江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

1月27日 礼拝メッセージ

2008-01-27 13:02:57 | Weblog
             主日礼拝(公現後第四主日)      2008.1.27
            「手放すものはないですか」 マタイ19:16-26

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は1月の第四主日です。2008年の4回目の礼拝です。寒い中、礼拝を守るために愛する兄弟姉妹が会堂に集っておられる姿を拝見し、その信仰の姿勢を見させていただき感謝です。今日も礼拝を大切にしたいと思います。
 さて、はや2008年も一ヶ月を過ぎようとしています。年末には、どこの家庭でも大掃除をして、多くのゴミを捨てたことでしょう。いらないものを処分したことだと思います。新年を迎えて、また捨てなければならない物が増えてきたのかも知れません。2月からはもえるゴミは週三回から2回に減ることになるようです。ゴミを捨てることも備えていないとあっと言う間にゴミだらけとうようになってしまいそうです。
 ゴミならば、また次の収集日に捨てることができますが、人生の中で捨てるべきものと持つべきものがあるとすれば、私たちは本当に持つべき物を持っているでしょうか。捨てるべきものなのに持ち続けているということはないでしょうか。手放さなければならないものはないでしょうか。
 今日はマタイによる福音書19章16節から26節を通して、何か手放すべきものがあるならば主に示していただきたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈隣人に愛を現すことが優先
 16節を見ますと、「一人の男」とあります。20節には、「青年」とあります。ルカによる福音書18章18節には、「ある議員」とあります。イエス様のところに来たのは、青年で議員で金持ちであったという人物でした。彼は質問します。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 現代訳聖書には、「永遠の命を得る」が「救われるためには」となっています。ですから、「救われるためには、どんな善いことをしたらよいでしょうか。」とあります。私たちは救われるために、永遠の命を得るためにどんな善いことをしたのでしょうか。私たちは、救われるためにも、永遠の命を得るためにも、善いことをしたから与えられたということはないでしょう。ただ、自分の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じただけです。信じるだけで、救われ、永遠の命が与えられたのです。
 エフェソの信徒への手紙2章8節、9節には、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」とあります。本来、救われるためには、永遠の命を得るためには、イエス・キリスト様の十字架の死が自分の罪のためであると信じる信仰によって与えられるものです。けれども、この青年は、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればいいのか、と行いによって獲得するものだと考えていたということがわかります。
 当時、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのように行い、律法を守る、実行することで救われると信じていたわけです。イエス様は、「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と青年に言われました。永遠の命を得たいなら、掟を守るように言われました。「えっ、掟を守ることによって永遠の命が与えられるのか?」と私たちは思います。それなら、イエス様も律法主義だったんだろうかとも思います。 イエス様が語られた内容は、善い方はただひとり神様です。だから、神様の意思、神様の教えである掟、律法にそのこと、神様が善であることが示されているということを銘記させようとされたのです。だから、神様の教えである律法、戒めを守るように勧められたのです。この青年は、「どの掟ですか」と尋ねるとイエス様は、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。多くの戒めがあるわけですから、どの戒めかと聞くほうが自然かも知れません。イエス様は、十戒の後半の部分を示されました。それは、人間に対する戒めでした。前半は神様に対するものでした。けれども、イエス様が言われた順番は、出エジプト記20章にある十戒の順番とは違います。出エジプト記は、「父母を敬え、殺してならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。」とあります。何故かイエス様は、「父母を敬え」を最後にもってきました。イエス様は、十戒の順番を間違われたのでしょうか。そうではありません。あえて最後に示したのです。それは、この青年に両親に対する愛を強調されたのだと思います。特に十戒の後半部分を示されたということは、対人間についての態度、愛はどうなのか、とイエス様は問われました。
「隣人を自分のように愛しなさい。」これがイエス様の教えなのです。
 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、コルバンという定め、父母に差し上げるべきものを神への供え物にする、と言えば父を敬わなくてもよいという定めを是認していたので、この青年もそのような生き方をしていたのではないかと思われるのです。ですから、父母を敬えと最後に語り、強調されたのだと思うのです。律法を行うことが愛のない業を証明していたのです。彼は、そのような生き方、律法を、掟を忠実に守ればよいという生き方をしていたのです。私たちはどうでしょうか。いつの間にか愛のない生き方、律法的な生き方になっているということはないでしょうか。

 ⒉実は欠けていた
 20節を共に読みましょう。「そこで、青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」」 この青年の自信はすごいものです。マルコによる福音書では、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」とあります。彼は胸を張って答えたのです。「まだ何かかけているのでしょうか。」と青年は言いましたが、この言葉はマタイだけです。掟は子どもの頃から忠実に守ってきた。このことがあって、「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」という質問につながっているのだと思います。「まだ何かかけているのでしょうか。」と付け加えたのは、自分自身欠けているものがあるというよりも、何もないけれども、「ないでしょう。何かありますか。」という傲慢な態度がそこにあるように思います。リビングバイブルには、「それなら、全部守っています。ほかには?」とあります。
 彼は、若くして議員になり、お金持ちであったので、鼻が高くなっていたのかも知れません。「何か問題があれば言って下さい」と彼はイエス様に問いかけました。21節を共に読みましょう。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 幼い時から律法を忠実に守ってきたという青年にイエス様は、「完全になりたいなら」と言いました。
 現代訳聖書には、「もしも、今までに守ってきたことが完全だと思っているなら、そうでないことを知ってもらうために、一つのことを教えてあげましょう。自分の持ち物を、全部売り払って、貧しい人たちに与えてしまいなさい。そうすれば、あなたは天に宝を蓄えることになります。それから、わたしの弟子になりなさい。」とあります。「「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」」と胸を張って言い切った青年でしたが、イエス様は、自分が掟を完全に守ってきたと思っていることが、そうでないということを知るために、自分の持ち物を全部売って貧しい人々に与えるように、と語られたのです。それができないとわかっていてそう言われたのです。なぜなら、この青年が掟を守ることだけに熱心で、隣人に対しては愛の行為がまるでできていないということ、両親に対してすべきことをしていないということをイエス様はご存知だったのです。
 聖書は、行いによって救われようと思うならば、神様が命じた律法の戒めを全部完全に行わなければならないと教えています。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。」(ヤコブ2:10)。「割礼を受けている人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は、律法全体を行う義務があります。」(ガラテヤ5:3)
 彼が本当に、永遠の命を欲しいと願い、永遠の命を得るために、どんな善いことをすればいいかと質問して、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」というのがイエス様の導きだったのですが、彼は実行できたのでしょうか。22節を共に読みましょう。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」 彼は、永遠の命を得るための善きことが実践できなくて、悲しんで立ち去ったのです。
 この青年は、ファリサイ派の人々のように、救われることや永遠の命を得るためには、律法、規則、規定を守ることだと理解し、律法の行為を蓄積することで、神様の前に善いことを積めばいいのだと考えていたのです。けれども、イエス様が言われた善いこと、持ち物を売り払い、貧しい人々に施すことが実行できなったので、永遠の命が得られないと悲しんで立ち去ったのです。
 永遠の命、救いとは自分の力で、行いで勝ち取ることではありません。神様からの賜物、恵みなのです。がんばらなくていいのです。感謝して受ければいいのです。神様はこの救いも永遠の命も私たちに与えたいと願っておられるのですから、素直にいただけばいのです。

 ⒊救いは神のわざ
 イエス様は青年が立ち去った後、弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 金持ち、お金を沢山持っている人は神の国に入るのは難しいと言われました。現代訳聖書では、「確かに、富に心を向けたままで、天国に入ることはできません。」とあります。あの青年のように、お金に心を奪われている人は神の国に入るのは難しいのです。入れませんとは言われませんでした。まだ、入る可能性、これからの生き方では可能となりうるのです。
 当時のユダヤ人にとっては、富というものは神様からの祝福だと考えられていました。ですから、富んでいる者、お金持ちは、神様に最も近い、彼らこそ救われるべき者だと考えられていたのです。だから、イエス様の「はっきり言っておく。金持ちが神の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」という言葉には驚きでした。
 「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」とは奇妙な言葉です。らくだが針の穴を通れるはずがありません。イエス様が言わんとしたことはこうです。らくだは、ユダヤ人が知っている動物の中では一番大きな動物であったようです。城壁に囲まれた町には、門が二つありました。大きな門は商人や通行人が出入りする正門で、もう一つは小さくて低い門があったようです。正門が閉まると見張りが立つので通れません。だから、小さい門を通って町に入ったようです。人間が立ったままでは通れないように低い門を「針の穴」と呼ぶ人がいたそうです。人でさえやっと通れるような小さな門を、大きならくだは通ることはできない。だから、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ほど、困難であるということなのです。
 25節を共に読みましょう。「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。」救われるべき人が救われないなら、誰が救われるのか、と弟子たちは驚きました。26節を共に読みましょう。「イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」 人が救われるということは、人間の善行や努力で、財産の多さで得られるものではありません。しかし、神様は、御自身の愛と憐れみによって、罪人を救うことができるのです。神様は私たちを救うために、イエス様をこの地上に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。私たちが受けるべき罰を十字架の上で受けてくださったのです。そのことによって、私たちの罪が赦され、永遠の命が与えられたのです。それが神様のみこころなのです。
 富は、お金は必要です。大切なものです。しかし、お金が目的、お金を増やすことだけが目的になると、そこには人間の欲、罪の根があります。テモテへの手紙第一の6章10節には、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまなひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とあります。ヤコブの手紙1章15節には、「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とあります。 
 私たちはお金や物に捕らわれすぎて、信仰から迷い出ることがないようにしたいと思います。必要なら、捨てる、ささげることも勇気を持って実行したいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 イエス様は、お金持ちが悪いと言っているのではありません。イエス様に仕えた人々の中にはお金持ちもいました。与えられたお金や財産を主のためにささげた多くの人々もいます。お金を貯めることが目的であった、生きがいであったザアカイは、イエス様に出合って、持っていた財産の半分を貧しい人々にささげ、不正をした人々には4倍にして返しました。おそらく全ての財産を無くしたことでしょう。けれども、ザアカイにとっては、富やお金よりもイエス様に導かれて与えられた救いのほうが大きな恵みだったのです。私たちはどうでしょうか。
 榎本先生は新約聖書一日一章で次のように書いておられます。厳しい言葉です。「私たちが本当に福音にあずかろうと思うなら、失うことを恐れてはならない。何一つ失うまいという態度でいる限り、福音から何も得ることはできない。その時福音は聞いたけれども、その福音は絵に描いた餅のようなもので、私たちの喜びや力とはならない。私たちは、キリスト教信仰にとって福音がどんなに劇的なものであるかを忘れ、また私たちの信仰生活の中で、神を信じ、神が働いて下さっていることに対する大きな期待と感動を失っているのではなかろうか。心が冷たくなり、ただ習慣として教会に集い、その中でできるだけ楽しい生活をしていこうとするぐらいになっているのではないだろうか。よく教会の礼拝を休む人が「行こうと思ったがお客が来て」とか「どうも忙しくて・・・」と言う。それぞれに理由はあろう。しかし、それを捨てないで教会へ行こうと思っても行けるものではない。ある人が、「自分も仕事の現場から離れたら、早天祈祷会にも行こうと思っている」と言っていたが、そんなことで早天に出られると思っているのが大きな間違いである。富める青年もまじめであり、一生懸命である。しかし、神と共にあることがない。ただ自分が正しく生きているということだけである。それは自分のものに執着しているからである。その自分を手放してしまいなさいとイエスは迫っておられるのに、この青年は結局自分を捨てることができなかった。失うことを恐れた。だから彼はイエスの前に立ちながら、恵みにあずかることができなかった。」
 もし、私たちが神様に従うことにおいて、あるいは聖書に触れ、祈ること、教会に集うことなどに関して、それを妨げるものを持っているならば、妨げるものがあるならば、それを手放すようにとイエス様は今日、私たちに語っておられるように思うのです。
 そのことから守られるために、私たちはやはり毎日聖書の言葉に触れ、神様の言葉を聞きたいと思うのです。神様が私に何を求めておられるのかを聖書を通して聞いて、従いたいと思うのです。神様は誰よりも、私やあなたの幸せを思い、祝福したいと願っておられるのです。
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1月20日 礼拝メッセージ

2008-01-24 16:54:18 | Weblog
             主日礼拝(公現後第三主日)      2008.1.20
         「赦されなければ生きていけない」 マタイ18:21-35

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。1月の第三主日の礼拝を迎えました。2008年の3回目の礼拝です。私たちは、今日の礼拝を心からささげたいと思うのです。
 金曜日はCGNテレビのメッセージの撮影がありました。これで3度目です。第一回目の様子は以前の礼拝でお話しさせていただきました。インターネットが見られる方々は、CGNTV(テレビ)と打ち込んでクリックしますとCGNTVのいろいろな番組の紹介が出ています。「み言葉に聞く」という項目をクリックして、いろいろな県名が出ていますので横浜をクリックすると1から数字が出て名前がありますので、江上をクリックすると10分間のメッセージが始まります。
 御覧になるとわかりますが、非常に暗く堅い表情の私が出てまいります。原稿を見ながらなので、緊張しながらの撮影でした。今回、もっと明るくほがらかにと思い、説教の原稿をできるだけ見ないで話そうと準備しておりました。午後5時からということで、いつも1時間ほどは遅れるので、今日も6時くらいかなあと思っておりましたら、4時半前に電話があり教会につきますということで、「えっ」と思いましたが、どうぞ来て下さい、と電話を切りました。まだ、完全に原稿を暗記していないし、どうかなあと思いましたが、主に委ねて礼拝堂に行きました。
 カメラの前に立ちますと、やっぱり緊張します。なんとか、3つ問題なくスムーズに終わりました。以前の2回よりは落ち着いてできたかあと思いますが、また、見て見たいと思います。2回目のメッセージは原稿を見ないので、原稿とは随分違う内容になったかも知れません。3月に見る事ができると思いますので、見比べて下さい。いつもの礼拝とは随分雰囲気の違う私を見る事ができますから。
 今日は礼拝で落ち着いて、原稿を見ながらメッセージができますので安心です。
 今日の礼拝に与えられました聖書の箇所は、マタイによる福音書18章21節から35節です。今日は、ここから私たちは赦されなければ生きていけない、ということをお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈赦しは回数で決まるのか
 マタイによる福音書18章15節からイエス様は、兄弟が罪を犯した時の忠告について語られました。その話を聞いていてペトロなりに、感じたことがあったのでしょう。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょう。七回までですか。」とイエス様に質問しました。イエス様は次のようなことをお話しになったことがあります。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:3-4) リビングバイブルにはこうあります。「いいですか。友達が罪を犯したら、注意してあげなさい。そして悔い改めたら、赦してあげなさい。あなたに対して日に七度罪を犯しても、そのたびに「悪かった。赦してくれ」とあやまるなら、赦してあげなさい。」
 ペテロはイエス様がこのように、七度赦しなさい、ということを聞いていましたから、兄弟が私に対して罪を犯したら、7回赦したらいいのですね、とイエス様からお褒(ほ)めの言葉を期待して、このような質問をしたのかも知れません。イエス様がおっしゃったことなのですから、間違いはないでしょう。しかし、イエス様は答えられました。22節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」」  いつもの事ですが、わかっていませんね、ということでイエス様は話されたのだと思います。
 イエス様は、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、「悔い改めます」と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」と言われましたが、八回罪を犯して、八回悔い改めるなら赦す。10回も20回も罪を犯して悔い改めるなら赦すように、とイエス様は言われたのだと思います。 それをペトロは七回という数字を気にしたわけです。7回したらそれでいいんだろうという思いがあったのではないでしょうか。当時のラビ、ユダヤ教の教師たちは、「三回赦すことのできる者は完全な人間である」と言ったそうですから、ペトロの七回はすごいことだったと思います。だからこそ、ペトロは胸を張ってイエス様に問い、七回という回数を示したのだと思います。
 私たちも日常生活や信仰生活の中で時間や回数を気にすることがあります。「受験生は一日何時間勉強すべきでしょうか。」一日は24時間だから24時間勉強できると勉強して試験に合格した人はいないと思います。長い時間勉強することも大切ですが、その内容だと思います。「一日何章聖書を読めばいいですか。」という質問もあります。佐藤彰先生は、一日20章読んでおられるというので、私も1日20章に挑戦したことがあります。最初は順調でしたが、段々と聖書を読む、神様の言葉に触れるというのはどこかへ飛んで、何としても20章読まねばならない、と律法的になり、苦痛になり、何の益もなく終わったという経験があります。それでも読まないよりは読んだほうがいいかも知れませんが、たとえ箇所は短くても、そのみ言葉を黙想し、そのみ言葉を味わうことができたら幸いだと思います。
 「一日どれぐらい祈ればいいのですか。」という質問もあります。 韓国の牧師先生の中には、3時間も4時間も祈る人がいます。真似しようとしてもできるものではありません。3時間、4時間の時間が大切なのではなく、祈りだして与えられた課題が終わったら3時間、4時間過ぎていたというのが事実ではないでしょか。回数も大切ですが、回数以上に、その中味が問われるように思います。 回数を気にするペトロに、イエス様は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とどこまでも赦していくという愛を示されたのだと思うのです。

 ⒉そんなの関係ねえ!
 そこで、イエス様は赦すということを負債のある人のたとえを話されたのです。1万タラントンの借金をしている家来とあります。以前5タラントン、2タラントン、1タラントンを預かった僕たちの話をしました。その時もお話しましたが、1タラントンは6千デナリオンですから、労働者の1日の賃金が1デナリオンですから、6千日分の賃金に相当し、約16年半の給料分となりますから、かなりの金額です。1日1万円とすると、6千万円を預けられたというわけです。1タラントンがそうですから、1万タラントンはその1万倍ということになります。約16万年分の給料、6千億円ということになるのでしょうか。とてつもない数字です。そんなお金を借りるのだろうかと考える方々もおられるでしょう。けれどもイエス様はそのような数字を示されたのです。
 決済の日が来て、その莫大なお金を返さなければならないのです。25節には、返済できなかったのです。 テレビでよく、アットローンとか何とかという宣伝がありますが、最後に、「借りすぎには注意しましょう」のような言葉があります。まさに借りすぎです。返せるはずがないのです。返済できない家来に君主は言います。25節には「自分も妻も子も、また持ち物全部売って返済するように命た。」とあります。 26節を御一緒に読みましょう。「家来はひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」としきりに願った。」  「きっと全部お返しします。」とありますが、本当に返せるのでしょうか。いろいろな財産があるのか知れません。時間が与えられれば返せるという見込みがあるのでしょか。返せないのに、その場しのぎで「返します。」と言ったのでしょうか。彼は、主君の前にひれ伏して何度も何度もお願いしたのでしょう。頭を床にこすり付けて懇願したのでしょう。その姿を見ていた主君はどうしたのでしょうか。27節を御一緒に読みましょう。
「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」 「いやあ、こういう人からお金を借りたいなあ。」と思われた方もいるかも知れません。 「6千億円ですよ。全部赦さなくてもいいじゃないですか。半分にするとか。十分の一とか。期限を延ばすとかでいいじゃないですか。」と私たちは思います。または、「主君はすごいなあ。やさしい人だなあ。人格者だなあ。太っ腹だ。」と主君を称賛するでしょう。ここで終わればいい話で済むのですが、続きがあります。
 28節~30節を共に読みましょう。「ところが、この家来は外に出て、自分の百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せずその仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた。」 私たちが期待する展開は、「借金を赦されたこの家来は外に出て、自分の百デナリオンの借金をしている仲間に会うと、「君が僕にしている借金、あれはもう返さなくていいよ。チャラにするよ。」とニコニコして言いました。」こうなるといいですね。しかし、現実は違うのです。
 私たちはどうでしょうか。自分が第三者の場合、その物事を冷静に見る事ができます。しかし、その当事者になるとなかなか思うようにはできないのです。「なんだあの家来。6千億円も赦されたのに百万円ぐらい赦してあげたらいいのに。」と私たちは思います。「自分も6千億円の借金が赦されたら、百万円ぐらい赦さ。」と思いますが、この家来のように、第三者が見て、「どんだけ赦されたの?」と思っても、当の本人は自分が貸した借金百万円は大きいですから、赦せませんでした。赦さなくても、捕まえて首を絞めなくてもいいですね。借金の期限が随分すぎていたのかも知れません。百万円の借金を赦さなくても期限を延ばしてあげるぐらいはしてもいいのにと思います。けれども、この家来は仲間に容赦しませんでした。「そんなの関係ねえ!」だったのです。この態度、愛のなさが自分にふりかかってくるのです。私たちは、他人を見て、自分にはできると思いやすい者ですが、その立場になったらやっぱり自分もそのようにはできない弱い者であることを認めたいと思うのです。

 ⒊赦された者として生きる
 この家来の理不尽な行動に、その仲間たちは心を痛めました。そして、主君に全ての事を告げたのです。主君は、家来を呼びつけて言います。32節、33節を共に読みましょう。「そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」」 リビングバイブルには、「この人でなしめっ!」とあります。「なんてことだ」と主君は怒りました。「6千億億円の借金が返せない。けれども、何とか返しますからと何度も何度も頭を下げたのは何なのか。床に頭をこすり付けて憐れに懇願したからこそ、負債額全部を帳消しにしたのに。その行為がお目には何にもわかっていない。赦した私がバカだった。」 
 あの莫大な借金を帳消しにするということは簡単なことではありません。主君にとっては大変な損失です。自分でその埋め合わせをしなければならないのかも知れません。そのような犠牲をわかっていながら、負債額全部を赦したというこの気持ち、思い、決意をこの家来は何にも感じていなかったのでしょうか。全てが赦されたということで、あの6千億円の負債を負った惨めな自分という者、自分がどういう者であったのか。どのような所から助けられたのかということをわかっていなかったのです。主君は厳しく怒っただけではありませんでした。あの寛大な主君でしたが、34節を共に読みましょう。「そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」 厳しい処置でしたが、それは彼が友人に行ったことでもあったのです。主君は、厳しいようですが、元々ある借金かえさせるためにそのようにしたのです。家来が、「どうか待ってください。きっと全部お返しします。」と言ったその言葉を受け入れたということにならないでしょうか。牢役人に渡したというのは、悔い改めに導こうしたのでしょうか。そこにも主君の寛大な思いがあるようにも思います。
 35節を読みましょう。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」 詳訳聖書には、「私の天の父もまた、もしあなたたちが心から兄弟の罪を無条件に赦さなければ、あなたたちのひとりびとりをそのように取り扱われるのである。」とあります。34節までは、たとえ話しですが、35節は、イエス様が私たちに語られた内容です。教えです。従うみ言葉なのです。
 あの家来は自分も借金を返済できないという辛い経験をしながら、自分や妻や子ども、財産を売ってでも借金を返せ、というような経験をしたのに、同じように借金を持つ仲間のその気持ちを察してあげられなかったのでしょうか。それは自分がいったい何者であるかということに欠けていたのだと思います。返すことなどできないような莫大な借金を全部帳消しにされたということがどれだけ大きな事なのか。すごいことなのか。主君の愛がどれほど大きいものかをわかっていなかったのです。もし、そのことに気づいていれば、わかっていれば、百デナリオンを貸している仲間を赦したでしょう。
 私たちも赦せないことがあります。赦さないことがあります。何故か。それは神様が私にあなたにどのような大きな事を、素晴らしいことを、信じられない事をして下さったということがわかっていないからではないでしょう。罪のないお方が罪ある私たちのために、十字架にかかって死んで下さったという内容は、毎週の礼拝で聞いておられることです。しかし、この内容がただ言葉ではなくて、私の罪が神であるお方を十字架につけるほどのものであったということ。私の罪のために神であるお方が、人となり身代わりに十字架にかかって死んで下さり、私の身代わりに罰を受けて下さり、そのことによって私の全ての罪が帳消しにされたということは尋常なことではありません。すごいことなのです。奇跡です。あの
 6千億円と言うとてつもない借金をしているのは、私、あなたなのです。そのことを忘れたてはならないし、受けた赦し、恵みを独り占めしてはならないのです。

 Ⅲ結論部
 ルカによる福音書7章47節でイエス様は、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言われました。 6千億円借金した家来は、多く赦されたのに愛することも少なかったのです。私たちはイエス様の足を涙で濡らして、自分の髪の毛でぬぐった女性、イエス様から多くの赦しをいただいた女性のように、私たちも全ての罪を赦されたという、多くの罪を赦されたのですから愛することにおいても徹したいと思うのです。私たちは、神様にも人にも赦されなければ生きていけない者なのですから。
 私たちは神様に何度赦されたかわかりません。イエス・キリスト様の十字架のゆえにどこまでも赦され続けるのです。だから、イエス様はペトロに七を七十倍、限りなく赦しなさいと言われたのです。
 エフェソの信徒への手紙4章32節には、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」とあります。
 マタイによる福音書6章14節、15節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」とあります。
 星野富広さんの詩です。「体のどこか」という題です。
 「体のどこかが 人の不幸を笑っている 人の幸せがにがにがしい 「あいつも  おれみたいに動けなくなればいい」 と思ったりする 体の不自由から生じた  ひがみだろうか 心の隅にあったみにくいものが しだいにふくらんできたよ  うな気がする 自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは 手足の動か  ない苦しみをはるかに上回ってしまった ただ花を見て 白い紙に向かってい  る時だけ その苦しみを忘れる」

 私たちは、イエス様に赦されたように、愛されたように、大切な人も、自分にあう人もあわない人も嫌いな人も、愛し、赦していくということを決断したいと思うのです。そのために、毎日、神様の言葉、聖書に触れ続け、神様と交わりの歩みをさせていただきたいと思うのです。
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1月13日 礼拝メッセージ

2008-01-24 16:43:45 | Weblog
             主日礼拝(公現後第二主日)      2008.1.13
               「あなたは小犬だ」 マタイ15:21-28

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2008年の1年も毎週の礼拝を大切にして歩ませていただきたいと願わされています。
 お正月と言えば、年賀状というのが日本の特徴かも知れません。年に一度、いろいろな方々の様子を知ることができる唯一のものだと思います。昨年は私の父が亡くなりましたので、年賀状は出しませんでした。ですから、今回家族写真は2年ぶりになりますので、子どもたちの成長に驚いている方々がおられました。私たちも西和教会で交わらせていただいた兄弟姉妹の子どもたちの写真を楽しみにしています。
 今年の1月1日の元旦礼拝を終えて、年賀状をさっと見ておりましたら、吉永小百合という方から自筆のものがありました。お母さんと子どもの写真が載っていて、文章もあり、最後に吉永小百合とあり、どこの吉永さんかと考えて、「ええっ、吉永小百合、あの吉永小百合、テレビの宣伝や映画に出ている?」いったい青葉台教会とどういう関係なのだろうと考えて、表を見ましたら日本郵政グループとあり、日本郵政グループの宣伝と吉永小百合さんの映画のアピールだったのです。 今年、びっくりするような方から年賀状が届きましたでしょうか。たとえそのようなものがなくても私たちは世界一有名で、私たちを愛しておられるイエス様からのラブレター、聖書が与えられています。今日も神様からのラブレターである聖書から神様の恵みに触れたいと思います。
 1月第二主日に与えられました聖書の箇所は、マタイによる福音書15章21節から28節です。カナンの女性は、イエス様から「あなたは小犬だ」というように表現されましたが、その言葉を素直に受け止めました。この謙遜を通して大きな神様の恵みを受ける事ができました。今日は、この箇所から、神様の前にどのような者であるかを認めつつ、神様の偉大なみ業、恵みに目を留めさせていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈答えられないのには理由がある
 15章の前半は、イエス様がファリサイ派の人々や律法学者たちとの議論の様子が記されています。彼らは、神様の言葉よりも自分たちの言い伝えを大事にしていました。人に見せるだけの信仰、その内側にはまことの信仰はありませんでした。イエス様は、しばしの間ファリサイ派の人々や律法学者たちとの論争から離れて、弟子たちと共に休みの時を持ちたいと願われたようです。十字架を前にして、弟子たちとの交わりを大切な時と願われたのです。イエス様はティルスとシドンの地方に行かれました。ティルス(ツロ)とシドンの地方とは、フェニキア地方のことで現在のレバノンにあたります。イエス様がパレスチナ地方から外に出られたというのはこの時だけです。異邦人の町に行かれたのです。そこまでは、ファリサイ派の人々も律法学者も来ないからです。ティルスとシドンの町は罪の町として名高い所でした。マタイによる福音書11章では、イエス様が数々の町々を裁いていますが、その中にティルスとシドンの町があります。「裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりもまだ軽い罰で済む。」(マタイ11:22)とイエス様は語られました。そのような場所にイエス様は行かれたのです。そこにカナン人である女性が主に懇願したのです。カナン人とは、昔イスラエル民族がエジプトを出てパレスチナにやって来た時、そこに住んでいた先住民族でした。彼女は言いました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と。子どもが苦しむことこそ親の一番の痛みだと思います。子どもたちが熱を出したり、病気になったり、怪我をして苦しんでいる姿は、私たち親にとっては胸が張り裂けそうになります。できることなら変わって、その苦しみを自分のものとしたいと願います。この母親は自分の娘が悪の霊によって苦しんでいる姿が耐えられなくて、イエス様がそこにいると知って急いで来たのだと思います。イエス様に憐れみを請いました。ユダヤ地方でなされていたイエス様の癒しのみ業が、この地方でも知らされていたのでしょう。何としてでも悪の霊から解放して子どもを助けてほしいと願う母親の姿がここにあります。そんなに子どもの事を思い、願う母親に対してイエス様はどうされたのでしょうか。23節をご一緒に読みましょう。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」」 イエス様は何も答えなかったのです。弟子たちと共にファリサイ派の人々や律法学者たちから離れて、心身ともに休める。魂の充電ができると思ったら、カナン人の女性がやって来てイエス様たちの休息を邪魔したのです。だから、イエス様はカチンと来て何も答えなかったのでしょうか。人は腹が立った時に、怒鳴ったり、物を投げたりするというタイプもありますが、何も答えない。しゃべらないというタイプがあります。私は何も話さないというタイプです。イエス様もこの女性に腹を立てて、何も答えなかったのでしょうか。静けさの中、突然大声でわめき散らす女性が現れて弟子たちは迷惑したようです。この女性を追い払って下さるようにイエス様に頼みました。弟子たちもユダヤ人で、カナン人の女性は異邦人ですから、忌み嫌ったのでしょう。
 ペテロは使徒言行録10章まで、神様が汚れた動物を屠(ほふ)って食べなさい、という夢を見せられて、神様が清めたものを清くないと言ってはならない、という教えで初めて異邦人とかかわりをもつようになったのです。「シッ、シッ」と野良犬を追い払うような感じではなかったかと思うのです。イエス様もユダヤ人として誕生されましたから、異邦人を忌み嫌ったでしょうか。そうではありません。 マタイによる福音書8章では、異邦人であるローマの百人隊長の願いを聞いて僕を癒されました。また、同じ8章では、ガラダ地方の墓場に住む悪霊に取りつかれた異邦人の男性を癒されました。ですから、イエス様は異邦人であるからという理由で何も答えなかったのではないはずです。当時、男性は女性に声をかけることはありませんでしたから、黙っていたのでしょうか。ヨハネによる福音書4章では、スカルの井戸で女性に、「水を飲ませて下さい」と声をかけられましたから、女性だから何も答えなかったというのでもないようです。やっぱり、休息の邪魔をされて不機嫌だったのでしょうか。愛のイエス様がそんなはずはありません。きっと何か意味があるのです。人々を愛するためにこの世に来られたイエス様、特に弱い者、女性や子どもの味方であるイエス様が、一生懸命に願っている女性を無視するはずがありません。きっとイエス様にはイエス様のお考えがあってのことなのです。
 私たちも神様に祈り願います。祈っても、祈っても神様が何も示して下さらない。何も答えて下さらない。現状はちっともよくならないということがあります。神様は怒っているのだろうか。私を嫌っているのだろうかとも考えてしまいます。何故、答えられないのか。そこには神様の理由があるのです。私たちを愛しておられる神様の理由です。神様は決して悪いようにはなさいません。いつも最善をなさるのです。たとえ祈りがまだ答えられなくても、現状が良くならなくても、神様の愛と最善をなさるということを信じて、私たちは神様を信頼し、祈り続けたいと思います。

 ⒉ネバーギブアップ(あきらめるな)
 弟子たちは、彼女の苦しみや痛みをまったく理解押していません。愛のない言葉と行動が目につきます。イエス様はどうでしょう。24節を共に読みましょう。「イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。」 女性を無視したイエス様が最初に語ったお言葉は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というきついお言葉。イスラエルの人意外は何もしませんよ、という愛のない言葉のように聞こえます。 リビングバイブルには、「わたしが遣わされたのは、外国人を助けるためではありません。ユダヤ人を助けるためです。」 弟子たちが、追い払ってくださいと言ったので、イエス様はきつい言葉を語られたのでしょうか。 この言葉はイエス様の使命から出た言葉だと思います。イエス様は、3年と少しという期間に伝道されました。この短い期間に全ての人に語ることは無理な話です。ですから、旧約聖書によってすでに導かれている、創造信仰の下地のあるユダヤ人に、真の信仰と福音をはっきりと告げ知らせるというのがイエス様の使命だったのです。そして、全人類の罪のために十字架にかかり、罪の赦しの救いのみわざをなしとげ、死からよみがえり、弟子たちに福音をゆだねられ、聖霊の力によって弟子たちを通して全世界に福音を告げ知らせるというのが神様のおこころでした。 この異邦人の町、ティルスとシドンに来たのは、ユダヤ人伝道をやめて異邦人伝道をするためではありません。十字架を前にして、最後の備え、充電の時を持つためだったのです。だから、この地で、癒しの業を行って、こここそがイエス様の使命ある活動の場所であるかのように展開していくことは、神様の心、イエス様の心ではなかったのだと思うのです。けれども、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉は、何か冷たいような気がします。
 カナの婚礼の時、ぶどう酒がなくなって世話役の一人だったのでしょう。お母さんのマリアが「ぶどう酒がなくなりました。」とイエス様に相談した時、イエス様は、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と言われました。何か、冷たいですよね。ここもやはりイエス様の使命、働きという観点から語られた言葉だと思います。
 そのような冷たい言葉にカナン人の女性はどうしたのでしょうか。25節を共に読みましょう。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し「主よ、どうかお助けください」と言った。」 最初、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と大声で叫んだのは、イエス様と弟子たちの後ろからでした。後ろから叫び続けるので、弟子たちは追い払ってくださいとイエス様にお願いしたのです。そして、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という冷たいお言葉を一番後ろで聞いていて、わざわざイエス様の前に来てひれ伏したのです。直談判をしたのです。最初は距離を置いて遠くから大声でのお願いでした。しかし、今度はイエス様のすぐ前にひれ伏してお願いしたのです。「主よ、どうかお助けください」と。先ほどの冷たい言葉でもう引き下がるか。あきらめるかと思いきや、さらに大胆にお願いしたのです。「いやー、母親は強い。女性は強い。」とつくづく思わされます。いざという時には、女性は強いのですね。だから、出産は女性なのかも知れませんね。このカナンの女性は否定的にされればされるほど、なお大胆に前に出ました。なお、真剣に、期待を持って願ったのです。
 私たちの信仰はどうでしょうか。ちょっと否定的なことがあるとすぐに引き下がってしまわないでしょうか。何かちょっと嫌なことを言われたり、無視されたりすると、もう教会へは行かない。信仰はやめた、と投げやりになることはないでしょうか。自分の思い通りに行かないとすぐにあきらめるということはないでしょうか。私たちは、このカナンの女性を見習いたいと思います。どのような否定的なことがあっても、どんなにマイナスが増えようとも、あきらめないで、投げやりにならないで、やる気をなくさないで、イエス様は必ず答えて下さる。かならず良いようにして下さると期待して、今までやって来たことをやめてしまうのではなくて続けていきたいと思うのです。

 ⒊謙遜は勝利
 否定的な状況の中で、なおイエス様に直談判した女性にかけられた言葉はもっともきついお言葉でした。26節を共に読みましょう。「イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」とお答えになると、」 子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない、つまりユダヤ人にあげるはずのパンを異邦人にはあげられない、と決定的な言葉、否定的な言葉を語られました。ユダヤ人は異邦人の犬とか、邪悪の犬と表現をしたようです。犬とは、道に捨てたゴミをあさり歩く不潔な動物で、やせて気が荒く、病気持ちの野犬であったとある注解書に書いてありました。多くのユダヤ人は異邦人を犬と呼んで軽蔑しました。しかし、イエス様はこの異邦人の女性を犬ではなく小犬と言いました。小犬というのは、家で飼われるペットの犬を指しています。小犬と言われて彼女は何と答えたのでしょうか。27節を共に読みましょう。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 この女性は、犬と言われて「ごもっともです。」と答えました。
 イエス様の態度や言葉、何も答えず無視したり、イスラエル人以外には遣わされていないとか。イスラエルのためのパンを犬つまり異邦人にはあげなれないと、これでもか、これでもかという否定的な、厳しい言葉、ついには、おまえは小犬だ、と言われて、「その通りです」と答えたのです。堪忍袋の緒が切れるとよく表現します。1度や2度ならいざしらず、3度も4度も否定されたり、無視されたり、いやなことを言われると我慢ならない、と怒り狂うわけです。今度は復讐と大変なことになるのです。カナンの女性は、あなたは小犬だ、と言われたことを受け入れつつ、そこから肯定的に、前向きに、ユーモアをもって答えます。「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と。
 詳訳聖書には次のように書いてあります。「はい、主さま、でも小さい犬どもでも自分たちの(幼い)ご主人たちの食卓からこぼれるパンくずをいただきます。」 幼いご主人とは、小さい子どものことでしょう。テーブルから一番多く食べ物を落とすご主人です。
 私たちの家には、時々檪木姉の飼っておられるチャコとサクラという犬を預かります。サクラは食いしん坊で天夢に似ていると言われ、チャコはちょっと変わっているので、百合乃に似ていると言われています。食いしん坊のサクラはやはり誰が一番ごはんをこぼすか知っています。サクラはいつも、こころの下に陣取っているようです。カナンの女性はまさにこのことを言いました。自分は異邦人です。犬です。小犬です。神様の恵みをいただくような資格はありません。恵みを下さいなんて口が裂けても言えないような者です。しかし、ペットの犬が子どもたちがテーブルから落とすパン屑は遠慮なくいただけるように、私にパン屑でいいですから、パン屑ほどの恵みでいいですから下さい、と願ったのです。そのことを聞いてイエス様は言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」 詳訳聖書には、「女よ、あなたの信仰は偉大である。」とあります。リビングバイブルには、「あなたの信仰は見上げたものです。」とあります。  イエス様は、厳しい態度、きつい言葉の連続でありましたが、「あなたはよく謙遜に、言われたことを受け入れ、否定的な中にも肯定的に、前向きに頑張りましたね。」という思いが、「あなたの信仰は立派だ。」という言葉の中に現されているように思います。
 神様は時には厳しい状況を許されることがあります。しかし、カナンの女性を犬ではなく小犬と呼ばれたように、厳しい状況の中にも救いの手を差し伸べておられるのだと思うのです。 カナンの女性は、謙遜に信仰をもってイエス様にお願いしました。でも、イエス様は彼女の家に来て、手を置いて祈るのでもなく、「あなたの願いどおりになるように」とお言葉を与えただけでした。それでも、そのお言葉を信じて帰ったのです。
 旧約聖書には、ナアマン将軍が重い皮膚病で、預言者エリシャの所にいけば治ると言われてエリシャの元に言った時、エリシャは出て来ないで、僕のゲハジが出てきて、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」と言われた時、ナアマンは怒りました。「長い旅をしてわざわざ来たのに何だ。預言者エリシャが出て来て、患部に手を置いて癒してくれると思っていたのに何だ。わしはもう帰る」と怒り狂いました。しかし、賢い僕によって諭され、お言葉どおりにして癒されたのです。「ここまでがんばったのに、えっそれだけ。」ということがあります。カナンの女性もそうだったでしょう。イエス様が娘の体に手を置いて祈り癒してくれると思ったかも知れません。しかし、「あなたの願いどおりになるように」というお言葉だけでした。けれども、イエス様の言葉を信じて家に帰ったのです。聖書は、「そのとき、娘の病気はいやされた。」とあります。カナンの女性は最後まで謙遜でした。自分の思いを優先しませんでした。全て、イエス様に委ね、イエス様のなさること、語られることに従ったのです。神様のみ業は、私たちが謙遜になって、素直にイエス様に全てを委ねるときになされるのだと思うのです。そのことを学び、私たちも実践したいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 カナンの女性は、イエス様から与えられた約束のお言葉を頼りに、イエス様の言葉を信じて、娘の癒されることを信じて家に帰りました。その時に、神様のみ業は起りました。栄光が現れたのです。イエス様の言葉には力があるのです。私たちは、先週学んだように「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」のです。み言葉に立つのです。
 神様は時には、私たちの信仰を試されることがあります。祈っても、祈ってもなかなか答えられないことがあります。カナンの女性のように、神様は祈りが答えられないということを通して、私たちの忍耐を養い、信仰を強め、不純な動機があれば取り除き、願う側の私たちを整えて下さるのです。私たちは与えられるまで、約束の言葉を信じて求め続けたいと思います。
 榎本保郎先生は、新約聖書一日一章の中で次のように語っておられます。「たとえば、神は私たちに神の目的のためにいろいろなものをお与えになる。試練を受ける時にもそこに目的があるとすれば、それを感謝して受け取らねばならぬ。病気、痛み、どうしても理解できないことなどが私たちの人生に起きてくるが、そうしたことが全て神の目的のもとに与えられているとすれば、大きな感謝をもって受け取らねばならない。「おまえはこれから一生病床にあって苦しい生活をしていけ」と言われるならば、それを感謝して受け取っていくのが私たちの信仰である。神を利用して自分が楽しい生活を送るというような、自己中心であってはならない。」
イエス様の生涯、それは私たち罪人の身代わりに十字架につけられて裁かれることでした。それが父なる神様のみこころでした。イエス様の生涯は死ぬため、私たちの身代わりに苦しむ生涯、それを感謝して受け入れて下さったのです。そのことを覚え感謝したいと思うのです。
 星野富広氏の詩です。「不自由」という題です。
「動けないことなんか たいしたことではない ただ うれしくて うれしくて
   じっとしているのが 何としても不自由だ」
 「天井に向かって」
「熱が出た 静かに寝ていよう 熱が下がった 元気に寝ていよう 達磨大師は
 壁に向かって九年 私は天井に向かって三十年 未だ悟りなし かなり馬鹿だ」
 
 パウロの言葉です。「私は、もとどおりに回復させてください、と三度も神様にお願いしました。そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」」(Ⅱコリント12:8-9)
 私たちは、与えられた状況は違います。困難を覚え、苦しむことがあります。無視されたり、嫌な事、マイナスの事を言われることがあります。自分が神様の前に罪人であることを覚え、カナンの女性のように、小犬と屈辱的な言葉を言われても、「その通りです」と受け止め、神様から与えられるパン屑の恵みに期待したいと思います。そのためにも、この週、神様の言葉、聖書に立って、そのお言葉の約束に立って、信じて、期待して歩んでまいりましょう。
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1月6日 礼拝メッセージ

2008-01-08 20:17:12 | Weblog
              主日礼拝(公現後第一主日)      2008.1.6
                「み言葉で勝利する年」 マタイ4:1-11

 Ⅰ導入部
 新年あけましておめでとうございます。昨年は皆様にお世話になりました。本年もよろしくお願い致します。お正月をそれぞれの場所で迎えられ良き休みとお交わりが与えられたことだと思います。
 1月1日は2008年の最初の日として元旦礼拝をしました。マタイによる福音書25章14節から30節を通して、主人から預けられたタラントンをどのように生かしたか、生かさなかったのかを見させていただいて、神様に与えられた賜物を豊かに用いさせていただきたいと願わされました。
 昨日は、青年の会で新年会を持たせていただきました。各自が今年の抱負や目標を語って下さいました。皆さんの今年の抱負、目標は何でしょうか。2008年の1年が、神様に祝福されますように、良き抱負や目標が与えられますように、また達成できますようにとお祈り致します。
 私たちは、2008年も毎週の礼拝、一回一回を大切にしていきたいと思います。礼拝を通して、神様のみ言葉をしっかりいただいて、み言葉にしっかりと立って歩ませていただきたいと思います。
 新年最初の礼拝で与えられましたみ言葉は、マタイによる福音書4章1節から11節です。私たちは、新しい年の1年も、み言葉で勝利していきたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈弱くても大丈夫
 今日の箇所は、マルコによる福音書、ルカによる福音書にも記されてあります。どの箇所も、イエス様が洗礼を受けられた後、悪魔からの誘惑をしるしてあります。佐藤彰先生は、マルコによる福音書の著書の中で、「クリスチャンになるということは、苦しみや試みから免(まぬか)れる安易な道に逃れるということではありません。それどころか時として神は、クリスチャンになった私たちを思いもかけない大きな試練や苦しみに会わせられることがあるかもしれません。」と語っておられます。
 イエス様は、洗礼を受けてから悪魔に誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行かれたのです。霊に導かれたのですから、神様のみむね、神様の守りの中にあったことだと思います。イエス様は、40日40夜断食されました。40という数は聖書によく出てきます。ノアが箱舟を作った時、神様は40日の間、地上に雨を降らせられ息のあるものは死に絶えました。モーセは、イスラエルの人々を荒れ野で40年間導きましたが、イスラエルの人々はさまよいました。また、モーセはシナイ山に登り40日間断食しました。エリヤ40日かけて神の山ホレブにたどり着きました。40とは、試みを示す数字のようです。40歳の方々気をつけて下さい、というのは冗談です。
 イエス様は40日間断食されました。これからの御自分の働きのために必要なことだったと思います。2節の終りには、「空腹を覚えられた。」とあります。神であるお方が空腹になられたのです。神様が空腹になるというのはおかしなことです。私たちの神観念は、全知全能な方であり、時を越えて存在されるお方です。そんなお方が空腹になられる、というのはおかしいと多くの人々は言うでしょう。
 私たちは、クリスマスに神様が人間の子どもとしてお生まれになったということを見てまいりました。人間の罪を負うためには、神としての聖さ、そして、人間の変わりに死ぬためには、同じ肉体を持つものでなければなりませんでした。イエス様は、その両方を兼ね備えておられるのです。ですから、神であるお方が人間の姿をとり、私たちと同じように何も食べなかったら空腹になられるのです。人間の飢えの苦しみを知っていて下さるのです。空腹で弱っている所に悪魔が誘惑したのです。
 榎本保郎先生は一日一章の中で、「イエスが神の子でありながら空腹になられたということが、本当の試みであったと思う。」と語っておられます。
 空腹でない時、元気な時ではありません。そのような時は誘惑しても誘惑されないからです。リビングバイブルには、「空腹を覚えられた。その時です。悪魔が誘いかけてきたのは。」とあります。私たちが最も苦しい時、弱い時、落ち込んでいる時、悲しんでいる時、悪魔は働いてくることを忘れてはならないのです。悪魔は言います。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
 第一の誘惑は、神の子の証明。神としての力を示せということです。神の子なのだから、石をパンにすることぐらい簡単だろう。そのような力があるのなら見せてみろ、ということです。自分の持つ力を自分の欲のために使えと悪魔は誘惑しました。食べるということは、私たち人間にとって大切なことです。イエス様にとっても大切なことだったでしょう。イエス様は、食べることがお好きでした。ですから、空腹の中で、石をパンにすることはできたでしょう。5つのパンを多くの人々に分けられたイエス様は、石をパンにすることもできたのです。しかし、イエス様は、4節にあるように、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と申命記8章3節の言葉を引用されました。「書いてある。」と言われました。この言葉は、完了形で書かれてあって、過去において書かれたことが今も生きて働いているということが強調されているのです。神様の言葉は不変であり、永遠に力あるものなのです。神様は「「光あれ。」こうして、光があった。」というようにお言葉で光を創造されました。神様の言葉には力があるのです。その神様の言葉で悪魔の誘惑に勝利されたのです。今、痛んでいませんか。弱っていませんか。落ち込んでいませんか。悪魔は、その弱い所に働いてきます。しかし、心配することはありません。イエス様のようにみ言葉に立ちましょう。聖書は、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(Ⅱコリント12:9)と約束しているのです。

 ⒉与えられるかどうかではない
 悪魔は、神様の言葉で打ち負かされましたが、それですごすごと去って行ったのではありません。今度は、その神様の言葉をもって誘惑してきたのです。悪魔は言います。6節を共に読みましょう。「言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてある。」」
 イエス様は、最初の誘惑に「書いてある。」と神様の言葉を指し示しました。今度は悪魔が、「書いてある。」と神様の言葉を指し示しました。 第二の誘惑は、高い所から飛び降りてみろということです。神の子なのだから、飛び降りても天使があなたを守る、そのように神様の言葉がそう約束しているというのです。これは詩篇91編11節、12節の引用です。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当らないように守る。」とあります。神様の言葉にこのようにあるのだから、ここから飛び降りたら助けてくださるから、やってごらんと言うのです。 あの宗教改革を行ったマルチン・ルターは、「悪魔の道具は、神の言(ことば)、信仰深さ、文化、宗教、奇跡である。」と言ったようです。悪魔はありとあらゆるものを用いて誘惑します。神の言葉に信頼する者には、神の言葉で、信仰深い人には信仰深さで、奇跡を信じる人には奇跡を用いて誘惑するというのです。悪魔は神様の言葉を引用しましたが、自分の都合のいいように引用しました。正確に言うと、「あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」という言葉が抜けています。詩篇の記者が言っているのは、不必要な冒険や危険を冒して、神様が守って下さるかどうかをためすことの勧めではなく、神様のみむねに従って歩む道にはどこででも神様の守りがあるということを語っているので、「あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。」という言葉が抜けているということは本来の意味がおかしくなるのです。悪魔は正確さに欠けます。イエス様はもう一度神様の言葉で対抗します。7節を共に読みましょう。「イエスは、「あなたの神である主を試してはならない。」とも書いてある。と言われた。」 
 これは申命記6章16節の言葉の引用です。荒野でのイスラエルの民が水がないとモーセに食ってかかり、「神様が自分たちの中にいられるのか、おられないのか」と言って神様を試みたことを言っています。 神様が共におられるのにどうして飲み水がないのか。神様が共におられないからではないか。試練や苦しみがあると、私たちも、「神様が共におられるのにどうしてこんなに苦しむのか。神様は共におられるのだろうか。」と考えることはないでしょうか。 神様が共におられるかどうかということは、水が与えられるか、とか、飛び降りても守られるのか、というような不敬虔な実験(試み)で立証されるものではないと思います。 神様がいるのなら、働かなくても必要を与えて下さるに違いないと仕事をしないことは正しいことでしょうか。神様がいるのなら、何の備えをしなくても守られると無謀なことをすることが正しいのでしょうか。(勉強をしなくても試験に受かるから勉強しない。信仰があるから大丈夫)。
 神様が共におられるということは、信頼と従順、私たちが神様を信頼し、神様に忠実に従うことの中で見いだされ、体験されるものではないでしょうか。私たちは、神様が私を創造し、守り、導いて下さると信じるので、み言葉に従って歩むことができるのです。与えられたその場所で精一杯努力して、信頼し、従うことの中に、神様の力が発揮され、神様が共におられるということを知ることができるのです。神様を試し、それに答えるかどうかで知るのではないのです。イエス様は、今回も神様の言葉によって悪魔に勝利したのです。 私たちは神様を試すことで、神様を信じるのではなく、神様の言葉に信頼し、その言葉に従うことを通して神様の業を見、神様を信じたいと思うのです。

 ⒊み言葉を握り締めて
 またもや、神様の言葉によって悪魔はイエス様を誘惑することができませんでした。しかし、悪魔はしつこいです。誰かのようです。誰とは言いませんが。次に悪魔は、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて言います。
 9節を共に読みましょう。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」 これは、政治的支配、権力による支配を示し、苦難のしもべとしての道を拒否させるものでした。 イエス様は全人類の罪の身代わりに死ぬために人間の姿となって誕生されました。そして、十字架の道は茨の道でした。大変なものでした。だから、悪魔は、あなたが十字架の茨の道を歩まないように、わたしを拝んだら何も邪魔しない。楽にいけるよ。拝むだけだよ、と言うわけです。
 この世の権力はまさにこれです。私に従えば、あなたに褒美(ほうび)をあげる。悪いようにはしない、と多くの人々が力ある者の前に頭を垂れます。正月の3日の日でしたか、夜のテレビでローマ帝国1000年の歴史についてありました。なかなかおもしろくて途中からでしたが最後まで見ました。ローマ帝国の晩年は、まさにこの政治的支配、権力による支配でした。そして、時の権力者に逆らえば死、従えば自分の命も権利も守られる。多くの人々が時の権力者に従いました。しかし、時の権力者もやがて裏切られ滅びていきます。悪魔の最後の手段は、この世にならえ。妥協せよ。ちょこっと頭を下げてひれ伏せば、全てはお前のものだ。十字架にかかる必要などはないのだ。楽に伝道できる。楽に信徒が増える。わざわざ苦しい道を選ぶなんてナンセンスだ。この世は、悪魔はそう語るのです。 
 愛する皆さんも、この世の中に生きているのですから、このような経験があるのかも知れません。会社の中で、学校で、隣近所で、何かのサークルで、いろいろと経験されていることがあるのかも知れません。私たちがクリスチャンとして、聖書の言葉を通して神様を第一にしていこうとすればいろいろな偏見や摩擦もあるでしょう。しかし、妥協という方法を取れば、ある時はクリスチャン、ある時はそうではない、とこの世に妥協すれば偏見や摩擦からも避けられるでしょう。
 悪魔が一番恐れるのが十字架なのです。全人類のために神であるお方が、人間の身代わりに死ぬ、神の裁きを受けるということが一番いやなのです。だから、十字架の道、苦難の道をなんとか留めようとしたのです。第一の誘惑も、石をパンにするという奇跡をすれば人々は驚く。パン、つまり食糧を与えるなら人はついてくるということです。第二の誘惑は、高い所から飛び降りるというような、人がびっくりするようなことをすれば人はついてくる。つまりこの世的な事柄なのです。あなたのその力をもってすれば十字架になんてかかる必要はない。私と手を組みましょう、ということなのです。
 ヘビ(悪魔)はエバに、善悪の木の実、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と誘惑しました。聖書は語ります。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。」(創世記3:6)。
 賢くなりたい。偉くなりたい。一番になりたい。それは誰もが思うことでしょう。人間の心の中には、支配したいという権力的な欲があります。聖書は、「肉の欲、目の欲、生活のおごり(持ち物の誇り)」(Ⅰヨハネ2:16)とも表現します。 イエス様も力あるお方であるからこそ、政治的支配、権力での支配、何よりも苦難の僕としての歩みをしないでいいという誘惑を受けられたのです。
 10節を共に読みましょう。「すると、イエスは言われた。退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。」 神に仕えよ、とイエス様はみ言葉で答えました。そして、イエス様は、十字架の死に至るまで父なる神様に忠実に従われたのです。そして、神様に仕える、人に仕える生涯を送られたのです。 悪魔は離れ去りました。 イエス様は、神様のみ言葉で悪魔に勝利されました。私たちも、悪魔に勝利するための唯一の武器は、神様の言葉、聖書の言葉なのです。聖書は語ります。「霊の剣(つるぎ)、すなわち神の言葉を取りなさい。」(エフェソ6:17)。リビングバイブルには、「御霊の剣(神のことば)を手にしなければなりません。」とあります。
 イエス様の生涯は、物質の魅力で自分に従う人をひきつけたりしませんでした。また、世間を驚かせ感心させて人気を集めることもしませんでした。そして、妥協する道、インスタントな道ではなく、辛く、苦しい道を、十字架を一身に見つめて歩まれたのです。私たちを罪から救うために。ただ、父なる神様の御計画のために、そのお言葉に忠実に歩まれる道を御自分の道とされたのです。

 Ⅲ結論部
 私たちは、2008年の新しい年を歩み始めました。今年の抱負も目標も大変よい事でしょう。しかし、私たちは、この年、どのような道を歩もうとも、神様の言葉には力があることを信じたいと思います。信じ続けたいと思うのです。「試練を受けることは、その苦しみにおいて神の御心が示される時なのである。」と榎本保郎師は語っておられます。 
 新年早々、試練の只中におられる方もあるでしょう。これから試練を受ける方々もあるでしょう。だからこそ、私たちは何があっても、何もなくても、聖書の言葉、神様の言葉を握り締めていたいと思うのです。「と書いてある。とも書いてある。と書いてある。」とイエス様はみ言葉を指し示しました。神様の言葉に立ち続けました。私たちも、この2008年の歩みが聖書の言葉、神様の言葉で勝利する年であることを確信し、神様の言葉に触れ、養われ、神様の言葉に忠実に従って行く1年でありたいと思うのです。
 星野富広氏の詩を年末感謝礼拝でも元旦礼拝でも紹介しました。今日も一つ紹介します。「がんばれ まつたけ」という題です。 「がんばれ まつたけ まつたけ がんばれ おまえは山にしか出るな 松の根もとにしか 出るな 一年に一度しか 出るな  どんなに金をつまれても 甘いことばで誘われても おまえは自分の生き方を変えるな 大安売りのシイタケを見ろ  エノキはビンの中で 
まるでモヤシだ 頼りにしていた マイタケも 落ちた  がんばれ まつたけ まつたけ がんばれ おまえは自分の生き方に誇りを持て 」
 私たちは、この世にあって、クリスチャンとして神様の言葉に信頼して生きたいと思います。誰が何と言おうとも、神様の言葉には力があります。この神様の言葉に忠実に従うという生き方を変えることなく、この生き方に誇りをもってこの一年歩ませていただきたいと思うのです。
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2008年元旦礼拝メッセージ

2008-01-08 20:10:02 | Weblog
                    元旦礼拝         2008.1.1
            「与えられているからこそ」 マタイ25:14-30

 Ⅰ導入部
 新年あけましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。本年もよろしくお願い致します。2008年がスタートしました。この年も、まず神様を礼拝することから始められますことを感謝します。愛する兄弟姉妹とこの年の最初に心を合わせて礼拝できますことを心から感謝致します。この年も神様を第一として歩ませていただきたいと思います。
 2007年の最後の礼拝では、マタイによる福音書20章からぶどう園の労働者について見させていただき、最後の者にも同じように恵みを与えて下さる神様に目を注ぐことができました。
 2008年の元旦礼拝で選ばせていただいた聖書の箇所は、マタイによる福音書25章14節から30節です。「与えられているからこそ」という題ですが、神様から与えられているものを私たちがこの年豊かに生かして行く者でありたいと思うのです。

 Ⅱ本論部
 ⒈神様の配慮
 ある人が旅に出かける時に、僕たちに自分の財産を預けました。15節には、「それぞれの力に応じて」と記されています。リビングバイブルには、「めいめいの能力に応じて」とあります。各自の能力に応じて、5タラントン、2タラントン、1タラントンを3人に預けたわけです。1タラントンは6千デナリオンですから、労働者の1日の賃金が1デナリオンですから、6千日分の賃金に相当し、約16年半の給料分となりますから、かなりの金額です。1日1万円とすると、3億円、1億2千万円、6千万円を預けられたというわけです。
 5タラントンと2タラントンを預けられた人は、15節の終りに「早速」とありますから、行動を起こしました。リビングバイブルでは、14節には、「さあ、元手をやるから、これで留守中に商売しろ」とありますので、5タラントンと2タラントンを預かった者は、すぐに商売を始めたのです。この二人は、それぞれのお金を元手に、5タラントンを儲けて10タラントンとなり、2タラントン儲けて4タラントンとなりました。19節の最初には、「かなり日がたってから」とありますから、何年もの間だったのでしょう。3億円の元手で3億円儲けるためには、1億2千万円の元手で2億4千万円儲けるためには何年もかかったのではないでしょうか。けれども、1タラントン、6千万円を預けられた人はどうしたかと言うと、「出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。」のです。土の中に預けられたお金を隠しておいたのです。6千万円という大金を預けられて困ってしまい考えたあげくの果てにお金を隠したのでしょうか。また、預けられたお金を減らしてはならない。絶対に損をしてはならないというストレスから、損をしない方法として地に隠しておくことを考えたのでしょうか。
 あるいは、最初の人は5タラントン、次の人は2タラントン預けられたのに、自分には1タラントンしか預けられなかった。だから、自分はあまり期待されていない。自分は才能がない。自分には一番少ないお金しか預けられなかったと他の人と比較して、自分を惨(みじ)めに思い、やる気をなくしてしまったのでしょうか。後で、主人に叱られた時、1タラントンを地に隠した人は、「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」と言っています。この人にとっては、主人はとても恐ろしい人であったということです。1タラントン預かった人は、主人との関係はあまりよくなかったということでしょうか。ですから、この人がたとえ2タラントン預かっても、5タラントン預かっても同じように、穴を掘りお金を隠しておいたのではないでしょうか。私たちと神様との関係はどうでしょうか。
 あなたにとって、神様とは恐ろしいお方でしょうか。罪を見逃さない厳しいお方と考えているでしょうか。それとも、罪を赦して下さる愛のお方だと感じているでしょうか。私たちは、神様、イエス様というお方を正しく知ることが大切なことだと思うのです。聖書を通して、父なる神様、子なるイエス様、聖霊様を知ることはとても大切なことであり、私たちの信仰生活にとってとても大事なことなのです。

