江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

主日礼拝(2011年2月27日)

2011-02-27 21:02:39 | Weblog
                主日礼拝(公現後第八主日)     2011.2.27
            
                  「こっそり罪人」 ルカ15:25-32

 Ⅰ導入部
 おはようございます。2月の第四主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日も心からの礼拝をささげたいと思います。
 ニュージーランドでは地震が起こり、多くの人々の命が犠牲になり、まだ多くの方々が瓦礫の下におられることを連日のニュースでみなさんも御存知だと思います。ニュージーランドのナザレン教会も被害に遭われたようです。神様の守りと助けがありますように、教会やクリスチャンが豊かに用いられるように、続けてお祈りいたしましょう。
 2月22日(火)に愛する加藤秀雄兄が天に召されました。体に弱さを持ち、戦いながらの日々の歩みでありました。お体の弱さのゆえに礼拝にはなかなかおいでにはなれませんでしたが、よく献金をお持ち下さり、共に祈りをささげることができました。3月1日(火)に告別式が執り行われますのでお祈りいただきたいと思います。御家族の上にも主の慰めがありますようにお祈りいただきたいと思います。
 さて、今日は「こっそり罪人」と題して、ルカによる福音書15章25節から32節を通してお話ししたいと思います。2月13日の礼拝では、ルカによる福音書15章11節から24節を通して、「アイシテル」という題で、放蕩息子、弟のお話しをさせていただきました。今日は、後半のお兄さんについて見てみたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈上から目線
 15章の23節、24節を共に読みましょう。「それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」 弟息子は、放蕩の生活のゆえ、死を前にして本心に立ち返り父親の元に帰って来ました。「父の所へ帰ろう」と悔い改めの最初の気持ちは打算的ではありました。しかし、自分を見るや駆け寄って、接吻し、罪を犯した自分をそのままで息子として受け入れてくれた父の愛に触れて、彼は本当に悔い改めたのでした。
 19節を共に読みましょう。「「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。」 21節を共に読みましょう。「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」
父に会う前は、打算的な思いがありましたから、「雇い人の一人にしてください」と言って、仕事をもらい何とか生きようと考えました。しかし、父にそのままの自分が受け入れられ、父の愛を知った彼は、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と告白し、「雇い人の一人にしてください」とは言いませんでした。父は、「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と言って、みんなで宴会を始めたのです。
 25節を共に読みましょう。「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。」 一日、畑で働いて疲れて帰って来た兄息子は、自分の家で音楽や踊りのざわめきを聞きました。誰かの誕生日か、何かのお祝いかと思うほどのさわぎだったのでしょう。兄息子は、僕に聞きました。すると、彼の弟が帰ってきて、父が肥えた子牛をほふられた、というのです。
 リビングバイブルには、「弟さんが帰られたのでございます。だんな様は、そりゃもう、たいへんなお喜びで、肥えた子牛を料理し、ご無事を祝う宴会を開いておられるのです。」とあります。彼の弟が帰って来たのです。父に財産を要求し、数日のうちに、不動産を金に換えて遠い国へ行ってしまった弟、どうしていたのか、どんな生活をしていたのか分かりませんが予想はついたのでしょう。30節では、「あなたの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると」とありますから、兄息子は僕から弟息子の今までのことを聞いたのでしょう。家の仕事もまともにできない。出て行けば行ったで、財産を使い果たし、そんなどうしようもない弟を勘当もしないで喜んで受け入れるとは。今まで父に逆らうこともなく、忠実に家の仕事をし、まじめ一筋で生きてきた兄には、父のしたこと、弟をそのままで受け入れ、喜んで宴会までするとは、兄の腹の虫はおさまりませんでした。
 私たちはどうでしょうか。この兄息子と同じようなことはないでしょうか。問題ある者が、罪ある者が、失敗した者が、何の罰も受けず、受け入れられ祝福されている姿を喜べない、良く思えないということはないでしょうか。聖書は、「喜ぶ人と共に喜び」と勧めています。いや命令しているのです。

 ⒉自分の事は棚に置いて
 28節を共に読みましょう。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。」兄は怒りました。リビングバイブルには、「事情を聞くと、無性に腹が立ってきました。中に入るのさえしゃくにさわります。」とあります。何を怒ったのでしょうか。何に腹を立てているのでしょうか。「お父さんは自分をちっとも愛してはくれない」ということです。
 29節を読みましょう。「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」 リビングバイブルには、「私はこれまで、お父さんのために汗水流して働いてきたんですよ。言いつけにだって、ただの一度もそむいたことはありません。」とあります。自分には何もしてくれないというのが兄の主張でした。では、お父さんは兄息子には何もしてあげなかったのでしょうか。
 お父さんは、この兄息子にもどれだけ尽くしていてくれたでしょうか。どんなに兄のことを思ってきたでしょうか。お父さんのもとでどれだけ平和に暮らしてこられたのでしょうか。食べ物や生活の全てに心配することなく、何不自由なく暮らして来られたのはお父さんのおかげなのに、その事を全く兄は忘れていたのです。それなのに、兄のうちにはただ不平と不満で満ちていたのです。
 お父さんは、弟息子をそのままの姿で受け入れ、息子としての資格を与えました。もし、弟息子がお父さんに出会う前に、お兄さんに出会っていたらどうだったでしょうか。兄は弟を罵倒(ばとう)したでしょう。口汚くののしったことでしょう。ひどい言葉を次から次へと話したでしょう。今まで心の中に抑えていた感情が爆発して、これでもか、これでもかと冷たい言葉をかけ弟を否定したことでしょう。そうならば、弟は兄の言葉や態度に失望して、落胆して、帰って来た道をまたトボトボとあてもなく戻って行ったことでしょう。当てのない旅、希望のない道を歩み続け、弟の生活は、人生は以前よりももっとひどい人生、最悪の人生を送ることになるのでしょう。
 兄は、お父さんに弟には子牛をほふり、自分のためには子山羊一匹すらくれなかった、と言いました。では、自分は一体何をしたのでしょうか。弟が家出してから、お父さんは本当に心配して、痩せ細って行ったことでしょう。お父さんの苦悩の姿を見てきたことでしょう。それなのに、お父さんを励まし、お父さんのために祈ってきたのでしょうか。また、家出をした弟のために祈ったのでしょうか。弟が無事いるようにと毎日祈り続けて来たのでしょうか。おそらくないだろうと思うのです。
 よくつぶやく人、批判する人というのは、人のために何もしないという人が多いように感じます。これはまさに、ファリサイ人、律法学者たちの生き方でもありました。私たちは、人に対して、隣人やそば近くにいる人に対して不平不満でいっぱいということはないでしょうか。そういう人は、神様に対しても不平不満でいっぱいなのだろうと思うのです。
 兄息子のように、「自分を愛してくれない。大切にしてくれない。何もしてくれない。」と言うのですが、お父さんの自分にしてくれた数々の事、その愛と配慮を忘れているのです。
 31節を読みましょう。「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」このことが兄にはわかっていなかったのです。神様の愛の中にいながら、神様の心がわからないような、無視した歩みをしてはいないでしょうか。

