主日礼拝(公現後第八主日) 2011.2.27
「こっそり罪人」 ルカ15:25-32
Ⅰ導入部
おはようございます。2月の第四主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日も心からの礼拝をささげたいと思います。
ニュージーランドでは地震が起こり、多くの人々の命が犠牲になり、まだ多くの方々が瓦礫の下におられることを連日のニュースでみなさんも御存知だと思います。ニュージーランドのナザレン教会も被害に遭われたようです。神様の守りと助けがありますように、教会やクリスチャンが豊かに用いられるように、続けてお祈りいたしましょう。
2月22日(火)に愛する加藤秀雄兄が天に召されました。体に弱さを持ち、戦いながらの日々の歩みでありました。お体の弱さのゆえに礼拝にはなかなかおいでにはなれませんでしたが、よく献金をお持ち下さり、共に祈りをささげることができました。3月1日(火)に告別式が執り行われますのでお祈りいただきたいと思います。御家族の上にも主の慰めがありますようにお祈りいただきたいと思います。
さて、今日は「こっそり罪人」と題して、ルカによる福音書15章25節から32節を通してお話ししたいと思います。2月13日の礼拝では、ルカによる福音書15章11節から24節を通して、「アイシテル」という題で、放蕩息子、弟のお話しをさせていただきました。今日は、後半のお兄さんについて見てみたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈上から目線
15章の23節、24節を共に読みましょう。「それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」 弟息子は、放蕩の生活のゆえ、死を前にして本心に立ち返り父親の元に帰って来ました。「父の所へ帰ろう」と悔い改めの最初の気持ちは打算的ではありました。しかし、自分を見るや駆け寄って、接吻し、罪を犯した自分をそのままで息子として受け入れてくれた父の愛に触れて、彼は本当に悔い改めたのでした。
19節を共に読みましょう。「「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。」 21節を共に読みましょう。「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」
父に会う前は、打算的な思いがありましたから、「雇い人の一人にしてください」と言って、仕事をもらい何とか生きようと考えました。しかし、父にそのままの自分が受け入れられ、父の愛を知った彼は、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と告白し、「雇い人の一人にしてください」とは言いませんでした。父は、「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と言って、みんなで宴会を始めたのです。
25節を共に読みましょう。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」 一日、畑で働いて疲れて帰って来た兄息子は、自分の家で音楽や踊りのざわめきを聞きました。誰かの誕生日か、何かのお祝いかと思うほどのさわぎだったのでしょう。兄息子は、僕に聞きました。すると、彼の弟が帰ってきて、父が肥えた子牛をほふられた、というのです。
リビングバイブルには、「弟さんが帰られたのでございます。だんな様は、そりゃもう、たいへんなお喜びで、肥えた子牛を料理し、ご無事を祝う宴会を開いておられるのです。」とあります。彼の弟が帰って来たのです。父に財産を要求し、数日のうちに、不動産を金に換えて遠い国へ行ってしまった弟、どうしていたのか、どんな生活をしていたのか分かりませんが予想はついたのでしょう。30節では、「あなたの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると」とありますから、兄息子は僕から弟息子の今までのことを聞いたのでしょう。家の仕事もまともにできない。出て行けば行ったで、財産を使い果たし、そんなどうしようもない弟を勘当もしないで喜んで受け入れるとは。今まで父に逆らうこともなく、忠実に家の仕事をし、まじめ一筋で生きてきた兄には、父のしたこと、弟をそのままで受け入れ、喜んで宴会までするとは、兄の腹の虫はおさまりませんでした。
