江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年6月23日)

2019-06-24 20:41:44 | Weblog

本日は、杉田政志師のメッセージのため原稿はありません。

青葉台ナザレン教会のホームページからユーチューブでの映像をご覧ください。

また、音声でお聞きください。

 よろしくお願いいたします。

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日曜礼拝(2019年6月16日)

2019-06-16 10:25:04 | Weblog

日曜礼拝(三位一体主日)      2019.6.16

父の涙」 ルカ15:11~24

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。6月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は父の日で、第二礼拝では、教会学校の幼少科のお友だちとの合同礼拝です。今日は日ごろから、家族のために命を懸けて働いておられるお父さんに感謝の気持ちを持ちたいと思います。

「父」という言葉は、旧約聖書には695回、新約聖書には346回、計1036回出てきます。「父」という言葉は、神様と同一語として使用されているようです。イエス様は、父なる神様を「アッバ」と呼ばれた。それは、父ちゃん、おやじのイメージです。イエス様が、父と呼ばれたのは、子であるという前提があるからです。父という存在なしに子はあり得ませんが、子という存在なしには父はあり得ません。子があって父と呼べるし、父があって子と呼べるのです。父と子という関係には、信頼関係があります。特に、イエス様と父なる神様との関係はゆるぎない信頼関係がありました。イエス様は父と呼び、父は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者」(ルカ3:22)と呼ばれました。イエス様は、十字架の上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と叫ばれて息を引き取られたのです。子であるイエス様と父なる神との深いか関係がありました。 

今日は、ルカによる福音書15章11節から24節を通して、「父の涙」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様から離れた存在

 今日は聖書では大変有名な放蕩息子のお話しです。しかし、このお話しは、放蕩息子が主役ではなくて、父が主役なのだと思うのです。11節の最初には、「また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。」」とあり、このお話しの最後32節は「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」という父親の言葉で終わっている所から見ると、ある人、父親が主役ではないかと思うのです。

 二人の息子の一人、弟の方が父に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と願い、父はその願い通りに、弟に財産を分け、兄にも財産を分けたのでした。財産をもらった弟息子は、旅立ったのです。一人立ちしたのとは違いました。一人前ではないです、未熟なままで家を離れました。父親の元から遠くへ行ったのです。

イエス様が弟子たちを世に遣わすのは、聖霊に満たされ、力を受けてからなので、エルサレムに留まり、父の約束、聖霊に満たされるようにとご命令されました。聖霊を受けずして、力を受けないで弟子たちが世に遣わされたらとんでもないことになるのです。

 働くこともまともにできないであろう世間も知らず未熟者の弟息子が、大金を手にして出て言ったらとんでもないことになるのです。彼は、「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。」と聖書は語ります。苦労してお金を稼いだことのない者が、大金を手にすれば無題使いするのです。お金のありがたみがわからず、放蕩の限りを尽くすのです。楽しく愉快にぜいたくに毎日を過ごした彼は、あっという間に父親からもらった財産を浪費してしまったのです。毎日、贅沢に楽しく暮らしていたので、父親のことなど思い出すはずもありませんでした。父の元から勝手に離れ、父との関係を切ってしまったのです。しかし、父は、弟息子が出て行った時から、毎日毎日彼の事を思いめぐらしていたのです。忘れることなどできないのです。未熟者の弟息子が大金を手にして出て行けば、どうなるのか父親には予想できたでしょう。父は息子との事を思い涙を流したでしょう。

 聖書は、財産を浪費した息子の身の上に、ひどい飢饉が起こり、さらなる生活の困難を伝えています。ユダヤ人では絶対にできない、やらない豚の世話をするまでになり下がったのです。ユダヤ人から見れば、豚は汚れた動物ですから、近寄ることもしない。世話をすることなど死んでもあり得ないのです。この息子は、豚の世話をしなければならないほどに困っていたという事です。すべてを失い、最悪の状況を経験したのです。なぜこうなったのかというと父の元から離れたからです。聖書は、父親、つまり神様の元から自己中心のゆえに神様から離れたことを罪だと言うのです。私たちは、本来、神様のもとから離れた存在であることを示しているのです。あなたは今どこにおられるのでしょうか。神様のそばですか。神様から遠く離れている所でしょうか。

