江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

(22年10月23日)

2022-10-24 17:35:09 | Weblog

最悪に思える状況に置かれたときに思い出して欲しいこと

エレミヤ書29:1〜14(新共同訳)

 

導入部

  • みなさま、おはようございます。本日このように、久しぶりに、ご一緒に礼拝を捧げられることを心より感謝いたします。メッセージに入る前に一言、お祈りさせていただきます。
  • 本日のメッセージのタイトルは、「最悪に思える状況に置かれたときに思い出して欲しいこと」というものです。私たちは、人生のなかで、私たちは辛く、苦しい状況に置かれることがあります。それが、自分自身の状況であることもあれば、自分の周りの人、特に愛する人が、辛く、苦しい状況に置かれるとき、それは自分がそのような状況に置かれるよりも、辛く、苦しく感じることと思います。

 

本論部

一.バビロン捕囚の苦しさ、辛さ

  • 本日の箇所は、「バビロン捕囚」という、非常に苦しい、辛い状況のなかにあった、本日のタイトルにもしていますが、まさに「最悪な状況」のなかにあったイスラエルの民に向けて、エレミヤという預言者が書いた手紙の一部です。
  • 4節をご覧ください。

 

29:4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。

 

  • イスラエルの人々は、バビロン帝国という国との戦争に負け、バビロンに連れて行かれました。それを「バビロン捕囚」と言うのですが、なぜそんなことになったかというと、イスラエルの民が、神様に向かって罪を犯したからです。
  • 戦争に敗れ、すべてを失い、バビロンに連れて行かれた。悔しかったでしょう。自分たちなんてダメだ、って思っていたことでしょう。自分に失望したことでしょう。
  • あるいは、神様への失望、神様への「怒り」もあったことでしょう。なぜなら、「わたしが送った」とあるように、この出来事の背後には神様がいたからです。
  • だからこそ、神様、なんでですか。そりゃあ、私たちも悪かったかもしれない。でも、ここまでひどい状況に置かなくてもいいんじゃないですか?神様に何度も「助けてください」って祈った。それなのに、なんで何もしてくれないんですか?どうせ神様なんて…。そのように思ったことでしょう。
  • 私たちも、日常のなかで、失敗をした、罪を犯してしまった、そのような経験をすることがあります。そして、その結果、起こったことについて、自分に失望することが、神様に失望することがあると思います。

 

二.神の計画はロングスパンである

  • そのような彼らに主が、エレミヤを通して語ったことが、5節からです。
  • 5節、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」。今いる場所に、しっかり腰を据えて、その場所で生活しなさい、誠実に働きなさい。彼らは、一日でも故郷に帰りたいんです。それなのに、その場所で生活しなさい、誠実に働きなさいと語る。
  • 6節には、「妻をめとり、息子、娘をもうけ」とあります。家族を持つと、引っ越しが大変です。動きにくくなります。もし、すぐにイスラエルに帰るのであれば、独身でいた方が良いでしょう。現代は、独身者が増えている時代だと言われますが、聖書は独身の祝福を語っています。ただ、ここで主が語っているのは、すぐには帰れないのだから、結婚して良いんだ。そして、もし子どもが与えられたなら、信仰を伝え、増えなさいということでした。
  • そして、7節、「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」。バビロンは敵の国です。バビロンに家族を殺されたという人もいたことでしょう。本当ならこんなところにいたくないんです。早く故郷に帰りたいのです。
  • でも、バビロンに留まり、バビロンの平安を、繁栄を求めて祈りなさい、そこで働き、結婚し、子育てをしなさい。そして、なんと、バビロンのために祈りなさいと言うのです。
  • これは、イスラエルの民にとっては、あまり嬉しくない、微妙なメッセージだったことでしょう。なぜなら、繰り返しますが、彼らとしては、早く故郷に帰りたいからです。早く苦しみから、辛さから、失望から、あるいはこの最悪の状況から解放されたい。
  • しかし、神様の計画はそうではなかった。10節をお読みします。

 

29:10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

 

