江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年3月25日)

2018-03-25 10:32:31 | Weblog

日曜礼拝(棕櫚の主日・受難週)     2018.3.25

血に飢えた神」 マタイ27:32~56

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。受難節第六日曜日、棕櫚の主日、受難週を迎えました。今日も皆さんと共に、礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 先週の水曜日には、中谷信希先生と後藤モニカ先生の結婚式が行われました。とても寒い日で、雪がふりました。桜の花がちらほらと咲いて、これから春を迎えようとする春分の日に、寒い寒い日でしたが、それだけに、また思い出に残る結婚式だったと思います。神様がお二人に、この結婚式を、結婚の誓いを忘れないように、多くの方々が祝福して下さったことを感謝できるようにと、季節外れの寒さを、雪を与えられたように思うのです。思い通りにいかない時、いつもとは違った状況は、大変な苦労や思いはしますが、それは、また、神様の恵みの時、必要な導きだったと思うのです。

 木曜日は、15日の早朝に天に召されました故経田悦子姉の告別式が行われました。愛する妻を、愛する母を亡くした父親と二人の兄弟、親族の上に、神様が聖書の言葉を通して、そして、魂の救いと罪の赦し、永遠の命の恵みを語らせていただきました。ご遺族の上に、神様の豊かな慰めとお支えがありますようにお祈りください。結婚式と告別式を続けて行ったのは、31年の牧会伝道では初めてでした。

 私たちの人生には誕生があり、死があります。聖書を通して示された救い主イエス様にも死がありました。罪のないお方が、神であるお方が死を経験しなければならない。それは、あってはならないことですが、父なる神様のお心は、全人類の罪の身代わりに、イエス様が十字架で死ぬことでした。今日は、マタイによる福音書27章32節から56章を通して、「血に飢えた神」と題してお話しします。

 この説教題は、岩井姉が書いて下さいましたが、「血に飢えた神」という題をなかなか書けなかったとお話しくださいました。神様に対して血に飢えたという表現はあまりしません。血に飢えた狼とか、血に飢えた殺人鬼とは表現しますが、「血に飢えた神」とは表現しないでしょう。十字架のイエス様の苦しみ、流された多くの血、それを父なる神様はじっと見ておられた。イエス様を見捨てられた。イエス様の血が流されるままにされた。そのように考えていると、「血に飢えた神」という題が生まれたのです。

 今日は棕櫚の主日、イエス様がエルサレムに子ロバに乗って入城され、人々は棕櫚の枝を持ってイエス様を歓迎したのです。今日から受難週です。イエス様の苦しみを特に思う週です。そのことを覚えて、この週を送りたいと思います。

 

 

 

Ⅱ本論部

 一、苦しみに会ったことはわたしに良い事となる

 32節には、キネレ人シモンにイエス様の十字架を無理に担がせたことが記されています。シモンという人物は北アフリカの人で、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムを訪問した時、イエス様の十字架刑を執行するためにゴルゴタまでの道筋の中で、この群衆に出会い、イエス様は疲れて、十字架を負うことができないので、シモンが担がされたのでしょう。おそらく、シモンは立派な体格をしていたのではないでしょうか。たくさんのお金を使い、遠い距離をわざわざやって来て、あこがれのエルサレムでの過ぎ越しの祭りや礼拝をどれほど、楽しみにし、期待していたことでしょう。けれども、十字架刑の犯罪人の十字架を担がされるとは、なんという不幸なことかとシモンは感じたでしょう。

 私たちの人生には、思いもしなかった出来事や自分の計画通りにはいかないこと、それ以上に、予想もしなかったいやなことや不幸を背負わされるということを経験することがあります。しかし、このシモンが不幸だと感じたこの出来事、犯罪人の十字架を担がされたという、この犯罪人とは、実は全人類の救い主イエス様であったことを後で知ったのでしょう。そして、救い主の十字架を担がせていただいて幸せだと変えられたのです。この時の出来事を通して、シモンは信仰を持ち、彼の子どもたちも信仰を持ったようです。マルコによる福音書15章21節では、「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキネレ人」と紹介しています。

 シモンにとって、犯罪人の十字架を担がされた出来事は、一日も早く忘れたい出来事、不幸な、いやな出来事でしたが、それが、祝福、恵みの業であったことを知らされ、喜びと感謝に変えられたのです。私たちも嫌な事、辛い事、悲しい出来事を経験しますが、神様はそれを恵みに祝福に変えて下さるのです。

 44節までは、十字架の記事で、11日にルカによる福音書を通して、見させていただいたので、ここでは割愛します。ルカによる福音書では、一人の犯罪人は自分の罪を認め、イエス様に信頼しますが、44節には、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とありますから、最初は、この犯罪人も同じように、イエス様を侮辱していたことがわかります。しかし、イエス様の言葉と態度を通して、変えられたのでした。

 イエス様は、午前9時に十字架につけられました。そして、45節では、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」とあります。 午前9時、昼の十二時、午後三時と言えば、ユダヤ教では、祈りの時間です。祈る時です。イエス様が午前9時に十字架つけられ、昼の十二時に全地が暗くなり、午後三時まで続き、イエス様が亡くなられた。イエス様の十字架は、祈りであるかのように、祈りの時間が記されています。ですから、十字架が祈りと関係あるものだと聖書が語っているように思えるのです。イエス様の生涯が祈りの生涯であったように、私たちの信仰の歩みも祈りの生涯でありたいと思うのです。

