江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(22年7月24日)

2022-07-24 15:33:11 | Weblog

2022.7.24 説教題「エゼキエル預言と教会の使命」                聖書箇所 エゼキエル書 38:1~23
イントロダクション
今、現実に戦争が起こっています。ロシアが2月24日にウクライナ侵攻を始めてから、ちょうど今日が5ケ月目になります。2019年12月に発生したコロナ感染も未だ終息しません。落ち着いたかと思うと、すぐに元に戻り、第 7 波到来とも報道されました。衝撃的な銃撃事件も起き、信じ難い事が次々と起こっています。私たちは、明日の事も分からなければ、明日が来るかどうかも分かりません。あさって 7月26日から8月2日まで私は、神学生夏期派遣で、福岡、佐賀、長崎にあるナザレン教団の8教会に行く事が決まりました。長崎では江上先生と合流し、長崎チャンポンを食べると思います。その前に今日、神様から説教の機会を与えられ、旧約聖書のエゼキエル書が示されました。示されたというのは、神学校の旧約緒論という講義の前期の課題が、エゼキエル書の時代と特色についてまとめることとなり、読まなければならなくなった事です。今日はその中で神様から預言者エゼキエルに語られた、最後の部分のエゼキエル戦争と、その後に来る大艱難時代までをお話ししたいと思います。エゼキエル戦争は、38:15~16 の「お前は北の果ての自分の所から、多くの民を伴って来る。・・・お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上ってくる。その事は終わりの日に起こる。・・・」とあります。
イスラエルが侵攻される戦争ですから、今のロシアのウクライナ侵攻の戦争は、終末の戦争では無い事が分かります。
 今から49年前、ノストラダムスの大予言ブームがありました。「1999年7月に空から降って来る恐怖の大王によって世界は滅亡する」というものです。本は250万部以上売れて、どこもかしこもノストラダムスの話題で持ち切りでした。当時小学4年生だった私も、まだ信仰は無く、何の根拠も無いのに、結構本気にしていました。ご存じの皆さんはどうでしたか。言葉のこじつけ方がリアルで、少しは洗脳されて完全に騙されました。前日にはみ
んなが「明日地球最後の日だけど、どうする。」と言い回っていました。だいたいみんなの答えは「好きな事をする。」でした。結局大王は空から降って来ず、何も起こりませんでした。そして今、また続編がブームになりつつあります。「2022年に世界中に闇の3日間が訪れ人類の3分の2が滅亡する。」というものです。今年の内に4つの出来事が起こるとなっています。1つ目は第三次世界大戦が勃発し、今のロシアとウクライナ戦争と米中対立から核戦争が起こる。次に小惑星シャワーの到来です。ふたご座流星群の一部が隕石として地球を襲う。次に大洪水が起こる。異次元の気候変動が誘発されて、世界中で大規模水害が頻発する。4つ目が米ドル市場の崩壊です。投資家が米ドルを金銀、仮想通貨に替える動きが活発化する。今年はあと5か月で終わります。占星術により予言していますが、すでに起こっている現実があると、人間は真に受けて半信半疑になりがちです。私たちは、幸いなことに聖書の御言葉から真実を知る事が出来、聖書に書かれてある事全てが成就する事を信じています。出来るだけ順を追って、関連する聖書個所と照らし合わせながら解釈して行きたいと思いますが、少し解説っぽくなりますのでご了承下さい。専門家
の異論や賛否両論ありますが、聖書の御言葉は100%です。人間的解釈にはイメージ的部分や間違いも多少ありますので、解釈の中の一つとして捉えて頂けたら幸いです。実際に起こった事は「確かそうだったな」くらいの感じで聞いてください。聖書の箇所は「そうなんだ」で信じて下さい。「こうじゃない、そうじゃない」がありましたら江上先生の方にお願いします。

