江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年7月31日)

2017-07-30 16:37:32 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第七)  2017.7.30

   「愛が訳ありの私を変えた」 ヨハネ4:27~30.39~42

 

 Ⅰ導入部

 お早うございます。7月の第五日曜日を迎えました。 今日は賛美礼拝として礼拝を守っております。第一礼拝は、中高生の皆さんと合同礼拝です。いつものことながら、壮年会の特別賛美は力強いですね。感謝です。

本格的な夏を迎え、毎日暑い日が続いておりますが、皆さんお元気でしょうか。暑さの中にも、神様のお守りがお一人おひとりの上にありますようにお祈りしております。

 昨日は、ユーオディアのコンサートがあり、青葉台教会から保坂兄、田宮姉、柳瀬雄太兄が参加されました。本当に、素晴らしい演奏と素晴らしい賛美でした。

 さて、今日はヨハネによる福音書4章28節から30節、39節から42節を中心に4章を通して、「愛が訳ありの私を変えた」という題でお話し致します。この愛とは、神の愛、イエス・キリスト様の愛です。

 

 Ⅱ本論部 

 一、あなたの所にも来て下さる主イエス様

 ヨハネによる福音書4章28節、29節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」」とあります。4章7節には、「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。」とあります。サマリアの女性とイエス様との出会いの場面です。

 サマリアの女性は、井戸に水をくみに来たのです。当時の女性は、水をくむという役目がありましたから、女性ならば誰もが水を汲むという働きをしていたのですが、この女性はちょっと訳ありでありました。ですから、当時は、涼しい時に水をくみに来るはずですが、この女性は、正午ごろに水をくみに来たのです。それは、暑い時間ですから、他の女性は誰も汲みに来ない時間帯でした。彼女は、他の女性たちが、汲みに来ない時間帯に、あえて水をくみに来たという訳ありだったのです。

 イエス様は、旅の疲れで井戸のそばに座っておられたので、本来ならば、誰も水を汲みに来ない時間帯に、彼女が水を汲みに来たので、「水を飲ませてください」とイエス様の方から声をかけられたのです。

 けれども、当時は、男性から女性に声をかけるということはありませんでした。しかも、ユダヤ人がサマリア人に声をかける、交わる、かかわるということはなかったのです。ですから、9節で、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしにどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と問うています。驚いているというのが現実です。

 サマリアの女性がイエス様に声をかけられ、びっくりしたというのが初対面でした。サマリアの女性が、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」と言ったということは、彼女に大きな変化があったということを示しています。

 人生には、いろいろあります。人に言えない出来事もあります。絶対に知られたくない

内容もあるでしょう。辛く、苦しい、悲しい現実の中でも生きていかなければならない人生があります。生きていくためには、サマリアの女性のように、水を汲むという現実があり、他の女性と顔を合わせたくないので、暑い時間に、水を汲まなければならない現実の中にある彼女にイエス様は出会って下さり、人目を避けていた人生、人前には二度と出られない人生が、自ら人々の前に出て行くという人生に変えられたのです。

 私たちにも暗い現実、訳ありがあるでしょう。しかし、イエス様は、「サマリアを通らねばならなかった。」(4節)と聖書が語っているように、悲しみ苦しんでいるサマリアの女性を救うために、イエス様はサマリアに来られたのです。そして、あなたを救うために、あなたの所にも来て下さるのです。

 

 二、イエス様こそ解決の道

 いろいろな事情を抱え、人前に出ることができなかったサマリアの女性が、人々の前に出て行き、イエス様を伝えたという背後には何があったのでしょうか。

 イエス様が、サマリアの女性に「水を飲ませてください」とイエス様の方から声をかけられ、彼女は驚きました。その時イエス様は、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」(10節)と言われました。 「生きた水を与えたことであろう。」と言われて、サマリアの女性は、汲む物を持っていないし、井戸は深いのに、どこから生きた水を手に入れるのか。ヤコブよりも偉いのですか、と質問しました。するとイエス様は彼女に言われたのです。「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」」(13-14節) 驚くべき言葉でした。イエス様が与える水は、決して渇かない。イエス様の与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。すごい言葉でした。勿論、イエス様は肉体的な事柄、一度その水を飲めば、のどが渇かない、という意味で言われたのではありません。しかし、サマリアの女性は、のどが渇かない水のことだと勘違いして言いました。 「女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」」(15節)

 毎日、暑い日が続き、水分をこまめにとるようにと天気予報でもよく聞きます。実際、夏の暑さの中で、私たちは水分補給をします。外での仕事は、水分を取らなければ熱中症になってしまいます。自動販売機の水やお茶は、すぐになくなってしまいます。何度も何度も、水分を取らなくてはなりませんから、この水を一度飲めば、のどが渇かなくなる水なるものがあれば、それは助かります。そんな水があればほしいと誰もが言うでしょう。

 サマリアの女性は、渇かなくなる水がほしかったのです。訳ありだったのです。毎日、毎日、水を汲みに来なければなりません。訳ありですから、人前には出たくはない。人に自分の存在を知られたくない。見られたくない。そう思っていた彼女は、涼しい時間帯には当然、多くの女性が水を汲みに来るのですから、その時間帯を避けて、できるだけ水を汲みに来ない時間帯、暑い時にしか、水を汲みに来なかった。その事を考えると、いやでいやで、たまらない。苦しくて仕方がない。だから、もう水を汲みに来なくていいような、のどが渇かないようになる水があるならば、何としてでも欲しい、喉から手が出るぐらいに、その水が欲しかったのです。