私たちはどうでしょうか。この兄息子と同じようなことはないでしょうか。問題ある者が、罪ある者が、失敗した者が、何の罰も受けず、受け入れられ祝福されている姿を喜べない、良く思えないということはないでしょうか。聖書は、「喜ぶ人と共に喜び」と勧めています。いや命令しているのです。
⒉自分の事は棚に置いて
28節を共に読みましょう。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。」兄は怒りました。リビングバイブルには、「事情を聞くと、無性に腹が立ってきました。中に入るのさえしゃくにさわります。」とあります。何を怒ったのでしょうか。何に腹を立てているのでしょうか。「お父さんは自分をちっとも愛してはくれない」ということです。
29節を読みましょう。「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」 リビングバイブルには、「私はこれまで、お父さんのために汗水流して働いてきたんですよ。言いつけにだって、ただの一度もそむいたことはありません。」とあります。自分には何もしてくれないというのが兄の主張でした。では、お父さんは兄息子には何もしてあげなかったのでしょうか。
お父さんは、この兄息子にもどれだけ尽くしていてくれたでしょうか。どんなに兄のことを思ってきたでしょうか。お父さんのもとでどれだけ平和に暮らしてこられたのでしょうか。食べ物や生活の全てに心配することなく、何不自由なく暮らして来られたのはお父さんのおかげなのに、その事を全く兄は忘れていたのです。それなのに、兄のうちにはただ不平と不満で満ちていたのです。
お父さんは、弟息子をそのままの姿で受け入れ、息子としての資格を与えました。もし、弟息子がお父さんに出会う前に、お兄さんに出会っていたらどうだったでしょうか。兄は弟を罵倒(ばとう)したでしょう。口汚くののしったことでしょう。ひどい言葉を次から次へと話したでしょう。今まで心の中に抑えていた感情が爆発して、これでもか、これでもかと冷たい言葉をかけ弟を否定したことでしょう。そうならば、弟は兄の言葉や態度に失望して、落胆して、帰って来た道をまたトボトボとあてもなく戻って行ったことでしょう。当てのない旅、希望のない道を歩み続け、弟の生活は、人生は以前よりももっとひどい人生、最悪の人生を送ることになるのでしょう。
兄は、お父さんに弟には子牛をほふり、自分のためには子山羊一匹すらくれなかった、と言いました。では、自分は一体何をしたのでしょうか。弟が家出してから、お父さんは本当に心配して、痩せ細って行ったことでしょう。お父さんの苦悩の姿を見てきたことでしょう。それなのに、お父さんを励まし、お父さんのために祈ってきたのでしょうか。また、家出をした弟のために祈ったのでしょうか。弟が無事いるようにと毎日祈り続けて来たのでしょうか。おそらくないだろうと思うのです。
よくつぶやく人、批判する人というのは、人のために何もしないという人が多いように感じます。これはまさに、ファリサイ人、律法学者たちの生き方でもありました。私たちは、人に対して、隣人やそば近くにいる人に対して不平不満でいっぱいということはないでしょうか。そういう人は、神様に対しても不平不満でいっぱいなのだろうと思うのです。
兄息子のように、「自分を愛してくれない。大切にしてくれない。何もしてくれない。」と言うのですが、お父さんの自分にしてくれた数々の事、その愛と配慮を忘れているのです。
31節を読みましょう。「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」このことが兄にはわかっていなかったのです。神様の愛の中にいながら、神様の心がわからないような、無視した歩みをしてはいないでしょうか。
⒊どちらの放蕩息子?
