日曜礼拝(三位一体後第18) 2019.10.20
「人生の真夜中に起こること」 使徒言行録16章25節~34節
Ⅰ導入部
おはようございます。10月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。
先週は、台風19号のために、関東、東北地方は甚大な被害を受けました。尊い命が失われ、家屋や生活に必要なものを失われた多くの方々がおられ、自分の家に戻れないで、避難所での生活を強いられている方々が多くおられるのです。私たちは、神様のお守りとお助けがありますようにと祈ると同時に、私たちにできることを喜んで、自発的にさせていただきたいと思います。
台風の被害のニュースの映像を見るたびに心が痛みます。悲しい思いでいっぱいになります。しかし、先週の日曜日の夜のラグビーの試合では、慰めと勇気が与えられたのではないでしょうか。日本と強豪スコットランドとの試合です。史上初4連勝で、決勝ラウンドに進んだのです。勝利のインタビューで、選手たちは、被災地の方々に勇気を与えることができたたらうれいしです、と言われていました。ラグビーの選手は、ラグビーの試合を通して、被災地で悲しみ、落ち込んでいる人々に勇気と励ましを与えたのです。
釜石では、ラグビーの試合が中止になったカナダのラグビーの選手たちが、被災された方々のためにボランティアをしておられました。試合で勇気を与えられる選手たちが、試合が中止になったがゆえに、彼らはボランティアを通して仕えたのです。被災された方は、カナダの選手が手伝ってくれて、本当にうれしいと言っておられました。普通のボランティアの人々の奉仕もうれしいけれども、ラグビーの選手たちの奉仕はもっとうれしいのです。2019年の10月の台風19号の被害は釜石の人々に絶望を与えました。しかし、一方2019年の10月のラグビー選手のボランティアの働きは、釜石の人々の魂に、忘れられないものとなったはずです。同じように、イエス様の十字架と復活は、私たちに救いの恵みと復活の望みを与えて下さったのです。私たちには、イエス様の十字架と復活は忘れられないものなのです。
今日は、使徒言行録16章25節から34節を通して、「人生の真夜中に起こること」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、聖霊に導かれていても
今日の箇所は、フィリピで出来事です。16章の初めには、アジア州で御言葉を語るのを聖霊に禁じられ、ビティニア州に入ることをイエスの霊が許さなかったことを語っています。そして、パウロは幻の中で、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(16:9)という導きを受け、マケドニア州の第一区の都市、フィリピにやって来て、リディアと家族が洗礼を受けるというまさに、聖霊の導きの確かな働きがなされたのです。
けれども、占いの霊に取りつかれている女奴隷の霊を追い出したために、女奴隷によって金儲けをしていた主人たちは、パウロとシラスを偽りの事柄で訴え、無実の罪でありましたが、何度も鞭で打たれ、牢に入れられ、看守に厳重に見張られることになったのです。
パウロとシラスは、聖霊の導きに従って行動しました。全てが聖霊の導きでした。しかし、パウロとシラスはひどい目に遭いました。パウロとシラスは、聖霊に逆らったので、聖霊に従わなかったので、ひどい目に遭ったのでしょうか。そうではありません。聖霊の導きで、フィリピの町へ来て、聖霊の導きでリディアと家族が救われたのです。しかし、聖霊の導きの中であっても、誤解されたり、無実の罪で鞭打たれたり、牢獄に入れられてしまうということもあるということではないでしょうか。
私たちは、聖霊に導かれていたら、全てが良き実を結ぶ。しかし、聖霊に従わないと問題が起こり、辛い経験をするというように考えてしまうのではないでしょうか。しかし、パウロとシラスは聖霊に導かれながらも、聖霊に従いながらも、苦しい経験をしたのです。パウロは、神様を第一とし、聖霊に導かれて宣教の働きをしました。しかし、彼は多くの苦しみや痛みを経験しました。それは、パウロが聖霊に導かれないで宣教したわけではありません。聖霊に導かれながらも、主が共におられるのにもかかわらず、苦しみや痛みを経験したのです。勿論、聖霊に従わないゆえに苦しみを経験することはあるのです。それは確かな事です。しかし、聖霊に従いながらも、苦しみは確かにあるのです。
私たちも聖霊に導かれて、聖霊に従って祝福や成功を経験することがあります。しかし、私たちが、神様を第一とし、聖霊と共に歩み、聖霊に従って歩んでいても、苦しみや悲しみ、失敗や理不尽な経験をするということを聖書は語っているのだと思うのです。
二、神様をどこまでも信頼する者に賛美と祈りがある
25節を共に読みましょう。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」新改訳聖書には、「祈りつつ賛美の歌を歌っていると」とあります。口語訳聖書には、「神に祈り、さんびを歌いつづけた」とあります。