  • その前の8、9節には偽物の預言者たち、占い師たちが全然違うことを言っていたということが書かれています。少し前の28章には、ハナンヤという偽預言者が、二年でイスラエルに帰れるのだと言ったことが書かれています。偽預言者たちは言ったのです。すぐバビロンからイスラエルに帰れるよ!すぐ状況は変わるよ!
  • それに対して、エレミヤが言ったのは、そんな甘いことばに騙されてはいけない。七十年という、長い長い期間が、あなたたちには必要なんだ。七十年を経て、あなたたちは初めてイスラエルに、約束の地に戻ることができる。だから、今はバビロンで生きなさい。
  • イスラエルの民は思ったことでしょう。いやいや、今のこの状況をなんとかしてほしいんだ。そんな先まで待てない。早くなんとかしてほしい!
  • そのように思うのは、ある意味で当然です。そして、そのような「嘆き」や「願い」を正直に祈ることも大切なことです。正直に祈るその祈りを主は聞いてくださっていて、時に、神様が速やかに問題を解決してくださることもあります。
  • しかし、多くの場合、何かが変わったり、解決したり、納得したりするのには時間がかかるのです。イスラエルの民は、七十年かかったのです。神様の計画はロングスパンなのです。長い期間をかけて、分かることがあるのです。

 

三.将来と希望を与える計画

  • 11節をご覧ください。

 

29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

 

  • 主は言われたのです。あなたたちの目の前には「災い」しか見えないかもしれない。しかし、わたしは、長い時間をかけて、それを良いものに変える。あなたたちは、平安を与える計画のなかに、将来と希望を与える計画のなかに入れられている。
  • 12節からをお読みします。

 

29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、

29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

 

  • 旧約聖書全体にわたって、イスラエルの民がずっと陥ってきた罪、それは「偶像崇拝」という罪です。自分たちを救った神ではなく、別の神を拝むという裏切り行為です。
  • 私たちが、旧約聖書読むとき、逆に面白くなるほど、イスラエルの民は、何度悔い改めても、同じ罪に陥っています。どうして変わることができないのか、と思わされます。しかし、バビロン捕囚という大きな苦難のなかで、イスラエルの民から、偶像崇拝が消えます。
  • 大きな苦しみのなかで、彼らは、この箇所にあるとおり、神様を「」んだのです。神様のもとに「来て」、「祈り求め」た、「尋ね求め」たのです。「心を尽くして」、神を「求め」たのです。
  • さらに、このエレミヤ書をはじめとする聖書を研究し、それがやがてシナゴーグという、今でいう教会のような場所につながっていく。
  • もちろん、そのなかからファリサイ派、律法学者たちが生まれ、逆に律法主義という罪に陥っていくという意味では、人間の罪の深さを思いますが、少なくとも、苦しみのなかで、彼らをずっと支配してきた一つの問題が解決したのです。
  • 神様は、バビロンという、最悪に思えた場所で、イスラエルの民に「出会」ってくださいました。最悪に思える状況のなかでこそ、味わえる恵みがある。その場所だからこそ、「見いだ」すことができる主の素晴らしさがあるのです。

 

III結論部

  • でも、それは、このときの彼らには分からないのです。まだ見えない。彼らに語られているのは、それはどんな風にか、ということは分からない。でも、あなたがたには平和を、平安を、将来と希望を与える計画が用意されている。将来と希望を与える計画のなかに、あなたがたは入れられている。
  • だからこそ、主はイスラエルの民を招くのです。「家を建てて住み」。自暴自棄になることなく、焦ることなく、今、置かれている状況のなかで、遣わされている場所で、落ち着いて、ゆっくり、丁寧に生きなさい。それで良いんだ。やがて分かる日が来る。ゆっくりで良い。神の計画はロングスパンだから。あなたは、平安と将来と希望を与える主の計画のなかにすでに入れられているから。
  • 私たちにも、主は、今も語ってくださっている。焦ることなく、今、置かれている場所で、遣わされている場所で、落ち着いて、ゆっくり、丁寧に生きよ。大丈夫だ。あなたにどんな弱さが、失敗があったとしても、それすらも凌駕する、将来と希望を与える計画が用意されている。主はあなたの必要を確かに備えてくださる。
  • そして、終わりの日、イエスさまがもう一度この地に戻ってこられるとき、約束の地に、「約束しませる家に、帰」ることができる。私たちにとっての本当の故郷である神の国を、この地に来らせてくださる。そのとき私たちは、神様のご計画は完璧だったと分かる。私たちの罪も、失敗も、悪も、それすらも良いものに変えてくださった。「物事すべてを良き」ものにしてくださった。すべての苦しみに、意味があった。「君に守られた今日まで来」た。本当に、神様の計画は確かに素晴らしいものだったと、分かる日が来る。
  • だから、安心して、今週も、それぞれの場所に遣わされていきたいのです。最悪に思える状況に置かれたとき、思い出していただきたいのです。あなたは、将来と希望を与える計画のなかに入れられている。そのことを信じてほしい。主の御計画に信頼して、落ち着いて、ゆっくり、丁寧に、遣わされた地で、「救い主イエスとともに行く」歩みへと、主はあなたを招いておられる。
  • この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
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日曜礼拝(22年10月16日)

