江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

5月31日 赤江弘之師(西大寺教会)のメッセージのためありません

2009-05-31 17:10:19 | Weblog
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5月24日 礼拝メッセージ

2009-05-24 12:45:26 | Weblog
         主日礼拝(復活後第六主日)    2009.5.24
            「ふたりで祈れば」 使徒言行録1:3-14

 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月の第四主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝できますことを感謝致します。
 先週、大阪でナザレン教団の伝道委員会が行われました。西大寺教会の赤江先生が「元気の出る教会セミナー」と題してお話し下さいました。先生の教会のいろいろな紹介と必要な事柄をお語り下さり、参加した者たちは大きな慰めと恵みをいただきました。来週のペンテコステ礼拝には、この赤江先生が説教をして下さり、午後からは教会セミナーとして教会の紹介とお話しをして下さいますので、期待して祈り参加していただきたいと思います。
 先週の木曜日に、大阪から帰りましたら家族の者たちが、「菌が移る」とか「移った」とか言われました。大阪に行った人はみな感染者のように感じでいるようです。これは日本全国の人々の思いでしょう。大阪は、ホテルの従業員も、レストランの従業員も全員マスクをし、朝早くジョギングしている人々もマスク姿が目立ちました。そういう私も委員会の後半は、中出先生からマスクをいただいてしておりました。  
 昨日、玉川聖学院のPTAの役員総会がありましたが、バートン先生は、アメリカに帰国され、先週お帰りになられましたが、このような時期なのでと総会には出席なさいませんでした。日本全体が何か過剰反応のようにも思いますが、仕方のないことかも知れません。神様のお守りがあるように、私たちは祈り続けたいと思います。
 さて、今日は使徒言行録1章3節から14節を通して「ふたりで祈れば」と今日も、映画のタイトルのようですがお話しさせていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈待つことが第一
 イエス様は、全人類の罪の身代わりに十字架につけられて死に墓に葬られましたが、3日目によみがえられました。そして、3節にありますように、御自分が確かに生きているということ、そしてそのしるしとして数多くの証拠を使徒たちに40日の間示し続けられたのです。
 4節を共に読みましょう。「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」」ここで言われたイエス様のご命令は唯一つです。「待ちなさい」ということです。
 私たちは「待つ」ということこそ、辛いものはありません。食事を待たされる。病院で診察を受けるために待たされる。買い物のために長い間待たされる。愛する者の手紙を長い間待たされる。何かの返事を待たされる。「待つ」ということはできるだけしたくないというのが正直な思いです。イエス様は、まず弟子たちに、エルサレムで「待つ」ことを命令されました。何のために待つのか、それは聖霊による洗礼(バプテスマ)を受けるためでした。聖霊に満たされることをまず第一のこととして弟子たちに、命じられたのです。イエス様は、教会の組織を整えなさいと命令しませんでした。伝道の方法について命令されたのでもありませんでした。他の人に何かをすることよりも、自分を磨けということでしょうか。
 昨日、玉川聖学院のPTAの委員会総会で、ある先生が、「ステキな人に出会いたいなら、自分がステキな人になりなさい。」というようなことをお話しして下さいました。人に慰めや励ましを与えるためには、まず自分自身が神様からの慰めと励ましをいただく。神様の霊に満たされることなのです。「受けるより与えるほうが幸いである」とイエス様は言われました。けれども、ここでは、与えるために聖霊を受ける必要があるのです。 弟子たちは、満たされるために待つのです。
