江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2016年11月27日)

2016-11-27 12:55:53 | Weblog

アドベント第一礼拝(待降節第1主日)  2016.11.27

         「神様の無茶ぶり」 ルカ1:26~38

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。待降節、アドベント第一日曜日となりました。イエス様の誕生を待ち望む期間となりました。全世界のキリスト教会が、今日、アドベント第一の礼拝を行っています。今日は、ロウソクに一本火がともりました。普段は、4本目でクリスマスを迎えますが、今年の2016年は、5本目がともるとクリスマス礼拝を迎えます。

 アドベントとは、ラテン語で「やって来る」というような意味があるようです。救い主の誕生、救い主がやってくる。私たちは、神様が人間の世界にやって来られたクリスマスを待ち望むのです。闇に光として来られたイエス様は、たとえ今、私たちの状況がどのような暗闇であろうとも、イエス様は光としておいでになり、私たちの状況を一変し、祝福と恵みとして下さるのです。私たちは、このイエス様を待ち望む時として、アドベントの季節を過ごしたいと思うのです。

 アドベント第一礼拝に選んだみ言葉は、ルカによる福音書1章26節から38節です。今日は、「神様の無茶ぶり」という題でお話いたします。

 「無茶ぶり」という言葉は、現代お笑いの世界でよく使われている言葉です。ウィキペディアでは、「お笑いで用いられるフリの一つ。一般的なお笑いの形式としては、相手のキャラ(コミュニケーション上の役割)を考慮したうえで、それに沿ったフリ(笑いにつながるようなきっかけ)を与えるようになるが、ここであえてキャラ設定を無視した対応困難なフリを与え、相手がそれに動揺し、素を露呈してしまっているころを笑いに転化するのが無茶ぶりである。」とあります。

 本来の無茶ぶりの意味は、「困難な仕事を無理やり頼むこと。返答に困る話題を投げかけること。他人に唐突に話の収拾をつけさせるため話題を振ること。」とあります。

 今日の記事は、まさに神様がマリアに無茶ぶりの内容のように思うのです。

 

 Ⅱ本論部

 一、恵みの先駆け

 マリアは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言われれて、戸惑いました。現代訳聖書には、「あまりの賛辞に、マリアは戸惑いを感じて」とあります。あまりにも持ち上げすぎて、かえって怪しむということはあるのだと思います。

 「おめでとう」と言われても、「恵まれた方」と言われても、「主があなたと共におられる。」と言われても、なにゆえにそうなのかが、わからないマリアは戸惑いました。30節では、もう一度、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と、大切な内容が語られないまま示されたのです。

 そして、ようやくその内容が明かされるのです。31節から33節まで共に読みましょう。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き神の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 婚約はしていても、まだヨセフと共に住んでいないマリアが身ごもる。妊娠する。男の子を産むので、イエスという名前を付けるようにと言われたのです。何かいやな予感がしたけれども的中。今の自分には信じられないような内容が告げられたのです。これからの、マリアの行く手には、いばらの道、困難が待ち受けているということを予想させる内容でした。まさに、マリアの生涯は、人口調査で行ったベツレヘムで出産し、エジプトへ逃げ、夫ヨセフを早くに亡くして苦労したナザレでの生活、愛する息子の十字架での死とマリアの生涯は苦難の連続でした。

 けれども、苦難があるということは必ずしも不幸を意味するものではありません。ある意味では、マリアの望んだような人生の展開ではなかった。しかし、そのことが必ずしも不幸を意味しているのではないのです。そのような苦難の人生をマリアは送ります。そして、天使に受胎告知をされた時、自分の人生に苦難の道を感じたのです。けれども、そのような苦難の生涯であろうとも、恵まれた人として人生を歩むことができるし、マリアは恵まれた人生を歩むことになるのです。すでに、神様はマリアに出会った最初の言葉で記しています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と。主が共におられる人生は、幸いな人生、恵まれた人生を送ることができると約束されているのです。

 私たちの今の人生に、どのような苦難や困難があろう「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」とも、主が共におられるゆえに、おめでとうと言われるような幸いな人生を送ることができるのです。

 

 二、神様の言葉に信頼する

 マリアは彼女自身に、「主があなたと共におられる。」と語られた言葉の通りに、生涯神様に用いられたのです。マリアの生涯は、キリストの母親として用いられたのでした。

 私たちの幸福、幸せというものは、神様が私たちと共に歩んで下さるということであり、私たちが、神様と共に歩むということで、神様に用いていただくというところにあります。

私たちは、自分の生涯を誰のために生きるのか。お父さんは、お母さんや子どもたちのために生きるでしょう。教師は生徒のために生きるでしょう。社長は社員のために生きるでしょう。そして、牧師は信徒の愛する兄弟姉妹の方々のために生きる、用いていただくのです。