 自分の思い通りになるもの、自分の隠したい部分をかくせるもの、今現実に苦しんでいる事柄からの解放のために、解決できるものなら、それがほしい、それが私たちだと思うのです。私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛み、どうしようもなく辛い事、そのような事を全てイエス様は知って下さり、私たちに寄り添って下さるのです。そして、イエス様だけが、解決の道を持っておられるのです。

 

 三、イエス様はあなたの全てを知り、あなたを救われる

 サマリアの女性は、「その水をください。」と望みました。求めました。道を求めたのです。するとイエス様は変な事を言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」 渇かない水がほしい、ことと彼女の夫とどう関係があるのでしょうか。

 聖書では、夫と妻の関係をキリスト教会との関係を説明するときに話されることがあります。(エフェソ5;22-33) 夫と妻との関係が正しい関係、良い関係にある時には、全てのものを共有し、二人でありつつ一人であり、一人でありつつ二人であるという関係にあると思います。二にして一とか、一にして二というような関係というものは、ある意味では人間の限界を超えた世界に属し、人間を超えた力、神様によってはじめて可能になり、現実の体となるのではないでしょうか。言い換えれば、夫婦とは、神様によって結ばれ、神様に共通にかかわり、二人が共に神様に応答していくという生活を、夫と妻がお互いに実践するときに、初めて夫と妻の関係が真実になるのだと思うのです。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」とイエス様が言われた時、サマリアの女性の夫と妻という関係が問われたのだと思うのです。

 彼女は答えました。「わたしには夫はいません。」(17節) イエス様は彼女の過去の経験をご存知であり、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」(18節)と言われました。彼女は、嘘をつくこともできました。知らんぷりもできたでしょう。けれども、正直に答えたのでした。ある意味では、真実の告白だったのです。この告白の中に、夫と妻という真実な交わりを失い、結婚と離婚を繰り返すという孤独の中に投げ出されたみじめな人間、訳ありの彼女の姿を見ることができます。いろいろな訳は違いますが、多かれ少なかれ、私たちもそれぞれに課題や問題を抱えているのではないでしょうか。その問題を、神様の前に、イエス様の前に正直に告白したいと思うのです。

 サマリアの女性は、現実的に見たら、ふしだらで、夫と妻としての真実の交わりを失い、肉体的な欲は満たされても、人としては孤独な人生を送って来たのです。そのありのままの、その悲しさ、切なさ、痛みをイエス様は知っていて下さるのです。

 この後、礼拝の事、礼拝の場所のことが語られますが、イエス様は彼女に言います。「婦人よ、わたしを信じなさい。」(21節)と。イエス様との会話の中で、サマリアの女性は、キリストと呼ばれるメシアが来られる時、すべてのことを知らせて下さると言うと、イエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(26節)と言われたのです。

 「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかも知れません。」」とイエス様をメシアかも知れないと思い、信じつつ、町に出て行き、イエス様のことを多くの人々に話したのです。ここに、彼女の大きな変化があったのです。

 私たちもイエス様に出会い、イエス様によって変えられた者の一人です。イエス様は、私たちの罪を赦すために、十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。イエス様が私たちの罪の身代わりに、神様に裁かれ、私たちの身代わりに死ぬことによって、訳ありの私が、ありのままの私が、そのままで赦されるという驚くべき恵みをいただいたのです。そして、イエス様が「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」言われたように、イエス様が死んで葬られ、三日目によみがえることにより、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。十字架と復活を通しして、神様の愛によって私たちは、変えられたのです。そのことを感謝したいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 悲しい人生を送っていたサマリアの女性、人前を避け、孤独の人生を送っていた彼女をイエス様「は見捨てませんでした。彼女一人を癒し、救うために、「サマリアを通らねばならなかった。」とイエス様の強い意志、愛の心を見ることができます。であるならば、同じように、クリスチャンとして、神様を信じて生きていく中において、困難や苦しみ、痛みや悲しみを経験しているあなたのそばをイエス様は通りすぎることはなさらないのです。イエス様が自分の事を考えて下さらないかのような現実の厳しさ、現実があるかもしれません。でもそれは、イエス様があなたを見離しているのではありません。そこには、イエス様のみ心、お考え、ご計画が確かにあるということです。現実がどのように厳しくても、困難でも、復活のイエス様は、いつもあなたとあなたの教会と共におられ、サマリアの女性の所に来られたように、いつもあなたのそばにおられ、あなたを支え、あなたを守り、解決の道を与えて下さるのです。恐れることはありません。イエス様はサマリアの女性に言われたように、あなたにも語られるのです。「わたしを信じなさい。」と。

この週も、「わたしを信じなさい。」と言われるイエス様と共に歩んでまいりましょう。そして、イエス様の恵みに満たされて、イエス様の愛に押し出されて、私たちもイエス様のことを誰かに紹介したいと思うのです。イエス様の愛は、訳ありの私を変えたのです

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日曜礼拝(2017年7月16日)

2017-07-16 14:44:23 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第四)     2017.7.16

