江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年10月20日)

2019-10-20 12:32:09 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第18)    2019.10.20

人生の真夜中に起こること」 使徒言行録16章25節~34節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 先週は、台風19号のために、関東、東北地方は甚大な被害を受けました。尊い命が失われ、家屋や生活に必要なものを失われた多くの方々がおられ、自分の家に戻れないで、避難所での生活を強いられている方々が多くおられるのです。私たちは、神様のお守りとお助けがありますようにと祈ると同時に、私たちにできることを喜んで、自発的にさせていただきたいと思います。

 台風の被害のニュースの映像を見るたびに心が痛みます。悲しい思いでいっぱいになります。しかし、先週の日曜日の夜のラグビーの試合では、慰めと勇気が与えられたのではないでしょうか。日本と強豪スコットランドとの試合です。史上初4連勝で、決勝ラウンドに進んだのです。勝利のインタビューで、選手たちは、被災地の方々に勇気を与えることができたたらうれいしです、と言われていました。ラグビーの選手は、ラグビーの試合を通して、被災地で悲しみ、落ち込んでいる人々に勇気と励ましを与えたのです。

 釜石では、ラグビーの試合が中止になったカナダのラグビーの選手たちが、被災された方々のためにボランティアをしておられました。試合で勇気を与えられる選手たちが、試合が中止になったがゆえに、彼らはボランティアを通して仕えたのです。被災された方は、カナダの選手が手伝ってくれて、本当にうれしいと言っておられました。普通のボランティアの人々の奉仕もうれしいけれども、ラグビーの選手たちの奉仕はもっとうれしいのです。2019年の10月の台風19号の被害は釜石の人々に絶望を与えました。しかし、一方2019年の10月のラグビー選手のボランティアの働きは、釜石の人々の魂に、忘れられないものとなったはずです。同じように、イエス様の十字架と復活は、私たちに救いの恵みと復活の望みを与えて下さったのです。私たちには、イエス様の十字架と復活は忘れられないものなのです。

 今日は、使徒言行録16章25節から34節を通して、「人生の真夜中に起こること」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、聖霊に導かれていても

 今日の箇所は、フィリピで出来事です。16章の初めには、アジア州で御言葉を語るのを聖霊に禁じられ、ビティニア州に入ることをイエスの霊が許さなかったことを語っています。そして、パウロは幻の中で、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」(16:9)という導きを受け、マケドニア州の第一区の都市、フィリピにやって来て、リディアと家族が洗礼を受けるというまさに、聖霊の導きの確かな働きがなされたのです。

 けれども、占いの霊に取りつかれている女奴隷の霊を追い出したために、女奴隷によって金儲けをしていた主人たちは、パウロとシラスを偽りの事柄で訴え、無実の罪でありましたが、何度も鞭で打たれ、牢に入れられ、看守に厳重に見張られることになったのです。

 パウロとシラスは、聖霊の導きに従って行動しました。全てが聖霊の導きでした。しかし、パウロとシラスはひどい目に遭いました。パウロとシラスは、聖霊に逆らったので、聖霊に従わなかったので、ひどい目に遭ったのでしょうか。そうではありません。聖霊の導きで、フィリピの町へ来て、聖霊の導きでリディアと家族が救われたのです。しかし、聖霊の導きの中であっても、誤解されたり、無実の罪で鞭打たれたり、牢獄に入れられてしまうということもあるということではないでしょうか。

 私たちは、聖霊に導かれていたら、全てが良き実を結ぶ。しかし、聖霊に従わないと問題が起こり、辛い経験をするというように考えてしまうのではないでしょうか。しかし、パウロとシラスは聖霊に導かれながらも、聖霊に従いながらも、苦しい経験をしたのです。パウロは、神様を第一とし、聖霊に導かれて宣教の働きをしました。しかし、彼は多くの苦しみや痛みを経験しました。それは、パウロが聖霊に導かれないで宣教したわけではありません。聖霊に導かれながらも、主が共におられるのにもかかわらず、苦しみや痛みを経験したのです。勿論、聖霊に従わないゆえに苦しみを経験することはあるのです。それは確かな事です。しかし、聖霊に従いながらも、苦しみは確かにあるのです。

 私たちも聖霊に導かれて、聖霊に従って祝福や成功を経験することがあります。しかし、私たちが、神様を第一とし、聖霊と共に歩み、聖霊に従って歩んでいても、苦しみや悲しみ、失敗や理不尽な経験をするということを聖書は語っているのだと思うのです。

 

