江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年2月25日)

2018-02-25 13:49:35 | Weblog

後藤従明師(旭川ナザレン教会)のメッセージのため、原稿はありません。

青葉台ナザレン教会のホームページから音声、動画でお楽しみください。

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日曜礼拝(2018年2月18日)

2018-02-18 10:24:45 | Weblog

日曜礼拝(受難節第一)     2018.2.18

    「パフュームを注いだら」 マタイ26:6~13

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。先週の2月14日からレント(受難節)、イエス・キリスト様の苦しみを思う季節が始まりました。4月1日のイースターまでの日曜日を除く40日間をイエス様の十字架の苦しみを思いめぐらして生活していきます。日曜日は、イエス様が復活された日なので、日曜日は除かれての40日間となります。

 昨日は、平昌オリンピックで、フィギアスケート男子で、羽生選手が金メダル、宇野選手が銀メダルを取り、日本中に勇気と感動を与えてくれました。また高梨沙羅選手は、銅メダルとがんばりました。銅という漢字は、金と同じと書きますから、よくがんばりました。彼女は、旭川ナザレン教会のグレートマウンテンの卒業生でしたので、聖書を読んだり、神様の話も聞いていたのだと思います。 また、将棋の藤井五段は、準決勝で羽生(はぶ)竜王に勝ち、決勝では、広瀬八段に勝って優勝し、六段となりました。すごいですね。中学三年生です。これからも期待されますね。

 今日は、中高生の皆さんと共に礼拝をささげております。今日の説教題は、「パフュームを注いだら」という題です。「パフューム」と聞くと、中高生の皆さんは、3人のグループのテクノポップ・ユニットのパフュームが思い浮かぶのでしょう。のっちこと、大本綾乃さん、かしゆかこと、樫野有香さん、あ~ちゃんこと、西脇綾香さんの3人です。それはどうでもいいのですけれども、パフュームというのは、香水、香油という意味があります。今日の箇所では、香油がイエス様の頭に注がれました。英語の聖書には、このperhumeという言葉が使われています。今日は、マタイによる福音書26章6節から13節を通して、「パフュームを注いだら」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、私たちの思いや行動を理解して下さるイエス様

 今日の出来事はベタニヤという場所でのことです。ベタニヤはイエス様が特に故意にしていたマルタとマリア、ラザロが住んでいた場所です。イエス様は、彼らの家にはよく訪問されたようです。今日は、重い皮膚病人のシモンという人の出来事です。一人の女性が、極めて高価な香油の入った石膏の壺持って来て、イエス様の頭に注ぎかけたというのです。

 女性にとっては、香水や香油というのは大切なものでしょう。特にイスラエルの女性にとっては、香油はとても大切な存在だったようです。日本は、雨が多くて、毎日のように風呂に入りますが、イスラエル地方ではそうはいかない。日本人のように、毎日のように風呂には入れないでしょう。ですから、そんなに頻繁に風呂に入ったりシャワーを浴びたりできない女性たちは、体臭を消すために香油はなくてはならない大切な存在だったのです。ですから、極めて、高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたということは、すごいことなのです。同じ平行箇所のマルコによる福音書14章では、「純粋で非常に高価なナルドの香油」と説明しています。平行個所と思われるヨハネによる福音書12章では、1リトラ(326g)持ってきたとあります。高価なものですから、少しずつ使用するのが通常でしょう。なのに、この女性は、とても貴重な香油を326g全部、イエス様の頭に注ぎかけたのです。ヨハネによる福音書では、「家は香油の香りでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)とあります。このような貴重な香油ですから、少しでも良い香りがしたでしょう。326gですから、飲料水でも300gもあれば、相当です。それが、イエス様の頭に注がれたのですから、目立ったでしょう。イエス様の弟子たちは、それをすぐそばで見ていたのです。8節には、弟子たちが憤慨して、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。」と言ったことが記されています。2017年新改訳聖書や口語訳聖書では、「何のために、こんな無駄遣いするのか。」とあります。リビングバイブルでは、「なんてもったいないことを!」とあります。弟子たちは、この女性の行為、イエス様の頭に極めて高価なナルドの香油を326g注いだことを問題にしたのです。無駄だ。もったいない。無駄遣いだと。

