江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年7月29日

2018-07-29 12:35:13 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第九)     2018.7.29

絶望が希望に変わる」 ルツ記1:18~22.2:20~23

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月第五日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。

 台風の影響で随分と涼しくなりました。大変な暑さが続き、体調を崩しておられる方々やいろいろな体の変化で苦しんでおられる方々もおられるようです。

 先週の理事会で火曜日の朝ホテルで、五時過ぎに起きると右の腰の上の背中に激痛が走りました。しばらくすると、呼吸が困難になり、これは救急病院に行くしかない、電話で状態を話すと「それは整形ですね。現在、整形はお断りしています。」言われてとどうしようもなく、理事会開始まで、待ち理由を説明して理事会を早退させていただき、家に帰り病院に駆けつけました。

 家内が、それは石のせいじゃない、と言うので、その時の痛みに近いので、泌尿器科でCT画像を撮り、結果石はなく、内科に行き、CT画像を見て、内臓にも問題はなく、整形外科でレントゲンを撮り、特に問題ない。「どうしてこんな激痛があるのですか。」「疲れが溜まり、突然にきたのでしょう。同じ姿勢を続けないで、体をほぐしてください。」と、それで痛み止めとシップ薬をもらいました。原因のわからない痛みは不気味です。今も息を吸うと痛いので、生きるのがつらい日々を送っております。

 なぜ、このような痛みが与えられたのか、理由はわかりませんが、そこに、深い神様のおこころがあることだけはわかります。私たちは、いろいろな出来事を経験し、絶望を経験します。しかし、私たちの信じる神様は、絶望を希望に変えて下さるお方なのです。

今日は、ルツ記1章18節から22節と2章20節から23節を通して、「絶望が希望に変わる」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、全ての事を相働かせる神

 ルツ記は、士師が世を治めていた、と1章1節にあります。士師記の最後の言葉は、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(ルツ記21:25)とあります。物事の善悪を各自が自己中心的に判断していた時代。つまり、神様を信じる信仰が失われ、自分勝手な生き方、暗黒の時代であったのです。その時代を象徴するかのように、ナオミの人生にも、困難が訪れるのです。

 ナオミの夫エリメレクは、住んでいたベツレヘムが飢饉になったので、妻のナオミと二人の息子、マフロンとキルヨンを連れてモアブの地に移り住みました。モアブの地には食べ物が豊富であると聞いたのでしょう。しかし、夫のエレイメレクは、モアブの地で死にました。マフロンとキルヨンはモアブの地でオルパとルツという女性を妻にしましたが、10年たち、マフロンとキルヨンも死んでしまったのです。

 ナオミと二人の嫁が残されました。女性3人では、生活も大変です。その頃、イスラエルの国を、神が顧みて下さったということを聞き、故郷に帰ることを決心します。ナオミは、故郷に帰る途中に、二人の嫁に、自分の国へ帰り、結婚して幸せな家庭を築くことを勧めます。二人は声をあげて泣き、ナオミと一緒に行くと言います。ナオミは、このままついてきても、再婚できる可能性はない事、そして、あなたたちもつらいでしょうが、私の方がつらいのだと語ります。そして、彼女は言います。「主の御手がわたしに下されたのですから。」(1:13)二人は声をあげて泣きました。そして、オルパは、ナオミの言った通りに自分の国へ帰って行ったのです。

 しかし、ルツはナオミにすがりついて離れなかったのです。ナオミは、相嫁は帰って行ったから、あなたも後を追いなさい、とルツに言います。けれども、ルツは帰れとひどい事を言わないでください。あなたのいかれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神は、わたしの神。そして、彼女は言います。「あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(1:17)

 18節にあるように、ルツの気持ちが固いので、ナオミは、ルツと共に故郷に帰ることにしたのです。ナオミは、ルツを嫌って追い返したわけではありません。彼女の幸せを願っての事でした。しかし、ルツにとっては、自分の生まれ故郷モアブに帰り、幸せな結婚生活をすることではなかったのです。マフロンと結婚し、ナオミと共に生活する中で、生ける真の神を信じる家族、ナオミと接し、ルツも同じ信仰を持ったのです。「あなたの神は、わたしの神」と告白しています。ルツは、この神様を信じ、ナオミに仕えることを喜びとしたのです。

 私たちも、神様の導きの中で、イエス・キリスト様に出会い、救いを体験しました。イエス様を信じ、今置かれた所で、その人々に仕えることを喜びとしたいのです。

 

 二、苦しくったって神様は共にいる

 そのようにして、ナオミとルツはナオミの故郷にたどり着きました。ナオミにとっては、10年ぶりです。ですから、町中が二人のことでどよめいたとあります。ナオミを知っている人々は、ナオミさん、ナオミさんと声をかけました。久しぶりですから、周りの人々も驚いたことでしょう。モアブの地に食べ物があると家族4人で出て行ったあのナオミ。見知らぬ女性と二人、ご主人と息子さんたちは、どこ?と感じたでしょう。自分のことを知っている近所の人々に、ナオミは言います。

20節のカッコです。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」 ナオミの名前はナオミですから、みんなはナオミさんと呼びます。けれども、ナオミ、ナオミと呼ばれる度に、その名前の意味、「快い、快い、心地よい、心地よい」と言われるので、ナオミは、快いとは呼ばないで、苦い(マラ)と呼んでほしいと言うのです。なぜなら、全能者が、神様がわたしをひどい目に遭わせたからだと言うのです。新改訳聖書や口語訳聖書には、「わたしをひどい苦しみに遭わせた。」とあり、前の新改訳聖書では、「全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。」とあります。リビングバイブルでは、「だって、全能の神様に、ずいぶんつらい目を見させられたんだもの。」とあります。

21節を共に読みましょう。「出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」 口語訳聖書には、「主がわたしを悩まし、全能者がわたしにをくだされたのに、」とあります。新改訳聖書には、「【主】は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」とあります。リビングバイブルには、「神様に見捨てられてこんなに禍(わざわい)をこうむったあたし」とあります。

 ナオミは、モアブの地へ希望をもって出かけて行った。愛する夫と愛する二人の息子と共に。しかし、夫も息子たちもモアブの地で死んでしまった。全能なる神様は、私を悩ませ、不幸に落とし、災いをくだし、卑しくし、つらい目にあわせ、見捨てられた。私はナオミ、快い、心地よい状態ではなく、苦しみしかない。だから、マラと呼んでほしい、とナオミの正直な思いでした。

 ナオミの言葉を聞いた近所の人々も、夫や息子たちがいないことで、亡くなったということを薄々感じたでしょう。何があったのか、と詮索したのかも知れない。ただ、ナオミの表情や状態を見て、苦しみと悲しみを経験して戻ってきたと知ったのだと思うのです。

 私たちも、人生の中で、信仰生活の中で、苦労を経験します。勉強、結婚、子育て、介護する、されることを通して、生活や健康について、信仰について、苦しい事や悲しい事、痛い事を経験します。私たちは、クリスチャンとして、神様を信じる者として、「神様を信じたら大丈夫。」と言えない、言いたくないような苦しいを経験することがあるのです。

 ナオミのように、神様が自分を不幸にされた。悩ませた。災いをくだされた。卑しくし、つらい目に遭わせ、見捨てられたかのような苦しい経験を、私たちも神様に見捨てられたに違いないという状況を経験することがあるのです。しかし、それは、神様の目が注がれていないことを意味しません。神様の愛が注がれていないことを意味しないのです。それでも、なお、神様はナオミを愛し、私たちを愛しておられるのです。

