江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年7月30日)

2023-07-30 12:46:13 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第八主日)   2023.7.30

キリスト者の腕の見せどころ」 ヨシュア記1:1~9

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第五の日曜日を迎えました。今日も暑い日ではありますが、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。明日で7月も終わり、暑い8月となります。8月も、健康に注意しながらも、私たちは霊的な養い、毎日神様の言葉に触れ、祈ると同時に、日曜日の礼拝を大切にしたいと思います。8月も午前7時からの早朝礼拝がありますので、早朝礼拝をお勧めいたします。

今日は、ヨシュア記1章1節から9節を通して、「キリスト者の腕の見せどころ」という題でお話し致します。

Ⅱ本論部

一、不安と心配の中にあるあなたに神様は語る

ヨシュア記1章1節には、「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。」とあります。40年の長きにわたりイスラエルの民を導いて来た偉大な指導者モーセは死にました。約束の地、カナンの地に入ることはできませんでしたが、ネボ山から見渡すことが許されて、モーセは神様の大きな恵みを思いながら、神様はモーセを取り去られたのでした。モーセの死は、ヨシュアにとってもイスラエルの民にとっても、大きな痛みと悲しみでした。申命記34章8節には、「イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。」とあります。偉大な指導者を失ったイスラエル民でしたが、神様はモーセの従者ヨシュアに語られたのです。モーセは主の僕と言われました。「僕」とは、主人にとっては、所有物や道具とされていた存在でした。僕に求められることは、神様の意志、神様の命じられたとおりに実行することでした。「主の僕」という称号は、人間に与えられた最高の称号でしょう。神様に従うということが、人間にとっては、最も素晴らしく尊いことであり、それ以上の事はないのです。申命記の最後34章10節から12節には、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。」とあります。このように、モーセは預言者として神様と特別な関係にあった人物でした。ヨシュアが、モーセの従者であるということは、神様の行う出来事を引き継ぐ存在であったということです。

1章1節には、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。従者とは、見習い中ということでもあります。祭司エリの元にいた少年サムエルのようです。また、モーセのかばん持ちでありました。モーセの命令に忠実に聞いて従っていたのです。ヨシュアの元々の名前は、「ホセア」でした。ホセアとは、「救い」という意味があります。モーセがヨシュアという名前を付けました。ヨシュアとは、「主は救い」、ギリシャ語の「イエス」であり、「イエス」とは、「ヨシュア」というヘブライ語の名前のギリシャ語の読みです。

1章2節には、「「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」」とあります。リビングバイブルには、「あなたこそ次のイスラエルを担う新しい指導者だ。」とあります。ヨシュアは、モーセの跡継ぎとして、イスラエルの民を導くのです。

偉大な指導者の跡を継ぐということは簡単なことではありません。偉大な指導者モーセの後では、どのような優秀な人が指導者になっても、どこかで、何かで比べられるものでしょう。神様は、そのことを十分ご承知の上で、ヨシュアを選び立てられるのです。

神様は、ヨシュアに「あの偉大な指導者モーセのようになれ」とは言われませんでした。ヨシュアには、偉大な指導者モーセとは違うヨシュア自身に与えられた使命を実現していく使命、イスラエルの民を約束の地に導くという使命が与えられているのです。

ヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と言われても、ヨシュアにとっては、自分に何ができるのか。イスラエルの人々にヨルダン川を渡らせ、約束の地、カナンの地に導くことなどできるのだろうかと不安でいっぱいだったのでしょう。そのヨシュアに、神様は語られるのです。私たちにも、信仰生活の中で、不安や恐れが多くあることでしょう。そのような私たちにも、神様は語って下さるのです。聖書の言葉、神の言葉を通して、神様は私たちに語られるのです。

二、あなたは絶対に神様に見捨てられない

1章3節、4節には、「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。」とあります。「あなたたちに与える。」とありますが、2節にも「与えようとしている土地」の「与える」という言葉は、完了形です。約束の地、カナンの土地に入ること、獲得することは未来の事ですが、神様にとっては、確実にすでに与えているということなのです。信仰のゆえに、すでにそのことが完了していることを表すために、未来の事でも、ここでは、「もうすでに与えている」という完了形で書かれているのです。

モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」と勝利はすでに確定しているのです。勝つか負けるのか分からないような戦いではないということです。もう勝利はすでに与えられていることとして戦うのです。また、「わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」という約束は、神様がアブラハムに約束されたことでもありました。(創世記12:7、13:17)

1章5節には、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」とあります。ヨシュアは、「ヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と神様にご命令されて、信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはり恐れがあったでしょう。信仰があったら、全く恐れがなくなるというのではないのです。恐れていいのです。恐れるのが私たち人間なのです。雪解け水で、洪水のように川岸まで満ち溢れているヨルダン川を、100万人以上の人々をどうやって渡らせることができるのか、どのような方法を考えてみても人間のわざでは、人間の力では不可能に見えたのに違いありません。そのように不安で押しつぶされそうなヨシュアに、神様は「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」という励ましの言葉をかけられたのです。「わたしはモーセと共にいたように」とモーセの従者であったヨシュアには、神様がいつもモーセと共におられ神様のみ業がなされてきたことを見て来たのです。体験して来たのです。そのモーセと共におられた神様が、ヨシュアと共にいて下さると約束され、それと共に、「あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と語って下さいました。恐れと不安の中にいるヨシュアにとって、何と励ましの勇気の出る神様の言葉であったでしょうか。同じように、信仰生活や社会生活、家庭生活の中で、不安や恐れで満たされている私たちにも、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と約束していて下さるのです。何と感謝なことでしょう。

三、神様が共におられるから勇気が出る

6節には、「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」とあります。「強く、雄々しくあれ。」とは、信仰の事でしょう。神様を信じる心のあり様です。ヨシュアが、自分の力や考えに過信することなく、時の運に任せるということでもなく、神様が語られたことが真実であると確信して、神様に信頼して歩んで行くことなのです。ヨシュアには、イスラエルの人々を約束の地に導き、その土地を継がせることができるかどうか不安であったでしょう。しかし、神様はヨシュアに、「あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」と言われた神様の言葉をヨシュアは信じて歩むのです。

7節、8節には、「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」とあります。神様は、ヨシュアに、励ましの言葉だけではなく、モーセに与えた律法があることを示します。モーセは死んでいなくなりましたが、ヨシュアのもとには、律法、神の言葉がありました。律法を忠実に守ること、律法、神の言葉を実行することで成功すること、律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさみ、忠実に守り行うことで栄え、成功すると重ねて語られたのです。