 彼女にとっては、イエス様の頭に高価な香油を注いだことは、何ももったいないことではない。無駄遣いでもない。彼女としては、自分にできる精一杯のことをしたのだと思うのです。彼女がイエス様に罪を赦していただいたのか。癒していただのか。その理由を聖書はしるしていません。けれども、彼女はイエス様に対して心からささげたのです。

 弟子たちは、彼女がイエス様の頭に注いだ香油はあまりにも高価だったので、それを売って、お金にして、貧しい人々に施すことができるのにと言いました。それは、もっともな理由です。間違いはありません。しかし、それは彼女の思いを何も理解しない者の言葉でした。

 私たちは、人がする行為に理解できないことがあります。納得できないことがあります。無駄に思えることがあります。無駄遣いだと感じることがあります。そして、弟子たちのように、その人を批判したり、攻撃したりすることがあるでしょう。その人が、どのような思いで、どのような経験からその行為をしたのかを知らずして、知ろうとしないで見える行為だけで判断してしまうことがありますし、私たちがした行為に、そのように批判されたり、攻撃されたりすることがあります。しかし、イエス様は、人がどのように批判し、攻撃しようとも、理解しなくても、私たちの思いや行動を受け止め、理解し、祝福し、喜んで下さるのです。

 

 二、時を知り、態度で示す

 10節を共に読みましょう。「イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」 弟子たちは、彼女の行為を無駄な事、無駄遣い、とんでもないことだと責めました。けれども、イエス様は、彼女の行為に対して

わたしに良いことをしてくれたのだ。」と言われたのです。新改訳第三版では、「わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。」とあります。彼女がした行為を二通りの見方があったということです。とんでもない事だという見方と立派な事だという見方です。

常識から見て、この世の普通の考えでは、高価な香油を一度に注いでしまうということはおかしなこと、とんでもないことです。けれども、何事にも時というものがあります。

 旧約聖書のコヘレトの言葉3章1節には、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」とあります。 彼女は、普通なら、このような高価な香油を全て使い果たすということはしなかったのかも知れません。イエス様の十字架刑が近づいている時でした。そのことがわかっていたのかどうかはわかりませんが、彼女はこの時とばかり、普段しないであろうことをこの時、何かを感じて、ささげることを示されてささげたのです。

 私たちも、何かの決断をする時、とまどうことがあります。今すべきことか、後にするべきか。今語るべきか、語らないでいるべきか。多くの時間や才能、財をささげるべきかどうか。彼女も迷ったのかも知れません。極めて、高価な香油、純粋で非常に高価なナルドの香油です。ですから、それを少しだけ注いでも何も問題ありませんでした。その方が弟子たちにも憤慨されないし、責められることもなかったでしょう。おそらく人は、そんなにしなくても良いでしょう、と言うでしょう。少しだったら弟子たちも納得した。けれども、多くささげた。すべてをささげた所に憤慨や不満、攻撃がありました。

 けれども、彼女は聖霊に導かれるように、わずかではなくて、少しではなくて、半分でもなくて、全ての香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。それが、彼女の思い、心でした。その心をイエス様は理解して下さいました。受け入れて下さいました。わかって下さったのです。喜んで下さったのです。そして、言われました。皆さんと共に12節を読みましょう。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」すごい事を言われました。「わたしを葬る準備をしてくれた。」と。

 イエス様は弟子たちには、ご自分の死の事、十字架の事を何度か話されました。けれども、彼らは、その話しを聞いても、聞かなかったことにしたのです。水に流してしまったのです。本気にせず、真剣に取り組もうとはしませんでした。ですから、弟子たちの中には、イエス様の死の備えは考えの中にはありませんでした。しかし、イエス様は、全人類の罪の身代わりに死ぬということが父なる神様のお心であり、ご自分の使命であることを理解されていました。けれども、神であり人であるイエス様にとって、死ぬことは、死を経験することは苦しみでした。辛い事でした。逃げ出したい出来事でした。考えたくない事柄でした。そのようなイエス様のお苦しみをわかっているかのように、その事を察しているかのように、彼女は極めて高価な香油をあふれんばかりに、おしみなく、イエス様に注いだのです。ささげたのです。イエス様はどんなにうれしかったでしょう。心が癒されたでしょう。ここに、私の苦しみや悲しみを理解してくれる人がいると感じたのかも知れません。ですから、彼女がイエス様の死の葬りのためだと意識して香油をささげたのかどうかはわかりませんが、イエス様は、彼女の心からの、精一杯の、時を知り、時を生かして、時を定めてささげた行為を「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。」と言われたのです。イエス様ご自身のお心を支えた、励ました行為であると見て下さったのです。