 

 三、神の恵みは惜しみなくあなたにも注がれている

 ナオミを知る人々は、彼女に声をかけてくれましたが、生活の面倒を見てくれるわけではありません。ナオミも自分の生活は自分で何とかしなければならないのです。ですから、嫁のルツは、落ち穂拾いをすることを彼女に伝え、落ち穂拾いに出かけるのです。

 落ち穂拾いは、律法で決められた生活保護のようなものです。レビ記19章9節、10節には、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」とあります。

 ルツが落ち穂拾いした畑は、ボアズという人の畑でした。律法には、「これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」と言っても、やはり、畑の所有者によって、落ち穂拾いする人を痛めつけたり、追い払ったりする所有者もいたことでしょう。この畑の所有者ボアズは、一生懸命に働くルツに目を留めます。そして、ルツのことを監督に聞きます。ボアズは、ルツに声をかけ、自分の所で働くように、喉が渇いたら、水がめから飲んでいい事を告げます。ルツは感謝を現します。

 食事の時になると、ボアズはルツに声をかけ、パンを食べるように、パンを与え、また、いり麦も与えたのです。たくさん、もらったルツは食べきれなかったのです。

 仕事が始まると、ボアズは若者に、麦束の間でも拾わせるように。止めないように。それだけではなく、わざと落として拾わせるように、と言います。リビングバイブルには、「くれぐれも、あの女(ひと)のじゃまはせんようにな。束の間でも落ち穂を拾わせてやりなさい。そして、もっと拾いやすいように、わざと大麦の穂を抜き落としておくがいい。つべこべ言ってはならんぞ。」(2:15-16)とあります。

 ルツが集めた落ち穂は、1エファ、つまり、23リットルという、驚きの量でした。家に帰り、その量に驚いたナオミはルツに、どこで落ち穂を拾ったのかと聞きました。ルツがボアズという名前を出したとたんに、狂わんばかりに喜んだのです。

 20節のカッコを共に読みましょう。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。

 ナオミはモアブでの10年間、夫と息子を失い、人生の希望を失い、神様に悩まされ、不幸にされ、卑しめられ、災いをくだされ、つらい目に遭わされ、見捨てられたと思っていた。でも、神様はわたしを覚えて下さり、見捨てられなかった。見捨ててはおられなかった。覚えていて下さった。祝福を用意しておられたことがわかったのです。夫も息子たちも死んだ。だから、自分たちの土地は失われた。けれども、夫の親戚のボアズが嫁のルツに目を留めてくれた。神様は、死んだ人、夫と息子たちの家を絶やさないために、今生きている私やルツのために、ボアズの畑に導かれ、驚きの好意を得たのでした。ナオミやルツの努力や頑張りではない。神様の憐れみ、恵み以外には考えられないのです。

 同じように、私たちの努力や頑張りで私たちは救われたのではありません。ただ、神様が私たちを愛して、神であるイエス様を人として人間の世界に送り、私たちが受けるべき罰を十字架の上で身代わりに受けて下さり、私たちの罪のために尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったので私たちの罪が赦されたのです。イエス様は死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、死者の初穂となり、私たちに永遠の命、天国の希望を与えて下さったのです。死んで終わりという絶望から、死んでも生きる希望をイエス様を通して与えて下さったのです。

 Ⅲ結論部

 私たちの現実の生活は、信仰さえあればいい。信仰があれば何でもうまくいく、成功するとは限りません。ナオミ自身が経験したように、飢饉も経験し、夫に従いモアブの地で、愛する夫と二人の息子を失いました。あの選択、モアブ行きが間違っていたのではないか、とナオミを苦しめたのかも知れません。ベツレヘムにとどまっていたら、夫も息子も死なずにすんだかも知れない、と過去を悔やんだでしょう。ナオミは、夫や息子を失い、生きる手段や権利も失いました。けれども、神様は、ルツという嫁を通して、彼女自身の信仰を通してナオミに祝福を用意しておられたのです。

 ルツがしたことは、最も貧しい人々に約束された落ち穂拾いでした。そのルツをボアズの畑に導かれたのは神様です。そして、ボアズの目に止まり、好意を寄せ。結婚へと導き、

救い主イエス様の系図の中に入れられることになるのです。驚きです。神様はナオミの絶望を希望に変えて下さったのです。

 私たちが今置かれている場所、環境は、神様に災いを与えられたかのような、不幸な状況、いじめられているような、つらい目に遭わされ、完全に神様に見捨てられたかのような悲惨な所かも知れません。しかし、神様は、あなたのその状況をそのままにはしないのです。あなたの絶望がイエス・キリスト様を通して希望に変わるのです。

 「神様、ありがとうございます。神様のお恵みは、あんたが夫を亡くした時におわったんじゃなかったわ。ずっとお恵みは注がれていたんだねえ。」 ナオミは、神様のみ業を体験したのです。私たちも、今週、今がどのような困難な所に置かれていても、イエス様が私たちを助け、祝福し、導いて下さることを信じて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年7月22日)

2018-07-22 10:29:44 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第八)     2018.7.22

群衆の中の一人ぼっち」 出エジプト記18:12~27

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。相変わらず暑い日が続いておりますが、皆さん大丈夫でしょうか。大丈夫なので、今日礼拝に出席されていることだと思います。本当に命に係わるものですから、お体にはくれぐれもお気をつけ下さい。先週のテレビのニュースの字幕に、「各地の猛暑日、(週末でなくて)終末まで続く?」という表示がありました。暑さのために、このような間違いもあるのでしょうか。この暑さが世の終わりまで続くと大変です。そのような表現が出るほど、確かに暑いのです。暑すぎるのです。

先週の日曜日の午後から月曜日のお昼まで、サマー・ファミリー・キャンプが三浦YMCAグローバルエコビレッジで持たれました。三十数名の参加で、楽しい交わりの時を持ちました。メッセージは、全て塚本先生にお任せし、私はゆっくりさせていただきました。交わりのゲームや花火、残念ながら強風のためにキャンプファイヤーは中止になりました。バイブルスタディーでは、聖書から意見や教えられたことを話し合い、恵まれました。塚本先生のメッセージ、今年の青葉台教会の年間聖句からいろいろと教えられました。

 私は、膝の痛みがひどく、ゲームや交わりには参加せず、ベッドで休んでおりましたが、膝を曲げられないので、狭いベッドの出入りに苦労しました。炎症止めの薬も忘れてしまい最悪でした。宿泊施設は三階で、階段での上り下りは大変ですが、宿泊施設がリニューアルされて、エレベーターがあり、助かりました。もしなかったら、完全に膝がアウトでした。神様は、いろいろな所で配慮していて下さっていたことを思いました。三浦方面は日月と連休で道が混んでいると予想されましたが、行きも帰りもスムーズに走ることができました。このことも感謝でした。この1週間、それぞれに大変な事も経験されたでしょうが、その背後に神様のご配慮が確かにあったことだと思うのです。

 私たちは、家庭生活の中で、社会生活の中で、教会生活の中で孤独を感じることがあるでしょうか。自分一人しかいないという物理的な孤独ではなく、周りには大勢人がいるのにもかかわらず、友人や知人がいるにもかかわらず、孤独だと感じることはないでしょうか。今日は、出エジプト記18章12節から27節を通して、「群衆の中の一人ぼっち」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、数が増えれば悩みも増える

