主日礼拝(三位一体第四主日) 2009.6.28
「感謝が満ち溢れる」 使徒言行録16:25-34
Ⅰ導入部
おはようございます。6月の第四主日を迎えました。今日も愛する兄姉と共に礼拝を守れます事を感謝致します。会堂拡張工事が無事金曜日に終わりました。皆さんのお祈りに感謝致します。会堂拡張工事完成を祝って、記念のチャペルコンサートが昨日行われました。中村兄弟姉妹のマリンバとパーカッションの演奏でした。多くの方々と共に会堂拡張完成のお祝いをいたしました。
今日は、この礼拝は会堂拡張完成の感謝礼拝として献げたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈全ての事(特に悪い事)に神に讃美する
ヤコブの手紙5章13節には、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とあります。今日読みましたこの箇所は、パウロとシラスが占いをしていた女奴隷から霊を追い出したかどで、役人に捕らえられ、何度も鞭で打たれ、牢屋に入れられた時のお話です。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とヤコブは言いましたが、パウロとシラスは喜んではいなかったのかも知れません。苦しい時、祈る人は多くおられることでしょう。苦しい時の神頼みという言葉もあります。普段は祈りもしないのに、苦しい時、困難な時、問題があった時は、「神様助けて下さい」と祈る人は多くいるのだと思います。けれども、苦しい時、辛い時、問題が山済みにされた時、賛美する人がどれだけいるのでしょうか。何かが完成した時、成功した時、思い通りに事が運んだ時、人は賛美することができるでしょう。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」と聖書の言葉にあるように、喜びの賛美をささげることができるわけです。
私たちの教会は、会堂が拡張されて素晴らしいものが出来上がりました。事故もなく、スムーズに工事も終り、記念のチャペルコンサートも祝福され、私たちは神様に心からの感謝をささげることができます。今日は、礼拝を通して心からの感謝を神様にささげることができています。
けれども、パウロとシラスはそうではなかったでしょう。神様の導きでフィリピまで導かれリディアと家族が救われて、神様の導きを感じてこれからという時に、捕らえられ、何度も鞭を打たれ、傷を負い、足かせをつけられて牢屋の奥に厳重に入れられたのです。自分たちの失敗や何かでこのような目に遭わされているのであれば、苦しみの理由をそれなりに受け止め、反省もできることでしょう。しかし、自分たちの側に鞭打たれ、牢屋に入れられるという理由が全く見当たらないわけです。ですから、悪くすると、フィリピに来たことを後悔したり、自分たちを訴えた女奴隷の主人たちを恨んだり、自分たちをこのような苦しい目に遭わせることを許された神様に文句を言うということになりかねないのです。賛美どころか呪いが口から出てしまうのです。けれども、パウロとシラスは、ひどい目に遭わせられても、いやな経験をしても、彼らは真夜中、賛美の歌を歌い、神様に祈りをささげたのでした。
どのような思いでさんびしたのでしょうか。やけくそで、怒鳴り声を出しながら、仕方なく歌ったのでしょうか。にがにがしい思いを心に持ちながら、言葉では神様に感謝をするような祈りをささげたのでしょうか。 おそらく、今の状態、パウロとシラスが経験した辛い事、痛い事、いやの事そのままの状態を受け止め、感謝をささげたのではないでしょうか。「自分たちのせいではないのにもかかわらず、捕らえられたことを感謝します。私たちは鞭打たれるような事はしておりませんが、今鞭打たれたことを感謝します。その事を主が許されているということを覚えて感謝します。」
マーリン・キャロザースという方が書かれた「讃美の力」という本があります。この本の中には、いろいろな苦しみ、辛い経験をされた方々の事が記されています。そのような経験をされた方々が、マーリン・キャロザース師に「お祈りして下さい」と祈りの要請をするわけですが、その時、先生は、「自分を苦しめている状況を変えて下さいと祈るのではなくて、自分の身に起っている悪い事、辛い事、いやな事について神様に讃美をする」ことを勧めるのです。「讃美するとは、ある事について賛成を表明し、積極的に肯定することであり、賛成を表明することは、そのことを受け入れ、そのことに同意する事を意味します。ですから、困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起った事を私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れ、賛成する事を意味します。」と記されていました。 どうでしょうか。皆さんが経験している全ての辛い事、痛い事、嫌な事全てのゆえに、神様に讃美することができるでしょうか。