 

 二、我に返り神様に向かって生きる

 この弟息子は、食べることができない、食べる物がないという極限状態の中で、自分の死を意識した時、絶望を経験した時、父親の事を思い出したのです。かつて父親と共に生活していた時、窮屈だと思っていた。当たり前のように毎食を食べていた。雇い人でも有り余るほどの食べ物がある。それに比べて自分は、何というみじめな状況、みじめな状況を通り越して死のうとしている。聖書には、「彼は我に帰って言った。」とあります。

 彼は、八方ふさがりの中で、我に返ったのです。今まで自分中心に歩いて来た方向を変えた。方向転換したのです。「我に返る」とは、後悔するということではありません。後悔とは、自分のやった結果を悲しむということです。それだけです。彼は悔い改めたのです。自分が今までして来たことは、何と愚かな事であったと分別を取り戻したのです。悔い改めとは、自分の失敗を悲しむ程度の感情の問題ではなく、意志の問題なのです。意志を働かせて180度の転換をすることです。この息子は、父とは反対の方向を向いて生きていましたが、今は、父の方に向かって歩き出すのです。そして、子どもとしてではなく、雇人として生きていくことを、生きるためには雇人しかないと考えるのです。

 この息子は、今まで父から離れて父の事は思い出さなかった。ここでやっと思い出すのです。しかし、父親の方はそうではない。出て行った時から、今までいた時以上に、息子の事を想い続けたのです。私は娘が結婚して家を出て行きました。結婚して、家庭を持ってせいせいした。もう娘の事は旦那に任せて忘れようというような事にはなりません。結婚して一緒にいないからこそ、目に見えないからこそ、より覚えて、祈りにも力が入るのではないでしょうか。今まで一緒にいた時以上に思うのではないでしょうか。この父親も同じです。特に、あぶなっかしい息子の身の上を心配して思い続けていたことでしょう。

おそらく、息子の事を想い、涙を流していたのではないでしょうか。

 それだからこそ、この息子が決心して帰って来た時、遠くに息子の姿が見えた瞬間、息子であるとわかったのです。自分の愛する息子だと認めることができたのです。この息子が出て行った時は、りっぱな服装だったでしょう。お坊ちゃまですから、きらびやかな服を着ていたでしょう。しかし、放蕩に身を持ち崩し、全てを失い、食べることさえもできない。その外見も豚の世話をするまでに落ちぶれてしまい、悪臭を放ち、体重も落ち、昔の面影などなかったのかも知れない。しかし、父親にはわかったのです。どんなに姿が変わろうとも、愛するわが子を見逃すはずはなかったのです。

 この父として示された姿は神様のお姿です。私たちが、どのように落ちぶれ、罪の中にあり、自分でも自分がいやになっても、神様は私たち一人ひとりのことを理解し、受け入れ、わかっていて下さるのです。神様は私たち一人ひとりに目を留めていて下さるのです。

 

 三、神様のそばがいちばんいい

 父は、まだ遠くに離れていたにもかかわらず足り寄って彼を抱きしめます。毎日、思い続け、心にかけていた息子を抱きしめ接吻したのです。大粒の涙も流していたでしょう。悲しみの涙ではなく、喜びの涙を!親は子どものために涙を流すことがあります。今回、娘の結婚式で「泣きましたか?涙を流しましたか?」と多くの人に聞かれました。愛する娘の結婚に、多くの父親は涙するのでしょう。娘が結婚する。巣立っていく。一人前になるという安心感の喜びの涙と娘をとられたという悲しみとの入り混じった涙を流すのでしょうか。私は涙を流しませんでした。ぐっとこらえました。というわけでもなく、良かったなあという思いで一杯でした。