2022-10-16 12:35:40 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後18主日)     2022.10.16

神様の愛が心満たすとき」 マルコによる福音書12:28~34

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第三の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、置かれた場所で、御家庭でオンラインを通して礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。先週は、秋を通り越して冬のような寒い日があり、慌てて冬物を出すという服装にも気を使う週でありました。皆さんの健康が守られて日々の歩みがなされますようにお祈り致します。

 先週、青葉台教会の礼拝では学園教会の久米淳嗣先生が、ヤコブの手紙を通して、とても大切なみ言葉を語って下さいました。先週は、10月の第二週でナザレン日としてのことも語って下さいました。午後からは「セクシャルマイノリティーと共に歩む教会」と題して講演会で語って下さり、とても大切な内容でありました。心から感謝致します。

 私は九州の佐賀県鳥栖教会の創立40週年の記念礼拝での御用でした。40年の間、神様が鳥栖教会を守り導いて下さいました。これからも、イエス様が教会の頭として、鳥栖教会を守り、支えて下さいますようにお祈り下さい。

 今日は、マルコによる福音書12章28節から43節を通して、「神様の愛が心満たすとき」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様への愛と隣人への愛はセットです

 28節には、「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」」とあり、 イエス様が、サドカイ派の人々との問答において、旧約聖書から引用して、立派に答えたので、律法学者が尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と。何故、このような質問が飛び出したのかと言いますと、律法学者は、ユダヤ教社会の生活の中で起きて来る様々な問題を、神様の掟、律法に基づいて解決するという働きがあったようです。それで、職業柄全ての掟やその解決を熟知していなければならなかったのです。その知識を生かして弟子を集めて、掟や解決を与えるということをしていたのです。多くの量の掟があるので、何か解決しなければならない問題が起きた時、どの戒めを適用させたらよいのか、どの掟を優先したらよいのか、どう解決したらよいのかという問題が頻繁に起きてきたのです。多くの掟があるので、次第に何が本当に神様のご意思なのかわからなくなっていたのです。ですから、神様の掟だと思ってやっていたことが、神様のご意思から離れてしまっていたというようなことが起きていたようです。なので、律法学者は、何が神様のご意思にそうような生き方なのかと真剣に考える人にとっては、「掟の中でどれが一番重要なのか」という問いが切実なものとなっていたようです。また、律法学者たちは、モーセ五書の戒めを613の部分に分けて、どれが最も大切なのか、ということを議論していたようです。ですから、この律法学者は、イエス様がサドカイ派の人々に立派に答えたのに感動して、イエス様になら答えてくれるのではないかと、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたのです。

 29節、30節には、「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」とあります。イエス様は申命記6章4節、5節にある「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉を引用されました。申命記には、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」とありますが、イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と言われ、申命記にある3つに加えて、「思いを尽くし」付け加えられたのでした。「思い」とは、理性的な働きを指す言葉です。イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」に加えて、理性の働きの全てをもって、神様を愛するようにと言われたのです。律法学者の問いは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」ですから、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」でよかったのですが、第二も語られるのです。第一と第二のものは切り離せないからです。

 

二、神様を愛することから隣人への愛は流れる

31節です。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」」 この言葉は、レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」、19章34節の「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」からの引用です。イエス様は、神様を愛することと自分のように隣人を愛することが掟の中の掟だと答えられたのです。

  モーセの十戒は、二つの部分から1戒から4戒は、神様と人間との関係の掟、5戒から10戒までは、人間と人間との関係の掟が記されています。1戒から4戒は、全身全霊を持って神様を愛するということ、5戒から10戒までは、隣人を自分のように愛するということが記されているのです。十戒もイエス様が示された神様を愛することと自分のように隣人を愛するということを示し、神様のお心がここにあるのです。