9節には、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」とあります。

6節、7節、9節で、「強く、雄々しくあれ。」と三度、神様はヨシュアに語られました。数字の三度以上に、何度もという意味もありますので、神様は何度も何度も、「強く、雄々しくあれ。」と言われるのです。ヨシュアはそんなに弱かったのでしょうか。「強く、雄々しくあれ。」というのは、心と身体を鍛えて、戦い抜けという意味ではありません。リビングバイブルは、「勇気を出しなさい。」と訳しています。共にいると言われ、勇気を出せと言われる神様を信頼することにより、強く、雄々しくある、勇気を出せるということなのです。9節を「だいじょうぶ牧師の元気が出る聖書のことば」にある木坂先生訳では、「あなたの神であるわたしは、あなたを愛しています。いつも一緒にいます。あなたが家にいるときから、職場にも、学校にも、スーパーにも、どこでもわたしはあなたと共にいます。いつもあなたを見守っています。心配することはありません。安心してください。」とあります。もう一つあります。「わたしはあなたといつも一緒にいます。どこに行っても共にいます。絶対にあなたを見捨てることはありません。だから勇気を出して自信を持ちましょう。どんな時にも、必ず良くなると希望をもってもだいじょうぶです。あなたには神であるわたしがついているのですから。」 最後の晩餐の席で、イエス様の御自分は去って行く、という言葉に不安であった弟子たちに、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と励まされたのでした。

 私たちは自分に自信があるから強く雄々しくあるのではありません。私たちには、神様の言葉が与えられており、神様が共におられるから、神様が必ず助け導いて下さるので強くなれる、雄々しくなれる、勇気を持つことができるのです。

Ⅲ結論部

あの偉大な指導者、神様と顔と顔を合わせてという親密な関係、そのモーセの後を引き継ぐヨシュアのプレッシャーは並大抵のことではありませんでした。そのヨシュアに神様は、約束の地、カナンの地を既に与えていると約束され、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と励まし、律法、神の言葉にしっかり立つようにと命じられました。ヨシュアは、モーセと自分を比べると自分の小ささが見えました。ヨシュアのすべきことはモーセと自分を比べて、頑張って奮い立つということではありませんでした。神様の語られること、神様の言葉に信頼して歩むことでした。信仰が与えられているキリスト者であっても、現実の厳しさの中で、信仰が吹っ飛んでしまいそうになります。神様の存在を疑ってしまいそうになるかも知れません。他のキリスト者と比べて自分の信仰の小ささ、弱さを感じることもあるでしょう。私たちは誰かと信仰を比較する必要はないのです、あなたはあなたでいいのです。私の罪のために、十字架にかかり父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげられ、死んで葬られたイエス様はよみがえり、罪と死に勝利されました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。私のために命さえ与えられたイエス様に目を留めて、私たちに与えられた神様の言葉、聖書の言葉に毎日触れつつ、環境がどうであれ、語られる言葉を信じて、どこまでも神様に信頼する姿こそ、キリスト者の腕の見せどころなのです。過去に犯した事実は変えられなくても、イエス様の十字架と復活を通して、その過去の持つ意味が、神様の恵みによって変わるのです。私たちは、この週、何が起こるか分からない不安な道かも知れません。けれども、ヨシュアに語られたように、「あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」言われるイエス様の目を留めて歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(23年7月23日)

2023-07-23 12:42:25 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第七主日)   2023.7.23

望みがかなえられなくても満足」 申命記3:23-29.32:48-52

 Ⅰ導入部

おはようございます。7月の第四の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。学生の人たちは、夏休みに入りました。長い夏休みのようで、気が付いたら学校が始まる前の日だったということがあるのかも知れません。最近の夏休みの宿題は、紙媒体ではなく、アイパットで宿題を完成させて、先生に送信するということのようです。3年間のコロナ感染の影響もあるのでしょうが、宿題も機械的になりお母さん方には手に負えないというラジオの話を聞きました。また、お母さんたちは、子どもたちが家にいるので、食事の準備やその他の事で忙しい日々となるのでしょう。夏の様々な事故から子どもたちが守られますようにお祈り致します。

 私は、夏休みの宿題は学校の始まる前の日にしていたので、宿題を完成することができないことが多くありました。完成できずに提出しなければならない状況で、もっと早く宿題をしておけばよかったという反省を毎年していたように思います。

 宿題ならまだいいですが、人生において志半ばで人生を終わらなければならないということがあるように思います。どちらかというと、人生を完成して終わるよりも未完成のままに終わるという方が多いのかも知れません。

 今日は、申命記3章23節から29節と32章48節から52節を通して、「望みがかなえられなくても満足」という題で、モーセの最後の姿を見たいと思うのです。

 Ⅱ本論部

 一、モーセの願いは聞かれなかった

 申命記3章23節から26節には、モーセの祈りの言葉があります。「わたしは、そのとき主に祈り求めた。「わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」」リビングバイブルには、「そして、主に必死でお願いしました。『ああ主よ、お願いでございます。どうか、ヨルダン川の向こうに広がる約束の地に入らせてください。あのなだらかな山地、豊かな土地、そして美しいレバノン山脈を見せてください。これまであなたの偉大なみわざを見せていただいてきましたが、最後にその結実を見たいのです。そのようなすばらしいことのできるお方は、あなたのほかにはいません。」とあります。

 モーセは、エジプトで生まれ、40年間王の子としての教育を受け育ち、40年間ミデアンで家族を持ち羊飼いとしての働きをしている時に、強制的に神様からの召しを受けて、エジプトで奴隷状態のイスラエルの民を出エジプトさせることを命令され、乳と蜜の流れる土地に導くと約束されたので、40年間の荒野の旅を経て神様の約束されたカナンの地にイスラエルの人々を導くということでした。

 神様は、モーセをイスラエルの民を出エジプトさせる命令と共に、乳と蜜の流れる土地に導くと約束されたので、当然モーセ自身も父と蜜の流れる土地、約束の土地、カナンの地に入ることができると当然思っていたことでしょう。

 26節を見ると、「しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」」とあります。モーセの「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」という祈りに神様は聞いて下さらない、答えて下さらなかったのです。

 民数記20章1節から13節には、イスラエルの人々が飲む水がないので、徒党を組んでモーセとアロンに逆らい、非難したのです。神様はモーセに、「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と言われたのですが、モーセは、「「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ。」(民数記20:8)とあります。モーセは神様の御命令に従うことができなかったのです。ですから、神様は、「主はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」」(民数記20:12)と言われたのです。モーセのたった一度の過ちのゆえに、約束の地へは入れないと言われたのです。40年の間、モーセは苦労して苦労してイスラエルの人々を導いて来ました。もうこの先には、神様の約束された地、乳と蜜の流れる地、カナンの地があるわけです。ですから、モーセは、やはりカナンの地の入りたいのです。だから、「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」と願いました。

