時の人々は考えていたようです。ナオミにとってモアブでの経験、思い出は何一つ良いものはありませんでした。しかし、モアブで息子マフロンの妻となったルツの存在が、ナオミの人生に変化をもたらすのです。

 ナオミは、モアブの地で「すべてをなくして帰って来たのです。」と言いましたが、モアブの地で嫁となったルツを通して、「神様のお恵みは、あなたが夫を亡くした時に終わったんじゃなかったのだわ。お恵みはずっと注がれていたのだね。」と告白できたのです。

 私たちの人生、失うものが多くあるかも知れません。思うようにならないことが多くある。私たちが、どのような苦しみや悲しみ、絶望を経験しようとも、神様は共におられるのです。イエス様の十字架と復活を通して、神様の愛が私たちの上に、いつも注がれているのです。神様の恵みは、私たちの苦しみや悲しみの経験でなくなる、とどまるということはないのです。私たちには、わからなくても、神様の恵みは注がれ続けていることを信じて、この週もイエス様が共におられ、導いておられることを信じて、信頼して歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(21年1月17日)

2021-01-17 12:22:44 | Weblog

主日礼拝

2021.1.17

この苦しみはいつまで?

詩篇13篇(新共同訳)

 

導入部

みなさん、おはようございます。このようにして本日もみなさんとともに、オンラインを通しても、ともに礼拝を捧げることのできる恵みを心より感謝いたします。祈りをもって、このメッセージを始めさせていただきます。…

 

本論部

一.いつまで…

本日読まれたこの詩篇13篇は、これまでの詩篇と同様、ダビデが「苦しみ」のなかにあったときの詩であると考えられています。大きな苦しみのなかで、ダビデはこのように祈ります。もう一度2節(口語訳・新改訳聖書ですと1節)からをお読みします。

 

13:2 いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

13:3 いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。

 

ここには「いつまで」という言葉が4回登場します。これは、今私たちが置かれている状況にぴったりの祈りであります。私自身、毎日の感染者・重傷者の数を見るたびに、いつまでこのコロナの感染は続くのかと日々問わざるを得ないわけです。

一昨日1/15は、日本国内で初めて新型コロナウイルス感染症の患者が発見された日でした。あれから一年が経って、この日本でも再び感染爆発が起こっている。本当なら会堂で礼拝を捧げたいのに、本当なら会いたい、一緒に食事がしたいのに、それが叶わない。本当にコロナが憎い。いつまで、この状況が続くのか。そのなかで、私たちもダビデと同じように、このように祈らざるを得ない。「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

 

このときのダビデが、具体的にどのような状況だったのかはよく分かりません。3節に、「」とありますが、これはダビデの命を狙っていたダビデの前のイスラエルの王様だったサウル王のことかもしれません。

あるいは、4節に「わたしの目に光を与えてください」とあることから、目の病気だったのではないかという説もあります。その後に「死の眠りに就くことのないように」とありますから、死の危険のある病にかかっていたのではないかと言う人もいます。ともかく、大きな苦しみのなかで、「いつまでですか」と、抗議にも似た祈りを捧げています。

 

祈りのなかでダビデは、神への「疑い」あるいは「怒り」を隠してはいません。もちろん「神なんていない」とまでは言いません。神さまは、いる。でも神さまがいるとしても、もう私たちのことなど、すっかり忘れてしまっているのではないか。

神さまは「御顔をわたしから隠しておられる」。神さまは隠れてしまった。神さまが分からなくなってしまった。神さまへの怒りすら覚えながら、「いつまで、主よ/わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。」そのように叫び、祈るのであります。

 

さらに、ダビデは、ここまでは神さまに目を向けて、神さまへの怒りを、疑いを祈っていましたが、その上で、続く3節では、自らに目を向けます。自らの心に、内面の状態に心を向ける。もう一度3節からをお読みします。

 

13:3 いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。

 

大きな苦しみのなかで、神への疑いを覚えるなかで、「わたしの魂は思い煩」っている。思い煩っている自分に気づく。そこで思うのです。「あれ?」もっと自分の信仰は強かったはずだ。なのに、思い煩いが、悩みが、心配が心を支配している。嘆きが、悲しみが、心の内から出て行かない。私ってこんなに弱かったっけ。もう疲れた。「いつまで、わたしの魂は思い煩い/日々の嘆きが心を去らないのか。」いつまで、私はこんな状態なのか。