本論
38:1に「主の言葉がわたしに臨んだ。」とあります。約2600年前の第一回バビロン捕囚時代に神様は祭司エゼキエルに語られました。38:2 に「・・・マゴグの地のゴグ・・・メシェクとトバル・・・」とあります。マゴクとゴク、さっぱり意味が分かりませんので色々と調べました。創世記 10:2 で、ヤフェトの子孫の中に、マゴグ、メシェク、トバルがいます。ヤフェトはノアの三人の息子のセム、ハム、ヤフェトのヤフェトです。ヤフェトの子孫はインドからヨーロッパに広く散らばり、マゴクの地とは、黒海沿岸の今のロシアの南端かトルコの東端付近になります。メシェクはモスクワの語源、トバルがトボリスクの語源になります。トボリスクは今のロシアのチュメニ州の都市です。モスクワは、イスラエルから見ると北の果てにあります。ピンと来ませんが、つまり、ロシアの領主が、多くの国と同盟を結び南下して来るという事です。38:5 に「ペルシャ、クシュ、プト・・・」とあります。ペルシャは今のイランです。イランは 1979 年のイスラム革命で、エルサレムを奪還しようとします。この時アメリカはイスラエルを支援します。イランはアメリカに反抗し、当時のソ連と手を組みました。創世記 10:6 で、ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナンであった。ノアの子ハムは、アフリカ系のハム語族の先祖で、クシュとプトは今のスーダンとリビアあたりです。内戦の絶えないスーダンやリビアに進出しているのがロシアです。いずれイラン、スーダン、リビアがロシアと同盟を結ぶとされます。創世記 10:3 で、ゴメルの子孫は、アシュケナズ、リファト、トガルマであった。ゴメルは、ヤファテの子で、その地は黒海の北側で、今の東欧です。アシュケナズは、ドイツ人の祖先となり、トガルマはトルコ人の祖先となります。ソ連経済が弱体化して東欧諸国は独立します。1991 年にソ連が崩壊しロシアになりました。東欧諸国は西側の NATO に次々と加盟し、ロシアから離れて行きました。そして危機感を持ったロシアが 2014 年にクリミアに侵攻し、今年 2022 年 2 月 24 日にベラルーシと協力して、ウクライナに侵攻しました。ロシアのプーチンは侵攻前からテストによって、アメリカが軍事介入して来ない事と、NATOが派兵しない事を確信していました。暴挙には変わりありませんが、計算づくであったと言
えます。トルコは、ロシアとは歴史的に仲が悪く、NATO に加盟しています。ところが今は、ロシアと協調路線にいます。2008 年にロシアはトルコの北のジョージアに侵攻しました。イスラエルへの道を整備しているかのようです。トルコはいずれロシア側につくと見られます。2017 年にイラクとシリアの内戦に対処する名分でロシア、トルコ、イランの三国同盟が生まれました。
38:7~8 の「備えをせよ。・・・お前のもとに招集されるすべての集団も備えをせよ。・・・一つの国を襲う。・・・それは長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で・・・」とあります。ロシアを先頭に、イラン、トルコ、スーダン、リビア、東欧諸国が同盟を結び、イスラエル攻撃が始まろうとしています。西暦 73 年にイスラエルはユダヤ戦争でローマに大敗し、土地は荒廃し、ユダヤ人たちは世界中に離散しました。モーセを通しての神の約束に、呪いの
誓いの後のイスラエルへの帰還と復興の希望がありました。1948 年にイスラエルの建国宣言があり、その翌日から中東戦争が始まりました。その中でイスラエルは生き残ります。荒地は蘇り、イスラエルは最先端の科学技術と最強の軍備を備えた経済大国となりました。38:16 に「お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らが私を知るようになるた
めである。」とあります。ここで神様は、わたしはお前をわたしの地に連れて来る。とありますが、終わりの日にロシアの領主ゴグにイスラエルを攻めさせます。攻めるのではなく、神様が攻めさせるのです。栄光を現す為に、預言が成就するために、あえてそうする事を意味します。創世記で、アダムとエバが罪を犯したのも、人間がすべて罪人となり、罪を赦すためにイエス様が十字架で死なれ、三日後に蘇り、神様の栄光が現わされました。近年イスラエル沖に莫大な天然ガス田が発見されました。ロシアは天然ガス輸出国です。西側諸国がイスラエルから天然ガスを買えば、ロシアの経済的痛手となります。ロシアにとってイスラエルは目障りな存在となり、同盟国とイスラエルを侵攻します。13 節に戻ります。38:13「シェバとテダン、タルシシュの商人たち・・・お前は戦利品を奪うために来たのか。・・・」とあります。シェバとテダンは今のサウジアラビアです。イスラム教には、スンニ派とシーア派があり、サウジアラビアはスンニ派の盟主で、イランがシーア派の盟主で、