 しかし神様は、「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」ときっぱりと言われました。神様は、モーセに約束の地には入れない、と言われたのに、モーセは、何度も何度も願ったのでしょう。とても厳しい裁きでした。しかし、それが律法なのです。律法は一点でも違反すると律法全体を違反した事になるのです。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(ヤコブ2:10)と聖書は語ります。モーセは律法の代表者で、神様がモーセに与えた律法は良いものですが、律法は神様の元へ導く養育係になりえても、律法によっては救われないのです。神様の一度の命令に従えなかったモーセは、約束の地、カナンの地に入ることはできないのです。モーセは後継者ヨシュアを任命し、彼を力づけ、励ますようにと神様は語られたのです。

 二、未完の人生でいい

 モーセが約束の地に入れないということは、モーセの人生が未完成で終わったということなのでしょうか。志半ばでモーセの人生が終えるようにも思えるのです。しかし、私たち人間の目には、未完成に見えたとしても、神様の目にはそこでモーセの人生は完成しているといえるのだと思うのです。モーセ自身には、約束の地に入れないという未練はあったのかも知れません。私たちの人生には、この世に対して未練というものが数々あるでしょう。未練には限りがありません。しかし、神様は私たち一人ひとりに対して、神様ご自身の働きについて、どこまでその人にさせるのかというご計画を持っておられるのだと思うのです。そして、その後についても、どのようになるのかと神様は計画されておられるのです。神様の私たち一人ひとりに対する計画は、私たち自身が決めることではなくて、神様ご自身が、その意志を持ってお決めになるのです。

申命記32章48節、49節には、「その同じ日に、主はモーセに仰せになった。「エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。」とあります。モーセは、約束の地、カナンの地に入らせて、それを見せて下さいと願いましたが、モーセは約束の地には入ることは許されませんでした。しかし、神様は、「カナンの土地を見渡しなさい。」とネボ山に登るように言われました。約束の地には入れないですが、「ノー」と言われたのですが、見ることができるように、モーセの願いを聞いて下さるのです。神様の大きな恵みです。

50節には、「あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。」とあります。モーセが約束の地を見るということは、モーセが死んで先祖の列に加えられるということになるのです。34章7節には、「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせていなかった。」とあります。120歳のモーセはネボ山に登ることができました。ですから、モーセの死は病気ではなく、神様がモーセを取り去られたのです。

 神様はモーセが約束の地には入れないのに、カナンの地を見せられたのは何故でしょうか。勿論、神様の恵みであったことは言うまでもありませんが、モーセが今まで40年の間、神様に従って果たしてきたことが、全て無駄ではなかったということを確信させ、確かにイスラエルの人々が、神様のお約束の通りにカナンの地を相続するということをモーセに確信させるためであったと思うのです。モーセは、事実約束の地、カナンの地には入ることはできないけれども、モーセが神様の約束された乳と蜜の流れる土地を見ること、見渡すことによって、神様の確かな約束を確信することができたのではないでしょうか。

 三、聞かれない祈りも恵みになる

 51節、52節には、「あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。」」とあります。モーセが約束の地に入れない理由が記されています。ここでもう一度、神様の「岩に向かって、水を出せと命じなさい。」という命令に、怒りで岩を二度打つという、「わたしに背き」と言われ、「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。」とも言われたのでした。

 出エジプト記17章には、イスラエルの水がないというつぶやきに対して、神様は「あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲む音ができる。」(出エジプト記17:6)という命令で水を出した経験が、モーセの頭にあったのかも知れません。モーセは、岩を打った神の杖で、今までも多くの奇蹟を行ってきました。杖に力があったのではなく、神様の力で奇跡が起こされてきたのでした。もしかしたら、モーセはいつの間にか、神様よりもこの杖を頼りにするようになってしまったのかも知れません。メリバの事件では、モーセとアロンは、栄光を神様に帰さないで、「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」と自分たちが、水の問題を解決するかのように発言したのでした。いちいち喧嘩腰で要求する民に、モーセは嫌気をさしていたでしょうし、この民に自分の力を見せつけたいという思いもあったのかも知れません。神様がして下さることを、自分の努力の手柄にしてしまったのではないでしょうか。それが、「わたしの聖なることを示さなかったからである。」ということでしょう。このことのゆえに、モーセは念願であった約束の地には入れないのです。

 モーセの約束の地に入りたいという祈りは聞かれませんでした。パウロも、自分の病が癒されるように祈りましたが、答えられませんでした。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。」(Ⅱコリント12:8-9)

リビングバイブルの訳では、「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」とあり、癒されない事、祈りが聞かれないことでパウロは、神様が共におられることの恵みを深く知ったのでした。イエス様もゲッセマネの園で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)と祈られましたが、答えられず、十字架につけられたのでした。十字架こそ、神様のお心だったからです。祈りが聞かれないということは、そこに神様の深いみ心があるということを聖書は私たちに示しているのだと思うのです。

 Ⅲ結論部

 モーセは、念願の約束の地、カナンの地には入れませんでした。しかし、天における約束の都、天に招かれたのでした。私たちにも、地上での心残りはあるのかも知れませんが、イエス様の十字架の死と復活を通して、罪が赦され、魂が生かされ、義とされ、永遠の命、天の都が約束されているのです。モーセは、神様から約束の地には入れないと言われていましたが、ネボ山に立った時、約束の地を眺めた時、自分の全生涯を思い返す時、自分に対する神様の大いなる恵みを深く感じたのだと思うのです。自分の生涯は、召しは、ここまでであることを深く感じたのではないでしょうか。ネボ山の視点に立つという経験はとても大切です。私たちが、ネボ山の視点に立つとは、今のこの礼拝の体験だと思うのです。1週間の自らの歩みを見直す、見渡す時だと思うのです。そして、これからの1週間に神様にあって期待する時だと思うのです。

 申命記3章26節の「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。」の「もうよい。」は、パウロに語られた「わたしの恵みはあなたに十分である。」の「十分である。」の意味のようです。モーセの生涯は、約束の地に入れないけれども十分だということです。モーセ自身もネボ山に立った時、神様の恵みのゆえに、そう感じたのだと思うのです。

 私たちは、先週の1週間、今週の1週間、願い通り、思い通りに行かないことがあるでしょう。しかし、私たちは、満足できる秘訣をイエス様にあって知っているのです。経験しているのです。この週も、イエス様に目を留めて、必ず最善がなされることを信じて、イエス様と共に、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年7月16日)

2023-07-16 12:48:58 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第六主日)   2023.7.16

