江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

6月28日 礼拝メッセージ

2009-06-28 13:14:15 | Weblog
        主日礼拝(三位一体第四主日)     2009.6.28
        「感謝が満ち溢れる」 使徒言行録16:25-34

 Ⅰ導入部
 おはようございます。6月の第四主日を迎えました。今日も愛する兄姉と共に礼拝を守れます事を感謝致します。会堂拡張工事が無事金曜日に終わりました。皆さんのお祈りに感謝致します。会堂拡張工事完成を祝って、記念のチャペルコンサートが昨日行われました。中村兄弟姉妹のマリンバとパーカッションの演奏でした。多くの方々と共に会堂拡張完成のお祝いをいたしました。
今日は、この礼拝は会堂拡張完成の感謝礼拝として献げたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈全ての事(特に悪い事)に神に讃美する
 ヤコブの手紙5章13節には、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とあります。今日読みましたこの箇所は、パウロとシラスが占いをしていた女奴隷から霊を追い出したかどで、役人に捕らえられ、何度も鞭で打たれ、牢屋に入れられた時のお話です。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とヤコブは言いましたが、パウロとシラスは喜んではいなかったのかも知れません。苦しい時、祈る人は多くおられることでしょう。苦しい時の神頼みという言葉もあります。普段は祈りもしないのに、苦しい時、困難な時、問題があった時は、「神様助けて下さい」と祈る人は多くいるのだと思います。けれども、苦しい時、辛い時、問題が山済みにされた時、賛美する人がどれだけいるのでしょうか。何かが完成した時、成功した時、思い通りに事が運んだ時、人は賛美することができるでしょう。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」と聖書の言葉にあるように、喜びの賛美をささげることができるわけです。
 私たちの教会は、会堂が拡張されて素晴らしいものが出来上がりました。事故もなく、スムーズに工事も終り、記念のチャペルコンサートも祝福され、私たちは神様に心からの感謝をささげることができます。今日は、礼拝を通して心からの感謝を神様にささげることができています。
 けれども、パウロとシラスはそうではなかったでしょう。神様の導きでフィリピまで導かれリディアと家族が救われて、神様の導きを感じてこれからという時に、捕らえられ、何度も鞭を打たれ、傷を負い、足かせをつけられて牢屋の奥に厳重に入れられたのです。自分たちの失敗や何かでこのような目に遭わされているのであれば、苦しみの理由をそれなりに受け止め、反省もできることでしょう。しかし、自分たちの側に鞭打たれ、牢屋に入れられるという理由が全く見当たらないわけです。ですから、悪くすると、フィリピに来たことを後悔したり、自分たちを訴えた女奴隷の主人たちを恨んだり、自分たちをこのような苦しい目に遭わせることを許された神様に文句を言うということになりかねないのです。賛美どころか呪いが口から出てしまうのです。けれども、パウロとシラスは、ひどい目に遭わせられても、いやな経験をしても、彼らは真夜中、賛美の歌を歌い、神様に祈りをささげたのでした。
 どのような思いでさんびしたのでしょうか。やけくそで、怒鳴り声を出しながら、仕方なく歌ったのでしょうか。にがにがしい思いを心に持ちながら、言葉では神様に感謝をするような祈りをささげたのでしょうか。 おそらく、今の状態、パウロとシラスが経験した辛い事、痛い事、いやの事そのままの状態を受け止め、感謝をささげたのではないでしょうか。「自分たちのせいではないのにもかかわらず、捕らえられたことを感謝します。私たちは鞭打たれるような事はしておりませんが、今鞭打たれたことを感謝します。その事を主が許されているということを覚えて感謝します。」
 マーリン・キャロザースという方が書かれた「讃美の力」という本があります。この本の中には、いろいろな苦しみ、辛い経験をされた方々の事が記されています。そのような経験をされた方々が、マーリン・キャロザース師に「お祈りして下さい」と祈りの要請をするわけですが、その時、先生は、「自分を苦しめている状況を変えて下さいと祈るのではなくて、自分の身に起っている悪い事、辛い事、いやな事について神様に讃美をする」ことを勧めるのです。「讃美するとは、ある事について賛成を表明し、積極的に肯定することであり、賛成を表明することは、そのことを受け入れ、そのことに同意する事を意味します。ですから、困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起った事を私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れ、賛成する事を意味します。」と記されていました。 どうでしょうか。皆さんが経験している全ての辛い事、痛い事、嫌な事全てのゆえに、神様に讃美することができるでしょうか。

 ⒉神様を疑わないで信じる
 パウロとシラスは、自分たちの今の悪い状況を、そのままを受け入れ、そのまま神様に讃美をささげたわけです。そこで何が起こったかと言うと、25節では、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」26節では、「大地震が起り、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」という事が起りました。 何故! パウロとシラスが讃美の歌を歌い、神に祈ったからです。「私たちは。悪くないのです。あなたのために、福音をもっと多くの人々に伝えたいのです。だから、ここから出して下さい。奇跡を起こして助けて下さい。」という祈りでもいいのでしょう。しかし、パウロとシラスは、自分たちの今受けている悪い事全てを許しておられるがゆえに、神様に讃美したのです。感謝したのです。心からの感謝と喜びのゆえに神様を讃美し、感謝の祈りをささげたのでしょう。その讃美と祈りの直後に、神様のみ業が速(すみ)やかに起こされたのです。
 「讃美の力」の本の中にも、30年もお父さんの酒癖の悪い事に対する回復を祈り求めていた息子が、父の酒癖の悪いというその現状をそのまま神様に感謝し、そのことのゆえに神様を讃美したところ、1日で神様のみ業が起り、その父は救われ、お酒から解放されたというお話があります。その他にも、家族のいろいろな難しい問題が、その問題にゆえに神様に讃美するということを通して、解決し、神様の祝福を受けているという事が記されています。
 パウロとシラスもそうでした。自分の経験した悪い事柄に対して、つぶやいたり、文句を言うのではなく、反対にそのことのゆえに神様に讃美し、祈りました。すると、牢の戸がみな開き、全ての囚人のつながれていた鎖が外れてしまったのです。パウロとシラスの鎖だけではなく、全ての囚人の鎖が外れたのです。何故ですか。全ての囚人たちの鎖がみな外され、牢の戸がみな開かれたのなら、逃げない手はありません。けれども、誰一人として逃げませんでした。逃げて当然の状況の中で、誰一人逃げませんでした。品行方正な人々ではありません。すきあれば逃げようといつも考えていた人々でしょう。だから、看守は、牢の戸が開いているのを見て、全ての囚人が逃げてしまったと思い込み、その責任をとって自害しようとしたのです。ですから、28節の「パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」」という事を聞いて恐れたのです。戸がみな開いているということも驚きですけれども、それ以上に、全ての囚人が誰一人として逃げていないということが看守にとっては、信じられない驚きだったのです。看守は、神様のみ業の前に打たれて、救いを求めました。そして、家族共々イエス様を信じて、洗礼を受けたのです。
 牢の看守に会うためには、牢に入る必要がありました。牢に入るためには訴えられる必要がありました。パウロやシラスは悪い事はしませんから、自分たちにつきまとう女奴隷から霊を追い出すということを通して、女奴隷の占いで生計を立てていた主人たちから反感を受けて、訴えられ、鞭打たれ、牢に入れられたのです。神様の周到な御計画でした。神様のご計画の中で、パウロとシラスは、自分たちには問題と思える、マイナスに見えること、いやな事、辛い事、痛い事を許されている神様に、その問題ゆえに、その辛さゆえに、痛さゆえに、神様を讃美したのです。 ここがポイントでした。私たちは、ここでつぶやいたり、文句を言ったり、あきらめたりして、神様に背を向けて、神様の驚くべきみ業を失っているということがあるように思うのですが、いかがでしょうか。パウロとシラスの讃美と祈りにゆえに、看守と家族が救われました。おそらく、囚人の中にも救われる人々があったのだと思います。どこまでも、神様を信頼して讃美していこうではありませんか。