 父に抱きしめられた息子は、練習してきた言葉を語ります。21節を共に読みましょう。

「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」そして、最後の言葉を言おうとした時、父が遮(さえぎ)り語りました。22節、23節です。共に読みましょう。「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」 良い服は、高い地位を現わし、指輪は、権威を与えることを意味し、くつは、奴隷から自由になるというような意味があるようです。息子の資格はないという弟息子に、息子としての位と権威と自由を父親は与えたのです。これらのものは、父親が与えなければもらえないものです。本当は、これからこの息子が生きていくためには、「雇い人の一人にしてください」という言葉がとても重要でした。この息子は、自分のしたことが到底、父親には許してもらえないことであることを自覚していたのです。だからこそ、雇い人としてしか生きていくことができないので、「雇い人の一人にしてください」という言葉は、息子にとっては大切な言葉でした。しかし、父親は、その言葉を言わせないで、彼の息子としての権威を回復したのです。それが父の心でした。息子がたとえどのような状態で帰って来ようとも、息子として受け入れる用意はあったのです。ですから、服や指輪やくつは、息子がいつ戻って来ても、すぐに出せるように準備してあったに違いないのです。また、肥えた牛を屠るということは、特別な事でないと食べない贅沢なものでした。父は、この息子のために、そのような備え、喜びを現したのです。

 24節を共に読みましょう。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」 息子はもう帰って来ないかも知れない。失われた存在であったのに、見つかったと父は心から彼の帰還を喜んだのです。

 神様は、神様から離れた私たちが、神様のもとに帰って来るのを待っておられるお方なのです。この父親は息子を探しには行きませんでした。ただ、彼を待ち続けたのです。神様は、私たちが神様のもとに帰りやすいように、イエス様を人間の世界に送って下さり、私たちの罪の身代わりに十字架について、私たちの代わりに神様から裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。そのことによって、私たちの罪が赦され、魂が救われ、イエス様は死んでよみがえられたので、私たちにも永遠の命、復活の命が与えられたのです。私たち罪ある者が義とされて、神様と共に歩むことができるようになったのです。

私たちは、そのような恵みが与えられているのですから、感謝したいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 岩淵まことさんの父の涙という歌があります。この後賛美します。「心にせまる父の悲しみ、愛するひとり子を十字架につけた。人の罪は燃える火のよう、愛を知らずに今日も過ぎてゆく。十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙。十字架からあふれ流れる泉、 それはイエスの愛。 父が静かに見つめていたのは、愛するひとり子の傷ついた姿。人の罪をその身に背負い、父よ彼らを赦して欲しいと。十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙、十字架からあふれ流れる泉それはイエスの愛。」という歌詞です。神様は、私たちを愛するがゆえに、一人子のイエス様を十字架につけたのです。父なる神様は、イエス様の十字架、十字架で苦しむイエス様を見ておられたのです。十字架から溢れ流れる泉、それは神の愛であり、父の涙なのです。今も神様は、私たち人間が自己中心、罪のために、傷つけ、傷つけられている姿をご覧になって涙を流しているのだろうと思うのです。

 最近では、父親と言えば虐待している悪い父親、けしからん父親の姿が多くみられます。「父」という表現は、聖書では神様を示すことが多いのです。どのような悪い者も、けしからん者をも愛して受け入れて下さる父なるお方なのです。どうしようもない罪ある私たちが、そのままの姿で神様に愛され、受け入れられるのは、私たちの代わりに、イエス様がすでに十字架で裁かれ、イエス様の命がささげられたからなのです。そこに神様の深い愛が示されているのです。あなたもこの神様の大きな愛で愛されているのです。

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ペンテコステ礼拝(2019年6月9日)

2019-06-09 12:38:50 | Weblog

ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)      2019.6.9

圧倒的な力を受ける秘訣」 使徒言行録2:1~13

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。6月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日はペンテコステ礼拝、聖霊降臨日です。全世界の教会で、ペンテコステの礼拝がささげられています。

昨年のペンテコステの礼拝の時、私たちは海外旅行をして、言葉で苦労することが多いのですが、来年には、こちらが日本語を話せば、相手に英語やフランス語で話され、相手の話す英語やフランス語が日本語になって聞こえる機械ができているかも知れません、というような話しをしたのですが、できましたね。ポケトークやその他の機械があります。買われた方や海外旅行で使用された方もおられるでしょう。今月、私の誕生日ですので、プレゼントを考えておられる方が、もしおられたらよろしくお願いいたします。