見上げてごらん」 民数記21:4~9

 Ⅰ導入部

おはようございます。7月の第三の日曜日を迎えました。暑い日が続いております。今日はまた大変に暑い日だと天気予報では予想されていました。会堂にお集まりの皆様は、命を懸けておいでになりましたね。オンラインで、ご家庭で置かれた所での礼拝で安心しておられるかもしれませんが、熱中病は部屋の中の方が多いようですので、オンラインでご覧の皆様も涼しくして、水分を補給しながら共に礼拝をささげていただいたいと思います。会堂にお集まりの皆様は、涼しくないですか。クーラーが新しく設置されたばかりで、この夏も涼しくして礼拝が守られると思います。感謝ですね。

 さて、今日は旧約聖書の民数記21章4節から9節を通して、「見上げてごらん」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、神様の恵みを恵みとして受け取る

このイスラエルの民というのは、出エジプトした時の民ではなく、その子どもたちである新しいイスラエルの民でした。ネゲブからさらに南への旅は、砂漠や荒野が続く旅であって、毎日毎日変化のない、あきあきする旅でもありました。疲労と空腹がイスラエルの民を相当苦しめたのではないでしょうか。4節に、「彼らはホル山を旅立ち」とありますが、ホル山でモーセの兄アロンが死んだのです。アロンの死は、イスラエルの民にとっては、大きな痛みと悲しみとなったのです。また、イスラエルの民は、自分たちの思い通りに事が運びませんでした。4節の最後には、「民は途中で耐えられなくなって」とあります。そこで、彼らはつぶやいたのです。不平不満が湧き出たのです。

 5節には、「神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」」とあります。エドムの領土を通ることができれば、パンも水も買うことができたのでしょう。しかし、エドムやカナンの反対側の南の方に逆行しなければなりませんでしたので、イスラエルの民の期待は裏切られてしまったのです。荒野の旅ではパンや水を得られるところは何処にもありませんでした。けれども、神様は、イスラエルの民には基本的に必要なものは与え続けていて下さったのです。毎日マナを与えて下さいました。けれども、イスラエルの民は、神様が与えて下ったマナを「こんな粗末な食物」と言ってけなしたのです。新改訳聖書では、「このみじめな食べ物に飽き飽きしている。」とあり、口語訳聖書には、「この粗悪な食物はいやになりました」とあり、リビングバイブルには、「あんなまずいマナは、もうたくさんだ。」とあります。

 出エジプト記16章には、マナが初めて与えられたことが記されています。飢えたイスラエルの民に神様が与えられたものでした。「それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」(出エジプト16:31)とあります。また、「イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。」(出エジプト16:35)とあります。イスラエルの民は、安息日を除いた6日日間、毎日マナを集めたのでした。しかし、イスラエルの民は、「パンも水もなく」と言っていますが、マナは与えられていたのですが、「こんな粗末な食物」といって集めることをしなかったのでしょう。荒野の中で本来与えられるはずのないマナ、恵みをけなしたのです。毎日毎日、変わらないマナに、「気力もうせてしまいます。」といったのです。恵みに慣れてしまったのです。

 荒野で飢えていたイスラエルの民にとっては、マナを初めは感謝できたのですが、毎日40年も続くといやになってしまったのです。当たり前になって感謝できなくなってしまったのです。何事でも当たり前になってしまうと感謝は出て来なくなるのです。

 私たちはどうでしょうか。与えられた神様の恵みが当たり前になって感謝できなくなっているということはないでしょうか。イスラエルの民のように、「こんな粗末な食物」とか、「あんなまずいマナは、もうたくさんだ。」と感謝どころか、けなしている、否定しているということはないでしょうか。考えてみたいと思うのです。

 二、信じる者は救われる

 6節には、「主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。」とあります。「炎の蛇」とはどのような蛇でしょうか。この蛇に嚙まれると焼けるような痛みと激しい毒のために、「炎の蛇」と呼ばれていたのでしょう。火のような痛みを与える毒を持った蛇、まむしでしょうか。イスラエルの多くの人々が、この蛇に噛まれて死んでしまいました。それで、7節です。「民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。」とあります。リビングバイブルには。「人々は困り果ててモーセに泣きつきました。」とあります。自分たちが、モーセと神様を非難して罪を犯したと悔い改めました。イスラエルの民は、「わたしたちから蛇を取り除いてください。」とモーセに願いました。災いの元である炎の蛇を取り除いてほしいという願いは当然でしょう。私たちも様々な苦しみに出会う時、その苦しみの元、困難の原因、病気を取り除いてほしいと願うのではないでしょうか。

 モーセは民の願いを聞き神様に執り成しました。イスラエルの民は、この40年の間、モーセに対してつぶやきや不満を何度も何度もぶつけてきました。時には、モーセを殺そうともしました。その民のためにモーセは執り成しの祈りをしたのでした。その祈りに神様は答えられたのです。8節です。「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」」 神様はイスラエルの民の願いである炎の蛇を取り除いては下さいませんでした。神様はモーセの祈りに対して、「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。」と答えられました。ヘブライ語で「蛇」は「サラフ」といい、「燃えるもの」「光るもの」を意味しており、金属的光沢をもった象徴的存在を指しているようです。ですから、9節では「モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」とあるように、青銅の蛇を作り、青銅の蛇を仰いだ人は命を得たのでした。

 神様は、どうして癒しの手段として、救いの手段として蛇を用いられたのでしょうか。蛇は罪からの汚れの象徴でした(レビ記11:41)。考えられることは、蛇はイスラエルの民に自分の罪を自覚させたということでしょう。民数記19章では、赤毛の雌牛がきよめのために用いられたように、青銅の赤い色が贖いと清めを象徴していたのでしょう。屠って燃やした牛の灰が、死によって汚れた人々を清めたように、青銅の蛇が命を回復させたのです。青銅の蛇に力があったのではないでしょう。しかし、イスラエルの人々はヒゼキヤ王の時代には、青銅の蛇に香をたいていたのです。イスラエルの人々は、青銅の蛇に人を救う力があるかのように信じて偶像礼拝の対象としたのです。ですから、ヒゼキヤ王は、モーセの時代に神様が定められた特別措置であることを理解し、宗教改革の手始めとして青銅の蛇を打ち砕いたのでした。(列王記下18:4)

 イスラエルの人々は、モーセを通して語られた「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐ」という神様の約束の言葉を信じて実行して救われたのです。神様の言葉に信頼して、信じて聞き従い、行動する者に、神様は恵みを与えて下さるのです。

三、誰にでもできることを実行する

 イエス様は、ニコデモがイエス様を訪問した時に、「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ13:13-15)と言われました。人の子も上げられるとは、イエス様が十字架につけられるということです。イエス様は、モーセが荒野で上げた青銅の蛇のように、十字架に上げられる、つけられることを示されました。