 二、神様をどこまでも信頼する者に賛美と祈りがある

 25節を共に読みましょう。「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」新改訳聖書には、「祈りつつ賛美の歌を歌っていると」とあります。口語訳聖書には、「神に祈り、さんびを歌いつづけた」とあります。

 パウロとシラスは、賛美の歌を歌って、神に祈ったと聖書は語ります。賛美の歌と共になされる祈りとは、無実の罪で、偽りの証言で捕らえられ、鞭打たれたという状況の中で、悲壮感漂う祈りではなくて、主に信頼するゆえに不思議な平安があり、感謝が与えられたということでしょう。しかし、パウロとシラスは理不尽に扱われた事柄を最初から前向きにとらえ、感謝し、賛美の歌を歌い、祈ったのでしょうか。私は、賛美の歌を歌い、祈りをしたことは事実ですが、最初から賛美の歌を本当に歌えたかどうか疑問です。

 聖霊に導かれてフィリピの町に来て、リディアと家族が救われ、聖霊の導きを強く感じた。占いの霊に取りつかれた女奴隷から霊を追い出して、女奴隷から感謝されたでしょうが、主人たちからは、儲けがなくなり、恨みを買った。鞭打たれ、牢に入れられた彼らは、聖霊の導きを強く感じたというよりは、「えっ、あれっ」というように、神様に従った自分たち、聖霊に導かれて歩んでいる自分たちの身に起こる苦しいことやいやなことを理解できないでいたのではないでしょうか。「どうして、なぜ」という思いが、心を支配していたのではないでしょうか。人間として、苦しみやいやな事を経験すると神様に対しても否定的になりやすいものだと思うのです。そのような中で神様を見失うと、神様から目を離すと、私たちは下を向き、自分の経験した苦しみや悲しみだけに目を留めるようになってしまうのだと思うのです。

 しかし、パウロとシラスは、自分たちが聖霊に導かれながらも、思いもよらなかったような苦しみを経験し、肉体的に痛みを受けた時、神様から、イエス様から、聖霊様から目を話さなかったということだと思うのです。肉体的に、ずきずきとうづく。これは、肉体を持つ者として当然です。聖霊に導かれていたら痛みなど感じないということはないのです。勿論、神様の憐れみで痛みが最小限になるという事はあるでしょう。三浦逸子姉は、金曜日に右手首の手術を全身麻酔でされました。主のお守りがありますようにと、手術の前も、手術後も、バザーの準備に来ておられた方々と心を合わせて祈りました。しかし、三浦姉は、全身麻酔の影響で、吐き気がして、相当な痛みがあったようです。三浦姉が聖霊に導かれていなかったからでしょうか。祈った私たちが、聖霊を無視したからでしょうか。そんなことはありませえん。聖霊が手術の中に介入して下さるように、介入して下さったと信じて祈りました。聖霊様は、イエス様は、父なる神様は共におられました。しかし、三浦姉は大変な痛みを経験したのです。私たちは、肉体を持つ限り痛みと闘うのです。

パウロもシラスもそうです。しかし、彼らは現状だけに、痛みや苦しいことだけに目を留めませんでした。現実をも見つつ、聖霊様を意識していたのです。聖霊の導きを感じていたのです。聖霊が共におられることを信じたのです。ですから、疑いやマイナス思考にだけ心奪われるのではなくて、聖霊の導きで、賛美の歌を歌い、神様に祈りをささげることができたのです。「私たちの今の現状は痛いです。辛いです。厳しいです。しかし、あなたは私たちと共におられ、このことを益にして下さることを信じます。そして、感謝します。」とパウロとシラスは感謝の賛美と祈りをささげ続けることができたのではないでしょうか。

 

 三、神様は救おうと思う者を救われる

 牢獄という中では、常に否定的な言葉、憎しみや恨みの言葉、悪に満ちた言葉が蔓延している場所です。そのようなマイナスに満ちた場所において、神様に向かって歌う賛美と感謝の祈りは、囚人たちの心をとらえたのです。パウロとシラスの賛美と祈りに聞き入っていたのです。この聞くということばは、「何が語られているのか注意して聞く」というような意味があるようです。ですから、パウロとシラスが何度も鞭打たれた、その姿を見ていた囚人たちが、苦しみながらも痛めつけながらも、下を見るではなく、顔をあげて、神様に向かってささげる賛美の歌と祈りを、パウロとシラスの口から何が語られているのかを注意して聞いていたというのです。パウロとシラスは、足は足かせで、両手は鎖でつながれていましたが、その心はつながれていなかったのです。その心は神様に向けられていたのです。