 

この詩篇13篇は、本当に「詩篇らしい詩篇」です。私は、こういう詩があるから、詩篇が大好きだなぁと思います。詩篇というこの書物のなかには、こういう詩、これは専門用語で「嘆きの詩篇」というのですが、たくさん納められています。

ではなぜ、神さまは、このような赤裸々な、抗議するような、あるいは疑いに満ちた、「嘆きの詩篇」を、詩篇の一部として聖書に残してくださったのでしょうか。昔の私は、こういう詩を読んでも、スルーしていました。もっと、「ハレルヤ!」みたいな詩ばかりに注目していていました。もちろん、そういう喜びの詩も素晴らしいのですが、こういう暗い、「嘆きの詩篇」が最近は好きなんですよね。

このような詩篇が、聖書に納められているのは、あなたも、この詩篇の作者と同じように、正直に嘆いて良いからだ。あなたのその嘆きを、主は絶対に軽んじられない。あなたも正直に嘆いて良いんだ。あなたにも、ひょっとしたら疑いがあるのではないか。思い煩いが、悲しみが、嘆きがあるのではないか。

この堕落した世界で生きている以上、何の悲しみも、悩みも、疑いもなく生きることは不可能です。主は、聖書を通して、「嘆きの詩篇」を通して、今日もあなたを招かれている。あなたのうちにある疑いを、思い煩いを、嘆きを、正直に私に言ってみなさい。その祈りを、わたしは絶対に軽んじない。この詩篇13篇を通して、そのように主はあなたを招いておられるのです。

 

二.わたしの目に光を与えてください

正直に、疑いを、思い煩いを、「嘆き」を祈った後、4節からダビデが祈ったのは、「願い」であります。正直に「嘆き」を祈ったダビデは、正直に「願い」をも祈りました。4節からをもう一度ご覧ください。

 

13:4 わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え/わたしの目に光を与えてください/死の眠りに就くことのないように

13:5 敵が勝ったと思うことのないように/わたしを苦しめる者が/動揺するわたしを見て喜ぶことのないように。

 

ダビデは祈ります。「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え」てください。私を忘れないでください、隠れていないでください、祈りに答えてくださいと祈る。

わたしの目に光を与えてください」。これは、先ほど申し上げたように、「目の病から癒して欲しい」という意味である可能性もありますが、旧約聖書においては「目に光を与え」るという表現は「活力を与える」「元気になる」あるいは「喜ぶ」という意味で用いられている表現です。

もちろん、その後の5節では、明確に「この状況を変えて欲しい」と祈っていますが、その前にまず「わたしの目に光を与えてください」。すなわち、元気を、活力を、喜びを与えてください、状況を変える前に、まず「」を変えてください、自分の心を、内面の状態を変えて欲しいという願いを祈っているのです。

 

私自身も、もちろん、今のこの状況が、一日でも早く解決するように願っています。新型コロナウイルス感染症拡大が一日でも早く収束することを、一人でも多くの命が助かることを、経済への影響が少しでも少ないことを願っています。みなさんも、コロナがもたらした困難もそうですし、コロナとは直接関係なくとも、日常のなかで直面する様々な困難が、一日も早く解決することを願っておられると思います。

もちろん、私たちの信じる神さまは、目の前の状況を変えることのできる方です。でも、神さまは、いつも私たちが願うタイミングで、動かれるとは限りません。神さまは天におられ、私たちは地上にいる以上、神さまのご計画は、私たちの想像を遥かに超えたところにある以上、すぐに状況が変わるとは限らない。もちろん、状況が変えられるように願うその祈りは、神さまのもとに届いていて、神さまのタイミングで、必ず解決に導いてくださる。だからこそ、正直に、何でも祈り求めることは大切なことです。でも、それでも、すぐに状況が変わるとは限らない。

 

三.わたしの心は御救いに喜び躍り

たとえ、すぐに状況が変わらなかったとしても、神さまが必ず与えてくださるものがあります。どんな状況のなかでも、主が必ず与えてくださるものがあります。それが、「喜び」であります。6節からをもう一度ご覧ください。

 

13:6 あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り/主に向かって歌います/「主はわたしに報いてくださった」と。

 

もちろん、まだ状況は変わっていなかったでしょう。しかし、正直に「嘆き」を、「願い」を祈るなかで、ダビデは不思議な体験をしたのです。

 