 「祈りは世界を変える」という本があります。その中で、「待ち望み」という項目があります。その中で、ハーマンという人が次のようなことを言っています。「偉大で、思慮深い人々の伝記を読むと、その人々は、長い静寂と深い黙想の人であることが分かる。彼らの仕事のビジョンも、力も、才能も、静まりの中で生み出されたものである。必ずしも賜物が豊かではなく、高名でもないが、この霊的巨匠たちにとっては、神が毎日の生活を超自然的なものにする生きた輝く実在者となり、最も日常的な行動を至高の礼拝と変えて下さる方となっている。そして、彼らの内側をのぞいてみると、彼らは霊的静けさという土壌に深く根を下ろしているのが分る。」 その他にもいろいろと記されてありました。「主を待ち望むことは、基本的には静かに魂を神に従わせることである。 神と二人きりになることが、待ち望むことの中心である。強力な関係は、静寂の中に培われる。 祈りは神のことを最も思うときにこそ意味がある。 祈りにおける待ち望みには、他の霊的に価値のある務めと同様に、時間がかかる。」 「待つ」とは、「待ち望み」とは、神様との深い関係を意味するものなのです。 
 「腹が減っては戦が出来ぬ」と言われます。「空腹では何もする力が入らない。何をするにも腹ごしらえをしてから」ということです。 弟子たちが、出て行くためには、まず神様の霊を受けてからなのです。空腹では、力が入らず倒れてしまうように、神様の霊の力を受けずに出て行くことは、霊的にも、信仰的にも倒れてしまう事を意味するのです。ガソリンのない車が止まるように。電池や電源のない電気製品が動かなくなるように、聖霊を受けずして、与えられずして、弟子たちは、そして私たちは、信仰を持って歩むことはできないのです。 毎日、神様の前に待ち望み、神様との交わりを通して、聖霊を受けて、聖霊に満たされて歩みたいと思うのです。

 ⒉イエス様の証人として力を受ける
 弟子たちは、イスラエルの復興をなによりも待ち望んでいました。ユダヤ人なら誰もがそうでした。イエス様が十字架について死に、葬られ、よみがえられて、数々の証拠を見せられ、弟子たちの心も燃えたでしょう。いよいよイスラエルの復興の時が来たと感じたのでしょう。 6節、7節を共に読みましょう。「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」」 この質問は理にかなっていたでしょう。時が来れば、神様は必ずイスラエルの国を複興することを約束しておられるのですから、ユダヤ人はそれを待ち望むべきでした。けれども、今はその問題は大切な事ではないというのです。イスラエルの複興は神様の約束ですけれども、今はそのことよりももっと大いなる約束があるのです。聖霊を受けるという約束です。だからイエス様は語られるのです。 
 8節を共に読みましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 イエス様は、5節の終りで「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」と約束なさいました。ですから、弟子たちは聖霊に満たされるのです。それがイエス様の確実な約束なのですから。だから、弟子たちの上に、聖霊が降るとどうなるかと言うと、「力を受ける」というのです。リビングバイブルでは、「大きな力を受ける」とあります。詳訳聖書には、「力(能力、実力)を受ける」とあります。 力、能力というのは、ギリシャ語の原語の意味は、「ダイナマイト」だそうです。ダイナマイトの能力、大きな岩を打ち砕くような力、罪に打ち勝ち勝利する力、何ものにも恐れない力、神様に従っていける力が与えられるというのです。何のためにダイナマイトのような力が与えられるかと言うと、「わたしの証人となる」ということです。イエス様の証人となるのです。
 現代訳聖書は、8節を次のように訳しています。「しかし、あなたがたが知るべきことはこのことです。聖霊があなたがたの上に降る時、あなたがたはわたしの死と復活の証人として、それをほかの人々に語る力を与えられます。それは、まず身近なエルサレムの人々から始められ、ユダヤ、サマリヤ、さらに地の果てにまで語り出さずにはおれなくなりましょう。」 イエス様の死と復活の証人としての力が与えられるのです。証人とは自分の見聞きしたことを宣伝する者、語る者です。  先週、女性会ではイスラエル旅行のビデオ鑑賞会がありました。田宮姉がビデオを見ながら、説明して下さいました。姉妹は、イスラエルに行って自分の目で見、肌で感じ、鼻でかぎ、耳で聞き、イスラエル旅行の証人なのです。私が編集したビデオを一度も見ておりませんでしたが、自分が経験したことですから、その場所、場所の説明、その時の様子や感じ方をお話しして下さいました。姉妹の説明に感心しました。本当によくできた説明でしたから。 ビデオを見た方々も、勿論大体の様子はわかるでしょうけれども、実際にそこに行き、見て聞いたわけではありませんので、ビデオを見るのにもそんなに感動しないかも知れません。けれども、一緒に旅行に行かれた方々はやはり感動が違うのだと思います。自分がそこへ行き、事実見て、聞いて、感じて経験したからです。