 また、私たちは誰の救いのために用いられるのでしょうか。家族の救いのために、夫の救いや妻の救い、親の救いや子どもの救い、孫の救いために用いられるのです。神様が誰かを愛するために、私の生涯を、あなたの生涯を用いていただくのです。そこにこそ、私たちの幸せというものがあるのではないでしょうか。このクリスマスに、私たちは神様に用いられることを願い、用いられることが幸せなことであることを知りたいと思うのです。

 マリアは、神様のために用いられたのです。だから、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」なのです。

 ルカによる福音書1章には、バプテスマのヨハネの誕生が記されています。ザカリアに、マリアと同じように天使が語ります。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」

(ルカ1:13) ザカリアは答えます。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 この言葉は、「信じられるようにしるしを見せて下さい」という要求です。つまり、神様の言葉を信じていないのです。ですから、ザカリアは、ヨハネが生まれるまで口が利(き)けなくなったのです。聖書は、

「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:20)

 34節を共に読みましょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という言葉は、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょう。」というザカリアの言葉と同じように聞こえるかもしれません。しかし、マリアの言葉は不信仰な言葉ではないのです。原語を見ると、マリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という言葉は、「どのようにして、それは可能なのでしょうか。」「それは、どのようにして実現するのでしょうか。」という、神様の言葉が実現することを信じた上で、その道筋を知りたかった、言葉なのです。私たちも神様の言葉に信頼して歩みたいと思うのです。

 

 三、神様の言葉がこの身になると信じる

 「それは、どのようにして実現するのでしょうか。」というマリアの問いが35節なのです。 「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」」 これから、マリアに起こることは、神様の業であることを告げ、信じられないような事ではあるけれども、不妊の女と言われていた親類のエリザベトは妊娠し、六か月を迎えているという事実を告げられるのです。

 そして、「神にはできないことは何一つない。」と最後のとどめの言葉が告げられたのです。「神にはできないことは何一つない。」という原語を見ると、「神においては、全ての言葉は不可能ではない。」という意味になるそうです。神様の言葉はすべて実現するということです。マリアはこのことばを信仰を持って受け止めるのです。

マリアは応答します。38節を共に読みましょう。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。」

 神様の言葉を信じながら、祈りながら生きることが、主のはしためとして、主の奴隷のとして生きることなのです。これが、マリアの信仰、そして、私たちの信仰なのです。

 聖霊によって身ごもるということは、ヨセフにも、その他の人にも到底理解できない事柄です。姦淫の罪に問われる可能性は大きいのです。 そのような状況だけれども、マリアは、信じられないような神様の言葉を信じて、その言葉を受け入れて、その言葉が実現することを願ったのです。マリアは、自分の頭で信じられる、信じられないというのではなく、常識的である、そうではないというのでもなく、可能性があるとかないとかというのでもなく、神様が彼女に語られた言葉を神様の言葉として信じたのです。

 神様のご計画は、人間の考えや思いをはるかに超えているのです。イザヤ書55章8節、9節には、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」そして、11節には、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。

 マリアにとっては理解しがたいような神様の言葉でしたが、マリアはそれを信じたのです。神様のお心は、このマリアを通して救い主を人間の世界に送り、私たちの罪の身代わりにイエス様が十字架で死ぬことでした。イエス様が十字架で私たちの代わりに罰を受け、命をささげることによって、私たちの全ての罪が赦され、イエス様が死からよみがえることにより、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。

 

 Ⅲ結論部

 キルケゴールという人は、「死に至る病」という本の中で、「死に至る病は、絶望のことだ。」と言っています。望みを失うということ、それが死に至る病だと彼は言っています。

 私たちの抱えるいろいろな問題や困難、苦しみや悲しみ、病気、それが死に至る病ではなくて、そのような困難や苦しみや苦痛、絶望の中で、神を信じることなく、希望を持たないことが死に至る病なのです。

 マリアは、「お言葉どおり、この身になりますように。」と言いました。ニューキングジェームス訳には、「Let it be to me according to your Word.」とあります。あの有名なビートルズの「Let it be」という曲に、このマリアの言葉が影響しているようです。

 歌詞の中に、「私が苦しみの中にいた時、聖母マリアが来て、知恵の言葉を授けてくれる。」これは、マリアの信仰告白の「Let it be to me according to your Word.」「お言葉どおり、この身になりますように。」が下敷きになっているようです。ビートルズの「Let it be」の題の意味は、「そのままに、なすがままに」ということでしょうが、本当は、「みこころのままに」がふさわしいように思うのです。