 パウロとシラスの賛美と祈りは、牢獄という人間的に見て最低の場所、最悪の場所にあっても、神様のみ業に花が咲くのです。私たちが、どのような苦しみや悲しみ、最低を、最悪を経験しようとも、神様に向けられた心、神様を信じる信仰を通して、苦しみがただの苦しみ、痛みがただの痛みでは終わらないのです。神様に向けられた心には、賛美と祈り、神様への感謝と期待を生み出す力があるのだと思うのです。

 そのようなパウロとシラスの思いを、信仰を神様が受け取られたかのように、大地震が起こり、牢獄の戸がみな開き、全ての囚人たちの鎖も外れてしまったのです。看守は、牢の戸が全て開いていたので、囚人が全員脱走したと思い、自殺しようとしたのです。自分の仕事に忠実であったのです。パウロは、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫びました。看守は、牢の戸が全て開いているのにも驚きましたが、そのような状況で囚人が誰一人逃亡していない事にも驚きました。ですから、明かりを持って来て、牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏したのです。

 おそらく、パウロとシラスの賛美と祈りの声は看守にも聞こえていたことでしょう。鞭で何回も打たれ、痛みと苦しみの中で、「賛美や祈りなんかして!」と思ったことでしょう。その讃美の歌と祈りに囚人たちが聞き入っていたことも不思議に思ったことでしょう。地震が起こり、牢の戸がみな開き、囚人たちの鎖が外れた。しかし、誰も逃げていない。一つ一つの事柄を考えると、看守は恐ろしくなったのです。人間の思いを遥かに超えた何かが、確かに今目の前で起こっているのです。

 看守は、パウロとシラスを外に連れ出して言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 看守にとっては、パウロとシラスは囚人です。しかし、彼は二人を先生方と言いました。先生方というのは、直訳すると「主たち」となるそうです。人間に対しての最高の尊敬の言葉のようです。今の看守にとって、パウロとシラスは最高に尊敬を払う人なのです。看守は、「救われるためにはどうすべきでしょうか。」と言いました。自分が救われなければならない、ということを自覚していたということです。その言葉にパウロとシラスは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

と言いました。主イエス様を信じるとは、何を信じるかというと、神であるお方、イエス様が人間となられ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって血を流して下ったこと、そして、命をささげられたこと、つまり、死んで下さったこと。墓に葬られたけれども、三日目によみがえって、私たちにも永遠の命、復活の命を与えて下さったことを信じるということです。そうすれば、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられ、永遠の命、天国の望みが与えられるのです。看守はイエス様の十字架と復活を信じ、イエス様を救い主として受け入れ救われたのです。そして、彼の家族も救われたのです。私たちも主イエス様を信じることで罪が赦され、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命が与えられるのです。素直に信じて受け入れたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」というのは、家族で誰かが一番先に救われたら、自動的に家族が救われるという意味ではありません。イエス様を信じて、イエス様を第一にして生きるという事です。イエス様を第一にして生きるとは、自分にとって、大切な、愛する夫、妻、子ども、親をイエス様にお委ねして生きるということです。愛する家族の事は、勿論、祈りに覚えますが、神様にお任せするのです。そして、そこに神様が、聖霊が働かれるということなのです。

 パウロとシラスは、聖霊の導きを感じながらも、無実の罪で何度も鞭打たれ、囚人として牢獄に入れられました。宣教の観点から見ると、遠回りしたような、寄り道をしたようにも見えますが、そこに、神様のみ業が起こったのです。牢獄の看守には、囚人にならなければ、出会わない人です。どのような理由であれ、パウロとシラスが囚人として牢獄に入ることによってパウロとシラスが、苦しみに、痛みに会いながらも、現実だけに目を留めるのではなく、顔をあげて、神様を見つめて、困難の中にも聖霊の導きを信じながら、この苦しみも痛みも無駄になることなく、神様のみ業があると信じて賛美の歌を歌い、祈りをささげた、その事から神様はみ業を起こし、看守と家族を救われたのです。そこにいた囚人たちにも神様のみ業を見せられたのです。

 私たちの人生においても、神様に従いながらも、聖霊が共におられ、聖霊に導かれながらも人生の真夜中というべき、苦しみや悲しみ、絶望を経験することがあります。しかし、どのような事も益になさる神様、マイナスをプラスに変えて下さる神様が私たちの信じる神様です。人生の真夜中と思われるべき苦しみや悲しみ、絶望を通しても、神様は驚くべき神様の業、奇蹟、恵みを与えて下さるのです。たとえ、あなたが人生の真夜中を経験していようとも大丈夫です。イエス様はあなたと共におられ、信じる者に答えて下さるのです。ですから、苦しみや悲しみ、痛みは辛い事ですが、神様はそれらのことを通しても、神様ご自身のみ業を見せて下さるのです。そのことを信じて、イエス様に目を留めて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2019年10月13日)