 ⒊どちらの放蕩息子?
 放蕩三昧(ざんまい)して悔いて、父の元に帰り本当の父の愛を知り悔い改めた弟の姿と、弟をけなし、その弟を受け入れた父に対して不平不満を現わした兄の姿を見比べると、兄は傲慢な態度のように感じます。
勤勉でまじめな兄と自分勝手で不真面目な弟というように比べると兄の評価はいいでしょう。しかし、お父さんの前では、つまり神様の前ではこの世の基準で考えると賞賛される人であっても、神様の前では、その正しさや真面目さが醜く見えるのです。この世の価値観が逆転するのです。
 三浦綾子さんが、「したきりすずめのクリスマス」という本を書きました。青葉台教会で、その物語を書いたみなみななみさんのその絵を展示しました。みなさんもご覧になっただろうと思います。
 「したきりすずめ」のお話は、強欲なおばあさんとやさしいおじいさんが出てきて、強欲なおばあさんはひどい目に遭い、おじいさんのやさしさが強調されるというような内容だったと思います。
 三浦綾子さんの書いた「したきりすずめのクリスマス」は勿論、「したきりすずめ」の内容に、イエス様が登場するということです。すずめのお宿に行ったおじいさんは、市民クリスマスなる席に遭い、そこですずめたちの暗唱聖句やきよしこの夜の讃美を聞くのです。そして、プレゼントに軽いつづらと重いつづらのどちらかと言われて、年寄りなので軽いつづらをもらいます。家に帰り、おばあさんと一緒につづらを開けて見ると、なんと聖書が入っていたのです。おばあさんは、「こんな本はトイレットペーパーにもならない」と怒り、自分が行って大きいつづらをもらうと言って出かけていきます。そして、重いつづらをもらい、このつづらの中には金や銀、ダイヤモンド、大判小判がザックザクと考えるといても立ってもおられずに、そのつづらを開けます。すると、お化けが出てきておばあさんは頭を抱えて倒れます。そこに、イエス様が声をかけ、あれはお化けではなく、おばあさんの心であることを説明します。そのお化けの姿は欲深く、意地悪な、やきもちの心であることを示され、おばあさんは自分の醜さを認め、自分の罪を認め、イエス様がその罪を背負って下さることを知り、イエス様によって救っていただくのです。そこに、罪を犯した人々が救いを求めて来ます。そこへ、正直者のおじいさんがやって来ます。
 おじいさんはイエス様に言います。「私は、このおばあさんのように欲深くもなく、意地悪でないことも感謝します。」聖書のどこかにありましたね。「こんな悪い人でもないことを感謝します。私は何一つ罪を犯さず、正しく生きてきたので、あなたに重い荷物を背負わせずにすみました。」と言うと、イエス様は悲しそうにおじいさんも見て言います。「おじいさん、世界中にまったく正しい者はただの一人もおりません。」「え?正しい者は一人もおらん?じゃ、ここに、私がおるじゃありませんか。したきりすずめのおじいさんは、欲のない、やさしい人間だと昔から言われております。この私に罪などあるはずがありません。」「誰にもやさしく、親切で、申し分のない人だという人ばかりで、私は神様のようだと言われるほどでして。」とも言います。すると、イエス様が後ろを見るように言います。
後ろを振り向くと、大きな天狗の姿がありました。「これがあなたの本当の姿です。傲慢の姿です。私はあなたの言葉を聞いて悲しく思います。自分には罪がないと思っているほど大きな罪はないのです。これは神様の一番嫌いな重い、重い罪です。むしろ、おばあさんよりも罪が深いと言えるでしょう。」とイエス様は答えます。おじいさんは、おばあさんより自分の方が罪深いと言われて、「そんな無茶な」と言いますが、「無茶ではなく、自分の罪がわからねば悔い改めることができません。罪はそのまま残るのです。」おじいさんは、イエス様に指摘されて自分の傲慢の罪を認めてイエス様の救いを受け入れるというお話しです。
 罪を認めて帰って来た弟よりも、自分の正しさ、自分の忠実さばかりを正当化する兄の方が罪が深いというのが、三浦綾子さんの見方でしょう。また、神様もそうだと思うのです。
 私たちは、神様の前に自分の罪を認めているでしょうか。何よりも、私たちを創造し、私たちの罪を赦すために、神が人となってこの地上に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったイエス様の愛をどう受け留めているでしょうか。自分は正しい。自分には問題がないと考えるならば、イエス様の十字架は何の意味もありません。私たちは、今自分がどこにいるのかをはっきりと認めなければならないのです。

 Ⅲ結論部
 32節には、「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。」と父は兄に言いました。「いなくなっていた」つまり「失われたもの」でした。「失われたもの」とは「いるべきところにいない」ということでした。弟息子は、財産をお金に換え、とおり国へ行き自分の欲望のままに生きました。しかし、そこは彼のいるべき所ではありませんでした。父と共にいることこそが彼の幸せ、彼のおるべき所でした。
 では兄は、父と共にいたわけですがどうだったでしょうか。幸せだったのでしょうか。彼は、外側から見る限りは、真面目で、一生懸命でいても、その心は父の愛から離れていました。人の気持ちがわからない。わかろうとしない。傲慢で冷たい心の持ち主でした。だから、このように兄も弟も愛している父のもとにいながら、兄息子は失われていたのです。父のそばにいながら、窮屈で、我慢の生活、息の抜けない、つまらない生活でした。まるで、硬い、暗い、つまらないという三拍子のクリスチャンの姿のように思えます。
 父は、兄息子に対して僕に命令して、「力ずくで家に引っ張って来い」と命令はしませんでした。一緒に弟の帰還を感謝して喜べと強制しませんでした。天に父なる神様は、同じように私たちに力ずくで、私たちを屈服させるようにはなさいません。私たちにゆだねておられるのです。十字架の恵みを信じることも強制することなく、私たちの側にゆだねておられるのです。
 兄息子は、弟のためには、自分のお金も力も時間も使うことはしませんでした。弟のためには何一つ失うことはなかったのです。弟が帰ってきて、父が喜びで満たされている時、怒り、不平不満を父にぶつけました。父に対しても弟に対しても、やさしい気持ち、愛する思いはありませんでした。けれども、父は、その兄のそのままを受け入れ、彼をなだめ、さとし、「わたしのものは全部お前のものだ。」と言って励ましたのです。兄はまた弟と同じように、自分には問題がない。罪もない。正しい。真面目だと傲慢のままの自分が父に受け入れられたのです。兄はどうしたのでしょうか。怒りのまま、父と弟を批判したままの生涯、失われた歩みをするのか。父の言葉を受け入れて、弟を許し、共に宴会の席に着くのか、二つに一つなのです。私たちの前にも、このどちらかが問われているように思うのです。
 表面は問題ない。正しい。立派。真面目かも知れません。しかし、心はどうでしょうか。大きな罪は、失敗は犯さない。しかし、こっそりの罪はありませんか。神の前には全ての人が罪人であるとの聖書の言葉を素直に受け入れて、神様の前に正直に生きたいと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝(2011年2月20日)