6節の「慈しみ」という言葉に注目していただきたいと思います。これは、「恵み」とも訳される言葉ですが、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉です。これは非常に重要な用語ですので、ぜひ覚えていただきたいのですが、これは、神さまの契約的な愛、つまりご自身の約束を忠実に、誠実に守られる、そのような愛を意味する言葉であると言われています。

正直に「嘆き」、また「願い」続けるなかで、ダビデは気づくのです。主は慈しみ深いお方である。それは、単に優しいとか、私を受け入れてくださるとか、もちろんそういう意味もありまけれども、究極的には、主は必ず約束を守られるお方であるという事実を表す言葉であります。

主は必ず約束を守られる。目の前の状況がたとえそのように見えなかったとしても、主は、ご自身を愛する者、すなわち御計画に従って召された者たちには必ず全ての出来事を益としてくださる(ローマ8:28)。主は決して私たちを見捨てることはなく、私たちから離れることはない。決してあなたを置き去りにはしない(ヘブライ13:5)。たとえ病を、死を経験することがあったとしても、イエス・キリストの十字架と復活の出来事のゆえに、必ず私たちを、永遠のいのちへと、終わりの日に完成する新しい天と地に、必ず私たちを迎えてくださる。主は絶対に約束を破られることはない。

この主の「慈しみ」に、ヘセドに私は依り頼む。このお方に信頼するのだと、ダビデとともに宣言したいのです。

 

このお方に信頼するとき、ダビデの「心は御救いに喜び躍」ったのです。この方の救いの素晴らしさ、福音の豊かさのゆえに、目の前の状況にもかかわらず喜びがやってきたのです。そして、「主に向かって歌」ったのです。賛美を歌ったのです。「『主はわたしに報いてくださった』と」。

 

これは不思議な表現です。目の前の状況は変わっていないのに、ダビデは「主はわたしに報いてくださった」と言うのです。一つは、主なる神が、ダビデの祈りに答えてくださり、ダビデの心を、内面の状態を変えてくださったということでしょう。

あるいは、目の前の状況はまだ変わっていなくとも、主は必ず最後には、報いてくださる。目の前の状況だけを見れば分からなくとも、信仰の目をもってすれば、主がすでに報いてくださった、もう一つの現実が見えてくる。だから大丈夫なんだと、安心を、喜びを経験したのではないかと思うのです。

 

結論部

新型コロナウイルス感染症の流行拡大により、再び私たち青葉台教会でも、オンラインを通しての各家庭での礼拝が基本となります。いつまで、この状況が続くのか、私たちには分かりません。「主よ、いつまでですか」と、「この苦しみはいつまでですか」と、神さまへの疑いが、怒りが湧いてくることがあるでしょう。思い煩いを、悲しみ、嘆きを覚えることがあるでしょう。

大切なことは、それに気づくことであります。そして、それに気づいたならそれを正直に祈ることです。この詩篇13篇のように、正直に嘆きを祈ることです。

その上で、正直に願うのです。この状況が変えられるように。そして、たとえすぐに状況が変わらなかったとしても、「わたしの目に光」が「与え」られるように。私たちがどこまでもこのお方に信頼し、それによって安心し、喜びのなかを歩めるように。

 

この週も、何が私たちを待ち受けているのかは誰にも分かりません。でも、どんな状況のなかにあっても、主があなたの手をしっかりと握ってくださっている。「ヘセド」、絶対に約束を破ることのない、優しい主の手に全てを任せて、この地上を旅することができる。どれほど雨が降ろうとも、風が吹こうとも、困難があろうとも、私たちはそれでも、その場所で、主が遣わされたあの場所で福音に生き続けることができる。私たちはどこまでも赦されることを、変えられることを諦めない。なぜなら主があなたのことを諦めておられないからです。

私たちは、諦めることなく、この地で、私たちの命の限り、主が来られるその日まで歩み続けるのです。終わりの日に用意されている報いを、喜びを、楽しみにしながら。イエスさまと顔と顔を合わせてくださり、直接「主はわたしに報いてくださった」と言うことのできる日を楽しみにしながら、この生涯を歩むという生き方に、今日も主はあなたを招いておられる。

この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。

 

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日曜礼拝(21年1月10日)

2021-01-10 12:35:53 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第三礼拝)     2021.1.10