2019-10-14 00:43:52 | Weblog

主日礼拝(三位一体後第17)

2019.10.13

「愛されて、愛して、また愛されて」

ヨハネによる福音書21:15-22

 

Ⅰ導入部

  • みなさん、おはようございます。
  • 昨日は大きな台風がこの国を襲いました。そのようなときに、説教をするというのは大変なことです。私は準備していたものがあったのですが、昨日の台風を経て、ほぼ変えました。あの台風を経験した私たちに、主が語られることに、共に耳を傾けていきたいと思います。
  • 一言お祈りをして、このメッセージを始めていきたいと思います。お祈りしましょう…。

 

Ⅱ本論部

一.愛されて

  • キリスト教には「福音」ということばが使われます。では、福音とは何でしょうか。それはひとことでは説明できない、深いものであると思いますが、あえて一言で言うならば、神がこの世界を愛しているということだと思います。この世界を、あなたを愛している。
  • しかし、それにもかかわらず、この世界には苦難があります。数十年に一度と言われるこの台風を経験した私たちはそれがよく分かります。私たちの人生には思いがけない出来事が起こります。

 

  • 本日の箇所に登場するペトロも、思いがけない出来事を経験しました。それは、自分の師である、自分が信じてきたイエス・キリストが、逮捕され、十字架で死なれたということでした。自分が愛してやまない、尊敬してやまないイエスが、そしてこの方によって、世界が救われると信じてきたイエスが死んだ。それはペトロにとって、ショッキングな出来事でした。
  • そして、もう一つ、さらにショッキングだったことがありました。それは、これは有名な話であはりますが、ペトロは、イエス・キリストが十字架にかかられる前の夜、三度にわたってイエスを知らないと言った、裏切った、否定したのです。
  • ゲッセマネの園でイエスが逮捕された後、遠くから付いて行ったものの、「おい!お前イエスと一緒にいただろ」と言われたら、自分も逮捕されるかもしれない、自分も殺されるかもしれないと恐れ、ペトロはイエスさまとの関係を否定しました。
  • マルコによる福音書によると、それが嘘だったら神に呪われてもいいとまで言って否定しました。本当に恥ずかしかったと思います。
  • 彼は、思いがけない事態のなかで、自分の弱さを痛感しました。自分の弱さ、自己中心性、そして信仰の薄さを経験しました。おそらく、イエスさまが十字架にかけられるなどという非常事態などなければ、こんなに自分の弱さを明らかにされることはなかったと思います。危機というものは、私たちの本当の姿を明らかにするのです。

 

  • 今回の台風で、私たちが経験したこともそうであったのではないかと思うのです。私は昨日は予定が全てキャンセルになって、家で仕事をしていたのですが、テレビをずっとつけて、川の氾濫や土砂災害の様子を見ていました。このメッセージを準備している間も、特別警報の知らせが何度も入りました。
  • 危機は、私たちの本当の姿を明らかにすると言いましたが、特にこのような災害が起こるとき、私たちは思わされるのです。私たちは無力であると。
  • そして、例えば、あそこで土砂災害が起こったと言われても、最初に思うのは「ああ、うちじゃなかった」なんです。苦しんでいる人々に同情するのではなく、自分が無事であることを安堵する。今回は関東に来たので、まだ当事者意識がありますが、普段も、この世界ではたくさんの危機が起こっているのに、全然痛みを憶えない。
  • そして、昨日も夜になって、いよいよ台風が近づいて、私のマンションの窓もガタガタって言ったんですね。そうすると、ヤバイかな…と、不安になる。死の危険までは覚えませんでしたが、やはり怖いなあと、信仰が足りないなあと思わされました。
  • 危機というものは、私たちの本当の姿を明らかにするのです。今回の台風を通して改めて思わされました。人間の弱さ、自己中心性、そして信仰の薄さ。それを、改めて痛感させられました。

 

  • しかし、今日読まれたこの箇所で描かれているのは、よみがえられられたイエスさまが三度に渡って、ペトロに「わたしを愛するか」と尋ねているというシーンです。三度も聞かれると、しつこいなあと思うかもしれませんが、これは、ペトロの三度の裏切りに対応していると思われます。イエスは三度の招きをもって、三度の裏切りを赦された。
  • 同じように、イエスさまは、弱い私たちを愛してくださっています。イエスさまを何度も裏切る私たちに、何度でも、その愛の眼差しを向け、何度でも、「わたしを愛するか」と尋ねてくださる。

