アドベント第一礼拝(待降節第1主日) 2016.11.27
「神様の無茶ぶり」 ルカ1:26~38
Ⅰ導入部
おはようございます。上芦別教会の愛する皆さん、おはようございます。待降節、アドベント第一日曜日となりました。イエス様の誕生を待ち望む期間となりました。全世界のキリスト教会が、今日、アドベント第一の礼拝を行っています。今日は、ロウソクに一本火がともりました。普段は、4本目でクリスマスを迎えますが、今年の2016年は、5本目がともるとクリスマス礼拝を迎えます。
アドベントとは、ラテン語で「やって来る」というような意味があるようです。救い主の誕生、救い主がやってくる。私たちは、神様が人間の世界にやって来られたクリスマスを待ち望むのです。闇に光として来られたイエス様は、たとえ今、私たちの状況がどのような暗闇であろうとも、イエス様は光としておいでになり、私たちの状況を一変し、祝福と恵みとして下さるのです。私たちは、このイエス様を待ち望む時として、アドベントの季節を過ごしたいと思うのです。
アドベント第一礼拝に選んだみ言葉は、ルカによる福音書1章26節から38節です。今日は、「神様の無茶ぶり」という題でお話いたします。
「無茶ぶり」という言葉は、現代お笑いの世界でよく使われている言葉です。ウィキペディアでは、「お笑いで用いられるフリの一つ。一般的なお笑いの形式としては、相手のキャラ(コミュニケーション上の役割)を考慮したうえで、それに沿ったフリ(笑いにつながるようなきっかけ)を与えるようになるが、ここであえてキャラ設定を無視した対応困難なフリを与え、相手がそれに動揺し、素を露呈してしまっているころを笑いに転化するのが無茶ぶりである。」とあります。
本来の無茶ぶりの意味は、「困難な仕事を無理やり頼むこと。返答に困る話題を投げかけること。他人に唐突に話の収拾をつけさせるため話題を振ること。」とあります。
今日の記事は、まさに神様がマリアに無茶ぶりの内容のように思うのです。
Ⅱ本論部
一、恵みの先駆け
マリアは、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と言われれて、戸惑いました。現代訳聖書には、「あまりの賛辞に、マリアは戸惑いを感じて」とあります。あまりにも持ち上げすぎて、かえって怪しむということはあるのだと思います。
「おめでとう」と言われても、「恵まれた方」と言われても、「主があなたと共におられる。」と言われても、なにゆえにそうなのかが、わからないマリアは戸惑いました。30節では、もう一度、「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」と、大切な内容が語られないまま示されたのです。
そして、ようやくその内容が明かされるのです。31節から33節まで共に読みましょう。「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き神の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
婚約はしていても、まだヨセフと共に住んでいないマリアが身ごもる。妊娠する。男の子を産むので、イエスという名前を付けるようにと言われたのです。何かいやな予感がしたけれども的中。今の自分には信じられないような内容が告げられたのです。これからの、マリアの行く手には、いばらの道、困難が待ち受けているということを予想させる内容でした。まさに、マリアの生涯は、人口調査で行ったベツレヘムで出産し、エジプトへ逃げ、夫ヨセフを早くに亡くして苦労したナザレでの生活、愛する息子の十字架での死とマリアの生涯は苦難の連続でした。
けれども、苦難があるということは必ずしも不幸を意味するものではありません。ある意味では、マリアの望んだような人生の展開ではなかった。しかし、そのことが必ずしも不幸を意味しているのではないのです。そのような苦難の人生をマリアは送ります。そして、天使に受胎告知をされた時、自分の人生に苦難の道を感じたのです。けれども、そのような苦難の生涯であろうとも、恵まれた人として人生を歩むことができるし、マリアは恵まれた人生を歩むことになるのです。すでに、神様はマリアに出会った最初の言葉で記しています。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と。主が共におられる人生は、幸いな人生、恵まれた人生を送ることができると約束されているのです。
私たちの今の人生に、どのような苦難や困難があろう「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」とも、主が共におられるゆえに、おめでとうと言われるような幸いな人生を送ることができるのです。
二、神様の言葉に信頼する
マリアは彼女自身に、「主があなたと共におられる。」と語られた言葉の通りに、生涯神様に用いられたのです。マリアの生涯は、キリストの母親として用いられたのでした。
私たちの幸福、幸せというものは、神様が私たちと共に歩んで下さるということであり、私たちが、神様と共に歩むということで、神様に用いていただくというところにあります。
私たちは、自分の生涯を誰のために生きるのか。お父さんは、お母さんや子どもたちのために生きるでしょう。教師は生徒のために生きるでしょう。社長は社員のために生きるでしょう。そして、牧師は信徒の愛する兄弟姉妹の方々のために生きる、用いていただくのです。
また、私たちは誰の救いのために用いられるのでしょうか。家族の救いのために、夫の救いや妻の救い、親の救いや子どもの救い、孫の救いために用いられるのです。神様が誰かを愛するために、私の生涯を、あなたの生涯を用いていただくのです。そこにこそ、私たちの幸せというものがあるのではないでしょうか。このクリスマスに、私たちは神様に用いられることを願い、用いられることが幸せなことであることを知りたいと思うのです。
マリアは、神様のために用いられたのです。だから、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」なのです。
ルカによる福音書1章には、バプテスマのヨハネの誕生が記されています。ザカリアに、マリアと同じように天使が語ります。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」
