主日礼拝(公現後第四主日) 2008.1.27
「手放すものはないですか」 マタイ19:16-26
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は1月の第四主日です。2008年の4回目の礼拝です。寒い中、礼拝を守るために愛する兄弟姉妹が会堂に集っておられる姿を拝見し、その信仰の姿勢を見させていただき感謝です。今日も礼拝を大切にしたいと思います。
さて、はや2008年も一ヶ月を過ぎようとしています。年末には、どこの家庭でも大掃除をして、多くのゴミを捨てたことでしょう。いらないものを処分したことだと思います。新年を迎えて、また捨てなければならない物が増えてきたのかも知れません。2月からはもえるゴミは週三回から2回に減ることになるようです。ゴミを捨てることも備えていないとあっと言う間にゴミだらけとうようになってしまいそうです。
ゴミならば、また次の収集日に捨てることができますが、人生の中で捨てるべきものと持つべきものがあるとすれば、私たちは本当に持つべき物を持っているでしょうか。捨てるべきものなのに持ち続けているということはないでしょうか。手放さなければならないものはないでしょうか。
今日はマタイによる福音書19章16節から26節を通して、何か手放すべきものがあるならば主に示していただきたいと思うのです。
Ⅱ本論部
⒈隣人に愛を現すことが優先
16節を見ますと、「一人の男」とあります。20節には、「青年」とあります。ルカによる福音書18章18節には、「ある議員」とあります。イエス様のところに来たのは、青年で議員で金持ちであったという人物でした。彼は質問します。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 現代訳聖書には、「永遠の命を得る」が「救われるためには」となっています。ですから、「救われるためには、どんな善いことをしたらよいでしょうか。」とあります。私たちは救われるために、永遠の命を得るためにどんな善いことをしたのでしょうか。私たちは、救われるためにも、永遠の命を得るためにも、善いことをしたから与えられたということはないでしょう。ただ、自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じただけです。信じるだけで、救われ、永遠の命が与えられたのです。
エフェソの信徒への手紙2章8節、9節には、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」とあります。本来、救われるためには、永遠の命を得るためには、イエス・キリスト様の十字架の死が自分の罪のためであると信じる信仰によって与えられるものです。けれども、この青年は、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればいいのか、と行いによって獲得するものだと考えていたということがわかります。
当時、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのように行い、律法を守る、実行することで救われると信じていたわけです。イエス様は、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と青年に言われました。永遠の命を得たいなら、掟を守るように言われました。「えっ、掟を守ることによって永遠の命が与えられるのか?」と私たちは思います。それなら、イエス様も律法主義だったんだろうかとも思います。 イエス様が語られた内容は、善い方はただひとり神様です。だから、神様の意思、神様の教えである掟、律法にそのこと、神様が善であることが示されているということを銘記させようとされたのです。だから、神様の教えである律法、戒めを守るように勧められたのです。この青年は、「どの掟ですか」と尋ねるとイエス様は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。多くの戒めがあるわけですから、どの戒めかと聞くほうが自然かも知れません。イエス様は、十戒の後半の部分を示されました。それは、人間に対する戒めでした。前半は神様に対するものでした。けれども、イエス様が言われた順番は、出エジプト記20章にある十戒の順番とは違います。出エジプト記は、「父母を敬え、殺してならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。」とあります。何故かイエス様は、「父母を敬え」を最後にもってきました。イエス様は、十戒の順番を間違われたのでしょうか。そうではありません。あえて最後に示したのです。それは、この青年に両親に対する愛を強調されたのだと思います。特に十戒の後半部分を示されたということは、対人間についての態度、愛はどうなのか、とイエス様は問われました。
「隣人を自分のように愛しなさい。」これがイエス様の教えなのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、コルバンという定め、父母に差し上げるべきものを神への供え物にする、と言えば父を敬わなくてもよいという定めを是認していたので、この青年もそのような生き方をしていたのではないかと思われるのです。ですから、父母を敬えと最後に語り、強調されたのだと思うのです。律法を行うことが愛のない業を証明していたのです。彼は、そのような生き方、律法を、掟を忠実に守ればよいという生き方をしていたのです。私たちはどうでしょうか。いつの間にか愛のない生き方、律法的な生き方になっているということはないでしょうか。