 

二.愛して

  • ここで注目したいのは、イエスさまは、ペトロを赦すときに、「赦します」と言わず、あえて「愛するか」と問うたことです。
  • これ、おかしいですよね。三回じゃなければ、わからなかったかもしれない。イエスさまは、ペトロを赦されるときに、あえて「愛するか」と問いかけた。なぜでしょうか。それは、イエスさまが、愛されている私たちが、赦された私たちが、愛する者となることを願っておられるからです。

 

  • クリスチャンというのは、たまに誤解されるんですね。クリスチャンは愛されている。赦されている。だから、何もしなくてもいい。あなたはありのままで愛されている。だから、なんでもいい。
  • そうじゃないのです。もちろん、何もできなくても、弱くても、ありのままで愛されています。しかし、イエスさまは、あなたがありのままでい続けることを望んではおられない。
  • 繰り返しますが、あなたはそのままで愛されている。しかし、あなたをそのままにしておかれることはなく、あなたを変えたいと願っている。あなたを、愛する者へと変えてくださる。それがイエスさまなのです。

 

  • イエスはペテロに「私の羊を飼いなさい」と語っています。私の羊とは、文字通り、「ああイエスさま羊を飼ってたんですね」ということではなく、ここで言う羊とは、クリスチャンたちのことです。
  • クリスチャンたちの集まる「教会」をケアしなさい。そして、もっと言うならば、イエスさまが愛しておられ、救われて欲しいと願っておられる、この世界の一人一人を愛して、彼らのために生きなさいと、イエスさまはペトロに語られているのです。

 

  • 18から19節をお読みします。「 」
  • ペトロは、若いころは、「自分が、自分が」、という態度でした。もちろん、これまでだって、人のために何をすることはありました。イエスさまのために、犠牲を払っていました。でも、それは自分がどうやったら目立つか、すごいと思われるか、それが従うということの、あるいは「愛」を行う動機の大きな部分であったようにも見える。
  • しかし、イエスは言うのです、これから、年を取ると、行きたくないところへ連れて行かれる。

 

  • 「どのような死に方で」とありますから、これは直接的にはペテロがやがて殉教するということを示しています。このような災害が起こると本当に思わされることは、死は決して遠いものではないということです。
  • イエスさまは、ペトロの「死に方」を語られました。私たちも改めて問いたいのです。あなたはどのように死にたいですか。死は必ずやってきます。あなたはどのように死にたいと願っているでしょうか。

 

  • しかし、ここで言われているのは死という一点のことだけでなく、それをも含めた、死に至るまでのプロセスであると言われます。
  • 死に至るまで従う者となる。自分が行きたくないところ、したくないことに向かわされる。もっと言うならば、面倒なことを引き受ける者となるということです。
  • この箇所の文脈で言えば、羊たちのために、つまり「他者」のために生きること、愛することである。イエスさまは、赦されたペトロに、愛されたペテロに、愛することを命じているのです。

 

  • 私たちの国は、また大きな災害を経験しました。亡くなられた方もいます。たくさんの方が傷ついています。家を失い、財産を失った方が大勢おられます。
  • このような出来事を前にして、なぜこんなことが起こったのだろうと、問い続け、それを率直に神さまに祈ることはもちろん大切です。思いますよね。なぜですか。なぜこんなことが起こったんですかって正直に、率直に祈って良い。
  • しかし、大切なことは、すでに私たちの目の前に苦しんでいる人がいるということです。愛することを、イエスさまは求めておられます。教会として、何ができるか、もちろんまずは祈りです。あるいは献金かもしれない。私が奉仕しているKGKキリスト者学生会は、学生たちの集まりですから、祈りや献金とともに、具体的に、ボランティアなど、何かできることはないかと、学生たちと一緒に考えていきたいと思っています。
  • イエスさまは言われます。「わたしに従いなさい」。このイエスさまの御声に、耳を傾けていきたい。苦しむ人々を愛していきたいと願わされるのです。

 

三.また愛されて

  • とはいえ、愛するということは、簡単なことではありません。私が、このような大きな災害が起こるとき、やはり思い出されるのは2011年の東日本大震災です。その時私は大学院生で、KGKのキャンプのために、長野県に行っているときに、3/11の震災の日を迎えました。
  • 覚えておられる方もいらっしゃると思うのですが、3/11は金曜日でした。翌日土曜日に東京に戻ってきて、実はその翌日の日曜日、私は礼拝の司会だったんですね。かなりのプレッシャーでした。