 

 三、私たちの行為が聖別されたものとなる

 マルコによる福音書14章では、彼女の行為に対して「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」(マルコ14:8)

とあります。実際、イエス様は、金曜日の午前9時から午後3時まで十字架につけられ死なれました。午後6時には当時の安息日が始まるというので、バタバタしたということもあったでしょう。イエス様は、彼女の香油注ぎが、「埋葬の準備をしてくれた。」と言われたのです。タイムリーな、最も適切な、時にかなった行為だったと言われたのです。

 ヨハネによる福音書12章7節には、「イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」とあります。 ヨハネによる福音書2章1節から11節には、カナの婚礼の記事があります。水が葡萄酒に変わり最高の葡萄酒がふるまわれた時、世話役は、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し。酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ2:10)良いぶどう酒が、今まで取り分けられていた、つまり、聖別されていたのです。

 彼女が捧げた香油は、取って置かれたもの、イエス様にささげるために、特別に取り分けられていた、聖別されていたもの、それを彼女はイエス様にささげたのです。弟子たちは、彼女のささげた香油を無駄だとか無駄遣いだとか言って批判しました。けれども、イエス様は、ご自分の葬りのための準備であり、そのために聖別していたものだと評価して下さいました。

 イエス様は、この記事の二日後には十字架につけられるのです。全人類の罪の身代わりの死の葬りの準備として、彼女は準備していた最高の香油をパフュームをささげたのでした。この時にしかできない時に、ふさわしい時に彼女は香油をささげたとイエス様が言われたのです。彼女は、このようにイエス様に極めて、高価な香油をささげました。イエス様は、最善の時、一番良い時に葬りの備えとしての香油をイエス様に注いだ彼女のために、彼女の最善の香油注ぎを無駄だと無駄遣いと批判した弟子たちのために、そして、私たちのためにイエス様は十字架に身代わりにかかり、尊い血潮を最後の一滴まで流し、その命を犠牲にして下さり、尊い命をささげて下さり、死んで下さいました。その流された血潮とそのささげられた命、イエス様の死を見て、私たちの全ての罪が完全に赦されたのです。そして、イエス様が墓に葬られ、死んで三日目によみがえられたので、私たちの救いが完成し、神様の前に義と認められ、私たちに死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。イエス様は、私たちの過去、現在、未来の罪を赦すために、魂を救うために、私たちを義とするために、私たちに永遠の命を与えるために十字架にかかり死んでよみがえられたのです。イエス様こそ、私たち全人類のために聖別されたお方、十字架にかかり、死んでよみがえるために、神であるお方が人として、人間の世界に来て下さったのです。

 私たちは、イエス様ご自身が私たちのためにご自身をささげられたことを知り、イエス様に感謝して、私たちの与えられたものを精一杯おささげしたいと思うのです。人が何と言おうと、批判しようと、イエス様は私たちの心からの、精一杯のささげものを喜んで受け入れ、祝福し、感謝して下さるのです。

 Ⅲ結論部

 私たちはレント、受難節を迎えています。私たちには苦しい事や悲しい事があります。病気を通して死の恐怖やどうにもならない現実を体験します。イエス様は神様であるのにもかかわらず、人として死の恐れを経験し、死を迎えるということがどんない辛い事かを経験して下さいました。私たちが死という恐れを経験する時、イエス様はその苦しみやせつなさ、辛さをわかっていて下さるのです。理解して下さるのです。イエス様は、私たちが経験する悲しみや苦しいを経験して下ったのです。だから、イエス様は私たちを理解し、私たちに寄り添い、私たちを慰め、励まして下さるのです。私たちは、現実に苦しい事や悲しい事、痛い事、辛い事を経験します。けれども、イエス様は、そのことを知り、私たちを助けて下さるのです。

 イエス様に香油を注いだ女性は、イエス様の死の備えだとか葬りのためということは全くわかっていなかったかも知れません。しかし、彼女の与えられたものを精一杯、自分のできる時に、時を定めて、精一杯のささげものをした結果、イエス様の死の前にささげられたものとして、イエス様の死の備えとして、イエス様にとっても、喜びであり、励ましであり、勇気を与えるものとなったのです。私たちは、聖霊が私たちの心に、思いに働かれる時、勇気を持って前進したいと思うのです。神様のために、教会のために、人々のために、喜んで与えられたものをささげたいと思うのです。あなたにとって、この時が、その捧げる時ではないでしょうか。