 弟子たちは、イエス様の死と復活を見、聞き、それぞれに感じたのです。だから、彼らは証人となるのです。イエス様の証人として命をかけるようになるのです。「証人」とは、「殉教者」の意味があると言われます。命を賭けてイエス様を証しする弟子たちには、その力が聖霊によって与えられるのです。 私たちも同じように、イエス様と出会い、イエス様の十字架と復活を信じて救われた者としてイエス様の証人として、力を受けて歩みたいと思うのです。

 ⒊祈りが力
 9節からは、イエス様が天に帰られた様子が記されてあります。イエス様は言われました。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる、わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)また、こうも言われました。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る。」(ヨハネ14:28) 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:3) 
 11節を共に読みましょう。「言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」 イエス様の再臨の約束がここにあるのです。イエス様は、審き主としてまたおいでになるのです。
 弟子たちは、イエス様が天に上げられたのでエルサレムに戻りました。弟子たちの心はどうだったでしょうか。別れとは辛いものです。愛する者との分かれ、死を通しての別れがあります。引越しで、仲の良い友だち、知人との別れは辛いものです。弟子たちは、イエス様の約束、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」と言われ、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる、わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と、天に帰られたけれども、やはり寂しい。辛い、悲しい気持ちで一杯だったと思います。イスカリオテのユダを除く11人の弟子たちは、「エルサレムを離れず」というイエス様の命令に従い、エルサレムに行き、そこで何をしたのでしょう。
 皆さんで14節を共に読みましょう。「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」というイエス様の命令を守るために、約束を受けるために弟子たちがしたことは、祈ることでした。祈りは大切です。クリスチャン生活にとりまして祈りは最重要です。祈りの生活ができていますか。ディボーションの生活がなされているでしょうか。弟子たちは、イエス様の命令を守り、約束のものを受けるために、イエス様のお母さんマリアとイエス様の兄弟たち、婦人たちと共に心を合わせて祈りました。神様の命令を守り、約束を受けるための祝福は祈りから始まるのだと思います。
 この世にあって、キリスト教会に力がないとすれば、クリスチャンの私に力がないとすれば、この祈りの欠如から来ているのではないでしょうか。教会に力を蓄えるために、祈り会に出席しましょう。祈り会を大切にしましょう。たとえ祈り会に参加できなくても、どこにいても、祈り会の時間に、祈り会のことを覚えて下さい。そして、もし、祈り会の時間に参加できそうなら、祈り会にぜひおいで下さい。「私一人ぐらいが参加してもどうにもならない。」なんて思わないで下さい。あなたの参加が力になるのです。祈り会の祝福が教会の力、教会の祝福となるのです。ディボーションの祝福、個人的な祈りが、クリスチャンの力となり、祝福となるのです。もう一度、ディボーションの生活を立て直しませんか。きっと聖霊が与えられて力を受ける事が出来るのです。

 Ⅲ結論部