        「どんな時もどんなときも」  ヨブ記1:13~22

 

 Ⅰ導入部

 お早うございます。7月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができることを感謝致します。毎日、35度前後の温度で、「暑い、暑い」が合言葉になっているように思います。この暑さ「何とかならないものか」と、クーラーの効いた部屋に逃げてしまいます。この暑さの中、九州北での災害の復興作業に取り組んでおられる方々も、この暑さのために困難な状況であると思います。労しておられる方々が、暑さから守られ、復興作業が進められることを祈ります。

 今日は、第一礼拝においては、中高生の皆さんも合流しています。夏休みの目前ですが、夏休みを待ち望んでおられることだと思います。

 青葉台教会では、先週の役員会報告でお知らせしましたように、8月の第二日曜日から9月の第一日曜日までの一か月間、午前7時からの早朝礼拝を行いたいと思います。夏の暑い期間、小学校のラジオ体操と同じ時間になるでしょうか、7時から30分か40分の礼拝を行います。朝早く目覚める方々は、涼しい時間帯の早朝礼拝、ワーシップ賛美と短縮したメッセージをする予定です。ぜひ、覚えてお祈りいただきたいと思います。

 さて、今日は、ヨブ記1章13節から22節を通して、「どんな時もどんなときも」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、サタンがかぎまわっても大丈夫

 ヨブ記は、正し者がなぜ苦しむのか、という苦難の問題を問うています。聖書は、ヨブのことを、「無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた。」(1:1)と紹介しています。新改訳聖書には、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあります。リビングバイブルには、「この人は人格者で、神様を敬い、悪から遠ざかっていた。」とあります。このようなヨブが試練に遭うというのは、彼の罪のゆえではないことがわかります。ヨブには罪がないということではありません。

 ヨブ記1章には、神の使いの集まりにサタンが参加している様子が記されています。サタンは、神様に「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」(1:7)と言っています。リビングバイブルには、「地球のパトロールから帰って来たところでさ。」とあります。サタンというのは、クリスチャンの罪を見つけ出して、主の前に訴えるのです。クリスチャンの罪を告発することの専門家なのです。ペトロの手紙第一、5章8節には、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」という言葉があります。リビングバイブルには、「最大の敵である悪魔の攻撃に備えて、くれぐれも警戒しなさい。悪魔は、飢えて、ほえたけるライオンのように、引き裂くべき獲物を求めて、うろつき回っているのです。」とあります。 皆さん、いかがですか。今週の1週間のあなたの言動をサタンはうろついてあなたの罪を指摘するというのです。

 うろついて人の罪を告発するサタンに、神様はヨブについて語るのです。1章8節では、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上には彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」 神様は、ご自身がヨブのことを「わたしの僕ヨブ」と呼んでいます。ヨブは主のしもべなのです。神様とヨブとの良き関係を見ることができます。ヨブは神様を畏れて生きる人でした。この生き方が、彼を「無垢な正しい人」、全き人、どこをとっても欠けのない人、曲がったところはなく、まっすぐな人であることを神様ご自身が語っておられるのです。

 サタンは、私たちの罪や弱さを指摘して、私たちのクリスチャンとしての歩みを崩そうとしますが、私たちは、イエス様の十字架と復活のゆえに、神様の前に義とされていることを覚え、感謝したいと思うのです。

 

 二、信じているふりなのか

 神様はヨブをサタンに紹介しました。「無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」と。すると、サタンは言います。9節です。「サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。」」 「利益もないのに」という言葉を、口語訳聖書や新改訳聖書は、「いたずらに」と訳しています。リビングバイブルでは、「当たり前ですよ。あなたが特別ひいきにしているんだから。」とあります。ヨブには、七人の息子と三人の娘、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産がありました。驚くべき財産です。特別ひいきと言われてもうなずけるような気がします。

 サタンは、ヨブが神様を信じているのは、信仰しているのは、このような多くの財産が与えられているからであって、このような財産が無くなれば信仰も失うという考え方でした。ご利益宗教だというのです。サタンの考えは、ヨブだけではなく、人間というものは、その宗教から得られるご利益を失えば、その神、信じる神をも捨てるのだということです。

 「利益もないのに神を敬うでしょうか。」ということです。「あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。」(1:10) リビングバイブルには、「あなたはいつも、彼とその家庭、持ち物を守っているじゃないですか。それに、彼のすることは何でも栄えるように目をかけている。これじゃあ、金がうなるほどあっても不思議ではない。あなたを拝むふりをして当然ですよ。」とあります。

 ヨブは、神様に祝福されているから信仰しているふりをしている。それをはっきりさせるためにもと提案するのです。「ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」(1:11) リビングバイブルでは、「試しに、やっこさんの財産を取り上げてみるんですな。きっとあなたをのろいますぜ。」とあります。 サタンは、人間とは、ヨブは、多くのご利益があるから神を信じているのであって、それが失われれば、神をのろうにちがいないと考え、ヨブの財産を取り上げて来ることを提案するのです。神様は、そのことを許しますが、ヨブの体には手を出さないようにというのです。 サタンは、うろついて、人の罪や弱さを指摘し、また、ご利益があるから信じるのであって、それを取り上げることを提案しますが、サタンは、悪魔は、あくまでも、神様の許しの範囲内だけでしか行動できないのです。試練というものは、サタンが仕掛けるものですが、神様の許しがあって初めて起こりうることなのだと思うのです。