2011-02-20 13:19:49 | Weblog
               主日礼拝(公現後第七主日)     2011.2.20
            
                   「キリステ教」 ルカ7:36-50

 Ⅰ導入部
 おはようございます。2月の第三主日を迎えました。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。今日は月の第三主日ですから、第一礼拝では中高生の方々も共に礼拝を守っています。
今日の説教題は、「キリステ教」という題です。変な題だと思われた方が多くおられたのかも知れません。「江上先生のいつものことだから」と別に変だと感じなかった方もおられるでしょうか。「キリスト教」という題では、何もおもしろくありません。「キリスト教」は愛の宗教と言われます。しかし、律法的な見方、さばき、人間的な正しさが主張され、愛が見えなくなる時があるように思うのです。それがまさに「キリステ」、切り捨てではないでしょうか。広辞苑で、「切捨」を「切り捨てること。計算で、ある桁まで正確に求め、次の桁以下の端数を捨てること」と説明してありました。
 神様の愛は、全ての人々を受け入れる愛です。どんな人も神様の愛の対象からはずれる、もれる、切捨てられる人はいないのですが、神の愛を知りながらも、私たちは人々を差別し、切り捨ててしまうような事があるのだと思うのです。私たちは今日、ルカによる福音書7章36節から50節を通して、ファリサイ派のシモンがある女性に対していだいた思い、それに対するイエス様の言葉と態度を通して、神様の愛について見させていただきたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈罪を認める
 皆さんと御一緒に36節を共に読みましょう。「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。」 ファリサイ派とイエス様との関係は対立関係にありました。多くのファリサイ派の人々が、イエス様の存在をあまりよく思っていませんでした。今まで自分たちの側に立ち、自分たちの話しを聞いていた群衆が、イエス様の権威ある言葉や奇蹟のみ業により、自分たちからイエス様の側へ移って行ったことはファリサイ派の人々にとっておもしろい話ではありませんでした。ファリアサイ派の人々も、イエス様の権威ある言葉を認めざるを得ませんでした。けれども、いろいろな質問をして言葉尻を捉えようとしましたが、いつも失敗におわりました。奇蹟のみ業を見ては反論することはできませんでした。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエス様を神様から遣わされたお方とは認めませんでした。ですから、いつも対立関係にあったのです。
 しかし、今日の箇所に出てくるファリサイ派のシモンは、ある程度のイエス様の権威ある言葉やそのみ業を認めていたのでしょう。イエス様に寛容を示すファリサイ派の人々や律法学者もいたことは事実でしょう。ファリサイ派のシモンは、イエス様を食事に招待したのです。食事を共にするということは、良い関係であることが前提だと思います。関係の悪い人とあるいは知らない人との食事は苦痛です。私も何度か相手を知らないで食事をしたことがありました。話しが進みません。話題がありません。目の前には、お寿司が並んでいるのに、しかも上、特上のお寿司なのに、何かおいしく感じない。そして、目の前の横にいる人が食べないで、怖い顔をしている。何とも拷問のような食事で辛い経験でした。いくら高価な料理でもおいしくありません。リビングバイブルには、「憎い相手いっしょにビフテキをぱくつくより、愛する人といっしょにおかゆをすするほうが幸せです。」(知恵の泉15:17)とあります。新共同訳では、「肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい」とあります。
 また、食事を共にするというのは、これから仲良くしましょう、という意味もあるでしょう。ですから、仕事の商談などでは食事が頻繁に行われるのだと思います。ファリサイ派のシモンも、イエス様と仲良くしたいと思ったのか、イエス様とゆっくり話してみたい。イエス様のことを知りたいと思ったのかはわかりませんが、イエス様を食事に招待したのです。そして、イエス様はその招待に応じてシモンの家に行かれ、その席につかれたのです。
37節の最初には、「この町に一人の罪深い女がいた。」と記しています。この女性を紹介するのに、「一人の罪深い女」という紹介です。口語訳聖書では、「罪の女」とあります。リビングバイブルでは、「町の女が一人」と紹介し、その後に「この女は売春婦でした。」とあります。詳訳聖書には、「格別に悪い罪びと」とありますので、何ともひどい紹介ではあります。そのように紹介されている彼女が、シモンとイエス様の食卓の場所に現れるのです。
 この女性の紹介を聖書はそのように記しています。私たちはどうでしょうか。自己紹介しましょうとありますが、「自分は罪の女です。罪の男です。」とか、「格別に悪い罪人です」と紹介する、あるいは紹介されることはないでしょう。けれども、私たちは神様の前には、罪人なのです。罪の男、罪の女、格別に悪い罪人なのです。そのことをお認めになるでしょうか。