 聖霊を受ける秘訣は待つことです。神様の前に静まる事、祈る事です。祈りの実践をしたいと思います。ひとつ提案があります。個人の祈りも大切ですがチームでの祈りも大切です。ぜひ、チームで祈りましょう。ご夫婦ならふたりで祈りましょう。聖霊が与えられて、力をいただき、クリスチャンの夫婦としてイエス様の証人となるように。また、祈りのチームの相手が誰なのかを祈り求めましょう。ご夫婦でなくても、同年代の人々、祈りの友となる相手を祈り求めましょう。二人で祈るのが良いですが、三人でもかまいません。共に祈り合える祈りの友を作りましょう。お互いの為に祈り合える環境を作りましょう。
 祈り会にも参加しましょう。毎週出られる人は毎週、月に1度ぐらいなら出られるという人は月に1度、三ヶ月、半年に1度でも出てみましょう。時間が与えられたら、他のことをするのではなくて、水曜日なら祈り会を最優先できたらと思うのです。
 聖霊が臨んでいるでしょうか。聖霊が臨んでいるなら力を受けているでしょうか。イエス様の証人としての力が与えられているでしょうか。イエス様は御自分の命を全てささげて、十字架で身代わりに苦しみ死んで下さいました。このイエス様に救われた者として、イエス様の証人として、力が与えられるように、祈りをささげようではありませんか。聖霊が与えられるということは、聖霊に満たされるということは、イエス様の約束なのです。
 弟子たちが、心を合わせて祈るその中に約束の聖霊が与えられたのです。来週は、ペンテコステの礼拝です。赤江先生のみ言葉の御用のために、期待して祈り待ち望みましょう。祈り会を大切にしましょう。どこにいても、祈り会の祝福を祈りましょう。祈りのパートナーを主に聞いて、導かれて、共に祈りあいましょう。この祈りの実践から、教会の祝福、クリスチャンとしての祝福の歩みが始まります。青葉台教会に力が与えられ、クリスチャンのあなたに力が与えられるというのがイエス様の約束なのです。
 この週も、神様の言葉聖書に触れ、神様に祈りをささげましょう。「神と二人きりになることが、待ち望むことの中心である。強力な関係は、静寂の中に培われる。」と言われているように、神様とのデート、二人きりの週を過してまいりましょう。
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5月17日 礼拝メッセージ

2009-05-17 13:20:30 | Weblog
        主日礼拝(復活後第五主日)    2009.5.17
            「あなたの言葉さえあれば」 ルカ7:1-10

 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月の第三主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝できますことを感謝致します。今日は、第一礼拝において中高生の皆さんが礼拝に参加されています。先週は母の日でしたが、お母さんに何かプレゼントを差し上げたでしょうか。何か一つでも感謝のしるしを具体的にできたのなら幸いですね。もし、まだなら、遅れてでも実行できたらと思います。6月の第三主日は父の日ですので、よろしくお願い致します。ちなみに第二主日は私の誕生日ですが!
 今日はルカによる福音書7章1節から10節を通して、「あなたの言葉さえあれば」という映画のようなタイトルですが、お話させていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈愛の関係
 今日のお話の舞台はカファルナウムです。この場所は、イエス様の宣教の中心地とされている所であるようです。ペトロの家があった場所でもあります。ですから、イエス様もこのカファルナウムにご自身の家があったのでしょう。ペトロの家は、思ったよりも大きかったと以前お話ししたと思いますが、イエス様はペトロの家の居候していたのかも知れません。イエス様は、このカファルナウムを中心して多くの人々に神様の言葉を語り、癒しのみ業をなされたのです。1節には、「カファルナウムに入られた。」とありますが、リビングバイブルを見ると、「イエスはカペナウムの町に帰って行かれました。」とありますから、ご自分の生活の中心地へ帰られたのだと思うのです。
 2節と3節を共に読みましょう。「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」 百人隊長は、聖書の中に時々出てきますが、イエス様の十字架刑を見とどけた百人隊長、幻を通してペトロに使いを送ったコルネリウスという名の百人隊長ですが、今日登場する百人隊長と同じように、信仰的な百人隊長として記されてあります。 
