江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(20年12月27日)

2020-12-27 12:16:20 | Weblog

年末感謝礼拝(降誕後第一)    2020.12.27

呪いが祝福に変わる」 マタイ2:1~12

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第四日曜、2020年の最後の日曜日、年末感謝礼拝となりました。今年は、新型コロナウィルス感染症の拡大のために苦しみの年、辛い年となりました。クリスマスも、いつものような華やかなクリスマスではなく、遠慮しがちに、規模は小さく、イエス様の誕生をお祝いいたしました。キャンドルライトサービスは、初めてのライブ配信のみでした。多くの方々がご覧下さったことだと思います。

 私たちは、2020年の最後の礼拝を迎えました。年末感謝礼拝、何か感謝なことがありましたか。コロナ、コロナの一年、ボクシングのボディーブローのように、じわじわときいて来る苦しみ、心も体も疲れ果てて、毎日の新規感染者の数で一喜一憂して、抜けることのないトンネルの中にいるような、真っ暗闇な状況、希望の光が見えないそのような一年であったかとも思います。しかし、神様は多くの恵みも用意しておられたように思います。苦しみの中にも恵みがありました。闇にも光はあったのです。私たちがどのような苦しみや痛みを経験しても、救い主イエス様はいつも共におられたのです。そして、私たちを支え、守り、導いて下さったのです。そのことを覚えて感謝を現したいと思うのです。

 今日は、マタイによる福音書2章1節から12節を通して、クリスマス物語ですが、「呪いが祝福に変わる」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様との出会いで人生が変わる

 1節には、「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」とあります。東の方というのは、単なる東という地理的な方向を示すというだけではなくて、「東」という言葉が、表現が、聖書の中では深い意味を持っているようです。

 創世記11章にあるバベルの塔を築こうとした人々は、「東の方から移動してきた人々」(創世記11:2)とあります。バベルの塔を築くことは、神様に対して対抗しようとする力であり、人間の権威や権力で何とかしようとする動きです。人間は、昔も今も、この権力や権威で何かをしようとします。カインは、弟アベルを殺害した後、エデンの東、ノドの地に住んだ、と聖書は記しています。ノドは、「流浪の地」という意味があるようです。自分の居場所を求め続け、さまよい続けている生き方のようです。イスラエルを脅かす人々は、常に東の方からやって来ました。アッシリアもバビロンもそうです。東というのは、イスラエルにとっては、あまり好ましくない場所でした。イスラエルにとっては、呪われた場所とでも言っていいでしょう。この東方、東から占星術の学者たちは来たのです。この学者たちも、彼らの国では、権力も権威も財力もある人々でした。

 占星術の学者たちは、ユダヤ人ではなく異邦人でした。ユダヤ人の王として生まれた救い主の誕生を、イスラエルからはるか遠く離れた学者たちが、星の異常な輝きに救い主誕生のしるしとして捉え、長い旅路の果てにエルサレム、ヘロデ王の宮殿にやって来たのです。ユダヤ人からすれば、救いは選民のユダヤ人だけに与えられたもので、異邦人には与えられていないと考えていました。しかし、神様が、かつてユダヤ人が捕囚されていた東の地で、ユダヤ人の救い主待望の考えを、占星術の学者たちは伝え聞いており、その事を知っていたので、ユダヤ人の王として生まれた出来事を受け入れて、はるばるエルサレムにやって来たのです。本来、東の地、呪われた場所から彼らはやって来て救い主に出会い、人生が変えられていくのです。私たちもかつて罪の中にあった者ですが、呪われていた者でしょう。しかし、救い主イエス様との出会いが祝福と変えられたのです。

 

