日曜礼拝(三位一体後第九) 2018.7.29
「絶望が希望に変わる」 ルツ記1:18~22.2:20~23
Ⅰ導入部
おはようございます。7月第五日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。
台風の影響で随分と涼しくなりました。大変な暑さが続き、体調を崩しておられる方々やいろいろな体の変化で苦しんでおられる方々もおられるようです。
先週の理事会で火曜日の朝ホテルで、五時過ぎに起きると右の腰の上の背中に激痛が走りました。しばらくすると、呼吸が困難になり、これは救急病院に行くしかない、電話で状態を話すと「それは整形ですね。現在、整形はお断りしています。」言われてとどうしようもなく、理事会開始まで、待ち理由を説明して理事会を早退させていただき、家に帰り病院に駆けつけました。
家内が、それは石のせいじゃない、と言うので、その時の痛みに近いので、泌尿器科でCT画像を撮り、結果石はなく、内科に行き、CT画像を見て、内臓にも問題はなく、整形外科でレントゲンを撮り、特に問題ない。「どうしてこんな激痛があるのですか。」「疲れが溜まり、突然にきたのでしょう。同じ姿勢を続けないで、体をほぐしてください。」と、それで痛み止めとシップ薬をもらいました。原因のわからない痛みは不気味です。今も息を吸うと痛いので、生きるのがつらい日々を送っております。
なぜ、このような痛みが与えられたのか、理由はわかりませんが、そこに、深い神様のおこころがあることだけはわかります。私たちは、いろいろな出来事を経験し、絶望を経験します。しかし、私たちの信じる神様は、絶望を希望に変えて下さるお方なのです。
今日は、ルツ記1章18節から22節と2章20節から23節を通して、「絶望が希望に変わる」という題でお話しします。
Ⅱ本論部
一、全ての事を相働かせる神
ルツ記は、士師が世を治めていた、と1章1節にあります。士師記の最後の言葉は、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(ルツ記21:25)とあります。物事の善悪を各自が自己中心的に判断していた時代。つまり、神様を信じる信仰が失われ、自分勝手な生き方、暗黒の時代であったのです。その時代を象徴するかのように、ナオミの人生にも、困難が訪れるのです。
ナオミの夫エリメレクは、住んでいたベツレヘムが飢饉になったので、妻のナオミと二人の息子、マフロンとキルヨンを連れてモアブの地に移り住みました。モアブの地には食べ物が豊富であると聞いたのでしょう。しかし、夫のエレイメレクは、モアブの地で死にました。マフロンとキルヨンはモアブの地でオルパとルツという女性を妻にしましたが、10年たち、マフロンとキルヨンも死んでしまったのです。
ナオミと二人の嫁が残されました。女性3人では、生活も大変です。その頃、イスラエルの国を、神が顧みて下さったということを聞き、故郷に帰ることを決心します。ナオミは、故郷に帰る途中に、二人の嫁に、自分の国へ帰り、結婚して幸せな家庭を築くことを勧めます。二人は声をあげて泣き、ナオミと一緒に行くと言います。ナオミは、このままついてきても、再婚できる可能性はない事、そして、あなたたちもつらいでしょうが、私の方がつらいのだと語ります。そして、彼女は言います。「主の御手がわたしに下されたのですから。」(1:13)二人は声をあげて泣きました。そして、オルパは、ナオミの言った通りに自分の国へ帰って行ったのです。
しかし、ルツはナオミにすがりついて離れなかったのです。ナオミは、相嫁は帰って行ったから、あなたも後を追いなさい、とルツに言います。けれども、ルツは帰れとひどい事を言わないでください。あなたのいかれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神は、わたしの神。そして、彼女は言います。「あなたの亡くなる所でわたしも死に/そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」(1:17)
18節にあるように、ルツの気持ちが固いので、ナオミは、ルツと共に故郷に帰ることにしたのです。ナオミは、ルツを嫌って追い返したわけではありません。彼女の幸せを願っての事でした。しかし、ルツにとっては、自分の生まれ故郷モアブに帰り、幸せな結婚生活をすることではなかったのです。マフロンと結婚し、ナオミと共に生活する中で、生ける真の神を信じる家族、ナオミと接し、ルツも同じ信仰を持ったのです。「あなたの神は、わたしの神」と告白しています。ルツは、この神様を信じ、ナオミに仕えることを喜びとしたのです。