 ⒊全ての事が益となる
 「讃美の力」の本には、次のようなことも書かれていました。「私たちは神を讃美するのであって、何かの分からない運命を讃美するのではありません。それはまた、今起っているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れていることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味をなさないでしょう。」とあり、テサロニケ信徒への手紙第一の5章16節から18節のみ言葉を紹介しておられます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。」 
 また、このようにも書いておられました。「神がなぜ、またどうしてこんな事を自分の身に起されたのか、そのわけを知ろうとすると、私たちは知性によって困難に陥ります。神がある事をなぜ、またどうしてなさるのかを私たちは決して理解できません。しかし、神の望んでおられることは、それをなしておられるのが神であることを私たちが知性をもって受け入れることなのです。このことが私たちの讃美の基盤となるのです。神は、ご自身が私たちを愛しておられること、また、私たちに対してご計画を持っておられること、そのことを私たちが理解することを望んでおられるのです。」とあり、ローマの信徒への手紙8章28節のみ言葉を紹介しておられます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
神様を信じる者には、万事が益となるのです。辛い事もいやな事も痛い事も、問題もマイナスもそのままでは終わらないのです。必ず、益、祝福に変えられるのです。神様が変えて下さるのです。
 そのしるしはイエス・キリスト様の十字架です。聖にしてきよいお方、罪のないお方、神であるお方が人間の姿をとり、この地上に来て下さり、私たちの罪を赦すために、私たちに身代わりに十字架にかかって苦しみを受け、死んで下さいました。死を経験するはずのないお方が死なれたのです。墓に葬られたのです。けれども、3日目によみがえり神である事を示されました。神様の愛の証拠は、イエス・キリスト様の十字架なのです。会堂の中心の立つこの十字架こそ、神様の愛の最大の現れであり、私たちの救いの原点なのです。
 今、青葉台教会では三浦綾子文学読書会や文学講座を行っています。三浦綾子さんの小説を通して、その神様に対する信仰を教えられたいといつも願い、私も参加しています。課題の本をいつも読まないで参加しているのは私だけです。三浦綾子さんは多くの痛みを経験した人だというのは有名なことです。自分自身で、「病気の問い屋みたい」だと言っておられました。彼女は、次から次へといろいろな病気になられて、治らないままに天に召されて行かれました。
 彼女は次のようなことを言われました。「人間というのは、いつかは死んでいくわけだから、病気が治ることでも神のみわざは現れるけれども、病気のまま、困難なままでも神のみわざは現れる。」 さらにこのように言われました。「私は癌になった時、ティリヒという神学者の「神は癌を造られた」という言葉を読んで、文字通り、私は天からの光を受けた。神は愛なのである。その愛なる神は癌を造られたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとは言えないのではないか。私たちは苦難を取り違えて受け取っているのではないか、とティリヒの言葉に思った。神が私に下さるものに、悪いものはない。私はベッドの上で、幾度もそうつぶやいた。すると、この癌という神からの贈り物が、実に意味のある素晴らしいプレゼントに思われてきた。」
 三浦綾子さんは、ご自身のパンフレットの中で「病まなければ」という詩を紹介しておられます。
「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。 
 病まなければ、信じ得ない奇跡がある。
 病まなければ、聴き得ない御言がある。 
 病まなければ、近づき得ない聖所がある。
 病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。 
 おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった。」
 私たちは、病気や悪い事マイナスと思えることを経験します。けれども、神様はそのマイナスを許されたということは、必ずそのマイナスをプラスに変えて下さるということなのです。そのことを私たちが、アーメンと信じるかどうかが問われているのだと思うのです。
 私たちは、まだ問題が解決されていなくても、苦しみや痛みのど真ん中でも、たとえ光が見えない暗闇の中でも、神様が愛である事、わたしを愛しておられること、神様が必ず祝福して恵みを与えて下さることを疑わずに、信じて讃美し、祈る事が私たちのまずすべきことなのだと思うのです。

 Ⅲ結論部
 人生の真夜中だと思える真っ只中にありながら、パウロとシラスは、鞭打たれた傷がズキズキとうずく中で、「この痛みのゆえに、牢に捕らえられていることのゆえに、神様あなたを讃美します。」と神様に讃美の歌を歌い、祈りをささげたのです。神様が許されていることのゆえに、神様に絶対の信頼を持っていたのです。私たちも何が起ころうと、びっくりするような事があっても、日々の生活の中で困ったことがあっても、私を愛し、イエス様を十字架につけるほどに私を愛して下さった神様を疑わず、どこまでも信頼して、信じて、お任せしていきたいと思うのです。
 また、「讃美の力」の本の中の言葉を紹介したいと思います。
「神を讃美するということは特効薬とか万能薬、またはうまくいくためのまじないの文句といったものではありません。それは神のみ言葉の中にしっかりと裏づけられた命の通った方法なのです。私たちは、願っている結果のために神を讃美するのではなく、現在のあるがままを、神に讃美するのです。願っている結果をひそかに望みながら神を讃美している間は、ただ自分を欺いているにすぎませんし、また、そのことで私たちを変え、また私たちの状況を変える何事も起らない事は確かです。
 讃美は今の現状を、私たちに対する神の恵み深い、全きみこころの一部として、全面的に、しかも喜んで受け入れることにその基盤があります。讃美は、後にそうなると思っていること、あるいはそう願っていることに基盤を置くのではありません。これが讃美する場合に守られるべき絶対的な法則です。私たちが神を讃美するのは、自分に起るだろうと期待していることのためではないのです。そうではなく、今のままの神を受け入れ、今のままの自分の立場や状態のゆえに神を讃美するのです。」
神様を讃美するとは神様を喜ぶ事だと聖書に記されています。私たちは、どのような事を経験しようとも、何かの故にではなく、神様を喜ぶ者でありたいと思うのです。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とヤコブは言いました。会堂拡張工事が終り、私たちは神様に感謝を現したいと思います。喜んでいる人は讃美しなさい。讃美したいと思います。また、困難の中にありながらも、礼拝を守っておられる方々もおられることでしょう。その現状をそのまま受け入れて、神様に讃美をささげていただきたいと思うのです。
この週も、この神様に期待し、信頼し、委ねていくためにも、聖書の言葉に触れ続けて歩ませていただきたいと思うのです。
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6月21日 礼拝メッセージ