 私たちの信仰はどうでしょうか。利益もないのに、ただで神様を信じる者でしょうか。

 

 三、全てを知っておられる神様

 神様の許しを受けたサタンは行動に移します。次から次へとヨブの財産が奪われ、失われます。人の手によるもの、自然現象によるものによって、ヨブは子どもたちと財産を一度に失うことになるのです。サタンが言ったように、ヨブは神様からの恵みや祝福を失ってしまえば、神様を呪うのでしょうか。

 皆さんと共に、1章20節を共に読みましょう。「ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。」 ヨブの悲しみの表現です。全ての物を一度に失ったヨブの悲しみを表しています。 これらの災いは、ヨブの財産が奪われたということだけではなく、その財産を取り戻すことのできる可能性が全くないということを表しています。

 財産や愛する者を失ったのですから、その悲しみは大きいものです。絶望があります。しかし、ヨブはただ絶望しただけではなく、ただ、悲しみに沈んだというのではなく、「地にひれ伏して」とあるように、自分の上に立つ者に敬意を表す、つまり、神様を礼拝したのです。私たちは、ヨブのような立場に立てば、失ったものにのみ心を奪われてしまいます。そして、その悲しみを、苦しみを、嘆きを訴えるのです。しかし、ヨブは、失ったものが回復されるように願って礼拝したのではありませんでした。ただ、神様に悲しみや嘆きを訴えるために礼拝したのではありませんでした。

 21節を共に読みましょう。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 リビングバイブルには、「生まれた時、私は裸でした。死ぬ時も、何一つ持っていけません。私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。」とあります。

 裸一貫で出直そうというのではありません。どうしようもないからと開き直っているのでもありません。全ての良きものが神様が与えて下さったというだけではなく、今、ヨブ自身が経験している辛い出来事、絶望と思える出来事、マイナスさえも、神様の許しの中で起こっているという信仰、どこまでも神様に信頼していくというヨブの信仰が現れているのだと思うのです。ここでヨブは、悲しみの中にありながらも、災いも幸いも一切のことを治めておられる神様、主を告白しているのです。

 ヨブは、「主は奪う。主は取られた。」と言いながら、主がこの災いを許された事を受け入れつつ、認めながら、主と呼んでいるのです。もし、ヨブが、神様が与えて下さるご利益、幸福だけを中心として、それをいただける限りにおいて、神様を信じているとするならば、この時、全ての物を失った時、神様を呪ったに違いないのです。「主は与え、主は奪う。」とヨブは言いました。幸いだけではなく、災い、困難、苦しみ、悲しみ、嘆きさえも、許された主は、主は与え、という主と変わらないお方であると信じたのです。

 ヨブは、自分の命と奥さん以外は全て失われたと思いました。けれども、祝福を与え、災いさえも許される、奪う主との関係、神様がヨブを「わたしの僕ヨブ」と読んで下さる関係、どのような経験をしようとも、苦しみや悲しみがあったとしても、「主の御名はほめたたえられよ。」と言える神様との深い関係が残されていたのです。そして、この関係が、信仰がヨブに回復を与えることになるのです。

 

 Ⅲ結論部

 「生まれた時、私は裸でした。死ぬ時も、何一つ持っていけません。私の持ち物は全部、神様が下さったものです。ですから、神様はそれを取り上げる権利もお持ちです。いつでも、どんな時でも、神様の御名がたたえられますように。」と21節のリビングバイブルの言葉です。「いつでも、どんな時でも」という言葉から今日の説教題を考えました。「どんな時もどんなときも」、楽しい時も幸せな時も、苦しい時も悲しい時も、神様は神様なのです。私たちがどのような経験をしようとも、その背後には神様の守りがあるのです。私たちが経験する苦しみや悲しみ、絶望を神様は知らなかった、ということはないのです。

サタンがどのような策を考えて、私たちを苦しみ、みじめにし、落ち込ませようとしても、そのことを許された神様、その辛い経験をした私を神様は知っていて下さるのです。

 私たちを愛する神様、私たちの罪を赦すために、罪のないお方、イエス様は神の子として人間の世界に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。十字架の上に、両手両足に釘づけされ、頭にはいばらの冠をつけられ、最後の一滴まで私たちのために血を流して下さいました。私たちの罪を赦し、魂の救いのために、イエス様はご自分の命をささげて下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、救いを完成されたのです。そして、私たちに永遠の命、死んでも生きる命を与えて下さったのです。

 サタンが私たちの周りをうろつき、かぎまわろうとも、どんなに罪を指摘し、告発しようとも、イエス様の十字架と復活のゆえに、私たちは神様の前に義とされ、神様がヨブに言われたように、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上には彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている。」と同じように、私たちにも言って下さるのです。

 私たちは、苦しい時も辛い時も、幸せな時も楽しい時も、どんな時も、どんなときもイエス様を信頼して、イエス様にすべてをお委ねして歩みたいと思うのです。この週もイエス様が共におられます。あなたを支えて下さいます。だから、大丈夫。どんな時もイエス様を信じて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2017年7月9日)

2017-07-09 12:46:26 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第四)     2017.7.9

        「神のことばで生きる」  ルカ7:1~10

 