 

 

 二、イエス様の死が意味するもの

 46節を皆さんと共に読みましょう。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 イエス様は、6時間の間十字架の上で、肉体的に、精神的に苦しまれました。そして、ご自分の命の火が消える前に叫ばれた言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。私たちも神様に見捨てられたのではないか、と感じる時があります。苦しみや悲しみ、絶望を経験します。そのような時、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問わざるを得ないことがあるかも知れません。けれども、私たちには、見捨てられても仕方のない理由がいくらでもあるように思うのです。ですから、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神様に訴えることが本当にできるお方は、見捨てられる理由が全くないお方、罪のないお方、忠実に神様に従ってこられたお方、イエス様以外には存在しないのです。

 本当は、見捨てられるはずのないお方です。見捨てられてはならないお方です。絶対に父なる神様から見捨てられないのがイエス様なのです。けれども、ここには、父なる神様に見捨てられて十字架刑にされ、苦しんでいるイエス様の姿があるのです。この十字架刑を見物している群衆も、長老や律法学者、祭司長たちは、罪を持ちながら、自分たちの正義を振りかざして、罪のないお方、救い主イエス様を侮辱しているのです。けれども、イエス様を侮辱し、叫んでいるのは、私たちの姿なのです。「君もそこにいたのか」という賛美歌がありますが、まさに、私がイエス様を侮辱しているのです。

 「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とあるように、自分の罪のために裁かれながらも、イエス様をののしる人間の姿は私たち一人ひとりの姿なのです。

 本来、見捨てられるはずのないお方が見捨てられなければならないというからには、そこには、神様の深いお心、み心があるはずなのです。神様の特別な目的、ご配慮があるはずなのです。イエス様は、十字架の上で、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」

のです。51節には、「そのとき」とあります。新改訳聖書や口語訳聖書では、「すると、見よ」とあります。「そのとき」とは、どんな時なのか。「すると、見よ」とは、何を見るのか。イエス様が息を引き取られた時です。イエス様が死んだ時です。十字架の上でイエス様が死なれたその姿を見よなのです。救い主イエス様が父なる神様に見捨てられて、死んだ時、全ての事が成し遂げられた時に何が起こったのか。聖書は告げるのです。

 51節、52節を共に読みましょう。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」 「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たのです。至聖所と呼ばれる場所がありました。この至聖所の前にかかっているのが、この垂れ幕でした。こ至聖所には誰も入ることができません。ただ、年に1度選ばれた大祭司が罪をあがなう犠牲の血をたずさえて入ることができました。それは、人間の犯した罪を犠牲によって赦していただくためでした。けれども、至聖所の垂れ幕が上から下まで裂けたということは、神様と人間を隔てていたものが無くなったということ、イエス様が十字架で流された血のゆえに、ささげられたその体、その死をもって私たちの罪が赦されたのです。年に一度ではなく、イエス様の犠牲のゆえに、いつでも神様の前に出ることが赦されたのです。それが、神様が考えられた目的、救いの道なのです。

 

 三、罪の赦しのために流された血

 また、墓が開いて、死人が生き返ったというのは、イエス様が死を克服されたたことを象徴する出来事です。このイエス様の死は、やがてイエス様のよみがえりにつながるものです。やがて、この復活の象徴は、三日の後に、現実となるのです。

 イエス様は、父なる神様に見捨てられるはずのない方なのに、見捨てられたのです。神様に見捨てられるということは、罪ある者を意味しました。イエス様には、罪はありませんでしたが、罪となったのです。イザヤ書53章12節には、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。」とあります。リビングバイブルには、「彼は罪人の一人に数えられ、多くの者の罪を負い、罪人にために神にとりなした。」とあります。

また、コリント信徒の手紙第二5章21節には、「罪とは何のかかわりもないお方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」とあります。

 50節には、「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」とあります。この言葉は、ヨハネによる福音書19章30節の言葉ではないかと言われています。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

 「成し遂げられた」と言われたのです。新改訳聖書には、「完了した」とあり、口語訳聖書では、「すべてが終わった」とあります。リビングバイブルには、「何もかも終わった」とあります。罪のないお方が見捨てられるはずのないお方が、神様に見捨てられた十字架で罪とされ、裁きを受け血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったので、罪の問題は完了したのです。人間の罪の歴史に、終止符が打たれたのでした。

 父なる神様と子なるイエス様はひとつでした。絶対に切っても切れない関係、見捨てない、見捨てられない関係であったのに、父なる神様はイエス様を見捨てました。見捨てる以外に、イエス様が十字架の上で、血を流さない限り、命を差し出さない限り、神様の救いの目的は果たされないのです。神様の救いの完成はないのです。