 青銅の蛇が作られるということは、罪に対する神様の裁きを表しているようです。祭壇は青銅で作られていました。そして、祭壇は罪のいけにえが焼かれていたのです。それは、罪に対する神様の裁きを表していました。しかも、それが旗竿という木の上で裁かれたのです。イエス様は、十字架つまり木にかけられ青銅の蛇となって全人類の罪の裁きを御自分の身に負われたのです。旗竿の先に掲げられた青銅の蛇を仰いだ者が、癒され命を得たように、十字架に上げられたイエス様を見上げる者は、罪の身代わりの十字架を仰ぎ見る、つまり信じる者は罪から救われ、生きる者とされるのです。

 ルカによる福音書にある放蕩息子は、「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。」(ルカ15:17)と、自分の飢えの原因がどこにあるのかを悟りました。父の所にいないということが原因であることが分かり、息子は父の元に帰ったのです。そして、帰った時、父の歓迎、素晴らしい宴会が備えられていたのです。エレミヤ書3章22節には、「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」とあります。神様から離れたために、苦しみや悲しみ、痛みを経験する時、神様の元に帰る以外に、私たちの真の解決はないのです。

 イスラエルの民は、「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。」と自分たち罪を認め悔い改めました。そして、モーセを通して語られる神様の言葉「蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」という言葉に忠実に従い行動したのです。「見上げる」ということは誰にでもできることでした。しかし、それはその人に代わってできることではありませんでした。個人的な意思の行動が必要だったのです。青銅の蛇を見上げた者は救われたのです。「見上げたぐらいで蛇に噛まれ傷が癒されるのか」と言って信じなかった

者、青銅の蛇を見上げなかった者は死んだのです。同じように、イエス様の十字架上で流された血、ささげられた命は、死は自分の罪のためであったとイエス様の死と復活を信じる者は、罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、永遠の命、死んでも生きる命が与えられるのです。「ただ信じるだけで、そんなことで罪赦され、永遠の命が与えられるなど信じられない」と言って、イエス様の十字架と復活を受け入れないならば、罪の中にい続けることになるのです。神様は全ての人がイエス様の十字架と復活を信じて救われることを願っておられるのです。あなたもイエス様の十字架を見上げてみませんか。

 Ⅲ結論部

 神様は、イスラエルの民の「わたしたちから蛇を取り除いてください。」という願いに答えて下さいませんでした。神様にとって、蛇が何匹いようが、一瞬にして取り除くことはできました。しかし、神様は蛇を取り除く代わりに、青銅の蛇を見上げるという神様の約束の言葉を与えられたのです。私たちは、日々苦しみや悲しみ、痛みを経験します。ですから、神様にそれらの苦しみが取り除かれるように祈ります。しかし、神様は取り除いて下さる時もあれば、取り除いて下さらない時もあります。私たちには、イスラエルの民に与えられたように、約束の言葉があります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13) 神様は、イスラエルの願い、蛇を取り除かないことで、個人の意思に委ねられました。神様は全ての人を一瞬にして救うことはできます。しかし、個人に自由意思を与え、信じることも信じないことも個人に委ねておられるのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、永遠の命が与えられると聖書を通して、神様は私たちに約束しておられるのです。私たちは素直に、神様の恵みであるイエス様の十字架と復活を自分の罪のためであることを素直に信じたいのです。信じないからと言って、神様は罰を与えることはなさいません。変わらずに愛を持って、いつも共におられ、イエス様を信じることができるように導いて下さるのです。

 イスラエルの民は、神様からの大きな恵みであるマナを、「こんな粗末な食物」といちゃもんをつけました。気もうせるとバカにしました。私たちは、神様から与えられた恵みの言葉、聖書の言葉に慣れてしまっていることはないでしょうか。かつては、一生懸命に聖書を読んで、み言葉が心に入り、生き生きと信仰生活ができた。しかし、厳しい現実の中で、聖書の言葉が、神様の言葉が現実から離れている気がして、段々と読まなくなってしまうということがあるのかも知れません。私たちは、神様の言葉で生きるのです。イエス様は言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。私たちは、神様の恵みに感謝して歩みたいのです。現実がどんなに厳しくても、イエス様は、共にいて下さり、私たちを支え守り導いて下さるのです。この週も、神様の恵みである聖書の言葉、神様の言葉に触れて、イエス様を見上げて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年7月9日)

2023-07-09 14:12:16 | Weblog

主日礼拝

                                                                                                                                     2023年7月9日

神様、聞いていますか?

詩篇17篇(新共同訳)

1導入部

みなさん、おはようございます。一言、お祈りをします。…

はじめましての方もいらっしゃるかと思いますので、最初に自己紹介をしたいと思います。塚本良樹と申します。私は、2018年から2021年3月まで、この教会で青年担当牧師、ユースパスターとして奉仕していました。本当にお世話になりました。特に、ちょうど3年前の7月4日にこの教会で結婚式を挙げさせていただいたのですが、本当に感謝しています。

2年前に私がこの教会を去るとき、詩篇を連続してメッセージで語っていました。にもかかわらず、ここ2回は別の箇所から語らせていただきましたが、今日こそは詩篇をやりたいと思っています。

それでは先ほど読まれた詩篇17篇を見ていきたいと思いますが、その前に、みなさんに質問をしたいと思います。みなさんは、これまで、理不尽な苦しみを経験したことがありますか。理不尽な、とても正当とは言えない、なんでここまで?と言わざるを得ないような苦しみを経験したことがあるでしょうか。職場で経験されることが多いかもしれません。あるいは、家庭のなかで、親との関係のなかで、学校で、経験された方もいらっしゃるかもしれません。

その上で、もう一つ質問です。みなさんは、苦しみのなかで、神様が、自分の祈りを聞いていないのではないかと思った、感じたことはあるでしょうか。今日のメッセージのタイトルにしていますが、「神様、聞いていますか?」と叫びたくなるような状況に陥ったことはあるでしょうか。

今日読まれた詩篇17篇は、まさに、理不尽な苦しみを経験するなかで、神様は、ひょっとしたら自分の祈りを聞いてくださっていないのではないかという疑いに直面したダビデという人物の祈りです。

 

2本論部

一 理不尽な苦しみに遭うとき

それでは、1節をご覧ください。

 

17:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。

 

ダビデは、神に向かって訴え、叫びました。なぜでしょうか。彼の置かれた状況を確認したいと思います。少し飛ばして、9節から12節をご覧ください。

 

17:9 あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。

17:10 彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。

17:11 わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。

17:12 そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。

 

神に逆らう者たちに虐げられている。いじめを受けている。神様を信じていれば、絶対にやらないよねということをしてくる。貪欲な敵が、ダビデを取り囲み、攻撃をしかけてくる。

10節の「肥え太った心」という言葉は、別の訳では「鈍い心」となっています。人の痛みが分からなくなっている。だからこそ、平気でひどいことができる。そして、行動だけではない、ことばでも攻撃してくる。傲慢なことを言いまくっている。獲物に、肉に飛びつくライオンのように、激しい勢いで、攻撃してくる。