 百人隊長は、字のごとく百人の部下、一軍団を指揮する人で、当時ヘロデ・アンティパスに雇われていた兵隊たちの中に隊長でありました。百人隊長に重んじられている部下とありますが、リビングバイブルでは、「目をかけていた召使」とあります。口語訳聖書では、「百卒長の頼みにしていた僕」とあり、新改訳聖書でも「僕」とあります。召使、僕ですから奴隷でしょう。
 当時、奴隷は物や道具と同じですから、使えなくなったら捨てられて当然の立場にある人々でした。ですから、「、病気で死にかかっていた。」のですから、もう仕えないのですから、捨てられて当然の奴隷、僕、召使をこの百人隊長は、捨てるどころか、わざわざユダヤ人の長老に声をかけ、使いに行ってもらい、助けに来てくださるようにイエス様に頼んだのです。「百人隊長に重んじられている」とありますから、僕として主人に仕え、この百人隊長が、この僕がいてもいなくてもいいと言うのではなくて、いてもらわなくては困るという大変役に立つ、役に立つだけではなく、百人隊長との良い関係がそこにありました。百人隊長と部下、あるいは百人隊長と僕、奴隷という関係は、ただ命令をする者、命令通りに動く者という関係だけではなく、奴隷を物扱いする多くの百人隊長の中にあって、この百人隊長は、命令だけの関係を越えた愛の関係がそこにあったのだと思うのです。人間関係の中にあって必要なものは、この愛だと思います。
 夫婦の間で、夫と妻がそれぞれに役目を果たすだけの関係であれば、いつしかその関係には、ひびが入ることでしょう。親子の間で、親として生活のためのお金を稼ぐことだけ、生活の世話をするだけの関係、子どもとして、ただ親の期待に答えるだけの関係なら,いつしか家庭が崩壊するように思います。そこには、愛が必要です。その愛も自己中心的な人間の愛ではなく、神様の愛、本来捨てられるべき者をも捨てない。命を捨てでも愛する十字架の愛、この愛こそが私たち人間のあらゆる関係には必要なのです。私たちも、この百人隊長と部下、僕のような関係を持てたらと思うのです。

 ⒉恵みとしてとらえる
 4節、5節を共に読みましょう。「長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」 この百人隊長は、ローマの百人隊長です。ある先生は、この百人隊長はローマ人ではなく、ローマの植民地の出身で雇われ兵から身を起こしたのかも知れない、と語っておられます。どちらにしても、ユダヤ人ではなく異邦人でありました。
 ユダヤ人から見れば、異邦人は神様の恵みからはずれた人々、神様から見捨てられた人と見るのが普通でした。けれども、この百人隊長は、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」とユダヤ人の長老たちから声を揃えて言われるような人物でした。偏見を越えた関係、ユダヤ人の長老たちが、熱心にイエス様に願うほどに、ユダヤ人の長老たちは百人隊長に対して、「わたしたちユダヤ人を愛して」と言われるほどでした。 異邦人に対して、「わたしたちユダヤ人を愛して」という言葉は考えられないことです。
 聖書の中に、これほどユダヤ人と異邦人との良い関係が描かれているのは他にないでしょう。その理由として、「自ら会堂を建ててくれたのです。」ということです。 ユダヤ人にとりまして、シナゴク、会堂はとても大切な場所です。ユダヤ人のとっては何よりも大切にしていた神様に礼拝をささげる場所です。 自分のお金でユダヤ人の為に会堂を建てる、ということは他にもあったようです。それは、ユダヤ人に恩を売っておけば、いつか役に立つ。そのように考えて、会堂を建てるローマの指揮官たちもいたのです。しかし、「わたしたちユダヤ人を愛して」と言われるまでの人はいなかった。それは、真実にこの百人隊長がユダヤ人を愛し、ユダヤ人のためを思っていたからだと思います。
 ユダヤ人の長老たちから見れば、会堂を建ててくれたということはうれしいことです。けれども、会堂を建ててくれた、お金を出してくれたということだけのことではなく、他にもユダヤ人たちのためにこの百人隊長が、日常的にかけた言葉や行動があったのだと思うのです。ユダヤ人が礼拝する、その礼拝そのものを重んじ、その礼拝に参加したことがあるかも知れません。ユダヤ人を少しでも理解しようとしたからでしょう。けれども、そのことから神様を信じるようになったのではないでしょうか。神様を信じたからこそ、自分の財産を出してでもユダヤ人のために、自分の為に、会堂を建てたのではないでしょうか。