 ⒉喜びのあまり
 37節と38節を共に読みましょう。「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」
彼女は、イエス様が、シモンの家にいるのを知って、イエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に接吻して香油を塗ったのです。何と素晴しい光景でしょうか。38節をリビングバイブルは次のように訳しています。「女は部屋に入るなり、イエスのうしろにひざまずき、さめざめと泣きました。あまりに泣いたので、イエスの足が涙でぬれるほどでした。女はていねいに髪で涙をぬぐい、心を込めて足にくちづけしてから、その上に香油を注ぎかけました。」
 彼女はイエス様を見てさめざめと泣きました。何故泣いたのでしょうか。そして、この涙はどのような涙だったのでしょうか。ある注解書には、「ここで流した彼女の涙は喜びの涙である。」とありました。なぜ喜びの涙であるのかというと、かつて罪を赦していただいた感謝のしるしに香油をイエス様の足にそそぎかけたというのです。かつて彼女はイエス様に出会いました。罪の女、売春婦、多くの男性を誘惑して罪を犯してきた。その彼女がイエス様に出会い、今までに経験した事のない赦しを受けたのです。ユダヤでは、徴税人や遊女、売春婦は罪人とレッテルを貼られていました。神の恵みから最も離れている者、呪われている者として、ファリサイ派の人々や律法学者からは特に律法を犯した者、守らない者として忌み嫌われていたのです。しかし、イエス様は、いろいろな事情で律法を守れない、律法を行えない人々、ファリサイ派や律法学者からは、罪人と指差される徴税人や遊女、売春婦をそのままで受け入れたのです。そして、自分を律法を守れない者、罪ある者として認めたこの女性に罪の赦しを与えられたのです。
 ですから、自分のありのままを赦し、ありのままを受け入れて下さり、そして、その罪を赦して下さったイエス様が、ファリサイ派のシモンの家に来ていると聞いて、じっとしておれず、自分の感謝の気持ちを表したくてやって来たのですが、イエス様の姿を見ると、涙がポロポロと落ちてきたのです。感謝の気持ちが、イエス様の愛が彼女を満たしたのです。自分の過去の姿、罪の姿を思うとなんとも悲しい。辛いものがある。しかし、その汚れたどうしようもない自分を受け入れて、罪を赦して下さった自分の身を思い感謝で一杯になり、涙が溢れ出したのです。そして、イエス様の足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、香油を足に塗りました。
 詳訳聖書には、「イエスがパリサイ人の家で、(からだを横にして)食卓ついておれることを知って」とあるように、当時の食事の習慣としては、横になり足を伸ばして食事をしていたようです。だから、彼女は涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、香油を塗ったのです。心からの感謝の行為でした。
 私たちも過去の自分を思う時、自己中心的な姿、罪の姿を思い出します。しかし、その罪ある者をそのままで愛し、受け入れて下さり、罪を赦して下さった。私の罪を赦す為にイエス様が十字架で命を投げ出して下さった、その恵みを思う時、感謝の心でいっぱいになります。私たちは、日々十字架を見上げて、十字架にこそ、罪の赦しの根拠があることを思い、イエス様に感謝をささげたいと思うのです。

 ⒊多く赦された者として
 しかし、この素晴しい光景を良く思わない者がいたのです。39節を共に読みましょう。「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。」 詳訳聖書では、「罪深い女」を「この女は有名な罪人(社会ののけ者、罪に身をゆだねきった者)」と訳しています。 ファリサイ派シモンは、この女性の行為にいら立ちを感じて見ていたようです。イエス様が徴税人や罪人(ここに登場する女性たち)と一緒に食事をされるのを見たファリサイ派の律法学者は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問うたことがありました。彼らと食事をすると自分たちは汚れると考えていたからです。同じように、食事の席に罪の女が来てイエス様に触れた。イエス様が預言者ならわかるはずだ、と感じたのです。
 イエス様が、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」と質問した律法の専門家に、イエス様は律法を実行するように示された時、彼らは「では、わたしの隣人とは誰ですか」と自分たちの隣人をユダヤ人あるいはユダヤ教に改宗した人と限定していました。ですから、良きサマリア人のたとえを話されました。ここでも、ファリサイ派のシモンは、この罪の女性に対して嫌悪感をもって見ていました。自分たち、律法を守り正しいと自称している者は、罪人と呼ばれ、一般の人々からも嫌われている人とはできるだけ距離を置いて過ごしたいと感じていたのです。そのような人が自分たちの食卓近くに来たのと、その罪の女のすることを何も言わないでさせているイエス様に腹立ちを覚えていたのです。
 イエス様は、シモンの心の中を御存知でした。ですから、たとえ話しをされたのです。41節と42節を共に読みましょう。「イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」
 この金貸しを多く愛するのは、多くのお金を帳消しにしてもらった人です。50万と500万とでは500万帳消しにされた人でしょう。シモンも「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」とシモンも答えました。そして、罪の女と言われる女性の行為がどういうことなのかということを説明されるのです。44節から46節を共に読みましょう。「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」 普通は、招待した客には、足を洗うこと、接吻の挨拶、オリーブ油等を塗ることが常識でした。しかし、ファリサイ派シモンはそれを怠りました。イエス様を招待しておきながら、失礼な、無礼なことをしたのです。シモンの失礼な態度に代わって、この女性は、涙で足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に接吻し、頭に香油を注いだのです。彼女の行為そのものが、多く赦された者であることを証明しているのです。
 ファリサイ派シモンは、道徳的で、不品行や不正を働くような人ではなかったでしょう。けれども残念ながら、罪の自覚と罪が赦されたという感謝の心が全くなかったのです。自分の正しさを誇る傲慢の罪にとらわれていたのです。罪が多いか少ないかではないのです。シモンはこの女性の罪が、分量的には多くあると思っていたでしょう。そして、自分のことは分量的には少ないと思っていたはずです。しかし、罪が分量的に少ないとしても、自分の罪をどのように感じているのか、が問われているのだと思うのです。そして、罪の女と言われる女性を切り捨てるという傲慢、まさに自分が神様になるという傲慢の罪を犯しているのだと思うのです。多く赦されたこの女性に比べて、シモンは少なく赦された人と言えるでしょう。しかし、少し赦された人とは、本当は多くの罪を持ちながらも、自分でそのように感じていない人、ファリサイ派のシモンなのです。
 47節では、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」とイエス様は言われました。
私たちは自分の罪が多い少ないではない。あの人よりも自分の方がましだ、正しいではない。神の前には、とんでもない罪人であるということを認めざるを得ないのです。そして、多く赦されたと感じる者は、多く愛することができるのです。人を切り捨てることはできないのです。私たちは、キリスト教ではなく、キリステ教になっていないでしょうか。