このときダビデが置かれた状況は、おそらく、彼の前の王様であるサウル王に命を狙われていた、その時のことなのではないかと言われます。ダビデが王様になるずっと前、まだサウルの家来だったときのことです。サウルは、自分を引き立ててくれた、恩人とも言える人です。同じ神を信じているはずの、自分の恩人に、文字通り命を狙われ、攻撃をしかけられていた。

もちろん、ダビデの側に攻撃される理由があれば、まだ分かります。でも、それでも、やり方・言い方の問題はあります。過剰な批判、あるいは暴力はあってはならないでしょう。しかし、このときのダビデの場合、このような攻撃を受ける理由が全く思い当たらなかった。1節からをもう一度お読みします。

 

17:1 【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。

17:2 御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。

17:3-4 あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて

17:5 あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。

 

ダビデは、自分を吟味した上で、攻撃を受ける理由が思い当たらないと言うのです。もちろん、これはダビデには罪がないと言う意味ではありません。少なくとも、あれほどの攻撃を受けるような理由が思い当たらないのです。

実際に、サウルがダビデの命を狙ったのは、彼の「妬み」のゆえでした。あるいは、ダビデが自分を追い落とすのではないかという妄想に基づく恐れのゆえでした。ダビデも、王様になった後に、部下に嫉妬して、部下の奥さんを奪うために部下を心していますので、別にサウルだけが悪いわけではありませんが、この時点においては、ダビデは何も悪いことはしていないのに、攻撃されたのです。彼は、「理不尽な苦しみ」を経験していました。

 

二 正直に祈ることを選ぶ:疑い、願い、怒り

ダビデと全く同じ経験をすることはさすがにないとしても、みなさんも理不尽な苦しみを経験することがあると思います。理由もないのに、あるいはほんの少し理由があったとしても、それに見合わないほどの激しく、ひどい攻撃を受けたら、どうなるでしょうか。私なら、やり返したくなります。けっこう負けず嫌いなところがあるので、怒りに燃えて、なんとか復讐したくなると思います。しかし、ダビデは、そうしなかった。旧約聖書のサムエル記という書物によれば、敵であるサウル王に復讐する、彼を殺すチャンスがあったにもかかわらず、そうしなかったそうです。

では、彼はどうしたのか。祈ったのです。神に訴えた、神に叫んだのです。6節をお読みします。

 

17:6 あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。

 

これは、一見すると、不信仰な祈りです。信仰が弱い人の祈りです。だって、事実としては、神様は聞いていますから。よく「祈りが聞かれていない」と言うことがありますが、「叶えられない」だけで、「聞かれて」はいる。でも、それでも、聞かれていないかのように感じることがある。祈っても、祈っても、神に届いていないかのように感じるときがある。理不尽な苦しみに遭うときに、神様は、本当は聞いていないのではないかと感じることがある。「神様、聞いていますか?」と叫びたくなるときがある。

だからこそダビデは祈るのです。神様、答えてください。耳を向けてください。ちゃんと聞いてください。繰り返しますが、これは一見すると、不信仰な祈りです。彼は疑いを覚えています。ここで注目したいのは、それでも、彼は、その疑いを、正直に祈ったということです。その意味で、彼はまだ信じて入るのです。もし、信じていなければ、聞いていますか?と祈ることもありません。逆説的ですが、聞いてくれていると分かっているから、「神様、聞いていますか?」と祈れるわけです。もちろん、絶対に聞いてくれているという強い確信があるわけでもない。むしろ、疑いに支配されそうになっている。でも、それでも、それを正直に祈ったのです。

さらにダビデは、このように祈ります。7節をご覧ください。

 

17:7 慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を/立ち向かう者から/右の御手をもって救ってください。

 

慈しみの御業」は、「奇しい恵み」とも訳されています。「奇しい」というのは、普通じゃないということです。普通じゃないことをしてほしい。超自然的に、この状況を解決してほしいことです。これは大胆で、ともにすると図々しい祈りです。私たちは、クリスチャン歴が長くなり、叶わなかった祈りが増えていくほど、図々しい祈りをしなくなります。叶えられそうなことしか祈らなくなる。本当は納得していないのに、納得しているふりをして、祈ることを諦めてしまうことが、私にもあります。しかし、ダビデは祈るのです。正直に、大胆に、図々しく祈るのです。

続く、8節をご覧ください。

 

17:8 瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。

 

これは有名なことばなのですが、もともとは聖書のなかの申命記という古い書物のなかで、神様がイスラエルの民にどう関わったかということを描く際に、「瞳のように守る」という表現があります。目というは弱い器官で、危険があるとすぐ目を瞑って守ろうとします。それくらい、神様は、大切にイスラエルの民を守ってきた。同じように、私を守ってくださいと祈るのです。さらに、「翼の陰に隠」すという表現も、聖書でよく使われる表現なのですが、親鳥の翼で守られる雛鳥のように、攻撃から守ってほしいと、率直に、正直に願い求めるのです。

9節から12節は冒頭で触れましたが、自分の状況を神様に伝えた上で、13、14節では、このように祈っています。実は、ここは翻訳の問題がありまして、他の訳では若干翻訳が異なります。新共同訳でもう一度お読みします。

 

17:13 主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。

17:14 主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。

 

多少の翻訳の違いはありますが、いずれにせよ少しドキっとする祈りです。自分を攻撃してくる敵を打ち任せてください、滅ぼしてください、殺してくださいと祈っているのです。もちろん、理不尽な苦しみに直面するとき、イエス様のように、心から敵を愛せればベストです。でも、それはとてつもなく難しいことです。なので、基本的には、自分で復讐せず、それを神様に委ねて、祈ることができたならば、それだけでも十分すごいことであるというのが、聖書の基本的な主張です。

ともかくここまで見ていただいて分かるとおり、この詩篇17篇は、ダビデの正直な祈りです。彼は、神に対する疑いを、図々しい願いを、そして自分を攻撃してくる敵への怒り、憎しみを隠していません。赤裸々に祈っています。そして、神様は、このような祈りを詩篇として聖書に残してくださった。それは、私たちも、ここまで正直に祈って良いということである。

あなたが、理不尽な苦しみに遭うときに、正直に、疑いをぶつけて良い。神様、聞いていますか?と祈っていい。正直に、願っていることを図々しく祈って良い。怒りがあるなら、憎しみがあるなら、それをすべて神様の前に注ぎ出して良いのです。

 

三 祈りがもたらす価値観の変革

そして、そのように正直に祈るなかで、正直に神様にぶつかって祈るときに、神様は、驚くような奇跡を起こしてくださいます。「慈しみの御業」、「奇しい恵み」を実現してくださる。