 ユダヤ人の長老たちは、この百人隊長がイエス様に僕の病気の癒しを願いましたが、その願いに答えていただくに、ふさわしい人、信仰的にも、人間的にもふさわしい人間として百人隊長を見ていました。私たちは、良い人間は良い結果が与えられてほしいという思いがあります。頑張ったら頑張っただけの報いがある。そう望みます。そう思います。その考え方が、神様にも同じようにしてしまうことがないでしょうか。信仰深い者に神様の恵みがある。一生懸命に奉仕する人を神様は祝福する。頑張れない自分は駄目だ。信仰が足りない自分は駄目だ。そのように考えることはないでしょうか。神様は頑張れない者の弱さをご存知です。信仰の弱い面を持つ私を知っていて下さいます。私たちはどこまでも神様の恵みにすがりたいと思います。恵みとは、本来与えられるはずのない者にも与えられるものです。頑張れない者にも与えられるのです。弱いわたしのその弱さの中にキリスト様の力が大いに働くのです。百人隊長の僕のように、役に立たなくなったら捨てられるべき者であるにもかかわらず、捨てられるのではなく、その僕のために愛を注ぐのです、これが神様が私たちに示して下さることなのだと思うのです。
 ユダヤ人の長老たちは、百人隊長が「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。」と言いましたが、本人はどのように感じていたのでしょうか。

 ⒊権威ある言葉
 6節、7節を共に読みましょう。「そこで、イエスは一諸に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」」
 百人隊長は、自分自身を見つめて、私のためには苦労なさる事はない。わざわざおいでになることもない。私は神様の恵みを受けるユダヤ人ではない。神の民に属してもいない。本当に卑しい人間なのです。あなたをお迎えする資格さえない。ふさわしくない者です。自分の所に来ていただけるなどとは思ってもおりません。ですから、友人のユダヤの長老たちにお願いしました。このような卑しい者ですが、お願いがあります。自分のことではなく、病気で死にかかっている私の僕のことです。癒していただきたいのです。そのためには、お言葉をいただきたいのです。来てくださる必要はないのです。あなたのお言葉には力があるのです。そのお言葉をいただくだけでいいのです。
 この百人隊長は、自分の持つ権威に恐れをいだいていました。8節を共に読みましょう。「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また部下に「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。」
 百人隊長は、権威がある。命令をすれば部下はそれに従います。当たり前の事です。軍隊における命令は、それに従う部下の生死にかかわるものです。この百人隊長は、部下が自分の命令に従うということを当然のことと思っていません。自分のような者が人の上に立つ。自分のような者にも権威が与えられている。自分の命令に部下が従うということを当然のこととしないで、その権威に恐れを持ちます。彼の権威に対する誠実で謙遜な姿勢だと思います。この権威に対する恐れと言うものが、この百人隊長の心にはいつもあったのではないでしょうか。彼の日常生活の中にいつも流れていたことだと思うのです。
 この百人隊長は、部下に命令するだけではなく、自分も権威の下に生き、権威の下に生かされている者であることをよくわかっています。ですから、自分の言葉に対する恐れがあります。権威は言葉に現れるのです。部下に来いと言えば来るのです。戦場の中で、危険な中で、自分の命令に忠実に従うのです。この命令は、部下の命を左右するのです。ですから、この百人隊長は、自分が部下に語る一つひとつの言葉に重みがあることをいつも考え、感じていたに違いないのです。自分のような卑しい人間でも、そのように言葉で人を動かす事ができるのだから、神の子であるイエス様が語られる言葉ははるかに重く、重要なことなのだと感じ、ただお言葉をいただきたいと願ったのです。
 人が自分をふさわしいと認めても、自分自身はイエス様の前にふさわしく無い者、卑しい人間であると認め、イエス様の言葉に全幅の信頼を持つ百人隊長に対してイエス様は語られるのです。9節を共に読みましょう。「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」」