 Ⅲ結論部
 私たちは、神様の前に罪ある者です。罪人です。罪の女、罪の男です。しかし、その罪人のためにイエス・キリスト様は私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。命をかけて私たちを愛して下さいました。そのことのゆえに、私たちの罪は赦されました。どうしても返済できない負債が帳消しにされたのです。多くの罪が帳消しにされた者は多くの感謝をささげることができるのです。私たちは罪赦されたという大きな喜びがあるでしょうか。多く赦されたと思うならば、感謝も大きいでしょう。自分には罪がないというならば、十字架を見ても感謝は起こらないのです。感謝がないのは、この恵みに立っていないからではないでしょうか。自分が正しいと感じているからではないでしょうか。自分が正しいと感じる時、人を責め、人を切り捨てる者になってしまうように思うのです。イエス様の十字架であがなわれ、罪赦された私たちが、キリステ教になってしまわないように、いつも聖書に触れ、十字架を見上げて、十字架から流れてくる神様の癒し、赦しを経験させていただきたいと思うのです。
 使徒パウロは、「私は罪人のかしら」と言いました。また、アッシジの聖フランシスは、「わたしほどみじめな罪人、人生の敗残者はどこにもいない」と言いました。最大の罪は罪があるのにもかかわらず、罪の意識がないことではないでしょうか。「多く赦されたということが、多く愛するという結果を生んでいる。私たちが本当に罪が赦されたということに気づかないところに、多く愛していくというか、献身というか、そういうものは生まれてこない。」と榎本保郎師は一日一章で語っておられます。
 多く赦された者という自覚が与えられるためにも、この週聖書に触れ続け、十字架を見上げ、多く愛する者へと向かわせていただきたいと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝(2011年2月13日)

2011-02-13 17:32:23 | Weblog
                主日礼拝(公現後第六主日)        2011.2.13
           
                  「アイシテル」 ルカ15:11-24

 Ⅰ導入部
 おはようございます。2月の第二主日を迎えました。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができますことを感謝致します。金曜日と土曜日に、スキーキャンプに行ってまいりました。毎年松原湖キャンプには送迎では行きますが、冬は久しぶりで雪化粧がとても神秘的でした。神様の創造された自然の美しさを深く感じさせられました。みんながスキーに行っている間、私はメッセージの準備をして今日の原稿を作り上げました。ホテルのスキー場での説教準備に何か、作家にもなったような感じで、いつもとは違った環境での備えとなりました。何も気にしないでメッセージの準備ができました。いろいろと配慮して下さったスキーキャンプのスタッフの方に心から感謝致します。
 今日は、明日がバレンタインデーと言うこともあり、ルカによる福音書15章11節から24節を通して「アイシテル」という題でお話しをしたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈痛みを通して知ること
 皆さんと御一緒に13節を共に読みましょう。「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」 兄と弟がいて弟が財産の分け前を要求しました。おそらく兄はまじめで、働き者、親に逆らうことはなく、忠実な優秀な人物だと思われる。それに比べて、弟の方は親の言うことは聞かず、不真面目ですぐに仕事も途中で投げ出してしまう。ズレた、はみ出した者、もうお父さんのもとで、お兄さんに命令されるような生活、生き方に嫌気がさしたのでしょう。財産を要求して自由に生きたいと願った。あるいは、夢を持って生きたいと願ったのではないでしょうか。
 人間誰しも、ある程度大きくなると、中学生や高校生になると自分のことは何でも自分で考え、自分で行動するようになります。親の目が気になり、親の自分へのかかわりを嫌がるようになります。ですから、親の言うことは聞かず、反発したり、自分勝手に行動するというようなことがよくあります。親の財産までは要求するということはないでしょうが?
 聖書に出てくる親は、資産家、大地主、大金持ちだったのでしょう。子どもの夢を、子どもの将来を考えて、この父親は弟だけではなく、兄にも財産を分けてやったのです。大和教会の大川従道先生は、「お父さんは最後に、財産と一緒に自分の持てるありとあらゆる知恵を授けて息子と別れたに違いないと思います。」と語っておられます。財産を渡したら、どうなるか父には想像がついたのでしょう。どのようなことに気をつけるのか、何に注意するのかを、何を大事にするのかを話したのでしょう。親ですから心配です。できのわるい子どもほど親は心配するのです。
 私は小学生の頃から教会に行き、信仰を持っていたので親に心配をかけるということはあまりありませんでした。優等生ではありませんが、親は安心していたようです。しかし、献身して神学校に行くと行った時、親は心配しました。献身するということはどういうことなのか。牧師になるとは?牧師のイメージは貧しいというのが母親にはあったのでしょう。最初の言葉が「牧師をして食べていけるのか?」ということでした。親は子どもの生き方、あり方に協力もしますが、心配もするのです。それが親なのです。
 しかし親の心子知らずで、弟は財産をもらったら、もう不動産等をお金に換えて、自分の家から父と兄のいる場所からできるだけ遠くに行ったのです。自由に生きたい。未知の世界にはスリルがあるし、ミステリーもある。親の目を気にせず何でも自分の思い通りにできる。彼は喜んで自分の欲望のまま、自分の好き勝手な生活を送りました。そして、短期間に財産を使い果たしてしまったのです。それは今までに経験したことのないような楽しさ、喜びだったのでしょう。でもその喜びは、楽しみは束の間でありました。すぐにそのような生活には終わりが来たのです。お金がなくなってしまいました。このお金は、財産は自分のものではありませんでした。お父さんのものです。財産だけではなく、命も、体も、健康も、才能も、様々な人との出会いも、全て親からもらったものなのです。それをまるで自分のものでもあるかのように好き勝手に使い、全てを失ってしまいました。
 14節から16節を共に読みましょう。「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」
そして痛みを経験するのです。大変な痛みでした。お金がなくなると今まで自分を愛していてくれたと思っていた人が離れていきました。そして、誰からも愛されていないということを知らされるのです。私たちも物やお金、その他の物でつながっている関係はないですか。そのような関係はいつか壊れる時がくるのです。ですから、見るべきものを見る必要があるのです。