 私たちは、この週も、聖書の言葉と聖霊の導きの中で、受難節を迎えて、苦しみや悲しみ、絶望を経験する時、困難な状況を経験する時、寂しさや悲しみを経験する時、イエス様の十字架の苦しみに預かることができたことを思い、聖霊の導きに従いながら、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年2月11日)

2018-02-11 13:11:48 | Weblog

日曜礼拝(公現後第六)        2018.2.11

    「キリストを信じる信仰の闘い」 ダニエル3:16~30

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

カレンダーを見ますと、2月11日は、建国記念の日とあります。「建国記念の日」はかつて「紀元節」と呼ばれ、1873年に明治政府が制定した天皇制国家の“建国記念日”であった。紀元節は「日本書記」の「神武建国」神話に由来し、天照大神の直系「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」=後の「神武」が初代天皇に即位したとされる日(BC660年=皇紀元年1月1日)を指しています。

 キリスト教会では、2月11日は信教の自由を守る日とされ、各地で集会が開かれます。

 明治時代、国家宗教とキリスト教が衝突した事件が、「内村鑑三一高不敬事件」(1891年)です。第一高等中学校の嘱託教員内村鑑三(31歳)が教育勅語奉読式において十分に拝礼(最敬礼)しなかったと非難攻撃されました。「教育勅語」は、表向きは道徳の根本、教育の基本理念を教え諭す勅語(天皇が直接国民に発する言葉)とされますが、欧米列強が基盤とする神の言葉である聖書に対抗すべく、現人神(あらひとがみ)である天皇の言葉として天皇崇拝とその臣下である国民は天皇に命を捧げることを命じたものなのです。

 私たちは、どのような時代が来ようとも、イエス・キリスト様を通して与えられる罪の赦しと魂の救い、復活の命の望みを持って、歩みたいと思うのです。

 今日は、信教の自由を守るということから、ダニエル書3章16節から30節を通して、「キリストを信じる信仰の闘い」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様を信じるがゆえの摩擦が起こる

 今日、登場するシャドラク・メシャク・アベド・ネゴは、ユダヤからバビロンに捕囚民として連れてこられました。この3人は、ダニエルと共に、「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年」

(ダニエル1:4)として選ばれたエリートでした。彼らはカルデヤ人の言葉と文書を学び、養成された選ばれた人々でした。

 2章においては、ネブカドネツァル王が夢を見て、夢の内容と解釈を求め、バビロンの賢者の中には、その夢の内容を話し、その夢を解く人はおりませんでした。ダニエルは、神様を信じる者として、王のみた夢の内容を語り、その夢の解釈をしたのです。すると、ネブカドネツァル王は、ダニエルに対して、「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことの神々の神、すべての王、秘密を明かす方に違いない。」(ダニエル2:47)と言って、ダニエルを高い位につけ、シャドラク・メシャク・アベド・ネゴをバビロン州の行政官に任命したのです。

 このようにシャデラク・メシャク・アベド・ネゴは捕囚民としてバビロンに連れて来られたにもかかわらず、バビロンでは高い地位にあったのです。ネブカデネツァル王が、3人の信じる神に対して、ほめたたえたのですから、信仰的な事柄に関しても安心できることでした。しかし、人間とは時間がたてば変わってしまう者です。

 3章になると、「ネブカドネツァル王は一つの金の像を造った。」という言葉から始まります。金の像を建てただけなら問題はありませんが、除幕式の時に、楽器による音楽が聞こえたなら、金の像の前にひれ伏して拝め、という命令を出したのです。そして、「ひれ伏して拝まない者は、直ちに燃え盛る炉に投げ込まれる。」(3:6)という命令を決めたのです。

 ですから、ほとんどの人々が音楽が聞こえたら金の像を拝んだのです。

 カルデヤ人の中には、捕囚民として連れて来られた3人が、高い地位についているのをよく思わない人々がいました。彼らは、シャデラク・メシャク・アベド・ネゴが命令に対して無視し、王様の神様に仕えず、金の像を拝まないことを告げ口したのです。

