日曜礼拝(公現後第四) 2021.1.31
「不幸が不幸で終わらない人生」 マルコ5:25~34
Ⅰ導入部
おはようございます。1月の第五日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、ライブ礼拝を通して、礼拝をささげることができますことを感謝致します。1月も今日で終わります。新しい年を迎えて一か月が終わり、いかがでしたでしょうか。明日から2月が始まります。昨年からの新型コロナウィルス感染症の影響で、新しい年になっても2回目の緊急事態宣言が出され、新規感染者の数が増加して、どうなるものかと思っておりましたが、少しずつですが、減少傾向にあるようです。私たちは、困難の中にあっても、私たちを守り支えて下さるお方を知っています。2月の月に期待して、神様を信頼して、今日の礼拝をもって1月を、感謝を持って閉じたいと思います。
今日はマルコによる福音書5章25節から34節を通して、「不幸が不幸で終わらない人生」と題してお話し致します。
Ⅱ本論部
一、イエス様に近づこう
今日は、12年間という長い間、出血の止まらない難病で苦しんだ女性のお話しです。
旧約聖書には、出血を伴う病気をただの病気ではなくて、汚れていると考えられていました。当時の考え方の中には、「人間の血はその体内にある限り、命の源である。しかし、いったん体の外に出ると汚れたものになる。」というものがあったようです。宗教的に汚れがあると考えられ、礼拝に出席することや宗教行事に参加することが許されませんでした。
ユダヤ人にとっては、礼拝に参加することが神の民の一員であることのしるしであり、喜びでした。その喜びも奪われ、神の民の群れから疎外されてしまったのです。自分は神の恵みを受けることのできない者、資格のない者、落ちこぼれた人間で、誰も顧みてくれないという絶望を経験したのです。また、出血がある間、汚れた者とされ、彼女が触れたもの全て、人であれ、物であれ、汚れたものであるとされていました。当然、彼女に触れた人やものも汚れたものであり、彼女と接触する人はだれもいなかった。つまり、12年間誰とも交わることができなかった。スティ、ホームで年頃の彼女は、同じ年の人々と楽しい話も交わりもできなかった。それだけではなく、家族とも話されていたでしょう。また、結婚することもできず家族を持つこともできなかった。人並みのささやかな幸せを得ることができませんでした。この病気を治すためにはどんなことでも試したでしょう。良い医者がいると知ったら、その医者に診てもらったでしょう。しかし、彼女の病気を治すことのできる医者はいませんでした。聖書には、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」(26節) ルカによる福音書にもこの記事はありますが、「医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」(ルカ8:43)とあり、マルコのように、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」ときつい表現ではありません。ルカは医者でしたから、同業者をそこまで悪く表現できなかったのでしょう。しかし、現実はマルコが記した通りだと思います。彼女は、医療的にも、経済的にも、宗教的にも、社会的にも苦しめられてきたのです。そして、どこにも希望を見出すことができないでいたのです。
私は、皆さんご存知のように膝のために随分苦しみました。良い医者がいないかとインターネットで調べて、せっせと通いました。しかし、一向に良くなりませんでした。良いサポーターがないかとインターネットで探し、薬局に行くと膝の痛みに効くようなサポーターがたくさんあるので、たくさん買って試してみましたが、どれも効果はあまりありませんでした。たくさんのお金を使っても治ることはありませんでしたし、結局手術をするという結論にいたりましたが、今度は片方の膝が痛くなり、いろいろ試している所です。
彼女の病気は、本当に青春を、人生を奪われたような、絶望を彼女にもたらしました。
しかし、彼女はイエス様のことを聞いたのです。27節に、「イエスのことを聞いて、」とあります。詳訳聖書には、「彼女はかねがねイエスのうわさを聞いていたので、」とあります。リビングバイブルには、「イエスがこれまでに行ったすばらしい奇跡を耳にした彼女は」とあります。イエス様が、目の見えない人の目を開かれたとか、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにしたとか、立つことのできない人の足を癒して立たせた、治らないとされている、また汚れたものとされている重い皮膚病の人を癒されたということを聞いたのです。そして、彼女はイエス様に最後の望みを託して近づくのです。
私たちの人生においても、いろいろなことをやっても、お金をつぎ込んでも、努力しても、どうにもならない事柄というものがあると思います。人間の力では、人間の何かではどうにもならないことがあります。しかし、イエス様には、あらゆる解決があるのです。彼女がイエス様を頼ったように、私たちもどのような事であれ、イエス様にお任せするならば、必ず解決が与えられるのです。ですからイエス様に近づきましょう。
二、あなた一人のために
彼女は自分の病気のことを誰にも知られないように、変装していたのかも知れません。彼女の病気の性格上、人前に出ることは許されませんでした。もし、知れたら殺されてしまうでしょう。ひそかに群衆に紛れてイエス様に近づいたのです。彼女は、「イエスがこれまでに行ったすばらしい奇跡を耳にした」とあるように、自分の病気を癒していただけると思ってイエス様の服に触れたのです。すると、何をしてもどんなことをしても、治らなかった病気、ありとあらゆる医者にも治せなかった病気が、イエス様にタッチした瞬間、自分の病気が癒されたことを感じたのです。と同時に、イエス様の内から力が出て行ったと聖書は記しています。
彼女の計画は、誰にもわからないようにイエス様に近づいて、イエス様の服に触れて、病気をいやしていただいて、誰にもわからないように帰っていくというものでした。そして、帰って行こうとした瞬間、イエス様が振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われたので、彼女はびっくりしたのです。恐れたのです。自分の行動は自分しか知らないはず。イエス様の服に触れた事は知らないはず。病気が治ったことも自分しか知らない。