私たちも、神様の導きの中で、イエス・キリスト様に出会い、救いを体験しました。イエス様を信じ、今置かれた所で、その人々に仕えることを喜びとしたいのです。
二、苦しくったって神様は共にいる
そのようにして、ナオミとルツはナオミの故郷にたどり着きました。ナオミにとっては、10年ぶりです。ですから、町中が二人のことでどよめいたとあります。ナオミを知っている人々は、ナオミさん、ナオミさんと声をかけました。久しぶりですから、周りの人々も驚いたことでしょう。モアブの地に食べ物があると家族4人で出て行ったあのナオミ。見知らぬ女性と二人、ご主人と息子さんたちは、どこ?と感じたでしょう。自分のことを知っている近所の人々に、ナオミは言います。
20節のカッコです。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」 ナオミの名前はナオミですから、みんなはナオミさんと呼びます。けれども、ナオミ、ナオミと呼ばれる度に、その名前の意味、「快い、快い、心地よい、心地よい」と言われるので、ナオミは、快いとは呼ばないで、苦い(マラ)と呼んでほしいと言うのです。なぜなら、全能者が、神様がわたしをひどい目に遭わせたからだと言うのです。新改訳聖書や口語訳聖書には、「わたしをひどい苦しみに遭わせた。」とあり、前の新改訳聖書では、「全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。」とあります。リビングバイブルでは、「だって、全能の神様に、ずいぶんつらい目を見させられたんだもの。」とあります。
21節を共に読みましょう。「出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」 口語訳聖書には、「主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、」とあります。新改訳聖書には、「【主】は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられましたのに。」とあります。リビングバイブルには、「神様に見捨てられてこんなに禍(わざわい)をこうむったあたし」とあります。
ナオミは、モアブの地へ希望をもって出かけて行った。愛する夫と愛する二人の息子と共に。しかし、夫も息子たちもモアブの地で死んでしまった。全能なる神様は、私を悩ませ、不幸に落とし、災いをくだし、卑しくし、つらい目にあわせ、見捨てられた。私はナオミ、快い、心地よい状態ではなく、苦しみしかない。だから、マラと呼んでほしい、とナオミの正直な思いでした。
ナオミの言葉を聞いた近所の人々も、夫や息子たちがいないことで、亡くなったということを薄々感じたでしょう。何があったのか、と詮索したのかも知れない。ただ、ナオミの表情や状態を見て、苦しみと悲しみを経験して戻ってきたと知ったのだと思うのです。
私たちも、人生の中で、信仰生活の中で、苦労を経験します。勉強、結婚、子育て、介護する、されることを通して、生活や健康について、信仰について、苦しい事や悲しい事、痛い事を経験します。私たちは、クリスチャンとして、神様を信じる者として、「神様を信じたら大丈夫。」と言えない、言いたくないような苦しいを経験することがあるのです。
ナオミのように、神様が自分を不幸にされた。悩ませた。災いをくだされた。卑しくし、つらい目に遭わせ、見捨てられたかのような苦しい経験を、私たちも神様に見捨てられたに違いないという状況を経験することがあるのです。しかし、それは、神様の目が注がれていないことを意味しません。神様の愛が注がれていないことを意味しないのです。それでも、なお、神様はナオミを愛し、私たちを愛しておられるのです。
三、神の恵みは惜しみなくあなたにも注がれている
ナオミを知る人々は、彼女に声をかけてくれましたが、生活の面倒を見てくれるわけではありません。ナオミも自分の生活は自分で何とかしなければならないのです。ですから、嫁のルツは、落ち穂拾いをすることを彼女に伝え、落ち穂拾いに出かけるのです。
落ち穂拾いは、律法で決められた生活保護のようなものです。レビ記19章9節、10節には、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」とあります。