今日は、使徒言行録2章1節から13節を通して、「圧倒的な力を受ける秘訣」という題でお話し致します。旧約時代は、ある特定の人だけに神の霊、聖霊に満たされたことが記されていますが、ペンテコステの日には、イエス様の約束の言葉を信じて、祈待ち望んでいた120名の人々の上に聖霊が与えられたことを聖書は語ります。そして、ユダヤ人を超えて異邦人にまで聖霊が与えられるようになるのです。その記事を見たいと思います。

 

Ⅱ本論部

 一、聖霊は語らせるのです

 イスカリオテのユダが死んで抜けた12弟子の一人を選び、祈り待ち望んだ120名の人々は、ただイエス様の約束の言葉を信じて、聖霊が与えられることを信じました。2章の1節には、「五旬祭の日が来て」とあります。聖書辞典によれば、五旬祭とは、ギリシャ語では50日目を表し、旧約聖書では「七週の祭り」(出エジプト34:22)、「刈り入れの祭り」(出エジプト23:16)に相当するものとあります。また、この祭りは、過越し節の第二日(アビブの16日)から数えて七週の後、第50日目のシワンの月の6日に守られたようです(申命記16:9)。元来は、小麦刈りが終わった時の鎌納めという、農耕的起源を持つ祭りでしたが、後代のユダヤ教では、この日にシナイ山で十戒が与えられたという歴史的意味を加えて、律法記念日として守られたと記しています。

 旧約聖書では記念となる、この日に聖霊が与えられたのです。ですから、イエス様が復活してから50日目、イエス様が天に帰られてから10日目ですが、農耕的な起源や歴史的な意味がある、この記念する日に聖霊が与えられたということは、神様ご自身の思いがそこにあったことを思わされます。

 120名の人々が一つとなり集まっている、そこに、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」と聖書は語ります。風という言葉は、聖霊を示していると言われます。イエス様もヨハネによる福音書3章で、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われました。 祈り待ち望んだ群れに、突然、神の時がありました。「激しい風が吹いて来るような音」とありますから、ゴーゴーというような大きな音、何かを感じられるような音だったのだと思うのです。

 3節には、「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。「炎のような舌」とありますが、出エジプト記3章には、モーセがミディアンの荒野で、燃える柴の木を見ます。神様は燃える柴の炎の中から語られるのです。そしてモーセは神の声を聞くのです。モーセは、炎の中から神様の言葉を聞いて、神様にエジプトに遣わされ、神の証人としてファラオに神の言葉を語る者になるのです。

ペンテコステの日、120名の人々の上に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」のです。「舌」とは、語る力として与えられたように思うのです。モーセが燃える柴の中から炎を見て、神の言葉を聞いたように、聖霊が与えられた時、炎のような舌、まさに、神様のみ業、神の言葉が与えられるのです。私たちは、聖書の言葉を通して、神様の言葉を聞き、神様の証人として、神様の言葉を語る者とされていることを覚えたいと思います。

 

 二、聖霊は全世界の人々に福音の恵みを語られる

 4節を共に読みましょう。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 聖霊に満たされた人々は、自分が話すユダヤの言葉ではなく、他の国の言葉、外国の言葉を話したというのです。各地からエルサレムに集まっていた人々は、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、驚いたのです。ポケトークのように、自分の理解できる言葉で聞くことができたのです。聖霊を受けて、今までに話したことのない外国の言葉を話しました。弟子たちは、ひそかに外国の言葉を勉強していたのではありません。聖霊に満たされた時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあるように、神様に力が与えられて、外国の言葉で語り出したのでした。弟子たちは、この後、その外国の言葉を話し、宣教したというのではありません。おそらく、外国の言葉を話したというのは、この時だけだと思われます。弟子たちは、イエス様の証人となり、地味で、地道な宣教の働きを続けていくのです。聖霊が与えられて、驚くような力を発揮し、奇蹟を起こし続けたのではありませんでした。イエス様が「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と語られたように、イエス様の証人として、神様の業を語るのです。

 120名の人々は、聖霊に満たされて、外国の言葉を語りました。それは、神の偉大な業、イエス様の十字架と復活を語ったのです。それが、語られたのは、イスラエルで生活していたユダヤ人と、ディアスポラと言われる外国で育ったユダヤ人とユダヤ教への改宗者の人々だけでした。ここに神の民が結集され、教会の誕生となったのです。このみ業はユダヤ人から始まりました。それは、神の民イスラエルを引き継ぐ者だからです。