 神様のマリアに対する第一声は、「おめでとう」でした。これは、「喜びなさい」という意味があります。神様の言葉が自分自身に実現することは喜ばしいことです。神様はマリアを選び、びっくりするような言葉をかけられました。神様の無茶ぶりです。私たちも、現実の生活の中で、びっくりするような出来事や困難なこと、悲しみや苦しみを経験します。けれども、そのことが問題なのではなく、そのような状況の中でも、神様を信じられないこと、希望を持たないこと、それが問題なのです。神様は共におられる、とマリアに語られたように、私たちにも語られるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と。神様が共におられることは、おめでとう、喜ばしいことなのです。

 私たちは、この週も、どのような所を通らされても、神様の無茶ぶりで、困難や悲しみを経験しようとも、主が共におられ、私たちを神様の栄光のために用いて下さるのです。

喜びなさい、と告げられる主は、私たちを恵み、祝福して下さるのです。この週、私たちは、困難の中にも、イエス様にあって、希望を持ち続けたいと思うのです。

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日曜礼拝(2016年11月20日)

2016-11-20 12:39:55 | Weblog

収穫感謝礼拝                     2016.11.20(日)

コロサイ3章111節「日々新たにされて」 

 

序論

本日は、収穫感謝礼拝です。

 

本論Ⅰ 背景

今日の聖書箇所コロサイの信徒への手紙は、パウロが書いた手紙だと言われています。パウロの時代の何百年も前、手紙の宛先であるコロサイの町は、現代のトルコ西部、古代ローマ帝国では小アジアのフリギア地方の南部に位置しており、リュコス川渓谷にあり、主要な町の1つでした。コロサイの町に福音を宣教したのは、パウロ自身ではありません。弟子のひとりであるエパフラスによってコロサイの町に福音がもたらされたのです。コロサイ書は、パウロがローマで囚人となっている時に書いた手紙ですので、獄中書簡とも言われています。コロサイの教会は、異邦人(ユダヤ人以外の人々)の教会でした。

コロサイの教会宛のこの手紙が書かれた背景には、ある問題があったのです。偽りの教師たちが、外部でキリスト教会と競合するかのごとく展開されている諸説教に、コロサイの信徒たちが魅惑され、惹きつけられていくという状況だったのです。コロサイの教会に入り込み、天使礼拝をすることや、ユダヤ人の儀式を厳しく守ることなど、人々に正しくないことを教え広めていたのです。

パウロの弟子のひとりであるエパフラスは、コロサイの教会で起こっていることをパウロに伝えるためにローマに行き、パウロは状況を伺い、この手紙をエパフラスに託してコロサイに持ち帰らせました。コロサイ書というこの手紙で、パウロは、イエスは神である。すべてのものをご支配される方であるという事実を強く力説し、教えてくださっているのです。

コロサイ1:911では「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように」とコロサイの信徒の皆さんが、神のみこころを十分に悟る知識に満たされますように、というとりなしの祈りの内容なのです。

 

本論Ⅱ 祝福の思い

パウロの手紙を読んでいますと、1章から手紙を読み始めると、あることに気がつくのです。パウロの手紙は、ローマ人への手紙以降からいくつか(13個)ありますが、共通していることは、手紙の冒頭文は、いつも「〜へ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

皆さんは、誰かに対して手紙や挨拶文の冒頭で「神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」と伝えたことはありますでしょうか。あるいは、されたことはありますか。私はあるクリスチャンの友人と久しぶりに再会した時、向こうの方から「God bless you!」と笑顔で言われたことが1度だけあるのです。それまであまり意識していなかったのですが、とても全身慰めを感じ、グッとくるものを感じました。パウロの手紙の冒頭に記された「わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」は、大きな慰めを感じたのではないかと思うのです。

 

本論Ⅲ 新しくされる

31節〜2あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座についておられます。」教会では、「イエス・キリストは復活された」とよく聞くと思います。神であるイエス・キリストが死から復活されたこと、それは事実です。しかし、パウロは、復活はイエス・キリストだけではないと言っているのです。「1節には、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから。」パウロは、キリストだけではなく、信じているあなたがたクリスチャンは、罪が赦されたというのは、キリストと共に復活した(新しく作り変えられているのだ)と宣言しているのです。

 

手紙の著者パウロというのは、どんな人物でしょうか。

ある人たちに聞きましたら、「伝道する人」「聖書まんがでは、頭はハゲており、ヒゲの多い人」「テント職人」「頭がいい」など、いろいろな回答がありました。

どれも当たりだと思いますが、やはり使徒言行録9章サウロの回心というのは外せれないと思います。

パウロという人物は、イエス様の弟子たちを男女関係なく捕まえ、91節では「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」ありますように、クリスチャンたちを迫害することに力を注いでいました。しかし、サウロはその途中で、天からの光を受け、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞き、イエスさまと出会い、変えられました。