放蕩三昧(ざんまい)して悔いて、父の元に帰り本当の父の愛を知り悔い改めた弟の姿と、弟をけなし、その弟を受け入れた父に対して不平不満を現わした兄の姿を見比べると、兄は傲慢な態度のように感じます。
勤勉でまじめな兄と自分勝手で不真面目な弟というように比べると兄の評価はいいでしょう。しかし、お父さんの前では、つまり神様の前ではこの世の基準で考えると賞賛される人であっても、神様の前では、その正しさや真面目さが醜く見えるのです。この世の価値観が逆転するのです。
三浦綾子さんが、「したきりすずめのクリスマス」という本を書きました。青葉台教会で、その物語を書いたみなみななみさんのその絵を展示しました。みなさんもご覧になっただろうと思います。
「したきりすずめ」のお話は、強欲なおばあさんとやさしいおじいさんが出てきて、強欲なおばあさんはひどい目に遭い、おじいさんのやさしさが強調されるというような内容だったと思います。
三浦綾子さんの書いた「したきりすずめのクリスマス」は勿論、「したきりすずめ」の内容に、イエス様が登場するということです。すずめのお宿に行ったおじいさんは、市民クリスマスなる席に遭い、そこですずめたちの暗唱聖句やきよしこの夜の讃美を聞くのです。そして、プレゼントに軽いつづらと重いつづらのどちらかと言われて、年寄りなので軽いつづらをもらいます。家に帰り、おばあさんと一緒につづらを開けて見ると、なんと聖書が入っていたのです。おばあさんは、「こんな本はトイレットペーパーにもならない」と怒り、自分が行って大きいつづらをもらうと言って出かけていきます。そして、重いつづらをもらい、このつづらの中には金や銀、ダイヤモンド、大判小判がザックザクと考えるといても立ってもおられずに、そのつづらを開けます。すると、お化けが出てきておばあさんは頭を抱えて倒れます。そこに、イエス様が声をかけ、あれはお化けではなく、おばあさんの心であることを説明します。そのお化けの姿は欲深く、意地悪な、やきもちの心であることを示され、おばあさんは自分の醜さを認め、自分の罪を認め、イエス様がその罪を背負って下さることを知り、イエス様によって救っていただくのです。そこに、罪を犯した人々が救いを求めて来ます。そこへ、正直者のおじいさんがやって来ます。
おじいさんはイエス様に言います。「私は、このおばあさんのように欲深くもなく、意地悪でないことも感謝します。」聖書のどこかにありましたね。「こんな悪い人でもないことを感謝します。私は何一つ罪を犯さず、正しく生きてきたので、あなたに重い荷物を背負わせずにすみました。」と言うと、イエス様は悲しそうにおじいさんも見て言います。「おじいさん、世界中にまったく正しい者はただの一人もおりません。」「え?正しい者は一人もおらん?じゃ、ここに、私がおるじゃありませんか。したきりすずめのおじいさんは、欲のない、やさしい人間だと昔から言われております。この私に罪などあるはずがありません。」「誰にもやさしく、親切で、申し分のない人だという人ばかりで、私は神様のようだと言われるほどでして。」とも言います。すると、イエス様が後ろを見るように言います。
後ろを振り向くと、大きな天狗の姿がありました。「これがあなたの本当の姿です。傲慢の姿です。私はあなたの言葉を聞いて悲しく思います。自分には罪がないと思っているほど大きな罪はないのです。これは神様の一番嫌いな重い、重い罪です。むしろ、おばあさんよりも罪が深いと言えるでしょう。」とイエス様は答えます。おじいさんは、おばあさんより自分の方が罪深いと言われて、「そんな無茶な」と言いますが、「無茶ではなく、自分の罪がわからねば悔い改めることができません。罪はそのまま残るのです。」おじいさんは、イエス様に指摘されて自分の傲慢の罪を認めてイエス様の救いを受け入れるというお話しです。
罪を認めて帰って来た弟よりも、自分の正しさ、自分の忠実さばかりを正当化する兄の方が罪が深いというのが、三浦綾子さんの見方でしょう。また、神様もそうだと思うのです。
私たちは、神様の前に自分の罪を認めているでしょうか。何よりも、私たちを創造し、私たちの罪を赦すために、神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったイエス様の愛をどう受け留めているでしょうか。自分は正しい。自分には問題がないと考えるならば、イエス様の十字架は何の意味もありません。私たちは、今自分がどこにいるのかをはっきりと認めなければならないのです。
Ⅲ結論部
32節には、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」と父は兄に言いました。「いなくなっていた」つまり「失われたもの」でした。「失われたもの」とは「いるべきところにいない」ということでした。弟息子は、財産をお金に換え、とおり国へ行き自分の欲望のままに生きました。しかし、そこは彼のいるべき所ではありませんでした。父と共にいることこそが彼の幸せ、彼のおるべき所でした。
