江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年3月10日)

2024-03-10 12:49:05 | Weblog

日曜礼拝(受難節第四)       2024.3.10

          「裏切りと愛」 ヨハネ13:21~35

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第二の日曜日を迎えました。受難節の第四日曜日になります。寒さの中にも、桜の開花の日が3月後半になりそうだということで、もう春がそこまで来ているという感じです。受難節の中で、イエス様の十字架の苦しみを覚え、私たちの罪のために尊い血を流し、命をささげて下さった愛を思いつつ、その先には復活の望みがあります。今日は、受難節の中にあって、復活を記念とする日曜日です。心からの感謝と賛美をもって礼拝をささげたいと思います。 明日は、3月11日です。東日本大震災が起こり13年が経ちます。13年が経過しましたが、さらなる神様の回復とお守りをお祈りいたしますし、今被災の中にある能登地震の被害者の方々のために祈りをささげたいのです。

 今日は、ヨハネによる福音書13章21節から35節を通して、「裏切りと愛」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、裏切りの心には誰にでもあること

 今日の個所は、先週と同じ最後の晩餐の席での出来事です。13章の前半では、イエス様は、御自分の愛を示すために、弟子たちの一人一人の足を洗われたのです。13章11節では、「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。」とあり、裏切る者が誰かを知っておられたのです。イエス様が、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた。」中で、イスカリオテのユダの裏切りをヨハネによる福音書は伝えるのです。

 イエス様は、ユダの名前は出しません。裏切りの予告をされるのです。21節には、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」」とあります。「心を騒がせ」は、新改訳聖書第三版では、「霊の激動を感じ」とあり、リビングバイブルには、「込み上げる霊の悲しみを抑え、」とあります。約三年半、イエス様は弟子たちと寝食を共にし、神様の働きをしてきたのです。仲間である弟子にイエス様は裏切られるのです。愛する者に裏切られるのです

イエス様が心騒がせているのは、自分の恐れや不安の為ではなく、ユダを心から愛しているので、そのユダがイエス様から離れ、滅びようとすることに無関心ではおれないのです。

愛する弟子に裏切られるのですから、イエス様は、心を騒がせたのです。霊の激動を感じ、こみ上げる霊の悲しみを抑えるようにして、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と裏切りの予告をされたのです。愛する者を失うことは、本当に辛く悲しい事でが、愛する人に裏切られるということはまた、とてもつらく悲しい事です。イエス様は、ユダを心から愛していたので、ユダの裏切りはとてつもなく、悲しく辛い事でした。イエス様が食事の席で立ち上がり、弟子たちの足を洗われた出来事に弟子たちは、驚きましたが、イエス様の裏切り者の予告には、さらなる驚きと不安があったのです。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」という12人の弟子の中で裏切り者がいるというのです。相棒というドラマがありますが、一つの部屋に数人が集められ、「この中に犯人がいます。」と杉下右京さんが話す場面のようです。

22節には、「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」とあります。ユダも他の弟子たちの顔を見たのでしょう。マタイによる福音書26章22節には、「弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」とあります。ルカによる福音書22章23節には、「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」とあります。弟子たちは、まさか自分ではとか、議論したということは、誰もが裏切り者になり得るということを自覚していることを示しているようにも思えるのです。

 23節から25節には、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、」とあります。弟子のヨハネは、イエス様の右隣に席があったようですので、ペトロが「だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。」のです。その名前がイエス様の口から発せられた途端に、ペトロは、その弟子に馬乗りになり攻撃したでしょう。もしかしたら殺してしまうのかも知れません。ペトロも、この後イエス様を知らないと裏切ることになるのですが。

 イエス様は、大事な最後の晩餐の席で、どうして弟子たちが不安になるような発言をしたのでしょうか。イエス様には裏切り者のユダを断罪するつもりはありませんでした。イエス様の衝撃的な発言は、人間である以上、誰にでも裏切りということがあるのだ、ということを示しているように思うのです。他の平行個所では、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」とありましたから、ユダ以外の弟子たちも、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」という言葉によって、自分の心にもイエス様を裏切るかも知れないという思いがあったということでしょうか。そして、私たちにもそのような思いが潜んでいないとも限らないこと、人間の弱さを私たちも持っていることを覚えたいと思うのです。