神と出会い、変えられたパウロ自身は、囚人となり獄中で手紙を書いていますが、パウロ自身はコロサイの教会に「2〜3上にあるものを心に留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」のしなさいは、コロサイの教会で起きているから勧告しているのです。私たちは、神から目をそらし、離れてしますと神に焦点が向けられず、この世の方に焦点が向けられてしまいます。よく的に向けて弓を発しますが、的から外れることを罪と言います。5節〜8節までのリストは、本来焦点となる位置から外れている人の姿なのです。救われる以前の古い人のことを指していますが、クリスチャンになってからでも油断をすると、このような生活に逆戻りしやすいのです。また、5節や8節に「〜捨てなさい」と書かれていますが、原文ではやめなさいという優しい言い方ではなく、「殺せ」と命令しているのです。私たちは救われていても、日常生活の中で、誘惑があったり、過去の古い生き方に傾きやすくなる力が働く時があると思います。そのようなときに、上にあるものを見上げ、上にあるものの力を求めないと、この世の欲望というものに負けてしまいやすいからなのです。私たちは、救われる以前は、罪という古い人をしっかりと着ていました。罪に縛られている状態だったからです。しかし、キリストを信じることによって、解放され、古い人を脱ぎ捨て、解放され、新しい人を着ることが可能となったのです。新しい人を着ることができるとは、イエスキリストのことです。キリストを着ることで、「10造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」とあるように、私たちは主のかたちに似せられて、ますます新しくされていく幸いが与えられています。求める人に、聖霊は内側から新しく神の似姿に造り変えてくださるのです。これが、聖化という恵みなのです。

 

結論

毎日の生活の中で、目まぐるしく世の中は変化しています。多くの方がお仕事や学びで1日があっという間に終わりますが、祈りや聖書を読むことを後回しにしてしまったり、忙しすぎて忘れてしまいがちなことはないでしょうか。この世ではなく、ぜひ、イエス様を想う時間を5分でも取ってみてください。古い人ではなく、日々新たにしてくださるイエス・キリストと共に、期待しつつ今週も歩んでいきましょう。

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日曜礼拝(2016年11月13日)

2016-11-13 16:08:36 | Weblog

創立48周年記念礼拝(三位一体第25主日)  2016.11.13

                 「第四の男」 ダニエル書3:16~25

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は、青葉台教会創立48周年記念礼拝となっています。この地に教会が建てられ、イエス様の福音の恵みが語り伝えられ、救われる方々が起こされ、48回目の創立の時を迎えることができました。2年後には、創立50周年を迎えます。私たちは、今青葉台教会に連なる者として、感謝すると共に、神様のさらなるみ業に参与する者でありたいと思います。

 先週は、アメリカ大統領選挙で全世界的にヒートアップしたのではないでしょうか。大方の見方は、ヒラリー・クリントン氏の当選が確実とされていました。選挙戦のドナルド・トランプ氏の言葉や態度においてトランプ氏の品格や資質において大統領にはふさわしくないというような見方が多くあったのだと思います。しかし、結果はドナルド・トランプ氏が当選しました。予想外の結果と多くのメディアが語っていました。キリスト教の福音派の白人の90パーセントの人々がトランプ氏を支援したと言われています。トランプ氏が大統領になったということで、日本を始め、各国は対応におわれているようです。

神様は、この結果を通して、どのように導かれるのか期待して見ていたいと思いました。私たち人間には多くの計画がありますが、神様のみこころがなると聖書にあるように、神様のみ旨がなされたということでしょうか。私たちの思いを遥かに超えた神様のみ業に期待したいと思うのです。

 さて、今日は創立記念礼拝ということですが、「第四の男」と題して、ダニエル書3章16節から25節を通してお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様を救い主と信じて生きる

 ダニエル書3章は、バビロンに捕囚としてダニエルと共に連れて来られた、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの3人のお話しです。彼らはダニエル同様、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富んだ者たちで、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤは、侍従長からシャドラク、メシャク、アベド・ネゴという名前で呼ばれていたのです。ダニエルと同様に、この3人は国中の優秀な者よりも10倍も優れていたと聖書は記しています。

 シャドラク・メシャク・アベド・ネゴの3人は、バビロンにおいて行政を任されていました。捕囚としてイスラエルから連れて来られた者が、バビロンの高い地位についていたことは、バビロンのカルデヤ人からは、羨(うらや)みの思いを超えて、恨みに思う者も少なくなったのです。

 ネブカドネツァル王は、自分の権威の象徴として金の像を作りました。高さは、約27メートルという大変高いもので、その金の像を見る者は、ネブカドネツァル王の権力の大きさに驚きと恐れを感じていたのだと思います。金の像の除幕式に、高官たちは、角笛、横笛、六絃琴(げんきん)、竪琴、十三絃琴、風琴などあらゆる楽器による音楽が聞こえたなら、金の像の前にひれ伏して拝まない者は、燃え盛る炉に投げ込まれる、という命令を出したのです。