   「青年の主張とキリストのまなざし」マタイによる福音書19:16-26

 

 Ⅰ導入部

新年あけましておめでとうございます。2021年も10日目となりました。年末から年始にかけて、新型コロナウィルス感染症の新規感染者の数が極端に増えて、1都3県には、緊急事態宣言が出され、飲食店を初め、百貨店やディズニーランド、ディズニーシーも時間を短縮せざるを得ないという状況です。大阪、神戸、京都も緊急事態宣言を政府に要請し、各県独自で緊急事態宣言と同等の処置をしている所もあるようです。

しかし、最初の緊急事態宣言とは違い、あまり緊張感はなく、人出もあまり変わっていないとニュースで放送していました。医療は既に崩壊状態で、2021年の始まりとしては、悪い予感、希望を持てない始まりを私たちは経験しています。

しかし、天地を創造し、歴史を導いておられる神様は存在し、必ず最善の導き、答えをして下さると私たちは信じて、神様にのみ期待して祈り続けたいと思います。

私も、昨年の年末から年始にかけて、横浜と神戸を車で2往復して、告別式も無事終え横浜に帰ってまいりました。皆様のお祈りに心から感謝致します。

明日は成人式ですが、多くの場所で成人式の中止が発表され、着物のレンタルがキャンセルされたり、写真館がキャンセルされたりと商売的にも大打撃ですが、一生に一度しかない成人式を公に行えない成人の方々の辛いという意見がニュースで放映されていました。別に、そのような成人式がなくても、成人としての思いを強く持ち、責任ある歩みをしてほしいと願います。教会に来れば成人祝福式がありますので、今日は4名の成人を迎える方々の祝福の祈りをしたいと思います。

今日は、マタイによる福音書19章16節から26節を通して、「青年の主張とキリストのまなざし」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

 一、イエス様を信じるだけでいい

 一人の男性がイエス様に質問します。彼は、青年で、金持ちで議員であったようです。この前の所で、人々が子どもたちを祈ってもらうために、イエス様の所に連れて来た時、弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱りました。子どもたちは、イエス様の邪魔になると思い、迷惑そうな感情があったでしょう。しかし、立派な身なりをした青年が来た時は、弟子たちは何も言いませんでした。この世的な状況にながされていたのでしょうか。この人は、イエス様に、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねたのです。当時のユダヤ人は、永遠の命を得るためには、善い行いが必要であると考えていました。レビ記18章5節には、「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人は、それによって命を得ることができる。わたしは主である。」とあります。

リビングバイブルには、「わたしのおきてだけに従いなさい。細かな点に至るまできちんと守りなさい。わたしはあなたがたの神、主だからだ。だれでも、わたしのおきてに従うなら生きる。わたしは主である。」とあります。

 イエス様は青年の質問に、「「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」(17節)と言われました。

 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」という誤った質問に対して、イエス様は、永遠の命を得るために必要な事は、善い方である神様に目を留めることを教えようとされました。そして、「掟を守りなさい。」とユダヤ人が律法を守ることで何とかしようとする掟そのものに目を向けさせるのです。

 青年が、「どの掟ですか」と尋ねると、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、

父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」(18-19節)と言われました。

これは、神様がシナイ山でモーセを通してイスラエルの人々に与えた十戒の後半の部分、隣人に対する戒めの内容でした。この指摘に、青年は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」と言いました。これが、青年の主張です。この言葉には、律法を守り正しく生きて来たという自信と誇りがあったように思います。マルコとルカによる福音書には、この同じ平行箇所がありますが、「まだ何か欠けているでしょうか。」という言葉は、マタイによる福音書にしかありません。この「まだ何か欠けているでしょうか。」という言葉には、イエス様が指摘された戒めを全て守っている自信の表れで、「何もないでしょう。」という傲慢な、鼻持ちならない態度がうかがえます。マルコやルカによる福音書には、「先生、そういうことはみな、子供のときから守ってきました」と自負しています。イエス様に誤った質問をした上に、自分の生き方に自信一杯の青年でした。ここに彼の問題がありました。私たちも、神様の前に、自分はクリスチャンとして、ちゃんとしています。真面目に過ごして来ました。礼拝を守り、聖書を読み、祈り、献金し、奉仕してまいりました。他に何か足りないものがあるでしょうか。そのような自分を誇りとしているものはないでしょうか。