 イエス様は、イスラエルにはこれほどの信仰を見たことがないと言われましたが、イエス様の真意は、イスラエルにも、ユダヤ人にもこれほどの信仰者がいてほしいということではないでしょうか。ユダヤ人は、イエス様を否定し、受け入れませんでした。けれども、異邦人のローマに所属する百人隊長が、これほどの信仰があるとは、わたしの言葉に対する信頼、これこそイスラエルに必要なことなのだとイエス様は感じておられたのではないでしょうか。
 ラザロが死んだ時、イエス様を信じ、信頼していたマルタもマリアも、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と、イエス様の力を遠く離れた場所では発揮できないと考えてしまいました。ユダヤ人のイエス様を信頼する彼女たちがそうであるのに、この百人隊長は、イエス様の言葉さえいただくならば、たとえ離れていても癒されると信じる信仰があったのです。イエス様から与えられるものは、それが自分の思いとは、違っていても、それを受けるだけの備えを持っていたのです。イエス様の贈り物を受ける準備ができていたと言えるのです。
 私たちもイエス様を信頼し、イエス様を信じる者です。けれども、マルタやマリアのように、イエス様の力を制限したり、信頼しないでいるということはないでしょうか。「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)とみ言葉にあるように、イエス様とイエス様のお言葉、み言葉に、聖書にどこもまでも信頼して、従いたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 権威と言うものには、魅力があります。イスラエルの初代の王様、サウル王は王になる時は心からの謙遜がありました。自分の弱さや足りなさ、自分自身の立場をわきまえていました。けれども、王になると、段々と神様の言葉を聞くのではなく、自分の思いで、祭司にだけ許されている焼き尽くすささげものをささげたり、神様の言葉に従わないで自分の判断で物事を進めました。それにより、彼は神様から見捨てられました。また、イスラエルの2代目の王様、ダビデ、神に愛された者と言う名前のダビデは、苦労して王に座に着きます。謙遜でいつも神様を自分の前に置きました。けれども、王国が安定し、部下たちが戦争に行っている時、水浴しているバテシバを見て、姦淫の罪を犯し、子供が出来た事を知ると、バテシバの夫ウリヤを戦場から戻し、家へ帰らせ自分との関係で出来た子どもをウリヤとの関係でできたように仕向けますが、ウリヤは他の兵士たちが命をかけている時に、自分だけが家に帰る事は出来ないと家には帰りませんでした。ダビデは自分の策略がうまく行かないと知ると、その王の権威で司令官ヨアブに、激しい戦いの最前線にウリヤを出し、ウリヤを残して退却して戦士させるようにとの手紙を書き、戦死させたのです。聖書には、「ダビデのしたことは主の御心にかなわなかった。」(サムエル下11:27)とあります。
 権威とは、正しく使用される事により効力を発揮しますが、間違うと大変なことになります。ですから、権威を与えられた人こそ、謙遜を学ばなければなりません。神の子であるイエス様は、御自分の位を捨て、人の姿となり、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、私たちの代わりに神様からの罰を受け、血を流し死んで下さいました。そのことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。イエス様は十字架の死に至るまで従順でした。だからこそ、イエス様はあらゆる名にまさる名が与えられたとフィリピの信徒への手紙は記しています。
 私たちも、何らかの権威と言うか、権利、自分の言葉で人を動かすことのできることがあるかも知れません。私たちは、百人隊長のように、自分が神様の前に、イエス様の前にどのような者、ふさわしくない者であることを認め、イエス様に、イエス様の言葉を疑わないで、どこまでも信頼していきたいと思うのです。イエス様は、ふさわしくないと思うものをふさわしい者としてお立てくださるのです。その恵みに預かりたいと思います。この週も、私たちは、どのような所を通らされても、「あなたの言葉さえあれば」と、聖書の言葉に信頼して歩んでまいりましょう。
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5月10日 礼拝メッセージ

2009-05-10 16:30:10 | Weblog
            主日礼拝(復活後第四主日)    2009.5.10