 シャドラク・メシャク・アベド・ネゴは、イスラエルにいる時と同様に、バビロンに連れて来られてからも、天地を創造されたイスラエルの神様以外を礼拝することはありませんでした。ですから、音楽が聞こえたら、金の像を拝めという命令が出されても、彼らは金の像を拝むことなく、イスラエルの神様のみを礼拝していたのです。彼らは律法を忠実に守っていました。十戒の中には、「あなたはいかなる像を作ってはならない。あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エジプト20:4-5)という律法を忠実に守ったのです。

 バビロンで高い地位についていた3人は、それなりの生活ができていたでしょう。けれども、ある日突然、自分たちの信仰に関わる問題が起こりました。そして、そのことが自分たちの生活を脅かすことになるのです。

 私たちは、クリスチャンであるという理由で普段の生活においては別に何の問題もありません。信仰のない人と同じような生活が送れています。けれども、イエス様を信じているということで、クリスチャンであるとうことで、あるいは信仰のゆえに、自分の生活に危機が起こるという時、私たちはどのような生き方をするのでしょうか。何かをする、しないということ以上に、イエス様が私の救い主であるという信仰、イエス様の十字架と復活を通して与えられる罪の赦しと魂の救い、復活の信仰を大切にしたいと思います。

 

 二、人の権威と神の権威

 案の定、何人かのカルデヤ人は、シャデラク・メシャク・アベド・ネゴの行為を中傷します。彼らはネブカドネツァル王に、音楽が聞こえたら、金の像をひれ伏して拝めという命令でしたが、バビロンの行政を任せたシャドラク・メシャク・アベド・ネゴは、この命令を無視して、金の像を拝みません、と報告しました。すると、ネブカドネツァル王は、このことに関して烈火のごとく怒りました。金の像で現されている自分の権威に従わないという、王のプライドが傷つけられたのです。早速、シャドラク・メシャク・アベド・ネゴの3人は王の前に引き出されたのです。王は言います。「金の像を拝まないとは本当か。楽器の音楽が聞こえると同時にひれ伏し、わたしの建てた金の像を拝むつもりならそれでよい。もし拝まないなら、直ちに燃える炉の中に投げ込む。お前たちをわたしの手から救い出す神があるだろうか。」と3人に語り、もう一度彼らにチャンスを与えたのです。わたしの一言で、私の権威でおまえたちをどうにでもすることができるのだ、と自分の権威を見せつけたのです。

 ネブカドネツァル王は、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と言いました。イエス様が捕えられ、ポンテオ・ピラトに審問されていた時、ピラトはイエス様に言いました。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」と。ピラトは、イエス様を釈放する権限も罰する権限も自分にはあると言いました。自分の権威を主張したのです。自分の力を見せつけたのです。けれども、イエス様が無罪であると確信しながらも、自分には釈放する権限があると言いながらも、ピラトはイエス様を釈放するどころか、無罪と知りながら、十字架刑の判決を下したのでした。権威どころか、自分の力の無さをさらけ出したのです。

 この世の権力、権威というものはそういうものです。自分には力がある。できると言いながらも、自分が不利になると考えを変えたり、自分よりも力が上だと判断したら、自分の権威云々はどこかへ行ってしまうのです。このどうにでもなるような権威や力を私たち人間は恐れるのです。

 イエス様は、自分の権威や力を誇張するピラトに、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」と言われたのです。

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴは、ネブカドネツァル王に脅されました。拝むのか拝まないのか。燃える炉の中に入れられるのか、そうでないのか。 その時に語ったのが16節から18節です。共に読みましょう。「シャドラク・メシャク・アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

 私たちも、このように困難や苦しみのただ中にあって、神様を信じる信仰を現したいと思います。

 

 三、ただ信じることだけ

 自分たちの命が危うい時に、この3人は、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。」と言いました。リビングバイブルには、「陛下、私たちの身にどんなことが起ころうと、心配には及びません。」とあります。自分たちは、金の像を拝まないということです。拝まないということは、直ちに燃える炉の中に投げ込まれるということです。しかし、そうなっても心配には及びません。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手から私たちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」というのが、シャデラク・メシャク・アベド・ネゴの神様に対する信仰なのです。

 「救って下さらなかったらどうしよう。救って下さるのか、どうかはわからない。」のだから、私は3人のようには言えない。語れないと思っておられる方々がおられるのかも知れません。シャデラク・メシャク・アベド・ネゴも、そのような所に立っていたのかも知れません。自分たちを救ってくれるかどうか、ということよりも、彼らは、「私たちの信じる神様は、燃える炉の中に投げ込まれた私たちを助けることができると信じる」ということです。王様のその権力の手から必ず救って下さると信じるということなのです。それが信仰なのです。信じてそうならならなかったらどうしよう、ということを考える必要がないと言うことです。神様は必ず私と共におられ、私を守り、私を助けて下さると信じるのです。それが信仰なのです。その後どうなるのか、ならないのかを考えてしまうので、私たちは信じることができないでいるのではないでしょうか。

 18節、「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」とあります。「そうでなくとも」というのは、神様が助け出して下さると信じるけれども、そうでなくても、助け出されないということがあっても、神様を信じるゆえに、金の像を拝むことはありませんということです。

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴは、神様が助け出して下さると自分たちは信じる。しかし、神様のお心は自分たちが助け出されるということでなくても、神様を信じるということです。それは、神様を信じるというのは、自分の思い通り、願い通りに事が進むということではなく、神様の最善を信じるということです。その最善が、自分たちが助け出されるということでなくても、神様を信じるということです。後はどうなるのかということを心配する必要がないというのが信仰だと思うのです。

 イエス様はゲッセマネの園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴは、神様を100パーセント信じたのです。ネブカドネツァル王は、彼らの言葉を聞いて、怒りました。そして、いつもの7倍熱くするように命令し、3人を縛り上げて、燃え盛る炉の中に投げ込んだのです。その火の勢いは、3人を連れて行った男たちを焼き殺したほどでした。

王は、3人が炉の中に投げ込まれたけれども、違う光景を見たのです。

 25節です。「王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして、何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

 神様は、シャデラク・メシャク・アベド・ネゴを救って下さいました。四人目の者は、受肉前のイエス様ではないかと考える学者もおられます。イエス様であれ、神様であれ、炉の中に投げ込まれた彼らと共におられて、彼らを守られたのです。守られる、守られないということよりも、神様が、イエス様が共におられて、最善の導きをして下さるということなのだと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 シャデラク・メシャク・アベド・ネゴの3人は、炉の中から出て来ましたが、火は彼らの体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のまま火のにおいすらなかった。と聖書は記しています。ネブカドネツァル王は言います。「シャデラク・メシャク・アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神により頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。・・・まことに人間をこのように救うことのできる神はほかにいない。」(ダニエル3:28-29)

 「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と自分の力を誇示したネブカドネツァル王でしたが、火の燃える炉の中から3人を救い出した神様の本当の権威を認めたのでした。人間の権威は本物ではなく、神様こそ、その力を現すことのできるお方なのです。その神様は、御自分の権威を力で現したのではなく、最も弱い存在としてイエス様を赤子の姿でこの世に送られた。それがクリスマスです。最も権威のある神様が最も弱い存在で出現し、そして、最も弱い姿、十字架の姿で私たち人間の罪の身代わりとなって、裁かれ、命を持ってあがなって下さったのです。そのイエス様は、復活され神であることを現されたのです。この十字架と復活にこそ、神様の愛が現れているのです。最も力あるお方が最も弱いものとなられたのです。だからこそ、父なる神様はイエス様を権威ある者とされたのです。

 私たち人間の世界では、総理や大統領のように権威ある者が、力ある者の象徴となっています。ネブカドネツァル王やピラトのように、自分の力が権威が最高のように思える。そして、人を脅す。権威で人をどうにでもしようとする。それが人間の世界です。けれども、シャデラク・メシャク・アベド・ネゴと共に火の燃える炉の中には、四人目の者がいたのです。神様がおられたのです。炉の勢いを7倍にしょうが、10倍にしようが問題ではない。私たちの信仰生活の中で、苦しいことや悲しいことがあります。神様がおられるのなら、なぜ、こんな悲惨なことが起こるのか、という悲しいことや絶望を経験することがあります。だから、神様を信じない。と自分の願いや思い通りになることが神様を信じるということではなく、どのような苦しみや悲しみ、痛みや困難を経験しようともイエス様は、神様はあなたと共におられるのです。そして、神様のみ旨を、みこころを最優先されるのです。だから、私たちは、この神様、私たちのために十字架にかかり、私たちの代わりに尊い血を流し、命をささげて下さったイエス・キリスト様を信じるのです。思い通りに行く、行かないではなく、何が起ころうとも、このイエス様が必ず守って下さる。助けて下さると信じるのです。青葉台教会の48年の間にも、いろいろなことがあったでしょう。

神様はこの青葉台教会を今日まで守り導いて下さいました。これからも最善に導いて下さいます。

 私たちは、この週も、この神様が、イエス様が私たちといつも共におられて守って下さる。助けて下さると信じて歩ませていただきたいのです。信じること、それが私たちのなすべきことなのです。大丈夫、安心しなさい、と語って下さるイエス様と共に、このお方に目を留めつつ、イエス様に従って歩ませていただきましょう。

