日曜礼拝(棕櫚の主日・受難週) 2018.3.25
「血に飢えた神」 マタイ27:32~56
Ⅰ導入部
おはようございます。受難節第六日曜日、棕櫚の主日、受難週を迎えました。今日も皆さんと共に、礼拝をささげることができますことを感謝致します。
先週の水曜日には、中谷信希先生と後藤モニカ先生の結婚式が行われました。とても寒い日で、雪がふりました。桜の花がちらほらと咲いて、これから春を迎えようとする春分の日に、寒い寒い日でしたが、それだけに、また思い出に残る結婚式だったと思います。神様がお二人に、この結婚式を、結婚の誓いを忘れないように、多くの方々が祝福して下さったことを感謝できるようにと、季節外れの寒さを、雪を与えられたように思うのです。思い通りにいかない時、いつもとは違った状況は、大変な苦労や思いはしますが、それは、また、神様の恵みの時、必要な導きだったと思うのです。
木曜日は、15日の早朝に天に召されました故経田悦子姉の告別式が行われました。愛する妻を、愛する母を亡くした父親と二人の兄弟、親族の上に、神様が聖書の言葉を通して、そして、魂の救いと罪の赦し、永遠の命の恵みを語らせていただきました。ご遺族の上に、神様の豊かな慰めとお支えがありますようにお祈りください。結婚式と告別式を続けて行ったのは、31年の牧会伝道では初めてでした。
私たちの人生には誕生があり、死があります。聖書を通して示された救い主イエス様にも死がありました。罪のないお方が、神であるお方が死を経験しなければならない。それは、あってはならないことですが、父なる神様のお心は、全人類の罪の身代わりに、イエス様が十字架で死ぬことでした。今日は、マタイによる福音書27章32節から56章を通して、「血に飢えた神」と題してお話しします。
この説教題は、岩井姉が書いて下さいましたが、「血に飢えた神」という題をなかなか書けなかったとお話しくださいました。神様に対して血に飢えたという表現はあまりしません。血に飢えた狼とか、血に飢えた殺人鬼とは表現しますが、「血に飢えた神」とは表現しないでしょう。十字架のイエス様の苦しみ、流された多くの血、それを父なる神様はじっと見ておられた。イエス様を見捨てられた。イエス様の血が流されるままにされた。そのように考えていると、「血に飢えた神」という題が生まれたのです。
今日は棕櫚の主日、イエス様がエルサレムに子ロバに乗って入城され、人々は棕櫚の枝を持ってイエス様を歓迎したのです。今日から受難週です。イエス様の苦しみを特に思う週です。そのことを覚えて、この週を送りたいと思います。
Ⅱ本論部
一、苦しみに会ったことはわたしに良い事となる
32節には、キネレ人シモンにイエス様の十字架を無理に担がせたことが記されています。シモンという人物は北アフリカの人で、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムを訪問した時、イエス様の十字架刑を執行するためにゴルゴタまでの道筋の中で、この群衆に出会い、イエス様は疲れて、十字架を負うことができないので、シモンが担がされたのでしょう。おそらく、シモンは立派な体格をしていたのではないでしょうか。たくさんのお金を使い、遠い距離をわざわざやって来て、あこがれのエルサレムでの過ぎ越しの祭りや礼拝をどれほど、楽しみにし、期待していたことでしょう。けれども、十字架刑の犯罪人の十字架を担がされるとは、なんという不幸なことかとシモンは感じたでしょう。
私たちの人生には、思いもしなかった出来事や自分の計画通りにはいかないこと、それ以上に、予想もしなかったいやなことや不幸を背負わされるということを経験することがあります。しかし、このシモンが不幸だと感じたこの出来事、犯罪人の十字架を担がされたという、この犯罪人とは、実は全人類の救い主イエス様であったことを後で知ったのでしょう。そして、救い主の十字架を担がせていただいて幸せだと変えられたのです。この時の出来事を通して、シモンは信仰を持ち、彼の子どもたちも信仰を持ったようです。マルコによる福音書15章21節では、「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキネレ人」と紹介しています。
シモンにとって、犯罪人の十字架を担がされた出来事は、一日も早く忘れたい出来事、不幸な、いやな出来事でしたが、それが、祝福、恵みの業であったことを知らされ、喜びと感謝に変えられたのです。私たちも嫌な事、辛い事、悲しい出来事を経験しますが、神様はそれを恵みに祝福に変えて下さるのです。
44節までは、十字架の記事で、11日にルカによる福音書を通して、見させていただいたので、ここでは割愛します。ルカによる福音書では、一人の犯罪人は自分の罪を認め、イエス様に信頼しますが、44節には、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とありますから、最初は、この犯罪人も同じように、イエス様を侮辱していたことがわかります。しかし、イエス様の言葉と態度を通して、変えられたのでした。