 ⒉天に対しての悔い改め
 17節から19節まで共に読みましょう。「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」
 食べるものが何もないという悲惨さ。切なさ。悲しみ。そんな時、誰も見向きもしてくれない。心にかけてくれない。それは本当に傷つきます。私たちもそのような経験があるでしょう。しかし、傷ついたとき、その傷を見ているだけでは、痛い、苦しいと言っているだけでは癒されないのです。
 この弟は傷つき、痛い目にあって「我に返った」のです。口語訳聖書では、「本心に立ちかえって」とあります。リビングバイブルでは、「彼もやっと目が覚めました。」とあります。我に返って父のもと帰ることを決心するのです。彼は今までに気がつかなかった自分を見出します。それは物やお金や肩書きや快楽では満足できない自分をその時発見したのでした。父親のそばにいることが、父親と共にいることが自分の幸せだと気がついたのです。
 気がついたのは気がついたのですが、とにかく父の元で奴隷でもいいから働かせてもらって、しのごうという現実的なものであったのも確かです。勿論、物やお金では満足できないのだけれども、今はとにかく父の所へ帰り、仕事をもらい食べることを願うのです。18節には、お父さんの財産を使い果たしたので、お父さんに対して罪を犯したでしょう。けれども、彼はまず、「天に対して罪を犯しました。」と言うのです。これがとても大切なことだと思うのです。神様に対しての自分の罪を悔い改めることが、お父さんに対しての悔い改めに先行しているのです。
 彼はユダヤ人としてやってはいけないことをしました。ユダヤ人が汚れた動物としているブタを飼う仕事についたのです。落ちるところまで落ちました。そして、自分の帰るべき所、おるべき所を見出したのです。お父さんに言うべき内容を何回も練習しながら帰ってきました。自分は父親の息子としてではなく、奴隷として生きることを決意して帰って来たのです。
 皆さんと共に20節を共に読みましょう。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
彼が家から遠く離れていたのにもかかわらず、父親はこの弟息子を見つけたのです。変わり果てた姿、痩せこけて、ボロボロの服で、誰もがこの息子を認めることができないというような状況でも、この父親はいち早く見つけたのです。それほど、その帰る道を毎日毎日眺めていたことでしょう。この父親は弟息子の姿を見て、その姿から想像される彼の今までの経験を思い憐れに思いました。先週のサマリア人は、傷つき倒れているユダヤ人をかわいそうに思いました。父親は息子を見て憐れに思ったのです。そう感じた父親は、いても立ってもおられず、走りより首を抱き、接吻しました。それが愛の証拠です。愛はほっとけない。愛は動詞。動いてしまうのです。父親は走り寄ったのです。
 息子は何度も練習した言葉を語りました。「『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」と。そして、最後の言葉「雇い人の一人にしてください」と言おうとしたら、その言葉を父親はさえぎるように言いました。「『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」
父親は、奴隷として生きる決心をした息子に対して指輪をはめ、履物を履かせました。これは奴隷ではなく、自分の子どもであるという証拠です。「お前は私の息子なのだ」ということです。そして、宴会をしようというのでした。この息子は、お父さんに赦されたのです。受け入れられたのです。
 お父さんは、涙をポロポロと流したことでしょう。その涙を見ながら、弟息子はその涙の意味を感じたことでしょう。「自分も随分と傷つき痛い思いをしてきた。しかし、それ以上にお父さんはずっと自分のことで傷つき苦しんでいた。にもかかわらず、こんな自分を愛し、許してくれた。」そのことを感じたのです。本当の愛を知ったのです。愛されるということがどういうことなのかを知ったのです。
 イエス様が、このような有名な放蕩息子と言う美しいたとえ話を話されたのは、それは痛みを通してこそ、私たちは救われるという「十字架と復活の基本」をここに示そうとされたのではないでしょうか。イエス様の十字架で流された血、その痛みと苦しみは私のためであるということなのです。

 ⒊神の愛・父の愛・わたしの愛
 イエス・キリスト様は痛めつけられました。「パッション」という映画では、これでもか、これでもかというようなイエス様に対する攻撃、迫害の連続でした。イエス様は多くの血を流されました。イエス様は、傷ついたのです。苦しんだのです。痛めつけられたのです。それは私たちのためです。私たちを救う為に苦しめられたのです。
 イザヤ書53章3節から5節には次のような言葉があります。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
 イエス様の苦しみが私の罪のためであったということがわかると神様の愛を知ることができるのです。
20節の「憐れに思い、走り寄って」という言葉は、原文のギリシャ語では「はらわたがちぎれる」というような意味を持っているようです。息子も息子なりに苦しみましたが、父親の苦しみは、はらわたがちぎれる、というような大変な苦しみでありました。イエス様は十字架の上で苦しまれましたが、それを御覧になっていた、その十字架を神様のみこころとして黙って見ておられる父なる神様の思いは、さらなる苦しみであったのだと思うのです。
 岩淵まこと氏が、「父の涙」という歌を作られ、多くの人々に歌われ、多くの人々の心に感動を与えました。父なる神様の思い、つらさ、苦しみを表現しています。それは、御自身の父親としての苦しみとを重ね合わせた詞でありました。岩淵まことさんの愛する娘さんの病気、死、それは父としての大きな痛み、苦しみでした。愛しているからこその痛みと苦しみでした。そのことを経験した時に、イエス様の十字架の背後に、父の苦しみ、父の痛み、父の涙があることを御自分の経験から導かれたのだと思うのです。
 この父親は、弟息子が自分の財産を全て使い果たそうとも、自分の名前に、名誉に傷を付けても、彼を息子として迎え入れました。その弟息子の何か、肩書きや成功のゆえに、受け入れるのではなく、その存在のゆえに、父親のもとに帰って来たことのゆえに受け入れたのだと思うのです。ボロを身にまとい、情けない姿のまま、くさいまま、憐れなままのそのままの姿をそのままで受け入れたのです。それが愛なのです。
イエス様は、十字架の上で苦しめられました。苦しめば苦しむほど、「父よ、彼らをお許しください。自分で何をしているのかわからないのです。」と自分を痛めつけ、苦しめる者のために祈られたのです。
そのイエス様の息もたえだえに祈り続けるイエス様の姿に、どんな罪を犯しても、どれほど人を傷つけ、どれだけ神を裏切り悲しませても、なおそんな者を愛しておられる神、イエス・キリスト様の愛に出会うのです。十字架は私のため、あなたのためにあるのです。
 