  イエス様は、第一として神様を愛すること、第2として自分のように隣人を愛することを示される前に、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。」と述べられました。これが聖書の確信とも言うべき事柄でしょう。申命記4章35節には、「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った。」とあり、神様が唯一であるということを強調しています。また、レビ記19章には、「わたしは主である。」「わたしはあなたたちの神、主である。」という言葉を何度も繰り返されています。神様の愛と隣人への愛は、私たちが私たちの神様、主を心から知った結果として必然的に生まれて来るのだと思うのです。

  この唯一の神様との交わり、関係は、「愛する」という交わり、関係なのです。神の民は、唯一の神様との人格的な深い交わりを持って生きるのです。神様を愛するとは、唯一の神様との交わりに生きることにおいて成立するのです。日本の八百万の神々とは、愛するという関係にはならないのです。多くの神々は、困った時の神頼みとはなっても、愛する相手、愛する関係にはならないのです。神様との間に、「愛する」という関係を持って生きることこそ、神の律法、戒めが教えている神の民の在り方の中心、要なのです。

 神様を愛するということは、隣人を愛することと離れてはあり得ないのです。神様を愛していても、隣人を愛さないということはあり得ないのです。そのようなことがあるならば、神様を愛しているという愛は本物ではないということです。目に見える隣人を愛しているかどうかによって、目に見えない神様に対する私たちの関係が明らかになってくるのです。ヨハネの手紙第一4章20節から21節には、「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」 私たちは、神様を愛している者として隣人を愛するのです。

 

 三、神様への愛は隣人への愛の実践でわかる

 イエス様は、律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問に、神様を愛することと自分のように隣人を愛することを示されました。イエス様の答えに対して、32節。33節では、「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」」とあります。

 律法学者は、どんなにうやうやしく神殿で礼拝をささげ、いけにえをささげても、宗教的な儀式をたくさんしても、神様への愛や隣人への愛がなければ、神様から見て何の意味もないむなしい行為にすぎないということを理解したのです。サムエル記15章22節には、「サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」とありますし、ホセア書6章6節には、「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とあります。

イエス様は、34節で、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」とあるように、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。「遠くない」とは微妙な言い方です。「おしい」「もう少し」「かすっている」ということでしょうか。望んでも手の届かない所にあるのではなく、手を伸ばせばつかむことができるということでしょうか。手を伸ばさないで、手をこまねいていれば、神の国は無限に遠いということになります。少ない差であっても、まだ神の国にはいないということでしょう。

律法学者は、33節で、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、」と言いましたが、イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、」と言われました。イエス様は、「知恵を尽くし」と知恵とは言っていません。律法学者は、正しい答えを頭、知識ではよく知ってはいても、その答えの本当の意味を理解していなかったことになるのでしょうか。

イエス様は、ルカによる福音書10章にある善いサマリア人の譬えで、律法の専門家の「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という質問に、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と言われて、善いサマリア人の譬えをして、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

というイエス様の質問に律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えました。それに対してイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたのです。今日の箇所に出て来る律法学者は、彼の答えの内容とその答えの内容の通りに生きているかは別問題だったでしょう。頭では知識ではわかっていても、実践が伴っていなかったのでしょう。だから、イエス様は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたように思うのです。あなたはどうでしょうか。

 

 Ⅲ結論部

 神様に対する愛は、神様が私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれて来ます。それを知れば知るほどに、神様への愛は高まるのです。神様は天地を創造し、人間を創造されました。そして、命を与え、人生を与えられました。しかし、人間の神様への不従順、罪のゆえに、神様と人間の間には断絶が生まれました。神様は人間との関係を回復するために、神であるイエス様を人間の姿でこの世に送られました。それがクリスマスです。本来罪人である私たち人間が受けるべき神様からの罰、裁きを全てイエス様の上に負わせられたのです。イエス様は十字架の上で、尊い血を全て流し、命をささげられたのです。イエス様の犠牲の死に免じて、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が赦されたのです。イエス様は死んで墓に葬られましたが、父なる神様はイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を私たちのために開いて下さったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネの手紙4:9-10)と聖書は語ります。

 神様がこのようにイエス様の十字架と復活を通して与えられた恵みによって、私たちは神様を愛する心が生まれるのです。神様が私たちにして下さったことが、どんなに大きなものであるのかがわかればわかるほどに、神様に対して、イエス様に対して、全身全霊を持って、心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、神様を愛するようになるのです。神様を愛することができる私たちは、隣人をも愛する                                                                         ことができるようになるのではないでしょうか。

