日曜礼拝(三位一体後第八主日) 2023.7.30
「キリスト者の腕の見せどころ」 ヨシュア記1:1~9
Ⅰ導入部
おはようございます。7月の第五の日曜日を迎えました。今日も暑い日ではありますが、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。明日で7月も終わり、暑い8月となります。8月も、健康に注意しながらも、私たちは霊的な養い、毎日神様の言葉に触れ、祈ると同時に、日曜日の礼拝を大切にしたいと思います。8月も午前7時からの早朝礼拝がありますので、早朝礼拝をお勧めいたします。
今日は、ヨシュア記1章1節から9節を通して、「キリスト者の腕の見せどころ」という題でお話し致します。
Ⅱ本論部
一、不安と心配の中にあるあなたに神様は語る
ヨシュア記1章1節には、「主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。」とあります。40年の長きにわたりイスラエルの民を導いて来た偉大な指導者モーセは死にました。約束の地、カナンの地に入ることはできませんでしたが、ネボ山から見渡すことが許されて、モーセは神様の大きな恵みを思いながら、神様はモーセを取り去られたのでした。モーセの死は、ヨシュアにとってもイスラエルの民にとっても、大きな痛みと悲しみでした。申命記34章8節には、「イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。」とあります。偉大な指導者を失ったイスラエル民でしたが、神様はモーセの従者ヨシュアに語られたのです。モーセは主の僕と言われました。「僕」とは、主人にとっては、所有物や道具とされていた存在でした。僕に求められることは、神様の意志、神様の命じられたとおりに実行することでした。「主の僕」という称号は、人間に与えられた最高の称号でしょう。神様に従うということが、人間にとっては、最も素晴らしく尊いことであり、それ以上の事はないのです。申命記の最後34章10節から12節には、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。主が顔と顔を合わせて彼を選び出されたのは、彼をエジプトの国に遣わして、ファラオとそのすべての家臣および全土に対してあらゆるしるしと奇跡を行わせるためであり、また、モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった。」とあります。このように、モーセは預言者として神様と特別な関係にあった人物でした。ヨシュアが、モーセの従者であるということは、神様の行う出来事を引き継ぐ存在であったということです。
1章1節には、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。従者とは、見習い中ということでもあります。祭司エリの元にいた少年サムエルのようです。また、モーセのかばん持ちでありました。モーセの命令に忠実に聞いて従っていたのです。ヨシュアの元々の名前は、「ホセア」でした。ホセアとは、「救い」という意味があります。モーセがヨシュアという名前を付けました。ヨシュアとは、「主は救い」、ギリシャ語の「イエス」であり、「イエス」とは、「ヨシュア」というヘブライ語の名前のギリシャ語の読みです。
1章2節には、「「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」」とあります。リビングバイブルには、「あなたこそ次のイスラエルを担う新しい指導者だ。」とあります。ヨシュアは、モーセの跡継ぎとして、イスラエルの民を導くのです。
偉大な指導者の跡を継ぐということは簡単なことではありません。偉大な指導者モーセの後では、どのような優秀な人が指導者になっても、どこかで、何かで比べられるものでしょう。神様は、そのことを十分ご承知の上で、ヨシュアを選び立てられるのです。
神様は、ヨシュアに「あの偉大な指導者モーセのようになれ」とは言われませんでした。ヨシュアには、偉大な指導者モーセとは違うヨシュア自身に与えられた使命を実現していく使命、イスラエルの民を約束の地に導くという使命が与えられているのです。
「ヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と言われても、ヨシュアにとっては、自分に何ができるのか。イスラエルの人々にヨルダン川を渡らせ、約束の地、カナンの地に導くことなどできるのだろうかと不安でいっぱいだったのでしょう。そのヨシュアに、神様は語られるのです。私たちにも、信仰生活の中で、不安や恐れが多くあることでしょう。そのような私たちにも、神様は語って下さるのです。聖書の言葉、神の言葉を通して、神様は私たちに語られるのです。
二、あなたは絶対に神様に見捨てられない
1章3節、4節には、「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。」とあります。「あなたたちに与える。」とありますが、2節にも「与えようとしている土地」の「与える」という言葉は、完了形です。約束の地、カナンの土地に入ること、獲得することは未来の事ですが、神様にとっては、確実にすでに与えているということなのです。信仰のゆえに、すでにそのことが完了していることを表すために、未来の事でも、ここでは、「もうすでに与えている」という完了形で書かれているのです。
「モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」と勝利はすでに確定しているのです。勝つか負けるのか分からないような戦いではないということです。もう勝利はすでに与えられていることとして戦うのです。また、「わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」という約束は、神様がアブラハムに約束されたことでもありました。(創世記12:7、13:17)