 Ⅰ導入部

 お早うございます。7月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができることを感謝致します。

 九州北部を中心に大雨のために被害が出ており、尊い命が奪われ、私たちは神様の守りがあることを願うばかりです。

 昨日は、柳瀬直人兄の結婚式が横浜みなとみらいでありました。私は結婚式の司式をさせていただきました。20分という時間で、時間との闘いでしたが、結局5分オーバーしてしまいました。聖書の言葉や司式の言葉を読みながら、お二人の祝福を心から願いました。直人兄はわたしの息子と同じ年齢ですから、まさに自分の息子が結婚式を迎えているような、また、披露宴の最後の花嫁の言葉に自分の娘と何か重なり、息子や娘の父親という感じが致しました。お二人のこれからの第二の人生、結婚生活の上に、神様の豊かな恵みと祝福が豊かにありますようにお祈りいただきたいと思います。

 さて、今日は「神のことばで生きる」という題で、ルカによる福音書7章1節から10節を通してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、信仰は神様の言葉を信じることから始まる

 この箇所では、百人隊長に重んじられている部下が病気で死にかかっていたので、イエス様に来ていただくように願ったということです。そして、この百人隊長の信仰をイエス様がベタほめなさったのです。感心された、と聖書は記しています。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と。この百人隊長のイエス様に対する姿勢、信仰に目を留めたいと思うのです。

 マルコによる福音書2章には、中風の人を4人の人が担いできて、イエス様のおられた家の屋根をはがして、中風の人を寝かしている床(とこ)をつり降ろした時、イエス様は4人の人たちの信仰を見て、み業を行われました。4人の中風の人に対する愛とイエス様に対する信仰の姿勢を見てイエス様に、4人の人の信仰が現れたのでイエス様は癒しをなされたのです。また、マルコによる福音書5章には、会堂長ヤイロの娘の病気に対して、ヤイロの「すぐに来て手を置いて祈ってほしい」という父親の子どもに対する愛徒、精一杯の一生懸命の姿に、同行されるということがありました。

 マタイによる福音書15章には、カナンの女性、悪霊にひどく苦しめられている娘の母親の信仰に対して「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」(マタイ15:28)と言われたことがありました。イエス様の彼女を無視する態度にも、厳しい、冷たい言葉にもめげずに、イエス様に娘の癒しを執拗に願った信仰に対してほめられたことがありました。それは、イエス様の目の前での出来事です。

 しかし、この箇所をよく読むと、この百人隊長自身は登場しません。隊長の語った言葉だけが紹介されているのです。この聖書の箇所には、「ひと言おっしゃってください。」と言っただけで、一度も登場しないのに、イエス様は、この百人隊長の信仰をイエス様は褒められたのです。この百人隊長は、イエス様の前にも現れず、会うこともしないで、ただ、彼の言葉が語られ、その百人隊長の言葉に、イエス様は、「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と言われたのです。

 信仰とは、一生懸命に信じる、信仰の姿勢を見せるということもありますが、この百人隊長のように、姿や信仰の姿勢を見せずに、ただ、イエス様の言葉に信頼する、イエス様の言葉を信じることをイエス様ご自身が大いにほめられたということを覚えたいと思います。

 

 二、常識を超えた神様の祝福に預かる者となる

 新共同訳聖書では、部下とありますが、しもべ、奴隷のことです。ローマ法から見れば、奴隷は生ける道具であり、奴隷には何の権利もなかったのです。ですから、多くの奴隷は役に立たなくなれば、見捨てられる。そのような運命でした。

 けれども、この百人隊長は、病人の奴隷のことに心を痛め、何とかしてやりたいと願い、努力するのです。他の百人隊長は、おそらく奴隷の病気には気にも留めない。しかし、彼は、奴隷さえも自分の家族同様に愛し、大切にしたのです。上に立つ者の模範です。今世間を騒がせている恐い議員とは違います。

 先日、大阪桃谷教会で希望誌の編集員会の時、お昼に教会の近くのお好み屋さんに入りました。そこへ、数名のサラリーマンの人が入ってきました。そして、上司の人でしょう。もう、ネチネチと部下をいたぶるのです。特に、一人の人に対してバカにしたり、厳しい言葉でいたぶるのです。それを聞いていて、お好み焼きがぜんぜんおいしくない。最近の部下をいたぶるニュースをしらないのか。このような上司の元では部下は育たないだろうと思い、立ち上がってひと言、「あなたねえ、そんなことでは、あなたの会社は知れている。あなたのような上司では部下は働けない。」と言ってやろうかと思いましたが、心の中で叫びました。

 上に立つ者は、権威で、力で人を動かすのではなくて、この百人隊長のように、奴隷であろうが誰であろうが、肩書や成績で人を判断するのではなく、愛と寛容な態度で接することを私たちは学びたいと思うのです。

 この百人隊長は、奴隷の病気に対して、自ら行くのではなくて、ユダヤ人の長老たちを使いにやり、奴隷を助けていただきたいと頼んだのです。

 ユダヤ人は、自分たちは神様に選ばれた者という自負があり、ユダヤ人以外の人々、異邦人を忌み嫌い、交わることはありませんでした。異邦人を見下し、常に自分たちを上位に考え、上から目線での言葉、態度でした。この百人隊長は、ユダヤ人の長老から見れば異邦人です。しかし、ユダヤ人の長老たちは、百人隊長の願いを聞き、イエス様のところに使いとしてやって来て、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言いました。ユダヤ人と異邦人との良い関係が記されているのです。何事にも例外はあります。ユダヤ人と異邦人は関係が悪いというのが常識です。しかし、ここでは違うのです。麗しい関係があったのです。