 

 二、自分の罪と弱さを認めよう

 そのような自信たっぷりな青年に、21節でイエス様は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と語られました。すると、22節、「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」とあります。「悲しみながら」というのは、自分の自尊心が完全に傷つけられて、心を痛め、大いに悲しみ、失望し、悲嘆にくれる、というような意味があるようです。

マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」」

(マルコ10:21)とあります。イエス様は、律法を忠実に守り、何か問題ありますか、と自慢げに言う彼を見つめ、慈しまれたのでした。他の律法学者やファリサイ派の人々のように、厳しく指摘されるのではなく、何もわかっていない彼を愛の心で見つめられました。「鶏が鳴く前に3度私の事を知らないという」という預言の通りにイエス様を三度否定したペトロを振り向いて見つめられたように、イエス様は青年を慈しんで、そして語られたのです。

「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と。この言葉に対して、青年は悲しみながら立ち去ったのです。彼は生まれて初めての挫折を経験したのです。 

 この青年に欠けていたものは、財産を売って貧しい人々に施さなかったことでしょうか。そうではなくて、自分の欠け、弱さ、自分にはできないという事を素直に認めることができなかったことではないでしょうか。持ち物や行いに欠けがあったというよりも、心に欠けがあったのでしょう。イエス様は、自分には問題は何もないと自慢する青年に、自分の弱さを知らせるため、十戒の隣人に対する戒めを示されました。本当に厳格に律法を守るということは人間にはできないということを知らせたかったのです。パウロは、「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」(ガラテヤ3:24)と言いました。律法は、私たちをキリスト様のもとへ導く者であり、すでに主イエス様が来られたからには、もう律法のもとにはいないのだとパウロは言っています。

 青年は、今まで自分の罪深さを知ることがなかったでしょう。彼は、財産を売り払い、貧しい人々に施すという隣人を愛する行為、働きに従えなかったのです。財産を捨てることができませんでした。つまり、自分を捨てることができなかったのです。

 私たちは、自分の罪を、弱さを認めて、イエス様にすがりたいと思うのです。

 

 三、神様は神様だから何でもできるのです

 青年が悲しみながら立ち去った後、イエス様は弟子たちに言われました。23節、24節です。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 

 当時、庶民は荷物を運ぶのに、ロバを使用しました。しかし、裕福な人々はラクダを使用したようです。たくさんの荷物を運ぶことができるからです。たくさんの宝を積んだラクダという動物を目の前に、置かれた針という小さな穴を通れずに、苦労する様子を示しています。不可能だということです。イスラエルでは、金持ちであるということは神様に祝福された人々であることを示しています。アブラハムもイサクもヨブもそうでした。ですから、金持ちは神様から愛されている証拠だと思われていたのですから、イエス様が、「金持ちが天の国に入るのは難しい。」と言われて、弟子たちは、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。リビングバイブルには、「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」とあります。その言葉に、26節です。「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」とあります。「見つめて」というのは、自分の意思を伝えようとして、全神経を集中させた真剣な状態を表します。去年流行った、「全集中の呼吸」とでも言えるのでしょうか。イエス様は、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。「それは、人間には不可能です。しかし、神には全てが可能です。」ということです。 

 青年がイエス様に「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と質問した内容は、間違っていました。永遠の命を得るには、金持ちも貧乏人も関係ありません。律法を守る、守らないも関係ありません。永遠の命は、人間の努力やがんばりで与えられるものではありません。人間が律法を完全に守って永遠の命を得られるのではありません。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたように神様によることです。神様の領域です。正しい人が、良い人が、真面目な人が天国に行けると普通は考えます。しかし、神様は罪人を救い、永遠の命を与え、天国に導かれるのです。イエス様の十字架と復活を通して、イエス様が十字架で流された血とささげられた体、その死を通して罪が赦され、復活を通して、魂が救われ、永遠の命が与えられるのです。

 ですから、私たちは、自分の正しさや頑張りを見せる必要はありません。自分の罪深さや弱さを認めつつ、イエス様の十字架と復活のゆえに、神様の前に義とされ、罪赦されていることを感謝して日々を歩みたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 明日は成人の日です。2021年の20歳を迎える方々の祝福を祈りたいと思います。