 Ⅲ結論部
 いなくなった弟が帰ってきました。父親は、「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」と言いました。喜び、楽しむというのが教会のひとつの姿でもあります。私たちは、礼拝を通して、イエス様の愛と父なる神様の愛を知った者として、喜び楽しむ歩みをしたいとも思うのです。
 皆さんと御一緒に24節を共に読みましょう。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」 この弟息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから喜び楽しもうと宴会が始まりました。
 私たちは、神様を知らないで罪の道、滅びの道を歩んでいました。けれども、神が人の姿となってこの地上、人間の世界に来て下さり、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。そのことのゆえに、私たちの罪が赦されました。イエス様は私たちを救う為に十字架で苦しみ、傷つかれました。私たちを愛するがゆえに、御自分の命を投げ出して下さったのです。十字架は、愛のしるしです。あの十字架にこそ、神様が私たちをアイシテルと言って下さるしるし、源なのです。ですから、私たちは愛のしるしであり、源である十字架を日々見上げ、十字架を思うたびに愛されていることを深く感じさせていただきたいと思うのです。
 イエス様は十字架で死なれましたが、三日目によみがえられたのです。死んでいたのによみがえり、とあるようによみがえられたお方なのです。受難節には、この放蕩息子の聖書箇所がよく読まれるようです。それは、「私たちが十字架の苦しみを共有することで、天の父と痛みにおいて結ばれるという復活の喜びをしるためです。」と晴佐久神父は説教集で語っておられます。
 多くの人々が、この弟息子のように傷ついています。痛んでいます。また、多くの人々が人々を傷つけています。私たちも傷つき、傷つけているのかも知れません。神様は創造された人間、つまり御自分の子どもたちの苦しみのために「はらわたがちぎれる」ように苦しんでおられます。傷つけ、傷つけられている私たちが、癒され、救われるのは、父のもとに帰って行く時だけなのです。父から離れて本当の喜び、楽しみ、幸せはないのです。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5)とイエス様は言われました。このように、私たちがイエス様の十字架を見上げ、イエス様の十字架の痛みと傷において、初めて私たちと神様がつながり、私たちは神の子とされるのです。この週もその恵みに立ち続けるために、聖書の言葉に触れ、十字架の痛みと傷は私のためであるという神の愛を知る者となりましょう。
 バレンタインデー、それは甘い香りのするものです。チョコレートやキャンディに思いを込めて送るからです。しかし、チョコレートやキャンディは甘いものですが、やはり私たちの思いは、言葉で伝えなければなりません。「アイシテル」と夫や妻、子どもや親に、心を込めて伝えたいと思うのです。そして、日々聖書を通して十字架を思う時、神様からの「アイシテル」の言葉と思いを聞きたいと思うのです。そして、私たちも父なる神様に、イエス様に「アイシテル」と答えたいと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主日礼拝(2011年2月6日)

2011-02-06 17:46:15 | Weblog
                      主日礼拝(公現後第五主日)        2011.2.6
          
                  「愛はほっとけない」 ルカ10:25-37

 Ⅰ導入部
 おはようございます。2月の第一主日を迎えました。2011年の1月も終わりました。今年のスタートはいかがでしたでしょうか。良いことも悪いことも、問題や課題も多くあるのだと思いますが、確かにイエス様が共に歩み、導き手として私たちをこの一月(ひとつき)ささえて下さいました。そのことのゆえに、神様に感謝したいと思います。また、先週の説教ではありませんが、困難や苦しみ、悲しみゆえに神様に心からの感謝をささげ、困難や苦しみ、悲しみの背後にある神様の、イエス様の深いみ心、み旨を信仰の目を持って、霊の目が開かれて見させていただきたいと思います。
 2月は、世間ではバレンタインデーということでチョコレートの売り上げが、いつもよりもグンと伸びる月だと思います。チョコレートに愛を込めて、自分の気持ちを相手に知らせるというのが、バレンタインの世間での一般的な考えだと思います。バレンタインデーというのは、3世紀のローマ皇帝時代、強兵策のため若い兵士に結婚が禁じられていて、この禁止令に背いて兵士達を次々に結婚させた司祭バレンチヌスが処刑されたのが2月14日でありました。また、古代ローマに豊作を祈願するルペルカリアという祭りがあり、町の娘たちが愛の手紙を書いて壺の中にいれ、抽選により男性に配られ、男性はその手紙を書いた女性をデートに誘うことができたのだそうです。この祭りは毎年2月15日であったのですが、いつの間にか2月14日になってバレンタインと結びついたようです。
 このような愛に関して、日本の製菓会社がチョコレートの販売戦略として考えだしたものです。最近、女性の間では、自分へのご褒美ということで、自分のためにチョコレートを買うようですので、バレンタインとは直接関係ないものになっているようです(参照:「教会のこよみ、日本のこよみ」)。
 ということで、2月の前半は愛、神様の愛について考えてみたいと思うのです。今日は、ルカによる福音書10章25節から37節を通して、「愛はほっとけない」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部
 ⒈素直な心で生きる
 皆さんと御一緒に、36節を共に読みましょう。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 イエス様は、良きサマリア人のたとえを話されてから、このように律法の専門家に尋ねました。そもそも律法の専門家は、イエス様を試そうとして、イエス様に、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と質問したことから始まりました。リビングバイブルには、「ある日、律法の専門家がわざわざやって来て、イエスを試そうとしました。」とあります。イエス様を試そうとして、わざわざやって来たのです。
律法の専門家は、「何をしたらいいか」と質問しました。けれども、試そうとして来たのですから、彼の動機は、「何をしたら言いか教えて下さい」とその答えを求めているのではなく、イエス様がどのように質問に答えるのか、自分では一応の答えを持ったうえでイエス様に質問したのです。私たちも、ある程度自分で答えを持ちつつ、質問するというようなことがあるようにも思います。
 イエス様は、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という律法の専門家のイエス様を試そうとする質問に、逆にイエス様は質問することによって応答されようとしたのです。イエス様は、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問されたのです。律法の専門家ですから、小さいときからいつも学び、暗記してきた内容で答えます。
 27節をご一緒に読みましょう。「彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエス様は、律法の専門家の土俵ですもうをとろうとします。 イエス様は、律法の専門家の答えに、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と答えられました。律法には、こう書いてあると正しい答えをすることができました。そして、その通りに実行することを勧められたのです。神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するこの3つの愛に生きる者こそ、永遠の命にふさわしい者ということでしょうか。イエス様は、律法の専門家に、この3つの愛を実行することを求められました。そして彼は「ハイ」では終わりませんでした。
 29節を共に読みましょう。「しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。」 律法の専門家は、自分を正当化しようとして「わたしの隣人とはだれですか」と問いました。リビングバイブルには、「自分がある種の人々を愛していないことを正当化しようと」とあります。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の言葉に対して正当化しなければならない理由があったのです。
私たちも、神を愛する、自分を愛する、隣人を愛するということにおいて、「実行しなさい」というイエス様の言葉に、自分を正当化しようとして、言い訳をしたり、質問したりということはないでしょうか。イエス様は、この「では、わたしの隣人とはだれですか」という質問のゆえに、良きサマリア人のたとえを話されたのです。