⒉実は欠けていた
20節を共に読みましょう。「そこで、青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」」 この青年の自信はすごいものです。マルコによる福音書では、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」とあります。彼は胸を張って答えたのです。「まだ何かかけているのでしょうか。」と青年は言いましたが、この言葉はマタイだけです。掟は子どもの頃から忠実に守ってきた。このことがあって、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」という質問につながっているのだと思います。「まだ何かかけているのでしょうか。」と付け加えたのは、自分自身欠けているものがあるというよりも、何もないけれども、「ないでしょう。何かありますか。」という傲慢な態度がそこにあるように思います。リビングバイブルには、「それなら、全部守っています。ほかには?」とあります。
彼は、若くして議員になり、お金持ちであったので、鼻が高くなっていたのかも知れません。「何か問題があれば言って下さい」と彼はイエス様に問いかけました。21節を共に読みましょう。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 幼い時から律法を忠実に守ってきたという青年にイエス様は、「完全になりたいなら」と言いました。
現代訳聖書には、「もしも、今までに守ってきたことが完全だと思っているなら、そうでないことを知ってもらうために、一つのことを教えてあげましょう。自分の持ち物を、全部売り払って、貧しい人たちに与えてしまいなさい。そうすれば、あなたは天に宝を蓄えることになります。それから、わたしの弟子になりなさい。」とあります。「「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」」と胸を張って言い切った青年でしたが、イエス様は、自分が掟を完全に守ってきたと思っていることが、そうでないということを知るために、自分の持ち物を全部売って貧しい人々に与えるように、と語られたのです。それができないとわかっていてそう言われたのです。なぜなら、この青年が掟を守ることだけに熱心で、隣人に対しては愛の行為がまるでできていないということ、両親に対してすべきことをしていないということをイエス様はご存知だったのです。
聖書は、行いによって救われようと思うならば、神様が命じた律法の戒めを全部完全に行わなければならないと教えています。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(ヤコブ2:10)。「割礼を受けている人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は、律法全体を行う義務があります。」(ガラテヤ5:3)
彼が本当に、永遠の命を欲しいと願い、永遠の命を得るために、どんな善いことをすればいいかと質問して、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」というのがイエス様の導きだったのですが、彼は実行できたのでしょうか。22節を共に読みましょう。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」 彼は、永遠の命を得るための善きことが実践できなくて、悲しんで立ち去ったのです。
この青年は、ファリサイ派の人々のように、救われることや永遠の命を得るためには、律法、規則、規定を守ることだと理解し、律法の行為を蓄積することで、神様の前に善いことを積めばいいのだと考えていたのです。けれども、イエス様が言われた善いこと、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すことが実行できなったので、永遠の命が得られないと悲しんで立ち去ったのです。
永遠の命、救いとは自分の力で、行いで勝ち取ることではありません。神様からの賜物、恵みなのです。がんばらなくていいのです。感謝して受ければいいのです。神様はこの救いも永遠の命も私たちに与えたいと願っておられるのですから、素直にいただけばいのです。
⒊救いは神のわざ
イエス様は青年が立ち去った後、弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 金持ち、お金を沢山持っている人は神の国に入るのは難しいと言われました。現代訳聖書では、「確かに、富に心を向けたままで、天国に入ることはできません。」とあります。あの青年のように、お金に心を奪われている人は神の国に入るのは難しいのです。入れませんとは言われませんでした。まだ、入る可能性、これからの生き方では可能となりうるのです。
当時のユダヤ人にとっては、富というものは神様からの祝福だと考えられていました。ですから、富んでいる者、お金持ちは、神様に最も近い、彼らこそ救われるべき者だと考えられていたのです。だから、イエス様の「はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」という言葉には驚きでした。
「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とは奇妙な言葉です。らくだが針の穴を通れるはずがありません。イエス様が言わんとしたことはこうです。らくだは、ユダヤ人が知っている動物の中では一番大きな動物であったようです。城壁に囲まれた町には、門が二つありました。大きな門は商人や通行人が出入りする正門で、もう一つは小さくて低い門があったようです。正門が閉まると見張りが立つので通れません。だから、小さい門を通って町に入ったようです。人間が立ったままでは通れないように低い門を「針の穴」と呼ぶ人がいたそうです。人でさえやっと通れるような小さな門を、大きならくだは通ることはできない。だから、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ほど、困難であるということなのです。
25節を共に読みましょう。「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。」救われるべき人が救われないなら、誰が救われるのか、と弟子たちは驚きました。26節を共に読みましょう。「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」 人が救われるということは、人間の善行や努力で、財産の多さで得られるものではありません。しかし、神様は、御自身の愛と憐れみによって、罪人を救うことができるのです。神様は私たちを救うために、イエス様をこの地上に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。私たちが受けるべき罰を十字架の上で受けてくださったのです。そのことによって、私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられたのです。それが神様のみこころなのです。
富は、お金は必要です。大切なものです。しかし、お金が目的、お金を増やすことだけが目的になると、そこには人間の欲、罪の根があります。テモテへの手紙第一の6章10節には、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまなひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とあります。ヤコブの手紙1章15節には、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。
私たちはお金や物に捕らわれすぎて、信仰から迷い出ることがないようにしたいと思います。必要なら、捨てる、ささげることも勇気を持って実行したいと思うのです。
Ⅲ結論部
イエス様は、お金持ちが悪いと言っているのではありません。イエス様に仕えた人々の中にはお金持ちもいました。与えられたお金や財産を主のためにささげた多くの人々もいます。お金を貯めることが目的であった、生きがいであったザアカイは、イエス様に出合って、持っていた財産の半分を貧しい人々にささげ、不正をした人々には4倍にして返しました。おそらく全ての財産を無くしたことでしょう。けれども、ザアカイにとっては、富やお金よりもイエス様に導かれて与えられた救いのほうが大きな恵みだったのです。私たちはどうでしょうか。
榎本先生は新約聖書一日一章で次のように書いておられます。厳しい言葉です。「私たちが本当に福音にあずかろうと思うなら、失うことを恐れてはならない。何一つ失うまいという態度でいる限り、福音から何も得ることはできない。その時福音は聞いたけれども、その福音は絵に描いた餅のようなもので、私たちの喜びや力とはならない。私たちは、キリスト教信仰にとって福音がどんなに劇的なものであるかを忘れ、また私たちの信仰生活の中で、神を信じ、神が働いて下さっていることに対する大きな期待と感動を失っているのではなかろうか。心が冷たくなり、ただ習慣として教会に集い、その中でできるだけ楽しい生活をしていこうとするぐらいになっているのではないだろうか。よく教会の礼拝を休む人が「行こうと思ったがお客が来て」とか「どうも忙しくて・・・」と言う。それぞれに理由はあろう。しかし、それを捨てないで教会へ行こうと思っても行けるものではない。ある人が、「自分も仕事の現場から離れたら、早天祈祷会にも行こうと思っている」と言っていたが、そんなことで早天に出られると思っているのが大きな間違いである。富める青年もまじめであり、一生懸命である。しかし、神と共にあることがない。ただ自分が正しく生きているということだけである。それは自分のものに執着しているからである。その自分を手放してしまいなさいとイエスは迫っておられるのに、この青年は結局自分を捨てることができなかった。失うことを恐れた。だから彼はイエスの前に立ちながら、恵みにあずかることができなかった。」
もし、私たちが神様に従うことにおいて、あるいは聖書に触れ、祈ること、教会に集うことなどに関して、それを妨げるものを持っているならば、妨げるものがあるならば、それを手放すようにとイエス様は今日、私たちに語っておられるように思うのです。
そのことから守られるために、私たちはやはり毎日聖書の言葉に触れ、神様の言葉を聞きたいと思うのです。神様が私に何を求めておられるのかを聖書を通して聞いて、従いたいと思うのです。神様は誰よりも、私やあなたの幸せを思い、祝福したいと願っておられるのです。