 モーセはエジプトからイスラエルの人々を連れて脱出しました。聖書には、男性が60万人とありますから、女性と子どもを合わせると、150万人以上の人々であったことが予想されます。移動するにも、それは大変です。海外の旅行の20人、30人でも、集合時間に誰かがいない。戻って来ないということがあります。100人、200人になるともっと大変です。150万人以上ですから、それは並大抵のことではありません。毎日、マンナが与えられ、それをこの人数の人が集めるのです。「肉が食べたい」と民が叫んだので、うずらが与えられましたが、その量は半端な数ではありません。また、特に、日々の歩みが思うようになりませんから、あちこちから不平不満が噴出します。「水がない。肉や野菜が食べたい。・・・。」何か不便なことや思うようにならないと、エジプトはよかった。エジプトでは、すき焼きを食べることができた。野菜も食べることができた、と自分たちの奴隷であった苦しい事は横において、不平不満をモーセに投げかけたのでした。

 昼は雲の柱が、夜は火の柱が民を導きました。そして、雲の柱や火の柱が動かないと何日もとどまりました。また、移動する準備ができていなくても、雲の柱や火の柱が移動すると民も移動するのでした。移動すると言っても、150万人以上ですから、先頭から最後の人までは、時間がかかりました。先頭での出来事や中間、最後尾の連絡の方法も今のように携帯電話はありませんから、人が移動して確認して、また戻るということですから時間も手間もかかったのです。ですから、行き違いやすれ違い、誤解や聞き間違いなど、いろいろな所で問題が起きたのではないかと思うのです。人数が増えれば増えるほど、問題や課題もまた多くなるのです。モーセは指導者としていろいろな苦労があり、それを誰にも相談できず、孤独で大変だったろうと思うのです。

 青葉台教会も、創立の時やその後の50人ぐらいまでは、家庭的な雰囲気で全員の事がよくわかる状態だったでしょう。そして、いろいろな教団からの転入の方々、洗礼を受けて加わる人々と様々で、100人、150人になると、意思の疎通ができなかったり、思い違いや勘違いがあり、人はいるけれども、自分の事をわかってもらえない、という孤独感に陥り、教会から離れていく方々もおられました。そこには、牧師や教会だけの問題ではなく、その人の信仰的な事柄や要因はあるのだと思いますが、やはり、人が増えたということで、配慮不足や、思いが届かなかったり、愛の不足があるのだと思うのです。

 今年は、塚本良樹先生が、ユースパスターとして、ユースや青年たちとべったりの交わりをして下さり、ユースのみんなも信仰的にも霊的にも元気になりました。塚本先生は、役員会や教会学校教師会には参加しないで、とにかくユースと一緒に時間を過ごすことに専念していただいているので、ユースのみんなとは良き関係ができています。私は、ユースと一緒に時間を過ごすことができませんので、塚本先生がこられて本当に感謝です。

 これからも、副牧師や伝道師の方々が必要になっていきます。牧師一人の限界があります。モーセも一人で、民を導いていたのです。そこには、孤独と限界がありました。

 

 二、良きアドバイスと謙遜な姿勢

 ある時、モーセの妻、ツイポラの父、しゅうとのエテロが、ツイポラと二人の息子を連れて、モーセの様子を見に来ました。エテロは翌日になって、モーセが朝から晩まで、民を裁いている様子を見ました。多くの人々が、モーセの裁きを待っていたのです。個人や夫婦、親子、兄弟や近隣の者とのいざこざや問題をモーセに話し、モーセはそれを聞いて、神からの解決策を示していたのでしょう。エテロはモーセに問います。14節のカッコです。「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と。

エテロの質問にモーセは答えます。15節、16節です。「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」  新改訳聖書には、「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。」とあります。

夫婦喧嘩や兄弟喧嘩の仲裁もあったでしょう。悩みごとの相談もあったでしょう。生活の事、個人的な事、信仰的な事、各自が自分の問題を抱えてモーセの元にやってくるのでした。種類も深刻さも様々でした。モーセも民も大変。モーセは自分のもとを訪ねてくれたしゅうとのエテロをもてなすこともできないで、民を裁いたのです。だから、大変だったのです。この時十戒が与えられていない時です。次の章で神様から戒めが与えられるので、その前であったので、様々な出来事に民は相談に来たのです。

 エテロはこの光景を見て驚いたのです。そして、このままでは、モーセも民も疲れてしまうことを感じました。エテロは言いました。17節、18節です。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」

 そして、エテロは一つの方策を示しました。21節~23節です。「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」

 私たちは、自分たちが行っていることの問題や課題をなかなか見ることはできません。私たちは、他の教会に行くと、いろいろと問題に気が付きます。同じように、青葉台経教会に来られた方々は、足りない所やもっとこうした方がいいと感じるのではないでしょうか。ですから、モーセがエテロの助言を謙虚に受け入れたように、私たち自身の課題や教会の課題について助言して下さることを謙虚に受け入れることができたらと思うのです。

 自分一人で背負っていることはないですか。そのままでは疲れます。みんなで協力し、重荷を負い合いますから、話していただけたらと思います。

 

 三、本来すべきことのための協力

 エテロは、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長の選びについて、「神を畏れる有能な人、不正な利得を憎み、信頼に値する人物」と言いました。有能な人、正しい人、信頼できる人は勿論ですか、まず最初に、「神を畏れる人」なのです。神様を意識し、信仰的に、霊的に整えられた人です。人々の問題や悩みを聞く人ですから、人間的な何かで判断してはならないのです。

 モーセは、エテロの助言を受け入れて、モーセの重荷も軽くなり、民も自分たちの問題や悩みに時間を有することなく解決が与えられたのです。しかし、何よりも、モーセの働きが分担できたというより、19節の後半から20節にあること、「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。」とエテロは言いましたが、モーセが本来すべきことをするとことができるようになったということです。

民の相談を聞き、その答えを神に求め、民に答えるということも大切な事でしょう。しかし、モーセには、指導者としてすべきことがありました。最も大切な事、それは神様との交わりでした。19節を別の言葉で言い換えると、「あなたは常に神の前にいて、神に問い、答えをいただくという役割に徹しなさい。」ということだと思います。モーセは、神の言葉をイスラエルの民に語ることなのです。イスラエルの民は、モーセを通して神の言葉を聞き、そのみ言葉に従って歩むことが大切な事なのです。

 モーセがエテロの言葉を受け入れて実行したのは、十戒を与えられてからのことのようです。シナイ山で律法が与えられて、そして、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長を選んで、民をさばいたのです。問題のある人が十人隊長の所に相談に行き、これは手に負えないとなると五十人隊長のとこへ行き、それでも手に負えない時は、百人隊長、それでも手に負えなければ、千人隊長の所へ、それでも、手に負えなければモーセの所へ行ったのです。ですから、日常の相談事は、全て千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長で事足りたのです。奉仕の分担、責任を負い合いました。

 使徒言行録6章には、初代教会が人数が増えた時、ギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に苦情が出たという記事があります。イエス様の弟子たちも忙殺されて、本来すべきことができないでいたのです。ですから、霊と知恵に満ちた評判の良い人7人を選んで、仕事を委ね、弟子たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念しました。すると、神の言葉はますます広まり、信じる人々が起こされ、祭司も大勢信じたのでした。

 誰か一人に、あるいは、何人かに奉仕や働きが偏るのではなく、みんなで分担し、それぞれが置かれた立場で、自分のすべきことを第一にしていく時に、神の言葉は広まっていくのだと聖書は語ります。出エジプトして、モーセも民も苦労がありましたが、エテロの助言でモーセも本来すべきことを第一とし、選ばれ、立てられた隊長たちも神様に用いられ、その結果民も喜んだのです。