 ⒉聖書をどう読むのか
 この律法の専門家は、「律法には何と書いてあるか」、という質問には答えられても、「あなたはそれをどう読んでいるか」という質問には答えられなかったのです。
 イエス様は、30節から35節までに内容を話されました。強盗に襲われ、傷つき、倒れている人を祭司もレビ人も見ただけで通り過ぎて行きました。しかし、傷ついているユダヤ人とは、仲の悪いサマリア人は、かわいそうにと同情して、傷の手当てをし、宿屋まで連れて行き、必要なお金も払ったのでした。イエス様は、このお話しをされてから、律法の専門家に質問されました。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と。
 37節をご一緒に読みましょう。「律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
「では、わたしの隣人とはだれですか」という質問に、傷つき倒れている人の3人の態度を話し、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問われたのです。律法の専門家は、自分を正当化しようとして「わたしの隣人とはだれですか」と問いました。リビングバイブルにあるように、「自分がある種の人々を愛していないことを正当化しようと」したのです。サマリア人がまさにその人種であったのでしょう。かつては、同じ流れ、信仰の父アブラハムから生まれたユダヤ民族でありましたが、他民族の血が入り混血となったのがサマリア人でした。ユダヤ人は、混血のサマリア人を忌み嫌い、軽蔑しました。また、ユダヤ人とサマリア人は礼拝の場所についても争いました。ユダヤ人はエルサレムで神を礼拝しましたが、サマリア人はゲリジム山で礼拝をささげていたのです。ユダヤ人は、サマリア人を偽りの宗教を持った汚れた民族であると強く軽蔑していたのです。
 当然、ユダヤ人の律法の専門家は、律法には「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」と書いてあることは知っていても、その隣人とは、ユダヤ人かあるいはユダヤ人意外でも改宗した者と制限していたのです。ですから、隣人を愛するという点において、律法の専門家は、自分を正当化しなければならず、「わたしの隣人とはだれですか」と問わなければならなかったのです。
 イエス様は、律法の専門家の心の中を御存知だったのでしょう。だから、良きサマリア人のたとえ、サマリア人を主人公にした、たとえを話されたのだと思うのです。律法の専門家は、「隣人を自分のように愛しなさい。」という神の言葉は知っていても、「隣人を自分のように愛しなさい。」という言葉を「あなたはそれをどう読んでいるか」と質問されたイエス様の思い、つまり神様のみこころを実践することができなかったのです。
 私たちもクリスチャンですから、毎日聖書を読みます。聖書にどのようなことが書いてあるのか知っています。しかし、その聖書の言葉をどのように読んでいるのでしょうか。何千年も前の話しとするのでしょうか。人生訓というものとして受け入れるのでしょうか。倫理書、道徳書として正しく生きるというように読むのでしょうか。聖書の言葉は生きていて、私たちを造り変える力があるのです。聖書を神の言葉として、神様からの語り掛けとして、真剣に受け留めたいと思うのです。

 ⒊誰の隣人になるのか
 33節から35節までご一緒に読みましょう。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」
 祭司とレビ人は、傷つき倒れている人を見ても向こう側を通って行きました。同じユダヤ人でありました。律法の専門家と同じ指導者であった祭司もレビ人も、隣人はユダヤ人と限定していたにもかかわらず、隣人としての愛を示すことができませんでした。しかし、傷つき倒れているユダヤ人からは軽蔑され、忌み嫌われているサマリア人は、傷つき倒れているユダヤ人を見て、憐れに思いました。かわいそうだと感じました。同情したのです。リビングバイブルには、「気の毒な有様に、心から同情したサマリア人」とあります。彼は、近寄り傷にぶどう酒を注ぎ、包帯をし、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行き介抱しました。また、宿屋の主人に面倒見てくれるように頼み、必要なお金を差し出しました。隣人に対して愛の行為をすることができたのです。彼は、傷つき倒れているユダヤ人をほっておくことはできなかったのです。
 愛とは、損をすることであると言った人がいます。犠牲を払うと言い換えてもいいでしょう。サマリア人は、自分がこの傷ついたユダヤ人を襲った犯人だと思われる危険を冒しました。普段から中の悪い間柄ですから、犯人だと言われる危険性は大いにあります。また、介抱している間に自分も襲われる危険性もありました。この近辺は、強盗がよく出没する地域であったようです。サマリア人は、自分の乗っていたロバから降りて、傷ついた人を宿屋まで運びました。そして、宿屋の主人に代価を払いました。サマリア人には、何の徳もないことですが、助けたのです。それが愛なのです。愛はほっとけないのです。
 神様は、私たち人間が滅びるのをほっておけませんでした。私たち罪人を救う為に、イエス様をこの地上に、人間の世界に神が人となって下って下さったのです。そして、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。イエス様も私たちが罪を犯し、その罪のゆえに滅びることを見るに忍びないで、私たちをほっておけないで、身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。愛は、愛する者のためにはじっとしてはおれないのです。神様は、イエス様は、私たちを愛しているので、愛するがゆえに、じっとしておれないで、ほっておけないで行動されたのが十字架なのです。十字架こそ、神様がイエス様が、私たちをほっておけなかったというしるしなのです。
 私たちは、愛する妻が夫が、親が子どもが友人が苦しめば、悲しめば、痛い目に合えば心痛みます。心がキューッと痛みます。何とかしてあげたいと思います。だから、電話をしたり、メールをしたり、訪問して励まします。何もできないとわかっていても行くことがあるでしょう。行けないなら、なおさら祈るのです。それが愛です。それが神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するということです。
 けれども、神様はさらに高い愛を求められます。サマリア人が、傷つき倒れているユダヤ人を憐れに思い、介抱して犠牲を払ったように、自分を憎む者、自分に対して横柄な者、自分をよく思わない人にも、愛を表すということです。そのような人のためにも祈るということです。これが隣人を愛するということなのです。私たちは、この愛に生きたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 イエス様は、ルカによる福音書6章27節から36節で次のように言っておられます。
 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
 イエス様の愛はアガペーの愛、崇高な愛です。私たちには、そのような愛はありません。しかし、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、私たちを愛し通されたイエス様の愛を知っている者です。この大きな、深い愛に触れた者です。ですから、イエス様と同じ人格の聖霊様が私たちの内にはおららえるのです。イエス様を信じる者の内には聖霊様がおられるのですから、聖霊様が聖書の言葉を通して私たちを愛する者へと変えて下さるのです。人に対してもうほっておけない者として下さるのです。
 私たちは、最も近い家族の者にも、教会の兄弟姉妹にも、友人にも、その人が弱ったり、困ったり、痛んだりした時は、特に愛の心を与えられて、「ほっておけない」で行動したい、愛したいと思うのです。この週も、聖書に触れて、どのように読むのでしょうか。聖書を読んでイエス様に聞いて、導かれて誰かのために、損をする者、喜んで犠牲を払う者として生きたいと思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする