江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年2月25日)

2024-02-25 12:36:52 | Weblog

日曜礼拝(受難節第二)       2024.2.25

         「一粒の麦として来られた救い主」 ヨハネ12:12~26

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第四の日曜日を迎えました。もう2月の最後の日曜日です。

2月14日の灰の水曜日から受難節・四旬節が始まりました。今年のイースターは、3月31日ですから、前日の3月30日までの日曜日を除く40日間が受難節、四旬節です。日曜日を除くのは、日曜日は復活を記念する喜びの日ですから、6回の日曜日を除く40日をイエス様の十字架の苦しみを覚えて、好きなものを断ったり、悔い改めの期間として過ごします。今年の受難節は、ヨハネの福音書からお話ししたいと思います。今日は、ヨハネによる福音書12章12節から26節を通して、「一粒の麦として来られた救い主」と題して、お話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、誤った救い主の歓迎

 12節、13節には、「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」」とあります。過ぎ越しの祭りを控えて、エルサレムの町は巡礼のために集まってきた人々で一杯でした。

12節の前の11節には、死んだラザロを蘇らせたイエス様を多くの人が見に来たこと、イエス様だけではなく、よみがえらされたラザロを見るためであること、祭司長たちは、ラザロの蘇りで、多くのユダヤ人がイエス様を信じるようになったので、ラザロをも殺そうと考えていることなどが記されています。その翌日、祭りに来ていた多くの群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞いて、自分たちが待ち望んでいた救い主であると歓迎するのです。17節、18節には、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」とあります。歓迎した群衆とは、ラザロの復活を見た人々、その証を聞いた人々、過ぎ越しの祭りに来ていた人々を合わせた群衆がイエス様を歓迎したのです。死人を蘇らせたという事実は、多くの人々に救い主としての権威づけになったのでしょう。群衆は、「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。」とあります。「なつめやしの枝」「棕櫚の枝」は、植物学上では、背が高く成長し(15m~30m)、一度に多くの実をつけることから、昔から「繁栄、豊穣」の象徴とされてきました。荒野のような過酷な環境下でも、深く根を張り、強い生命力を発揮して育つために、フェニックス(不死鳥)と呼ばたようです。日本では、松竹梅にあたる縁起の良い植物と言えます。エゼキエル書40章から43章には、神殿の入口から本殿至聖所に至る道筋になつめやしが登場し、神殿全体の周りになつめやしの木が彫刻されていて、なつめやしの木は御国の神殿を指し示し、そこにお迎えするメシアとしてのイェス様を表していると考えられるようです。また、なぜなつめやしの枝かというと、BC164年の出来事から来ているようです。当時のイスラエルは、異教徒に支配され、ギリシャの神ゼウスの像が、エルサレムの神殿に置かれていたようです。それはユダヤ人にとっては、神殿を冒涜されているという堪え難い屈辱でした。しかし、BC164年にマカベヤのユダという人物が、戦いに勝利してエルサレムを異教徒から奪還し、神殿を清めて神様に再び奉献したのです。このことを記念して神殿奉献記念祭が行われるようになりました。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。」(ヨハネ10:22)と聖書は記します。

その時、人々はなつめやしの枝を振って喜び祝いました。なつめやしの枝を振るという行為は、エルサレムが異邦人の支配から解放されたことを喜ぶという意味があるようです。今、ローマ帝国に支配されていたイスラエルが、ローマに勝利して神の民ユダヤ人を解放してくれるイスラエルの王を待ち望んでいた群衆が、イエス様を大歓迎したのです。

 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と群衆は叫びました。ホサナとは、イスラエルの民がエルサレムに巡礼するに時に用いた詩篇118編25節から出てくるヘブライ語の「ホーシーアー・ナー」(主よ、今どうぞ救ってください。)がバビロン捕囚時代アラム語を話すようになったため「ホーシャナー」というアラム語になり、後にギリシャ語で「ホサナ」になったようです。次第にその言葉の意味は変わって「万歳」というようなほめたたえる歓喜の言葉として用いられるようになったのです。

群衆は、イエス様をローマ帝国からイスラエルを開放してくれる救い主として歓迎したのです。

それは、イエス様の思いとは全く違うものであったのです。死人を蘇らせたというインパクトな出来事で引き付けられた人々の熱はすぐに冷めます。やがて、木曜日には、イエス様を熱烈に歓迎した群衆は、イエス様を「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。

 

 二、人間の欲の思いとイエス様の心の差

 群衆の熱狂に対してイエス様は、14節の前半には、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。」とあります。ろばの子に乗ってこられる王というのは、実際はありえないおかしな姿だと言えます。ろばは、通常荷物を運ぶ家畜でした。王様や兵士は馬に乗ります。ですから、ろばの子に乗って来られる王とは普通ではありません。なので、誰の目にも一目で、「この人だ」とわかる印であったのです。イエス様が誕生された時、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:12)と天使は羊飼いたちに伝えました。救い主が家畜小屋の飼い葉桶に寝ている赤ちゃんだとは普通じゃありません。めったにない姿なので、しるしとなりました。エルサレム入城の時も、ろばの子は大人が乗るのには、おかしな、滑稽な、ふらふらとよろけて、今にも倒れそうな歩き方だったでしょう。そんな不格好な王様はいません。旧約聖書は、イエス様のエルサレム入城を「「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」」と預言しているのです。イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されることよって、旧約聖書の預言が成就したのです。

ろばの子に乗られたイエス様は、権力や武力によって支配するのではなく、平和の王として来られたことを示しています。武器も持たず、兵隊も伴わず、その代わりに、漁師や徴税人、女性たち、貧しい人や罪人たちを伴って行進されたのでしょう。それは、平和の王としての象徴なのです。「エルサレム」とは、「平和の町」「平和の基礎」という意味があるようです。その意味の通りに平和の王としてイエス様は、エルサレムに入城されたのです。イエス様は、群衆に歓迎されることが、祭司長やファリサイ派の人々の憎しみをさらに買う行為であることがわかった上で、あえて人々の目を引く形でエルサレムに入城されたのです。それは、イエス様の思いではなく、父なる神様の思い、旧約聖書の預言の通りにされたことなのです。

 19節には、「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」とあります。「何をしても無駄だ。」とファリサイ派の人々は、あきらめ気味です。「何の益にも、何の役にも立たない。」ということでしょう。マリアがイエス様の葬りの用意として香油をイエス様の足にぬった時、イスカリオテのユダは、「無駄な行為だ」とマリアを非難しました。これが、人間の基準でしょう。有益なものや役に立つものは尊ばれて、益にならないものや役に立たないものは捨てられてしまうのです。そして、それがものだけではなく、人間に対しても適用されるという現実があります。有能な人や有益な人は尊ばれ、無力な人や無益な人はさげすまれるのです。しかし、私たちがイエス様に出会い、イエス様の十字架と復活を通して救いに導かれて、神様の存在を知り、信じるならば、全ての価値観が変えられるのです。私たちの無力さ、小ささ、弱さ、あるいは、苦しみや悲しみ、失敗さえも無益ではないということなのです。遠回りすることも、立ち止まって休むということも大切なことであると知るのです。私たちを導かれる神様は、私たちの経験する全ての事、良い事も悪い事も益として下さるということを知ることができるのです。私たちが、自分の心の中にある罪を認めて、自分が罪人であることを知って、自分は無力な、無価値な者だと思っても、神様は私たちに対して、イエス様の十字架と復活を通して、「わたしの目には、あなたは高価で貴い。」と言って下さるのです。何と感謝なことでしょうか。

 

 三、十字架で死ぬことによるイエス様の栄光

 20節から22節には、「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」とあります。熱狂のエルサレム入城の後、ギリシャ人たちがイエス様に会いたいと願います。「お目にかかりたい」の「見る」「イデー」という言葉は、ヨハネによる福音書では。「イエス様を信仰の対象として見る」というニュアンスがあるようです。過ぎ越しの祭りはユダヤ人のものでした。しかし、異邦人でも割礼を受けてユダヤ教に改宗する人がいたり、改宗しなくても、イスラエルの神様に対する信仰を持つ人々がいたようです。それが、今回のギリシャ人たちでしょう。イエス様の奇跡のみ業を見たり、権威ある言葉を聞いても信じない人々が多くいました。しかし、このギリシャ人たちは、信仰の目をもってイエス様を見ていたのです。ギリシャ人たちは、フィリポに願いました。なぜフィリポかというと、「ガリラヤのベトサイダ出身」とあります。幹線道路が交差するガリラヤ地方は、国際商業が盛んで、多くの人々は、アラム語やギリシャ語を用いていたようです。フィリポはギリシャ名で、ギリシャ語を話すことができたのかも知れません。ベトサイダには、ギリシャ人もいたようで、フィリポを見かけたことがあったのかも知れません。フィリポは同じベトサイダ出身のアンデレに相談しました。そして、アンデレとフィリポは、イエス様の所に行くのです。

 23節には、「イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。」」とあります。イエス様は、ヨハネによる福音書において、ご自分の時について語っておられます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」」(ヨハネ2:4)、「イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」(ヨハネ7:6) ここでは、「人の子が栄光を受ける時が来た。」とはっきりと言われたのです。イエス様は、群衆の熱烈な歓迎を受けたので、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われたのではありませんでした。イエス様に会いたいというギリシャ人をアンデレとフィリポが連れて来た時に、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われたのです。その時が来たことをイエス様は、ギリシャ人が訪ねて来たことによって知られたのです。それは、これから起こること、イエス様の十字架の死が、ユダヤ人だけではなく、異邦人の救いにも関係しているからです。24節では、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。一粒の麦が地に落ちて芽を出すという事実をその一粒の麦が死ぬと表現しておられます。一粒の麦が地に落ちて芽吹くと多くのものが実るようになります。イエス様がご自身の命を差し出して死んで、イエス様の命が失われるなら、そこから多くの人たちが、新しい命に生きるようになると言われたのです。私たち人間は、神様の息吹を、吹き入れられて造られ生きるようになりました。しかし、人間が神様を見失い、罪によって、神様と共に生きることを捨ててしまいました。その人間を神様は、再び回復させるために、新しい芽を出し、多くの実を結ばせるために、イエス様が一粒の麦となられて、地に落ちて命を捨てなければならなかったのです。私たちは自分自身を捨てることはできません。自分を捨てることのできない私たちのために、イエス様が十字架の上で裁かれ、尊い血を流し、命を捨てなければならなかったのです。私たち人間が、イエス様の死に与らなければなりませんでした。イエス様の死によって、私たちはイエス様の復活にも与るという約束をいただいたるです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は救い主として、栄光を受けるためには死ななければならないのです。イエス様が十字架にかかって死ぬことによってこそ、全ての人の救いという豊かな実が実るのです。死んで復活することによって、生きる者となるのです。イエス様の十字架の死は、イエス様の復活によって、私たちにも復活と永遠の命が与えられるという豊かな実を結ぶことができるのです。

 25節には、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とあります。この言葉は、イエス様の十字架の死と復活によって罪赦された者、救いに与った者の新しい生き方を示しているのでしょう。「自分の命を憎む」の「憎む」と訳された言葉は、「執着しない。第一としない。」という意味があります。自分に執着しない。自分を第一にしない。他者を愛し、他sを大切にする者、イエス様の十字架と復活を通して、神様の愛に生きる者は永遠の命をいただけるのです。

26節には、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とあります。イエス様の行く所に着いて行くのです。自分の行きたい所に行くのではないのです。自分のやりたいことをするのではありません。イエス様が命じられた所に行き、イエス様が行いさないと言われることを行うのです。自分だけを愛していたら、自己中心ならば、この働きはできないのでしょう。私たちは、イエス様の十字架と復活を信じるということは、一回限りのことではないのです。イエス様の十字架と復活を信じるということは、一生涯、その中に、十字架と復活、福音に生きるということなのです。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」(星野富弘作)「いのちよりも大切なもの」とは何でしょうか。命よりも大切なものがあるのでしょうか。イエス様は、ご自分の命を私たちのために、私たちを罪から救うためにささげて下さったのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。そして、死んで下さったのです。死の先にある復活、永遠の命の恵みを指し示して下さったのです。そこまで私たちを愛しておられるイエス様の愛を感じて、この週も歩ませていただきましょう。

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日曜礼拝(24年2月18日)

2024-02-19 16:34:30 | Weblog

受難節第1主日礼拝説教(青葉台教会)                                                                 2024年2月18日

満山 浩之

『失われたものを取り戻す』

ペトロの手紙一 3章18節〜22節

皆さん、おはようございます。今年も藤沢からやって参りました。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

今回この青葉台教会に来させて頂いて、

またまた、前回来させて頂いた時と違う所があるのですが、

皆さんどこか分かるでしょうか。

 実は私、1月31日にデビューしてしまったのです。

そう、何を隠そう、39歳にして、入れ歯デビューをしてしまったのです。

 まだ介護保険も始まっていないのに。

ショックを隠しきれずにいるので、皆さんからの励ましのお言葉待ってます。

 さて皆さんは、失われたものを取り戻したいけれど、

 取り戻せないものはあるでしょうか。

私の場合は、この歯です。

 失ってしまった永久歯は、もう帰ってきません。

小さい頃からサッカーをずっとやっていて、

人一倍歯を食いしばって来たからでしょうか。

 分からないですけど、一本だけもうすでに失ってしまいました。

失われた歯は、もう2度と取り戻せない。

 何かで代用しなければならない。

それが人間というものです。

 でも、私たち人間というのは、

 失われたものを取り戻すことができるものもあるのです。

それは、神様との関係を取り戻す、ということです。

 この聖書の最初の方に、創世記という書簡があります。

その中にこう記されてあるのです。

 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(1:27)

私たち人間というのは、神様にかたどって造られたということです。

 新しい訳の聖書、聖書協会共同訳では、

「神は人を自分のかたちに創造された。

神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」とあるのです。

 そしてその少し後の方にはこのようにも記されています。

その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)

 つまり、私たちは神様のかたちに造られて、

 神様に命の息を吹き入れられて生きる者とされているということなのです。

ですので、

今このように生きていることが当たり前のように思っているかもしれないけれど、

そんなことはなくて、神様によって生かされている、それが私たち人間なのです。

 まずはこのことを心に留めておくことです。

すべてが順調な時もあれば、なかなかうまくいかない時もある。

 それが人生というものですよね。

神様があなたに特別な、あなたにしかない人生を与えられています。

 自分の理解し難いような出来事もありますけど、

 何でなんですか、何でこんなことが私に起こるのですかって、

 思うこともいくらでもあります。

でも神様は、あなたを大切で特別な存在として、いつも愛して下さっています。

 目には見えないけれど、いつも傍らにいて下さって、

 私たちが倒れないように、つまずかないように、

 悲しみに打ちひしがれて下を向き続けないように、支え続けて下さっているのです。

神様はこの世のどんな人をも、愛し続けて下さっています。

 色々な方法で、神様の存在に気付いて欲しい、受け入れて欲しいって、

 側で見守り続けておられるのです。

そのことをも心に留めておいていただきたい、そのように思うのです。

 そんな私たち人間は、神様の存在を忘れ、いや、知らずに、神様なんているのかと疑い、

 神様以外のものを神とし、それに頼って生きています。

ある人は何よりもまず、お金が大切なのだ。

 お金があれば何でもできるし、困ることなんかない、そのように考えます。

ある人は、地位や名誉、世の中での立ち位置、

周りの人と比べて人よりも上に立ちたいと願う。

 そのために日々仕事をし、切磋琢磨して頑張っている。

決して悪いことではないですが、動機に問題がある。

 またある人は、恋人さえいれば、人生のパートナーさえいれば、

 他のものは何もいらない、そのように考えます。

ある人は、SNSのいいね!の数さえ多ければ、

投稿した再生回数が多ければ多いほど、私には価値があるのだ、

すごいだろ、まるで有名人と、自慢げに誇りを持っている。

 そのことは悪いことではないですが、動機がそれだけだと心配です。

これらのことだけを、自分の心の支えにしていたら、

人はいつか音を立てて崩れていきます。

 いい事ばかりではないのが、私たちの人生です。

絶対に失わないものなどありません。

 それらが失われてしまった時に、絶望のどん底に落とされたような、

 もうお先真っ暗と思わせるような状況に陥ってしまうでしょう。

神様から離れてしまう私たちは、人間本来の生き方が分からなくなってしまうのです。

 私はどう生きて行ったら良いのか、何を求めたら良いのか、

 人生の意味は何なのか、もうブレブレの状態になってしまうのです。

でも、そんな私たちにも希望があることを聖書は記しています。

 私たちにとって絶対に無くならないものがあるのです。

絶対に失わないものがあるのです。

 それがイエス様の愛です。

神様の独り子であられるイエス様が、神様から離れてしまっている私たちを、

神様との関係を失ってしまっている私たちを、

回復させるためにこの地上に来られたのです。

 この世のすべての人が神様との関係を取り戻すために、

 何も罪を犯していない正しいお方であるイエス様が、

 あなたのために十字架で一度だけ苦しまれました。

命を懸けて、あなたのために死んで下さった。

 この世の全人類の罪のために、誰一人として漏れることのないすべての人のために、

 十字架で死んで下さったイエス様です。

これは一度だけて良いのです。

 一度だけ罪を全部背負って、何も悪いことをしていないイエス様が、

 人々の罪が全て赦されるように死んで下さった。

しかも苦しみながら、あと一回鞭で打たれたら死んでしまうくらい鞭で打たれ、

血を流されて、手には釘が打たれ、全体重をその釘で支えるくらいの十字架刑です。

 最も苦しいと言われていた死刑のやり方です。

なぜそこまでされるのか。

 神様のかたちに造られた私たちが、神様との関係を取り戻す、

 失われていた神様との関係を回復させるためです。

18節にありますように、「あなたがたを神のもとへ導くため」だからです。

 当時の人たちは日々、祭司によって、犠牲をささげてから、

 罪の悔い改めをしていました。

ですから、毎日のように、神様に背を向けてしまったこと、

神様を無視してしまったことなどをすべて告白し、

祭司が犠牲のものをささげて赦されるものとされていました。

 罪を犯すたびに犠牲をささげなければならなかったのです。

でもイエス様の犠牲による死というのは、全き犠牲、完全なる犠牲なので、

一度きりで十分なのです。

 その十字架の死によって、すべてが赦されるのです。

ヘブライ人への手紙7章27節にこのように記されてあります。

 「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、

 次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。

というのは、このいけにえはただ一度御自身を献げることによって、

成し遂げられたからです。」(ヘブ7:27)

 またヘブライ人への手紙9章28節にはこのように記されてあります。

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(ヘブ9:28)

 だた一度だけイエス様が御自分の体を献げられたことによって、

 私たちはきよめられているのです。(ヘブ10:10)

あらゆる罪から解放されて、神様と共に歩む道が開かれているのです。

 この私たちが持っているこの聖書、特に新約聖書には、

 十字架の上で、2度と繰り返す必要がないことが起こったこと、

 罪が徹底的に打ち破られたことを、この確信を持って伝えています。

この罪というのは、神様と私たち人間との間にあるべき正しい関係を妨げるものです。

 イエス様の犠牲のすべての目的は、この失われた関係を回復することなのです。

そのためだけにイエス様は十字架の上で死なれた、その役目を果たされました。

 そのためにこの世に誕生されて、地上の生活を過ごされて、

 罪ないものが罪あるもののために死なれたのです。

罪あるものである私たち人間のために、神様と関係が失われている私たちのために、

そんなの関係ないって言うことも出来る存在だけれども、心から愛を注がれて、

私たちが受けなければならない罰を身代わりとなって受けて下さった、

このイエス様の愛というのは、無限であり、

この世の考えでは絶対にあり得ないことです。

 このイエス様は、私たちを神様のもとへと導くために、この苦しみを拒むことなく、

 自らが受け入れて死なれました。

この「導く」と言う言葉は、「近づける」と言う意味のある言葉です。

 この言葉の派生語を見ていくと、「紹介する」と言う意味になります。

つまり「導く」というのは、「紹介した結果、近づく権利が与えられている」

ということになるのです。

 ですから、イエス様はこの十字架の死を通して、それを信じる者、

 イエス様の十字架での死が、この自分のためなのだ、私に神様を紹介して、

 その結果、神様に近づくことができる、神様に近づく権利が与えられている、

 神様と一緒にこれから生きていくことができる、という道を開いて下さった、

 その道を示して下さった、ということなのです。

私たちが生まれながらに失っている神様との関係を、

もうすでに、約2000年も前に、イエス様によって解決されているのです。

 神様との関係が失われている私たち人間は、

 イエス様の十字架での死を受け入れ、信じることによって、

 それを取り戻すことができるのです。

この世の中で生きていく上で、何を拠り所として生きて良いか分からない時も、

何を目的として生きていけば良いか分からない時も、

心に空いてしまった穴を何で埋めたら良いのか分からない時も、

このイエス様を心に携えて行くことさえ出来れば、

神様との関係を取り戻すことができ、人間本来の生き方が出来るのです。

 迷わずに従っていけるお方に気付くことが出来るのです。

暗闇の中を歩んでいると思っていたとしても、

明かりが灯されて、導きの中を歩むことが出来るのです。

 特に先週水曜日から始まっている受難節には、

 イエス様の十字架の死という出来事を心に強く留め、

 これからの日々を過ごして参りましょう。

人生の意味を見失っている人たちに、

一人でも多くの人たちにこの神様の御言葉が届くことを私は切に願い、

そして、一人でも多くの人たちが、この神様と共に歩む人生を送ることが出来るように、

祈りつつ、また実際に言葉にして、行動に移していきたい、そのように思います。

 私たちは、そんな神様のことを忘れてしまう時があります。

今の自分があるのは当たり前だとか、

人よりも上手く行っているから、順調にいってるからって、

ちょっと天狗になって傲慢になってしまいやすい存在です。

 いくらでも神様との関係を失うことは出来ます。

神様なんかいらないと自分勝手に生きることもできます。

 でも神様は憐れみ深い愛のお方ですから、あなたを決して離しません。

あなたは神様を離すかもしれない。

 でも神様はあなたを離しません。

ガシッと手放すことがない、見捨てることがないお方です。

 この1週間も、この神様が私たちには居て下さる。

支え続けて下さる、守り続けて下さる、導き続けて下さることを覚え、

心に留めて、これからの日々を過ごして参りましょう。

 

 

 

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日曜礼拝(23年2月11日)

2024-02-11 12:51:10 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)          2024.2.11

         「見えるようになりたい」 ルカ18:35~43

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。先週は、雪のために交通がマヒして多くの方々が大変な思いをしたことでしょう。皆さんに祈っていただきました家内の母の葬儀も無事終わりました。神戸まで車の移動でしたが、雪からも守られて感謝でした。

 「一つだけどんな願いをかなえてあげようか」と神様に言われたら、皆さんはどんなことを願われるでしょうか。愛する人が亡くなって、その人を蘇らせて下さいという願いや病気の人は、その病気が完全に癒されるようにという願い、受験や就職試験が合格するようにという願い、会社の成績が伸びること、圧倒的な経済の祝福など、様々な願いがあるのでしょう。「一つだけどんな願いをかなえてあげようか」という問いは、誰にでも理解できる単純な内容でしょう。しかし、単純ではあるのですが、深いものがあるように思うのです。この問いはある意味では宗教的なものだとも言えるのかも知れません。この問いは、私たちの人生の中で、一番大切にしているものは何かというところに心を向かわせることになります。そして、その問いに対しての答えは、私たちが、神様を信じることの理由や反対に、神様を信じないという理由にもなるように思うのです。私たちは、神様が自分の願いや祈りに答えて下さらないと神様を信じないという理由になるのではないでしょうか。

 今日は、ルカによる福音書18章35節から43節を通して、「見えるようになりたい」という題でお話いたします。

Ⅱ本論部

 一、真実な信仰告白

 35節には、「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」とあります。エリコでは、この後あの有名なザアカイとイエス様との出会いがあり、イエス様は、その後十字架につけられるためにエルサレムに向かわれます。そのような状況の時です。おそらく、エリコに入る門のところで、この盲人は物乞いをしていたのでしょう。門は人の出入りの場所ですから、物乞いをするのには最適な場所でした。盲人であるがゆえに仕事もできずに、道端で物乞いをして生きていくしかない人生だったのでしょう。

 36節には、「群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。」とあります。イエス様のいる所には群衆が集まります。また、当時の学びのスタイルは歩きながら、先生から話を聞くというものがありましたから、イエス様の周りにイエス様のお話を聞く人がいっぱいでざわざわしていたのでしょう。目の見えない人は、目が見えない代わりに耳がよく聞こえたでしょう。いつもと違う気配や人々のざわめきや足音に、違う何かを感じたので、「これは、いったい何事ですか」と尋ねました。

 37節、38節を見ると、「「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。」とあります。「これは、いったい何事ですか」と盲人に尋ねられて、「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせました。「ナザレのイエス」とは、イエス様がナザレでお育ちになったので、イエス様の出身地を言ったというのではなく、見下した表現だったようです。イエス様が十字架につけられた時、十字架につけた罪状書きには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とありました。この時の、「ナザレのイエス」とは、田舎者、取るに足らない者、愚かな者というような意味があったようです。ステファノを訴えた悪意ある証人たついは、「あのナザレのイエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。」(使徒言行録6:14)と汚れた者にでも触れるような言い方をしました。ですから、「ナザレのイエス」という表現は、あまりよくない呼び方のように思います。

 「ナザレのイエスのお通りだ」と盲人は聞いて、「ナザレのイエス」と叫んだのではなくて、「ダビデの子イエスよ」と表現しました。イエス様が、人々を癒しておられるという、うわさを聞いていたのでしょう。旧約聖書には、ダビデの子、つまり子孫に、イスラエルを治め、その繁栄を回復させて下さるまことの王が生まれるという預言があります。「ダビデの子」という表現は、みんなが期待し、待ち望んでいた救い主という意味があるのです。ですから、イエス様に対して「ダビデの子」と呼びかけるということは、「イエス様、あなたこそ救い主です」という信仰を表していることになるのです。この盲人は、イエス様が旧約聖書に預言されているダビデ王の子孫として生まれたメシア(救い主)だと確信していたのす。この盲人は心からの精一杯の信仰告白としての「ダビデの子イエスよ」と表現したのです。この盲人は、ナザレのイエス様こそが、救い主であることを信じたのです。

この盲人はそう呼んで、「わたしを憐れんでください」と叫んだのです。「憐れんでください」という言葉は、日ごろは私たちの間ではあまり使わない言葉でしょう。自分で自分を救えない状態であると自分が認めない限り言えない言葉だと思うのです。私たちは今、イエス様に憐れみを求めなければならない状態にあるでしょうか。

 二、切実な叫び

 盲人が突然、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びだしたものですから、39節を見ると、「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」とあります。「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」とありますが、「先に行く人々」とは誰の事なのでしょうか。口語訳聖書や新改訳第三版では、「先頭に立つ人々」とあります。リビングバイブルには、「イエスの前を進んで来た人たち」とあります。それは、おそらくイエス様の弟子たちではなかったかと思うのです。先頭に立ってイエス様の道案内的な働きを弟子たちはしていたのでしょう。弟子たちが、目が見えないという苦しみと痛みの中で、イエス様に対して憐れみをひたすらに求めている盲人の切実な叫びに対して、イエス様が痛みと苦しみの中にある人々になさった憐れみを何度も見ていながら、黙らせようとしたというのです。

 今日の記事の前の31節から34節では、イエス様は弟子たちをわざわざ呼び寄せて、ご自分の十字架の苦しみと死、復活することを話されましたが、弟子たちには、イエス様の言っておられる内容が何もわからなかったのです。リビングバイブルには、「弟子たちには、イエスの言われることが全く理解できず、「先生はきっと、なぞをかけておられるのだろう」としか考えられませんでした。」とあります。弟子たちには、イエス様のみ業が、神様の救いのみ業がわからなかったのです。そのような弟子たちであるからこそ、救いを求める人を黙らせようとしたのでしょうか。神様の恵みをいただけないようにしたのです。しかし、これは弟子たちだけの問題ではなくて、私たちにも無視できないことであり、神様に対して、救いを求める人の声をとどめてしまうということがないように気をつけたいと思うのです。

 この盲人の38節の「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びと39節の「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫びの言葉は、同じ内容ですが、意味としては違うものがあるように思うのです。37節の「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びは、イエス様や群衆の注意をひくための普通の大声であり、39節の「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫びは、弟子たちが叱り、黙らせようとしたので、ますます大きな声で叫んだ。感情丸出しの、もう本能的な叫び。動物が天的に襲われて対抗するような生死をかけた叫びを表しているように思います。救い主イエス様がどこにおられるのかわからない盲人の二度目の叫びは、何としてでも自分の存在を知ってほしい。イエス様の憐れみをいただきたいという賢明な叫びであったのです。私たちも、苦しみや悲しみ、痛みや絶望を経験する時、ただの祈りではない。叫びに近い祈り。祈りにならないうめきや叫びになるのではないでしょうか。そのような切実な、心からの叫びをイエス様は絶対に無視されることはないのです。

 三、本筋を見つめる

 40節には、「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。」とあります。イエス様は、盲人の叫び声、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という悲痛な叫び、魂の叫びに足を止められました。そして、「盲人をそばに連れて来るように命じられた。」とあるのですが、あれっと思われませんか。盲人ですよ。イエス様が盲人のところに行ってあげたらいいんじゃあーりませんか。なんかイエス様の優しさを感じられない行動です。しかしそれは、イエス様に優しさがないというのではなくて、イエス様は盲人を招いておられるということなのです。盲人がイエス様のところに、苦労して頑張って努力してくるのではなく、「盲人をそばに連れて来るように」なのです。盲人の道案内をしてくれる人がいるということです。イエス様のところに一人で来ることのできない人を連れてくる。そういうことでしょう。そこにつながりがあります。イエス様とつながるために、それを助ける、援助する人がいる。クリスチャンである私たちは、そのような存在でありたいと思うのです。イエス様は、ただ座って、あるいは、じっと立っていて、待っていてそこにイエス様が来て下さるというのではなく、イエス様の招きに答えて、イエス様のもとに来たいのです。私たちはイエス様に招かれているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエス様は、いつも私たちを招いておられるのです。私たちは、イエス様の招きに答えて、この礼拝に来ています。イエス様の御許に来るということはとても大切なことなのです。

 41節を見ると、「「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。」とあります。「何をしてほしいのか。」という問いは、核心を突くものでした。私たちの望みには、病気の回復や癒し、人間関係の改善、あらゆる能力が与えられることがあるでしょう。「何をしてほしいのか。」ということを詳しく見ると、「わたしがあなたのためにすべきことが何かありますか。あなたは望み続み続けていますか。」ということです。イエス様には、この人がどうして見えないのか。どのような苦労をしてきたのか。なぜ、物乞いをしなければならないのかが見えていたでしょう。イエス様は、ご自分に「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び願う盲人に、何をすることが最善なのかを見ておられる。そして、盲人に「何をしてほしいのか。」と問われたのです。この盲人が、最も求めているものは何か。いつも望み続けていた本心は何かを問われたのです。彼は言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。他の人と同じように、普通に見えるだけでいいのです。目が見えるようになることが本筋です。盲人ですから、「何をしてほしいのか。」と問われたら、見えるようになることが当たり前でしょう。本筋です。しかし、私たちは、この本筋を忘れてしまうのです。見失ってしまうのです。盲人だけれども、もしかしたら、生活に困らないようなお金が欲しい。いつもそばにいて助けてくれる人が欲しい。目の前の必要のためにそのような答えをする人がいるのかも知れません。しかし、それは盲人にとっては、現実的で、切実であっても根本的なことではありません。本筋ではないのです。私たちは今の自分が抱えている問題の何が根本的な事か、本筋なのかをしっかりと見つめたいのです。私たちにとっての本筋は、私たちの罪の身代わりに、ダビデの子であるイエス様が十字架にかかって死んで下さり、父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげられた。死んで下さったこと。死んで葬られましたが、三日目によみがえらされたことなのです。このイエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、義とされ、聖められ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたことなのです。盲人は、本筋、「目が見えるようになりたいのです」と答えました。私たちも自分にとっての本筋、イエス様を通して与えられる救いを大切にしたいのです。

Ⅲ結論部

42節には、「そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」」とあります。癒す力は、イエス様にあるというのが大前提ですが、あえてイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われることによって、盲人の信仰を自覚させてのです。盲人は、イエス様がダビデの子であり救い主と信じて、イエス様に憐れみを乞い、イエス様なら癒して下さると信じて叫び続けた、イエス様に対する信頼の大きさを示されたのだと思うのです。43節には、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」とあります。このお話は、盲人が見えるようなったということが結論ではありません。盲人は、目が見えるようになることが全ての原因の解決だと思っていたでしょう。しかし、イエス様によって目が見えるようになって、イエス様を見て、イエス様に出会って、最も大切なことは、見えることもそうですが、それ以上に自分の人生をお任せできるお方、従ってゆくことのできるお方、イエス様に出会い、イエス様の弟子になることだとわかったのです。ですから、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。」のです。私たちにとっては、今の自分の問題が、苦しみが、痛みが、苦しみが解決されることが全てではないのです。苦しみや悲しみ、痛みや絶望を通して、イエス様に出会うこと、そしてイエス様についていくこと、イエス様と共に歩んでいくことなのです。

私たちは、神様を信じていても、クリスチャンになっても、苦しみや悲しみ、痛みや問題があります。だからこそ、この盲人のように、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と祈りたいのです.叫びたいのです。うめきたいのです。私たちの祈りは、叫びは、うめきは、イエス様に届いているのです。たとえ、祈り方がわかならくても、私たちの正直な、真実な声、思い、祈りはイエス様には必ず届いているのです。私たちは、この週もイエス様に向って真実な祈りをささげていきたいのです。大丈夫、イエス様がいつもあなたと共におられ、あなたの祈りを聞き、最善のみ業をなして下さるのです。

 

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日曜礼拝(24年2月4日)

2024-02-04 12:29:52 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)          2024.2.4

         「自慢話が多すぎる」 ルカ18:9~14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。1月は行ってしまいました。2月も逃げていくのでしょう。一年で最も寒い季節を迎えましたが、先週は春の陽気の日もあり、グンと温度が下がるという日もあり、寒暖差の激しい日々を迎えております。また、インフルエンザやコロナ感染も増加しているようです。この月も健康が守られ、支えられて、信仰生活を歩ませていただきたいと思います。

 自慢話をする人の心理。自慢話ばかりする人の胸の内とはとホームページにありました。自慢話が多い人の心理1. 周囲に凄いと思われたい いつも誰かに褒められていたい人は、ことあるごとに自慢話をしがち。自慢話が多い人の心理2. 自慢をしている自覚がない 自分に自信がありすぎるタイプの人は、その自尊心の強さから、周囲の人が自慢話と捉える話し方をしてしまいがちです。自慢話が多い人の心理3. 現状に満足していない、ことあるごとにしてくる自慢話が全て過去のことばかりとありました。私たちは、自分の、あるいは、家族や関係者の自慢話をすることがあるでしょうか。

今日は、ルカによる福音書18章9節から14節を通して、「自慢話が多すぎる」という題でお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様を見ず、自分と人を見る祈り

 9節には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。詳訳聖書には、「自分を正しい(すなわち、神のみ前での正しい身分が与えられている)と信じ、(確信し)、他のすべての人をさげすんでいる(無視している)人たちに」とあります。イエス様は、誰に話しているかをはっきりと示しておられます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」とありますが、誰にでもあるのかも知れませんね。そういう意味では、誰もがしっかりと聞く必要のあるお話です。10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」とあります。二人の人がエルサレム神殿の宮の境内に行き祈りをささげたのです。なぜ、神殿かというとユダヤ人は一日に三回(午前9時、12時、午後3時)の祈りをささげました。そして、特に神様がおられると信じられていた神殿での祈りには効果がると考えられていたようです。どこでも祈りはできます。けれども、教会での祈りは、やはり神様を近く感じ、特に緊急の祈りやどうしても祈りたい内容は、教会に足を運んで祈りたいと思うようになりますので、教会はいつも開いていますので、ぜひ、教会堂に来て祈りをささげていただきたいと思います。

 11節、12節を見ると、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」とあります。ファリサイ派の人は、「立って、心の中でこのように祈った。」とあります。詳訳聖書には、「得意そうに立ち、自分自身の前で(独り言で)」とあります。「心の中でこのように祈った。」とは、「心の中」とは、「自分に向かって」という意味があり、自分自身に祈った。独り言を言ったのです。心の中での祈り、つまり、人に聞かせることのできない自分を誇る本心の祈りなのです。当時、ファリサイ派の人々は、祈りの定位置があったようです。神殿の正面の聖所に一番近い所でした。立って祈るのは、神様の民としての姿勢で自信に満ち溢れていたのでしょう。その立ち方は、ちゃんとした姿勢をとり続け、胸を張って堂々として祈りをささげていたのです。このような姿勢は、律法を忠実に守っているという自信に満ちていたのです。「神様」と呼びかけ、神様への祈りです。しかしその内容は、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」というものです。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」とは、十戒が禁じている内容です。だから、モーセを通して与えられた十戒を守っています、ということでしょう。神様と祈りながら、その内容は自分の正当性、頑張りであり、人への批判です。「感謝します。」と言っており、感謝を表しています。祈りの要素の中で、感謝するということはとても大切な部分です。ファリサイ派の人は良くわかっています。しかし、その感謝は、神様への感謝ではなく、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とあるように、罪人、悪い者でないことを感謝するという、感謝という言葉を表現しながらも、それは感謝ではないのです。ファリサイ派の人は、神様と呼びかけながらも、心は、思いは神様に向いていない。神様を見ていない。人しか見ていないのです。ですから、祈りの姿勢をとりながらも、神様の前には立っていないのです。神様の前に立っていないと、神様を見ていないので、自分中心になり、人と自分を比較し、自分の基準で人を裁くようになるのです。私たちにはないでしょうか。

 

 二、からくりがある見せかけの行いと真実な祈り

 また、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と自分が行っていることを語っています。律法が求めている断食は、年に一度の贖罪の日の断食だけでした。しかし、このファリサイ派の人は、週に二度、一年に106回の断食をしていました。それは、律法が求めるよりもはるかに多い回数でした。週二回の断食とは、月曜日と木曜日でした。なぜ、月曜日と木曜日かというと、月曜日はモーセがシナイ山に上った日と言われており、木曜日は二度目の律法を授けられてシナイ山を下った日と言われていたようです。そのように十戒、律法に関係する意味深い日の月曜日と木曜日に断食するとは、それはいかにも敬虔な人だと思わせるように、「わたしは週に二度断食し」ということです。しかし、違う角度から見て見れば、月曜日と木曜日は市場の開かれる日であったのです。月曜日と木曜日は、地方からエルサレムには多くの人々が押し寄せてきていたのです。そのような大勢の人々の前で、顔を白く塗って、いかにも断食しておりますと取り乱した様子のパフォーマンスをして、人々に見せつけ、いかに自分が敬虔なものであるのかをアピールしていたのです。彼の断食は人に見せるためであったのです。だから、週二回あえて市場のある日の月曜日と木曜日に断食をしたのです。その日にする必要があったのです。そういうからくりがあったのです。

 また、「全収入の十分の一を献げています。」と言っています。律法が求めていたのは、農作物の十分の一をささげることでした。このファリサイ派の人は、律法に定められた農作物の十分の一をささげるだけではなく、全収入の十分の一を自発的にささげていたのです。彼がいかに宗教に熱心だったかということがわかる行いでした。しかし、それも彼の信仰から出たことではなくて、人に見せるためのものであり、人から賞賛を得るためのものであり、何と敬虔な人かと思ってほしいという考えからのささげものでした。献金は信仰の現れと言われることがありますが、そういう意味では信仰的なのでしょうか。

 確かに、ファリサイ派の人の行いは、律法以上のことを実践し、誰にも真似できないすごいことには間違いないのですが、本来そのことも自分の功績ではなくて、神様の恵みであるということです。そのことをファリサイ派の人は忘れていました。

 一方徴税人はというと、13節です。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」とあります。徴税人の祈りの姿勢は、ファリサイ派の人の堂々とした祈りの姿勢に対して、

「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」とあります。徴税人は、正しい神様の前で、自分が裁かれる存在であることをよく知っていました。神様の前に、

「自分はもうダメだ。」と嘆いているのです。「目を天に上げようともせず」とは、神様に顔向けできないのです。罪を犯したアダムとエバの「主なる神の顔を避けて」(創世記3:8)ということと同じでしょう。「胸を打ちながら」とは、罪を認めて、悔い改めることを表しています。「罪人のわたし」と告白しています。神様の前では、神様の前に立てる資格はない。立てる存在ではないことがわかるのです。神様に近づけば近づくほどわかるのでしょう。彼は、「遠くに立って」聖所から遠く離れて、神様に目を向けることはできないで、「憐れんでください。」と祈りました。この「憐れんでください。」とは、口語訳聖書では、「おゆるし下さい。」とあります。詳訳聖書には、「神さま、私に(こんなに悪質な罪びとである私にも)、どうか恵みを与えて、(情けをかけ、憐れんでください。)」とあります。徴税人は、人と比べることをせず、ただ神様に向かって祈りをささげたのです。私たちの祈りはどうでしょうか。

 

 三、罪人の私を知る

 10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。」とあります。「祈るために」と。そして、イエス様は二人の人の話をします。11節で、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。」と「祈った。」あり、13節では、「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」と、祈ったではなく、「言った。」とイエス様は話されました。どちらかと言うと、ファリサイ派の人の方が、「祈った。」というよりも「言った。」の方がふさわしいし、徴税人は、「言った。」よりも「祈った。」の方がふさわしいような気がするのですが。イエス様は言い間違えたのでしょうか。ファリサイ派の人は、形式的には祈りをささげたということでしょう。徴税人は、「『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と「言った。」とイエス様は表現された。徴税人は、祈りの姿勢も取らずに、いかにも祈っていますというしぐさや祈りの形式はなかった。それは、徴税人の心の底から出たうめき、叫びであったのです。だからイエス様は、祈ったとは言われず、言ったと表現されたのです。自分の罪深さと汚れに悔いながら、うめいた。叫んだのです。それは、真実な祈りと表現できるのでしょう。祈りとは、形式的に整っている。立派な綺麗な言葉を並べ立てることではないでしょう。イエス様は、そのことに気づいてほしいのだと言っているように思うのです。

14節には、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」とあります。ファリサイ派の人は、神様を見ずに、自分を見、他の人を見て比べて優越感に浸りました。全く祈りの形をなしていません。しかし、それは、心の中での祈りですから、人には気づかれないのです。声を出しても出さなくても、イエス様は心を見られるお方です。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)と聖書は語ります。ファリサイ派の人がいかに律法を守り、ささげようともイエス様は知っているのです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(マタイ23:23)と語られました。

 義に一番近いと言われていたファリサイ派の人ではなく、罪人の代表者でもあるかのように言われていた徴税人が義とされて帰ったのです。罪が赦されて救われたのです。

 神様に心が向かない祈りは、心の中でつぶやきとなってしまうように思うのです。私たちは、徴税人のように、神様に向かって祈りたいのです。神様の前に立つ時、私たちは自分の罪深さに気づかされるのです。裁かれて当然の、滅びて当然の人間であることを知るだけなのです。ですから、私たちも「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」「赦してください。救って下さい。」と祈りたいのです。私たちの罪に身代わりに、イエス様が十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪は赦され、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が、天国の望みが与えられるのです。それは、イエス様を見なければわからないのです。

 

 Ⅲ結論部

 今日の説教題は、「自慢話が多すぎる」という題です。ファリサイ派の人の祈りを見ていると、なんだか自慢話に聞こえ、自慢ばっかりと感じて、この題が頭に浮かびました。もう一つ頭に浮かんだのは、武田鉄矢さんのグループ海援隊が歌っていた「あんたが大将」という歌の歌詞でした。「黙っていればいいものを 酒の席とはいいながら はじまりましたね あんたの話 色々苦労もあったでしょうが 自慢話が長すぎる 泣かせた女の数ばかり 意張ってみても男の値うちあがるもんじゃないんです この世は全てチャンスなんだ うまく生きたが得なんだ 得意話がまだ続く 色々こつもあるでしょうが 手柄話が多すぎる 風に吹かれて生きてたくせに いつの間にやら悟りきり 世界はあんたの為にある僕なんか生まれがいいもので おんば日傘で大きくなって 一度苦労がしてみたいなと あんたのいやみのねちっこさ 白いまんまに手をあわせ とうちゃんかあちゃん頂きますと 涙こらえて食べたことない そんなあんたに何がわかる それを云わしてもらっちゃ なんばってん 人の心のかなしさなんか パーハップス・メ云わせてもらえばこの人の世は チャンスばかりじゃないんだよ 心に燃える小さな夢を つまずきながら燃やすこと 世渡り上手にゃえんないが 祈りつづける悲しさよ しばし手にしたあんたの出世 今夜だまってほめてあげる あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将」で最後は、「ごいっしょに あんたが大将 あんたが女王 あんたが株主 あんたが班長 あんたが将軍 あんたが社長 あんたが天才 あんたが番長 あんたが大将」という歌詞です。

私たちは、ファリサイ派の人のような祈りをすることがあるのかも知れない。また、私たちは徴税人のような、祈りにならないうめきや叫びの祈りをすることがあるかも知れません。今苦しみの中にある方々はそうでしょう。それがどちらであれ、良い悪いではなく、どちらの祈りもしている私を、あなたをイエス様は見つめておられるということです。ですから、私たちは、どうであれ自分が罪深い者であることに気づきたいのです。気づかせていただきたいのです。そのためには、自分を見るのではなく、他の人を見るのでもなく、ただイエス様に目を留めるのです。十字架にかかり、私たちを愛し続けておられるイエス様を見るのです。イエス様に祈りをささげたいのです。傲慢な私も謙遜な私も、イエス様はご存じです。このイエス様が、いつも見つめておられます。この週も、イエス様と共に歩ませていただき、イエス様の名による祈りを神様にささげて歩ませていただきたいのです。

 

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