2009-06-21 12:39:35 | Weblog
主日礼拝(三位一体第三主日)     2009.6.21
        「あなたが必要です」 使徒言行録8:1-7

 Ⅰ導入部
おはようございます。6月の第三主日を迎えました。今日も愛する兄姉と共に礼拝を守れます事を感謝致します。今日は何の日か、皆さんご存知ですよね。何週間前から言い続けておりましたが、今日は、あの、あの「父の日」です。母の日は何らかのイベントをする家族が多いようですが、父の日は60パーセントの家庭や人々が何もしないというアンケートの結果が出ているようです。
サラリーマン川柳というのがありますが紹介したいと思います。「パパがいい!それがいつしかパパはいい」「何故わかる 私のイニシャル KYと」「妻帰省 こんなチャンスに 風邪をひき」「お父さん ほんとはいつも ありがとう」「今帰る 妻から返信 まだいいよ」「愛してる 妻の返信 愛捨てる」「ゴミ出し日 捨てに行かねば 捨てられる」「スタッフ~と 妻が呼ぶ朝 ゴミ出し日」
「忘れ物 呼ばれて行けば ゴミ袋」「父さんに 似てるねと言われ 泣く娘」「ナビの言う お帰りなさいに 癒される」「三つ指を ついてた妻は つの三本」「めしふろに 下さいついて 妻動く」「今日もまた レンジと会話 妻は留守」「タバコより 体に悪い 妻のグチ」「我家では 子どもポケモン パパノケモン」「プロポーズ あの日にかえって ことわりたい」(恐妻男)「オレオレに 亭主と知りつつ 電話切る」「能あるが 隠しっぱなしで もう定年」「夢を持て 夢をもったが 夢だった」 男はつらいよとの寅さんの映画はやるわけがわかりそうな気がします。皆さん、いつも家族の為に、汗水流して働いているお父さん、家族のことを誰よりも心配しているお父さんに、今日は慰労の時をもって下されば幸いです。
 今日は使徒言行録8章26節から40節を通して「あなたが必要です」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈神の導きに従う
教会の弟子の数が増えるに従い起こった問題により7人の人々が選ばれ、使徒たちに代わり食事の分配等の働きをしました。弟子たちが本来の働き、祈りとみ言葉に専念した時、神の言葉が広まり、さらに多くの人々が救われ、祭司たちも多く救われたのでした。選ばれた7人の中で聖書は特に、ステファノを「信仰と聖霊に満ちている人」として紹介しています。そのステファノが捕らえられ石打の刑により殉教しました。ステファノの殉教によりエルサレムの教会に対する迫害が起りました。サウロは教会を荒らし、男女を問わずに牢に送りました。使徒以外の人々はユダヤとサマリアの地方に散らされたのです。ステファノと同じく7人に選ばれたフィリポはサマリアの町で福音を宣べ伝えました。サマリアでは多くの人々が神の言葉を受け入れたのです。エルサレムにいた使徒たちは、ペトロとヨハネをサマリアに送りました。そして、二人はサマリアで主の言葉を力強く証ししたのです。
 26節を共に読みましょう。「さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。」 サマリアでのリバイバル、多くの人々が救われたのはフィリポの働きが大きいものでした。エルサレムの使徒たちも、サマリアでの働きを重視してペトロとヨハネを送りました。サマリアでの働きがさらに祝福されるために、サマリアで救われた人々は、フィリポが引き続いてサマリアに留まり、神の言葉を語り救われた人々を導いてくれることを強く望んでいたに違いないのです。けれども、神様の思いは違いました。フィリポを寂しい道であるガザに導くことが神様の思いでした。神様はフィリポを用いてサマリアの多くの人々を救いに導きました。間違いのないことです。けれども、今ガザに導かれます。ですから、サマリアのこれからの働きのためには、神様によればフィリポは必要がないということです。もし、フィリポが神様の導きの声を無視して、サマリアに留まり続けたならば、さらなる祝福、宣教の拡大のためには妨げになったのかも知れないのです。 
 大江信先生が、新しい会堂を建てた大分教会を、献堂式の日の夜に札幌教会に転任するようにと理事長からの電話に、神様の導きと信じて即座に従われたのです。その結果、札幌教会も大分教会も祝福されたのだと思うのです。
フィリポは、選ばれた7人の執事の一人でした。ですから、教職者、伝道者ではなく一信徒でありました。この一信徒を用いて神様はサマリアに大きなみ業をなさいました。ですから、その場に留まることによりフィリポが傲慢になる可能性もありましたので、サマリアからガザへ導かれました。神様は、多くの人々の祝福を願われますが、ただ一人の人の為に、器を導かれるのです。
27節と28節を読みましょう。「フィリポはすぐに出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」 フィリポが聖霊の導きに従うとそこにはエチオピア人の宦官に出会わせたのです。この一人の人の救いの為に、神様はフィリポを用いられるのです。神様はあなたを誰かのために用いられます。ですから、自分の思いや願いを優先するのではなく、神様の導きの声に従う者でありたいと思うのです。