 3人は、命令が出ても今までと変わりなく、天地宇宙を創造された神様を礼拝し、金の像を拝むことはしませんでした。現代の私たちの信仰に対して、命を奪われるというほどのものはありませんが、イエス様を信じることに対する闘いは、それぞれにあるのではないでしょうか。イエス様を信仰するゆえに、バカにされたり、無視されたり、いじめられたりということがあるのかも知れません。日本の神々との間で、その神々を信仰する人々の間での摩擦やいざこざは存在するのです。

 

 二、神様を素直に信じる

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴが自分の建てた金の像を拝まない。命令を無視していると聞いたネブカドネツァル王は激怒します。そして、今音楽が聞こえたら、金の像を拝め、さもないと、燃える炉の中に投げ込ませる。「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」(3:15)と言ったのです。「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」という言葉は、傲慢な者、権力と力を見せびらかす者たちの常套手段の言葉です。

 絶体絶命、プレッシャーのかかる事態でした。今、韓国の平昌(ピョンチャン)で、冬季オリピックが開催されました。フィギアスケート団体戦で、宇野昌磨選手は、2位に

15点差をつけて1位でした。国際スケート連盟の公認大会で、1シーズン5度目の100点越えをしたのです。これは史上初の記録です。オリンピックという大舞台で、プレッシャーのかかる試合で、彼は自分の持てる力を出し切ったのです。

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴは、プレッシャーのかかる大一番で、自分の命にかかわる状況の中で、ネブカドネツァル王の脅しに答えたのです。

 皆さんと共に16節から18節まで読みましょう。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

 彼らは、ネブカドネツァル王の脅しにはっきりと答えました。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」と。何があっても、どんなことが起ころうとも、危険が迫ろうとも、自分たちの信じる神様は、全能なるお方、この窮地、金の像を拝まないことで火の燃える炉の中に入れられても、神様は必ず救って下さる。助けて下さると信じているのです。神様は守ってくださるといいな。助けて下さればいいなではないのです。必ず助けて下さると信じているのです。絶対に、100パーセント助けて下さるのですか。絶対絶対に、本当に助けて下さるのですか。間違いない事ですか。彼らは、間違いないと信じているのです。

 彼らは続けて、「そうでなくとも、御承知ください。」と言いました。口語訳聖書には、「たといそうでなくても」とあります。私の信じる神様は、必ず守り、必ず助けて下さると信じる。信じるけれども、炉の中に入れられて焼け死んだとしても、燃える炉の中から助け出されなかったとしても、神様を信じますということです。

 助け出して下さるので信じる。守って下さるので信じるのではないのです。助け出せるかどうかで信じる信じないではなくても、助け出してもらおうが、助け出されないでも、私は私の神様を信じるのです。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)とあります。 私たちはイエス様を神様として信じ、いつも共におられ、私たちを守り、助けて下さると信じるのです。

 

 三、神様を信じることは状況で変わらない

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴは、自分たちが助け出されようが、殺されようが、金の像をおがまないことをはっきりと伝えたのでした。見上げた信仰です。しかし、3人の信仰告白を聞いたネブカドテツァル王は、血相を変えて怒り、炉をいつもの7倍熱くするように命じて、3人を縛り上げ、頑強な兵士に命じて、火の燃える炉の中に投げ込んだのです。絶体絶命です。なぜ、神様は3人の信仰に対して、火の燃える炉の中に投げ込まれることから助けて下さらなかったのでしょうか。一巻の終わりです。

 しかし、聖書は、3人は縛られたままに自由に歩いているのが見えるとネブカドネツァル王は言いました。そして、3人ではなく、4人の人が見え、何の害も受けていないことがわかったのです。そして、その4人目は、神の子のような姿をしていると言ったのです。

 何か、ドラマの世界、映画の世界のような内容です。信じられないことです。その一番信じられなかったのは、ネブカドネツァル王だったと思うのです。王は、自信たっぷりに、

「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」と言いました。そんな神は、人間が作った神々の中にはいないのです。人間の作った神に、人間を救うことはできません。人間を救うことのできるお方は、人間を創造されたお方だけなのです。いつもよりも7倍の熱量で、3人を引いていった兵士さえも焼き殺すほどの勢いの炎。その中に投げ入れられた3人は、なんの害も受けずに、歩き回っている姿を見て、しかも、第四の男、神の子のような者が3人を先導するかのように、守っているかのように、4人の姿がはっきり見えたのです。