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日曜礼拝(2016年11月6日)

2016-11-13 16:06:53 | Weblog

召天者記念礼拝(三位一体第24主日)  2016.11.6

                 「天国への引っ越し」 ヨハネ14:1~6

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は、召天者記念礼拝として礼拝を守っています。信仰を持って先に天に召されました兄弟姉妹を偲びながら、生前の信仰の姿を思い、神様によって救われ、天国の望みを持って召された方々を思い、私たちの信仰の励みとしたいと思います。今日は、

信仰をもって召された方々のご家族も礼拝に集っておられます。礼拝に出席していて下さるお姿に、先に召された兄弟姉妹は喜んでおられることだと思うのです。

 先週は、二人の方を天にお送りしました。お一人は、外部の方ですが、10月28日に召された菅原眞理さんという方で、56歳の方でした。お父様がクリスチャンであって、本人がキリスト教の葬儀をあげたいと願っておられ、一か月前に、このような方がおられるのでお祈り下さいと連絡を受けておりましたので、葬儀をさせていただき、クリスチャンが一人もいない葬儀でしたが、福音の恵みと復活の望みを語らせていただきました。

 もう一人は、私たちの青葉台教会の教会員である竹内昇兄でした。約4年半の寝たきりの闘病生活でしたが、家族の愛に支えられ、教会の祈りに支えられ、何よりもイエス・キリスト様に守られた闘病生活でしたが、10月28日の午後2時頃天に召されて行かれました。クリスチャンのお嬢さんやクリスチャンのお孫さん、教会員の方々の参列された葬儀でしたから、心強く、イエス様の恵みと復活を語らせていただきました。残されたご家族、特に、竹内みゑ子姉のために覚えてお祈り下さい。

 さて、今日は、召天者記念礼拝ということもあり、「天国への引っ越し」と題して、ヨハネによる福音書14章1節から6節を通して、お話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様に全てをお任せする

 14章の1節を共に読みましょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」この14章は、最後の晩餐の席での言葉です。この食事が終わり、その夜イエス様はローマ兵に捕えられ、尋問され、拷問され、金曜日には十字架刑につく前の日の言葉です。不穏な動きがイエス様の周りにはあることを弟子たちは気付いていたでしょう。自分たちは、3年と少し前に、全てを捨ててイエス様に従ってきた。イエス様の権威ある言葉や力ある数々の奇跡のみ業を誰よりも近くで見て、感動し、イエス様を神様だと信じて来た。そして、これからイエス様を中心に、ローマからの解放運動をと願い誓っていたのかも知れない。弟子の誰もが、イエス様の右と左の席を狙っていたのです。弟子の誰もが人生をイエス様にかけてきた。そして、そのことに満足してきた。名誉なことだと感じていた。イエス様の弟子であるということ自体が弟子たちにとっての喜びだったのです。

 けれども、その当のイエス様は、ご自身でも律法学者や祭司長たちに捕えられ、苦しめられ、殺されるという不吉なことを語られ、その律法学者や祭司長たちの数々の不穏な動きに、何やら弟子たちの心は騒ぎ立ち、沈没でもするかのような状態になっていたのではないでしょうか。

 そのような弟子たちにイエス様は語られたのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。」 リビングバイブルには、「どんなことがあっても、心配したりあわてたりしてはいけません。神様を信じ、何もかも、わたしに任せなさい。」とあります。

 わたしたちはどうでしょうか。心騒がせていることはないでしょうか。自分の病気や健康のこと。いつまでこの病気が続くのだろうか。この痛みはいつなくなるのだろうか。自分の会社は倒産しないだろうか。

受験に合格できるだろうか。良い結婚ができるだろうか。愛する者といつまで一緒に過ごせるだろうか、と私たちは心を騒がせることが多くあります。心配することがたくさんあります。不安になることも多くあります。子どものこと、夫や妻のこと、親のこと、孫のことと自分以外のことでも悩みは尽きません。でも、今朝イエス様はあなたに語られるのです。「どんなことがあっても、心配したりあわてたりしてはいけません。神様を信じ、何もかも、わたしに任せなさい。」 このように語って下さるイエス様を信頼して、イエス様に全てを、何もかもお任せしようではありませんか。

 

 二、天国での再会を夢見て

 2節、3節を共に読みましょう。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

 リビングバイブルにはこうあります。「父の住んでおられる所には、家がたくさんあります。もしなかったら、はっきり言っておいたでしょう。実を言えば、あなたがたを迎える家を準備しに行くのです。すっかり準備できたら、迎えに来ます。わたしがいる所に、いつでも、いられるようにしてあげるためにね。