⒉神様を疑わないで信じる
パウロとシラスは、自分たちの今の悪い状況を、そのままを受け入れ、そのまま神様に讃美をささげたわけです。そこで何が起こったかと言うと、25節では、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」26節では、「大地震が起り、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」という事が起りました。 何故! パウロとシラスが讃美の歌を歌い、神に祈ったからです。「私たちは。悪くないのです。あなたのために、福音をもっと多くの人々に伝えたいのです。だから、ここから出して下さい。奇跡を起こして助けて下さい。」という祈りでもいいのでしょう。しかし、パウロとシラスは、自分たちの今受けている悪い事全てを許しておられるがゆえに、神様に讃美したのです。感謝したのです。心からの感謝と喜びのゆえに神様を讃美し、感謝の祈りをささげたのでしょう。その讃美と祈りの直後に、神様のみ業が速(すみ)やかに起こされたのです。
「讃美の力」の本の中にも、30年もお父さんの酒癖の悪い事に対する回復を祈り求めていた息子が、父の酒癖の悪いというその現状をそのまま神様に感謝し、そのことのゆえに神様を讃美したところ、1日で神様のみ業が起り、その父は救われ、お酒から解放されたというお話があります。その他にも、家族のいろいろな難しい問題が、その問題にゆえに神様に讃美するということを通して、解決し、神様の祝福を受けているという事が記されています。
パウロとシラスもそうでした。自分の経験した悪い事柄に対して、つぶやいたり、文句を言うのではなく、反対にそのことのゆえに神様に讃美し、祈りました。すると、牢の戸がみな開き、全ての囚人のつながれていた鎖が外れてしまったのです。パウロとシラスの鎖だけではなく、全ての囚人の鎖が外れたのです。何故ですか。全ての囚人たちの鎖がみな外され、牢の戸がみな開かれたのなら、逃げない手はありません。けれども、誰一人として逃げませんでした。逃げて当然の状況の中で、誰一人逃げませんでした。品行方正な人々ではありません。すきあれば逃げようといつも考えていた人々でしょう。だから、看守は、牢の戸が開いているのを見て、全ての囚人が逃げてしまったと思い込み、その責任をとって自害しようとしたのです。ですから、28節の「パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」」という事を聞いて恐れたのです。戸がみな開いているということも驚きですけれども、それ以上に、全ての囚人が誰一人として逃げていないということが看守にとっては、信じられない驚きだったのです。看守は、神様のみ業の前に打たれて、救いを求めました。そして、家族共々イエス様を信じて、洗礼を受けたのです。
牢の看守に会うためには、牢に入る必要がありました。牢に入るためには訴えられる必要がありました。パウロやシラスは悪い事はしませんから、自分たちにつきまとう女奴隷から霊を追い出すということを通して、女奴隷の占いで生計を立てていた主人たちから反感を受けて、訴えられ、鞭打たれ、牢に入れられたのです。神様の周到な御計画でした。神様のご計画の中で、パウロとシラスは、自分たちには問題と思える、マイナスに見えること、いやな事、辛い事、痛い事を許されている神様に、その問題ゆえに、その辛さゆえに、痛さゆえに、神様を讃美したのです。 ここがポイントでした。私たちは、ここでつぶやいたり、文句を言ったり、あきらめたりして、神様に背を向けて、神様の驚くべきみ業を失っているということがあるように思うのですが、いかがでしょうか。パウロとシラスの讃美と祈りにゆえに、看守と家族が救われました。おそらく、囚人の中にも救われる人々があったのだと思います。どこまでも、神様を信頼して讃美していこうではありませんか。
⒊全ての事が益となる
「讃美の力」の本には、次のようなことも書かれていました。「私たちは神を讃美するのであって、何かの分からない運命を讃美するのではありません。それはまた、今起っているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れていることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味をなさないでしょう。」とあり、テサロニケ信徒への手紙第一の5章16節から18節のみ言葉を紹介しておられます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。」