 二、私たちにはイエス様の愛を受ける自由も拒む自由も与えられている

 ヨハネの問いにイエス様は答えます。26節です。「イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」とあります。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」とありますが、過ぎ越しの食事の中で、ハロセットと呼ばれるもので、レンガを表す色を出すために、リンゴやナッツ、蜂蜜などを入れ、そこに種なしパンを入れ、それをユダに渡されたのです。この行為は、犯人を見つけるというものではないようです。食事の主人が、パン切れを浸して客に与えることは人間に対して行う最も栄誉のあることでした。また、イエス様がユダにパン切れを差し出したのは、「裏切る思いを知っている」ということで、命を捨てるほどに、あなたは大切な人という意思表示のようで、「あなたはわたしの兄弟、わたしはあなたのために喜んで死にます。」という意味があるようです。ユダに対するイエス様の愛の現れだと思うのです。

 また、「浸す」という言葉は、ヨセフの兄弟たちが、ヨセフが獣に殺されたことにするということで、「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。」

(創世記37:31)とあり、「殺してその血に着物を浸した。」という「浸す」で、殺され、血を流すことを指しているようで、ユダの裏切りがイエス様を十字架の死に至らしめるのであることを指しているようです。27節には、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。」とあります。イエス様が差し出したパン切れは、ユダが受け取るか、受け取らないかを問うていました。最後のチャンス、ファイナルアンサーでした。イエス様のもとにとどまる可能性を残されたのです。ユダがパン切れを受けたことは、イエス様の愛と悔い改めを拒み、裏切るということを選んだということです。

 「サタンが彼の中に入った。」とあります。ユダの裏切りは、サタンの働きでした。しかし、ユダは、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」(ヨハネ12:6)とあるように、お金に対する執着心がユダの弱さであり、会計係を任されていましたが、預かったお金をごまかして、自分のものにしていたのです。ユダの弱い所に、サタンが付け込んだのでした。ユダの思いは、イエス様がイスラエルの王として君臨し、自分はその弟子として高い地位につき、経済的な祝福が与えられるということだったでしょう。しかし、イエス様の関心は、弱い人々や貧しい人々、病める人々でしたので、ユダの思いは満足できずに、イエス様が自分とっては、役に立たない存在だと判断したのです。ユダは、イエス様を裏切りますが、ユダから見れば、むしろ自分こそイエス様に裏切られて、夢や希望を台無しにされた被害者だという思いで一杯だったでしょう。太宰治の「駆け込み訴え」という小説は、ユダの目からイエス様を描き、ユダの満足いかないイエス様の態度や言葉に、自分が裏切ることにするのでした。

 イエス様は、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われました。イエス様は「とどまりなさい。」と言って、ユダの手をつかんで、とどめませんでした。ユダの裏切りを甘んじて受けようとするイエス様の決意なのでしょう。人間には、神様の愛を受け取る自由も拒否する自由も与えられているのです。イエス様は無理やり従わせようとはなさいません。ユダが自分の意思でご自分のもとにとどまることを望んでいたのでしょう。イエス様の言葉は、他の弟子たちには意味が分からず、ユダに用事を頼んだぐらいに思っていたのです。30節には、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」とあります。イエス様の命がけの最大の愛に対して、それを拒み去って行くことが暗闇、夜なのです。

 三、イエス様に愛されたように愛し合う

 新共同訳聖書の31節の前には、「新しい戒め」という表題があります。新しい戒めは、ユダが出て行った後に語られたものです。30節に「夜であった。」とありますが、単に時刻を表したものではなく、光がない時、全てが闇に閉ざされる時、希望がなく、目標や目的が失われるのです。十字架を前にして、そういう暗闇を迎える所で、イエス様は弟子たちに語られるのです。私たちも、暗闇や絶望を経験する時があります。しかし、そのような絶望を経験する時にこそ、聞くべき言葉があるのです。そのような時でしか、味わえない恵みというものが確かにあるのです。祝福の時にも失う命があり、失意や病気、絶望の中にこそ輝く命が確かにあるのです。

 31節、32節には、「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」とあります。「栄光」とは、与えられるもの、受けるものであるということです。栄光は、自分自身で獲得したり、奪い取るというものではありません。父なる神様が、御子イエス様によって、栄光を受けられ、御子イエス様は父なる神様によって、栄光をお受けになるのです。父なる神様と御子イエス様は、栄光を与え合う関係にあるということです。栄光を受けるとは、罪を背負う十字架につけられれるということです。