20歳、私は43年も前です。6月14日に20歳を迎えて、関西のキリスト教ラジオ番組のルーテルアワーでの正木先生との録音をしたというのだけを覚えています。何を話したのでしょうね。頑張っている自分、全集中で突き進んでいる良きクリスチャンでいるという生意気な事を話していたのかも知れません。若造の話を温厚な、信仰深い先生は聞いて下さいました。イエス様が、この青年を慈しんで見られたように。

 今年20歳を迎える方々は、希望に満ち溢れています。自信もあるでしょう。私たちがどのような歩みをしようとイエス様のまなざしはいつも注がれ、慈しんで下さるのです。

 2021年、新型コロナウィルス感染症の新規感染者の数が爆発的に増え、緊急事態宣言が出され、先行き暗雲立ち込めるような状況です。希望が持てない。そういう時に20歳を迎えるという事は辛い事でしょう。しかし、辛いからこそ、大変だからこそ、神様が私たちを守り支えて下さるという事を体験できるのです。

 神様の戒めの本質は愛です。ペトロは、大漁の奇跡を目の前にして、イエス様の前にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と言った時、イエス様は、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

(ルカ5:10)と言われました。イエス様はへりくだる者に、自分の罪を認める者に、愛を示して、新しい使命を与えて下さるのです。

 あの青年は、悲しみながら立ち去りました。救われなかったというのではなく、自分に悲しむという事は救いにつながるのです。必ず救って下さったと信じます。私たちは、新しい年、不可能を可能にして下さるイエス様を信じて、どのようなマイナスもプラスになると信じて、「恐れることはない。」と言って下さるイエス様に信頼してまいりましょう。

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新年礼拝(21年1月3日)

2021-01-03 10:30:43 | Weblog

新年礼拝(降誕後第二礼拝)      2021.1.3

   「驚きの始まりがある」 ヨハネによる福音書2:1~11

 

 Ⅰ導入部

 新年あけましておめでとうございます。2021年がいよいよ始まりました。今年の元旦礼拝は、動画配信のみとなりましたので、皆さんにお会いすることができませんでした。私たち家族は、神戸におりました。12月31日、家内の父、義理の父の所で、孫、ひ孫が集まり楽しい時を持ちましたが、その夜天に召されました。突然のことで家族一同悲しみの中にあります。2020年は、新型コロナウィルス感染症の拡大のために大きな苦しみを経験しました。2020年の最後の日、最愛の義理の父を天に送り、2021年の元旦を父の遺体の横で迎え、2021年の最初の日から葬儀社との葬儀の話をしなければなりませんでした。2020年の最後の日と2021年の最初の日を苦しみと痛みを経験しました。人生には、上り坂、下り坂、まさかがありますが、今日の説教題のように、「驚きの始まりがある」まさにその通りです。4日に葬儀がありますので、お祈り下さい。

 今年も早いもので、あと362日を残すのみとなりました。2021年が良き年となることを心から願います。

 毎年元旦初詣礼拝の案内のために、藤木姉がデザインした絵とティッシュペーパーがありますが、2021年度版は、鬼滅の刃ならぬ罪滅の刃で、私が主役の竈門(かまど)炭治郎で、家内が炭治郎の妹の禰豆子(ねずこ)でしょうか。罪を滅ぼす刃、つまりイエス様の十字架と復活ですね。すごいですね。

 今日の新年礼拝は、ヨハネによる福音書2章1節から11節を通して、「驚きの始まりがある」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、そのままをイエス様に伝えよう

 今日の箇所は、ガリラヤのカナでのお話しです。イエス様は、ナザレで育たれましたので、ナザレからカナまでは、約8キロの距離にあったので、よく訪れた場所だったと思います。そのカナで婚宴があり、イエス様と弟子たちも招かれていたのです。イエス様の母マリアさんは、結婚式では責任の一端を負っていたようです。当時、娯楽というようなものは、現代のようになかったでしょうから、結婚式といえば、村中がお祝いムード、みんなで楽しむというイベントでしょう。結婚する二人と家族は勿論、近隣の人々、友人たち、あるいは、親戚の親戚、友だちの友だちと参加する人々も多くなっていったのでしょう。

 当時、結婚式は長いものでは、1週間ほども続いたと言われますから、食べ物やぶどう酒は十分に準備したのです。食べ物がなくても、ぶどう酒があればよかったのです。ですから、ぶどう酒を欠かすということは、とんでもないことでした。けれども、そのぶどう酒がなくなってしまったという緊急事態が生じました。12月31日には、東京では新型コロナウィルスの新規感染者が1300人を超える状況で、東京都の知事は、緊急事態宣言を政府に要求しているということです。大変な事です。