また、このようにも書いておられました。「神がなぜ、またどうしてこんな事を自分の身に起されたのか、そのわけを知ろうとすると、私たちは知性によって困難に陥ります。神がある事をなぜ、またどうしてなさるのかを私たちは決して理解できません。しかし、神の望んでおられることは、それをなしておられるのが神であることを私たちが知性をもって受け入れることなのです。このことが私たちの讃美の基盤となるのです。神は、ご自身が私たちを愛しておられること、また、私たちに対してご計画を持っておられること、そのことを私たちが理解することを望んでおられるのです。」とあり、ローマの信徒への手紙8章28節のみ言葉を紹介しておられます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
神様を信じる者には、万事が益となるのです。辛い事もいやな事も痛い事も、問題もマイナスもそのままでは終わらないのです。必ず、益、祝福に変えられるのです。神様が変えて下さるのです。
そのしるしはイエス・キリスト様の十字架です。聖にしてきよいお方、罪のないお方、神であるお方が人間の姿をとり、この地上に来て下さり、私たちの罪を赦すために、私たちに身代わりに十字架にかかって苦しみを受け、死んで下さいました。死を経験するはずのないお方が死なれたのです。墓に葬られたのです。けれども、3日目によみがえり神である事を示されました。神様の愛の証拠は、イエス・キリスト様の十字架なのです。会堂の中心の立つこの十字架こそ、神様の愛の最大の現れであり、私たちの救いの原点なのです。
今、青葉台教会では三浦綾子文学読書会や文学講座を行っています。三浦綾子さんの小説を通して、その神様に対する信仰を教えられたいといつも願い、私も参加しています。課題の本をいつも読まないで参加しているのは私だけです。三浦綾子さんは多くの痛みを経験した人だというのは有名なことです。自分自身で、「病気の問い屋みたい」だと言っておられました。彼女は、次から次へといろいろな病気になられて、治らないままに天に召されて行かれました。
彼女は次のようなことを言われました。「人間というのは、いつかは死んでいくわけだから、病気が治ることでも神のみわざは現れるけれども、病気のまま、困難なままでも神のみわざは現れる。」 さらにこのように言われました。「私は癌になった時、ティリヒという神学者の「神は癌を造られた」という言葉を読んで、文字通り、私は天からの光を受けた。神は愛なのである。その愛なる神は癌を造られたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとは言えないのではないか。私たちは苦難を取り違えて受け取っているのではないか、とティリヒの言葉に思った。神が私に下さるものに、悪いものはない。私はベッドの上で、幾度もそうつぶやいた。すると、この癌という神からの贈り物が、実に意味のある素晴らしいプレゼントに思われてきた。」
三浦綾子さんは、ご自身のパンフレットの中で「病まなければ」という詩を紹介しておられます。
「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。
病まなければ、信じ得ない奇跡がある。
病まなければ、聴き得ない御言がある。
病まなければ、近づき得ない聖所がある。
病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。
おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった。」
私たちは、病気や悪い事マイナスと思えることを経験します。けれども、神様はそのマイナスを許されたということは、必ずそのマイナスをプラスに変えて下さるということなのです。そのことを私たちが、アーメンと信じるかどうかが問われているのだと思うのです。
私たちは、まだ問題が解決されていなくても、苦しみや痛みのど真ん中でも、たとえ光が見えない暗闇の中でも、神様が愛である事、わたしを愛しておられること、神様が必ず祝福して恵みを与えて下さることを疑わずに、信じて讃美し、祈る事が私たちのまずすべきことなのだと思うのです。
Ⅲ結論部