 ペンテコステとは、ユダヤ人やユダヤ教に改宗した人々の上に、聖霊によって神様の偉大な業が語られ、救われる人々が起こされ、教会が誕生した記念すべき日です。今日は教会学校では、教会の誕生日ということで大きなケーキでお祝いしているみたいです。各地から集まった人々に、外国の言葉、世界の言葉が語られたということは、新しいイスラエルの歩みが、ユダヤ人だけのものではなくて、やがて、福音は異邦人、全世界の人々へ伝えられるようになるということだと思うのです。

 これから弟子たちは、ユダヤ人だけではなく、異邦人に、全世界に神の業、イエス様の十字架と復活を語る者になるのです。やがてパウロは、特に異邦人伝道のために用いられるようになるのです。私たちは、弱い者ですが、聖霊に強められ、導かれて、私たちの今置かれた場所で、イエス様の福音の恵みを語る者にさせていただきたいと思います。

 

 三、神の偉大なみ業が語られ続ける

 創世記11章には、人間が神に挑戦しようとしてバベルの塔を建てますが、神様は人間の言葉を乱し、言葉が通じないようにされたので、話の通じる者たち、同じ言葉を話す者たちは、それぞれに分かれて行ったのでした。

 ペンテコステの日、聖霊が与えられ、聖霊を受けた人々は、イエス様の証人として、神の業である十字架と復活について語りました。言葉の通じない人々が、聖霊の働きによって、神の偉大な業を聞いたのです。聖霊は、人々を統一して世界共通語なるものを語らせるというものではありませんでした。それぞれの国の言葉や文化、歴史や習慣の違いが尊重されて、全ての人々が同じ神の偉大なみ業、イエス様の十字架と復活、福音を聞くものとなるのです。聖霊の働きを通して、イエス様の証人となりイエス様の十字架と復活を通して与えられる魂の救い、罪の赦し、復活の命があることを聞くのです。この福音によって、イエス様によって、全ての人々は一つにされるのです。

 バベルの塔を建設し、神に成り代わろうとした人間の傲慢や自己中心的な罪のために、神様は言葉を乱し、言葉が通じないようにされたのです。言葉の通じなくなった人間が、聖霊の導きによって、神様の介入によって、福音により、様々な違いはあるけれども、イエス様にあって一つとされていくのです。

 エルサムに集まった外国語を語る人々は、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」と驚きました。ユダヤ人である彼らが、確かに自分の理解できる言葉を話しているということは事実なのですから、その驚きは隠せませんでした。しかし、この出来事を理解できない人々は、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、神の偉大な業、イエス様の十字架と復活を聞いても、信じなかったのです。かえって、バカにしたのです。あざけったのでした。

 私たちは、私たち自身がイエス様の十字架と復活が自分の罪のためであったことを聞いて、罪を認め、罪を告白して、イエス様の身代わりの十字架の愛を感謝して、イエス様を救い主とし心に受け入れて救いを体験しました。しかし、私たちの住む日本においては、イエス様の十字架と復活、福音の話を聞いても受け入れる人が少ないのが現実です。

 けれども、聖霊に満たされたペトロのメッセージ、イエス様の十字架と復活、福音のメッセージを通して、自分の罪を告白し、イエス様を救い主と信じて、3千人の人々が洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。

 日本においては、まだまだ、福音のメッセージが人々に伝えられていないというのが現実なのかも知れません。イエス様の十字架と復活を通して与えられる福音の恵みを一度も聞いたことがないというのが、今の日本の状況かも知れません。とするならば、教会が、牧師が、クリスチャンの皆さんが、聖霊に支えられて、聖霊によって力を受けて、イエス様を、福音を伝えていきたいと思うのです。あのように弱く自分中心であった弟子たちも、聖霊に満たされて、力を受けてイエス様の証人として、力強く証ししたのです。