お互いが反目しています。イランはイスラエルだけで無く、サウジアラビアも敵視しています。サウジアラビアは、イランに対抗する為にかつては敵国だったイスラエルとの関係の修復をしています。タルシシュの地は今の西欧です。西欧はかつてプロテスタントが信仰の自由を求めて新天地を目指した地です。プロテスタントが建国精神の礎を据えたのがアメリカで、第二次世界大戦後の秩序を守って来ました。そのアメリカが今、世論に押され、弱体化しつつあります。2021 年 8 月に、20 年に及ぶアフガン駐留から撤退し、たちまち全土が
タリバンに制圧されました。38:18~20「ゴグがイスラエルの地を襲う日、・・・わたしの憤りは激しく燃え上がる。・・・熱情と怒りの火をもって語る。・・・その日にイスラエルに大地震が起こる。地の上を這うすべてのもの、および地上のすべての人間はわたしの前に震える。・・・」超巨大地震でゴグ連合軍は混乱し統制を失います。38:21「・・・人はおのおの、剣をその兄弟に向ける。」同士討ちが始まり、統制を失った国々は、それぞれが世界制覇を目論んでいます。38:22~23「わたしは疫病と流血によって彼を裁く。・・・彼と共にいる多くの民の上に、大雨と雹と火と硫黄を注ぐ。わたしは自らの偉大さと聖とを多くの国々の前に示す。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」侵略軍は地に倒れ、互いの国が滅ぼし合う大戦争に発展して行きます。侵略軍が自滅する中で、イスラエルは戦わずして勝利を治めます。敵対勢力がいなくなりイスラエルはエルサレムに第三神殿を再建します。 そしてさらに恐ろしい大患難時代の幕が開けます。世界中で大飢饉や大災害が起こります。Ⅰヨハネ 2:18 を読みます。「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」マタイ 24:4~6「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。」マタイ 7:15~17 には「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくがとれるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」終わりのしるしとして、反キリストや偽預言者が現れ、世界に向かって一致を呼びかけます。目指す理想は、世界統一の平和です。世界中が彼らを信じて平和条約を結びます。しかしそれは偽りの平和の条約です。エルサレムに神の最後の使いが現れ、偽預言者の正体は暴かれます。偽預言者は教会にも現れます。偽のにこやかな仮面をかぶり、耳障り良く心地の良い言葉で人の心を惑わします。私たちは、惑わされない心と内面を見抜く目を養うが必要となります。養うとは、「いつも神様の御心に忠実に従う信仰を持ち続ける事」
です。黙示録 9:20「これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石で造った偶像礼拝をすることをやめなかった。・・・」最後に人類の罪が頂点に達し、神の怒りが忍耐を超えた極限の時にイエス・キリストが再臨されます。大艱難時代の終わりです。
 ここから教会の使命に入ります。
ナザレン教会の使命は、「国々でキリストに倣う弟子を育成する」ことです。マタイ 28:19~20「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この大宣教命令に従い、わたしたちは、イエス・キリストによる新生の福音をあらゆる人々に伝え、聖書の教える「聖化」(キリストのように生きること)を世界中に伝えるという使命です。この事は、ナザレンエッセンシャルズの中に書かれています。ヨハネ 3:16~17「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。これ程の愛に勝る愛はありません。イエス様は私たちの罪のために十字架で死んで下さり、私たちの罪は赦されました。そして、三日目に蘇られ、死が滅びではなく、終わりではなく、希望を私たちに与えて下さいました。
私たちの日々の生活の中にも、苦しみ、悲しみ、痛み、試練、困難は、様々な状況において起こります。家庭での問題、会社での問題、病気の問題、心の悩み、誘惑、怒りなど、小さな事から深刻な問題まで、それぞれです。神様は、そのそれぞれの問題すべてを希望へと変えて下さいます。私たちは、福音を宣べ伝える使命を、どう現すか。「パウロのように9年間の伝道旅行に行きましょう。」では、現実的ではないですね。じゃあどうするの。それは、「信仰と希望と愛」この三つを忘れない生き方をして行く事ではないでしょうか。