⒉救いの導きのために
エチオピア人の宦官は、女王カンダケの高官であり、女王の全財産を管理する人ですから相当高い位を持ち、女王に用いられていた人物であることがわかります。詳訳聖書やリビングバイブルには、「女王カンダケのもとで大きな権力を持ち」と説明しています。おそらく彼はユダヤ教に改宗して、千数百キロの距離もあるエルサレムに礼拝に来ていたのです。そしてその帰りだったのです。
彼は長い旅をして礼拝に来たわけですが、自分が期待していたよりも違うものであり、あるいは失望して帰る途中であったのかも知れません。かねてから求めていた恵みをエルサレムでの礼拝では得られなかったのかも知れません。彼は預言者イザヤの書を読んでいました。おそらく、イザヤの書をエルサレムで買い求めたのでしょう。彼は熱心に読んでいました。
29節から31節まで共に読みましょう。「すると霊がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一諸に行け」と言った。フィリポが走り寄ると預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。」
エチオピア人の宦官は、光を求めていたでしょう。イザヤ書を熱心に読み、光を求めていたのです。彼は知識はありました。そして、その手には神の言葉、聖書がありました。けれども、やはり導く人がいなければ光を、救いを得ることは出来ないのです。 「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(ローマ10:14-15)
 エチオピア人の宦官も、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」とフィリポに導きを願い求めたのです。聖書だけでは、救いは完成しないのです。導き手が必要なのです。
 今日は、ギデオンラリーが第二礼拝後にあります。静岡から日下兄が来てくださり、お証しをして下さいます。ギデオンの働きは、聖書配布という働きが中心です。学校で、病院で、ホテルでと聖書を手渡すのです。聖書を手にして教会に導かれ、あるいは誰かの導きにより救いを経験する方々が多く起こされています。尊いお働きです。横浜西北支部でも、青葉台教会の兄弟姉妹が中心となり、朝早くの登校時、あるいは午後の下校時に聖書を配布されています。暑い日も寒い日も、黙々と聖書を配布されているのです。この働きを覚えて祈り、ささげていただきたいと思うのです。私たちも、一人ひとりがまだ神様を知らない人々に手引きできる者となりたいと思うのです。

⒊ただひとりのために
彼の読んでいた聖書の箇所は、イエス様ご自身を語るイザヤ書53章でした。34節を共に読みましょう。「宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」」 フィリポはこの質問に対して、この箇所の説明をしただけではありませんでした。もし、このイザヤ書53章の箇所の説明だけならば、この宦官は救われることはありませんでした。当然、洗礼を受けることもなかったのです。
35節を共に読みましょう。「そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」 この箇所がイエス様のことを示していることを説明し、羊が屠り場に引かれていくように、神の子であるイエス様は全人類の罪の為に、あなたの罪の為に十字架にかかり死んで下さったこと、死んで葬られたけれども、3日目によみがえられたことを伝えたのです。そして、信じる者に罪の赦しと永遠の命の恵みを与えて下さることを語りました。そして、イエス様が、信じた人々の模範となられて洗礼を受けられたように、イエス様が洗礼を受けることを望んでおられることを語ったことでしょう。宦官はこのイエス様の福音を受け入れたのでしょう。
36節を読みましょう。「道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼(バプテスマ)を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」」 37節が抜けているわけですが、272ページに欠けている箇所の異本による訳文として、「フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます。」と答えた。」とあります。 38節では、フィリポと宦官は水の中に入り、フィリポは宦官に洗礼(バプレスマ)を授けたのです。 洗礼を受ける事のできる資格は、自分に罪があることを認め、その罪のためにイエス様が十字架に身代わりについて死んで下さったことを受け入れることです。それがイエス様を神の子と認めることなのです。
39節を共に読みましょう。「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」エチオピアの宦官は、自分を救いに導いたフィリポがアフリカに一諸に来て、家族や友人にイエス様のことを伝えてほしいという願いがあったのかも知れません。それは信仰の妨害になったので、神様はフィリポをエチオピアの宦官の前から去らせたのだと思うのです。エチオピアの宦官が一人で帰り、彼自身がイエス様を伝えることを神様は望まれたのです。そして、その通りに自分の信じたイエス様を多くの人々に伝えたのです。この一人の人により、エチオピアの国がキリスト教国になり、イエス様の十字架をかついだクレネのシモンを通して、アフリカに福音が伝えられたのだと思うのです。
 フィリピが、聖霊の導きに従いサマリアの伝道の祝福された場所に固執しないで、ガザの道に出ることにより、サマリアでの宣教以上のエチオピアにおいて宣教が拡大したのです。神様の声に従うことにより大いなる祝福がありました。
 エチオピアの宦官の救いの為に、天使が用いられました。聖霊が働かれました。聖霊を通してフィリポが用いられました。聖書が用いられました。私たちの救いのためにも、聖霊や聖書、ある人々が用いられたのです。そして、あなたもやがて誰かのために豊かに用いられるようになるのです。そのことを私たちは、忘れてはならないのです。神様は、あなたを必要とされているのです。
 Ⅲ結論部
 フィリポは、7人の執事に選ばれましたがその基準は、霊と知恵に満ちた評判の良い人でありました。また、聖霊の声に忠実に従いました。神様に服従したのです。祝福の場所から寂しい所に向かいました。その理由を知らずして出て行きました。聖霊の導きのままに。フィリポは大胆に、「読んでいることがお分かりになりますか」と声をかけました。また、聖書、神様の言葉を用いて福音を語りました。私たちは聖書の説明で終わるのではなく、聖書のどの箇所からでもイエス様の福音を語りたいと思うのです。
 フィリポは、エチオピア人の宦官を導くためだけに、リバイバルの起きていたサマリアから呼び出されました。フィリポは聖霊の導きに忠実に従いました。自分の思いや環境や状況に従うのではなく、ただ神様の導きに従い、誰もいないような場所に行きました。そこが誰もいない所や辺鄙(へんぴ)な所だから行く必要がないと考えがちですが、神様は全てを支配し、求める者を導こうとされるのです。エチオピア人の宦官は、求めていました。神の言葉イザヤ書を一生懸命に読みました。その彼に主は答えフィリポを遣わし、救いに導かれたのです。神様は求める者に必ず答えて下さるのです。
 フィリポがエチオピア人の宦官を救うために用いられたように、あなたも誰かの救いの為に、導きの為に、豊かに用いられるのです。ですから、日々聖書の言葉に触れ続け、神様の語られる言葉に敏感でありたいと思うのです。
 また、神様は私をあなたを慰めるために、励ますために誰かを私やあなたのために豊かに用いられるのです。また、私もあなたも誰かを慰め、励ますために豊かに用いられるのです。神様は今も、あなたを必要としておられるのです。あなたは神様にも、人にも必要とされている存在である事をぜひ覚えていただきたいと思うのです。
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6月14日 礼拝メッセージ