 神様を愛するとは、神様に従うことです。イエス様は、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」(ヨハネ12:21)と言われました。神様を愛するということが、神の言葉、掟に従う、守ることによって表現され、証明されるのです。

 神様を愛するとは、神様が自分にして下さったことの全ての良い事に対して感謝を表すことです。

 神様を愛するとは、神様と共にいるということです。神様との交わりを常に求めるのです。神様との交わりとは、礼拝であり、ディボーション(神の言葉と祈り)です。

 神様を愛するとは、神の愛、福音を教会が、私たちが伝えることなのです。

 マザーテレサにある人がこう言いました。「百万ドルもらっても、私はハンセン氏病者には触りたくはない。」マザーテレサは言いました。「わたしも同じです。お金のためなら、二百万ドルやると言われても今の仕事はしません。しかし、神への愛のためならば、喜んでします。」愛は神様から出ているのです。神様の愛が私たちの内側に満たされてこそ、隣人を愛する行為と導かれるのではないでしょうか。私たちは、この週、神様を愛する行為として礼拝を守っているように、日々み言葉に触れ、祈りを通して神様と深く交わり、神様から出る愛に満たされて、自分を愛し、隣人を愛する者として歩ませていただきましょう。私たちは弱い者ですが、イエス様が共におられます。愛の源であるイエス様が私たちを支え励まし、強めて下さいます。安心して、イエス様に全てをお委ねして、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(22年10月2日)

2022-10-02 12:42:06 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後16主日)     2022.10.2

ざわつく信仰」 マタイによる福音書21:28~32

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第一の日曜日を迎えました。久しぶりの青葉台教会での礼拝となります。愛する皆さんと共に会堂に集い、あるいは、オンラインを通してご自宅で、置かれた場所で、共に心を合わせて、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

 2022年も4分の3が終わりました。コロナの新規感染者も徐々に減少しつつあります。朝夕もすっかり涼しくなりました。まだ、昼間は暑い日がありますが、秋の気配を感じる季節となりました。

 今日は、マタイによる福音書21章28節から32節を通して、「ざわつく信仰」と題してお話しします。「ざわつく」とは、「ざわざわする。ざわめく。落ち着かない状態になる。」という意味があります。ある人の発言にざわつく、落ち着かないということでしょう。

イエス様と宗教指導者たちとの会話、議論は果てしなく続きますが、イエス様の言葉に、発言に、宗教指導者たちは、ざわつくということがありました。私たちも聖書の言葉に触れる時、心がざわつくということがあると思います。今日も聖書の言葉が私たちの心に触れて、心がざわつく、落ち着かない、神様の言葉に心を向け、イエス様に信頼する者となりたいと思うのです。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様に創造された者として生きる

 マタイによる福音書を書いたマタイは、徴税人の仕事をしていました。ユダヤを支配しているローマから仕事を任せられ、同胞のユダヤ人からはローマの飼い犬だと憎まれ、嫌われていました。そのような苦しみや痛みを知っていたマタイであるからこそ、イエス様が語られた二人の息子のたとえ話を記すことができたように思います。今日のこの個所の二人の息子の譬えは、マタイによる福音書にしか出て来ません。マタイは、彼自身がそうであったように、ユダヤの宗教指導者たちから苦しみを受け、見捨てられていた人々や、異邦人の痛みや苦しみに寄り添うことができたのだと思うのです。マタイ自身が、徴税人という働きのゆえに、不正を働き、自分の富を増やし、同胞のユダヤ人から規定以上の金を巻き上げ、苦しめていた。そのような自分をイエス様は否定することなく、咎めることなく、イエス様が自分を弟子として召して下さった経験を通して、自分の過去の罪やつまずき、恥や失敗、喪失感、劣等感などがあっても、イエス様に触れることを通して、真の神様への信仰に向かわせるものであることを知っていたのです。そのことを二人の息子のたとえを通して語っているのです。人生に無駄なものはないということを知るのです。

イエス様とユダヤの宗教指導者たちの間では、激しい火花が散っていました。緊迫した場面での出来事が、マタイによる福音書21章12節から記されています。神殿の境内で売り買いする人々、その人々の台や腰掛をイエス様は倒し、追い出してしまわれました。イエス様のそのような態度に、何の権威でそのようなことをするのか、と宗教指導者たちはイエス様に迫るのです。そこでイエス様は二人の息子の譬えを話されました。イエス様は、二人の息子のどちらが、父の望みに忠実であったのかと譬えを用いて、父なる神様のみ心に適う忠実な息子はどちらなのか、とユダヤの宗教指導者たちに問われるのです。