「手放すものはないですか」 マタイ19:16-26
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は1月の第四主日です。2008年の4回目の礼拝です。寒い中、礼拝を守るために愛する兄弟姉妹が会堂に集っておられる姿を拝見し、その信仰の姿勢を見させていただき感謝です。今日も礼拝を大切にしたいと思います。
さて、はや2008年も一ヶ月を過ぎようとしています。年末には、どこの家庭でも大掃除をして、多くのゴミを捨てたことでしょう。いらないものを処分したことだと思います。新年を迎えて、また捨てなければならない物が増えてきたのかも知れません。2月からはもえるゴミは週三回から2回に減ることになるようです。ゴミを捨てることも備えていないとあっと言う間にゴミだらけとうようになってしまいそうです。
ゴミならば、また次の収集日に捨てることができますが、人生の中で捨てるべきものと持つべきものがあるとすれば、私たちは本当に持つべき物を持っているでしょうか。捨てるべきものなのに持ち続けているということはないでしょうか。手放さなければならないものはないでしょうか。
今日はマタイによる福音書19章16節から26節を通して、何か手放すべきものがあるならば主に示していただきたいと思うのです。
Ⅱ本論部
⒈隣人に愛を現すことが優先
16節を見ますと、「一人の男」とあります。20節には、「青年」とあります。ルカによる福音書18章18節には、「ある議員」とあります。イエス様のところに来たのは、青年で議員で金持ちであったという人物でした。彼は質問します。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 現代訳聖書には、「永遠の命を得る」が「救われるためには」となっています。ですから、「救われるためには、どんな善いことをしたらよいでしょうか。」とあります。私たちは救われるために、永遠の命を得るためにどんな善いことをしたのでしょうか。私たちは、救われるためにも、永遠の命を得るためにも、善いことをしたから与えられたということはないでしょう。ただ、自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じただけです。信じるだけで、救われ、永遠の命が与えられたのです。
エフェソの信徒への手紙2章8節、9節には、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」とあります。本来、救われるためには、永遠の命を得るためには、イエス・キリスト様の十字架の死が自分の罪のためであると信じる信仰によって与えられるものです。けれども、この青年は、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればいいのか、と行いによって獲得するものだと考えていたということがわかります。
当時、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのように行い、律法を守る、実行することで救われると信じていたわけです。イエス様は、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と青年に言われました。永遠の命を得たいなら、掟を守るように言われました。「えっ、掟を守ることによって永遠の命が与えられるのか?」と私たちは思います。それなら、イエス様も律法主義だったんだろうかとも思います。 イエス様が語られた内容は、善い方はただひとり神様です。だから、神様の意思、神様の教えである掟、律法にそのこと、神様が善であることが示されているということを銘記させようとされたのです。だから、神様の教えである律法、戒めを守るように勧められたのです。この青年は、「どの掟ですか」と尋ねるとイエス様は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。多くの戒めがあるわけですから、どの戒めかと聞くほうが自然かも知れません。イエス様は、十戒の後半の部分を示されました。それは、人間に対する戒めでした。前半は神様に対するものでした。けれども、イエス様が言われた順番は、出エジプト記20章にある十戒の順番とは違います。出エジプト記は、「父母を敬え、殺してならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。」とあります。何故かイエス様は、「父母を敬え」を最後にもってきました。イエス様は、十戒の順番を間違われたのでしょうか。そうではありません。あえて最後に示したのです。それは、この青年に両親に対する愛を強調されたのだと思います。特に十戒の後半部分を示されたということは、対人間についての態度、愛はどうなのか、とイエス様は問われました。
「隣人を自分のように愛しなさい。」これがイエス様の教えなのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、コルバンという定め、父母に差し上げるべきものを神への供え物にする、と言えば父を敬わなくてもよいという定めを是認していたので、この青年もそのような生き方をしていたのではないかと思われるのです。ですから、父母を敬えと最後に語り、強調されたのだと思うのです。律法を行うことが愛のない業を証明していたのです。彼は、そのような生き方、律法を、掟を忠実に守ればよいという生き方をしていたのです。私たちはどうでしょうか。いつの間にか愛のない生き方、律法的な生き方になっているということはないでしょうか。