 ネブカドネツァル王は、3人に燃える炉の中から出てくるように言うと、3人は出てきたです。何の害も受けず、しかも、髪の毛も焦げず、上着さえも火のにおいもしなかったのです。完全なる神様の勝利、3人の信仰による勝利でした。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」という信仰でした。めでたしめでたし。

 私たちも、疑わないで神様を信じていきましょう、といいたいのですが、私たちの現実には、助けられなかった。守られなかった。与えられなかった。そのような現実を私たちは経験しているのです。神様を信じたって、守られない。助けられない。与えられない。だから、神様を信じないといって、信仰を捨てた人々もいます。あまりの苦しみと悲しみ、絶望を通して、神様なんて信じられないと信仰から離れ、教会から離れ、聖書や祈りから遠ざかっているクリスチャンの方々が多くいるのではないでしょうか。

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴは、「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」と言いました。彼らは、必ず助けて下さると信じています。これが信仰です。助けてくれる、助けてくれないというのは、彼らの内にはないのです。必ず、助けて下さるという信仰を持っているのです。だから、助けて下さると信じ切っているけれども、たとえ、自分たちの思い通りにならなくても、神様を信じないという選択をしないということです。

助けて下さらないかも知れないので、金の像を拝んで、自分で自分の立場を守るということではないのです。彼らにとって、神様を信じないということは、自分を信じるという偶像礼拝に匹敵することなのです。自分が神様に取って代わるということです。そうすると、自分の判断で何でも行動することになるのです。それが自己中心の始まりなのです。

 

 Ⅲ結論部

 神様は、全ての人に平等に救いの道を開かれました。時代を超えて、場所を超えて、男女を超えて、年齢を超えて、全ての人に神様の愛を示されたのです。見えない神様が見える神様として、神様が人となって人間の世界に来られ、私たち人間の罪、神様から離れて自分で何でも考え行動する自己中心の罪の身代わりに、イエス様が十字架にかかって死んで下さり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。その流された血、捧げられた命、その死を見て私たちの罪を赦され、イエス様がよみがえることによって私たちに永遠の命を与えると同時に、神様の前に義として下さったのです。

 私たちは、信仰の闘いが迫られる時が来るかもしれません。私たちは、自分の思うようにならなくても、苦しみや悲しみが続こうとも、絶望を経験しようとも、私たちのために絶望をすでに経験し、苦しみの極みを経験されたイエス様は、私たちの苦しみを知り、そのままにはされないお方なのです。心配することなく、一番良いようにして下さると信じて、安心して、イエス様に全てを委ねて、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年2月4日)

2018-02-05 11:17:28 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)        2018.2.4

    「「福は内鬼は外」と言うけれど」 ヨハネ8:1~11

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。厳しい寒さの1月でしたが、1年で最も寒い季節、2月を迎えました。寒い中、礼拝にようこそおいで下さいました。愛する皆さんと共に礼拝できますことを心から感謝致します。

 2月3日は節分です。節分と言えば、今日の説教題にもなっていますが、「福は内、鬼は外」と言って豆をまくのが習慣となっているようですが、節分の意味は、季節を分けるという節分の漢字からもわかるように、季節の変わり目という意味です。立春、立夏、立秋、立冬となる前日のことを節日(せちにち)といい、中でも年の初めに訪れることから立春の前日のことを節日(せちにち)から節分と呼ぶようになったようです。

 節分の日は、今でいうと大晦日で、その夜を年越しとして柊(ひいらぎ)の枝にイワシの頭をつけて、入り口に飾り(邪気を払うため)、夜には豆まきをして厄払いを行ったようです。また、節分に恵方巻を食べることがあります。スーパーには何日も前に恵方巻がズラリと揃えてありました。私もおいしそうなので、買って食べました。恵方とは、吉方(きっぽう)の事を指し、陰陽道でその年の幸福をつかさどる神である歳徳神(としとくじん)がいる方角だそうです。節分の日に恵方を向いて、無言で食べると縁起がいいとされているようです。

 私は子供の頃、2月3日の節分の日には、鬼の仮面をかぶった人に、「福は内、鬼は外」と豆を投げつけ、自分の年齢分の豆を食べたものでした。おそらく、今ではあまりそのようなことはしないのでしょう。

 さて今日は、ヨハネによる福音書8章1節から11節を通して、「「福は内、鬼は外」と言うけれど」という題でお話しいたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、人間とは罪深い者