 この譬えには、兄と弟が出てきます。私たちが使用している新共同訳聖書では、兄が最初否定しましたが、父の望みに従い、弟は肯定しながらも父の望みに従わなかったとありますが、新改訳聖書第三版や口語訳聖書、リビングバイブルでは、兄と弟が逆で、弟が最初否定しましたが、父の望みに従い、兄は肯定しながらも、父の望みに従わなかったとあります。何故、このような事があるのかというと、元のギリシャ語の本文には、2種類あって、どちらの本文を使用したかによって、兄と弟が逆になるということがあるようです。原文には、「最初の息子」と「もう一人の息子」と表現されていて、兄か弟かは、はっきりしないのです。私たちは、兄と弟の姿勢、生き方から学びたいと思うのです。

 

 二、心がざわついてもいい

 今日のたとえ話には、兄と弟が出てきます。聖書には、兄と弟がよく出てきます。アダムの息子のカインとアベル、兄が弟を殺し、人類最初の殺人者がカインでした。また、イサクの息子のヤコブとエサウ、弟ヤコブは兄エサウから長子の権利を奪いました。新約聖書では、放蕩息子に出て来る優等生の兄と家出するどうしようもない弟です。兄と弟は、それぞれ違う人格を持っています。私たちは、人を判断する時、生年月日や出生地、血液型、学歴や職歴、家柄など、または見た目で勝手に、その人となりを判断してしまいます。

私たちも兄弟姉妹がいて仲が良かったり、悪かったりとそれぞれでしょう。自分と兄や弟、姉や妹と比べることは多くあり、喜んだり、ひがんだりといろいろあります。

さて、新共同訳聖書では、父の望みに応えたのは兄でした。父の「ぶどう園へ行って働きなさい」という望みに兄は、「いやです」と答えましたが、「後で考え直して」出かけました。弟は、「お父さん、承知しました」と答えましたが、ぶどう園には行かずに、父の望みには答えませんでした。兄の性格なのでしょか、父の望みに「いやです」と反発します。素直ではありません。けれども、「後で考え直して」、「父の願いを無視して悪かった。今、ぶどう園で働き手が少ないから頼んでいるのに、何でいやですと言ったのか」と反省して、父の望みに応えようと考えを変えて、ぶどう園に行って働いたのです。弟は、「ぶどう園へ行って働きなさい」という父の望みに素直に答えます。「お父さん、承知しました」と。しかし、弟は口先だけで、ぶどう園には行きませんでした。お父さんの手前、リップサービスをしておいて、後は知らない、という適当なことだったのでしょう。弟は、「いやです」と否定して、行かなかったよりも、「お父さん、承知しました」とお父さんを一時喜ばせたので、少しはましでしょうか。「いやです」と言って行かないことと、「お父さん、承知しました」と言って行かないことは、結果は行かなかったということで同じだと思います。

兄は「いやです」と言ったけれども、「後で考え直して」ぶどう園に行きました。どうせなら、「お父さん、承知しました」と言って、ぶどう園に行って働くことが最善ではないでしょうか。でも、なかなか人間、そう簡単に、単純にそうはいかないということなのでしょう。理想は理想であって、現実は厳しいものがあります。私たちの心も簡単なものでありません。ざわつくのです。時と場合によっては落ち着かないということがあるのです。

 