人生の真夜中だと思える真っ只中にありながら、パウロとシラスは、鞭打たれた傷がズキズキとうずく中で、「この痛みのゆえに、牢に捕らえられていることのゆえに、神様あなたを讃美します。」と神様に讃美の歌を歌い、祈りをささげたのです。神様が許されていることのゆえに、神様に絶対の信頼を持っていたのです。私たちも何が起ころうと、びっくりするような事があっても、日々の生活の中で困ったことがあっても、私を愛し、イエス様を十字架につけるほどに私を愛して下さった神様を疑わず、どこまでも信頼して、信じて、お任せしていきたいと思うのです。
また、「讃美の力」の本の中の言葉を紹介したいと思います。
「神を讃美するということは特効薬とか万能薬、またはうまくいくためのまじないの文句といったものではありません。それは神のみ言葉の中にしっかりと裏づけられた命の通った方法なのです。私たちは、願っている結果のために神を讃美するのではなく、現在のあるがままを、神に讃美するのです。願っている結果をひそかに望みながら神を讃美している間は、ただ自分を欺いているにすぎませんし、また、そのことで私たちを変え、また私たちの状況を変える何事も起らない事は確かです。
讃美は今の現状を、私たちに対する神の恵み深い、全きみこころの一部として、全面的に、しかも喜んで受け入れることにその基盤があります。讃美は、後にそうなると思っていること、あるいはそう願っていることに基盤を置くのではありません。これが讃美する場合に守られるべき絶対的な法則です。私たちが神を讃美するのは、自分に起るだろうと期待していることのためではないのです。そうではなく、今のままの神を受け入れ、今のままの自分の立場や状態のゆえに神を讃美するのです。」
神様を讃美するとは神様を喜ぶ事だと聖書に記されています。私たちは、どのような事を経験しようとも、何かの故にではなく、神様を喜ぶ者でありたいと思うのです。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とヤコブは言いました。会堂拡張工事が終り、私たちは神様に感謝を現したいと思います。喜んでいる人は讃美しなさい。讃美したいと思います。また、困難の中にありながらも、礼拝を守っておられる方々もおられることでしょう。その現状をそのまま受け入れて、神様に讃美をささげていただきたいと思うのです。
この週も、この神様に期待し、信頼し、委ねていくためにも、聖書の言葉に触れ続けて歩ませていただきたいと思うのです。
「感謝が満ち溢れる」 使徒言行録16:25-34
Ⅰ導入部
おはようございます。6月の第四主日を迎えました。今日も愛する兄姉と共に礼拝を守れます事を感謝致します。会堂拡張工事が無事金曜日に終わりました。皆さんのお祈りに感謝致します。会堂拡張工事完成を祝って、記念のチャペルコンサートが昨日行われました。中村兄弟姉妹のマリンバとパーカッションの演奏でした。多くの方々と共に会堂拡張完成のお祝いをいたしました。
今日は、この礼拝は会堂拡張完成の感謝礼拝として献げたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈全ての事(特に悪い事)に神に讃美する
ヤコブの手紙5章13節には、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とあります。今日読みましたこの箇所は、パウロとシラスが占いをしていた女奴隷から霊を追い出したかどで、役人に捕らえられ、何度も鞭で打たれ、牢屋に入れられた時のお話です。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とヤコブは言いましたが、パウロとシラスは喜んではいなかったのかも知れません。苦しい時、祈る人は多くおられることでしょう。苦しい時の神頼みという言葉もあります。普段は祈りもしないのに、苦しい時、困難な時、問題があった時は、「神様助けて下さい」と祈る人は多くいるのだと思います。けれども、苦しい時、辛い時、問題が山済みにされた時、賛美する人がどれだけいるのでしょうか。何かが完成した時、成功した時、思い通りに事が運んだ時、人は賛美することができるでしょう。「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」と聖書の言葉にあるように、喜びの賛美をささげることができるわけです。
私たちの教会は、会堂が拡張されて素晴らしいものが出来上がりました。事故もなく、スムーズに工事も終り、記念のチャペルコンサートも祝福され、私たちは神様に心からの感謝をささげることができます。今日は、礼拝を通して心からの感謝を神様にささげることができています。