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日曜礼拝(22年7月10日)

2022-07-10 12:50:05 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第四)       2022.7.10

        「キリストにならいて」 使徒言行録7:54~60

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第二の曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。毎日暑い日々が続いておりますが、健康が守られ、支えられて歩ませていただきたいと思います。

 金曜日には、日本中に、世界中に衝撃が走りました。尊い命が奪われるという悲しい事件がありました。このような事件が起こるたびに命の尊さを思わされます。命の大切さと共に、私たちも必ず来る死を見つめながら、イエス様の十字架と復活を通して与えられる復活の恵み、復活の事実に目を留めたいと思うのです。今日は、使徒言行録7章54節から60節を通して「キリストにならいて」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、聖霊に満たされることは環境に支配されない

 初代教会が成長し、イエス様を救い主と信じる人々が増えた結果、不満が出て食事の世話のために、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びました。7人の中で特別に信仰と聖霊に満ちていたステファノがいました。このステファノを紹介するために、7人が選ばれたと言ってもいいのではないかと思います。ステファノの働きは大きく、海外出身のユダヤ人たちがステファノと議論しましたが、全く歯が立たず、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ最高法院に引いて行きました。偽証人を立て、「ステファノが、あのナザレの人イエスが、この聖なる場所である神殿を破壊し、モーセが伝えた慣習を変える」と言ったと訴えました。最高法院の席で訴えられたステファノの顔は天使の顔のように見えたのでした。これが先週のあらすじでした。

 7章の初めに、大祭司が「訴えのとおりか」と尋ね、ステファノは、「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。」と話し出すのです。ステファンの説教が始まります。その内容は、アブラハムの召命、エジプトにおけるヨセフ、モーセの誕生、40歳のモーセ、モーセの召命、荒れ野の先祖たちの不従順、幕屋と神殿、ユダヤ人たちへの告発です。ステファノは頼りにしていた神殿や律法によって救われるのではなくて、あなたがたが十字架につけて殺したイエス様こそ救い主であり、この方によって救われるということを告げるのです。ステファノは説教の最後で、「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」」(7:51~53)と、神様の前に悔い改めを求める渾身の訴えでした。しかし、悔い改めるどころか、逆上したのでした。

 ステファノの話を聞いていた人々は、冷静ではいられませんでした。54節には、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。」とあります。新改訳聖書には、「はらわたが煮え返る思い」と訳しています。「激しく怒る」とは、「のこぎりで心を二つに分断する」という意味があり、「歯ぎしり」はのこぎりの歯の音のように聞こえたのです。55節には、「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、」とあります。最高法院の人々が、激しく怒り、歯ぎしりする中、全ての人々が憎しみを込めて、ステファノを刺すように見つめている中で、ステファノは「聖霊に満たされ」ていたのです。聖霊に満たされるのは、恵まれて、感謝が溢れて、信仰的にも守られ、神様の導きの中で「聖霊に満たされ」るということはわかります。しかし、ステファノは、全く条件の揃っていない状況、捕らえられ、濡れ衣を着せられ、憎しみと恨みの漂う中にあって、聖霊に満たされていたのです。ですから、聖霊に満たされる条件というのはないということです。たとえ今の状況が最悪の、最低の状況にあっても、私たちも聖霊に満たされることができることを聖書は伝えています。どのような状況であっても天を見つめる、神様を見る、イエス様に目を留めていることが大切な事なのです。

 

 二、天を、神を、イエス様を一身に見つめて生きる

 56節には、「「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。」とあります。「人の子が神の右に立っておられるのが見える」というのは、明確に、イエス様が神であることを認める言葉でした。ユダヤ人たちが決して受け入れることのできない言葉でした。十字架につけられたイエス様が、まことの神の子であり、天の父なる神様のみ許におられ、父なる神様と共にすべてを支配しておられるという宣言でした。56節の最初には、「見よ」とか「ほら」と訳せる言葉があるようです。「見なさい。天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と、確かに見えるということが強調されているようです。右にいるというのは、父なる神様と同じ権威を持つということです。

 「神の右に立っておられる」という表現は、聖書にはあまりありません。使徒信条には、「天にのぼり、全能の父なる神の右に座し給えり。」と座すとあります。また、エフェソの信徒への手紙1章20節には、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、」とあり、ヘブライ人への手紙1章3節には、「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」とあります。しかし、「神の右に立っておられる」というのは、神の右に座しておられるイエス様が、愛する僕ステファノを迎えるために身を乗り出して、手を差し伸べ、立ち上がっておられる姿なのです。あの放蕩息子の父親のように、以前の姿がわからないほどボロボロになって帰ってきた息子に対する態度のようです。聖書は、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」(ルカ15:20)と記しています。当時父親が走るということはなかったようです。それが、息子を見つけて走り出したのです。ここに父親の息子に対する愛が示されています。イエス様も、ステファノが絶体絶命の中にあって、もう座ってなどおられない。立ち上がられたのです。いつでもステファノの側に行けるようにと。また、「人の子が神の右に立っておられるのが見える」というのは、ステファノが、全ての望みが失われても、誰も助けてくれないという状況でも、今死のうとしているその時であっても、自分の命を死に委ねるというのではなくて、死に勝利された復活のイエス様の御手に全てを委ねることができたのではないでしょうか。