 イザヤ書25章8節には、「死を永久に滅ぼしてくださる。」とあります。イエス様の十字架の死で、私たちの死を滅ぼされたのです。

 父なる神様は、イエス様が十字架の上で流された血を見ておられました。いばらの冠をつけられた頭から血が流れ落ちました。両手両足を釘で打ち抜かれ、両手両足からも血が流れ落ちました。鞭打たれた背中や太ももや手の腕からも血が流れ落ちていたことでしょう。これでもかこれでもかと血が流れ落ちました。「パッション」という映画では、イエス様の体から血が次から次へと流れ落ちるシーンがありました。まさに、血に飢えたという表現が当たります。父なる神様は、神であるお方、罪のないお方、正しいお方が徹底的に血を流し、極限までの痛みを負うことを求められたのです。私たち人間の罪が赦されるためには、「血に飢えた神」でなければならなかったのです。聖書は、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(ヘブライ9:22) この言葉は、血に飢えた神を現しているように思うのです。新改訳聖書第三版では、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。血に飢えた神は、イエス様の血を求めることにより、私たち人間の罪を赦して下さったのです。

 

 Ⅲ結論部

 壮絶なイエス様の死にざまを見た異邦人のローマの百卒長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。その死様を見て、イエス様を神の子だったと告白しました。

 15日の木曜日の朝、経田悦子姉は天に召されました。重い病気であると医者に言われた時、「大丈夫です。私はクリスチャンですから」と答えられたそうです。イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、永遠の命の望みを持っていました。けれども、何も何も食べられなくなってからは、本当に大変な歩みでした。肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、信仰的な苦しみ、霊的な苦しみと死を前にした歩みは大変なものでした。しかし、全てを神様にお委ねしたキリスト者としての歩みでした。壮絶な死でした。「大丈夫です。私はクリスチャンですから」と言っても、クリスチャンだから痛みがない。苦しみがないわけではない。けれども、最後の一息まで、家族と共に過ごすことを選択された。それゆえの、肉体的な苦しみは大きかったでしょう。しかし、神様を信じて、神様に自分の事も、御主人の事も、息子さんの事も全て神様にお委ねしたのです。彼女は息を引き取りました。死んだのです。けれども、死んで終わりの人生ではなく、「本当に、この人は神の子だった」と告白したローマの百卒長のように、イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、よみがえりの命をいただいて、神様のもとに召されてていかれたのです。その死にざまを通してイエス様を証されたのだと思うのです。

 私たちは、血を流すこともあります。苦しみ悲しむこともあります。また、死を経験しなければならない。しかし、それらのことを通して、それでも、神様の大いなる救い、恵み、永遠の命をいただくことができるのです。来週は、いよいよイエス様がよみがえられたことを記念するイースターです。イエス様の苦しみと十字架の死を通して、復活の現実、望みがあるのです。この週は、受難週としてイエス様の十字架の苦しみを思いつつ、十字架の先には復活があることことを期待して、この週を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年3月18日)

2018-03-18 16:36:38 | Weblog

青葉台教会第1,2礼拝説教                          2018年3月18日

 満山浩之

『神様に見捨てられる人は誰もいない』 

ローマの信徒への手紙 39節~26

 

 皆さんは、人にされて嫌だな、見捨てられたなって思ったことはあるでしょうか?例えば、ある人に「ねーねー、こっちにおいで~。良い物あげるから~。」と、仲の良い友人は言われましたが、私には何も言わずに何もくれず、知らんぷりされてしまう。他の人と一緒にいるのに優劣、良い悪いを付けられてしまう。優れている方に自分自身がいれば、まだ気持ちは良いですが、劣っている方に自分自身がいれば、それはもう嫌な気持ちになりますよね。人と比べられて他の人の方が自分よりも優れている、または良いなって思うものをもらうなどすると、本当に寂しいですし、悲しい気持ちになります。

今日の説教題は『神様に見捨てられる人は誰もいない』と付けさせて頂きました。それはどういうことなのか。皆さんと一緒に今日与えられた聖書箇所を通してみてきたいと思います。

 

 今日の箇所は、パウロがローマの人々に送った手紙の中の言葉です。ここでパウロは、全ての人が罪人であるとしています。旧約聖書の時代に、神の民として選ばれたユダヤ人も、特別な存在ではなく、ギリシア人のような異邦人も、みんな同じ罪人なのですよ、と言っているのです。私たちに置き換えてみますと、クリスチャンであろうが、クリスチャンでなかろうが、神様の前ではみな同じ罪人なのですよ、ってことです。クリスチャンだから特別で、神様は罪人である私たちの罪を赦して下さり、クリスチャンでないから、神様から見捨てられているってことではないのです。私たちは神様を信じ、神様に従いたいと願っているということは、まだ神様を知らない人たち、また神様を知ってはいるが、受け入れていない人たちとは、その点においては違いがありますが、「罪人である」ということに関しては、他の人と変わりはないのです。

ユダヤ人は、神に選ばれた民とされてきました。しかし神様は、このユダヤ人を通して、

全世界の人々に福音が伝わるようにして下さったのです。ですから、ユダヤ人が「私たちは神に選ばれている。だから、罪とは関係ないのだ」と、考えていることに対してパウロは、「彼らユダヤ人は他の異邦人と何も違いはない」ということを言っているのです。ここでパウロは、当時の聖書でもある旧約聖書から引用して、傲慢なユダヤ人のことを記しています。

「正しい者はいない。一人もいない。」と。

パウロという人物は、旧約聖書の律法を守り抜く人であったため、旧約聖書の御言葉がすべて頭の中に入っていたのです。ですから、色々な旧約聖書の箇所を選り取り見取り繋ぎ合わせて記したのでした。パウロは人間の悪の状態を、ものすごく知る人物だったのです。