 

  • 最初に、地震があったと聴いたとき、東北がやばい、津波が来たということを聞いて、これはまずいと思ったのですが、そんなに深刻に捕らえませんでした。恥ずかしい話ですよね。たくさんの方が亡くなったということを聞いたのに、その後には冗談を良い、夕食を食べていました。
  • しかし、その後、原発が危ない、風向きによっては東京も危ないということを聞きました。すると、急に、自分のなかで何かが変わりました。周りの空気が変わりました。必死で祈りました。
  • その二日後、日曜日の礼拝のなかで、自分がなんて自己中心的だったのだろうということに深く気づかされたのです。

 

  • あのとき、もう分からなかった。教会のある子どもに聞かれました。どうして神さまは地震なんて起こしたの?何も答えられませんでした。祈りました。必死で叫んだ。
  • そして、2011年の4月に、私はKGKの主事になったのですが、その直後、早速岩手県に派遣されました。そこで目にしたのは想像を絶する光景でした。
  • でも、そこで、世界中から集まったクリスチャンたちが、祈り合い、愛し合い、そして苦しむ人々に、やったことは小さなことでした。食事を届けたり、掃除したり、子どもと遊んだり、小さなことでした。しかし、それを通して、分かったのです。それでも神さまはいる。そして、不思議ですよね。被災地の方々のなかで、たくさんの方々が受け取ってくださった。それでも神さまはあなたを愛している。
  • 私たちは愛されて、愛する者とされていきます。そして、愛するときに、また愛されるのです。愛するときに、愛されていることが、それでも分かっていくのです。
  • そして、神の栄光が表される。栄光というのは、「すごい」という意味ですが、神の栄光とは、神がどれほど愛されているかということが分かって、それゆえに神さまはすごいということが分かるということなのです。愛するなか、愛されていることが分かるのです。

 

  • そして、あの東日本大震災の後、岩手でボランティアとして働いた経験は本当に美しい経験でしたが、しかし同時によく覚えているのは、そのような危機のなかでも、クリスチャンたちが一緒にいるというのは、決して簡単なことではなかったということなんですね。
  • 危機のなかで、それどころじゃないのに、そしてクリスチャンの交わりのなかであるのに、問題も起こったということです。
  • 特によく起こるのは、比較という罪です。20節から22節をご覧ください。「 」

 

  • イエスはヨハネと比較するな、それがあなたに何のかかわりがありますかと語ります。ある人が、不幸になりたかったら比較せよと言いました。
  • 私たちはよく比較します。私はこんなに辛い目にあったのに、あの人は…。私はこんなにがんばっている。それなのにあの人は…。災害の後に、比較はよく起こります。
  • 人を羨み、憎み、あるいは見下す。自分が予想以上に罪人であるということは、多くの場合交わりのなかで気づかされるものです。

 

  • その意味で、私たちは危機のなかで、交わりのなかで失敗を繰り返すのです。愛そうとするなかで、愛せない自分、弱い自分、自己中心の自分、信仰の薄い自分に気づかされていく。
  • しかし、そのなかで、それでもなお愛してくださる神の愛を知るのです。失敗を繰り返しながら、それによってなお愛されていることが確かになっていくとき、比較からも解放されていき、少しずつ愛する者とされていくのです。

 

  • 実は、ペトロですが、この後の使徒言行録には相変わらず失敗して、教えられるペテロが描かれています。ガラテヤ書を読むと、後輩パウロに怒られているということも書かれています。
  • しかし、それでもペテロが晩年に書いたと言われる第一・第二ペテロは、あのペテロが書いたとは思えない、愛に満ち、苦難のなかでそれでも愛し合うことを、交わりにとどまることを命じています。
  • ペテロは人生をかけて成長していきました。私たちも成長することを焦る必要はない。ただ、あきらめないでほしい。神さまが、あなたを、そしてこの世界をあきらめておられないからです。
  • 私たちは、痛みに満ちたこの世界を前にして、今日も、この礼拝で、愛されて、愛して、愛されることを求め、それぞれの場所に遣わされていこうではありませんか。お祈りしましょう。
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日曜礼拝(2019年10月6日)

2019-10-06 12:40:06 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第)       2019.10.6

神への祈りは答えられるのか」 使徒言行録12章1節~17節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第一に日曜日を迎えました。10月だと言いますのに、30度前後の温度で、また夏がぶり返したような気候で体調も整えにくいように思います。