 57節には、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、」とあります。「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ」とありますが、ステファノの説教は、ユダヤ人たちの歴史の過ちを明確にし、彼らを非難する言葉なので、聞きたくない、聞くことを拒否する仕草であり、相手との関係を断つことの象徴です。

 58節には、「都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」とあります。本来、最高法院は、死刑を執行する権限を持っていなかったので、イエス様の死刑宣告はポンテオ・ピラトがしたのでした。今回は最高法院は、死刑の権限はありませんが、民衆を利用してリンチのような形でステファノを殺害するのです。「証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。」というのは、サウロは番をして見ていただけというのではなく、この石打ちの刑に関して、当局に咎められた時には、サウロが責任を持つという重いものでした。石を投げなかったから軽いというのではなく、この石打の刑の責任者だったようです。このサウロが、やがてパウロとして主の器として大いに用いられることの切っ掛けは、ステファノの殉教の出来事でした。誰かの生き方が、その人の人生を変えます。私たちの生きざまが、死にざまが誰かに、イエス様を知るきっかけとなることを覚えたいのです。

 

 三、ささげた祈りは必ず生きて働く

 59節には、「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。」とあります。「人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言ったステファノの目は、自分に石を投げつける残酷な絶体絶命な状況に奪われるのではなく、彼の目は聖霊の導きの中で、集中して罪も死も全てを支配しておられるイエス様の姿を最後の最後まで見つめていたのです。コロサイの信徒への手紙3章1節~4節には、「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」とあります。

 イエス様を見つめていたステファノは、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言いました。ステファノが、肉体の死を迎えようとする時、父なる神様とイエス様を見上げて、備えられている永遠の命を見ていたのではないでしょうか。イエス様との永遠の交わりに生かされることになるのです。

 60節には、「それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」とあります。 ステファノの「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」という祈りは、イエス様が十字架上でなされた祈りでした。イエス様は、「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」(ルカ23:46)と、「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」」(ルカ23:34)とルカは記しています。イエス様は私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んで下さいました。自分が罪の責めを追うので赦して下さいと、祈られ、死んで葬られ、復活して罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命、イエス様と共に永遠に生きる天国の恵みが与えられたのです。

 ステファノの殉教は、キリスト者の最初の殉教となり、その後に続く多くの殉教者たちの初穂となったのでした。ステファノの生涯は、イエス様に倣って生きたのです。根本において、私たちの人生は、自分のものではありません。一度限りの人生が、神様によって与えられたのは、使命があるからでしょう。私たちは、一人ひとりが、神様によって創造され、生かされている。それは、私たち一人ひとりに使命があるからです。そして、それが今現代に生きる私たちに、どのような意味を持つのかということが問われるのです。私たちに求められているのは、神様の招きに、どのように応答していくのかが問われます。今生かされている私たちが、その置かれた場所で、環境で、状況で生きている私が、イエス様に倣うということはどういうことなのか、何をなすべきなのかを祈りつつ、聖霊に導かれて、教えられ応答していくことなのです。ステファノはそのように生きたのです。

 

 Ⅲ結論部

 ウエストミンスター小教理問答の問37には、「信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか」とあります。その答えは、「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は依然としてキリストに結びつけられたまま復活まで墓の中で休みます。人の命は、地上生涯の死で終わりではありません。死後、その魂は肉体から離れて、しかるべき場所に行きます。そして、キリストを信じている人の魂は、神のもとへ行くのです。」とあります。