もちろん、祈った結果、状況が改善することもあるでしょう。問題が解決することもあるでしょう。実際に、長い年月を経て、ダビデは救い出され、王になっています。

しかし、それよりも、もっと偉大な奇跡を神様はダビデに見せてくださった。それは、彼自身が変えられることです。彼自身の価値観が、考え方が、生き方が変わることです。最後に15節をご覧ください。

 

17:15 わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。

 

目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう」。状況は全く変わっていなかったでしょう。でも、ダビデは、眠ることができるほどに安心することができたのです。普通じゃないことが起きたのです。そして神様を礼拝することによる喜びに、満ち足りることができた。不思議なことに、礼拝する喜びに満足することができたのです。

 

3結論部

私にも、同じような経験があります。私の場合、人生で最も苦しかった経験が二つあるのですが、一つは、失恋です。もう一つは、人間関係のトラブルです。詳細は言いませんが、理不尽に思えて、苦しくて、辛かったときに、必死に祈りました。神様が状況を変えてくださらない、祈りを叶えてくれないことによる不満、疑いを隠すことなく、図々しく願い、憎しみや怒りをも正直に祈りました。正直に、心を注ぎ出しました。

そうやって、祈り続けているなかで、ある時点でハタと気づいたのです。大丈夫なんだ。状況は変わっていないのです。でも、なぜか、安心できたのです。私は守られている。永遠に守られている。どんな困難が、どんな苦しみがあろうとも、永遠に守られている。「瞳のように」、「」られている。神様の「翼の陰」に覆われている。神様がいらっしゃるなら、このお方を礼拝することができるなら、このお方と、ともに人生を歩めるなら、それで十分ではないかと、不思議に思えたのです。

そして、このように信じることができたのです。いつの日か、イエス様がもう一度戻ってこられるその日、すべての出来事の意味が分かるその日。理不尽なあの出来事も、叶えられなかったあの祈りも、そうだったのか、すべてが最善だったと思える日が来る。

もちろん、それまでの間は、理不尽な苦しみに直面し、涙を流すときがある。疑いに、恐れに、怒りに支配されるときがある。そのときに、正直に祈ることへと、この詩篇はこの朝あなたを招いています。神様に対しては、取り繕う必要はないのです。どんなことでも、祈って良いのです。「神様、聞いていますか?」と、祈り、訴え、叫ぶことへと、神はあなたを招いている。そして、そのような正直な祈りを通して、永遠の安心を、喜びを、愛を知ることへと、そしてこれは本当に難しいですが、その先に、敵を愛するというイエス様の御心に生きる者へと変えられていくことへと、この朝、あなたを招いている。この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(23年7月2日)

2023-07-02 12:51:20 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第四主日)    2023.7.2

 「誰か祈りの手を支える者はいないか」 出エジプト記17:8~16

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日から午前7時からの早朝礼拝が始まりました。夏の暑い季節、朝の涼しい時に礼拝をささげ、残された時を家族のためにあるいは、地域の働きのために用いることができるのです。

2023年も半年が過ぎて後半戦に入りました。この6ヶ月の期間は、どのような事柄があったでしょうか。どちらかというと。良いことよりも悪い事が目立つのかも知れません。問題を抱えた時、悪い状況になった時、きっとキリスト者である方々は祈りをささげたのだと思うのです。

祈りとは、多くの日本人にとって正月のお参りや苦しい時の神頼み的な祈りかも知れません。私たちも、キリスト者になって祈りを覚え、祈りの大切さを知りました。キリスト者になることは、祈る者になる、祈りが必要な者になるということだと思うのです。

今日は、出エジプト記17章8節から16節を通して、「誰か祈りの手を支える者はいないか」という題でお話し致します。

Ⅱ本論部

一、戦いの勝敗はモーセの手にあり

8節には、「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、」とあります。アマレクとの戦いは、出エジプトしたイスラエルにとって初めての戦いでした。エジプトで奴隷状態だったイスラエルは戦うということを知りません。出エジプトしたイスラエルの荒野の旅は、イスラエルの民が神の民として変えられるという神様による教育的なプログラムの旅でもあったのでしょう。この旅において、特にアマレクとの戦いにおいては、イスラエルの民は祈るということを知り、祈りを学び、祈りを実践する祈りの民となっていくのです。

アマレクとは、シナイ半島それに隣接するパレスチナ南部にいた遊牧民でした。また、アマレクとは、イサクの息子ヤコブの双子の兄エサウの子孫でした。血を分けた身内がイスラエルに戦いを挑んだのです。17章1節から7節には、レフィディムで、岩から水が与えられたことが記されています。アマレクはこの水を求めて戦いを挑んだのかも知れません。モーセは、アマレクがしたことを後で思い起こしています。申命記25章17節、18節には、「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。」とあります。出エジプトして疲れているしんがりにいる人々を攻め滅ぼしたのです。そのようにアマレクが戦いを挑んできたのです。9節には、「モーセはヨシュアに言った。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」」とあります。男子を選びとあります。戦い方も知らないイスラエルの男子から体格の良い強そうな男子を選んだのでしょう。ヨシュアは、モーセの命令に忠実に従い、男子を集め戦いに備えたのです。ヨシュアは、エフライム族出身の人でモーセの従者と言われ、やがてモーセが死んだ後、イスラエルを約束の地カナンにイスラエルを導くことになる人物でした。

ヨシュアは、アマレクと戦い、モーセは「神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」ということでした。モーセは、イエラエルがアマレクと戦うのが心配で、丘の上に立って見物するというのではありませんでした。イスラエルにとっては、初めての戦いであり、戦いに慣れていない、戦い方も知らないイスラエルのためにモーセは祈るのです。アマレクとの戦いは、ヨシュアと選出されたイスラエルの兵だけではなく、モーセの祈りが必要でした。

教会の奉仕や伝道においても、奉仕するということだけ、伝道する、トラクトを配る、案内をする、個人伝道をするという実働部隊と背後で祈るという両方があって成立するものだと思うのです。

二、チームで祈り勝利する

10節には、「ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。」とあります。ヨシュアは不安だったでしょう。しかし、アマレクと戦いました。モーセは、自分一人だけではなく、兄のアロンとフルと共に丘の頂に上りました。モーセは80歳を超えていました。アロンはモーセの兄ですから当然80歳を超えています。歴史家ヨセフスという人は、このフルという人物は、モーセの姉ミリアムの夫ではなかったと考えました。とすると、フルも80歳を超えていただろうと推察されます。80歳トリオが丘の頂でイスラエルとアマレクとの戦いを見物したのでしょうか。11節には、「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」とあります。モーセは戦争を見物していたのではなく、祈っていたのです。面白いことが書いてあります。「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」とは、モーセは、神の杖を手に持って手を上げた。祈ったのでした。モーセは、この戦いは、兵士の数や戦い方や戦略、そのようなものが勝敗を決めるのではなく、神様によるのであることを知っていたのです。イスラエルの人々が、紅海を目の前にしてエジプト兵が迫った時、恐れているイスラエルの民にモーセは言いました。「モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」」(出エジプト14:13-14) イスラエルは、二つに分かれた紅海を渡り、エジプト人は溺れて滅んだのです。モーセはその事を知っていました。今回、実際に戦わなければなりませんが、その勝敗は神様の手にあることをモーセは経験を通して知っていたのです。ですから、モーセは手を上げて祈りました。そして、モーセが手を上げて祈っているとイスラエルは優勢になり、モーセが手を下げて祈りをやめるとアマレクが優勢になったのです。