私たちの世界は中に悪い関係があり、犬猿(けんえん)の仲、この関係は修復できないということがあります。私たちにも、そのような関係があるかも知れません。けれども、私たちは神様の愛を知った者、経験した者として、この百人隊長のように例外を作る者でありたいと思うのです。

 

 三、ふさわしくない者がふさわしい者にされる神様の愛

 4節で、ユダヤ人の長老たちは、ローマの百人隊長のことを「そうしていただくのにふさわしい人です。」と言いました。自分たち、ユダヤ人のために自費で会堂を建ててくれ、ユダヤ人を大切にしているから、ふさわしい人と言っているのでしょう。資格があるというのです。ここには、人間の基準、この世の基準があります。この百人隊長は、ふさわしいから、資格があるから彼の部下、奴隷を助けてもらえるのだというのです。これは、

ユダヤ人たちが日頃から、自分たちは、神の前に律法を守り、律法を実行しているから選民としてふさわしい、救われる資格があると考えていたのです。

 ところが、当の百人隊長はユダヤ人の長老たちの見方とは違うのです。7節を共に読みましょう。「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」 彼は、自分の事を「ふさわしくない。資格がない。」と言っているのです。

 勿論、ユダヤ人の長老たちが、百人隊長をふさわしい人と言うように、彼は、人格的にも、仕事の面でも、人間性においても、宗教的にも素晴らしい人であったでしょう。おそらく、誰もが認めるところでした。けれども、当の本人は、自分はふさわしい人間ではない。資格のない人間であるというのです。それは、イエス様を自分の家にむかえることができるような人間ではない。周りの人が言うような、善行や会堂建築、人がりっぱだと思えるようなことをしても、それが、イエス様の前では、神様の前では何の役にも立たないこと、全能なるお方、聖なるお方の前では、自分は罪人に過ぎない。弱い、何もできない人間でしかない。ふさわしくない者であることを彼は自覚していたのです。

 ここには、ユダヤ人の長老たちのように、自分たちはふさわしい、資格がある、救われる資格がある、天国へ行ける資格があるという生き方と自分には資格がないとふさわしくないと認めつつも、イエス様に信頼する百人隊長のような生き方があるのです。私たちは、どちらでしょうか。聖書をちゃんと読んでいる。祈りを毎日ささげている。献金をしている。礼拝を守っている。伝道している。今日は、ギデオンの証しがありますが、聖書を配布している。だから、ふさわしい、資格があるのでしょうか。私たちは、神様の前には、罪人でしかないのです。人間の努力やがんばりでは救われないのです。頑張っているから救われる資格があるのではないのです。何の資格もない。ふさわしくない私のために、罪のないお方、清い神であるお方、イエス・キリスト様が人となって、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって、尊い血を流し、裁かれ、命をささげて下さり、死んで葬られ、三日目によみがえられたので、私たちの罪が赦され、魂が救われ、永遠の命が与えられたのです。私たちが救われる価値があるから、救われる資格があるから、ふさわしいからイエス様が十字架で裁かれたのではなくて、何のふさわしいものが全くない者、資格のない者のためにイエス様が私たちの身代わりに苦しみ、裁かええ、命をささげて下さったおかげで、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の全ての罪が赦され、清められて、イエス様が死んでよみがえられたので、裁きを受けて死んでしまうような私たちが、死んでも生きる永遠の命が与えられたのです。私たちの救いの根源は、イエス様の十字架と復活のゆえなのです。

 Ⅲ結論部

 百人隊長は、自分には資格がない。ふさわしくない者だけれども、イエス様に信頼するのです。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と。

 新改訳聖書では、「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」とあります。 リビングバイブルには、「どうか、お言葉を頂(いただ)きとうございます。そうすれば、わたしのしもべはきっと治ります。」とあります。

 百人隊長は、イエス様のお言葉をいただくだけで、しもべが必ず治ると信じたのです。

 彼は、イエス様の言葉の力、神様の言葉の力、権威を信じたのです。勿論、私たち人間のことばにも力があります。落ち込んでいる人、悲しんでいる人を言葉で慰め、言葉を通して励ますことができます。逆に言葉で人を悲しませたり、絶望に追い込んだり、殺すことも可能でしょう。まして、嵐に向かって、「黙れ、静まれ」と言われれば、嵐が一瞬にして静まるイエス様の言葉、死んで四日もたった墓の中にいるラザロに向かって、「ラザロよ出てきなさい」、言われたらラザロが出てきたという言葉、「光あれ」という言葉に光が存在する神様の言葉には権威があり、力があり、信頼するのに値するものがあるのです。

 私たちは、自分の言葉や人の言葉に左右されます。そのように、時と場合によってころころと変わる人間の言葉によって生きます。百人隊長のように、昔も今も変わることのない神様の言葉、イエス様の言葉に信頼しますか。考えなくても答えは出ているのです。