今日も、こうして健康が支えられて、愛する皆さんと共に礼拝がささげられますこと心から感謝致します。

 私たち神様を信じる者は、日々いのりをささげます。イエス様は祈ることを弟子たちに教えられましたし、聖書自身が祈ることを勧めていますし、命令しています。クリスチャンの特徴のひとつは祈ることです。イエス・キリスト様の名を通して祈るように、私たちは教えられてきましたし、イエス様ご自身も、「私の名によって祈りなさい。」と命じておらます。私たちは、毎日祈りをささげるのです。私たちの毎日ささげる祈りは、聞かれているのでしょうか。祈りは答えられているのでしょうか。ある祈りは答えられ、ある祈りは答えらないというのが現実なのかも知れません。「私は信仰が薄いから、小さいから祈りがあまり答えられない。あの人は、信仰が篤いので、あの人の祈りはよく答えられる。」というように考えることが多いのではないでしょうか。祈りの答えは、信仰が深いから、篤いから答えられるのでしょうか。一生懸命に祈る祈りに神様は答えて下さり、あまり熱心に祈らない祈りには答えて下さらないのでしょうか。祈りとは、私たち人間の努力や頑張り、何かで決まるのでしょうか。そうだとしたら、神様の祈りの答えは、私たちによって答えられるので、神様は私たちによって動かされるということになりますが、そうなのでしょうか。今日は、使徒言行録12章1節から17節を通して、「神への祈りは答えられるのか」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、人間の思いを遥かに超えた神様の祈りの答え

 使徒言行録12章は、見出しには、「ヤコブの殺害とペトロの投獄」とあり、6節の前の見出しには、「ペトロ、牢獄から救い出される」とあります。ですから、使徒言行録12章1節から19節は、ヤコブの死とペトロの救出の話です。

5節の後半には、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とあります。

1節、2節には、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあります。ペトロのためには、教会で熱心な祈りがささげられていたので、ペトロは救い出され、ヤコブのためには教会で祈りがささげられていなかったので、ヤコブは殺されたのでしょうか。教会では、ヤコブのためにも熱心に祈りがささげられていました。それでは、どうしてヤコブのためにも祈りがささげられていたのにもかかわらず、ヤコブはヘロデ王の手によって剣で殺されてしまったのでしょうか。ヤコブが罪を犯してので、裁かれたのでしょうか。そうではありません。ヤコブはイエス様の12弟子の一人として、神様に忠実に仕え、教会と信徒の方々に仕えていたでしょう。ヤコブの死は、ステファノに続いて二人目の殉教者です。バプテスマのヨハネを加えれば、3人目となります。ヘロデ王が舞を舞った義理の娘の願い、(母親にそそのかされたのですが)バプテスマのヨハネの首をという願いによって、バプテスマのヨハネは殉教しました。ステファノは、無実の罪で、石打の刑で殉教しました。ヤコブは、ヘロデ王が、ユダヤ人に気に入られるようにと、教会に迫害の手を伸ばし、ヤコブを剣で殺したのでした、3人は3人とも理不尽な死を経験しました。神様は彼らを守ることができなかったのでしょうか。守ることはできましたが、神様の思いは別の所にあったのでしょう。バプテスマのヨハネの死を通して、イエス様に光が当てられました。それは、バプテスマのヨハネの使命でもありました。ステファノの死を通して

2節、大迫害が起こり、使徒たちはエルサレムからユダヤとサマリアの地方に散らされましたが、福音を伝え、異邦人への宣教が始まりました。そして、異邦人を中心とするアンテオケ教会が誕生しました。

殉教者という言葉は、ギリシャ語では「証し人」という意味があるようです。死を通しても、イエス様を証しすることができるということだと思うのです。

 神様にはできないことはありません。助けることができます。しかし、私たち人間が思うような、願うような形で答えられないことがあります。別な形で答えて下さるのです。

 私たちは自分の願うような結果、思うような答えが出なくても、神様をただ信じて祈り続けたいと思うのです。

 

 二、共に集い祈ろう

 ヤコブは、教会での祈りがささげられているのにもかかわらず、殉教しました。そして、ヘロデ王の手は、当時、教会の中心的な存在であったペトロに延ばされ、ただ、ユダヤ人が喜ぶからという理由で、ペトロを捕らえ、厳重な監視をしたのでした。そして、ペトロをも殺そうとしたのです。