 Ⅲ結論部

 エテロの訪問は、タイムリーでした。神のタイミングでした。見えざる神のみ手がありました。いろいろな出来事があり、シナイ山で律法をいただく前の大切な時でした。あのままモーセが一人で行っていれば、40年も指導者として立ち行かなかったでしょう。神様の導きでした。私たちの経験する様々な事ごとの中に、神様の見えざる御手が働いておられるのです。

 イエス様は神様でした。しかし、ご自分が仲保者として、父なる神様と私たち人間の間を取り持つ存在として、ご自分を神にささげるいけにえとして、十字架について私たちの罪の身代わりになって、尊い血を流し、命をささげて下さり、私たちの罪を赦して下さいました。そして、死んでよみがえることによって、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。イエス様は、救い主としての使命を全うされたのです。イエス様には12弟子がいましたが、孤独でした。救い主としての生き方に弟子たちは理解できないでいたのです。

 私たちの教会は今年、50周年を迎え、様々な行事がありますが、感謝して参加したいと思います。また、それぞれが与えられた賜物を十分に用いていただきたいと思うのです。

多くの方々が集う教会ですが、一人ぼっちで寂しい思いをしている人がいるかも知れません。私たちは、そのような方々を覚え、祈り、主に導かれた事を実行したいと思うのです。

 モーセは何百万という人の中で、一人ぼっちだったかも知れません。しかし、いつも神様と交わり、神様から慰めと励ましの言葉をいただいていたのだと思うのです。今週、私たちも孤独を経験するかも知れません。一人ぼっちだと感じるかもしれません。あなたのそばにはイエス様がおられます。聖書の言葉を通して、聖霊があなたを慰めて下さるのです。この週も、命を投げ出すほど愛して下さるイエス様と共に歩みましょう。

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日曜礼拝(2018年7月15日)

2018-07-15 10:27:50 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第七)     2018.7.15

正体見たり」 創世記45:1~8

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。毎日、暑い日が続いておりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。外に出れば、日差しが強く、何もしなくても汗ばんで、体力を消耗します。大雨で被害に遭われて避難生活をしておられる方々は、クラーのない体育館での生活に疲れが溜まっておられるようです。この暑い中、復興のために労しておられる自衛隊の方々、役所の方々、警察の方々、ボランティアの方々は、頑張っておられます。

被災者の方々が守られ、一日も早い日常の生活に戻られるように、必要が満たされるように、健康と心が守られますように、復興のために労しておられる方々の健康が守られ、復興が進みますように、私たちは真剣に祈り、私たちのできる精一杯のことをしていきたいと思うのです。

 今日は、創世記45章1節から8節を通して、「正体見たり」という題でお話ししたいと思います。

 テレビドラマでも、映画でもヒーローの正体が暴かれる、犯人の正体が暴かれるということの中には、ハラハラドキドキの思いがあります。クライマックスの瞬間です。今日の箇所は、ヨセフ物語のクライマックスのシーンです。

 

 Ⅱ本論部

 一、人生いろいろ

 ヨセフは、給仕役の長に2年間忘れられてしまいますが、2年後エジプト王ファラオの見た夢を解いて、エジプトで王に次ぐ者、総理大臣になります。一日にして、囚人から総理大臣になったのです。7年間の大豊作の後に、大飢饉がやって来ました。ヨセフは、大豊作の時に、穀物を備蓄しました。ですから、大飢饉が来てもエジプトには穀物が備えられていました。エジプトの全国に飢饉が広がり、穀物のなくなった民は、ヨセフの元に行き、穀物を買いました。イスラエルにいたヤコブは、穀物がなくなり、エジプトに穀物があると聞いて、ヨセフの10人の兄たちに、穀物を買いに行かせたのです。

 10人の兄たちは、エジプトに来てヨセフの前にひれ伏しました。かつて、ヨセフの見た夢が現実となったのでした。ヨセフは兄たちに厳しい態度を取り、回し者で、この国の手薄な所を探りに来たのだと言いました。話の中で、12人兄弟がいて、末の弟は父の元にいると言います。ヨセフは、末の弟を連れてきたら、信用しようと言います。シメオンを残し、9人は穀物を買ってヤコブの元に帰り、事の次第を告げます。末の弟のベニヤミンを連れて行くことを進言するとヤコブは、それだけはできないと言います。

買ってきた穀物がなくなるとまた穀物を買いに行かなければなりません。その時には、ベニヤミンを連れて行かなければならないのです。ヤコブが渋るとユダが、ベニヤミンを連れて行かなければ穀物を買いに行くことはできません。ユダは必ずベニヤミンを連れ帰ります。もしそうできなければ、自分が罪を負い続けますと自分の思いと決心を告げヤコブはベニヤミンを送り出します。

 ベニヤミンを連れた兄たちは、ヨセフの前にひれ伏すとヨセフは、そこに自分の弟ベニヤミンがいることに気が付きます。そして、自分の屋敷に連れて行くようにと執事に命令しました。兄たちとベニヤミンはヨセフの屋敷に連れて行かれてヨセフに会います。

 ヨセフは、ベニヤミンの袋の中に、銀の盃を入れて置き、彼らの帰途の途中に追いかけ、主人の盃を盗んだ者がいると疑いをかけます。そして、一番年上のルベンから初めて袋を調べた結果、最後のベニヤミンの袋の中に入っていたのです。そして、全員がヨセフの屋敷に戻ることになったのです。

 ユダは、ヨセフの前で、「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」と言いました。そして、全員が奴隷になると言いますが、ヨセフは、盃を見つけられたベニヤミンだけが奴隷になり、他の者は父の元に帰るようにと告げます。しかし、ユダは、ベニヤミンは父にとっては大切な存在で、ベニヤミンを連れて帰らないと父を苦しめることになります。ですから、代わりに私を奴隷として残して、ベニヤミンは帰れるようにしてほしいと自分の命を懸けるのです。このユダの命懸けの訴えにヨセフは心動かされるのです。自分をエジプトに売った兄たちとは違うものをそこに見たのです。ヨセフ自身もエジプトで多くの苦労を経験し、悲しい事、苦しい事を多く経験した。また、兄たちも自分たちがヨセフにしたことを反省し、悔い改めて、生きて来たことを知らされるのです。

 

 二、事の始まりは人ではなく神様です

 ヨセフは、エジプトの総理大臣として平静を装うことができなくなり、エジプト人を皆追い払いました。そして、ヨセフは兄弟たちの前で、実は、自分はヨセフであることを明かしたのです。正体を明かしたのでした。そして、大声で泣いたのです。

 3節です。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」とヨセフは語り掛けました。兄弟たちは、驚きのあまり答えることができなかった、とあります。よくドラマや映画でも、生き別れになった親子や兄弟が出会うというシーンがあります。涙、涙のシーンです。兄たちは、まさか目の前にいる大国エジプトの総理大臣が兄弟のヨセフであるとは夢にも思いませんでした。夢でも驚きました。でも、夢ではないので、もっと驚いたのでしょう。声も出なかった。恐れに縛られたと言ってもいいのでしょう。

 4節でヨセフは言います。「わたしはあなたたちがエジプへ売った弟のヨセフです。」

こう言われると、自分たちがかつてしたことを思い起こさせます。今だに覚えているのか、ということです。ヨセフがエジプトの総理大臣になり、自分たちを罰することができる存在になっているので、恐れたことでしょう。今、裁かれても仕方のないことです。しかし、ヨセフは、5節で「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです。」 