 父の家にはとは、天国でしょう。天国には私たちの住むべきところがあるのです。早く行かないと家が無くなるというのではないようです。イエス様は、なかった時のことを考えて、場所を用意しに行くと言われます。イエス様は、大工でありましたから、天国で私たちの家を建築しておられるのかも知れません。イエス様が私たち一人一人のために、匠の最高の家を用意して下さるのです。そして、場所の用意ができたなら、戻って来られる。迎えに来られるというのです。これは、再臨、イエス様が再びおいでになるということを示しています。

 イエス様は、最初人間の赤ちゃんとして最も小さく弱い存在として生まれました。それが、クリスマスです。そして、人々に慰めと励まし、勇気と力を与えました。病んでいる者には癒しを与え、苦しんでいる者を助けて下さいました。そして、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、わたしたち罪ある者が受けるべき罰を受けて下さり、ご自身の尊い血を流し、命をささげて下さったのです。この十字架の身代わりの死によって、私たちの犯した全ての罪、過去の犯した数々の罪、今現在犯し続けている罪、やがて犯すであろう未来の罪をいっさい赦して下さったのです。私たちは罪の赦しをいただき、魂が救われて、神様と共に人生を歩むことができるようになったのです。そして、イエス様が死んで三日目によみがえることによって、私たちは死んで終わりの人生ではなく、イエス様のように、死んでも生きる者とされたのです。先に信仰を持って召された方々も、イエス様の十字架の死と復活によって、罪の赦しと魂の救いを経験し、復活の命、天国の望みを持って天に召されて行かれたのです。ですから、私たちも同じ信仰をいただいて、天国での再会を楽しみたいと思うのです。

 

 

 三、イエス様を通して行くべきところ

 イエス様が、私の行く道をあなた方は知っていると弟子たちに語った時、トマスは、「わからない」と言いました。その時イエス様は6節の言葉を語られたのです。6節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 現代訳聖書にはこうあります。「イエスは彼に言われた。「わたし自身が道です。また、真理それ自体です。命そのものです。ですから、天のお父様のみもとへ行こうと思うなら、わたしをほかにして、行くことはできません。」

 道とは教えを指し示すものです。多くの偉人が、その道を教えたり諭したりしてきたのは歴史が証明しています。けれども、わたしが道だと言われたのは、言い切ったのはイエス・キリスト様以外には存在しないのです。イエス様だけが神様に至る唯一の道なのです。

 私たちを天国へと導くのは、イエス様が私たちのために十字架で血を流し、命をささげて下さったこと、そして、イエス様が死んでよみがえられたことによって、私たちの罪が赦されて、魂に救いが与えられて、永遠の命、復活の命があたえられたからなのです。

 ですから、ヨハネの黙示録14章13節には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という言葉があります。 詳訳聖書には、「今からのち、主にあって死ぬ死人は祝福されています。(幸福です、うらやむべきです)」とあります。 死というものをこれほど称賛していることはありません。イエス様を信じるということは、死というものが祝福になるというのです。うらやむべきだというのです。それは、天国への凱旋だからです。9月18日に召された木村嘉男兄は、「いざ行かん、罪赦されて天国へ うれしいな うれしいな この喜びを誰にぞ伝えん」という辞世の句を残しました。 「いざ行かん、罪赦されて天国へ」とは、天国への凱旋です。

 10月28日に天に召されました竹内昇兄は、28日の午後、「息をしていないようなので」と病院からご家族へ連絡があったようです。私は滋賀県におりまして、「父が息をしていないようなのでと病院から連絡がありました」と電話をいただきました。その後、新生会に連絡して病院へ行っていただきました。午後2時頃お亡くなりになったことが確認されたのです。竹内兄も4年半ほどの長い闘病生活でしたが、その行きつく先は天国なのです。天国への凱旋でした。どのような所を通されても、困難や戦いが多くても、痛みの連続でも、思うようにならない状況でも、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言われたイエス様を信じて、父の、もと、天国に凱旋されたのです。

 

 Ⅲ結論部

 お仕事の関係で引っ越しを多く経験された方々もおられることでしょう。9月18日に召された木村嘉男兄も何回も引っ越しをされました。けれども、今回、最後の引っ越し、天国への引っ越しをされました。クロネコヤマトやアート引っ越しセンター、蟻さんマークの引っ越し、堺引っ越しセンターでの引っ越しではなく、引っ越しの費用も心配することなく、天国への引っ越し、誰よりも、私たちを命をささげて下さるほど愛していて下さるイエス様のいる所、そこが私たちの最終の引っ越しの場所なのです。

 先に召された方々は、イエス様のいる天国へ引っ越しされました。私たちもやがて天国へ引っ越しする日が来ます。その時まで、与えられたその場所で、イエス様を信じて、イエス様を信頼して歩ませていただきたいと思うのです。

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