 5節には、「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とあります。教会での祈りは複雑な思いがあったでしょう。使徒ヤコブは殺されてしまった。今度は使徒ペトロの番か?ヤコブの死を思い、祈ってもヤコブは殺されてしまった。祈っても無駄だと祈らなかったのではなくて、ヤコブは助けられなかったけれども、神様を信じて教会では祈りがささげられていたのです。ペトロが神様によって助け出される可能性は、人間的に考えるならばゼロでしょう。しかし、人間の思いを超えた神様の力を信じて、教会では祈りがささげられたのです。

 私たちは、日々の祈りの中で、多くの祈りをささげます。世界の平和のため、日本の平和のため、為政者や上に立つ人々のため、事故や災いから守られるように、病気で苦しんでいる人々が癒され、回復するように。仕事や勉強が守られるように。礼拝や集会が祝福されるように。家族や友人、求道者の方々が救われるように、と祈ります。個人の祈りも大切ですが、教会の祈り、教会で共に心を合わせて祈る祈り、祈祷会はとても大切です。

「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とあるように、青葉台教会では、毎週水曜日の朝と夜に祈りがささげられています。ぜひ、覚えて祈り会のためにお祈り下さい。ぜひ、時間を作り、祈り会に参加して祈りをささげましょう。神様は祈りに答えて下さいます。祈りの答えを最も感じ、知ることのできる場所は祈祷会だと思います。

 人間的には厳しい状況、可能性がないと思われる中にも、神様を信じて祈りがささげられているのです。それは、使徒の時代も今も同じなのです。

 

 三、私たちの弱さを超えた神の応答

 人間的に不可能と思われる、可能性がゼロという状況でも、神様は神様ご自身のみ業をなさるのです。神様はみ使いを通して困難な状況からペトロを救出させて下さったのです。

 ペトロは、ペトロのために熱心に祈りがささげられていた場所マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行きました。門をたたくと、ロダという女中がペトロだとわかると、門を開けずに、家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げました。すると、そこにいる人々は、「ハレルヤ、主がペトロを救い出して下さった。感謝します。」ではなく、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったのです。他の訳では、「あなたは気が狂っている」とあります。バカな、あり得ないと言ったのです。聖書には、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」と確かにありますが、熱心に祈っていたけれども、本当にペトロが牢獄から助け出されると信じて祈っていなかった、祈れなかったということでしょうか。

 私たちは、神様の全能を信じます。神様にはできないことは何もないと信じます。いろいろな困難や苦しみを経験しますが、神様を信じてペトロの救出を願っていた人々が、ペトロが門の前に立っていると聞いて、バカなと言ったように、私たちも信じたいのだけれども、信じて祈りたいのだけれども、信じられないで、半信半疑で祈る場合があるように思います。

 教会の祈り、信じたいけれども信じられないペトロの救出を願った教会の熱心ではあるけれども不信仰な、信じられないと思う祈りに神様は答えて下さり、ペトロを助けて下さったのです。教会の祈りの結果、ペトロが救出されたというよりも、神様が神様ご自身のペトロを助けるという、その権限で、その権威でペトロを助けたのです。

 私たちは熱心に祈れても、信じられない時があります。神様なのだから何でもできると信じたいのだけれども、人間の考え、思いで判断してしまい、信じ切れないで祈る時があります。しかし、そんなあいまいな祈り、不信仰な祈りではあっても、神様は私たちを憐れんで、私たちの祈りに答えて下さるのです。

 私たちは不信仰でも、弱くても、神様は私たちを罪から救うために、イエス様を人間の世界に送って下さり、イエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。死んで葬られましたが三日目によみがえって復活の力を示されました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの罪を赦し、魂を救い、永遠の命、天国の希望を与えて下さったのです。私たちは、不真実でも神様は真実なお方なのです。

 Ⅲ結論部

 使徒パウロは、コリントの信徒への手紙12章で、自分に与えられた肉体のトゲが取り除かれるように熱心に祈りました。しかし、彼の病は癒されませんでした。神様はパウロに、「 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」」(Ⅱコリント12:9)と言われたのです。 パウロ自身が祈った言葉の通りに、肉体が癒されるという祈りは聞かれませんでした。しかし、弱さの中にこそ、キリストの力が発揮されるという神の言葉を信じて、パウロが祈った言葉とは形を変えて祈りが答えられたのです。

だからパウロは、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9-10)と信仰告白したのです。

 神様は私たちの祈りに答えて下さいます。私たちが言葉で祈った通りに答えて下さることもあれば、言葉で祈ったことの形を変えて答えて下さるのです。ですから、神様は私たちの全ての祈りに答えて下さるのです。そのことを信じて、弱い私たちですが、この週も、イエス様の十字架と復活を見上げて、神様に祈りをささげたいと思うのです。

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