なぜなら彼は以前、教会を荒らし、男女を問わず引きずり出して牢にぶち込むような悪い人物で、キリスト教徒を迫害する立場にいた人間だったからです。パウロは人間の悪を明確に旧約聖書を用いて、示しているのです。それは13節「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」とあります。

 これは詩編の言葉で、開いた墓には腐った死体が入っていて、その腐敗した臭いが漂うほど、嫌な空気になるということです。そして、同じ口からでも、平和を語ったり、相手に対してお世辞を言うことも出来ますが、その腹の裏では蝮の毒のような、悪口や毒々しいことを思っているかもしれない、ということです。

 例えば面と向かっては「まぁまぁ、仲良くやっていきましょうよ。仲間なのですから。」

って、言っておきながら、裏では「あいつ本当にうざいし、本当に嫌いだ」と、言っている

かもしれないということです。

先日もニュースで、カヌー日本代表の選手が、仲の良い慕ってくれている後輩選手に対し

て、薬物を投入し、カヌー競技を出来なくさせようとしていた事件がありました。しかし、面と向かっては感じ良く接しているが、裏では後輩を蹴落とそうとしていたのです。そのように腹の裏には毒があると言っているのです。

そして14節~16節「口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある」とあります。これはイザヤ書の言葉で、良いことも悪いことも言えるその口は、人間の体の構造上、足の上についていて、歩き回れて移動することが出来るということです。そして、その道では人々を傷つけることもでき、関係を破壊することもできるのです。

このようなことが、人間の悪で、たとえ神の民だとしても、この悪に犯される可能性は大いにある、ということです。ユダヤ人が「私たちは神に選ばれているから特別なのだ」、「律法を守っているから、私たちは大丈夫、罪人ではないのだ」と、傲慢な態度でいる彼らのことを、パウロは言っています。もしかしたらパウロは、パウロがユダヤ人であるので、悔い改める前の自分自身のことを、思い描いていたのかもしれません。

 私たちの世の中でも、このような傲慢な人がいるのではないかなと思います。「私はもう完ぺき。私の言うことは全部合ってるし、私の言うことを聞いていれば間違いない。私は決まり事を守っているし、やる事もやっているから、上から目線で物申すことが出来るのだ」、

というような態度の人が、もしかしたらいるかもしれません。しかし、神様は、そのような人も、そうでない人も、みんな同じ罪人であって、特別扱いはしないのです。

旧約聖書で、アダムとエバの物語があります。アダムは神様が造った最初の人間で、その助け手としてエバをお造りになりました。神様と共に歩んでいたその二人が、神様から離れる、神様を裏切る行動をしてしまったために、それ以来、人間には罪が入り込んでしまい、神様と離れてしまう関係になってしまったのです。これが聖書の言う「罪」です。しかし、アダムもエバも、傲慢な人も、そうでない人も、罪人である私たち全員をその罪が赦されるために、神様は、神様の独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。そして、鞭打たれ、十字架につけられ、血を流し私たちの罪の身代わりとなって、死に至らせることによって、私たちの罪が赦されるようにして下さったのです。そのことが23、24節に記されてあります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

そして、三日後に復活され、そのことを信じる者は誰でも、この地上での与えられた生涯を終えた後、天の国での永遠の命が与えられると、聖書は語っているのです。

神様は、私たちと常に共にいたいのです。神様と共にいることができる関係を、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、回復させて下さったのです。神様から離れて行くのはいつも私たちの方です。神様は、「あの人の罪は赦してあげよう」、「この人は生意気だから、罪を赦すのはやめておこう」っていうように、分け隔てすることはされないお方です。どんな人でも、この地上に生きている人は誰でも、「罪は赦される」と聖書は語っているのです。

10節にある「正しい者はいない」の「正しい」というのは、神様の目から見て正しいという意味です。神様に従順で、神様を第一に考え従っていることを、ここでは「正しい」としています。パウロはここで、完ぺきに神様に従っている正しい者は一人もいないとしています。なぜなら、私たちには罪があり、神様のように罪が一切なく、完ぺきな人は誰一人としていないからです。神様はどんな人も特別扱いはせず、分け隔てることもなく、私たち一人ひとりのことを思い、私たちが生まれながらにして持っている罪を赦して下さるのです。それが22節の「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」ということです。たとえ、辛い状況の中にいる人でも、仲間や友達がいなく独りぼっちと感じている人でも、神様だけはあなたを見捨てない。神様だけはあなたを分け隔てることなく差別されない。神様だけはあなたの罪を赦して下さる。それは私たちの目には見えませんが、神様は私たち一人ひとりを、見捨てることなく、いつも共におられるのだと、信じることはできます。

パウロの言う、どんなに悪があるひどい人でも、またどんなに自分は正しいし、罪なんかないって思っている人でも、神様は、みんな平等に必ず罪を赦して下さるのです。自分なんか神様から見捨てられているのではないか。自分なんか誰も見てくれていないのではないか。そう感じている方。またそう感じたことがある方。今日は神様が、私たち一人ひとりのことを、見捨てることなく、分け隔て差別することなく、罪を赦して下さる、ということを信じて、今週も歩んで参りたい、そう願います。

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日曜礼拝(2018年3月11日)