ルツが落ち穂拾いした畑は、ボアズという人の畑でした。律法には、「これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」と言っても、やはり、畑の所有者によって、落ち穂拾いする人を痛めつけたり、追い払ったりする所有者もいたことでしょう。この畑の所有者ボアズは、一生懸命に働くルツに目を留めます。そして、ルツのことを監督に聞きます。ボアズは、ルツに声をかけ、自分の所で働くように、喉が渇いたら、水がめから飲んでいい事を告げます。ルツは感謝を現します。
食事の時になると、ボアズはルツに声をかけ、パンを食べるように、パンを与え、また、いり麦も与えたのです。たくさん、もらったルツは食べきれなかったのです。
仕事が始まると、ボアズは若者に、麦束の間でも拾わせるように。止めないように。それだけではなく、わざと落として拾わせるように、と言います。リビングバイブルには、「くれぐれも、あの女(ひと)のじゃまはせんようにな。束の間でも落ち穂を拾わせてやりなさい。そして、もっと拾いやすいように、わざと大麦の穂を抜き落としておくがいい。つべこべ言ってはならんぞ。」(2:15-16)とあります。
ルツが集めた落ち穂は、1エファ、つまり、23リットルという、驚きの量でした。家に帰り、その量に驚いたナオミはルツに、どこで落ち穂を拾ったのかと聞きました。ルツがボアズという名前を出したとたんに、狂わんばかりに喜んだのです。
20節のカッコを共に読みましょう。「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」
ナオミはモアブでの10年間、夫と息子を失い、人生の希望を失い、神様に悩まされ、不幸にされ、卑しめられ、災いをくだされ、つらい目に遭わされ、見捨てられたと思っていた。でも、神様はわたしを覚えて下さり、見捨てられなかった。見捨ててはおられなかった。覚えていて下さった。祝福を用意しておられたことがわかったのです。夫も息子たちも死んだ。だから、自分たちの土地は失われた。けれども、夫の親戚のボアズが嫁のルツに目を留めてくれた。神様は、死んだ人、夫と息子たちの家を絶やさないために、今生きている私やルツのために、ボアズの畑に導かれ、驚きの好意を得たのでした。ナオミやルツの努力や頑張りではない。神様の憐れみ、恵み以外には考えられないのです。
同じように、私たちの努力や頑張りで私たちは救われたのではありません。ただ、神様が私たちを愛して、神であるイエス様を人として人間の世界に送り、私たちが受けるべき罰を十字架の上で身代わりに受けて下さり、私たちの罪のために尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったので私たちの罪が赦されたのです。イエス様は死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、死者の初穂となり、私たちに永遠の命、天国の希望を与えて下さったのです。死んで終わりという絶望から、死んでも生きる希望をイエス様を通して与えて下さったのです。
Ⅲ結論部
私たちの現実の生活は、信仰さえあればいい。信仰があれば何でもうまくいく、成功するとは限りません。ナオミ自身が経験したように、飢饉も経験し、夫に従いモアブの地で、愛する夫と二人の息子を失いました。あの選択、モアブ行きが間違っていたのではないか、とナオミを苦しめたのかも知れません。ベツレヘムにとどまっていたら、夫も息子も死なずにすんだかも知れない、と過去を悔やんだでしょう。ナオミは、夫や息子を失い、生きる手段や権利も失いました。けれども、神様は、ルツという嫁を通して、彼女自身の信仰を通してナオミに祝福を用意しておられたのです。
ルツがしたことは、最も貧しい人々に約束された落ち穂拾いでした。そのルツをボアズの畑に導かれたのは神様です。そして、ボアズの目に止まり、好意を寄せ。結婚へと導き、
救い主イエス様の系図の中に入れられることになるのです。驚きです。神様はナオミの絶望を希望に変えて下さったのです。
私たちが今置かれている場所、環境は、神様に災いを与えられたかのような、不幸な状況、いじめられているような、つらい目に遭わされ、完全に神様に見捨てられたかのような悲惨な所かも知れません。しかし、神様は、あなたのその状況をそのままにはしないのです。あなたの絶望がイエス・キリスト様を通して希望に変わるのです。
「神様、ありがとうございます。神様のお恵みは、あんたが夫を亡くした時におわったんじゃなかったわ。ずっとお恵みは注がれていたんだねえ。」 ナオミは、神様のみ業を体験したのです。私たちも、今週、今がどのような困難な所に置かれていても、イエス様が私たちを助け、祝福し、導いて下さることを信じて歩んでまいりましょう。