 聖書では、パウロやペトロ、イエス様の弟子たちの殉教の姿を詳しくは記してはいません。記録しているのは、ステファノの殉教の場合だけです。それは、ステファノの殉教が特別であるからでしょう。ステファノの死、殉教を通して教会の働きが大きく変化したからです。イエス様の十字架と復活、福音はユダヤ民族の範囲を超えて、異邦人、世界宣教へと広がっていくからです。ステファノの殉教の死は、キリスト教会の歴史の転換ともいえる意味のある出来事だったのです。その後の教会の働きには、今回登場したサウロ、パウロが用いられていくのです。ステファノの祈りがパウロの影響を与えました。教父アウグスティヌスは、「教会にパウロが与えられたのは、ステファノの祈りによる」と述べています。

 私たちの地上の生涯はいつ終わるのかはわかりませんが、終わりの時が必ず来ます。けれども、私たちのささげている家族のための祈りが、兄弟姉妹のための祈りが、多くの人のための祈りが、その後、私たちの死を超えて、この地上に生き続けるのです。私たちがささげた祈りを神様はむなしくさせることはないのです。私たちが、この地上から離れてしまった後でも、神様は必ずその祈りに応えて、地上で実現させて下さるのです。

私たちの信仰生活は、先に召された兄弟姉妹、信仰の先輩たちの祈りによって支えられていることに間違いはないのです。先輩たちがささげた祈りの答えが、今生きている私たちの信仰生活の上に実現しているのです。私たちもイエス様に倣って、神の言葉に触れ、祈りを通して神様と交わり、そこから力をいただいて、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(22年7月3日)

2022-07-03 12:34:11 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第三)        2022.7.3

        「神に選ばれた人」 使徒言行録6:1~15

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第一の曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。毎日、40度近い温度で生きることも大変な季節を迎えております。会堂にお越しの方々は、命を懸けてお出でになったと思います。オンラインでの礼拝参加の方々も、涼しくして礼拝にご参加ください。

 私たちは、何事につけ選ばれるということはうれしいことでしょう。オリンピック選手や高校野球の甲子園に選ばれること、映画やドラマの主役に選ばれるということがあります。私の大好きなドラマの「相棒」、杉下右京さんの5代目の相棒は、初代の相棒であった亀山薫さんに決まったようです。選んだスタッフも、選ばれた亀山さんこと、寺脇康文さんも、いろいろな思いがあったことでしょう。私も日本ナザレン教団の理事長に選ばれるということはビックリでした。私たちの人生には、選ばれる、選ばれないということがあります。聖書には、神様に選ばれた人々が多くいます。今日は、使徒言行録6章1節から15節を通して、「神に選ばれた人」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、教会でも問題は起こる

ペンテコステ、聖霊に満たされた人々、特にイエス様の弟子たちは、イエス様の十字架と復活を延べ伝え、3千人の人々が救われました。ペトロのヨハネが生まれながら足の不自由な人の足を癒したことにより、捕らえられ、議会で取り調べを受け、教会では彼らのための祈りがなされました。信じた人々は、持ち物を共有にして分け合いました。使徒たちは、イエス様のように多くの奇跡を行いました。大祭司やサドカイ派の人々は、妬み彼らを迫害しましたが、神様の助けが与えられたのです。

そのような状況の中、6章の1節に、「そのころ、弟子の数が増えてきて」とあります。「弟子」というのは、イエス様の弟子ということではなく、イエス様を信じた人々の事、クリスチャンになった人々の事です。イエス様の十字架と復活が延べ伝えられ、多くの人々が救われてきたのです。120名の人々が祈り聖霊を受けた時とは違って、かなりの人々が救われ、仲間に加えられたのです。イエス様を信じる人々が増えること、それは、素晴らしいことです。けれども、そこに問題が起こったのです。1節の続きですが、「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」とある通りです。リビングバイブルには、「信者の数がどんどん増えるにつれて、内部から不満の声が出るようになりました。信者の中のギリシヤ語を話すユダヤ人たちが、ヘブル語を話すユダヤ人たちに苦情をぶつけたのです。原因は、彼らのうちの未亡人たちが、毎日の食料の配給で差別されていることでした。」とあります。初代教会には、ギリシャ語を話す人々と、ヘブライ語を話す2種類の人々がいたのです。ギリシャ語を話す人々とは、イスラエルの地を離れて当時の地中海世界の様々な場所に移り住んでいたユダヤ人たちが、何世紀も経つうちに当時の共通語であったギリシャ語に慣れ親しんで、ギリシャ語を話すようになった人々です。外国出身のユダヤ人で、先祖の土地であるユダヤやエルサレムに帰って住んでいた人々であり、特に、夫を亡くし、生涯の終わりは、母国で暮らしたいという未亡人の人々が多かったようです。ヘブライ語を話す人々は、イスラエルにずっと住み続けている人々。イスラエルの言葉であるヘブライ語を話す人々でした。自分たちこそ生粋のユダヤ人であると誇り、ギリシャ語を話すユダヤ人を民族の伝統を失った人々だと軽蔑していたのです。そのような感情が教会の中にも持ち込まれていたのです。ユダヤ人といっても、言葉や文化の違いや背景の違うことが、日々の配給、ギリシャ語を話す特に未亡人、やもめの人々が軽んじられるという問題が起こったのです。その原因は、数が増えたことでした。聖霊によって誕生し、聖霊に導かれている教会でも問題は起こったということです。教会も罪人の集まる所なのです。この問題を、初代教会の人々は、どのように解決したのかを見たいと思います。