2018-03-11 13:19:29 | Weblog

日曜礼拝(受難節第四)       2018.3.11

ぶっつけ本番の死」 ルカ23:32~43

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。受難節第四日曜日、三月の第二日曜日を迎えました。今日も皆さんと共に、礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 卒業式があちらこちらで行われています。卒業生たちは、卒後式のための予行練習をするだと思います。コンサートでもリハーサルがあります。入試の試験は終わったようですが、やはり本試験のための準備の試験、模擬試験等があるのだと思います。最近は生前葬

もあって、自分が生きている時に、自分の葬儀を見ておくというようなこともあるようです。聖書には、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とあるように、私たちは必ず死を経験します。だからといって、死のリハーサルはないのです。イエス・キリスト様は神であり、人間でした。イエス様の十字架の死は、リハーサルも何もないぶっつけ本番の死であったのです。

 10日の金曜日に、博多で九州キリスト教災害センターのNPO法人設立発足を記念して日本宣教フォーラムがありました。冒頭に、熊本地震の映像があり、最後に「熊本を忘れないでください」という文字で終わりました。阪神淡路の震災は20数年経ち、東北震災は、今日で7年目を迎え、何か復興の兆しが見え、少しずつ話題から離れて行っているようにも感じます。熊本は、震災から2年弱ですが、「熊本の地震を、被災した私たちを忘れないで下さい」というのが、正直な気持ちだと思うのです。

 今日は、ルカによる福音書23章32節から43節を通して、「ぶっつけ本番の死」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、恵みはあなたの近くにある

 マルコによる福音書15章27節には、イエス様と共に十字架につけられた者を「二人の強盗」と記しています。イエス様は、二人の強盗、犯罪人と共に十字架につけられました。この犯罪人は、イエス様の声の届く所にいました。十字架刑という最大の不幸の中にありましたが、その不幸の中に恵みがあったのです。彼らは、神様なしの人生、罪の人生を送り、神様と接する時がなかった。しかし、人生の最後の時、彼らはイエス様のそばに、やっとたどり着いたのです。

 私たちは、創立50周年を迎えますが、救いの証し集を作成しました。皆さんが、どのようにしてイエス様のもとにたどりついたのか、どのようにして救われたのかを知ることができることは、とても素晴らしい事だと思うのです。自分から求めて教会に足を運んだという人もいるでしょう。家族の問題を通してイエス様のもとにたどり着いた人もいるでしょう。自分の病気や怪我を通して、痛みを通してイエス様のもとにたどり着いた人もいるでしょう。あるいは、自分の思いではなく、生まれた所がクリスチャンホームであって、神様を意識したという人もいるでしょう。クリスチャンホームに生まれて幸せだと感じる人もいるでしょうが、クリスチャンホームに生まれて不幸だと感じている人がいるかも知れません。それは、大きな恵みを恵みとして受け止められていないということだと思うのです。皆さんが、どのようにイエス様にたどり着いたのかを知ることができるのです。ぜひ、お読みいただきたいと思います。

 この犯罪人たちは、イエス様と共に十字架について、イエス様のそばにいながらも、イエス様の声の届くところに置かれながらも、それを恵みとして受け止められなかったのです。そこに恵みがあるのに、恵みとして受け取れない。恵みを無駄にしてしまうということが私たちにもあるかも知れないのです。パウロ先生は言いました。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Ⅱコリント6:1-2)と。リビングバイブルには、「神様の恵みに関するすばらしい知らせを聞き逃さないように、気をつけて下さい。神様はこう言われるからです。「歓迎の門が大きく開かれている恵みの時に、あなたの叫びはわたしに届いた。救いが差し出されている日に、わたしはあなたを助けた。まさしく今、神様はあなたがたを、喜び迎えようとしておられます。今日、救おうとしておられます。」

 私たちは、神様の導きの中で、今日この礼拝に出席しています。それはどのような理由かはそれぞれでしょう。しかし、私たちは、この礼拝に、恵みの中に置かれていることは間違いのない事なのだと思うのです。いかがでしょうか?

 

 二、あなたの叫びはイエス様に届いている

 34節を共に読みましょう。「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」イエス様は、神様を知らないでいる人々のために祈られたのです。しかし、35節には、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」と議員たちはあざ笑って言いました。兵士たちは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」と酸いぶどうを突きつけながら侮辱して言いました。(36-37節)

十字架についたイエス様を見ている人々は、「自分を救え」と言ったのです。39節を共に読みましょう。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」」 メシア、救い主なら救え。メシアとは苦しみからの解放者のはず。救い主なら、この苦しみから救え、と言いました。

 私たちは、問題を抱えているならば、問題から解放されるように祈り求めます。苦しみからの救いを求めます。病気なら癒しを求め、死に瀕しているならば、死から守られ、生きることができるように求めます。メシア、救い主は、このような人間の求めに答えることができる、解決できる存在であるはずなのです。十字架刑につき、死を前にした犯罪人は、当然、今苦しみから、死から救えと求めたのです。「お前はメシアではないか。」とは、ののしりの言葉です。人間の求めに答えることのできないメシア、無力なメシア、メシアとは、救い主とは名ばかりのものであるかのように思えるのです。