では兄は、父と共にいたわけですがどうだったでしょうか。幸せだったのでしょうか。彼は、外側から見る限りは、真面目で、一生懸命でいても、その心は父の愛から離れていました。人の気持ちがわからない。わかろうとしない。傲慢で冷たい心の持ち主でした。だから、このように兄も弟も愛している父のもとにいながら、兄息子は失われていたのです。父のそばにいながら、窮屈で、我慢の生活、息の抜けない、つまらない生活でした。まるで、硬い、暗い、つまらないという三拍子のクリスチャンの姿のように思えます。
父は、兄息子に対して僕に命令して、「力ずくで家に引っ張って来い」と命令はしませんでした。一緒に弟の帰還を感謝して喜べと強制しませんでした。天に父なる神様は、同じように私たちに力ずくで、私たちを屈服させるようにはなさいません。私たちにゆだねておられるのです。十字架の恵みを信じることも強制することなく、私たちの側にゆだねておられるのです。
兄息子は、弟のためには、自分のお金も力も時間も使うことはしませんでした。弟のためには何一つ失うことはなかったのです。弟が帰ってきて、父が喜びで満たされている時、怒り、不平不満を父にぶつけました。父に対しても弟に対しても、やさしい気持ち、愛する思いはありませんでした。けれども、父は、その兄のそのままを受け入れ、彼をなだめ、さとし、「わたしのものは全部お前のものだ。」と言って励ましたのです。兄はまた弟と同じように、自分には問題がない。罪もない。正しい。真面目だと傲慢のままの自分が父に受け入れられたのです。兄はどうしたのでしょうか。怒りのまま、父と弟を批判したままの生涯、失われた歩みをするのか。父の言葉を受け入れて、弟を許し、共に宴会の席に着くのか、二つに一つなのです。私たちの前にも、このどちらかが問われているように思うのです。
表面は問題ない。正しい。立派。真面目かも知れません。しかし、心はどうでしょうか。大きな罪は、失敗は犯さない。しかし、こっそりの罪はありませんか。神の前には全ての人が罪人であるとの聖書の言葉を素直に受け入れて、神様の前に正直に生きたいと思うのです。
「こっそり罪人」 ルカ15:25-32
Ⅰ導入部
おはようございます。2月の第四主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日も心からの礼拝をささげたいと思います。
ニュージーランドでは地震が起こり、多くの人々の命が犠牲になり、まだ多くの方々が瓦礫の下におられることを連日のニュースでみなさんも御存知だと思います。ニュージーランドのナザレン教会も被害に遭われたようです。神様の守りと助けがありますように、教会やクリスチャンが豊かに用いられるように、続けてお祈りいたしましょう。
2月22日(火)に愛する加藤秀雄兄が天に召されました。体に弱さを持ち、戦いながらの日々の歩みでありました。お体の弱さのゆえに礼拝にはなかなかおいでにはなれませんでしたが、よく献金をお持ち下さり、共に祈りをささげることができました。3月1日(火)に告別式が執り行われますのでお祈りいただきたいと思います。御家族の上にも主の慰めがありますようにお祈りいただきたいと思います。
さて、今日は「こっそり罪人」と題して、ルカによる福音書15章25節から32節を通してお話ししたいと思います。2月13日の礼拝では、ルカによる福音書15章11節から24節を通して、「アイシテル」という題で、放蕩息子、弟のお話しをさせていただきました。今日は、後半のお兄さんについて見てみたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈上から目線
15章の23節、24節を共に読みましょう。「それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」 弟息子は、放蕩の生活のゆえ、死を前にして本心に立ち返り父親の元に帰って来ました。「父の所へ帰ろう」と悔い改めの最初の気持ちは打算的ではありました。しかし、自分を見るや駆け寄って、接吻し、罪を犯した自分をそのままで息子として受け入れてくれた父の愛に触れて、彼は本当に悔い改めたのでした。
19節を共に読みましょう。「「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。」 21節を共に読みましょう。「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」
父に会う前は、打算的な思いがありましたから、「雇い人の一人にしてください」と言って、仕事をもらい何とか生きようと考えました。しかし、父にそのままの自分が受け入れられ、父の愛を知った彼は、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と告白し、「雇い人の一人にしてください」とは言いませんでした。父は、「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と言って、みんなで宴会を始めたのです。