私たちも弱い者、小さい者、数少ない者ですが、聖霊に支えられ、励まされて、私たちがイエス様を信じる者であること、神様が全ての人を愛しておられることを伝える者とさせていただきたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 弟子たちは、120名の人々は、圧倒的な力を受けました。しかし、その力とは、人々に驚くような奇蹟を見せるとか、人間以上の力を現わすというようなものではなく、イエス様の証人として、イエス様のことを、十字架と復活を、神の偉大なみ業を語る者となるということなのです。

 私たち自身が、イエス様の愛に満たされて、神様の愛を一人でも多くの人々に語りたいと思うのです。信じるか、信じないかは神様の責任です。救われるのは、神様です。私たちに責任はありません。しかし、イエス様の事を、十字架と復活の事を、私たちをそのままで、無条件で愛し、受け入れて下さる神様のことは、聞いたことがないという事になれば、それは、先に救われた私たちにも責任があるように思うのです。

 どのような方法であれ、イエス様の愛を一人でも多くの人に伝えたいと思います。本来ならば、最も近くにいて愛されるべき親からも愛されないでいる人、誰にも愛されたことがないという人もいるでしょう。けれども、イエス様だけは、あなたを愛している。愛し続けていて下さる、と伝えたいのです。なぜなら、すでにイエス様は私たちを愛するがゆえに、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。死んで終わりではなく、よみがえられ、天に上り、私たちに聖霊を与えて下さるのです。与えられた聖霊によって、私たちは力を受けるのです。私たちは、神様の霊に満たされてイエス様を証しする人となるのです。弱くていいのです。だめなままでいいのです。神様が聖霊を通して、私たちを強めて下さるのですから、安心してイエス様に全てをお任せして、この週も歩んでまいりましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」というイエス様の言葉は真実であり、成就するものなのです。

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日曜礼拝(2019年6月2日)

2019-06-02 12:33:55 | Weblog

日曜礼拝(復活後第六)      2019.6.2

人事を尽くして聖霊を待つ」 使徒言行録1:12-14,21-26

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。暑くなったり、涼しくなったりと気候の変化で体がついていかないという方々がおられるのかも知れません。先週、私は鹿児島に行っておりました。南九州なので、暑さを覚悟して出かけて行きましたが、なんと、とても涼しい週を過ごすことができました。北海道では、39度を観測するということで、北海道だから、涼しいという今までの考えや常識は改めないといけないように思います。

 今まで常識であったことが常識でなくなる。考えられなかったことが起こるという今日この頃です。先週、カリタスの生徒さんやご父兄が尊い命を奪われました。本当に痛ましい事件です。登戸はここから近い場所です。イエス様にしか解決がないと思いますので、私たちはイエス様を通して、十字架と復活を通して与えられる福音の恵みを語り伝えたいと思うのです。一人でも多くの人々に、福音による救いを語る使命、責任を痛感しているのです。誰よりも、イエス様が心痛めているのだと思うのです。悲しみの中にあるご家族や、学校関係者、特に生徒の皆さんの上に、主の慰めと励ましをお祈りいたします。

 さて、今日は、来週のペンテコステ礼拝を前にして、使徒言行録1章12節から14節、21節から26節を通して、「人事を尽くして聖霊を待つ」という題でお話し致します。

今日から司会者と説教者はノーネクタイでさせていただきます。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様にあって一つとなる

 イエス様は、弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と言われ、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と約束なさいました。そして、天に上げられたのです。

 5月30日はイエス様の昇天の記念日です。イエス様は弟子たちに、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と言われたように、イエス様は弟子たちの前で天に上げられたのです。弟子たちは、復活して40日間ご自分を自分たちに示されたイエス様が見えなくなって不安になったでしょう。心配になったでしょう。だからこそ、イエス様の約束の言葉を握りしめて、エルサレムに戻ったのです。イエス様のご命令通りに、エルサレムに留まるために。ユダを除く11弟子とイエス様のお母さんとイエス様の兄弟姉妹、婦人たちが共に集まっていたのです。集まって何をしていたのかというと、「心を合わせて熱心に祈っていた。」のです。新改訳聖書では、「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」 口語訳聖書では、「心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」とあります。リビングバイブルには、「祈り会を始めました。」とあります。イエス様が弟子たちに命令されたように、エルサレムに戻り、兄弟姉妹と共に、心を合わせて、熱心に、ひたすら祈りに専念していたのです。15節には、「百二十名ほどの人々が一つになっていた。」とあります。