2009-06-14 17:09:45 | Weblog
          主日礼拝(三位一体第二主日)     2009.6.14
       「苦しみから生まれるもの」 使徒言行録6:1-7

 Ⅰ導入部
 おはようございます。6月の第二主日を迎えました。今日も愛する兄姉と共に礼拝を守れます事を感謝致します。梅雨の季節を迎えました。これから雨の日が続くと予想されますが、雨だからと憂鬱に過すのではなく、この雨が秋の収穫につながることを覚え、恵みの雨として感謝して過していければと思います。
 今日は、使徒言行録6章1節から7節を通して、「苦しみから生まれるもの」と題してお話ししたいと思います。故榎本保郎先生は、新約聖書一日一章の使徒言行録6章の箇所で次のように示しておられます。「私たちは教会に対して不満を感じることがある。どうも今の教会は冷たいとか、ほんとうの交わりがないとか、いろいろ言われる。しかし、問題があるから教会でないとか、問題がないから教会であるという考えは誤っている。教会は、りっぱですばらしいから教会になったのではない。私たちの行為や生活が教会を教会たらしめているのではない。神が召し集められたところに教会ができたのである。神様が召しておられる、というところにいちばん大きな根拠があるのである。」
 聖霊により誕生した教会は、お互いに助け合い、協力し合い、うるわしい交わりのゆえに、多くの人々に行為を持たれ、救われる人々が加えられました。そのような教会でありましたが、人が増えることにおいてまた、問題が出てきたのです。しかし、問題が問題のまま終わらない神様のみ業を共に見ていきたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈真の問題は何なのか
 ペンテコステ、聖霊降臨を通して誕生した教会でしたが、サタンもいろいろな形を通して攻撃してきました。使徒言行録4章では、説教したペトロを議会で取り調べた議員や長老、律法学者、大祭司たちは脅しました。また、5章の前半では、アナニアとサフィラが巧妙に欺きました。聖霊を欺き二人とも死んでしまいました。後半では使徒たちに対する迫害が起こりました。サタンは次から次へといろいろな角度から、攻撃して来たのです。そして、今回は教会の内部から問題が起こりました。
 6章1節を共に読みましょう。「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」 ギリシャ語を話すユダヤ人とは、ヘレニストと言われる人々で、世界各地に離散していたユダヤ人のことです。様々な異国の文化と接触しながら生きてきた人々です。ここでやもめが問題となっていますが、外地にいるユダヤ人たちは、死ぬ時は母国に帰り、聖地に埋葬してほしいという願いを強く抱いていたようで、そのために生涯の終りが近づいてくると外地からイスラエルに帰ってくる例が多かったようです。夫が亡くなると、妻はやもめにあり後に残され、そのような人々がキリストを信じて信仰に入るという例が多くあったようです。そのようにやもめで年老いた人々は、経済的に自立できないわけですから、助けを受けていたわけです。そのギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちは、無視され、困っているというような苦情が出たようです。数が少ないとき起こらなかった問題が、1節にあるように増えたことにより、この問題が起こりました。
 青葉台教会においても、人が増える事において今までは問題ではなかったことが起きているということがあるでしょう。スペースの問題などはまさにそうかも知れません。勿論、人数が少ないときには、少ないなりの問題や課題があったはずです。この問題で、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人たちが対立したのです。今まで助け合い、愛し合い、受け入れ合っていた人々が争うようになりました。 初代教会の指導者は使徒たちでした。この問題が起こった時、使徒たちは自分たちだけで解決しようとはしませんでした。教会にその責任を負わせたのです。使徒たちも、日々の分配のことや会計の仕事もしていたのでしょう。もっと合理的な方法があるとか良い方法を探そうというような目先の判断をしませんでした。何がこの問題の中心なのかを考えました。この問題が起こったのには、どの部分に問題があるのか。何が問題なのかを祈り求めたことでしょう。
 2節を共に読みましょう。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」」 使徒たち自身が、食事の日々の配給や世話、会計の仕事をすること自体がよくない。本来、すべきことみ言葉の御用に専念することだと気づいたのです。今まで、食事の配給や世話、会計をしながらでもできたでしょう。現にやってきた。けれども、日々の配給のことでの苦情は、ただ無視されたとか、量が少ないとか、遅いというような問題が主なのではなくて、使徒たち自身がみ言葉の御用に専念する時間がないほどの忙しさ、霊的な問題がそこにあったのです。霊的なものは見えません。現に使徒たちは忙しくてもみ言葉の御用をこましてきました。でもそれは健全なことではありませんでした。やはり肉体を持つ者として、忙しければ疲れるのです。疲れたらみ言葉の為に、準備する事もできなくなり、配慮することや人のことを考えることさえできなくなるのです。そこに気づいたのです。聖霊が気づかせて下さいました。
 その真の問題に気づいたので、これからどうすべきなのかがわかったのです。私たちの教会にも、問題や課題があるでしょう。けれども、その問題そのものだけをみたり、目先だけの事を見るのではなくて、その問題の中心部分を見て、解決策を考えていきたいと思うのです。私たちは、あれこれと忙しくする事がいいのではなく、何を優先していくのかをはっきり示されて行動していきたいと思うのです。