 私たちの周りには不安定な事、悲しい事、辛い事、絶望を感じることと、多くのマイナスを与えることに囲まれています。けれども、大丈夫です。イエス様は十字架と復活を通して救いを完成し、私たちと共におられ、私たちの歩みを祝福して下さるのです。

 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)

「わたしのことばも同じだ。送り出せば必ず実を結ぶ。わたしの望みどおりのことをし、
送られた先々で大きな影響を及ぼす。」(リビングバイブル)

 私たちは、この週も、神様の言葉、イエス様の言葉に期待し、信頼しましょう。お言葉をください、と聖書に触れて、資格のない者に、ふさわしくない者を恵み、祝婦して下さるイエス様の言葉を信頼して、歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2017年7月2日)

2017-07-02 12:36:35 | Weblog

        日曜礼拝(三位一体後第三)     2017.7.2

        「金と共に去りぬ」  ルカ18:18~30

 

 Ⅰ導入部

 お早うございます。7月を迎えました。夏を前に梅雨の中にありますが、この月も礼拝を通して神様を賛美し、神様のみ言葉をいただき、み言葉に立って、喜びと感謝と共に神様と共に歩ませていただきたいと思うのです。

 先週は、杉田政志先生がメッセージを語って下さいました。私も第三礼拝を通して、み言葉をいただき、大きな慰めをいただきました。愛の実践と感謝の実践を実行し続けたいと思わされました。今日は、皆さんがいつもよりは笑顔で迎えていて下さるように思います。杉田先生が笑顔で迎えてあげて下さいと言っておられたからでしょうか。

 私は、先週、現在牧師不在の浦和教会で礼拝を守り、メッセージを語らせていただきました。牧師不在の中で、懸命にみ言葉を聞いておられる浦和教会の信徒の皆さんの姿勢に大きな励ましをいただきました。困難や苦しみは、神様への思いを強くします。牧師がいないという緊急事態の中で、毎週語られるみ言葉を懸命に聞き、自分たちの教会と信徒の方々のために祈られていることを感謝し、み言葉と祈りに生きておられる浦和教会と信徒の方々のために祈り続けたいと思うのです。

 今日は、ルカによる福音書を通して、「金と共に去りぬ」という題でお話し致します。

 「風と共に去りぬ」というのがありますが、マーガレット・ミッチャムの長編時代小説です。南北戦争という風と共に、当時絶頂期にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え去ったことを意味しているものです。

この小説は1939年に映画として公開され、スカーレット・オハラという女性の半生描いています。この小説や映画を知っている方々は古い人ですが、聖書には、「金と共に去りぬ」とイエス様の前を去って行った人の話があります。

 

 Ⅱ本論部

 一、信じる者は救われるのです

 今日登場する人を聖書は、議員と紹介します。平行箇所のマタイによる福音書では、「青年」と紹介し、マルコによる福音書では「ある人」と紹介しています。ですから、この人は、青年であり、金持ちであり、議員であり、イケメンで背が高く、金があり、それなりの地位があったのですから、お婿さんにするには、もってこいの人物であったということです。また、律法も小さい時からみな守っているというのですから、真面目で、一生懸命な人であったのです。人がうらやむような全てのものを持ち、人格的にも、社会的にも、宗教的にも、この世的にも祝福された人物、幸せな人生を送っていた人でありました。悩みなど何もないのではないかと思われる議員であったのですが、彼にも悩みがあったのです。どんなに幸せに見える人にも、問題や悩みはあるのです。その悩みを問題をイエス様のもとに持っていくということはとても大事な事です。イエス様は言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 私たちは、この一週間の間で、傷ついたり、疲れたり、落ち込んだりしたのだと思うのです。そして、礼拝を通して、イエス様の所に来て、イエス様のもとに重荷をおろしたいと思うのです。イエス様は私たちを休ませて下さるのです。

 彼は、その事の解決のために、イエス様の所に来たのです。マルコによる福音書では、「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。」(マルコ10:17)とあります。金もあり、地位もある彼が、人の前にひざまずくということはあまりないことでしょう。イエス様の前に、彼はひざまずいて尋ねるのです。「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と。彼は、「善い先生」とイエス様をよいしょしました。律法学者や議員たちは、律法以外に善いという言葉を使わなかったと言われていますので、イエス様にリップサービスをしました。イエス様は、彼の心を見抜いて、善いお方は、「神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」と言いつつ、今その神なるお方が彼の前にいるのです。

 イエス様は、彼に十戒の内容を示します。彼は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と言い切ったのです。行いで自分の正しさを示して来たのです。そこに問題がありました。私たちも、聖書を読む、祈る、礼拝を守る、献金する、奉仕する、というように行いが自分の信仰の正しさを示すものだと思っていないでしょうか。救いの確信をそのような行いで測っていることはないでしょうか。

 

 二、だめだからこそイエス様に信頼しよう

 イエス様は、この議員の問題を見抜き、語られるのです。22節を共に読みましょう。「これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」」 子どもの時から律法を完全に守っていると自負している議員に、イエス様は欠けているものが一つある、というのです。人生を完璧に生きてきた。不足するもの、欠けているものなど何もないという人生を送って来た。ただ、永遠の命の確信がない、ということで、何をしたら永遠の命を受け継げるかと問うた、彼には、欠けているものがあるのだとイエス様は言われたのです。