 三、悔い改めることが恵みとなる

イエス様は、31節の前半で、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と宗教指導者たちに問うと、「兄の方です」と彼らは答えたのでした。31節の後半から32節には、「イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」」とあります。宗教指導者たちは、自分たちこそ、神様に選ばれた者、神様に招かれて神の国にまず入る資格を持っている者であると自負していた彼らにとっては、最大の侮辱でありました。宗教指導者たちから見て、徴税人や娼婦は神様から見捨てられた者、罪深い者、神の国には入れない者だとレッテルを貼られた板彼らが、神様の前に建前として、清く、正しく、美しく生きていた自分たちよりも徴税人や娼婦が先に神の国に入るということは、信じられないことであり、絶対に受け入れられないことでした。この譬え話のポイントは、「後で考え直す」かどうかという点にあります。宗教指導者たちは、父の望みに、「いやです」と答えたものの、「後で考え直して」ぶどう園に行った兄を父の望み通りにしたと躊躇なく答えることができました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイ21:23)とイエス様に言った宗教指導者たちは、自分たちの持つ権限のことは気にかけてはいても、真の権威のよりどころである父なる神様のことを真剣に受け留めてはいなかったのです。本当に、神様の権威を畏れて、神様に仕えて人々に奉仕するのであれば、神様の望んでおられることを実行するはずではないかとイエス様は問われるのです。エルサレムの宗教主導者たちには、罪の悔い改めを求めたバプテスマのヨハネの言葉は届きませんでした。罪を悔い改めてバプテスマを受ける人々の姿を見ても、彼らは心の中でさげすんでいたのです。

イエス様は、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と言われました。バプテスマのヨハネが義の道を示したのに、悔い改めなかったのに対して、罪人のグループ、徴税人や娼婦たちは、それを信じて悔い改めたのです。神様に背いて生きていた今の道をよく考え直して、神様の言葉に示された「義の道」に立ち返る必要があるのです。バプテスマのヨハネの権威とイエス様の権威には密接な関係がありました。バプテスマのヨハネに対する人々の態度が、すなわち、イエス様に対する態度であるというのです。バプテスマのヨハネの言葉に耳を傾けるのなら、イエス様のもとに来ることであり、バプテスマのヨハネの言葉を拒絶するならばイエス様を拒絶するというのです。バプテスマのヨハネに対する態度が、人間の応答のバロメーターになるのです。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」とイエス様は言われました。イエス様を否定しても、受け入れなくても、考え直して信じることの大切さをイエス様は示されたのです。あなたはどうでしょうか。

 

 Ⅲ結論部

 29節と32節にある「後で考え直して」の「考え直す」は原語では「メタメロータイ」といい、「後悔する、悔いる」という言葉の意味があります。「悔い改める」は原語では、「メタノエオー」といい、考えを変える、方向転換するという意味があります。「悔い改める」とは、涙を流して反省するというのではなく、自分の今の在り方、生き方を悔い改めて、神様の元に立ち返るということです。旧約聖書エゼキエル書33章11節には、「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」とあります。神様は、罪ある私たちが神様に立ち返ることを心から望んでおられるのです。そのために、神であるお方イエス・キリスト様を人間の世界に送り、罪のないイエス様が、罪ある私たちの身代わりに神様から裁かれて、十字架で尊い血を流し、命をささげて下さった。私たちの罪を赦すために身代わりに死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、参日目によみがえり罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が全て赦され、清められ、死んでも生きる命、永遠の命を持つものとされるのです。私たちは死んでも生きるのです。

 ルカによる福音書15章の放蕩息子に出て来る弟は、父の財産をもらうと金に換え、遠くの国へ行き、放蕩三昧、自分の欲を満たす生活を送り、あっという間に、お金を失い、飢饉に見舞われ、自分の命が危なくなって、父の事を思い出して、考え直して、悔い改めて父の元に帰るのです。父は息子の帰りを大喜びで迎えました。この息子は、自分が息子と呼ばれる資格はないというほど、許されるはずのない罪を犯しました。しかし、父にとって、彼の罪は問題ではありませんでした。どんなに罪を犯そうが、赦されるはずがないと自分が思うほどの罪を犯していても、父なる神様のもとに帰る、悔い改めて立ち返ることなのです。「いやです」と父の望み否定しても、後で考え直してぶどう園に行った兄のように、どのような罪があってもいいのです。自分では、あるいは、人が赦されるはずのない罪だと言っても、考え直して、悔い改めて、自分がどんなに罪深い所に立っていようとも、神様の元に帰ることなのです。そこにこそ、赦しと癒しと慰めがあるのです。

 イエス様は、あなたがどのような状態であっても、あなたを愛し、あなたの最も愛している家族をも愛しておられるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)とイエス様は、今日あなたに語られるのです。あなたが今背負っているどんな重荷をも、イエス様が負って下さる。支えて下さるのですから、あなたの重荷をイエス様の元におろして、この新しい1週間を送りたいと思うのです。この週も、イエス様があなたと共におられます。心配しないで大丈夫。どんなに私たちの心がざわついても、イエス様はあなたを受け入れ守られるのです。

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