戦っているヨシュアの目にも、イスラエルの兵からもモーセの姿、祈りの姿は見えたでしょう。モーセが手を上げて、神の杖を手に祈っているのを見て、神様が共におられる、紅海を分けて助けて下さった事を思い出し、戦うことができたのでしょう。戦いに出ていない、アマレクとの戦いを見ている多くのイスラエルの人々も、丘の上のモーセの祈りを見ていたでしょう。そして、「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。」ということが、よくわかったのです。

12節には、「モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」とあります。手を上げて祈ることは大切です。しかし、モーセは疲れてしまい、手を下ろしてしまうので、アロンとフルは、モーセを石に座らせ、モーセの右と左に立ち、モーセが手を上げているのを支えたのです。モーセ一人だけなら、手を上げ続けることはできなかったでしょう。この祈りはチームの祈りであり、チームの祈りがイスラエルに勝利をもたらしたのです。モーセの手が上げられたからといってすぐに勝利はしませんでした。日の沈むまで戦いは続いていたということでしょう。祈り続けることによって勝利したのです。

三、祈りによって事態は変わる

11節の「手」は単数形で書かれており、12節の「手」は、複数形で書かれています。

11節では、モーセは片手を上げて祈っていますが、12節では両手を上げて祈っているのです。11節で片手を上げているその時、その手には神の杖が握られていたのでしょう。この立ち振る舞いは、攻撃の仕掛ける合図でもあったようです。アマレクとの戦いいにおいて、指揮をしていたのはヨシュアではなく、神の杖を手に持つ、モーセであったのです。片手に神の杖を持つ姿は、神様が共におられることを意味していたのです。イスラエルにとっては、アマレクとの戦いは、お手上げの状況でしたが、そのように思える時こそ、神様の栄光に触れる時、信仰を働かせる時、神様に向かって手を上げて祈る時なのです。

13節には、「ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。」とあります。ヨシュアがアマレクを打ち破ったのは、ヨシュアとイスラエルの兵が頑張ったから、命懸けで戦ったからではなく、「モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。」からでした。

モーセの手が重くなった、とあるように、祈ることにおいては戦いがあるということでしょう。私たちも祈りをささげますが、私たちの祈りを妨げようとする力があります。祈ることが勝利の決め手であることを私たちに悟らせないようにする力があるのです。「祈っても無駄だ。祈ったぐらいでどうにもならない。」と思わせる状況に立たされることがあります。そこには戦いがあるのです。

モーセの手が重くなった時、アロンとフルは疲れたモーセの手を支えました。私たちにも、祈りの支えがどうしても必要なのです。互いに祈り合うことが大切なのです。私たちの信仰生活の戦いの背後で執り成しの祈りをするのは、教会の指導者の務めです。また、指導者であるモーセが支えられたように、教会の指導者も祈りによって支えられなければなりません。大切な事は、本当の戦いはヨシュアにあったのではなく、モーセにあったということです。祈る人も大切です。そして、その祈る人を支える人も大切です。そして、ヨシュアのように実際に戦う人、行動する人も大切です。では、あなたには何ができるのでしょうか。神様は、あなたに何をすることを願っておられるのでしょうか。

14節には、「主はモーセに言われた。「このことを文書に書き記して記念とし、また、ヨシュアに読み聞かせよ。『わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る』と。」」とあります。「このことを文書に書き記して記念とし」とあるのは、ヨシュアに読み聞かせるためでした。アマレクと実際に戦ったヨシュアに、この戦いは主がなされたことをモーセの後継者となるヨシュアが知るためだったのです。

15節には、「モーセは祭壇を築いて、それを「主はわが旗」と名付けて」とあります。この「旗」は、現代ヘブライ語では、「奇跡」という意味であり、かつて「旗を上げる」という行為は、現代においては「神様の奇蹟の表れ」という意味合いを含むようになったのでしょう。モーセは、奇跡の勝利を記憶するために「主はわが旗」「奇跡のしるし」と言って祭壇を築いたのでした。この「わが旗」とは、イエス様の事であり、私たちはイエス様を見上げて信仰に歩むのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちは罪の赦しと永遠の命の恵みが与えられたのです。日々、わが旗なるイエス様を見上げて歩むのです。

Ⅲ結論部

私たちは祈りの大切さを知りつつも、それが長続きしない理由は、祈るということが、実に骨の折れる重労働だからではないでしょうか。祈りの手を上げるのに、疲れることがあります。教会の定例の祈り会は、その執り成しの祈り、支えとなるものでしょう。定例の祈り会だけではなく、日々の祈りの生活において、私たちは毎日執り成しの祈りをささげているのです。また、私たちはお互いに執り成しの祈りを続けたいと思うのです。

祈りは、キリスト者が地上にあって行う務めとしては、最も重く、辛く、苦しいものなのでしょう。イエス様は、十字架刑の前にゲッセマネで祈られました。その祈りにおいては、行動してはなりませんでした。ゲッセマネから立ち去ってもいけなかったのです。祈りとは重労働であり、戦いなのです。イエス様は、今も私たちのために執り成していて下さるのです。私たちは、祈りによって事態が変わることを知っており、経験しています。祈りによって事態が変わることは、霊的な事実です。モーセは、日の沈むまで両手を上げて祈りました。神様の時が来るまで、途中であきらめないで祈りの手を上げて祈り続けたのです。サタンは、私たちの祈りを弱いもの、役に立たないものだと思わせます。しかし、私たちの祈りには力があります。イエス様は、「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」」と約束しておられるのです。

私たちの信仰生活の中には、信仰そのものにかかわる問題があります。その他にも、自分自身の問題、家族の問題、健康や死の問題、将来の問題、生きることそのものの問題と様々です。ですから、一人で抱えないで、お話し下さい。お祈りします。定例の祈祷会で共に執り成しの祈りをささげましょう。私たちのために、イエス様が祈っておられます。青葉台教会の牧者である私が祈っています。そして、互いに執り成し合って、神様からの慰めと力をいただいて、この週もイエス様を信頼して歩んでまいりましょう。

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