イエス様は、午前9時に十字架につけられました。そして、45節では、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」とあります。 午前9時、昼の十二時、午後三時と言えば、ユダヤ教では、祈りの時間です。祈る時です。イエス様が午前9時に十字架つけられ、昼の十二時に全地が暗くなり、午後三時まで続き、イエス様が亡くなられた。イエス様の十字架は、祈りであるかのように、祈りの時間が記されています。ですから、十字架が祈りと関係あるものだと聖書が語っているように思えるのです。イエス様の生涯が祈りの生涯であったように、私たちの信仰の歩みも祈りの生涯でありたいと思うのです。
二、イエス様の死が意味するもの
46節を皆さんと共に読みましょう。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
イエス様は、6時間の間十字架の上で、肉体的に、精神的に苦しまれました。そして、ご自分の命の火が消える前に叫ばれた言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。私たちも神様に見捨てられたのではないか、と感じる時があります。苦しみや悲しみ、絶望を経験します。そのような時、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問わざるを得ないことがあるかも知れません。けれども、私たちには、見捨てられても仕方のない理由がいくらでもあるように思うのです。ですから、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神様に訴えることが本当にできるお方は、見捨てられる理由が全くないお方、罪のないお方、忠実に神様に従ってこられたお方、イエス様以外には存在しないのです。
本当は、見捨てられるはずのないお方です。見捨てられてはならないお方です。絶対に父なる神様から見捨てられないのがイエス様なのです。けれども、ここには、父なる神様に見捨てられて十字架刑にされ、苦しんでいるイエス様の姿があるのです。この十字架刑を見物している群衆も、長老や律法学者、祭司長たちは、罪を持ちながら、自分たちの正義を振りかざして、罪のないお方、救い主イエス様を侮辱しているのです。けれども、イエス様を侮辱し、叫んでいるのは、私たちの姿なのです。「君もそこにいたのか」という賛美歌がありますが、まさに、私がイエス様を侮辱しているのです。
「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とあるように、自分の罪のために裁かれながらも、イエス様をののしる人間の姿は私たち一人ひとりの姿なのです。
本来、見捨てられるはずのないお方が見捨てられなければならないというからには、そこには、神様の深いお心、み心があるはずなのです。神様の特別な目的、ご配慮があるはずなのです。イエス様は、十字架の上で、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」
のです。51節には、「そのとき」とあります。新改訳聖書や口語訳聖書では、「すると、見よ」とあります。「そのとき」とは、どんな時なのか。「すると、見よ」とは、何を見るのか。イエス様が息を引き取られた時です。イエス様が死んだ時です。十字架の上でイエス様が死なれたその姿を見よなのです。救い主イエス様が父なる神様に見捨てられて、死んだ時、全ての事が成し遂げられた時に何が起こったのか。聖書は告げるのです。
51節、52節を共に読みましょう。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」 「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たのです。至聖所と呼ばれる場所がありました。この至聖所の前にかかっているのが、この垂れ幕でした。こ至聖所には誰も入ることができません。ただ、年に1度選ばれた大祭司が罪をあがなう犠牲の血をたずさえて入ることができました。それは、人間の犯した罪を犠牲によって赦していただくためでした。けれども、至聖所の垂れ幕が上から下まで裂けたということは、神様と人間を隔てていたものが無くなったということ、イエス様が十字架で流された血のゆえに、ささげられたその体、その死をもって私たちの罪が赦されたのです。年に一度ではなく、イエス様の犠牲のゆえに、いつでも神様の前に出ることが赦されたのです。それが、神様が考えられた目的、救いの道なのです。
三、罪の赦しのために流された血
また、墓が開いて、死人が生き返ったというのは、イエス様が死を克服されたたことを象徴する出来事です。このイエス様の死は、やがてイエス様のよみがえりにつながるものです。やがて、この復活の象徴は、三日の後に、現実となるのです。
イエス様は、父なる神様に見捨てられるはずのない方なのに、見捨てられたのです。神様に見捨てられるということは、罪ある者を意味しました。イエス様には、罪はありませんでしたが、罪となったのです。イザヤ書53章12節には、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。」とあります。リビングバイブルには、「彼は罪人の一人に数えられ、多くの者の罪を負い、罪人にために神にとりなした。」とあります。