けれども、パウロとシラスはそうではなかったでしょう。神様の導きでフィリピまで導かれリディアと家族が救われて、神様の導きを感じてこれからという時に、捕らえられ、何度も鞭を打たれ、傷を負い、足かせをつけられて牢屋の奥に厳重に入れられたのです。自分たちの失敗や何かでこのような目に遭わされているのであれば、苦しみの理由をそれなりに受け止め、反省もできることでしょう。しかし、自分たちの側に鞭打たれ、牢屋に入れられるという理由が全く見当たらないわけです。ですから、悪くすると、フィリピに来たことを後悔したり、自分たちを訴えた女奴隷の主人たちを恨んだり、自分たちをこのような苦しい目に遭わせることを許された神様に文句を言うということになりかねないのです。賛美どころか呪いが口から出てしまうのです。けれども、パウロとシラスは、ひどい目に遭わせられても、いやな経験をしても、彼らは真夜中、賛美の歌を歌い、神様に祈りをささげたのでした。
どのような思いでさんびしたのでしょうか。やけくそで、怒鳴り声を出しながら、仕方なく歌ったのでしょうか。にがにがしい思いを心に持ちながら、言葉では神様に感謝をするような祈りをささげたのでしょうか。 おそらく、今の状態、パウロとシラスが経験した辛い事、痛い事、いやの事そのままの状態を受け止め、感謝をささげたのではないでしょうか。「自分たちのせいではないのにもかかわらず、捕らえられたことを感謝します。私たちは鞭打たれるような事はしておりませんが、今鞭打たれたことを感謝します。その事を主が許されているということを覚えて感謝します。」
マーリン・キャロザースという方が書かれた「讃美の力」という本があります。この本の中には、いろいろな苦しみ、辛い経験をされた方々の事が記されています。そのような経験をされた方々が、マーリン・キャロザース師に「お祈りして下さい」と祈りの要請をするわけですが、その時、先生は、「自分を苦しめている状況を変えて下さいと祈るのではなくて、自分の身に起っている悪い事、辛い事、いやな事について神様に讃美をする」ことを勧めるのです。「讃美するとは、ある事について賛成を表明し、積極的に肯定することであり、賛成を表明することは、そのことを受け入れ、そのことに同意する事を意味します。ですから、困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起った事を私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れ、賛成する事を意味します。」と記されていました。 どうでしょうか。皆さんが経験している全ての辛い事、痛い事、嫌な事全てのゆえに、神様に讃美することができるでしょうか。
⒉神様を疑わないで信じる
パウロとシラスは、自分たちの今の悪い状況を、そのままを受け入れ、そのまま神様に讃美をささげたわけです。そこで何が起こったかと言うと、25節では、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」26節では、「大地震が起り、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」という事が起りました。 何故! パウロとシラスが讃美の歌を歌い、神に祈ったからです。「私たちは。悪くないのです。あなたのために、福音をもっと多くの人々に伝えたいのです。だから、ここから出して下さい。奇跡を起こして助けて下さい。」という祈りでもいいのでしょう。しかし、パウロとシラスは、自分たちの今受けている悪い事全てを許しておられるがゆえに、神様に讃美したのです。感謝したのです。心からの感謝と喜びのゆえに神様を讃美し、感謝の祈りをささげたのでしょう。その讃美と祈りの直後に、神様のみ業が速(すみ)やかに起こされたのです。
「讃美の力」の本の中にも、30年もお父さんの酒癖の悪い事に対する回復を祈り求めていた息子が、父の酒癖の悪いというその現状をそのまま神様に感謝し、そのことのゆえに神様を讃美したところ、1日で神様のみ業が起り、その父は救われ、お酒から解放されたというお話があります。その他にも、家族のいろいろな難しい問題が、その問題にゆえに神様に讃美するということを通して、解決し、神様の祝福を受けているという事が記されています。