 二、権力に勝る神様の導き

 東方から来た占星術の学者たちは、エルサレムのヘロデ王の所に向かったというよりも導かれたと言ったほうがいいでしょう。ユダヤ人の王として生まれたのですから、王の宮殿にいるものと思ったのでしょう。学者たちは、イスラエルに来て、誰に尋ねても救い主誕生の出来事を知る人がいなかったのです。彼らは、2節にあるように、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と問いました。3節を見ると、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」とあるように、ヘロデ王も誰も救い主イエス様の誕生を知らなかったのです。リビングバイブルには、「それを聞いたヘロデ大王は、ひどくうろたえ、エルサレム中がそのうわさで騒然となりました。」とあります。

 ヘロデ王という人は、支配者としての王、自ら王として君臨するためには、ありとあらゆることをやった人物でした。彼は、両親も兄弟も近親者も殺害したのです。その人物に不安を感じたら、恐れを感じたら、抹殺してきたのがヘロデ王でした。ですから、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と聞かされて、ヘロデ王は不安を抱き、ひどくうろたえたのでした。彼の頭には、その者を見つけ出して抹殺するという考えがあったことでしょう。

 占星術の学者たちが、ヘロデ王の所に行ったので、ヘロデ王にユダヤ人の王、救い主の誕生の知らせを彼は聞いたのです。神様は、東方から来た占星術の学者たちを時の権力者ヘロデ王の所に導いて、ユダヤ人の王、救い主の誕生を知らせたのです。ヘロデ王は祭司長や律法学者たちを集めてメシア誕生の場所を問いただしました。そして、その場所はベツレヘムであることがわかったのです。

 自分の王としての地位を守り続けて来たヘロデ王は、新しい王の存在を恐れたのです。東という言葉が示す人間の権威や権力を誇示する者が、エルサレムの宮殿にもいたのです。神様は東から来た学者たちに、このヘロデ王にわざわざ合わせたように思うのです。

 ヘロデ王は、その子を詳しく調べ、見つかったら知らせるように、自分も拝みに行くからと伝えたのでした。この子を抹殺しようという魂胆が見え見えです。ここにもこの世の権威や権力で何とかしようとする人間の思惑があるのです。

 私たち人間の世界では、権力が物を言います。力で弱い者をねじ伏せます。最も小さく、弱く生まれた救い主を亡き者にしようとする人間の思惑があるのです。人間とはいつの時代も、権力、財力、数で勝負するのです。しかし、神様はそのような権力を誇示し、力を見せつけようとする人間の世界に、弱く、小さく、貧しい救い主を誕生させられ、苦しむ人々、痛んでいる人々、寂しい思いをしている人々に慰めと励ましを与えて下さるのです。

 

 三、神様が導いておられるとの確信

 占星術の学者たちが、ヘロデ王の宮殿から出かけると、東方で見た星が先だって進み、救い主のいる場所に導いたのです。10節には、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。10節の言葉を直訳すると、「彼らは、非常に大きな喜びを喜んだ。」というようになるそうです。リビングバイブルには、「躍り上がって喜びました。」とあります。彼らは、遠い国から星の異常な輝き、その星を見てユダヤ人たちが待ち望んでいた救い主の誕生を信じました。その救い主誕生を示した東方で見た星が出現して躍り上がって喜んだのです。ユダヤ人の王の誕生は間違いのないことだと確信したことでしょう。彼らはユダヤ人ではありません。異邦人ですから、ユダヤ人の王、救い主の誕生の祝い方は、何も知りませんでした。ただ、星を見て、何か導きを感じたのでしょう。でなければ、大切な仕事、与えられた地位を放り出して、家族を残して、危険を冒して来るはずがありません。彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、ユダヤ人の王、救い主の事はよくわからないままに、何も知らないままに飛び出して来たのです。急いで駆けつけて来たけれども、また星が現れて救い主の元へ導いたのです。ユダヤ人の王、救い主の誕生に全然関係のないような異邦人、占星術の学者たちであっても、神様は導いておられるのです。彼らは、これは、神様が働いておられること、神様が確かに導いておられるに間違いないと確信したのです。外国人、異邦人である自分たちでさえも、救い主を祝うことを神様が許しておられること、認めていて下さることがわかり、彼らは「非常に大きな喜びを喜んだ。」「躍り上がって喜びました」ということなのです。