 40設、41節を共に読みましょう。「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」」

 人生の終わりに、死を前にして、私たちは何を考えるのでしょうか。聖書には、「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とあります。ですから、私たち生きている者は、必ず死ぬことは間違いのない事なのです。いつ死ぬかはわからないのです。中野ナザレン教会の北村牧師は、先週無くなられましたが、お元気でした。奥様の病気を心配し、気遣っておられました。まさか、ご自身が今死ぬとは思っておられなかったでしょう。しかし、突然の召天でした。

 イエス様と共に十字架刑にかけられた犯罪人は、死の直前でした。確実に死に近づいている。もう一人の犯罪人は、イエス様のごく近くにいて、イエス様の言葉を聞いていた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と。そして、イエス様の人々に対する姿を見ていたのです。そして、自分の死を見つめた時、彼はイエス様に言うのです。42節を共に読みましょう。「そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」 彼が言ったのは、痛みからの解放でもない。死からの救いでもない。ただ、イエス様に覚えていてほしいということです。忘れないで、こんな者が存在していたことを思い出してほしい、と願ったのです。御国とは、イエス様の国、権威あるお方の神の国です。彼の言葉は、十字架についたイエス様は、死んでしまうお方ではない。神様だという信仰なのです。メシア、救い主、あなたに私を思い出してほしいのです。彼は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言える場所、自分の言葉がイエス様に届く場所に今いるのです。彼の言葉は、イエス様に届いたのです。同じように、私たちの声もイエス様に届くのです。私たちの苦しみの、悲しみの、痛みの訴えは、確実にイエス様に届くのです。届いているのです。大丈夫、あなたの心の声をイエス様は聞いているのです。

 

 三、救は今です

 イエス様は、即答されました。43節を共に読みましょう。「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」

 イエス様からの完全な赦しの宣言をいただいたのです。死んだ後ではなく、生きている時、今、イエス様が救いの宣言をされたのです。彼は、イエス様がそばにいるという恵みを無駄にしなかったのです。十字架刑とは最もおぞましい刑罰です。その最もおぞましい十字架刑につけられた犯罪人は、イエス様の愛、イエス様の恵み、イエス様の憐れみ、イエス様の赦しを体験したのです。このイエス様の愛、イエス様の恵み、イエス様の憐れみ、イエス様の赦しから漏れる人は一人も存在しないのです。全ての人に与えられるものです。

 この犯罪人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには」と、いつの日か実現する神の国の希望を持って、「わたしを思い出してください」と言ったのです。しかし、イエス様は、「今日」を保証したのです。いつかではなく、今すぐです。イエス様を通して与えられる救いとは、死んだ後の話しではなく、今、今日の話なのです。「あなたは」とは一人のためにです。たった一人のため、それはあなたのためであるということです。

 彼のこの救いは、イエス様を神様と認め、救い主と認め、自分の罪に気づき、罪を認めたことからです。自分の罪を認める所から、新しい一歩が始まるのです。

もう一人の犯罪人、最初の犯罪人は、自分の罪を認めることをしないで、他人のせい、あるいは、自分を救えないイエス様のせいにしたのです。救いを得た犯罪人も、今まで人のせいにしてきたことでしょう。しかし、十字架刑にされ、自分の死を見つめた時、そばにいたイエス様の言葉と態度を通して、神であるお方と認めたお方が、犯罪人である自分と同じ十字架刑についている姿を通して、人のせいにするのではなく、人々の罪のためにために、自分の罪のために祈る姿、愛の言葉に救い主の姿を見たのです。そして、このお方に、自分の存在を思い出してほしい。覚えていてほしい。知っていてほしい。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と自分の罪を認めたからこそ、イエス様に信頼することができたのだと思うのです。自分が罪ある者だと認めない限り、イエス様に救いを求めることはできないのだと思うのです。

この犯罪人は、安心して死んでいったのだと思います。なぜなら、イエス様が一緒にいると約束したからです。イエス様が一緒なら死も問題ではない。イエス様は、私たちと一緒にいるのです。私たちが肉体の痛みで苦しんでいる時も、死の恐怖に恐れおののいている時も、問題で押しつぶされそうになっている時も、何の手立てもなく絶望する時も、「あなたと一緒だ」と約束しておられるのです。リビングバイブルでは、「約束するよ」とあります。私たちは、この約束を疑わないで信じて歩みたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されました。私たちは、天国に入る資格があるから入れるのではないのです。私たちは罪がないから救われるのではありません。私たちには罪があるのです。その罪の身代わりにイエス様が十字架で神様からの重い罰を受け、私たちが受けなければならない苦しみをイエス様が受けて下さり、私たちが流す代わりにイエス様が血を流し、私たちの命が取られる代わりに、罪のないイエス様の尊い命が取られた。死なれたのです。このイエス様の死のお陰で私たちの罪が赦され、イエス様が死んでよみがえられたことにより、私たちの救いが完成し、罪ある私たちが神様の前に義とされ、死んでも生きる命、楽園にはいることがゆるされたのです。

 「熊本を忘れないでください。」大地震を経験し、復興が進みながらも苦しみの中にある私たちを忘れないでください。これは、困難の中にある人々のさけびなのです。私たちは、苦しみと困難を経験します。今、その苦しみの中にあるかも知れません。この犯罪人のように、「「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と叫ばずにはおれない所に立たされているかも知れません。イエス様はあなたの叫びを聞いておられるのです。あなたの叫ぶ声の聞こえるところ、あなたのそばのおられるのです。そして、語ります。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる

大丈夫、恐れなくていい。私が一緒だ。この週に私たちがどのような苦しみや悲しみを経験しようとも大丈夫。あなたを愛し、あなたのために血を流し、命をささげられたイエス様があなたと一緒にいるのですから、安心して全てをイエス様にお任せして、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年3月4日)

2018-03-04 12:35:09 | Weblog

日曜礼拝(受難節第三)       2018.3.4

ペトロ、おまえもか」 マタイ26:31~35、69~75

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。受難節第三日曜日を迎えました。3月の第一日曜日です。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2017年度の最後の月ですが、この月もイエス様に信頼して歩んでまいりましょう。今日は、マタイによる福音書26章31節から35節と69節から75節を通して、「ベトロ、おまえもか」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、弱さを認めよう

 私たちは、人生においていろいろな涙を流します。悲しい涙、せつない涙、恐れの涙、喜びと感謝の涙、様々な涙があります。中野教会の北村篤生先生の前夜式と葬儀に参列してまいりました。そこには、別れの涙、悲しみの涙がありました。けれども、復活の信仰を持つ私たちには、この涙が喜びの涙に変えられることを信じます。

 マタイによる福音書26章75節には、「激しく泣いた。」とあります。ペトロは、自分は鶏が鳴く前にイエス様のことを三度知らないというイエス様の言葉を思い出して激しく泣いたのです。自分の言ったこと、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26:33)あるいは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)という言葉を守ることができなかった。あれだけ啖呵(たんか)を切ったのにもかかわらず、イエス様を否定してしまったので、悔し涙をながしたのでしょうか。あるいは、イエス様の十二弟子の代表だと自負していたペトロは、自分の身を守るためだといえども、自分を弟子として選び、養い、育てて下さったイエス様に対して否定してしまったことに対するイエス様に申し訳ないという涙、自分のだらしなさ、ふがいなさに絶望した涙であったのでしょうか。ペトロは自分自身に絶望したのです。自分の弱さに気が付いたのです。

 イエス様は、最初からペトロの弱さをご存知でした。あまりにも、自分の力に頼り、自分の力にうぬぼれてしまうことがあるのです。私たちは、ペトロと同じように、それ以上に、自分自身の真の姿を見ることができないでいます。言い方を変えると、自分の罪と欠点と弱さというものを認めたくないと思っています。競争社会の中で、弱さを見せたらつぶされてしまう。置いて行ってしまわれることを恐れて、自分の弱さを認めないのです。認めたくないのです。けれども、真の強さというものは、弱さがない、弱さを認めないという所から来るものではなく、弱さがあることを見て、弱さを認めるところから来るものだと思うのです。弱さの中にこそ、キリストの力が発揮されるのです。

 私たちは、弱さを持たない人など存在しないでしょう。人間である限り、弱さというものを持っています。私たちは、その弱さのゆえに失敗し、罪を犯します。罪を犯してしまうものですけれども、イエス様にあって、失望には終わらないのです。イエス様が、弟子たちに、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。」(26:31)と旧約聖書ゼカリヤ書13章7節の言葉を引用されて語られたのは、自分を見つめなさいということだと思うのです。

 しかし、ペトロはイエス様の言葉に対抗して、「そんなことはとんでもない。イエス様を見捨てるはずがない。他の弟子がつまずいても自分は別格だ。死んでもついて行く覚悟がある。」と豪語したのです。ここでペトロに、自分もイエス様を裏切ってしまう弱さがあるかも知れない。イエス様の弟子であるけれども、イエス様について行く自信はあるけれども、イエス様を守れないかも知れない、と自分を見つめることをイエス様は願ったのではないでしょうか。ローマの信徒への手紙7章18節には、「わたしは、自分の内には、つまりわたしの内には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」とあります。 伝道者パウロ先生の言葉です。

私たちの内には、罪の性質があり、良い事をしたいという気持ちはあってもできない者であることを認めて、イエス様に信頼して、助けていただきたいと思うのです。

 

 二、イエス様にある希望

 ペトロは、イエス様のアドバイスに真っ向から対決して、自分の弱さを認めず、自分の力に頼り、自分自身に絶望を経験しました。私たちもペトロと同じように、痛い目にあうことがあります。自分自身に絶望することがあります。私たちは、苦しみや悲しみを経験することがあります。そして、その苦しみや悲しみが取り除かれるようにと祈り求めます。

けれども、それと共に、その苦しみや悲しみの中にあって、イエス様の取り扱い、イエス様の導き、イエス様の守りを覚えたいと思います。私たちは、自分の罪深さのゆえに、嘆き、打倒されてしまいます。しかし、罪深き者のそばで、私の罪のために身代わりに十字架にかかって死んでよみがえられたイエス様は、私の罪を赦して回復を与えて下さるのです。そのイエス様がそばにおられることを覚え、イエス様に信頼したいと思うのです。