 ヨセフは、兄たちに憎まれました。うとまれました。そして、その憎しみのゆえにエジプトに売られた。エジプトでは奴隷として苦労した。濡れ衣を着せられて監獄に入れられ、囚人にもなった。そして、監獄から出られるチャンスがあったけれども、忘れられた。しかし、神様は共におられ、自分をエジプトの総理大臣にまで導かれた。兄たちは、憎いからと言っても弟のヨセフを奴隷として売ってしまったこと、父を悲しめてしまったことを後悔していた。今ままで、そのことで心を痛めていた。心の重荷になっていた。しかし、ヨセフを売ったことを悔やんだり、誰が悪いと責め合ったりする必要はないと、きっぱりとヨセフは言ったのです。ヨセフが兄たちを恨んだことがないと言えば嘘になるでしょう。なぜ、兄たちは自分を奴隷としてエジプトに売ったのかと思ったこともあるでしょう。エジプトにさえ、奴隷として売られなければ、誘惑されることもなく、濡れ衣を着せられることもなく、監獄に囚人として入れられることもなかったのです。

事の始まりは、兄たちのせいだと思えなくもない。けれども、全ては神様の御計画であったとヨセフははっきりと理解しているのです。信じているのです。自分がエジプトの総理大臣になることで、自分と家族の命を救うために、神様の計画なさったことだとヨセフは確信しているのです。だから、逆から考えて、総理大臣になるためには、ファラオの夢を解く必要があった。ファラオの夢を解くためには、2年間給仕役の長に忘れられる必要があった。給仕役の長の夢を解くためには、ヨセフが監獄に入れられる必要があった。監獄に入るためには罪を犯す必要があった。ヨセフは罪を犯さないので、濡れ衣を着せられて間違ってでも罪人として監獄に入る必要があった。ポティファルの妻の誘惑がなかったら、濡れ衣を着せられることもなかった。ポティファルに買い取られなければ、誘惑にも会わなかった。エジプトに売られなければ、ポティファルに仕えることもなかった。兄たちが、ヨセフに憎しみを持ち、エジプトに売ることがなかったら、ヨセフはエジプトの総理大臣にはならなかったのです。そして、家族の命を守ることもできなったのです。すべては神様なのです。神様の計らいなのです。私たちも、ヨセフがそうであったように、自分の人生のすべては神様が確かに導いておられることを確信したいと思うのです。

 

三、全ての事の背後に神がおられる

「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです。」とヨセフは兄たちに語りました。私たちも苦しい事や悲しい事を経験し、絶望することがあります。あの人のせいだとか、あの人の一言がとか、その人の言動によって、不幸を経験したり、嫌な事を体験したと思えることがあります。でも、神様は止めようと思えば、と止めるのです。守られるのです。全能の力を持って阻止できるのです。それを許されたということの中には、神様の深い思い。み心が必ずあるのです。ですから、私たちも自分が経験した苦しい事や悲しい事を、人の何かのせいにするのではなく、ヨセフのように神様です、と神様に目を向け、人を責めるのではなく、神様を信頼したいと思うのです。

 7節を共に読みましょう。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」 これから5年間も大飢饉がある。神様はそう示されたのです。だから、神様は、ヨセフをエジプトの総理大臣にまでして、家族の命を守ろうとされるのです。

 ヨセフが経験した一つひとつの事は、良い事も、悪い事も、困難も祝福も、成功も失敗も、こんな事と思われることさえも、全ての事が神様の導きであったのです。ヨセフはそれを理解し、神様の導きを信じ、辛い経験も悲しい経験も痛い経験も、全てが神様のご配慮に満ちた出来事であったことを確信しているのです。

 ですから、8節で「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」と兄たちに語ったのです。リビングバイブルには、「そうです。決して兄さんたちのせいではありません。神様のお導きです。神様は私を王の顧問にし、この国の総理大臣にしてくださいました。」とあります。お兄さんたちではないのです。神様なのです。

 私たちは、自分の信仰生活の何かの問題を誰かのせいにしていることはないでしょうか。その結果、その人との関係が崩れたり、壊れたりしていることはないでしょうか。それは、神様のお心ではありません。時間がかかっても、その人のせいではない事を確信し、主の導きを覚え、主のみ心がどこにあるのかを祈り求めることができたらと思うのです。

 神様は、ご自身が最も嫌われる罪を持つ私たちを愛して下さいました。そして、その罪を解決するために、私たちを罰するのではなくて、私たちを十字架につけるのではなくて、神であるお方、神の独り子であるお方、罪のないお方を十字架の上で罰し、私たちの罪の身代わりとされることにより、私たちの罪を赦し、魂を救われました。そして、イエス様が十字架に死んで、墓に葬られ、三日目によみがえることにより、私たちに永遠の命、天国への道を開いて下さり、死んでも生きる道を備えて下さったのです。そのことを感謝したいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちの正体、それは罪人です。どのように表面を装い、笑顔を作っても私たちの心は罪で満ちているのです。その正体を知りながらも、私たちは、神様にそのままで愛されているのです。イエス様の正体、それは救い主です。神であるお方ですが、罪のないお方なのに、私たちの身代わりに十字架にかかり、私たちの身代わりで尊い血を流し、命をささげて下さり、私たちの罪を赦して下さったのです。イエス様の正体、神様の正体は愛です。究極の愛です。この究極の愛で私たちを愛されるイエス様と共に、この週も共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年7月8日)

2018-07-08 16:10:16 | Weblog

主日礼拝(三位一体後第五)

2018.7.8

教会はいろんな人がいる

マルコによる福音書21317

 

導入部

   みなさん、おはようございます。メッセージの前にお祈りをしたいと思います。

 

祈り

    愛する天のお父様。あなたの尊い御名をあがめ、心より賛美いたします。

    本日、このように、この場所で、ここにいらっしゃる、本当に尊い、あなたが愛しておられるお一人ひとりとともに、礼拝を捧げられていることを、心より感謝します。

    私たちはあなたが必要です。あなたの助けなしでは、この世界にあって、希望を持つことはできません。だからこそ、このように、あなたに礼拝を捧げられることを、心より感謝致します。目には見えませんが、あなたがここにおられることを信じ、あなたに期待をします。

    ただいま、聖書が開かれました。あなたが、聖霊さまにあって、導いて、書かせてくださった、このいのちのことば、神のことば、あなたの思いを、私たちが本当に悟ることができますように。どうか、私たちの心を照らしてください。

    罪深い者、弱き者が、取るに足らない者が、あなたと教会に立てられたゆえに語ります。準備の中であなたが助けてくださったことを信じます。どうか今も、助けてください。憐れんでください。あなたの心を、あなたが教会に語りたいことを、忠実に語ることができますように。

    今日も江上先生は、浦和教会でご奉仕にあたっておられます。どうか、先生の上に、そして浦和教会の礼拝の上にあなたの助けがありますように。

    また、今日ここに来たくても、来ることができなかった兄弟姉妹もおられます。あなたがその場所にあって、あなたとの深い交わりを与えてくださいますように。

    あなたに、ただあなたに期待し、また感謝をして、私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。

 

説教題について

    本日の説教のタイトルは「教会はいろんな人がいる」というものです。

 