⒉実は欠けていた
20節を共に読みましょう。「そこで、青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」」 この青年の自信はすごいものです。マルコによる福音書では、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」とあります。彼は胸を張って答えたのです。「まだ何かかけているのでしょうか。」と青年は言いましたが、この言葉はマタイだけです。掟は子どもの頃から忠実に守ってきた。このことがあって、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」という質問につながっているのだと思います。「まだ何かかけているのでしょうか。」と付け加えたのは、自分自身欠けているものがあるというよりも、何もないけれども、「ないでしょう。何かありますか。」という傲慢な態度がそこにあるように思います。リビングバイブルには、「それなら、全部守っています。ほかには?」とあります。
彼は、若くして議員になり、お金持ちであったので、鼻が高くなっていたのかも知れません。「何か問題があれば言って下さい」と彼はイエス様に問いかけました。21節を共に読みましょう。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 幼い時から律法を忠実に守ってきたという青年にイエス様は、「完全になりたいなら」と言いました。
現代訳聖書には、「もしも、今までに守ってきたことが完全だと思っているなら、そうでないことを知ってもらうために、一つのことを教えてあげましょう。自分の持ち物を、全部売り払って、貧しい人たちに与えてしまいなさい。そうすれば、あなたは天に宝を蓄えることになります。それから、わたしの弟子になりなさい。」とあります。「「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」」と胸を張って言い切った青年でしたが、イエス様は、自分が掟を完全に守ってきたと思っていることが、そうでないということを知るために、自分の持ち物を全部売って貧しい人々に与えるように、と語られたのです。それができないとわかっていてそう言われたのです。なぜなら、この青年が掟を守ることだけに熱心で、隣人に対しては愛の行為がまるでできていないということ、両親に対してすべきことをしていないということをイエス様はご存知だったのです。
聖書は、行いによって救われようと思うならば、神様が命じた律法の戒めを全部完全に行わなければならないと教えています。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(ヤコブ2:10)。「割礼を受けている人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は、律法全体を行う義務があります。」(ガラテヤ5:3)
彼が本当に、永遠の命を欲しいと願い、永遠の命を得るために、どんな善いことをすればいいかと質問して、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」というのがイエス様の導きだったのですが、彼は実行できたのでしょうか。22節を共に読みましょう。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」 彼は、永遠の命を得るための善きことが実践できなくて、悲しんで立ち去ったのです。
この青年は、ファリサイ派の人々のように、救われることや永遠の命を得るためには、律法、規則、規定を守ることだと理解し、律法の行為を蓄積することで、神様の前に善いことを積めばいいのだと考えていたのです。けれども、イエス様が言われた善いこと、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すことが実行できなったので、永遠の命が得られないと悲しんで立ち去ったのです。
永遠の命、救いとは自分の力で、行いで勝ち取ることではありません。神様からの賜物、恵みなのです。がんばらなくていいのです。感謝して受ければいいのです。神様はこの救いも永遠の命も私たちに与えたいと願っておられるのですから、素直にいただけばいのです。
⒊救いは神のわざ
イエス様は青年が立ち去った後、弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 金持ち、お金を沢山持っている人は神の国に入るのは難しいと言われました。現代訳聖書では、「確かに、富に心を向けたままで、天国に入ることはできません。」とあります。あの青年のように、お金に心を奪われている人は神の国に入るのは難しいのです。入れませんとは言われませんでした。まだ、入る可能性、これからの生き方では可能となりうるのです。
当時のユダヤ人にとっては、富というものは神様からの祝福だと考えられていました。ですから、富んでいる者、お金持ちは、神様に最も近い、彼らこそ救われるべき者だと考えられていたのです。だから、イエス様の「はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」という言葉には驚きでした。