 私たちは、一つになるということは難しいことであることを知っています。人数が多ければ多いほど、いろいろな人がおり、いろいろな考え方を持つ人がいます。百二十名の中には、男性も女性も、親も子も、兄弟姉妹も、先輩後輩も、いろいろいたでしょう。同じ思いを持つとか、同じ考えになるという事は、本当に困難です。しかし、彼らは、イエス様が天に帰られる前に語られた言葉、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」という言葉に従いました。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と言われたように、イエス様は去って行かれたので、弁護者、聖霊を送るという約束を信じて祈りました。そして、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われた言葉を信じて、イエス様の証人として力強く立てるように、聖霊が降ることを待ち望み、祈ったのです。彼らは、そのことにおいて一つになったのです。私たちも、イエス様のお言葉、聖書の言葉、イエス様の約束を信じて、心を一つにして祈りたいと思うのです。

 

 二、待つことを大切にする

 イエス様は、多くの弟子たちの中から12人を選びました。夜を徹して、熱心に祈り、12人を選ばれたのです。それは、12人をイエス様のそばに置き、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためでした。それは、イエス様を証しするためでした。しかし、弟子たちは、イエス様の近くで、奇蹟の業を見ても、すぐに忘れてしまいますし、イエス様の言葉を聞いても、自分に都合の良い用にしか聞かないし、聞きたくないことは、「今日、耳日曜」と聞かなかったのです。かえって、イエス様の権威ある言葉を聞き、驚くべき奇蹟の業を見て、イエス様の弟子であることに誇りを持ち、人々の上に立ちたがり、権威を振りかざすような、この世的な生き方、イエス様の低きに生きる生き方とは、正反対の歩みをしていたのです。ですから、イエス様の弟子たちへの訓練は失敗だと思えるようなものでした。

 この弟子たちが、このままではこの世に通用しないのです。このままの姿で、この世に遣わされてイエス様の証人にはなれないのです。聖霊で武装する、聖霊の力を受ける必要があったのです。彼らは、待つ必要がありました。「約束されたものを待ちなさい。」と言われて、すぐに与えられるのかも知れないと思ったのかも知れません。私たちは、なかなか待てない者です。自動販売機で飲み物を買ったことがあるでしょうか。お金を入れて、商品が、すぐに出て来ないとすぐにキレルのです。待てないのです。イライラするのです。30秒も待てないのです。すぐに、自動販売機をたたいたり、けったりする人もいます。私たちは、カップラ-メンを食べるにも3分間待てないのです。すぐに食べたいのです。

 トマスはイエス様に会うためには、1週間待つ必要がありました。私たちは、イエス様が天に上られてから10日目に聖霊が与えられると聖書を通して知っていますけれども、弟子たちはわかりませんでした。私たちは、二日待てとか、三日待てと言われたら、待てるかも知れません。しかし、待ちなさい、と言われると、いつまでとなるのです。その期間を、待つ時間を知りたいのです。

 私は、病院によく行くのですが、以前は、待っている時間が本当につらかったです。今でもつらいですが、呼び出される順番が電光掲示板に示されて、自分の診察の順番がわかるようになり、少しは待つことに我慢ができるようになりました。何もないとやはり、待つという事は、疲れます。イエス様は待つことを命令されました。そして、百二十名の人々は、ただ待つのではなく、イエス様の言葉を信じて、イエス様の約束に期待して、心を合わせて祈ったのです。どこまでも、自分の何かではなく、神様を信じて待ったのです。

私たちも、祈りが聞かれない。思うようにならない。悪い傾向ばかりのように思えると、感じることがあるのかも知れません。しかし、イエス様は、共にいると約束し、あなたを助ける、あなたを守ると約束しておられます。そのイエス様の言葉と約束を信じて、約束の言葉とイエス様に目を留めて、イエス様の時、神様の時、カイロス、神様の介入を待ち望みたいと思うのです。

 