(ルカ1:13) ザカリアは答えます。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 この言葉は、「信じられるようにしるしを見せて下さい」という要求です。つまり、神様の言葉を信じていないのです。ですから、ザカリアは、ヨハネが生まれるまで口が利(き)けなくなったのです。聖書は、
「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(1:20)
34節を共に読みましょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という言葉は、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょう。」というザカリアの言葉と同じように聞こえるかもしれません。しかし、マリアの言葉は不信仰な言葉ではないのです。原語を見ると、マリアの「どうして、そのようなことがありえましょうか。」という言葉は、「どのようにして、それは可能なのでしょうか。」「それは、どのようにして実現するのでしょうか。」という、神様の言葉が実現することを信じた上で、その道筋を知りたかった、言葉なのです。私たちも神様の言葉に信頼して歩みたいと思うのです。
三、神様の言葉がこの身になると信じる
「それは、どのようにして実現するのでしょうか。」というマリアの問いが35節なのです。 「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」」 これから、マリアに起こることは、神様の業であることを告げ、信じられないような事ではあるけれども、不妊の女と言われていた親類のエリザベトは妊娠し、六か月を迎えているという事実を告げられるのです。
そして、「神にはできないことは何一つない。」と最後のとどめの言葉が告げられたのです。「神にはできないことは何一つない。」という原語を見ると、「神においては、全ての言葉は不可能ではない。」という意味になるそうです。神様の言葉はすべて実現するということです。マリアはこのことばを信仰を持って受け止めるのです。
マリアは応答します。38節を共に読みましょう。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで、天使は去って行った。」
神様の言葉を信じながら、祈りながら生きることが、主のはしためとして、主の奴隷のとして生きることなのです。これが、マリアの信仰、そして、私たちの信仰なのです。
聖霊によって身ごもるということは、ヨセフにも、その他の人にも到底理解できない事柄です。姦淫の罪に問われる可能性は大きいのです。 そのような状況だけれども、マリアは、信じられないような神様の言葉を信じて、その言葉を受け入れて、その言葉が実現することを願ったのです。マリアは、自分の頭で信じられる、信じられないというのではなく、常識的である、そうではないというのでもなく、可能性があるとかないとかというのでもなく、神様が彼女に語られた言葉を神様の言葉として信じたのです。
神様のご計画は、人間の考えや思いをはるかに超えているのです。イザヤ書55章8節、9節には、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」そして、11節には、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」とあります。
マリアにとっては理解しがたいような神様の言葉でしたが、マリアはそれを信じたのです。神様のお心は、このマリアを通して救い主を人間の世界に送り、私たちの罪の身代わりにイエス様が十字架で死ぬことでした。イエス様が十字架で私たちの代わりに罰を受け、命をささげることによって、私たちの全ての罪が赦され、イエス様が死からよみがえることにより、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。
Ⅲ結論部
キルケゴールという人は、「死に至る病」という本の中で、「死に至る病は、絶望のことだ。」と言っています。望みを失うということ、それが死に至る病だと彼は言っています。
私たちの抱えるいろいろな問題や困難、苦しみや悲しみ、病気、それが死に至る病ではなくて、そのような困難や苦しみや苦痛、絶望の中で、神を信じることなく、希望を持たないことが死に至る病なのです。
マリアは、「お言葉どおり、この身になりますように。」と言いました。ニューキングジェームス訳には、「Let it be to me according to your Word.」とあります。あの有名なビートルズの「Let it be」という曲に、このマリアの言葉が影響しているようです。
歌詞の中に、「私が苦しみの中にいた時、聖母マリアが来て、知恵の言葉を授けてくれる。」これは、マリアの信仰告白の「Let it be to me according to your Word.」「お言葉どおり、この身になりますように。」が下敷きになっているようです。ビートルズの「Let it be」の題の意味は、「そのままに、なすがままに」ということでしょうが、本当は、「みこころのままに」がふさわしいように思うのです。
神様のマリアに対する第一声は、「おめでとう」でした。これは、「喜びなさい」という意味があります。神様の言葉が自分自身に実現することは喜ばしいことです。神様はマリアを選び、びっくりするような言葉をかけられました。神様の無茶ぶりです。私たちも、現実の生活の中で、びっくりするような出来事や困難なこと、悲しみや苦しみを経験します。けれども、そのことが問題なのではなく、そのような状況の中でも、神様を信じられないこと、希望を持たないこと、それが問題なのです。神様は共におられる、とマリアに語られたように、私たちにも語られるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と。神様が共におられることは、おめでとう、喜ばしいことなのです。
私たちは、この週も、どのような所を通らされても、神様の無茶ぶりで、困難や悲しみを経験しようとも、主が共におられ、私たちを神様の栄光のために用いて下さるのです。
喜びなさい、と告げられる主は、私たちを恵み、祝福して下さるのです。この週、私たちは、困難の中にも、イエス様にあって、希望を持ち続けたいと思うのです。