 今日の箇所は、姦淫の現場で捕らえられた女性をどう扱うのか、ということを律法学者たちやファリサイ派の人々がイエス様の意見を聞くわけです。しかしこれには裏があり、イエス様がどのように答えても、イエス様を訴えることになるという律法学者たちやファリサイ派の人々の思惑、魂胆があったのです。そして、この魂胆のために、この女性は利用されたようなのです。権力のある者や地位のある者たちが、権力や金の力で、正しい事さえも曲げてしまう。悪い事さえも良きことに変えてしまうという世の中の裏というか、そのような理不尽な行動があります。それは、テレビドラマや映画でも、そのような事柄が多くあり、正義の味方が悪をただす。悪を成敗するというのがあるわけです。けれども、弱い者が、力のない者が悪に苦しみ、悲しみを経験するということは多くあるのです。

 この女性は、利用されたにせよ姦淫と言う罪を犯したのです。ユダヤの律法では、姦淫は三大の罪と言われて、罪の中でも極刑にされるほどです。彼女は罪を犯し、人々の前に、姦淫を犯したことを暴露され、見世物にされたのです。リビングバイブルでは、「ユダヤ人の指導者やパリサイ人が、寄ってたかって、一人の女を引っ立てて来ます。」(8:3)とあり、「モーセの法律では、こういう不届き者は石で打ち殺すことになってますが、どうしたものでしょう。」(8:5)とあります。イエス様を訴える口実が見つかるために、この女性はどうなってもよい。イエス様を訴えるためのエサのように考え、正しい自分たちは、罪を犯した女性を上から目線で見て、「こんな不届きな者は裁かれるべきだ」と心で思いながら、自分たちの勝利を確信しながらも、イエス様の答えを待ったのです。

 ローマの信徒への手紙3章には、「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)

「彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」(ローマ3:13~18) 人間の罪深さ、愛のなさを示しているように思います。自分の事は棚に上げて、人を責めるのは、私たち全ての人に共通することだと思うのです。律法学者やファリサイ派の人々の姿は、実は私たち一人一人の姿なのだと思うのです。

 

 二、神様の言葉が与えられる

 律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエス様に問いました。6節を見ますと、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。」とあります。何を書いておられたのかは、聖書は記しておりません。学者たちは、いろいろと考えています。質問にすぐに答えられなかったので、時間稼ぎをして、質問の答えを探していた。あるいは、姦淫を犯した女性の目を自分に向けようとした。あるいは、人間の罪を書いておられた。あるいは、律法を書いておられた。このようにいろいろな解釈があるようです。

 私は、「指で地面に何か書き始められた。」という言葉から、モーセはシナイ山で神様から十戒、十の戒めをいただきました。神様は石の板に神様の指で記したのが十戒でした。出エジプト記31章18節には、「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった。」とあります。

 神様は、ご自分の指で石の板に十戒を書いてモーセに授けたのです。神の指です。

イエス様は神様ですから、イエス様はご自分の指で地面に何かを書かれた。ですから、やはり十戒、律法を書かれた、という学者の意見は当たっているのかも知れませんが、私はイエス様が、戒めは戒めでも新しい戒めを書いておられたのではないかと思ったのです。

 イエス様は、最後の晩餐の時、裏切り者のユダが出て行った時、11人の弟子たちに、こう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34) この戒めを書いていたのかも知れない。旧約では、神様の指が十戒、律法の戒めを書き、新約では、イエス様の指が、「互いに愛し合いなさい。」という新しい戒めを書いたように感じるのです。寄ってたかって、姦淫を犯した女性を裁こうとする善人の律法学者たちやファリサイ派の人々は、赦しなんてことはことさら考えていないのです。榎本保郎先生は、新約聖書一日一章では、「許しはまじめな人のほうが、素直に喜べない面があるようである。悪い者は、罰せられて当たり前だ。そのような者が救われたのでは、私たちは一体どうなるのか、と自分の義を誇る者には、許しというのはあまり歓迎されない。」と言っておられます。

わたしたちはどうでしょうか。

 

 三、罪のないお方が私たちを赦される

 7節を共に読みましょう。「しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」 イエス様は、石を投げるな、とは言われませんでした。「投げなさい」と言われました。けれども、「姦淫を犯した者には石を投げるように、と律法には書いてある。だから、石を投げなさい。しかし、罪を犯したことのない者が石を投げなさい。」と言われたのです。イエス様は、律法はどうでもよいとは考えていません。旧約の時代に神様が与えた戒めを大切にされたお方です。律法には石を投げろと書いてある。けれども、この罪を犯した女性に石を投げることができる者は、罪を犯したことがない人なのです。