1章5節には、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」とあります。ヨシュアは、「ヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。」と神様にご命令されて、信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはり恐れがあったでしょう。信仰があったら、全く恐れがなくなるというのではないのです。恐れていいのです。恐れるのが私たち人間なのです。雪解け水で、洪水のように川岸まで満ち溢れているヨルダン川を、100万人以上の人々をどうやって渡らせることができるのか、どのような方法を考えてみても人間のわざでは、人間の力では不可能に見えたのに違いありません。そのように不安で押しつぶされそうなヨシュアに、神様は「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」という励ましの言葉をかけられたのです。「わたしはモーセと共にいたように」とモーセの従者であったヨシュアには、神様がいつもモーセと共におられ神様のみ業がなされてきたことを見て来たのです。体験して来たのです。そのモーセと共におられた神様が、ヨシュアと共にいて下さると約束され、それと共に、「あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と語って下さいました。恐れと不安の中にいるヨシュアにとって、何と励ましの勇気の出る神様の言葉であったでしょうか。同じように、信仰生活や社会生活、家庭生活の中で、不安や恐れで満たされている私たちにも、「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と約束していて下さるのです。何と感謝なことでしょう。
三、神様が共におられるから勇気が出る
6節には、「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」とあります。「強く、雄々しくあれ。」とは、信仰の事でしょう。神様を信じる心のあり様です。ヨシュアが、自分の力や考えに過信することなく、時の運に任せるということでもなく、神様が語られたことが真実であると確信して、神様に信頼して歩んで行くことなのです。ヨシュアには、イスラエルの人々を約束の地に導き、その土地を継がせることができるかどうか不安であったでしょう。しかし、神様はヨシュアに、「あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。」と言われた神様の言葉をヨシュアは信じて歩むのです。
7節、8節には、「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」とあります。神様は、ヨシュアに、励ましの言葉だけではなく、モーセに与えた律法があることを示します。モーセは死んでいなくなりましたが、ヨシュアのもとには、律法、神の言葉がありました。律法を忠実に守ること、律法、神の言葉を実行することで成功すること、律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさみ、忠実に守り行うことで栄え、成功すると重ねて語られたのです。
9節には、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」とあります。
6節、7節、9節で、「強く、雄々しくあれ。」と三度、神様はヨシュアに語られました。数字の三度以上に、何度もという意味もありますので、神様は何度も何度も、「強く、雄々しくあれ。」と言われるのです。ヨシュアはそんなに弱かったのでしょうか。「強く、雄々しくあれ。」というのは、心と身体を鍛えて、戦い抜けという意味ではありません。リビングバイブルは、「勇気を出しなさい。」と訳しています。共にいると言われ、勇気を出せと言われる神様を信頼することにより、強く、雄々しくある、勇気を出せるということなのです。9節を「だいじょうぶ牧師の元気が出る聖書のことば」にある木坂先生訳では、「あなたの神であるわたしは、あなたを愛しています。いつも一緒にいます。あなたが家にいるときから、職場にも、学校にも、スーパーにも、どこでもわたしはあなたと共にいます。いつもあなたを見守っています。心配することはありません。安心してください。」とあります。もう一つあります。「わたしはあなたといつも一緒にいます。どこに行っても共にいます。絶対にあなたを見捨てることはありません。だから勇気を出して自信を持ちましょう。どんな時にも、必ず良くなると希望をもってもだいじょうぶです。あなたには神であるわたしがついているのですから。」 最後の晩餐の席で、イエス様の御自分は去って行く、という言葉に不安であった弟子たちに、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)と励まされたのでした。
私たちは自分に自信があるから強く雄々しくあるのではありません。私たちには、神様の言葉が与えられており、神様が共におられるから、神様が必ず助け導いて下さるので強くなれる、雄々しくなれる、勇気を持つことができるのです。
Ⅲ結論部
あの偉大な指導者、神様と顔と顔を合わせてという親密な関係、そのモーセの後を引き継ぐヨシュアのプレッシャーは並大抵のことではありませんでした。そのヨシュアに神様は、約束の地、カナンの地を既に与えていると約束され、「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と励まし、律法、神の言葉にしっかり立つようにと命じられました。ヨシュアは、モーセと自分を比べると自分の小ささが見えました。ヨシュアのすべきことはモーセと自分を比べて、頑張って奮い立つということではありませんでした。神様の語られること、神様の言葉に信頼して歩むことでした。信仰が与えられているキリスト者であっても、現実の厳しさの中で、信仰が吹っ飛んでしまいそうになります。神様の存在を疑ってしまいそうになるかも知れません。他のキリスト者と比べて自分の信仰の小ささ、弱さを感じることもあるでしょう。私たちは誰かと信仰を比較する必要はないのです、あなたはあなたでいいのです。私の罪のために、十字架にかかり父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげられ、死んで葬られたイエス様はよみがえり、罪と死に勝利されました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。私のために命さえ与えられたイエス様に目を留めて、私たちに与えられた神様の言葉、聖書の言葉に毎日触れつつ、環境がどうであれ、語られる言葉を信じて、どこまでも神様に信頼する姿こそ、キリスト者の腕の見せどころなのです。過去に犯した事実は変えられなくても、イエス様の十字架と復活を通して、その過去の持つ意味が、神様の恵みによって変わるのです。私たちは、この週、何が起こるか分からない不安な道かも知れません。けれども、ヨシュアに語られたように、「あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」言われるイエス様の目を留めて歩んでまいりましょう。