 カナでの婚礼も、緊急事態が起こっていたのです。裏方では、ぶどう酒の調達の準備やぶどう酒がどこかにないかと調査が行われていたでしょう。宴会にいる人々は、そんなことは知りませんから、知られたらみんな帰ってしまい婚宴は大変な事になります。世話役の1人のマリアさんもこの問題に直面していたのですが、そこには、マリアさんの自慢の息子イエス様がいました。マリアさんの夫のヨセフさんは、この時はもう亡くなっていたようですから、マリアさんは何かと長男のイエス様に頼っていたでしょう。子どもを持つ親は、やはり長男を頼るのでしょう。私は5人兄妹の一番下で三男でしたから、あまり頼られていなかったと思います。

 マリアさんは、イエス様の所に来て、「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたのです。

「ぶどう酒がなくなりました」というマリアさんの言葉は何を意味するのでしょうか。ただ事実を伝えただけでしょうか。そうなら、「そうですか」で終わります。そうではなく、母マリアさんが困っていて、イエス様に窮状を訴えたのは、やはり「何とかしてくれない」ということでしょう。そこのところ、察してよ!ということでしょうか。子どもとしては母からそう言われたら、それに答えて何とかしてあげたいと思うものでしょう。いや、何とかしてほしいなら、現状だけを伝えるのではなくて、どうしてほしいかをはっきり伝えてよ!となるかも知れません。夫婦の間で、親子の間で、兄弟姉妹の間で、上司と部下の間で、牧師と信徒の間で、言葉のゆえに、表現云々で、誤解をしたり、相手が願っている通りにならないということは多々あると思います。

 神様は、私たちの言葉が足りなくても、表現がへたくそでも、私たちの心を見て下さるお方です。ですから、マリアさんのように、「ぶどう酒がなくなりました」と事実を伝えるだけで理解していて下さるお方なのです。私たちは、どんな事でも、何でも、遠慮せずに、イエス様に、神様に祈ることができる。話すことができるのです。何も遠慮しなくていいのです。心にある思いを、願いを、事実を話せばいいのです。「憐れんで下さい」と叫ぶ者に答えて下さるお方なのです。

 

 二、何があってもイエス様を信じ抜く

 母マリアさんの「ぶどう酒がなくなりました」という事実、現状を聞いてイエス様の態度はどうだったのでしょうか。4節です。「イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」」 リビングバイブルには、「イエスは、「今はかかわりがないことです、お母さん。まだ、その時ではありません」と、お答えになりました。」とあります。 あれ、先ほど話したことと違いませんか、と思うようなイエス様の言葉です。「あなたと私は関係がない。今それに答えられない」というような意味ではないでしょう。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」というのは、ギリシャ語を直訳すると、「あなたとわたしによって何でもないことです。私に任せなさい。」というようなニュアンスになるようです。イエス様は、マリアさんの心の思い、願いを知った上で答えられたのです。イエス様が言われた「わたしの時」とは、十字架をさしているようです。イエス様は全人類の罪の身代わりに十字架につくことが使命ですから、そのことを言っているわけです。

 マリアさんは、イエス様の言葉を十分理解できなかったかも知れませんが、マリアさんはイエス様を信頼していたのです。ですから5節で、「しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。」とあります。私たちは、否定的な言葉や状況の中で、前向きになることや肯定的になることは難しい事だと感じます。神様に祈りをささげても、祈りが自分の思うように答えられない時、状況が自分の思い通りにならない時、祈りを続けることができなくなるように思います。それは、イエス様に対して、神様に対して絶対的な信頼が欠けているからだと思います。昨年、私は、困難な状況が重なった時、三日間眠られなかった時があります。祈っても、祈っても現状が良くならないで、悪くなる一方でした。頭の中では、そのことをぐるぐる考えて、どのような言葉を言ったらよいか、それを何回も何回もめぐらして疲れてしまいました。ふと気が付いたら、イエス様に祈ったのに、最善をして下さると信じているのに、イエス様に委ねないで自分の言葉や自分の何かで解決しようとしていたことに気が付きました。また、多くの方々が祈っていて下さることを思い出した時、イエス様は最善をなさるお方、一番良いようにして下さると信じた時、イエス様に全てをお任せできたので眠れるようになりました。マリアさんは、何を言われようが、事態がどうなろうが、イエス様を信じていたので、信頼を寄せていたので、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言えたのです。2021年の最初から緊急事態宣言云々と雲行きが悪い状況です。しかし、私たちを愛しておられるイエス様は最善をなされます。必ず助けて下さいます。ですから何が起ころうとも、イエス様をどこまでも信じて、信頼してまいりましょう。