25節を共に読みましょう。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」 一日、畑で働いて疲れて帰って来た兄息子は、自分の家で音楽や踊りのざわめきを聞きました。誰かの誕生日か、何かのお祝いかと思うほどのさわぎだったのでしょう。兄息子は、僕に聞きました。すると、彼の弟が帰ってきて、父が肥えた子牛をほふられた、というのです。
リビングバイブルには、「弟さんが帰られたのでございます。だんな様は、そりゃもう、たいへんなお喜びで、肥えた子牛を料理し、ご無事を祝う宴会を開いておられるのです。」とあります。彼の弟が帰って来たのです。父に財産を要求し、数日のうちに、不動産を金に換えて遠い国へ行ってしまった弟、どうしていたのか、どんな生活をしていたのか分かりませんが予想はついたのでしょう。30節では、「あなたの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると」とありますから、兄息子は僕から弟息子の今までのことを聞いたのでしょう。家の仕事もまともにできない。出て行けば行ったで、財産を使い果たし、そんなどうしようもない弟を勘当もしないで喜んで受け入れるとは。今まで父に逆らうこともなく、忠実に家の仕事をし、まじめ一筋で生きてきた兄には、父のしたこと、弟をそのままで受け入れ、喜んで宴会までするとは、兄の腹の虫はおさまりませんでした。
私たちはどうでしょうか。この兄息子と同じようなことはないでしょうか。問題ある者が、罪ある者が、失敗した者が、何の罰も受けず、受け入れられ祝福されている姿を喜べない、良く思えないということはないでしょうか。聖書は、「喜ぶ人と共に喜び」と勧めています。いや命令しているのです。
⒉自分の事は棚に置いて
28節を共に読みましょう。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。」兄は怒りました。リビングバイブルには、「事情を聞くと、無性に腹が立ってきました。中に入るのさえしゃくにさわります。」とあります。何を怒ったのでしょうか。何に腹を立てているのでしょうか。「お父さんは自分をちっとも愛してはくれない」ということです。
29節を読みましょう。「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」 リビングバイブルには、「私はこれまで、お父さんのために汗水流して働いてきたんですよ。言いつけにだって、ただの一度もそむいたことはありません。」とあります。自分には何もしてくれないというのが兄の主張でした。では、お父さんは兄息子には何もしてあげなかったのでしょうか。
お父さんは、この兄息子にもどれだけ尽くしていてくれたでしょうか。どんなに兄のことを思ってきたでしょうか。お父さんのもとでどれだけ平和に暮らしてこられたのでしょうか。食べ物や生活の全てに心配することなく、何不自由なく暮らして来られたのはお父さんのおかげなのに、その事を全く兄は忘れていたのです。それなのに、兄のうちにはただ不平と不満で満ちていたのです。
お父さんは、弟息子をそのままの姿で受け入れ、息子としての資格を与えました。もし、弟息子がお父さんに出会う前に、お兄さんに出会っていたらどうだったでしょうか。兄は弟を罵倒(ばとう)したでしょう。口汚くののしったことでしょう。ひどい言葉を次から次へと話したでしょう。今まで心の中に抑えていた感情が爆発して、これでもか、これでもかと冷たい言葉をかけ弟を否定したことでしょう。そうならば、弟は兄の言葉や態度に失望して、落胆して、帰って来た道をまたトボトボとあてもなく戻って行ったことでしょう。当てのない旅、希望のない道を歩み続け、弟の生活は、人生は以前よりももっとひどい人生、最悪の人生を送ることになるのでしょう。
兄は、お父さんに弟には子牛をほふり、自分のためには子山羊一匹すらくれなかった、と言いました。では、自分は一体何をしたのでしょうか。弟が家出してから、お父さんは本当に心配して、痩せ細って行ったことでしょう。お父さんの苦悩の姿を見てきたことでしょう。それなのに、お父さんを励まし、お父さんのために祈ってきたのでしょうか。また、家出をした弟のために祈ったのでしょうか。弟が無事いるようにと毎日祈り続けて来たのでしょうか。おそらくないだろうと思うのです。
よくつぶやく人、批判する人というのは、人のために何もしないという人が多いように感じます。これはまさに、ファリサイ人、律法学者たちの生き方でもありました。私たちは、人に対して、隣人やそば近くにいる人に対して不平不満でいっぱいということはないでしょうか。そういう人は、神様に対しても不平不満でいっぱいなのだろうと思うのです。
兄息子のように、「自分を愛してくれない。大切にしてくれない。何もしてくれない。」と言うのですが、お父さんの自分にしてくれた数々の事、その愛と配慮を忘れているのです。
31節を読みましょう。「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」このことが兄にはわかっていなかったのです。神様の愛の中にいながら、神様の心がわからないような、無視した歩みをしてはいないでしょうか。
⒊どちらの放蕩息子?