 「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」ということにおいて、欠けがあると指摘されました。彼にとっては、予想もしないことでした。彼は大金持ちです。その金を自分のために使ってきたでしょう。けれども、そのお金を貧しい人々のために使ってこなかった。使わなかったのです。口語訳聖書では、「あなたのする事がまだ一つ残っている。」と表現しています。「すべきことがある」というのです。

 彼は、律法は完全に守っていると言い切りました。しかし、律法の中には、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)と、隣人を愛することを教えています。イエス様は、ルカによる福音書10章で、律法の専門家が京今日の箇所と同じように、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という質問に対して、イエス様が律法をどう読んでいるか、という質問に、律法の専門家は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」と答えて、正しい答えなので、実行しなさいと言われ、わたしの隣人とは誰ですか、という質問に、善いサマリア人のたとえをされたのでした。

 律法の専門家も議員も、「隣人を自分のように愛しなさい。」という律法は知っていても、隣人をユダヤ人だけに限定したり、その教えを「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」という教えの中には、入ってはいなかったのです。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」というのは、隣人を愛するということなのです。

 この議員は、イエス様に「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われて、「あなたのする事がまだ一つ残っている。」ということをすることができない自分を知るのです。23節を共に読みましょう。「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」 金持ちであるというのは、神様の祝福でしょう。神様からの祝福をいただきながら、その祝福が祝福とはならずに、非常な悲しみとなったのです。持っているということが、祝福されているということが妨げになったのです。

 

 三、私の救いのためにイエス様が代価を払った

 この箇所を読んで、私たちも、「そんなことはできないよな」と思われることでしょう。持ち物を全部売り払えなんて誰にもできはしません。イエス様は、議員の持ち物全部を売り払うということ、そのことを望まれたのでしょうか。そうではないと思うのです。それは誰にもできない事なのです。本当は、律法を全て守るということも誰にもできないことです。また、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という質問そのものも間違っているのです。求め方自体が問題なのです。だから、イエス様は、彼の求めていることが自分の力で、才能で、努力でできるということをぶち壊して、できない自分を知らせることだったのです。できない自分を知り、イエス様に信頼すること、イエス様に助けを求めることなのです。彼は「ひざまずいて尋ねた。」とあります。永遠の命を受け継ぐにはどうしたらいいか、知りたかった。ぜひ、獲得したかった。それがないばかりに、不安な毎日を送っていたのです。全ての物を持ちながらも幸せではなかったのです。

 なのに、彼は、自分に絶望して、あきらめて、去って行ったのです。「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」とあるように、この議員は、金と共に去って行ったのです。目の前に、永遠の命を与えて下さるお方がいるのに、救いを与えて下さるお方がいるのに、神様の祝福、お金持ちという祝福が、彼の救いを妨げたのです。本末転倒なのです。イエス様は言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろう」(ルカ9:25) マルコによる福音書には、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マルコ8:36)とあります。ここでいう命は永遠の命のことです。

 私たちが永遠の命を得るために、イエス様が十字架で代価を支払って下さったのです。私たちは、罪ある者なのです。ですから、自分の罪を認めて、その罪のために、身代わりに十字架にかかって、尊い血潮を最後の一滴まで流し、命をささげて下さった。死ぬという代価を支払われ、死んでよみがえられたので、私たちの罪が赦され、魂が救われ、永遠の命が与えられたのです。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と議員は問いましたが、行いではなく、イエス様の十字架と復活を自分のためだと感謝して受け入れればいいのです。自分で自分を救えないのですから、イエス様に助けていただくのです。

 Ⅲ結論部

 イエス様は、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言われました。財産があることが問題ではありません。富が偶像になっている事、与えられた富という神様からの祝福を自分のためにだけに使うことが問われているのだと思うのです。

当時は、お金持ちは神様からの祝福をいっぱい受けている人、祝福されている人だと考えられていました。ですから、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言われて弟子たちは、とても驚いたのです。そのような弟子たちに、イエス様は、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われたのです。 

 罪深い私、救われるはずがないと自分で思っている者をイエス様は救って下さるのです。見捨てられて当然だと思う私を見捨てられないお方なのです。ご自分の血を流し、命まで私たちのために、一人ひとりのためにささげられたイエス様は、私を救い、あなたを救い、罪を赦し、魂を救い、永遠の命を与えて下さるのです。

 私たちは、自分を見る時に絶望します。自分の抱えている課題や問題を思う時、苦しみます。苦しい、悲しい現実に絶望します。でも大丈夫です。「人間にはできないことも、神にはできる」のですから、あなたの問題を、課題を解決し、あなたを祝福して下さるのです。

 私たちは、今日イエス様の前にいます。あの議員のように金と共に去るのではなく、仕事と共に去るのでもなく、この世の何かと共に去るのではなく、できない自分、罪ある自分、どうしようもない自分を認めて、イエス様にすべてをお委ねしましょう。重荷をイエス様のもとにおろしましょう。イエス様が休みを与えて下さるのです。解決して下さるのです。与えられた祝福が恵みの妨げにならないように、与えられた祝福を共に分かち合いたいと思うのです。この週も、イエス様が共におられます。イエス様があなたを支えます。

 イエス様のみ言葉に支えられて、イエス様と共にこの週も歩んでまいりましょう。

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