 ⒉選びの基準
 今回の日々の配給の苦情の問題に対する解決策として示されたのは3節です。
 3節を共に読みましょう。「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」 食事の配給や世話、会計といった働きの為に人を選ぶという事でした。重労働であり、大変な仕事でした。ある意味では、誰にでもできることかも知れません。誰にでもできることだから、適当に人数を集めてやらせようではないのです。誰にでも出来る事だからこそ、多くの人々に接し、かかわる仕事だからこそ、多くの人々の中からその働きにふさわしい人々を選ぶというのです。そして、その選びの基準は「霊と知恵に満ちた評判の良い人」なのです。教会に問題が起こりました。苦情が出てきました。そして、その苦情の解決の為に7人の人を選び、7人に食事の配給と世話や会計を任せることにしたのです。「誰かできる人手を挙げて」というようなことではありませんでした。出来る人がするということでもありませんでした。この働きのためには、霊と知恵に満ちた評判の良い人ということが条件でした。
 聖霊に満ちた人、いつもみ言葉に触れて聖霊の声に敏感で従うことのできる人、いつも神様の目線で物事を見ることの出来る人、物ごとのわきまえる知識を持ち、物事にいろいろと判断できる人、クリスチャンにもクリスチャンでない人々にも、良き影響を与え、評判の良い人が7人選ばれたのです。 5節に出てくる7名の人々は、ギリシャ名ですから、ギリシャ語を話すユダヤ人の人々であったということです。日々の配給で軽んじられているという苦情を出した側の人々の中から7人全員を選んだのです。 
 5節の最初に、「一同はこの提案に賛成し」とありますから、教会が一致したわけです。一致して出した回答がヘブライ語を話すユダヤ人から4名、ギリシャ語を話すユダヤ人から3名という人選が常識ではないでしょうか。ギリシャ語を話すユダヤ人側から4名選ぶと、今度は逆のことが起こり、ヘブライ語を話すユダヤ人から苦情が出るということも考えられます。それなのに、7人が7人ともギリシャ語を話すユダヤ人の中から教会が選び出したのです。 この7人の選びの基準は、ギリシャ語を話すユダヤ人、ヘブライ語を話すユダヤ人ということではありませんでした。人間的なものではありませんでした。家柄がいいとか、良い地位にあるとか、話しがうまいとか、よく働くとか、配慮が出来るという者では一切なかったのです。あくまでも「霊と知恵に満ちた評判の良い人」というのが基準で、その基準でみんなで選んだら、たまたまその人々7人がギリシャ語を話すユダヤ人だったのです。
 6節を共に読みましょう。「使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」
ここに現在執事、役員という組織的なことが生まれたのです。
 4節を共に読みましょう。「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」 本来、イエス様によって立てられた使徒たちの、最も大切な働きは祈りと御言葉の御用なのです。静かに自分の部屋で祈り、聖書の言葉に触れて祈る事、そしてみ言葉を大胆に語ることなのです。リビングバイブルには、「そうすれば、私たちは祈りと説教と教育に打ち込むことができます。」とあります。聖書の言葉で養う、学ぶということが付け加えられています。このように、弟子たちが本来すべき働きに戻り、7人の人々にその働きを委ねた時、さらなる神様の業が起こるのです。

 ⒊苦しみのままで終わらない
 7節を共に読みましょう。「こうして、神の言はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」 「こうして」というのは、使徒たちが祈りと御言葉の奉仕に専念し、愛と知恵に満ちた評判の良い人7人を立て、日々の配給や食事の世話、会計等の働きを委ねた結果、神の言葉がますます広まりました。弟子の数が非常に増えました。祭司が大勢救われたのです。教会に出た苦情、反感、対立がなくなり一致することにより、使徒たちはますます祈りに専念し、力強く御言葉を語り、7人の器が愛を持ち、仕えることにより教会が今までにない力を得ました。今までにも、信者の数が増えた。弟子の数が増えたということはありましても、祭司が大勢信仰を持つということはありませんでした。
 今回の始まりは何かと言うと、ギリシャ語を話すユダヤ人から自分たちのやもめが軽んじられている。配給がちゃんとなされていないという苦情でした。当事者同士の間では、小競り合いもあったでしょう。言い合うということもありましたでしょう。教会の内部に対立が生まれたということからこのことが始まりました。教会は、あるいは信仰生活は問題なく、対立もなく、不平もなく導かれたらとは思いますが、神様は問題と思われる事、マイナスと思われる事、どうしようもないと思われることをそのままゆるされることがあります。サタンが教会を分裂させ、信者の数を減らそうとする策略でもあるでしょう。けれども、使徒たちは、聖霊の導きに敏感でした。その問題の出所、何が本当の問題なのかを神様に聞くことが出来ました。困難と思われる状況、苦しみが、辛い事が、神様の力で、ピンチがチャンスに変えられるのです。
 勿論、苦情や対立はないほうがいいです。けれども、人が集まる所、人が増えるという状況の中では、ズレや思い違い、考えの違い、誤解なるものが確かにあります。その時に、その表面に出たそのことに対して右往左往するのか、表面にある言葉や行動だけを問題にするのか、その言葉や行動の背後にある問題を見るのかは、それからの歩みを生き方を大きく二分するのだと思うのです。
 サタンはとにかく神様の言葉を疑わせようとするのです。エバ誘惑されました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1) 愛なる神様がそんなこと言うはずがない。そして、神様が善悪を知る木の実を食べると死ぬと言われたことに対して、「決して死ぬことはない。」(創世記3:4)と神様の言葉を否定するのです。神様の言葉を疑わせ、否定するのがサタンの働きで、そのことに迷わされると、み言葉に確信が持てなくなるのです。だからこそ、聖書の言葉に触れ続け、信頼し続けることが大切なことなのです。
使徒たちが、日々の配給という苦情が出た時、その問題だけを見ないで、神様に聞き、自分たちにこそ問題があることを悟りました。問題が起きたとき、相手がどうだ、あの人がどうだというのではなく、私はどうなのか。私はどうすべきなのかということに目を留めることができれば、そして教会全体がそう見ることができれば、教会の不一致から守られるように思います。
 問題から始まりましたが、その問題を正しく受け止め、なすべきことを導かれ、そのように神様の言葉を聞いて実行する時、神様は大きな恵みを与えて下さるのです。今までにはなかった祭司が大勢信仰を持つということが与えられたのです。このことは、問題から、苦情から、苦悩から、苦しみから生まれた結果だと思うのです。 これらのことから、使徒たちは、ますます祈りと御言葉に専念しました。7人の執事は大いに用いられました。教会は一致して前進していきました。これらはすべて、苦しみから、マイナスから生まれたのです。