 

 二、重荷は分け合うと軽くなる

 旧約聖書に出て来るモーセは、朝から晩までイスラエルの民の悩みを聞いて、イスラエルの民を一人でさばいていました。その光景を見た、モーセの妻の父、イテロがモーセにアドバイスしたことがありました。「モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。わたしの言うことを聞きなさい。千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。」

(出エジプト記18章22節~25節)

 重荷を軽くするということは、教会が教会として機能を果たし、平安の内に前進していくために大切な事です。教会は誰か一人が、あるいは、数人だけが重荷を負うもではないのです。全員でその重荷を負い合って歩むのです。教会はキリストの体だとパウロは言いました。それぞれの器官は違っていても、一つの体として機能を果たしながら、成長していくのです。使徒たちが、何から何まで自分たちでやろうとしないで、7人を選んで重荷を負い合いました。重荷を分け合いました。それは、とても大切な事で必要な事でした。このように、重荷を分け合うことにより、負い合うことにより、弟子たちが本来すべきことに専念することができるようになったのです。4節にある「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」ということが実現したのです。

 教会は、祈りとみ言葉による指導に専念できる人を確保できなければ、そのような人がいなければ、教会は成長していくことは困難です。私は理事長として、青葉台教会のみ言葉と祈りによる指導が100%できない状況にあります。しかし、岩淵兄がみ言葉と祈りによる指導をしていて下さる。また、吉武神学生も助けて下さるので、教会は支えられています。

 使徒たちが、祈りとみ言葉に専念できるようになった結果、7節です。「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」ということが起こりました。教会の業は、何の理由もなしに成長していくものではありません。成長しているのには、それなりの理由があるのです。礼拝とみ言葉と祈りの奉仕に専念できる人がおり、教会の一人ひとりが、与えられたその役割を忠実に果たしていく時に、教会の本来の在り方が確立されて行くならば、教会は成長していくのです。

 当時、エルサレムは伝道が困難な場所だと言われていました。そこで弟子の数が増えたのです。そして、祭司たち、つまり、反キリスト教勢力の中心であった、そのような人々が信仰に入ったのです。福音のもたらす力、影響力が著しくあったのです。教会が第一のものを第一にしていく時には、教会は成長していくのです。

 

 三、第一のものを第一する

 2節、3節には、「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」とあります。教会の中心は、祈りとみ言葉です。祈りとみ言葉により、人を救い、恵みへと導くのが教会の働きです。教会の中心に祈りとみ言葉以外のものが入ってくると、教会は教会ではなくなってしまうでしょう。初代教会は、言語も育った環境も異なる様々な人々がいたのです。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」というのは、食事の世話を低い仕事と見て、そのような働きには使徒ではない人々にさせるというようなことではありません。「食事の世話をする」の食事という言葉は、「食卓」という意味を持ち、この食卓の上でお金を勘定することから、むしろ、この人々の役目は、教会の経済的な側面についての働きを担う人々、今では教会会計の働きであったのかも知れません。