パウロとシラスは、賛美の歌を歌って、神に祈ったと聖書は語ります。賛美の歌と共になされる祈りとは、無実の罪で、偽りの証言で捕らえられ、鞭打たれたという状況の中で、悲壮感漂う祈りではなくて、主に信頼するゆえに不思議な平安があり、感謝が与えられたということでしょう。しかし、パウロとシラスは理不尽に扱われた事柄を最初から前向きにとらえ、感謝し、賛美の歌を歌い、祈ったのでしょうか。私は、賛美の歌を歌い、祈りをしたことは事実ですが、最初から賛美の歌を本当に歌えたかどうか疑問です。
聖霊に導かれてフィリピの町に来て、リディアと家族が救われ、聖霊の導きを強く感じた。占いの霊に取りつかれた女奴隷から霊を追い出して、女奴隷から感謝されたでしょうが、主人たちからは、儲けがなくなり、恨みを買った。鞭打たれ、牢に入れられた彼らは、聖霊の導きを強く感じたというよりは、「えっ、あれっ」というように、神様に従った自分たち、聖霊に導かれて歩んでいる自分たちの身に起こる苦しいことやいやなことを理解できないでいたのではないでしょうか。「どうして、なぜ」という思いが、心を支配していたのではないでしょうか。人間として、苦しみやいやな事を経験すると神様に対しても否定的になりやすいものだと思うのです。そのような中で神様を見失うと、神様から目を離すと、私たちは下を向き、自分の経験した苦しみや悲しみだけに目を留めるようになってしまうのだと思うのです。
しかし、パウロとシラスは、自分たちが聖霊に導かれながらも、思いもよらなかったような苦しみを経験し、肉体的に痛みを受けた時、神様から、イエス様から、聖霊様から目を話さなかったということだと思うのです。肉体的に、ずきずきとうづく。これは、肉体を持つ者として当然です。聖霊に導かれていたら痛みなど感じないということはないのです。勿論、神様の憐れみで痛みが最小限になるという事はあるでしょう。三浦逸子姉は、金曜日に右手首の手術を全身麻酔でされました。主のお守りがありますようにと、手術の前も、手術後も、バザーの準備に来ておられた方々と心を合わせて祈りました。しかし、三浦姉は、全身麻酔の影響で、吐き気がして、相当な痛みがあったようです。三浦姉が聖霊に導かれていなかったからでしょうか。祈った私たちが、聖霊を無視したからでしょうか。そんなことはありませえん。聖霊が手術の中に介入して下さるように、介入して下さったと信じて祈りました。聖霊様は、イエス様は、父なる神様は共におられました。しかし、三浦姉は大変な痛みを経験したのです。私たちは、肉体を持つ限り痛みと闘うのです。
パウロもシラスもそうです。しかし、彼らは現状だけに、痛みや苦しいことだけに目を留めませんでした。現実をも見つつ、聖霊様を意識していたのです。聖霊の導きを感じていたのです。聖霊が共におられることを信じたのです。ですから、疑いやマイナス思考にだけ心奪われるのではなくて、聖霊の導きで、賛美の歌を歌い、神様に祈りをささげることができたのです。「私たちの今の現状は痛いです。辛いです。厳しいです。しかし、あなたは私たちと共におられ、このことを益にして下さることを信じます。そして、感謝します。」とパウロとシラスは感謝の賛美と祈りをささげ続けることができたのではないでしょうか。
三、神様は救おうと思う者を救われる
牢獄という中では、常に否定的な言葉、憎しみや恨みの言葉、悪に満ちた言葉が蔓延している場所です。そのようなマイナスに満ちた場所において、神様に向かって歌う賛美と感謝の祈りは、囚人たちの心をとらえたのです。パウロとシラスの賛美と祈りに聞き入っていたのです。この聞くということばは、「何が語られているのか注意して聞く」というような意味があるようです。ですから、パウロとシラスが何度も鞭打たれた、その姿を見ていた囚人たちが、苦しみながらも痛めつけながらも、下を見るではなく、顔をあげて、神様に向かってささげる賛美の歌と祈りを、パウロとシラスの口から何が語られているのかを注意して聞いていたというのです。パウロとシラスは、足は足かせで、両手は鎖でつながれていましたが、その心はつながれていなかったのです。その心は神様に向けられていたのです。
パウロとシラスの賛美と祈りは、牢獄という人間的に見て最低の場所、最悪の場所にあっても、神様のみ業に花が咲くのです。私たちが、どのような苦しみや悲しみ、最低を、最悪を経験しようとも、神様に向けられた心、神様を信じる信仰を通して、苦しみがただの苦しみ、痛みがただの痛みでは終わらないのです。神様に向けられた心には、賛美と祈り、神様への感謝と期待を生み出す力があるのだと思うのです。