それなのに、イエス様というお方は全てを知っておられる。彼女は恐れました。そして、このまま立ち去ろうか、どうしようか考えたでしょう。イエス様の「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉に、弟子たちは、多くの人がイエス様に迫り、多くの人の手がイエス様に触れているので、だれが触ったという質問はおかしいですよ、という感じです。リビングバイブルには、「弟子たちはけげんな顔で答えました。」とあります。イエス様には多くの人が触れているので、誰かという見分けはつかない。だから、彼女はこのまま立ち去っても問題がない、と思ったでしょう。けれども、イエス様は触れた人を見つけようとして見回しておられたのです。彼女は、自分がイエス様に触れた事をイエス様はご存知だと知ったのです。そして、自分が確かに癒されたという事実を、イエス様の前に震えながら進み出て、全ての事を話したのです。自分が12年間出血を伴う病気であったこと、そのためにいろいろと苦しんだこと。そして、イエス様のうわさを聞いて、群衆に紛れ込んでイエス様の後ろから近づき、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、イエス様の服に触れるとたちまち病気が癒されたことを正直に話したのでした。
多くの人の手がイエス様の服に触れたでしょう。しかし、彼女の触れた手、彼女が「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って触れたことに対してイエス様の内から力が出て行ったのでした。そして、彼女は完全に癒され、清められたのです。
多くの人々がイエス様に願うでしょう。祈ることでしょう。そのような中で、その人の苦しみや悲しみ、状況を知って下さり、彼女の願いにイエス様は答えて下さったのです。
イエス様は私たち一人ひとりのことをよくご存じです。どのような事で苦しみ、どのような事で悲しんでいるのか。痛んでいるのか。知っておられるのです。そして、私たちの持つ苦しみや悲しみ、痛みに対してイエス様は確実な解決を、癒しを、助けを持っておられるのです。ですから、イエス様に何でも、どのようなことでも頼っていいのです。
三、一人よがりの信仰でさえも
この女性は、イエス様の服に触れて癒されました。しかし、イエス様の服に力があったわけではないでしょう。イエス様自身の内からの力によって癒されたのでした。彼女は、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ってイエス様の服に触れましたが、
言い換えれば、イエス様の服の御利益に預かりたいと願ったのです。誰にも気づかれないように、癒されて、恵みをいただいて帰るという考えでした。悪く言えば、イエス様の力を利用して得をするということでしょう。自分の事は隠しておいて、後ろからそっと恵みだけをいただくという自分勝手な行動かも知れません。本来の信仰の在り方とは、かけ離れたような彼女の行為だったのかも知れません。しかし、そのような彼女の自分本位な、自分勝手な行動に対して、そのことをイエス様は感じ取って下さったのです。受け入れて下さったのです。
イエス様は、癒して下さい、と面と向かってではなく、自分を隠して、後ろからそっと触れるという形でしかイエス様に近づけない、そのような形でしか救いを求めることのできない彼女と出会おうとされたのが、「わたしの服に触れたのはだれか」という言葉の真意だと思うのです。
教会の礼拝や集会に来ることのできない人もおられるでしょう。正面から型にはまった形での集会に来ることのできない人もおられるでしょう。バザーや何かの用事という形でしか、教会を見せて欲しい。あるいは、自分を隠して電話や手紙での関りをする方もおられるでしょう。正当的でなくても、どのような形であってもイエス様は、一人ひとりの思いを、心を感じ取って受け入れて下さるのです。イエス様と共に十字架につけられた犯罪人は、「私は罪を犯しました。悪い人間です。悔い改めます。赦して下さい。」とは言いませんでした。ただ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ22:42)と言っただけです。イエス様は、この犯罪人の思い、心を知って、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ22:43)と宣言されたのです。
私たちの側は、私たちの思いや心は不完全で、自己中心です。自分の事しか考えません。私たちの側には、罪があり、問題があり、ふさわしくないものがあります。でも、イエス様は、イエス様だけは、私たちの精一杯の思いや願いを、タッチを、敏感に感じ取って下さるのです。私たちの不純な、自分勝手な、自分本位の願いや思いに答えて下さるのです。
イエス様は、罪深い私たちのために、身代わりに十字架にかかり、尊い血を最後の一滴まで流し、命をささげて下さいました。私たちの代わりに死んで下さったのです。死んで葬られ、三日目によみがえりました。このイエス様の十字架と復活のゆえに、私たちの数々の罪が全て赦されて、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命、天国の望みが与えられたのです。この女性がイエス様にタッチした時、イエス様の内から力が出て癒したように、イエス様の十字架での流された血とささげられた命、死んでよみがえられたことにより、私たちは救われ、癒され、清められたのです。この事を覚えて感謝したいと思うのです。
Ⅲ結論部
イエス様は、この女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われました。本当はイエス様の力が彼女を癒したので、「わたしがあなたを救った。」というのが正解です。しかし、あえて、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのです。自分を隠し、そっと触れて癒されて帰るという自分勝手な、信仰とは言えない彼女の一生懸命さ、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と藁をもつかむ思いでイエス様に頼った行動を「あなたの信仰」と言われ、「あなたの信仰があなたを救った。」と宣言されたのです。
彼女はイエス様との出会いによって人生が変えられました。不幸の人生がイエス様の言葉、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」という宣言の言葉、神の言葉によって新しい人生、不幸が不幸で終わらない人生へと歩み始めるのです。私たちもこの週、「安心して行きなさい。」と言われるイエス様と共に、信仰の道を歩んでまいりましょう。