    ある程度、教会に通うと分かることですが、教会には、いろんな人がいます。教会という場所には、ありとあらゆるタイプの人々がいます。

    私は、平日は、KGKキリスト者学生会という超教派の大学生のクリスチャン団体で働いています。KGKで、よく学生たちに言うのは、KGKに来ると、同じクラスだったらおそらくしゃべらなかっただろうな…という人と出会うよね?そう言うと、みんな「うんうん」と頷きます。

    教会もそうだと思います。おそらく教会に来なかったら出会わなかったであろうタイプの人と出会う。

    私も、これまでいろんなタイプのクリスチャンの人々に出会ってきましたが、出会う度に、「クリスチャンとはこういうタイプの人だ!」という前提をことごとく覆される。「クリスチャンとはこうこうこういう感じだ」という前提が全然通用しない。考えうる限りいろんな人が教会にはいる。

 

    そこから分かるのは、誰もが、神さまにとって、尊い存在である。「こういうタイプじゃないとクリスチャンになれない」などということは全くない。

    だからこそ、教会にはいろんなが人がいるわけですが、それは、イエスさまの周りにいた弟子たちもそうでした。全然違うバックグラウンドの人々の集まりでした。

    今日は、その中でも、「え?この人も?」という、1人の人をイエスさまが招かれたストーリーをご一緒に見ていき、イエスさまをご一緒に礼拝していきたいと思うのです。

 

本論部

一.徴税人を招くイエス

  本日の箇所は、衝撃的な出来事で幕を開けます。

  イエスさまがあるところを通りかかったとき、「アルファイの子レビ」という人物を弟子として招かれたのです。

  なんでそれが衝撃的やねん!と思われるかもしれませんが、それは、このレビという男が、「収税所に座っていた」と書かれているからです。

 

  当時、聖書の舞台であるイスラエルという地域を支配していたのはローマ帝国という国でした。

  ローマ帝国は、イスラエルを、圧倒的な軍事力で、暴力で占領し、支配下に置いていた。そこにいたユダヤ人たちを二級市民、劣った人々として、下に見て、お金や農作物を搾り取っていたと言われます。

 

  イスラエルのなかでも、イエスさまが育ったガリラヤという地域はさらに特殊で、ローマ帝国の下に、ヘロデという王様もいて、この人にも税金を払う必要がありました。

  この人は残虐な王として知られており、ガリラヤの人々は、この人のことが大っ嫌いだった。でも、彼にも税金を払う必要もあった。

 

  さらに、三つ目ですが、イスラエルの人々には「神殿税」というものがありました。エルサレムにあった神殿に捧げる必要があった。

  「神さまに捧げるんやからいいやないか」と思うかもしれませんが、当時の神殿は政治的な力もあって、神さまの名のもとに、人々からお金をふんだくって、礼拝は形だけになっていた。

  だからこそ、イエスさまは、やがてこの神殿に殴り込みに行くのですが、人々はそこにも税金を払う必要があった。

 

  さらに、、当時のシステムとして、徴税人(取税人)は税金を取るときに、決められた分よりもたくだん取って、それを自分の懐に入れることもできたそうです。

  ローマ帝国、ヘロデ、神殿という巨大権力、パワーがバックにありますから、逆らう者を捕まえて、殺してしまうこともできたでしょう。

  ここに出てくるレビも、おそらくそのような強力な権力を利用して、利益をあげていたと思われる。

 

  こう考えると、こういう職業についていたレビを、イエスさまが招かれたということの意外さ、衝撃、奇妙さをお分りいただけるのではないかと思うのです。

  イエスさまは、貧しい人々、苦しむ人々の味方として知られていました。先週、西日本を中心に、大雨によりたくさんの人々が被害を受けました。このなかにもご家族やご友人が被害に遭われたという方がいらっしゃるかもしれません。

  この当時も、イスラエルでは、災害があり、戦争があり、人々は苦しんでました。イエスさまは、苦しんでいる人々の友となり、彼らを励まし、パンを分かち合い、祈られました。

  金持ちや権力者を批判して、いじめられている者たちの側に立ち、彼らをこそ招かれた。

  イエスさまがそのような方であったということを考えると、レビはイエスさまの敵の側にいたと言っても良いでしょう。

 

  でも、イエスさまは、レビを招かれたのです。レビに言われたのです。「わたしに従いなさい」

  それを見ていた人々はびっくり仰天したことでしょう。

  「え?なんでこんなやつを招くんですか!?」

 

  しかも、その後、イエスさまは、レビの家で食卓に着かれたとあります。そこに取税人や罪人たちが大勢やってきて、イエスさまや弟子たちとともに食事をしたとあります。

  ここで言う「罪人たち」というはおそらく、売春婦たちを指しているのではないかと言われます。貧しさや、また様々な傷ゆえに、わかりやすく性的な罪を犯していた人々のことを指していると思われます。

  イエスさまの弟子たちは、漁師とか、ほとんどはいわゆる当時の一般市民です。その意味で、彼らはレビのような取税人たちの被害を受けていた人々だった。彼らにとって、レビをはじめとする取税人は「敵」でした。売春婦たちは、支配者ローマの価値観に染まった汚れた人々だった。

  でも、ここで彼らはともに食事をしている。ここには奇跡的な、ありえない出来事が描かれている。敵同士であった者たちが、本来一緒にいるはずのない人々が、イエスさまのもとで、ひとつになって食事をしている。

  普通にはありえない、奇跡のコミュニティが、イエスさまのもとで作られた。驚くべき出来事が、ここで起こっているのです。

 

二.罪人たちの共同体

  聖書は「希望」を語っています。

  イエスさまについていくときに、イエスさまに従っていくときに、かつて敵であった者同士が、本来一緒にいられないはずの人々が、ともに食事をするようになる。奇跡のコミュニティが作られていく。

 

  先ほど触れたように、イエスさま従った人々は、実に多様でした。取税人だった人がいて、売春婦だった人もがいて、漁師だった人がいれば、学者タイプの人もいた。

    繰り返しますが、だからこそ、誰もが、神さまにとって、尊い存在であり、「こういうタイプじゃないとクリスチャンになれない」などということは全くない。

    イエスさまの弟子たちはいろんな人がいて、そして同じように教会にはいろんな人がいますが、実は、ひとつだけ共通点があります。イエスさまについて行った人々には、一つだけ共通点がありました。

  17をご覧ください。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」 

 

  イエスさまについて行くための条件が一つだけある。それは、罪人であることでした。

  罪人でないと、自分は正しい人ではなく罪人であるのだということがわからないと、イエスさまについていけないんです。いや、イエスさまについて行く必要性がわからない。

 

  イエスさまは、それを医者と患者の関係に例えて、説明されています。当然ですが、丈夫な人は、健康な人は、医者のもとに行きませんよね。

  私は、基本的にはわりと丈夫ですが、昔からアトピー性皮膚炎があって、よく皮膚科に行きます。あと、鼻炎もひどいときはひどくて、眠れないときもあったりして、耳鼻科にもよく行きます。おかげで最近はだいぶマシになりました。

  この中にもよく医者に行かれるという方もいらっしゃるでしょう。あるいは、今は体には何の問題もなく、健康で、病院にしばらく行っていないという方もいらっしゃると思います。

  たとえ、今は体が健康であったとしても、今はこの体については病院に行く必要がなくても、心が、魂が、完全に健康な人はいない、誰しもが弱さを持っている。罪という深刻な病にかかっているのだというのが聖書の主張であります。

 

  でも、やっかいなことがあるんです。それは、時に、私たちはこの病に気づかないほど、病んでしまうのです。

  私自身もそうです。もちろん、私はクリスチャン歴なわりと長いですので、自分に問題がある、罪があるいうことは、知識としては分かっています。でも、それを本当に理解できていないことが山のようにあります。