クリスマスは、神様を信じているクリスチャンだけのものではありません。神様を知らない人、信じていない人にもゆるされているものです。日曜日の礼拝も、クリスチャンだけが、神様を信じている者だけに与えられているのではありません。神様を知らない人にも、信じていない人にも、神様に興味のない人にも、全ての人に開かれているものなのです。

 ある意味では、お膝元、エルサレムにいたヘロデ王や聖書や宗教の専門家、祭司長、律法学者たちさえも救い主誕生を知らないで、異邦人、外国人の占星術の学者たちから聞いて、初めて聖書を紐解き、その真実を知ったのです。聖書の事がわかろうが、わかるまいが、神様を信じていようが信じていなくても、教会は、礼拝は全ての人に開かれているので、安心して来ていいのです。

 学者たちは、確信したので、救い主がどのようなお方であっても、その環境や状況が自分たちの考えるようなことでなくても、救い主を礼拝しようと決心したのです。

 学者たちは、ユダヤ人の王、救い主の両親が貧しい状況であることは一目見てわかったでしょう。救い主が、自分たちと同じ小さな赤ちゃんであり、弱い存在であることを認めた上で、彼らはひれ伏して幼子を拝んだのです。幼子の前に礼拝したのです。東の国で高い地位、教養のある彼らが、礼拝し、高価な贈り物をささげたのです。

 占星術の学者たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。このユダヤ人の王と呼ばれたお方は、全人類の罪の身代わりに十字架刑にされたのです。そして、十字架の上には罪状書きがありました。そこには、ユダヤ人の王とありました。生まれたばかりの幼子はユダヤ人の王としての威厳はありませんでした。そして、ユダヤ人の王と罪状書きが書かれた十字架につけられたイエスは、救い主としての威厳もありませんでした。私たちの罪の身代わりに、傷つき、痛めつけられ、尊い血を最後の一滴まで流し、父なる神様から裁かれ、命をささげて下さったのです。私たちに代わって死んで下さったのです。死んで葬られ、三日目によみがえられたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命、復活の望みが与えられたのです。この恵みが全ての人に与えられるのです。

 

 Ⅲ結論部

 東方の占星術の学者たちは、ヘロデに幼子のことを知らせてくれと頼まれましたが、夢で、「ヘロデのところへ帰るな」とお告げを受けたので、別の道を通って自分たちの国へ帰って言った、と聖書は記しています。

 権力の象徴、呪いの場所、東から来た学者たちでしたが、神様の導きを信じ、救い主イエス様に出会い、今までの人生が変えられたのです。そして、別の道、新しい人生へと歩み出したのです。コリントの信徒への手紙の第二5章17節には、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。占星術の学者たちは、救い主イエス様を礼拝した。救い主を信じたということです。彼らは、新しい歩みを始めたのです。人間の権力、力で生きて来た人間の世界、そこには人間の欲と自己中心的な罪の道、呪いの道でしたが、救い主イエス様に出会い、イエス様を礼拝し、今までとは別の道、神様と共に歩む人生が始まったのです。 

 2020年は、いばらの道のりでした。苦しみと悲しみ、痛みの一年でした。呪いの年だと考える人もいるでしょう。新型コロナウィルス感染症拡大の状況の中でも、人間の権力や利権が渦巻き、苦しみに追いやられている人々が多くいます。

 でも心配しなくていいのです。神様が、独り子イエス様を人間の世界にお送り下さったのは、私たちを愛しておられるからです。神様が人間の世界に介入されたのがクリスマスです。私たちの苦しみを御存じの神様が、このままの状態を許すはずがありません。2021年、新しい年、神様のみ業が始まります。呪いが祝福に変わるのです。私たちはそのことを信じて、2020年の最後の週、2021年の最初の時を歩みたいと思うのです。

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