「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とは奇妙な言葉です。らくだが針の穴を通れるはずがありません。イエス様が言わんとしたことはこうです。らくだは、ユダヤ人が知っている動物の中では一番大きな動物であったようです。城壁に囲まれた町には、門が二つありました。大きな門は商人や通行人が出入りする正門で、もう一つは小さくて低い門があったようです。正門が閉まると見張りが立つので通れません。だから、小さい門を通って町に入ったようです。人間が立ったままでは通れないように低い門を「針の穴」と呼ぶ人がいたそうです。人でさえやっと通れるような小さな門を、大きならくだは通ることはできない。だから、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ほど、困難であるということなのです。
25節を共に読みましょう。「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。」救われるべき人が救われないなら、誰が救われるのか、と弟子たちは驚きました。26節を共に読みましょう。「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」 人が救われるということは、人間の善行や努力で、財産の多さで得られるものではありません。しかし、神様は、御自身の愛と憐れみによって、罪人を救うことができるのです。神様は私たちを救うために、イエス様をこの地上に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。私たちが受けるべき罰を十字架の上で受けてくださったのです。そのことによって、私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられたのです。それが神様のみこころなのです。
富は、お金は必要です。大切なものです。しかし、お金が目的、お金を増やすことだけが目的になると、そこには人間の欲、罪の根があります。テモテへの手紙第一の6章10節には、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまなひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とあります。ヤコブの手紙1章15節には、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。
私たちはお金や物に捕らわれすぎて、信仰から迷い出ることがないようにしたいと思います。必要なら、捨てる、ささげることも勇気を持って実行したいと思うのです。
Ⅲ結論部
イエス様は、お金持ちが悪いと言っているのではありません。イエス様に仕えた人々の中にはお金持ちもいました。与えられたお金や財産を主のためにささげた多くの人々もいます。お金を貯めることが目的であった、生きがいであったザアカイは、イエス様に出合って、持っていた財産の半分を貧しい人々にささげ、不正をした人々には4倍にして返しました。おそらく全ての財産を無くしたことでしょう。けれども、ザアカイにとっては、富やお金よりもイエス様に導かれて与えられた救いのほうが大きな恵みだったのです。私たちはどうでしょうか。
榎本先生は新約聖書一日一章で次のように書いておられます。厳しい言葉です。「私たちが本当に福音にあずかろうと思うなら、失うことを恐れてはならない。何一つ失うまいという態度でいる限り、福音から何も得ることはできない。その時福音は聞いたけれども、その福音は絵に描いた餅のようなもので、私たちの喜びや力とはならない。私たちは、キリスト教信仰にとって福音がどんなに劇的なものであるかを忘れ、また私たちの信仰生活の中で、神を信じ、神が働いて下さっていることに対する大きな期待と感動を失っているのではなかろうか。心が冷たくなり、ただ習慣として教会に集い、その中でできるだけ楽しい生活をしていこうとするぐらいになっているのではないだろうか。よく教会の礼拝を休む人が「行こうと思ったがお客が来て」とか「どうも忙しくて・・・」と言う。それぞれに理由はあろう。しかし、それを捨てないで教会へ行こうと思っても行けるものではない。ある人が、「自分も仕事の現場から離れたら、早天祈祷会にも行こうと思っている」と言っていたが、そんなことで早天に出られると思っているのが大きな間違いである。富める青年もまじめであり、一生懸命である。しかし、神と共にあることがない。ただ自分が正しく生きているということだけである。それは自分のものに執着しているからである。その自分を手放してしまいなさいとイエスは迫っておられるのに、この青年は結局自分を捨てることができなかった。失うことを恐れた。だから彼はイエスの前に立ちながら、恵みにあずかることができなかった。」
もし、私たちが神様に従うことにおいて、あるいは聖書に触れ、祈ること、教会に集うことなどに関して、それを妨げるものを持っているならば、妨げるものがあるならば、それを手放すようにとイエス様は今日、私たちに語っておられるように思うのです。
そのことから守られるために、私たちはやはり毎日聖書の言葉に触れ、神様の言葉を聞きたいと思うのです。神様が私に何を求めておられるのかを聖書を通して聞いて、従いたいと思うのです。神様は誰よりも、私やあなたの幸せを思い、祝福したいと願っておられるのです。