 

  これは私だけかもしれませんが、私には、こういう傾向があるのです。聖書を読まなくなると、自分ってわりと良い人やつなんじゃないかって思えてくるですね。

  私は、クリスチャン家庭で育ったのですが、大学生になるまでは、自慢じゃないですが、ほとんど聖書を読みませんでした。

  みなさんは、「フーポンクリスチャン」という言葉をご存知ですか。一週間聖書を置きっぱなしだからホコリが積もっていく。だから、日曜日なったら、「フーポンポン」ってやるクリスチャンのことです。

  特に私はその頃は毎週教会に行っていたわけでなかったですし、教会に聖書を持っていかないことがカッコいいとなぜか思っていたので、さらにフーフーしなくちゃいけなかったのですが、その時代、もちろん私はクリスチャン家庭で育ち、神さまのこと、罪のこと、イエスさまの十字架と復活のことを教えてもらっていたので、知識としては、自分が罪人だと思っていました。でも、全然実感がなかった。

 

  しかし、大学生になって、本当にイエスさまに出会って、聖書を読み始めたんです。礼拝にも毎週出始めた。すると、面白いように、自分が罪人であるということがわかっていくのです。

  もちろん、その後も、時に、聖書を読まなくなるときはありました。そうすると、また「自分ってそんなに罪人じゃないかな」って思えてくる。

  もちろん、中途半端に聖書を読んで、けっこう賢くなった感じがして、「クリスチャンとしてのノルマを達成してるぜ」みたいになると、逆に「俺は偉い」みたいな感じで、本末転倒になっていくのですが、私たちが本当に聖書に本当に向き合うときに、自分には確かに問題がある、病があるということに気づくことができる。

 

  もしあなたが本当は病人であるなら、病気だということに気づくべきです。そして、医者のもとに行くべきです。

  もしあなたが本当に罪人であるなら、罪を知ることは「恵み」です。喜ばしいことです。なぜなら、その時に、あなたは医者なるイエス・キリストのもとに行ける、イエスさまを求めることができるからです。

 

  この世の中にいる医者には、治せない病もあります。

  でも、イエスさまは、私たちの心を、魂を癒し、永遠にいたるまで、たとえこの地上で死を経験するとしても、もっと豊かないのちを与え続けてくださる。

  あなたにどんな罪があろうとも、どんな過去があろうとも、罪を知り、医者なるイエスのもとに行くなら、イエスさまと一緒に、永遠を歩んでいくことができるのです。

 

三.それでも招くイエス

  最後に、この箇所に出てくるパリサイ派の律法学者たちに注目したいのですが、彼らは取税人、罪人たちと食事をするイエスさまについて、このように言います。

  16節。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

 

  なんで、あんなやつらを構うんですか。なんで、あんな、金にがめついやつらを愛するんですか。私たちこそ愛され、大切にされるべきです。だって、私たちはあの徴税人たちの被害者ですよ。

  どうして、あんな罪深い女どもを、そのまま受け入れるんですか。あいつら全然反省していませんよ。あなたは甘すぎる。

 

  パリサイ派の律法学者たちは、取税人を、売春婦たちを裁きます。イエスさまはもう赦しているのに、赦せない。

  こういうことってありますよね。イエスさまは赦している。そして頭では分かっているのに、赦せない。私にも当然あります。

  そして彼らは、イエスさまをも裁く。彼らは、自分たちと、彼らが、やっていることの内容は違っても、全く同じどうしようもない罪人であることがわかっていません。

  自分は正しいと思っている。自分は病気じゃないと思っている。だから、徴税人を、売春婦たちを裁いていたのであって、その意味では徴税人たち、売春婦たちよりも深刻である。

 

  イエスさまは徴税人、売春婦たちをも愛されました。しかし注目したいのは、なんと彼らを裁くパリサイ派の律法学者をも愛された。

  17をもう一度お読みします。イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」 

 

  これは、もちろん警告のことばでもありますが、同時に招きのことばでもあります。あなたも罪人だろう?あなたも病をもっているだろう?あなたをも、招くために、私は来たのだ。

  もちろん、この後彼らはこの招きを拒否し、イエスさまにさらなる怒りを抱き、イエスさまを十字架につける。でも、イエスさまが蘇られた後、使徒言行録を見るとき、パリサイ人、律法学者のなかかも、やがてイエスさまを信じる人々が起こされていったということも分かるんですね。

 

結論部

  イエスさまは、今日あなたにも語られています。「わたしに従いなさい」。わたしと共に歩もう。わたしが、あなたの罪を完全に赦す。あなたを変える。

 

  イエスさまはありのままの、そのままのあなたを受け入れます。

  でも、イエスさまは、あなたをそのままにはしておかない。

  イエスさまはそのままのあなたを受け入れますが、あなたをそのままにはしておかない。復活の力が、聖霊の力が、あなたを変える。まことの医者であるイエスさまは、あなたを癒す。イエスさまの姿に、イエスさまように、愛する者に変えられる。

 

  レビは、別名マタイです。徴税人であったレビは、変えられ、マタイの福音書を書く伝道者となっていきます。

  もちろん変えられるには、時間がかかることもあります。そのプロセスは、葛藤の連続でしょう。私も、弱さを覚えることばかりです。

  でも、イエスさまは、ご自身が始められた働きを途中で放棄するような方ではない。必ず完成させてくださる。人生を通して、あなたを最高傑作に仕上げてくださる。

  自分の力では無理です。でも、主が成し遂げてくださる。だから、今のあなたでいい。とにかく、わたしについて来なさい。わたしに任せなさい。わたしがあなたを変えるから。そのようにイエスさまは今日あなたに語っておられる。

 

  すべてはこの一言から始まりました。「わたしに従いなさい」。その招きに応えた人々が今日ここにも大勢おられます。

  教会にはいろんな人がいます。でも安心してください。みんなが罪人であり、そしてみんながイエスさまに愛され、イエスさまと共に歩んでいます。

あなたも今日そのような生き方に招かれています。この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。

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日曜礼拝(2018年7月1日)

2018-07-01 13:05:34 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第五)      2018.7.1

忘れられてラッキー」 創世記41:1~16

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。6月29日の金曜日に梅雨が明けました。29日の朝に、空を見ると青々としていて、「もう夏だなあ」と思いましたら、梅雨が明けたとニュースで言っておりました。6月の関東地区の梅雨明けは、初めてのようです。これから、本格的な夏を迎えます。健康に注意して、神様を疑うことに注意して、神様を信頼して、この月も歩んでまいりましょう。

 今日から早朝礼拝が始まりました。暑い夏の朝早く、さわやかな環境で礼拝をささげてみてはいかがでしょうか。今日の早朝礼拝もさわやかでした。

 今日は、創世記41章1節から16節を通して、「忘れられてラッキー」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、主は確かに共におられる

 ヤコブには子どもは、12人おりますが、その中でも特にヨセフをかわいがりました。それは、4人の妻のうち、一番愛した妻の子どもであり、年老いて生まれた子どもだったからです。ヨセフは小さい頃、お兄さんたちの事を父に告げ口したり、父や兄が自分の前にひれ伏すというような夢を見て、その内容を語ったりしました。また、父は他のどの兄弟よりもヨセフをかわいがり、大切にして、特別な服を着せたりしたので、兄たちはヨセフを憎み、ヨセフに対して穏やかに話すことができませんでした。