 イエス様のこの一言で形勢が変わりました。イエス様を追い込んだ質問、「「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」」という質問で、イエス様は不利になりました。絶対絶命です。しかし、人間がどんなに考え、準備し、計画したとしても相手はイエス様、神様なのです。勝てるはずがない。戦う相手を間違ったのです。イエス様の口からどのような答えが出ても、自分たちには、勝ちしかない。そんな優越感と傲慢な思い、手段を選ばずにただイエス様を訴えるために工作した今回の計画も、

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」」という一言で、そこに集まっている人々は、自分という存在、自分に問いかけたのです。「自分は今までに罪を犯したことがないのか」と。彼女を指さしていた指、人差し指は彼女を指し、親指は上、神様を指し、あとの三本は自分を指しているのです。9節には、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」とあります。リビングバイブルには、「すると、ユダヤ人の指導者もパリサイ人も、ばつが悪そうに、年長者から順に一人去り、二人去りして、とうとうイエスと女だけが、群衆の前に取り残されました。」とあります。詳訳聖書には、「良心を責められて」とあります。自分の心に手を当てて考えると、誰も姦淫と言う罪を犯した彼女に石を投げることはできなかったのです。石を投げる権利はなかったのです。自分たちは、神の前には正しい、義人だと自負していた律法学者たちやファリサイ派の人々さえも、石を投げることはできなかったのです。

 11節のカッコを共に読みましょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」この言葉には、赦されるはずのない者が、罪を罰する力のあるお方から罪を赦されるという不思議な世界があることを示しているのです。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」というのは、何でもかんでも赦される、というのではなく、その罪をイエス様が全て背負うと言うことです。私たちの罪が赦されるために、神であるお方、罪のないお方が、私たちの身代わりに十字架にかかり、父なる神様の裁きを受け、尊い血を流し、死んで下さった。命をささげて下さったのです。死んでよみがえり、赦しを完成され、私たちによみがえりの命、永遠の命を与えて下さったのです。

 先週の金曜日には三浦綾子文学講座があり、森下先生がお話しをして下さいました。イエス様は、十字架の上で、両手両足を釘で打たれ、頭にはいばらの冠をかぶせられ、口には水ぶどう酒を受けらた。それは、私たちの頭で犯す罪、手で犯す罪、足で犯す罪、そして、口で犯す罪の身代わりになって死んで下さったのですと語られました。

 

 Ⅲ結論部

 昨日は、節分でした。「福は内、鬼は外」と悪いものは外で良いものをいただきたいとする人間の願いです。今日は豆ではなく石を投げるという話でしたが、私たちは祝福をいただきたいですが、私たちのうちには罪で溢れているのです。頭で考えることは悪い事、とんでもない事、口で人を傷つけ、うそを言う。手や足で人を傷つける。そんな罪深い私たちを救うためにイエス様は来られたのです。私たちの罪を罰する権限を持つお方が、私たちの罪を赦して下さるのです。ご自分の命を懸けて、命を指し出してまで。私たち一人ひとりを愛しておられるからです。

過去のサラリーマン川柳に、「豆まきを したのに家に 鬼がいる」というものがありました。この鬼が誰なのかは想像にお任せしますが、罪を赦された私たちもまた罪を犯してしまう者です。そのような者に対して「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言って赦しを宣言して下さるのです。

 姦淫を犯して捕らえられた女性は、自分からイエス様のもとに行ったのではありません。自分の意志ではなく、強制的に連れて行かれたのです。しかし、イエス様のそばに行ったのは、事実です。この事が大事です。失敗した、罪を犯した時、イエス様から離れていく人が多いのです。逆です。罪を犯した時、イエス様のそばに行くことです。イエス様がそばにいたから、彼女は赦されたのです。赦されて新しい歩みが始まったのです。「これからは、もう罪を犯してはならない。」とは、イエス様との新しい人生が始まるということです。

イエス様を礼拝した東方の占星術の学者たちは、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ2:12)とあります。イエス様に出会う前と出会った後では違うのです。

私たちは、もうイエス様に知られているし、イエス様を知っているのです。このお方が、この週も共におられ、私たちのそばにおられるのです。安心して、イエス様から離れることなく、イエス様の赦しを恵みを体験しましょう。

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