 Ⅲ結論部
 2節にあります「食事の世話をする」という世話をするという言葉と4節の「祈りと御言葉の奉仕に専念する」という専念するという言葉は同じ言葉が使われているようです。ですから祈ることや御言葉を語ることと食事の世話をするということは、どちらが上で、どちらが下ということはないのです。神様の前には共に尊い働きなのです。ですから、私はまだ、信仰が足りないですから食事の準備でもするという考え方はおかしいということがわかります。食事の準備も、掃除の奉仕も、印刷の奉仕も、お花の奉仕も、バザーの奉仕も、礼拝での奉仕も、役員や教会学校の奉仕も、牧師のみ言葉の御用も神様の前には、どれも尊い奉仕なのです。だからこそ、どのような奉仕でありましても、やはり、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」がその奉仕に立つべきだと思うのです。「じゃ、私にはその資格はないわ。」と思われた方がいるでしょう。大丈夫です。もうすでに、奉仕しておられる方々は、イエス様から「霊と知恵に満ちた評判の良い人」としての任命を受けているのだと思うのです。だからこそ、日々み言葉に触れ、祈りを通して神様と交わり、自信がないからこそ神様に信頼して、神様に従っていくのだと思うのです。
 私たちの人生や信仰生活には苦しみがあります。痛みがあります。辛い経験をします。こんな苦しい経験をするぐらいなら、信仰を持たなければ良かったというような経験もあるでしょう。神様は何故それを許されたのでしょうか。何のために、意味もなく、愛する私たちをそのような状況に置く事を許されるのでしょうか。愛していないから、そうではありません。不信仰だから、懲らしめの意味で、そうではありません。祝福のためです。以前にも増して祝福するためです。初代教会が苦情を通して、大きく前進し、祭司たちも大勢信仰を持つようになるためです。私たちが経験する痛み、苦しみ、困難、悲しみ、マイナスから生まれ出るものがあるのです。
 イエス様の十字架、神であるお方、罪のないお方が十字架で苦しみ、死ぬという本来あってはならないような出来事を通して、罪ある私たちが、滅びに向かっている私たちが裁かれ、滅ぶのではなく、神であるお方が十字架で苦しみ、血を流し、死んで下さるというマイナスを通して、私たちが救われたのです。新しい命をいただいて生きる者とされ、永遠の命の恵みをいただいたのです。十字架という苦しみ、マイナスがあればこそ、復活があるのです。
苦しみから生まれるものは多くあるでしょう。それぞれに違うでしょう。けれども、苦しみがある、痛みがあるのは、神様に愛されていないのではなく、神様に愛されている証拠なのです。そこから、にじみ出る恵み、生まれてくる祝福があるのです。そのことをどこまでも信じて、この週もみ言葉に触れ、み言葉に信頼し、み言葉にしたがい、実行する者とならせていただきたいと思います。
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6月7日 礼拝メッセージ

2009-06-07 12:56:48 | Weblog
        主日礼拝(三位一体第一主日)     2009.6.7
    「一人ひとりに与えられる恵み」 使徒言行録2:1-13,43-47

 Ⅰ導入部
 おはようございます。6月の第一主日を迎えました。今日も愛する兄姉と共に礼拝を守れます事を感謝致します。先週はペンテコステの礼拝でした。教会学校ではケーキを食べて教会の誕生のお祝いをしました。西大寺教会の赤江弘之先生が2回の礼拝の御用と教会セミナーで御奉仕下さり、私たちにみ言葉とビジョンをお与え下さいました。感謝でした。
 今会堂拡張の工事が行われ、先週は壁が取り除かれました。随分広い感じがいたします。会堂が広げられ、さらに多くの方々に足を運んでいただき、神様に恵みをたくさんいただいてほしいと心から願いお祈り致します。
 先週がペンテコステ礼拝でしたが、今日は、そのペンテコステの記事であります使徒言行録2章から「一人ひとりに与えられる恵み」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈その日がきた
 120名の者たちが、イエス様の約束のお言葉を信じて祈りました。120名の人々が祈った場所はどこかと言うと、それはイエス様と12弟子たちが最後の晩餐をした場所であったようです。イエス様と弟子たちとの最後の食事の思い出の場所、イエス様が仕える僕となり弟子たち一人ひとりの足を洗われた場所、弟子たちが「誰が一番偉いのか」とつばを飛ばしながら話し合った場所でもありました。「俺が一番だ」と自己主張した弟子たちが、今は心を一つにして約束の聖霊を待ち望みつつ祈りをささげたのです。
 そして、2章1節にあるように、「五旬祭の日が来た」のです。ユダヤ人は毎年3つの大きな祭りを守りました。出エジプト記23章15、16節にはその3つの祭りが記されてあります。「あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終りには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。」
 酵母を入れない(種なし)パンの祭りと刈り入れの祭り(収穫の感謝・ペンテコステの祭り)、収穫期の終りの収穫の祭りです。酵母をいれないパンの祭りは過越し祭、刈り入れの祭りは七週の祭り、収穫期の終りの収穫の祭りは仮庵の祭りです。
 ペンテコステとは50番目を意味します。七週の祭りとは、過越しの祭りから七週を過して、50日目から始まる1週間なのです。祈り待ち望む人々は、この50番目のペンテコステの日を迎えたのです。この祭りの歴史的な意味としては、シナイ山でモーセに十戒が与えられたことを記念する祭りであったということです。イスラエル人は、エジプトを脱出してから50日目にシナイ山で神の律法をいただいたのです。ですから、彼らは毎年ペンテコステの日にそのことを覚えてお祝いしたのです。そのような意味で神様が定められた日、五旬節の日、ペンテコステ、50番目の日が来たのです。
 また、ペンテコステは農業的な意味として、刈り入れが終わったことを感謝して、2つのパンがささげられたのです。この日に聖霊が与えられました。イエス様の約束された父の約束、聖霊が120名の一人ひとりの上に与えられたのです。約束を信じて祈る者に神様は答えて下さるのです。私たちは、日々のディボーションを通して、聖書に示されている約束の言葉を信じて祈り続けたいと思います。神の時が来るならば与えられるのです。

 ⒉聖霊の具体的な現れ
 2章2節、3節を共に読みましょう。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」 120名の人々は、心をひとつにして祈りました。 イエス様は、ヨハネによる福音書17章21節~23節で、次のように祈られました。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしを遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」 
 ペンテコステの日、このイエス様のお祈りのように一つになりましたから神様の栄光、聖霊を一人ひとりが受けたのです。聖霊を受けるためには、心を合わせて祈る事が必要です。祈り会に参加し、心を合わせて祈りたいと思うのです。いろいろな諸集会で心を合わせて祈りたいと思います。夫婦で、親子で、友人同士で、ふたり、三人で心を合わせて祈る習慣を身につけたいと思うのです。
 聖霊は突然与えられました。神のみ業は突然与えられます。祈り続ける中で、神様に期待し続ける中で、神様のみ業は起こるのです。聖霊が与えられたということは、祈りに対する神様の答えでした。神様が祈りに答えて下さるということの明白な証拠だったのです。また、イエス様の約束の成就でもありました。イエス様の言葉、神様の言葉は真実であるということの証拠なのです。ですから、私たちは、ただ祈るというのではなく、聖書の言葉、約束の言葉を握り、その言葉を信頼し、その言葉を盾に祈ることが、神様の明確な答えを引き出すのではないでしょうか。聖書には多くの神様の約束があります。その約束のゆえに、神様に祈りたいと思うのです。聖書の言葉を握り、聖書の言葉を通して神様の声を聞いて、それを求めていくのです。
 聖霊が与えられたことの表面的なしるしは、まず神の息です。激しい風とありますが、言語では風よりも人間の息のほうが近いようです。創世記2章7節には、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。土の塵で神のかたちに創造された人間は、命の息により生きた者となりました。ペンテコステの日、聖霊が、命の息が吹き入れられ、本当の意味で生きる者とされたのです。福音書を見ると、霊的なイエス様と人間的、地上的な弟子たちとの間にはずれがありました。話がかみ合わない事が多くありました。その弟子たちが、聖霊をいただいてイエス様の心を、心とすることができました。神の形にかたどられた人として、イエス様のその思いを、願いを彼らが実現していく者となるのです。それが使徒言行録、聖霊行伝と言われる書なのです。
 また、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあるように、響きの音がありました。神様と交わり神様に祈る者がこの音を聞くことが出来るのです。
 聖霊は炎のような舌が現れました。ヘブライ人への手紙12章29節には、「実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」という言葉があります。力の象徴とも言えます。小さな火が大きな火となり、多くの物を燃えつくすように、勝利を得る能力とでも言えるのではないでしょうか。あるいは、肉の思いや罪を焼き尽くすということもできるのではないでしょうか。聖霊が心を一つにして祈る120名の一人ひとりに与えられたのです。4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ」とあります。聖霊は例外なく、私たち一人ひとりの上に与えられているのです。