 

 三、どう感じても最終的にイエス様に従い行動する

 7節には、「イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」とあります。 イエス様はぶどう酒が必要なのに、水を水がめに満たすように指示されました。イエス様は、からの水かめにぶどう酒を満たすことがおできになりました。しかし、そうなさらないで水を入れるように指示されたのです。この水がめはユダヤ人が清めに用いるとあります。家に入る時、足を洗ったり、手を洗ったり,食器を洗う時に用いるものです。この水を引用には使用しません。ですから、この水かめに水を入れてぶどう酒に変えて飲むという事は、ある意味では不謹慎なことでしょう。罰当たりと言われるかも知れません。イエス様は、ユダヤ教で清めに用いる水をぶどう酒に変えたのです。それは、律法を守ることによって救われるのではなく、イエス様が人間の世界に来られて十字架で流される血潮によって罪赦され救われることを示しています。6つの水かめという不完全なものではなく、イエス様の十字架と復活による神様の完全な救いと清めを示しています。

 召し使いたちは、6つの水かめに水を入れるように言われました。ぶどう酒が必要な時に水を入れるという意味不明な指示に従うことほど困難なことはありません。自分が理解して行動することは何でもありません。しかし、自分が今行動していることの意味が分からないままに、行動するという事は困難な事です。しかし、彼らは自分が理解できなくても、納得できなくても、イエス様の指示に従いました。マリアさんの「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った通りに従ったのです。水を水がめに入れる時にワインに変わったのがわかると実行しやすいし、前向きになれますが、そうではなかった。水かめにいくら水を入れても水のままでした。

 8節には、「イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。」とあります。水かめの水を世話役の所に持って行くように指示されました。この水の色が変わり、ツーンとワインのにおいがしていれば持っていくことも躊躇しないでしょう。しかし、水を世話役の所へ持っていっても仕方がないことでした。けれども、召し使いたちは、イエス様の言葉に従ったのです。

 世話役の所にこの水を持って行き、世話役が味見したら、最高のぶどう酒になっていたというのです。どこで水がぶどう酒に変わったのかわかりません。でも、召し使いたちは、なぜ水がぶどう酒になったのかは、イエス様の言葉に従ったからだと知っていたのです。

 私たちも、今行動していることが、経験していることが何になるのか、どうしてなのか意味が分からなくなる時があるかも知れません。何故、ぶどう酒ではなく水を運んでいるのかわからないことがある。しかし、その意味の分からない事、理解できないことが、イエス様によって最もふさわしいものに変わるというのです。最もふさわしいもの、今まで飲んでいた酒とは違う最高のぶどう酒であり、その事を知る時が与えられたのです。そして、水を汲んだ召し使いだけがその出所を知っていたのです。

 私たちは、2021年意味が分からない。どうしてなのか分からないという事を経験するかも知れません。しかし、その先にイエス様は最もふさわしいものを備えておられることを信じて、イエス様の言葉に、聖書の言葉に従いたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 人生で最も幸せな時、問題が起こりました。しかし、その緊急事態で、マリアさんのイエス様に対する信頼と召し使いたちのイエス様の言葉に忠実に従った結果、最もふさわしいものが与えられたのです。自分の願いが聞かれ、自分の思いが満たされることだけを求める人は、水がぶどう酒に変わり、最高のワインの味に満足するでしょう。しかし、それを変えたお方、イエス様に目を向けることのできた人は、その「しるし」がどこから来ているのかを知っている人でした。イエス様の言葉に従って行動した者だけが「しるし」を見て信じたのです。ここに神様の驚きの始まりがあるのです。

 2021年が始まりました。私たちは、この年、イエス様の言葉に触れて、従って最もふさわしいものが与えられること、驚きの始まりがあることを信じて、この年もイエス様を信頼して、イエス様に全てをお任せして歩んでまいりましょう。

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