放蕩三昧(ざんまい)して悔いて、父の元に帰り本当の父の愛を知り悔い改めた弟の姿と、弟をけなし、その弟を受け入れた父に対して不平不満を現わした兄の姿を見比べると、兄は傲慢な態度のように感じます。
勤勉でまじめな兄と自分勝手で不真面目な弟というように比べると兄の評価はいいでしょう。しかし、お父さんの前では、つまり神様の前ではこの世の基準で考えると賞賛される人であっても、神様の前では、その正しさや真面目さが醜く見えるのです。この世の価値観が逆転するのです。
三浦綾子さんが、「したきりすずめのクリスマス」という本を書きました。青葉台教会で、その物語を書いたみなみななみさんのその絵を展示しました。みなさんもご覧になっただろうと思います。
「したきりすずめ」のお話は、強欲なおばあさんとやさしいおじいさんが出てきて、強欲なおばあさんはひどい目に遭い、おじいさんのやさしさが強調されるというような内容だったと思います。
三浦綾子さんの書いた「したきりすずめのクリスマス」は勿論、「したきりすずめ」の内容に、イエス様が登場するということです。すずめのお宿に行ったおじいさんは、市民クリスマスなる席に遭い、そこですずめたちの暗唱聖句やきよしこの夜の讃美を聞くのです。そして、プレゼントに軽いつづらと重いつづらのどちらかと言われて、年寄りなので軽いつづらをもらいます。家に帰り、おばあさんと一緒につづらを開けて見ると、なんと聖書が入っていたのです。おばあさんは、「こんな本はトイレットペーパーにもならない」と怒り、自分が行って大きいつづらをもらうと言って出かけていきます。そして、重いつづらをもらい、このつづらの中には金や銀、ダイヤモンド、大判小判がザックザクと考えるといても立ってもおられずに、そのつづらを開けます。すると、お化けが出てきておばあさんは頭を抱えて倒れます。そこに、イエス様が声をかけ、あれはお化けではなく、おばあさんの心であることを説明します。そのお化けの姿は欲深く、意地悪な、やきもちの心であることを示され、おばあさんは自分の醜さを認め、自分の罪を認め、イエス様がその罪を背負って下さることを知り、イエス様によって救っていただくのです。そこに、罪を犯した人々が救いを求めて来ます。そこへ、正直者のおじいさんがやって来ます。
おじいさんはイエス様に言います。「私は、このおばあさんのように欲深くもなく、意地悪でないことも感謝します。」聖書のどこかにありましたね。「こんな悪い人でもないことを感謝します。私は何一つ罪を犯さず、正しく生きてきたので、あなたに重い荷物を背負わせずにすみました。」と言うと、イエス様は悲しそうにおじいさんも見て言います。「おじいさん、世界中にまったく正しい者はただの一人もおりません。」「え?正しい者は一人もおらん?じゃ、ここに、私がおるじゃありませんか。したきりすずめのおじいさんは、欲のない、やさしい人間だと昔から言われております。この私に罪などあるはずがありません。」「誰にもやさしく、親切で、申し分のない人だという人ばかりで、私は神様のようだと言われるほどでして。」とも言います。すると、イエス様が後ろを見るように言います。
後ろを振り向くと、大きな天狗の姿がありました。「これがあなたの本当の姿です。傲慢の姿です。私はあなたの言葉を聞いて悲しく思います。自分には罪がないと思っているほど大きな罪はないのです。これは神様の一番嫌いな重い、重い罪です。むしろ、おばあさんよりも罪が深いと言えるでしょう。」とイエス様は答えます。おじいさんは、おばあさんより自分の方が罪深いと言われて、「そんな無茶な」と言いますが、「無茶ではなく、自分の罪がわからねば悔い改めることができません。罪はそのまま残るのです。」おじいさんは、イエス様に指摘されて自分の傲慢の罪を認めてイエス様の救いを受け入れるというお話しです。