 三、後は全て神様にお任せする

 弟子たちは、イエス様のご命令に従い、イエス様の言葉を信じて、心を合わせて、熱心に祈りました。祈りに専念したのです。それと共に、イエス様の12弟子の中で、イエス様を裏切って死んだユダの欠けを補おうとするのです。アブラハム、イサク、ヤコブとは、   旧約の信仰者の歴史を示します。このヤコブの子ども12人が、イスラエルの12部族のもとになりました。この12の数は、イスラエルという大きな民族をあらわします。ユダヤ人にとって、大切な12という数を大切にするために1人を選ぼうとするのです。

 その選びの条件は、21節、22節にあります。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 百二十名の人々が祈っていましたが、イエス様の弟子の一人として、ふさわしい人2人を選んだのです。一人は、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」、もう一人は、「マティア」という人でした。二人を紹介するのには、差があります。バルサバという名はあだ名であり、ユストとは、ラテン語での紹介、ヨセフとはヘブライ語での紹介です。マティアはヘブライ語だけの紹介。マティアとは、マタイという名前のギリシャ語、ラテン語形がマティアという言葉になるようです。

 聖書は順番を大事にします。ですから、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」が

最初に来ているという事は、ヨセフの方が格が上であり、より期待されている人物のように思います。ですから、人間的に見るならば、先に名前があり、その名前の説明が多くある「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」の方が期待されている。選ばれてほしいと思われていたのではないでしょうか。2番目の、名前の説明もあまりないマティアは、選ばれるような人ではなかったのかも知れません。

 イエス様の11人の弟子たちは、どちらがふさわしいのか、どちらを選ぶべきなのか、使徒としての任務を継ぐのはどちらなのかを神様に祈り、くじを引いたのです。このくじとは、私たちが何かの順番を決める時のくじや何かが当たるくじとは意味が違います。

旧約聖書にはイスラエルの初代の王を決めるのに、くじを引きました。神殿で行われる儀式や祭司の勤めもくじで決められていたのです。ここでも、イエス様の12弟子、使徒を選ぶのにくじを引いたのです。どのようにしたのかと言うと、候補者の名前を小石に書いて、名前を書いた石をツボに入れ、ツボをゆすって落ちて来た石、そこに名前が書かれている人が選ばれるのです。それが、神様が選ばれたということなのです。今回はくじは、大方の予想を外れて、マティアが選ばれたのでした。そして、このマティアが12人の一人として使徒としての働きをするようになるのです。

 人の思いと神様の思いとは違います。人間的には、選ばれそうにない、選ばれてほしいと思われなかったマティアが、12使徒として選ばれ、用いられることになるのです。この後、マティアという名前はどこにも出て来ません。そんなに大きな働きはしなかったのかも知れない。しかし、イエス様の語られた聖霊を受けるために、このマティアが12使徒のひとりとして選ばれることが必要だったのです。このくじのためにだけでも、マティアは立てられたのだと思うのです。必要のない人は誰もいません。神様は私のように何のとりえもない。何もできない、小さいし弱いと思っている人、そう、あなたを神様の働きのために選ばれるのです。そう、ここに、あなたがいるということが、すでにイエ様に選ばれているということなのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様の約束の通りに、イエス様が昇天されてから10日目に聖霊が与えられます。それが、来週のペンテコステ礼拝です。約束の聖霊が与えられるためには、弟子たちは、エルサレムにとどまり、イエス様の約束された弁護者、聖霊を与えられることを期待して、心を合わせて祈りました。そして、欠けた12使徒の一人を主が選ばれました。人事を尽くしました。やるべきことは全てやりました。後は、神様の、イエス様の約束を待つだけです。聖霊を待つだけです。聖霊に満たされるのを待つのです。そして、彼らは聖霊をいただいて力をいただいて、イエス様の十字架と復活の証人として立っていくのです。

私たちも、私たちの罪のために十字架にかかり、血を流し、死んで葬られ、復活されたイエス様を証しするために、聖霊に満たされるのです。何が起こるかわからない恐ろしい時代に私たちは生きています。だからこそ、イエス様の救いを、イエス様の愛と恵みを伝えたいのです。この週もイエス様があなたと共におられますから、大丈夫です。

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