 ⒊驚きが恵みとなる
 ペンテコステの祭りにいろいろな国に住んでいるユダヤ人はエルサレムにやって来ていました。その国の人々が、聖霊に満たされ、他の国々の言葉で語りだした言葉を聞いたのです。5節、6節を共に読みましょう。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」 自分の故郷の言葉で話されているのを聞いて驚きました。話しているのはガリラヤの田舎の人々である事がわかっていました。どうして彼らがその言葉を話すのか、聞いた人々はその理由はわかりませんでした。何を話していたかというと「神の偉大な業」でした。リビングバイブルには、「神様のすばらしい奇跡の話」とあります。神の偉大な業、神様の素晴らしい奇跡の話とは、イエス様の十字架と復活でした。全ての人々の罪の為に神であるお方、イエス様が十字架で死んで下さることにより、私たち人間の全ての罪が赦され、イエス様がよみがえられた事により、永遠の命の恵みが与えられることを話したのだと思います。
 12節を共に読みましょう。「人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。」 そこには驚きがありました。神のみ業が行われる時に、そこには驚きがあります。「驚くばかりの恵みなりき」という歌があります。神様の驚くべきみ業、それが十字架と復活なのです。 けれども、その驚きを神様の業ではなく違うものとしてとらえた人々もいました。
 13節を共に読みましょう。「しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」 ある人々は、この驚きが信仰となりました。けれども、ある人々には、この驚きが信仰とはなりませんでした。同じ出来事を経験しながら、同じ出来事を見ながら、全く違うことを受け取るのです。ある人々は、神様の偉大な業を聞いたと神様を信じる者となりました。しかし、ある人々は、新しい酒に酔っている、と理由をつけて鈍い心で判断したのです。イエス様の十字架と復活はすでになされているのです。その事実を聞いて、あなたはどちらの態度を取るのでしょうか。信じ受け入れるのか、それとも理由をつけて受け入れないのか。 神様の業を人間の知恵で理解しようとしても無理です。聖書を読むと誰もが、イエス様の十字架と復活の前に、「いったい、これはどういうことなのか」と問う事でしょう。
 ペンテコステの日、人々は120名の者たちが、自分の理解できる国の言葉で語る神様の福音のみ業を聞き、「いったい、これはどういうことなのか」と問うたのです。ペンテコステとは、この問いがなされると言えるでしょう。この問いを通して、神様が罪人である私たちを招いておられるのです。聖霊は心を一つにし、約束を信じて祈る全ての者の上に与えられました。そして、福音を聞き、「いったい、これはどういうことなのか」と問い、神様に信頼する者を救いに導かれるのです。
 2章43節から47節は、聖霊を受けた人々、またペトロの説教により救われた人々の信仰生活が記されています。神様のみ業を通して、皆一つになりました。聖霊のみ業は一つになることです。全ての人が同じ考え、同じ意見を持つということではありません。いろいろな立場を持ち、いろいろな考えを持つ人々が聖霊により一つとされるということだと思います。「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」とイエス様が祈られた通りです。 
 一つとなった人々は、自分の持てる物、与えられている持ち物を共有したのです。各自の必要に応じて皆が分け合いました。うるわしい姿がそこにありました。具体的な助け合いがありました。信仰の事だけではなく、生活のただ中に助け合いがありました。そして、クリスチャンの基本的な歩みとして、心を一つにして礼拝を守り、聖餐式を守り、各グループでの交わりをし、神様を賛美する生活がありました。その結果として、「民衆全体から好意を寄せられた。」と聖書は記しています。また、「救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」とも記しています。  ペンテコステは、一人ひとりに聖霊が与えられ、一人ひとりが大切にされ、心を一つにし、生活においても、信仰においても、教会生活においても、宣教においても、神様の恵みが一人ひとりに与えられたということだと思うのです。

 Ⅲ結論部
 青葉台教会は、昨年創立40周年を迎えました。昨年は青葉台教会のビジョンについて語り合いました。先週は、そのまとめの意味もあり赤江先生に西大寺教会の紹介を通して、神様の祝福された教会の姿を見せていただきました。赤江先生は、み言葉に基づくビジョンが大切だと語って下さいました。神様は今までも青葉台教会を祝福して下さいました。赤江先生は、さらなる飛躍の為に次の手は何かと問われました。限られたスペースの中でだけ考えるのか。その場所は他にあるのか。教会の回りにスペースはないのかとチャレンジ下さいました。 今会堂の拡張工事が進められ、会堂は広くなります。多くの人々が教会に集い、神様の偉大な業、福音を通して救われてほしいと心から願います。
 と同時に、いろいろな集会や交わりの為のスペースがありません。私たちは、青葉台のさらなる愛の交わり、あるいはいろいろな宣教の形を広げるために、スペースを確保しなければなりません。そのために、神様の約束を信じて心を一つにして祈ろうではありませんか。祈り会に足を運んで、心を一つにして祈りましょう。120名の人々が、イエス様の約束の言葉を握り締め、心を合わせてひたすら祈ったように、祈り会で祈りをささげようではありませんか。
 また、私たちも一人ひとりに聖霊が与えられた者として、一つとなり、愛の交わりと配慮、礼拝と聖餐、祈りと賛美というクリスチャンとしての基本的な歩みをする中に、青葉台教会が周りの人々から好意を寄せられるように神様はして下さり、その結果として、神様は救われる人々を仲間に加えて下さるのです。この神様を信頼し、今週もみ言葉に触れ、神様の声を聞いて、心を一つにして愛のわざを実践したいと思うのです。
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