 34節、35節には、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」」とあります。イエス様は、互いに愛し合うことを「新し戒め」と言われました。今までにも愛するということはあったでしょう。レビ記19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」とあります。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのです。先生であり、主であるお方が、弟子たちの足を洗うという形で愛されたように、「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われるのです。しかし、私たち人間には、もともと愛はありません。イエス様が十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下って新しい時代を開いて下さいました。だからこそ、私たちはイエス様が私たちを愛して下さったように、私たちが愛し合う世界が訪れたのです。それは神様の恵みなのです。私たち人間の側の努力ではなく、神様の業である十字架を通して神様に愛されていること、イエス様に愛されていることを知る時に、おのずと隣人を愛せるように神様が導いて下さるのでしょう。愛さなくてはならないと努力するのではなく、イエス様に出会い、イエス様に触れられる時、イエス様の愛が私の上に注がれていることを感じるとき、私たちは隣人を愛さずにはおれなくなるのです。イエス様は、ご自分を裏切るユダをどこまでも愛されました。裏切られても裏切られても、イエス様は愛さずにはおられないお方なのです。相手の態度で変わるお方ではありません。その愛でイエス様はユダを見つめ、その愛で私たちを見つめていて下さるのです。この愛で愛されていることを信じ、感じて私たちが愛し合うならば、私たちがイエス様の弟子であること、イエス様を信じる者であること、クリスチャンであることを知るようになるとイエス様は約束されたのです。「あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認める」と口語訳聖書や新改訳聖書は記してあります。ユダの裏切りは、イエス様にも弟子たちにも、この後大きく影響するのでしょう。ペトロの裏切りも、他の弟子たちが逃げてしまうことも大きなことです。しかし、それがどのように大きなものであっても、神様の愛、イエス様の愛の前には小さなものに過ぎないのです。私たちは自分の罪深さ、弱さ、醜さを痛いほどに感じますが、それ以上に、神様の愛の深さ、愛の大きさ、愛の広さを強く体験したいと思うのです。

 Ⅲ結論部

 ユダの心は、サタンに支配されていたので、イエス様の洗足の出来事、仕え合うという教えを聞いた時、余計に心が離れたようにも思うのです。これ以上ついていけないという思いがあったのでしょう。「サタンが彼の中に入った。」とはそういう意味もあるのでしょう。イエス様は、ユダを愛するがゆえに心を騒がせる中、ユダを責め、問い詰めることもなく、出て行かせたのです。イエス様は、愛する者にそむかれるという苦しみを味わう中で、ユダが再び帰ってくる余地をあちこちに残しておられたのです。かつてクリスチャンであった人々は、信仰から離れ、教会から離れている方々が多くおられます。イエス様は、その方々がイエス様から離れて行かれたことを苦しみ味わわれました。ご自分の尊い血を流し、命をささげたことに痛みを覚えておられるのでしょう。しかし、イエス様は、その方々をなお愛し続け、愛し抜かれるお方なのです。イエス様は、今も、いつまでもあなたを待っておられるのです。

 弟子たちの群れは、この世と変わらない裏切りや世的な祝福を願った集まりでした。聖い人たちの集まりではありませんでした。しかし、この世の集まりと違うのは、イエス様がそこにおられた。イエス様が中心におられたということです。キリスト教会は聖人の集まりではありません。そこには、この世と同じような、つまずきやえこひいきや分裂や裏切りさえもあるのかも知れません。裏切りというは、仲の悪い者同士や敵対する間には存在しないのです。信頼関係があり、愛のある所に裏切りは存在するのです。

 私たちは、ユダのように、自分の思い通りにならないこと、祈りが答えられないこと、祝福されないことで、イエス様を必要ないと切り捨ててしまうのでしょうか。たとえ私たちがイエス様を切り捨てようとも、イエス様の愛は変わらずに私たちに注がれ続けているのです。イエス様はそんな私たちをさえ、愛してやまない、この上なく愛し抜かれるお方なのです。何があっても、このイエス様の愛を疑わないでいたいのです。何があろうとも、絶望を経験しようとも、イエスの愛を信じて、愛をいただいて、互いに愛し合う者として生き、愛し合うことを通して、キリスト者であることを多くの人々に認めていただきたいのです。私たちはイエス様に愛されていること、私たちはイエス様に愛されるために生まれたことを覚えて、信じて、イエス様と共に今週も歩んでまいりましょう。

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