実務的な働きのために7人を選ぶことを教会の全ての人々に提案したのです。ただ、実務的なことをするだけならば、実務能力の高い人を選べばいいでしょう。しかし、神様からの霊の力と知恵によって、教会の中を治めることのできる人々を立てたのです。7という数字は、同数にならない数です。教会は、ここで人間的な調整や実務を求めたのではないのです。神の霊と知恵によって、起こった問題を解決することを選んだのです。そして、選ばれた7人は、ギリシャ語を話す人たちばかりだったのです。この世からの常識から考えれば考えられない結果でした。この7人は、使徒たちの言葉、神の言葉を教会の内外で実践していくリーダーでもありました。教会では神様の愛が語られながら、やもめや寄留者という弱い立場の人々を大切にするようにというモーセの律法が実践されていませんでした。弱い立場の人々が軽んじられたり、神の言葉が軽んじられ、人間的ななれ合い、秩序のない教会に陥らないように、神の言葉と祈りに基づいて治める人々を立てたのです。そのリーダーの一人としてステファノがいたのです。

ステファノとは、「冠」という意味のギリシャ語です。キリスト教史最初の殉教者になったという意味において、「冠」となったのです。5節には、「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで」とあります。「ステファノと、ほかに」とあり、ステファノだけが、他の6人とは特別な取り扱いがされている紹介となっています。初代教会が、ギリシャ語を話すユダヤ人、特に、やもめたちから苦情が出て、その問題を解決するために新たに7人を選んだ理由は、ステファノを紹介するためであったのではないかということです。ステファノは、自分の命を懸けてまで、イエス様の福音を証しした人でした。彼は、後に殉教するわけですが、それは、ステファノが教会から委ねられた職務に忠実であろうとして命懸けで仕えた結果だと思います。

 教会にも問題は起こります。不平不満も出るでしょう。初代教会は、神様に信頼して、神様のために、教会のために何をすることが最善なのかを考え、行動しました。私たち、一人ひとりにも、神様から与えられた職務、奉仕があるでしょう。私たちは、ステファノのように、その職務、奉仕に忠実に生きようとすることの中に、神様は私たちを豊かに用いて、神様の御心を実現して下さるのです。私たちの教会生活、信仰生活にも問題が起こるでしょう。その時、私たちは神様の言葉に対して、祈りに対して、自分はどうなのか。み言葉に触れているのか、祈りがなされているのかを問うてみる必要があるのです。

 

 Ⅲ結論部

 ステファノは、素晴らしい不思議なわざとしるしを行いました。今までは、イエス様の弟子たちだけが行っていた業をステファノは行ったのです。このステファノは、「信仰と聖霊に満ちている人」でした。聖霊に取り扱われて神のわざを行いました。「出る杭は打たれる」と言いますが、ステファノは目立ちました。著しい神様の力が彼には与えられました。目覚ましい活躍は、大きな反発を産んだのです。解放された奴隷の会堂に属する人々、リベルテンと言われる人々はステファノと議論しましたが、太刀打ちできずに、人々をそそのかして、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせ、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行ったのです。15節には、「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。」とあります。とてもこの世のものとは思えないような顔をしていたのです。神の世界にいるような顔でしょうか。普通の人の表情ではない。ステファノは、最高法院に集まった人々とは違う世界に生きているような、異なる世界から、神様の世界から来た人のような顔、「その顔はさながら天使の顔のように見えた。」のでした。

 40日間神様と親しく語り合ったモーセの顔は、神の栄光の輝きを反射するように、顔から光を放っていました。ステファノの今の現状は窮地に立たされていました。絶体絶命の状態です。それなのに、不安な顔や怒りの顔、鬼のような顔ではなく、天使の顔のように見えたのです。それは、ステファノと共にイエス様が共におられることを彼が信じ、共におられるイエス様が彼を支え、励まし、強めて下さったのです。ステファノも、モーセのように、栄光のイエス様を見つめて、イエス様の輝きを移していたのではないでしょうか。常に神様を、イエス様を見上げていたのです。

 教会の祝福のために、7人が選ばれました。その中で、ステファノは特別に選ばれた人でした。そして、私たちも神様に選ばれた者です。イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を最後の一滴まで流し、命をささげて下さった。死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、父なる神様はイエス様をよみがえらせて下さいました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の恵みを与えて下さいました。神様は、私たち一人ひとりのためにそうして下ったのです。私たち一人ひとりを愛しておられるのです。最も大切な存在として下ったのです。私たちは神様に選ばれた者として、モーセやステファノのように、神様との深い関係、神様の言葉と祈りを大切にする。礼拝と祈祷会を大切にして、教会が教会として歩むものとして、この週もイエス様を見つめつつ、イエス様を信頼して、全てをお委ねして歩んでまいりましょう。

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