罪を認めて帰って来た弟よりも、自分の正しさ、自分の忠実さばかりを正当化する兄の方が罪が深いというのが、三浦綾子さんの見方でしょう。また、神様もそうだと思うのです。
私たちは、神様の前に自分の罪を認めているでしょうか。何よりも、私たちを創造し、私たちの罪を赦すために、神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったイエス様の愛をどう受け留めているでしょうか。自分は正しい。自分には問題がないと考えるならば、イエス様の十字架は何の意味もありません。私たちは、今自分がどこにいるのかをはっきりと認めなければならないのです。
Ⅲ結論部
32節には、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」と父は兄に言いました。「いなくなっていた」つまり「失われたもの」でした。「失われたもの」とは「いるべきところにいない」ということでした。弟息子は、財産をお金に換え、とおり国へ行き自分の欲望のままに生きました。しかし、そこは彼のいるべき所ではありませんでした。父と共にいることこそが彼の幸せ、彼のおるべき所でした。
では兄は、父と共にいたわけですがどうだったでしょうか。幸せだったのでしょうか。彼は、外側から見る限りは、真面目で、一生懸命でいても、その心は父の愛から離れていました。人の気持ちがわからない。わかろうとしない。傲慢で冷たい心の持ち主でした。だから、このように兄も弟も愛している父のもとにいながら、兄息子は失われていたのです。父のそばにいながら、窮屈で、我慢の生活、息の抜けない、つまらない生活でした。まるで、硬い、暗い、つまらないという三拍子のクリスチャンの姿のように思えます。
父は、兄息子に対して僕に命令して、「力ずくで家に引っ張って来い」と命令はしませんでした。一緒に弟の帰還を感謝して喜べと強制しませんでした。天に父なる神様は、同じように私たちに力ずくで、私たちを屈服させるようにはなさいません。私たちにゆだねておられるのです。十字架の恵みを信じることも強制することなく、私たちの側にゆだねておられるのです。
兄息子は、弟のためには、自分のお金も力も時間も使うことはしませんでした。弟のためには何一つ失うことはなかったのです。弟が帰ってきて、父が喜びで満たされている時、怒り、不平不満を父にぶつけました。父に対しても弟に対しても、やさしい気持ち、愛する思いはありませんでした。けれども、父は、その兄のそのままを受け入れ、彼をなだめ、さとし、「わたしのものは全部お前のものだ。」と言って励ましたのです。兄はまた弟と同じように、自分には問題がない。罪もない。正しい。真面目だと傲慢のままの自分が父に受け入れられたのです。兄はどうしたのでしょうか。怒りのまま、父と弟を批判したままの生涯、失われた歩みをするのか。父の言葉を受け入れて、弟を許し、共に宴会の席に着くのか、二つに一つなのです。私たちの前にも、このどちらかが問われているように思うのです。
表面は問題ない。正しい。立派。真面目かも知れません。しかし、心はどうでしょうか。大きな罪は、失敗は犯さない。しかし、こっそりの罪はありませんか。神の前には全ての人が罪人であるとの聖書の言葉を素直に受け入れて、神様の前に正直に生きたいと思うのです。