 ⒉委ねられた賜物を用いる
 何年も過ぎてでしょう。僕たちの主人が帰って来ました。当然、預かったお金に対する清算が始まりました。5タラントン預かった人は、5タラントン儲けたと言い、主人から「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」というお褒(ほ)めの言葉をいただきました。続いて、2タラントン預かった僕が、2タラントン儲けたと言うと、主人は、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」と言いました。5タラントン預かった僕と2タラントン預かった僕の主人のほめ言葉は全く同じでした。5タラントン、つまり3億円預けた人が3億円儲けた方が、1億2千万円預けて、1億2千万円儲けた人よりも良かったとは言いませんでした。額を見るならば、3億円預けられ、3億円儲けた僕の方が偉いようにも思えますが、元手と同じ額を儲けたことは二人とも同じでした。ですから、主人は預けた金額云々(うんぬん)ではなくて、預けられたお金をいかに使ったのかということを問うているのだと思うのです。
 詳訳聖書では、21節も23節も、「みごとだ。おまえはまっすぐな{りっぱな、感心な}そして忠実なしもべだ。おまえは少しのものについても忠実であった。{信頼できる者であった。}私はおまえに多くのものを管理させることにする。主人の喜び、{歓喜、幸福}にはいれ{をともにせよ}」となっています。主人は、5タラントン預けた者、2タラントン預けた者に、「お前は少しのものに忠実であった」と言いました。
 3億円で3億円儲ける。1億2千万円で1億2千万円儲けることは、少しのものではなく多くのものです。大変なことです。大(たい)したことです。成功者です。勝ち組です。すごいことです。それなのに、主人は少しのものに忠実と言いました。この主人は大富豪で、何億円も何千万円も少しという感覚なのでしょうか。この世の中にはそういう大金持ちも確かにいるでしょう。しかし、この主人は、どうもお金の金額のことを言っているのではないのだと思うのです。
 たとえ、1万円預けられて1万円儲けても、千円預けられて千円儲けても、同じように称賛しただろうと思うのです。15節には、「それぞれの能力に応じて」とありますから、主人はこの僕たちの能力を知っていて、5タラントン、2タラントン預けたわけです。そして、預けられたタラントンをその能力を使って新たな儲けをしたわけです。与えられた能力を十分に発揮したことに関してほめているのだと思うのです。
 一方、その能力に応じて1タラントン預かった僕は言いました。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。」 これがあなたのお金ですと1タラントン、6千万円を渡しました。彼は、預けられた6千万円を主人に返すことができてほっとしたことでしょう。彼は、このお金を盗んだのでもなく、使い込んだわけでもなく、失ったわけでもありませんでした。だから、主人に預けられたお金をそのまま返すことができたことで、彼は満足したのだと思うのです。
 しかし、主人は答えました。26節、27節を共に読みましょう。「主人は答えた。「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付で返してもらえたのに。」」 1タラントン預けられた者は、そのお金を無くさずに返したことで満足しましたが、主人はそのお金を銀行に預けていたら、利子が加えられたはずだ、とこの僕の怠惰、何もしなかったこと、能力に応じて与えられたタラントンを用いなかったことに対して叱られました。
 当時、イスラエルはローマ帝国の支配の下で、今で言う「銀行」が普及しており、利息がかなり高かったようです。主人が帰って来るまでには、何年もあったわけですから、6千万円を預けていたら相当の利子があったことは間違いないのです。彼は、主人には損はさせませんでしたが、預けられたタラントンを有効に使わなかったのです。ただ、怠けていただけだったのです。

 ⒊与えられているからこそ用いよう
 神様は私たちに賜物を与えていて下さいます。主人が僕に「それぞれの能力に応じて」タラントンを与えたように、神様は私たちの能力に応じて賜物を与えていて下さいます。ローマの信徒への手紙12章6節から8節には次のように記されています。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまずに施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」
 また、ペトロの第一の手紙4章10節、11節には次のような言葉があります。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。」 リビングバイブルでは次のように訳しています。「神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。説教するために選ばれた人は、あたかも、神様があなたを通してじかにお語りになるように、語りなさい。人を助けるために選ばれた人は、神様が下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです。」
 賜物がない人は存在しません。神様は何か神様と人々のために、私たちに賜物を与えて下さっているのです。2007年の最後の礼拝で星野富広さんの詩を紹介しましたが、星野さんは体操の先生でした。スポーツが万能だったのでしょう。しかし、事故で首から下が全く動かなくなり、人生は真っ暗闇になりました。体を動かすのが大好きだった彼が、全く動かせなくなりました。こんな詩を書いておられます。「棘(とげ)」という題です。「動ける人が 動かないでいるのには 忍耐が必要だ私のように 動けないものが 動けないでいるのに 忍耐など 必要だろうか そう気づいた時私の体をギリギリに縛りつけていた 忍耐という棘(とげ)のはえた縄がフッと解けたような気がした」 星野さんは動けない体で、神様の栄光を現したいと口で筆を加えて、花や自然を描き、そこに詩を添えました。信仰の詩、そして、素直な詩、悲しめる人々に、痛みを持つ人々に大きな慰めを与えました。神様から与えられた体力という賜物なの、事故で何もできなくなって、人の世話を受けなければならない自分が絵と詩を通して、神様の大きな証をしておられるのです。
「つばき」という詩があります。「木は自分で 動きまわることができない 神様 に与えられた その場所で 精一杯枝を張り、許された高さまで 一生懸命 
 伸びようとしている そんな木を 私は友達のように思っている」 
 木は自分で動きまわることはできないけれども、自分の好きな場所ではなく、神様に与えられたその場所で、精一杯枝を張り、神様の許された高さまで伸びようとしている。私たちも神様に生かされて、今置かれているその場所で、精一杯生きて神様の恵みを証ししたいと思うのです。水野源三さんもレーナ・マリアさんも弱さを持ちながらも、精一杯神様の恵みを証しする人として用いられているのです。
私たちは健康が与えられていることを感謝したいと思います。そして、教会に来て礼拝をささげられる恵みを感謝したいと思います。私たちはどんな小さな賜物であってもそれを用いないで生きることを避けたいと思うのです。与えられた賜物を精一杯主のために、人々のために用いたいと思うのです。そして、自分が肉体的に、精神的に、あるいは社会的に、そして信仰的にも弱くても、小さくても神様は神様の栄光のために、私たち一人ひとりを用いられるのです。
 
 Ⅲ結論部
 さあ、2008年が今日から始まりました。昨年はどのような年だったでしょうか。「偽」という漢字が世相を現しているように、偽りの年でありました。まさに、与えられた賜物を地に隠した僕のように、怠惰な、責任を人になすりつけるように、自分を欺く、人を欺く世の中になっています。
 私たちは幸い、神様の愛と恵みを知っています。神であるお方が人となって、この世に来られ、ご自分を無にして人々に仕えられたのです。与えられた権能によって、人を癒し、人を励まし、奇跡を起こし、多くの人々に神様の愛と恵みを語られました。そして、全人類の罪のために十字架にかかって死んで、神様の裁きを受ける必要がないのにもかかわらず、私たちを救うために裁かれたのです。そのことによって私たちの全ての罪が赦されたのです。そして、私たちの内に聖霊様が住んで下さり、神様と共に人生を歩むことができるのです。
私たちは各自の能力に応じて賜物が与えられていますから、この年、大いに用いたいと思うのです。人と比べて卑下したり、優越感を持つのではなく、能力が大きくても小さくても、多くても少なくても、与えられた賜物を豊かに用いる者に、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」とのお言葉をいただけるのです。
 賜物が大したことがないから、少ないからとあきらめるのではなくて、私にこの賜物が与えられたのだと感謝して喜んで仕えたいと思うのです。5タラントンと2タラントン預かった者は、主人を喜ばせたい。喜んでほしいと願い精一杯働きました。1タラントン与えられた者は、主人が恐ろしいから、と与えられたものを土の中に隠しました。神様は恐ろしい方ではありません。イエス様を十字架につけるほどに私たちを愛しておられるお方です。ですから、失敗を恐れずに、与えられているものを用いて、2008年も精一杯生きて生きたいと思うのです。
 水野源三さんの詩に、「神様の大きな御手の中で、雨蛙は雨蛙らしく鳴き、カタツムリはカタツムリらしく歩き、ペンペン草はペンペン草らしく咲く。神様の大きな御手の中で、私は私らしく生きる。」というのがあります。 それぞれに神様に与えられたものがあり、与えられたものを精一杯用いて生きることが、神様にとっては喜びだと思うのです。
 「神様はあなたがた一人一人に、何らかの特別な能力を授けておられます。その能力によって、互いに助け合い、神様からのあふれる祝福をひとり占めにはせず、他の人と分かち合いなさい。」と聖書は語ります。私たちには、神様から何かが与えられているのですから、与えられているからこそ、それをそれらしく、私らしく用いていきたいと思うのです。
 2008年が、神様と共に喜びを分かち合う年としたいと思うのです。そのために、私たちは、この年も、聖書のみ言葉に触れ続け、神様との交わりである祈りを欠かさないで、毎日の一日、一日を大事に生きていきたいと思うのです。



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12月30日 礼拝メッセージ

2008-01-08 20:01:29 | Weblog
                   主日礼拝式(年末感謝)  2007.12.30
             「最後の者にも同じように」 マタイ20:1-16

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげることができますことを感謝します。2007年の最後の礼拝式となりました。クリスマスの全ての行事も祝福のうちに終えることができました。皆さんのお祈りとご協力によって無事に終えることができました。感謝致します。
2007年もあっと言う間に終わってしまったという感じでしょうか。12ヶ月いろいろなことがありました。一つひとつの出来事が神様の導きによって守られてまいりました。今年最後の礼拝を感謝の礼拝の時としたいと思います。それぞれの一年の導きに感謝を現したいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈がんばっていませんか
19章の後半には、金持ちの青年のお話が出てきます。財産を持っていた青年は、イエス様よりも財産の方を大事に考えて、イエス様に従えず去って行きました。すると、ペトロが、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょう。」と質問した時、イエス様はご自身の栄光を与えること、捨てたものの百倍も受けること、永遠の命を受け継ぐと教えられました。最後に、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」と言われました。20章の最初の教えは、このことを教えるために語られたようです。
 20章のぶどう園の労働者のたとえの後、20節からは、ゼベダイの息子たちの母、つまり弟子のヤコブとヨハネの母が、自分の二人の息子たちに、御国で特別の地位を与えて下さるようにとイエス様に願いました。他の10人の弟子たちは、自分たちも考えていたことを先にされたので、「出し抜かれた」と腹を立てました。その時、イエス様は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と教えられたのです。
 このぶどう園のたとえは、自分がいかにも偉い、がんばった、努力している、真面目にやっているという人々に対して語られているように思えるのです。このような人は、やはり評価、報酬として物事を考えるからです。人よりも偉いので高い地位が与えられるのは当たり前だ。がんばっただけの評価、報酬は当然だ。努力したのだから、それだけの見返りがあっていい。真面目にやってきたのだから報われるべきだ。このように考えるのは、人間の世界では当たり前なことでしょう。評価や報酬と言う考えに対して神様は恵みということを言っておられるのだと思うのです。
 ぶどう園で朝6時から夕方の6時まで12時間働いた人と夕方5時から1時間しか働かなかった人が、同じ賃金を貰うということはおかしなことでしょう。朝9時から9時間働いた人も、12時から6時間働いた人も、夕方3時から3時間働いた人も同じ1デナリオンという1日の賃金をもらいました。何故、問題が起ったかと言うと、労働時間の少ない人から賃金を払ったからです。1時間しか働かなかった人が1デナリオンもらったのですから、12時間働いた人たちは、もっともらえると考えてもおかしくないでしょう。不平を言うのがもっともだとも思います。ですから、12時間働いた人、労働時間の長い人から1デナリオンを払って帰らせたら何も問題はなかったのです。けれども、聖書は、逆なのです。1時間しか働かなかった者から与えたので、12時間働いた人が不平を言ったのです。12時間働いた人は、「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」と言いました。彼らの1日の労働は、辛抱の一日、1デナリオンという約束ですから、1デナリオン貰うために、暑さを辛抱し、労働を辛抱しました。朝の6時に、1デナリオンという約束、貰えるという約束ができたので、家族が養えるという安心感がありました。家族のために、辛抱してがんばりました。しかし、5時から働いた人々は、1時間精一杯働いたでしょう。労働できる喜びを感じていたでしょう。朝の6時から夕方の5時まで11時間、何もせずにブラブラしていたのではありません。なまけていたのでもありません。広場で、仕事を探していたのです。だから、5時まで広場にいたということは、仕事を探していたのであり、家族を養うために真剣に仕事を探すために11時間を費やしていたのでした。ですから、仕事にありつけた喜び、そのぶどう園での仕事も1時間だからと手を抜いたり、適当にしたのではなく、喜びを持って精一杯働いたのだと思うのです。