パウロとシラスもそうでした。自分の経験した悪い事柄に対して、つぶやいたり、文句を言うのではなく、反対にそのことのゆえに神様に讃美し、祈りました。すると、牢の戸がみな開き、全ての囚人のつながれていた鎖が外れてしまったのです。パウロとシラスの鎖だけではなく、全ての囚人の鎖が外れたのです。何故ですか。全ての囚人たちの鎖がみな外され、牢の戸がみな開かれたのなら、逃げない手はありません。けれども、誰一人として逃げませんでした。逃げて当然の状況の中で、誰一人逃げませんでした。品行方正な人々ではありません。すきあれば逃げようといつも考えていた人々でしょう。だから、看守は、牢の戸が開いているのを見て、全ての囚人が逃げてしまったと思い込み、その責任をとって自害しようとしたのです。ですから、28節の「パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」」という事を聞いて恐れたのです。戸がみな開いているということも驚きですけれども、それ以上に、全ての囚人が誰一人として逃げていないということが看守にとっては、信じられない驚きだったのです。看守は、神様のみ業の前に打たれて、救いを求めました。そして、家族共々イエス様を信じて、洗礼を受けたのです。
牢の看守に会うためには、牢に入る必要がありました。牢に入るためには訴えられる必要がありました。パウロやシラスは悪い事はしませんから、自分たちにつきまとう女奴隷から霊を追い出すということを通して、女奴隷の占いで生計を立てていた主人たちから反感を受けて、訴えられ、鞭打たれ、牢に入れられたのです。神様の周到な御計画でした。神様のご計画の中で、パウロとシラスは、自分たちには問題と思える、マイナスに見えること、いやな事、辛い事、痛い事を許されている神様に、その問題ゆえに、その辛さゆえに、痛さゆえに、神様を讃美したのです。 ここがポイントでした。私たちは、ここでつぶやいたり、文句を言ったり、あきらめたりして、神様に背を向けて、神様の驚くべきみ業を失っているということがあるように思うのですが、いかがでしょうか。パウロとシラスの讃美と祈りにゆえに、看守と家族が救われました。おそらく、囚人の中にも救われる人々があったのだと思います。どこまでも、神様を信頼して讃美していこうではありませんか。
⒊全ての事が益となる
「讃美の力」の本には、次のようなことも書かれていました。「私たちは神を讃美するのであって、何かの分からない運命を讃美するのではありません。それはまた、今起っているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れていることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味をなさないでしょう。」とあり、テサロニケ信徒への手紙第一の5章16節から18節のみ言葉を紹介しておられます。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。」
また、このようにも書いておられました。「神がなぜ、またどうしてこんな事を自分の身に起されたのか、そのわけを知ろうとすると、私たちは知性によって困難に陥ります。神がある事をなぜ、またどうしてなさるのかを私たちは決して理解できません。しかし、神の望んでおられることは、それをなしておられるのが神であることを私たちが知性をもって受け入れることなのです。このことが私たちの讃美の基盤となるのです。神は、ご自身が私たちを愛しておられること、また、私たちに対してご計画を持っておられること、そのことを私たちが理解することを望んでおられるのです。」とあり、ローマの信徒への手紙8章28節のみ言葉を紹介しておられます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
神様を信じる者には、万事が益となるのです。辛い事もいやな事も痛い事も、問題もマイナスもそのままでは終わらないのです。必ず、益、祝福に変えられるのです。神様が変えて下さるのです。
そのしるしはイエス・キリスト様の十字架です。聖にしてきよいお方、罪のないお方、神であるお方が人間の姿をとり、この地上に来て下さり、私たちの罪を赦すために、私たちに身代わりに十字架にかかって苦しみを受け、死んで下さいました。死を経験するはずのないお方が死なれたのです。墓に葬られたのです。けれども、3日目によみがえり神である事を示されました。神様の愛の証拠は、イエス・キリスト様の十字架なのです。会堂の中心の立つこの十字架こそ、神様の愛の最大の現れであり、私たちの救いの原点なのです。
今、青葉台教会では三浦綾子文学読書会や文学講座を行っています。三浦綾子さんの小説を通して、その神様に対する信仰を教えられたいといつも願い、私も参加しています。課題の本をいつも読まないで参加しているのは私だけです。三浦綾子さんは多くの痛みを経験した人だというのは有名なことです。自分自身で、「病気の問い屋みたい」だと言っておられました。彼女は、次から次へといろいろな病気になられて、治らないままに天に召されて行かれました。