そのようなパウロとシラスの思いを、信仰を神様が受け取られたかのように、大地震が起こり、牢獄の戸がみな開き、全ての囚人たちの鎖も外れてしまったのです。看守は、牢の戸が全て開いていたので、囚人が全員脱走したと思い、自殺しようとしたのです。自分の仕事に忠実であったのです。パウロは、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫びました。看守は、牢の戸が全て開いているのにも驚きましたが、そのような状況で囚人が誰一人逃亡していない事にも驚きました。ですから、明かりを持って来て、牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏したのです。
おそらく、パウロとシラスの賛美と祈りの声は看守にも聞こえていたことでしょう。鞭で何回も打たれ、痛みと苦しみの中で、「賛美や祈りなんかして!」と思ったことでしょう。その讃美の歌と祈りに囚人たちが聞き入っていたことも不思議に思ったことでしょう。地震が起こり、牢の戸がみな開き、囚人たちの鎖が外れた。しかし、誰も逃げていない。一つ一つの事柄を考えると、看守は恐ろしくなったのです。人間の思いを遥かに超えた何かが、確かに今目の前で起こっているのです。
看守は、パウロとシラスを外に連れ出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 看守にとっては、パウロとシラスは囚人です。しかし、彼は二人を先生方と言いました。先生方というのは、直訳すると「主たち」となるそうです。人間に対しての最高の尊敬の言葉のようです。今の看守にとって、パウロとシラスは最高に尊敬を払う人なのです。看守は、「救われるためにはどうすべきでしょうか。」と言いました。自分が救われなければならない、ということを自覚していたということです。その言葉にパウロとシラスは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
と言いました。主イエス様を信じるとは、何を信じるかというと、神であるお方、イエス様が人間となられ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって血を流して下ったこと、そして、命をささげられたこと、つまり、死んで下さったこと。墓に葬られたけれども、三日目によみがえって、私たちにも永遠の命、復活の命を与えて下さったことを信じるということです。そうすれば、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられ、永遠の命、天国の望みが与えられるのです。看守はイエス様の十字架と復活を信じ、イエス様を救い主として受け入れ救われたのです。そして、彼の家族も救われたのです。私たちも主イエス様を信じることで罪が赦され、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命が与えられるのです。素直に信じて受け入れたいと思うのです。
Ⅲ結論部
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」というのは、家族で誰かが一番先に救われたら、自動的に家族が救われるという意味ではありません。イエス様を信じて、イエス様を第一にして生きるという事です。イエス様を第一にして生きるとは、自分にとって、大切な、愛する夫、妻、子ども、親をイエス様にお委ねして生きるということです。愛する家族の事は、勿論、祈りに覚えますが、神様にお任せするのです。そして、そこに神様が、聖霊が働かれるということなのです。
パウロとシラスは、聖霊の導きを感じながらも、無実の罪で何度も鞭打たれ、囚人として牢獄に入れられました。宣教の観点から見ると、遠回りしたような、寄り道をしたようにも見えますが、そこに、神様のみ業が起こったのです。牢獄の看守には、囚人にならなければ、出会わない人です。どのような理由であれ、パウロとシラスが囚人として牢獄に入ることによってパウロとシラスが、苦しみに、痛みに会いながらも、現実だけに目を留めるのではなく、顔をあげて、神様を見つめて、困難の中にも聖霊の導きを信じながら、この苦しみも痛みも無駄になることなく、神様のみ業があると信じて賛美の歌を歌い、祈りをささげた、その事から神様はみ業を起こし、看守と家族を救われたのです。そこにいた囚人たちにも神様のみ業を見せられたのです。
私たちの人生においても、神様に従いながらも、聖霊が共におられ、聖霊に導かれながらも人生の真夜中というべき、苦しみや悲しみ、絶望を経験することがあります。しかし、どのような事も益になさる神様、マイナスをプラスに変えて下さる神様が私たちの信じる神様です。人生の真夜中と思われるべき苦しみや悲しみ、絶望を通しても、神様は驚くべき神様の業、奇蹟、恵みを与えて下さるのです。たとえ、あなたが人生の真夜中を経験していようとも大丈夫です。イエス様はあなたと共におられ、信じる者に答えて下さるのです。ですから、苦しみや悲しみ、痛みは辛い事ですが、神様はそれらのことを通しても、神様ご自身のみ業を見せて下さるのです。そのことを信じて、イエス様に目を留めて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。