 ⒉最後の者としての自覚
 ここでは、ぶどう園で働いた時間は違います。12時間、9時間、6時間、3時間、1時間です。だから、人間の労働には価値があり、その労働時間に対する報酬として賃金を払うというところから見るならば、12時間働いた人々の言い分の方がもっともなことでしょう。けれども、ぶどう園の主人はそうではなかったのです。12時間働いた人々が1時間しか働かなかった人々と暑い中がんばった自分たちと同じ扱いをした、不公平だと不満を言った時の主人の言葉を見て見ましょう。 13節から15節を共に読みましょう。「主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。」」この主人は、報酬としてではなく恵みとして1デナリオンを全ての人に払いました。仕事につかせてもらったこと自体が恵みで、賃金も労働時間の報酬としてではなく、恵みとして与えられるものという見方をするならば、ぶどう園の主人の行動は少しも問題ありません。朝6時の時点で仕事が与えられたということは、早くから恵みに預かれたわけですから感謝すべきことでしょう。
 榎本保郎先生は、新約聖書一日一章で、次のように語っておられます。「16節まではぶどう園の譬である。読んでいて、何か割り切れないもの、一つの矛盾を感じる。それは、最後の者も最初の者も1デナリを受けたというだけでなく、最後の者から支払いがなされたということである。同じ賃金を払うのであれば、朝早くから来て働いた人から払うのが順序ではないかと思う。あとから来た人から支払ったのはなぜだろうか。それは、私たちが自分はどこに立っているか、そのことを考えて読むとき、この話のさし示そうとしているものを知ることができる。私たちは、自分が最後に来た者であることを忘れやすい。」 私たちは、このぶどう園の譬を読む時、自分は何時間働いた人と考えるでしょうか。朝から暑さを辛抱して、我慢して12時間働いた人でしょうか。9時間、6時間働いた人でしょうか。3時間、いや1時間しか働かなかった者でしょうか。
 先週、洗礼式が行われました。5人の方々が洗礼を受けられて私たちの家族の一員となりました。第一礼拝で洗礼を受けられた矢戸智子姉が証の最後の部分で、「一番若い者ですからよろしくお願いします。」というようなことを話されました。自分が最後の者としての自覚のゆえだと思います。新米1年生ということでしょう。また、教会学校では、受洗者の集まりを1泊2日でしました。今回、洗礼を受けた梶原真人君と市原恵梨ちゃんが参加しました。初めての事でとまどったことでしょう。しかし、みんなと仲良く楽しい時を過ごしていたと思います。
 クリスチャンの世界でも、気をつけないと洗礼を受けた年数が物を言うということが起ってきます。何々教会の古株という人々が教会を自分たちの思い通りにするということもあるのです。勿論、洗礼を受けて何十年も信仰生活をして来られたということは尊いことです。日本の社会の中ではなおさらです。しかし、だからと言って、信仰年数の長さが、教会の中で意見が強くなるとか、幅を利かせているということはおかしなことです。救いは神様の恵みです。その時も最善です。その恵みが長ければ長いほど感謝が増すのではないでしょうか。信仰が長いことが、教会のつまずきにならないように注意したいと思うのです。私たちは神様の恵みとして、全ての事を捕らえることができたら幸いだと思います。

 ⒊恵みとして受ける
 12節を共に読みましょう。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」 この言葉を聞いてどう感じられますか。「自分たちは12時間も働いたんだぞ。たった1時間しか働かなかった者と違うんだぞ。俺たちの方が上だ。偉い。がんばった。格が違う。我慢した。辛抱した・・・。」と自分の方が遥かに上にいる傲慢な態度だと思います。律法学者やファリサイ派の人々は、聖書をよく読み、礼拝を守り、多くの献金をささげ、断食して祈り、奉仕をしました。でも、それは人に見せるためでした。人の評価を受けるためでした。報酬を受けるためでした。いつの間にか、度を越えて、律法を守ることを優先して神様との交わりが薄れていきました。律法を守るということは神様と交わることにおいてなされるものです。神様を差し置いて律法は生きてこないのです。ですから、律法学者やファリサイ派の人々は神様の命令、律法の言葉よりも自分たちが作った法律を守ることを最優先にしたために、心は神様から離れて行ったのです。
朝6時から働いた人たち、12時間と言う長い間働いたことは尊いことでしたが、 それは1デナリオンという約束で、それを得るために辛抱、我慢の労働でした。しかし、3時間、6時間、9時間働いた人たちは、「ふさわしい賃金を払ってやろう」という主人の言葉を励みに仕事をしたことでしょう。けれども、1時間しか働かなかった人たちは、何の約束もない中で、労働できる喜びを感じながら、百パーセント以上、二百パーセントも三百パーセントの力を出して働いたことでしょう。11時間は仕事を探し続けて広場にいたのです。11時間労働と言う形ではないにしろ、働くために広場で何とか家族のために仕事をと真剣に探していたのです。ぶどう園の主人は、そこを見てくれたのではないでしょうか。1日の賃金は1デナリオンで家族が生活するのはギリギリなのです。1デナリオンなければ、家族は食べ物にありつけないのです。主人はそのことを知っていたのです。だから、1日の労働時間に対して支払うならば、12時間働いた人にしか1デナリオンを支払うことはできないのです。
 しかし、9時間、6時間、3時間、1時間働いた人たちも1デナリオンは必要なのです。だから、働いた時間と言う報酬ではなく、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」という恵みなのです。本来いただけるはずのないものを受ける事が恵みです。12時間働いた人は1日の労働で1デナリオンという約束でした。しかし、それも恵みです。朝早くから契約できて、家族が養えるという安心感が与えられたのですから、それは神様の恵みです。私たちが自分の何かで動くとき、才能、努力、がんばり、費やした時間等、その時は権利や報酬を主張します。しかし、私たちが神様の前に最も小さく、弱い者であるという立場に立つ時、権利や主張はなく、ただ全てを恵みとして受ける事ができるのだと思うのです。できる人ほど、がんばっている人ほど、真面目でコツコツとやっている人ほど、努力家の人ほど気をつけなければならないのかも知れません。不真面目がいい。努力しなくていいと言っているのではありません。いつの間にか、真面目が真面目で終わらない。努力が努力で終わらなくなることが危険なのです。健康が与えられて努力できるということも、真面目にコツコツできるということも神様の大きな恵みではないでしょうか。謙遜がいつの間にか傲慢になってしまうという危険性を私たちは知らなければならないのです。
 私たちは、この世に住んでいるわけですから、どうしてもこの世の物差しで物事を人を見てしまいます。しかし、そこには大きな落とし穴があるのです。私たちは、神様から多くの恵みを受けている者として、全ての物事を恵みと言う観点で見る事ができればと思うのです。
 ぶどう園で12時間働いた人たちが、恵みとしてとらえることができたら、最後に1時間しか働かなかった人が1デナリオンをもらえた時、共に喜ぶことができたのではないでしょうか。パウロは言いました。「あなたがたは、それほど物分りが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」(ガラテヤ3:3) ガラテヤ2章21節では、「わたしは、神の恵みを無にはしません。」と言っています。信仰ではなく、律法、行いで救われると考えるガラテヤの人々に対して語った言葉です。恵みがいつの間にか、律法、行いになってしまいます。私たちは、神様の恵みで始まり、神様の恵みで終わりたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 16節を共に読みましょう。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」ペトロは、財産を多く持つ青年がイエス様に従えないで去って行った時、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と質問ましたが、この時のペトロは、自分たちは財産を持っている青年とは違って、財産も家族も捨ててイエス様に従った者で鼻高々という感じがします。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後いる多くの者が先になる。」とイエス様は、ペトロの傲慢な思いを見抜き、この言葉を語り、ぶどう園の譬を話されたのです。そういうペトロも、イエス様を三度も知らないというとんでもない失敗をしました。失敗を通して謙遜を学んだのでした。パウロも信仰の強い人でした。自分の持病が癒されて神様のためにもっと多くの働きがしたいと持病の癒しを求めました。しかし、治らないと言うことを通して、弱さの中にキリストの力が現されるということを知り、謙遜を学びました。
 イエス様はご自身が謙遜なお方でした。神であるお方が人となられ、全人類の罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。天の位を捨ててまで、私たちの救いのために、人となり、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。その事によって、私たちの全ての罪が赦されたのです。私たちは、神様の愛の恵みによって救われたのです。誰も誇れないのです。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」 イエス様が弟子たちに伝えたかったことはこれだと思います。そして、私たちにも語っておられるのです。
 2007年の1年間にはいろいろなことがありました。教会でも、家族にも、個人にもいろいろなことがあったでしょう。努力の甲斐もあったでしょう。コツコツとやってきたことが実ったでしょう。才能が花開いたことでしょう。しかし、全ての出来事の背後に神様の守りがありました。神様の恵みがいつも注がれていたのです。がんばった私も、がんばれなかった私も、神様の恵みに目を留めて感謝したいと思うのです。私は最後の者です。一番弱い者。罪深い者。その者を愛して下さる神様に感謝したいと思うのです。神様は最後の者にも同じ恵みを用意しておられるのです。
 「花が上を向いて咲いている 私は上を向いてねている 
あたりまえのことだけれども 神様の深い愛を感じる」(ひなげし)
「見ているだけで何も描けず一日が終わった こんな日と大きな事をやりとげた日と同じ価値を見いだせる心になりたい」(見ているだけで)
神様は私たち一人ひとりを同じ価値、尊い者と見て恵みを与えて下さるのです。感謝しましょう。
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