 現在、他の小さな子どもは、かわいがり、一人だけ虐待するというような事件があります。ヨセフとは、まったく逆の事柄ですが、親としていかがなものかと問われるのですが、親も人間であり、弱い存在であることがわかります。子どもを育てるのにも、神様の助けが必要なのだと思うのです。

 ヨセフと兄たちの関係は、そのようにあまり良い関係ではありませんでしたので、兄たちは、ヨセフをエジプトに売り飛ばしてしまいました。ヨセフは奴隷としてエジプトに連れて行かれ、エジプト王ファラオの宮廷の役人、侍従長のポティファルという人に買い取られました。自分の国から遠いエジプトに奴隷として売られたヨセフでしたが、聖書は、「主がヨセフと共におられた」(39:2)と記しています。だから、主が共におられたので、彼のすることは主人に認められ、主人は、家の管理、財産の全ての管理をヨセフに明かせるほどになったのです。

 しかし、主人の妻からいいよられ、それを避けていたのですが、主人の妻の嘘によって、ヨセフは監獄に入れられたのです。けれども、聖書は、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し」(39:21)とあります。主が共におられたのですが、主人の妻の罠や嘘からは守られませんでした。けれども、その困難と苦しみの中に、主は共におられ、痛みを経験するのですが、神様のヨセフに対する計画は着々と進むのです。私たちの信仰生活においても、主は共におられます。しかし、苦しい事や悲しい事を経験します。それは、神様が共にいて下さらないのではなく、私たちにはわからなくても、神様の私たちの対する計画、祝福の、恵みの計画が進められているのです。そのことを信じたいと思うのです。

 

 二、全てが整ってなくてもいいのです

 ヨセフの入れられた監獄は、王の囚人をつなぐ監獄でした。それは、ヨセフが王の役人、侍従長のポティファルの家で仕えていたからでしょう。王の囚人をつなぐ監獄に入れられたからこそ、神様の次の計画が生きるのです。神様はヨセフと共におられたので、この監獄の中でも、看守長の目にかなうように導かれました。看守長は、囚人を皆、ヨセフに委ねたので、監獄の中ではすべてヨセフが取り仕切るようになったのです。監獄の中にも、神様が共におられ、全てを最善に導かれたのです。

 神様が共におられるとは、環境が全て整っているということもありますが、環境がまったく整っていない場所でも、神様は共におられ、神様のみ業を行われるということです。私たちは、環境が整ったら、良い状態なら、条件が良ければ、うまくいくと思います。しかし、神様には、条件も、環境も、場所も、状況も関係ありません。どんなに悲惨な場所でも、落ちる所まで落ちたとしても、そこを恵みの場所として下さるのです。神様が共におられるということを信じられない場所にも、必ず共にいて下さるのです。状況は良くならなくても、神様は共におられ、あなたを支え、あなたを守り、あなたを導いて下さるのです。

 ヨセフのいた監獄に、エジプト王の給仕役の長と料理役の長が過ちを犯して、入れられました。そして、二人ともに夢を見ました。しかし、その夢の意味がわからないので、落ち込んでいたのです。ヨセフは二人に落ち込んでいる理由を聞き、夢を解き明かしてくれる人がいないことを知ります。その時、ヨセフは「解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください。」(40:8)と言ったのです。給仕役の長が夢を話すとヨセフは、三日目に王は給仕役の長をもとの職に戻すことを解き明かし、給仕役の長が元の職務に戻ったら、ヨセフのことを思い出し、ファラオ王に無実の罪で監獄に入れられたことを告げて下さいと頼んだのです。監獄から出る唯一のチャンスをヨセフはつかもうと考えたのです。給仕役の長に大いに期待したのです。同じように料理役の長も夢を話しましたが、三日目に木にかけられる、死刑にされると解き明かしたのです。そして、ヨセフが解き明かした通りに、給仕役の長は職に復帰し、料理役の長は木にかけられたのです。創世記40章23節には、「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」とあります。ヨセフはあれだけお願いしたのに、給仕役の長は忘れてしまったのです。ヨセフは、たったひとつの希望も失ってしまいました。しかし、この忘れられた、ということが大きな恵みとなるのです。忘れられてラッキーだったのです。

 

 三、神様があなたを忘れることはないのです

 創世記41章1節には、「二年の後」とあります。ヨセフが給仕役の長に忘れられたから2年たったのです。エジプト王ファラオが夢を見たのです。不吉な夢です。恐ろしい夢です。恐ろしければ、恐ろしいほど、その夢の意味が気になります。王は、この夢の意味することを知りたいと思いました。そして、エジプト中に偉人を呼び集めて、自分の見た夢を話し、その夢の意味を解き明かすようにと命令したのです。王宮は大騒ぎになりました。

 9節です。「そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。」」 例の給仕役です。ヨセフに自分の事を取り計らってほしいと頼まれた例の給仕役の長です。思い出したんです。ヨセフのことを。一番大事な時にです。ここぞ、という時にです。2年前に思い出してはいけなかったのです。忘れられてよかったのです。忘れてもらった方がよかったのです。この2年間、ヨセフにとっては、苦しみの、嘆きの、辛い2年間だったでしょう。しかし、この2年間で、ヨセフも神様に取り扱われたのに違いないのです。詩篇105篇19節には、「主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで。」とあります。口語訳聖書には、「彼の言葉の成る時まで、主のみ言葉が彼を試みた。」とあります。リビングバイブルには、「しかしこれこそ、ヨセフの忍耐を試す絶好の機会となりました。」とあります。

 この2年間は、ヨセフをさらに整え、人間的にも整えたのでした。ヨセフは早速、王の前に呼び出され、ヨセフは王に答えました。16節です。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」 かつて、給仕役の長はヨセフの解き明かした通りになりました。自分の力に頼ってもおかしくはありません。神様は、このように特別な賜物を与えられたヨセフを2年間、さらに整えたのです。王の前に引き出される前にです。

 かつて、給仕役の長、人に頼って絶望しました。人に頼ることのはかなさを知りました。いつでも、どんな時も、神様だけに信頼することを覚えたのです。彼は王の夢を解き、7年の豊作と7年の大飢饉に備えて準備することを提案し、ヨセフこそが、この件を解決できる人物として、全国のつかさ、王に次ぐ人物となったのです。2年前に、忘れられたからこそ、今があるのです。忘れられた方がよかったのです。それも神様の導きでした。

 私たちの信仰生活において、忘れられたり、落ちこぼれたり、リタイヤしたり、マイナスに見えることを経験します。しかし、それはマイナスなのではなく、神様のみ業なのです。そして、私たちを謙遜にし、整え、神様のみを信頼することを学ぶ時なのです。ですから、目に見える所が、どんなに悲惨でも、そのことを益に変え、恵みとして下さる神様を信じて、神様に信頼して歩もうではありませんか。

 Ⅲ結論部

 神様はヨセフの人生を最善に導かれました。いつも共におられました。しかし、苦しみや悲しみを、絶望を経験しました。しかし、全ての事柄の中に神様の導きを見ることができるのです。私たちの信仰生活においても、イエス様が共におられます。しかし、苦しみや悲しみ、痛みを経験します。その悲しみや苦しみは喜びに変えられるのです。私たちを救うために、私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。私たちをここまで愛されたイエス様が共におられます。そして、最善に導いて下さるのです。このお方は、あなたを忘れることなど決してないのです。大丈夫、私が共にいる、と言われるイエス様のことばを信じて、イエス様を信頼して、この暑い週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。

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