また、コリント信徒の手紙第二5章21節には、「罪とは何のかかわりもないお方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」とあります。
50節には、「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」とあります。この言葉は、ヨハネによる福音書19章30節の言葉ではないかと言われています。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
「成し遂げられた」と言われたのです。新改訳聖書には、「完了した」とあり、口語訳聖書では、「すべてが終わった」とあります。リビングバイブルには、「何もかも終わった」とあります。罪のないお方が見捨てられるはずのないお方が、神様に見捨てられた十字架で罪とされ、裁きを受け血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったので、罪の問題は完了したのです。人間の罪の歴史に、終止符が打たれたのでした。
父なる神様と子なるイエス様はひとつでした。絶対に切っても切れない関係、見捨てない、見捨てられない関係であったのに、父なる神様はイエス様を見捨てました。見捨てる以外に、イエス様が十字架の上で、血を流さない限り、命を差し出さない限り、神様の救いの目的は果たされないのです。神様の救いの完成はないのです。
イザヤ書25章8節には、「死を永久に滅ぼしてくださる。」とあります。イエス様の十字架の死で、私たちの死を滅ぼされたのです。
父なる神様は、イエス様が十字架の上で流された血を見ておられました。いばらの冠をつけられた頭から血が流れ落ちました。両手両足を釘で打ち抜かれ、両手両足からも血が流れ落ちました。鞭打たれた背中や太ももや手の腕からも血が流れ落ちていたことでしょう。これでもかこれでもかと血が流れ落ちました。「パッション」という映画では、イエス様の体から血が次から次へと流れ落ちるシーンがありました。まさに、血に飢えたという表現が当たります。父なる神様は、神であるお方、罪のないお方、正しいお方が徹底的に血を流し、極限までの痛みを負うことを求められたのです。私たち人間の罪が赦されるためには、「血に飢えた神」でなければならなかったのです。聖書は、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(ヘブライ9:22) この言葉は、血に飢えた神を現しているように思うのです。新改訳聖書第三版では、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。血に飢えた神は、イエス様の血を求めることにより、私たち人間の罪を赦して下さったのです。
Ⅲ結論部
壮絶なイエス様の死にざまを見た異邦人のローマの百卒長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。その死様を見て、イエス様を神の子だったと告白しました。
15日の木曜日の朝、経田悦子姉は天に召されました。重い病気であると医者に言われた時、「大丈夫です。私はクリスチャンですから」と答えられたそうです。イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、永遠の命の望みを持っていました。けれども、何も何も食べられなくなってからは、本当に大変な歩みでした。肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、信仰的な苦しみ、霊的な苦しみと死を前にした歩みは大変なものでした。しかし、全てを神様にお委ねしたキリスト者としての歩みでした。壮絶な死でした。「大丈夫です。私はクリスチャンですから」と言っても、クリスチャンだから痛みがない。苦しみがないわけではない。けれども、最後の一息まで、家族と共に過ごすことを選択された。それゆえの、肉体的な苦しみは大きかったでしょう。しかし、神様を信じて、神様に自分の事も、御主人の事も、息子さんの事も全て神様にお委ねしたのです。彼女は息を引き取りました。死んだのです。けれども、死んで終わりの人生ではなく、「本当に、この人は神の子だった」と告白したローマの百卒長のように、イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、よみがえりの命をいただいて、神様のもとに召されてていかれたのです。その死にざまを通してイエス様を証されたのだと思うのです。
私たちは、血を流すこともあります。苦しみ悲しむこともあります。また、死を経験しなければならない。しかし、それらのことを通して、それでも、神様の大いなる救い、恵み、永遠の命をいただくことができるのです。来週は、いよいよイエス様がよみがえられたことを記念するイースターです。イエス様の苦しみと十字架の死を通して、復活の現実、望みがあるのです。この週は、受難週としてイエス様の十字架の苦しみを思いつつ、十字架の先には復活があることことを期待して、この週を歩んでまいりましょう。