彼女は次のようなことを言われました。「人間というのは、いつかは死んでいくわけだから、病気が治ることでも神のみわざは現れるけれども、病気のまま、困難なままでも神のみわざは現れる。」 さらにこのように言われました。「私は癌になった時、ティリヒという神学者の「神は癌を造られた」という言葉を読んで、文字通り、私は天からの光を受けた。神は愛なのである。その愛なる神は癌を造られたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとは言えないのではないか。私たちは苦難を取り違えて受け取っているのではないか、とティリヒの言葉に思った。神が私に下さるものに、悪いものはない。私はベッドの上で、幾度もそうつぶやいた。すると、この癌という神からの贈り物が、実に意味のある素晴らしいプレゼントに思われてきた。」
三浦綾子さんは、ご自身のパンフレットの中で「病まなければ」という詩を紹介しておられます。
「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。
病まなければ、信じ得ない奇跡がある。
病まなければ、聴き得ない御言がある。
病まなければ、近づき得ない聖所がある。
病まなければ、仰ぎ得ない聖顔がある。
おお病まなければ、私は人間でさえもあり得なかった。」
私たちは、病気や悪い事マイナスと思えることを経験します。けれども、神様はそのマイナスを許されたということは、必ずそのマイナスをプラスに変えて下さるということなのです。そのことを私たちが、アーメンと信じるかどうかが問われているのだと思うのです。
私たちは、まだ問題が解決されていなくても、苦しみや痛みのど真ん中でも、たとえ光が見えない暗闇の中でも、神様が愛である事、わたしを愛しておられること、神様が必ず祝福して恵みを与えて下さることを疑わずに、信じて讃美し、祈る事が私たちのまずすべきことなのだと思うのです。
Ⅲ結論部
人生の真夜中だと思える真っ只中にありながら、パウロとシラスは、鞭打たれた傷がズキズキとうずく中で、「この痛みのゆえに、牢に捕らえられていることのゆえに、神様あなたを讃美します。」と神様に讃美の歌を歌い、祈りをささげたのです。神様が許されていることのゆえに、神様に絶対の信頼を持っていたのです。私たちも何が起ころうと、びっくりするような事があっても、日々の生活の中で困ったことがあっても、私を愛し、イエス様を十字架につけるほどに私を愛して下さった神様を疑わず、どこまでも信頼して、信じて、お任せしていきたいと思うのです。
また、「讃美の力」の本の中の言葉を紹介したいと思います。
「神を讃美するということは特効薬とか万能薬、またはうまくいくためのまじないの文句といったものではありません。それは神のみ言葉の中にしっかりと裏づけられた命の通った方法なのです。私たちは、願っている結果のために神を讃美するのではなく、現在のあるがままを、神に讃美するのです。願っている結果をひそかに望みながら神を讃美している間は、ただ自分を欺いているにすぎませんし、また、そのことで私たちを変え、また私たちの状況を変える何事も起らない事は確かです。
讃美は今の現状を、私たちに対する神の恵み深い、全きみこころの一部として、全面的に、しかも喜んで受け入れることにその基盤があります。讃美は、後にそうなると思っていること、あるいはそう願っていることに基盤を置くのではありません。これが讃美する場合に守られるべき絶対的な法則です。私たちが神を讃美するのは、自分に起るだろうと期待していることのためではないのです。そうではなく、今のままの神を受け入れ、今のままの自分の立場や状態のゆえに神を讃美するのです。」
神様を讃美するとは神様を喜ぶ事だと聖書に記されています。私たちは、どのような事を経験しようとも、何かの故にではなく、神様を喜ぶ者でありたいと思うのです。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。」とヤコブは言いました。会堂拡張工事が終り、私たちは神様に感謝を現したいと思います。喜んでいる人は讃美しなさい。讃美したいと思います。また、困難の中にありながらも、礼拝を守っておられる方々もおられることでしょう。その現状をそのまま受け入れて、神様に讃美をささげていただきたいと思うのです。
この週も、この神様に期待し、信頼し、委ねていくためにも、聖書の言葉に触れ続けて歩ませていただきたいと思うのです。