 イエス様は、弟子たちがつまずくことを預言された後、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」(26:32)と言われました。イエス様は、十字架について全人類のために死ぬ。けれども、復活することとガリラヤに先に行くことを語られたのです。しかし、ペトロはイエス様の死も復活も信じることができませんでした。イエス様の十字架と復活を信じない者には、イエス様の罪の赦しと復活の命に預かれないので、あずかろうとしないので、自分の考え、自分の力に頼るほかはないのです。ですから、ペトロは、イエス様に信頼しないので、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(26:33)、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26::35)としか言うほかはなかったのかも知れません。イエス様に、神様に頼らない者は、自分にしか頼れないのです。

 イエス様は、ヨハネによる福音書15章5節で、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」と言われました。イエス様を信頼しない者は、イエス様から離れていく、離れるのです。

 パウロ先生は、ガラテヤの信徒への手紙2章19節、20節で、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と言いました。

リビングバイブルでは、「私はキリスト様と共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリスト様が、わたしのうちに生きておられるのです。わたしのためにご自身をささげてくださった神の子を信じた結果、今、私の体のうちには、ほんとうのいのちが与えられています。」とあります。

 私たちは、イエス様の十字架と復活が私のためであると信じて、信頼する時に、イエス様はどうしようもない罪ある私の中に生きていて下さるのです。私たちが、どんなに失敗しても、罪を犯しても、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と約束していて下さるのですから、イエス様に信頼したいのです。

 

 三、大丈夫、イエス様が助けて下さる

 ペトロはイエス様が捕らえられた後、大祭司の中庭に入り、事の成り行きを見ていました。他の弟子たちは、ゲッセマネの園でイエス様が捕らえられた時、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。ですから、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言ったのは、まんざら嘘でもないようです。ペトロには自信がありました。大祭司の屋敷ではイエス様の裁判が行われているのですから、その中庭まで入るということは勇気のいることです。

 しかし、一人の女中の言葉、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」という言葉に、ペトロは凍りつきました。面が割れていたのです。顔を知られていたのです。相棒の杉下右京さんのよく言う言葉、「動かく証拠」だったのです。ペトロはイエス様の弟子となった時から3年と少し、いつもイエス様と共に行動していました。いつも一緒でした。ですから、イエス様の顔を見ている者はペトロの顔を見ていたでしょう。弟子の代表格として、ペトロも目立っていたのです。イエス様の弟子、十二弟子の一人であるということは鼻高々なことでした。光栄あることでした。しかし、この状況では、イエス様の裁判が行われている、すぐそばで、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われたことは、ペトロにとっては致命傷となるのです。ですから、とっさにペトロの口から出た言葉は、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」でした。知らんぷりをしたのです。70節には、皆の前で「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」という言葉を打ち消したのです。関係を否定したのです。刑事の取り調べのようになってきました。そして、中庭にいることに都合が悪くなったので門の方に行くと、他の女中がペトロに目を留めて、つまりペトロの顔を見て、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言ったのです。新たに証人が出てきたのです。しかし、ペトロは「そんな人は知らない」と再び打ち消したのです。なんのことからそんな人と確信に近づいてきたのです。ペトロにしては、間の悪い、緊張した時間でした。すると、しばらくして、そこにいた人々が近寄って来て、「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」と言ったのです。まさに、「動かく証拠」でした。絶体絶命。証拠も揃い。証人も揃った。観念するしかない。

 74節を皆さんと共に読みましょう。「そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。」 ペトロは呪いの言葉を口にしたのです。リビングバイブルには、「そんな男のことなんか、絶対に知るもんか。これがうそなら、どんな罰(ばち)があたってもかまわないぞ」とあります。完全に自分とイエス様との関係を否定してしまったのです。その時、鶏が鳴いたのです。そして、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉をペトロは思い出したのです。そして、激しく泣いたのです。リビングバイブルでは、「胸も張り裂けんばかりに激しく泣きました。」とあります。

 これは、ペトロだけの姿ではありません。この姿は私の姿であり、あなたの姿なのです。

イエス様は、このペトロの弱さ、欠乏を知っておられました。ですから、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)と語られたのです。

 イエス様は私たち一人ひとりのために祈って下さいました。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って下さったのです。

私たちの持つ罪のために、滅びに向かう私たちを救うために、イエス様は十字架にかかり、私たちの罪の身代わりに裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。そのことにより、私たちの罪がゆるされ、イエス様がよみがえることによって、救いが完成され、私たちは義とされ、永遠の命が与えられたのです。私たちは、イエス様に覚えられている。祈られていることを自覚して感謝したいのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちには失敗がつきものです。罪を犯さないようにとがんばっても、それをする力がないのです。意志はあってもできないのです。ですから、失敗しないように努力すること、罪を犯さないように努力することも大切ですが、私たちの罪の身代わりに、イエス様が死んでよみがえられたことを示す聖書の言葉を素直に信じたいのです。イエス様が弟子たちに語られ、自分を見つめるようにと示されたように、私たちも、自分の罪の深さと弱さを素直に認めて、イエス様が私を愛しておられること、私の魂を救い、罪を赦し、義とし、永遠の命、復活の命を与えて下さると語る聖書の言葉、神様の言葉を信じて、安心して、この週も歩みたいと思うのです。私たちは、この週も自分の弱さを痛感するかも知れない。自分の罪深さに絶望するかも知れない。でも、大丈夫。イエス様は私たちを守り支えて下さるのです。いつもそばにいて、愛していて下さるのです。そう信じて歩みましょう。

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