            「どこで休みますか」 マタイ11:25-30

 Ⅰ導入部
 おはようございます。5月の第二主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝できますことを感謝致します。先週は大山兄が礼拝のご用をしていただき感謝致します。「神の武具を身に着けなさい」という題で、大胆に語って下さいました。エフェソの信徒への手紙を学んだ時、私はこの箇所を選びませんでしたので、今回この箇所から語って下さりうれしく思います。多くのみ言葉を引用して下さり、み言葉の大切さ、恵み、力を教えられました。福音が語られていたことを感謝します。
 先週、大阪において日本ナザレン教団の全国教会学校大会が行われ、青葉台教会から8名参加致しました。全国から174名の方々が参加されたと聞いております。講師の石田先生からは、今の時代にふさわしい内容でわかりやすく多くの事柄を教えられました。また、鍋谷先生からの特別講演、松田理事長からは聖会のメッセージをいただきました。青葉台教会は、分科会で「子どもの居場所としての教会」というテーマで、家内と三浦姉、坂本姉が青葉台教会の教会学校の紹介をしていただき、参加された方々に励ましと何らかのヒントが与えられたのではないかと思います。お祈り下さいました皆様に感謝致します。また、参加された方々からいろいろなご報告があるかと思います。
 今日は、5月の第二主日で「母の日」です。お母さん方々、いつも、いつも食事の準備から料理、後かたづけ、洗濯、掃除、こまごまとした事柄、子育て、また何よりも家族のためのお祈りを感謝致します。神様がお一人おひとりのお母さん方の上に、恵みと祝福を与えて下さいます様に、心からお祈り致します。
 昨日、玉川聖学院のPTAの総会があり、名誉会長のバートン先生が、挨拶の時に、明日は母の日ですからと、御自分のお母さんの事を話しておられました。御自分が赤ちゃんの時、車に轢(ひ)かれそうになった時、お母さんが自分を抱え込んで、車に衝突して、その時、お母様は大きな傷を負われたというお話しをされ、そのお母様は88歳を迎えられるということでした。そして、その時の傷は今もある。そして、先生は、その傷を見るたびに、その時のお母さんの命をかけて自分を守って下さった事を思い出して、感謝する、ありがたいと感じるとお話しして下さいました。私たちは、誰もが母を持ち、その母の愛情を受けて育ち、その母に感謝する者です。今日は、「母の日」です。先に天に召されたお母様もおられるでしょう。その方々は、お母さんの愛情を思い出し感謝いたしましょう。今、お母さんが健在ならば、感謝を具体的に現したていただきたいと思います。また、お母様が亡くなられた方々も、教会にはたくさんのお母さんがおられますので、その方々に具体的に感謝できるのではないでしょうか。
 今日は、マタイによる福音書11章25節から30節を通して、特に28節は、今年の青葉台教会の年間のみ言葉ですから、ここから本当に休みについて見させていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈神様の御心
 25節、26節を共に読みましょう。「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。」」平行箇所のルカによる福音書10章21節には、「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」とあります。口語訳聖書には、25節の最初には、「そのときイエスは声をあげて言われた」とあります。 現代訳聖書には、「その時、イエスははっきりと言われた」とあります。ですから、イエス様は、これらの内容を声をあげて、はっきりというように強調されたのだと思います。ある先生は、イエス様の興奮の姿だと語っています。 20節からは「悔い改めない町を叱る」と題がありますが、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人たちを叱った後に、これらの言葉を語られたわけですから、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの人たちに、つまり知恵ある者、賢い者には隠されていて、幼子のような者に示されたというのです。
 昨日の玉川聖学院のPTAの総会では、ヨハネ6章1節からの5つのパンと2匹の魚の奇跡、少年のお弁当をイエス様にささげた箇所からお話しました。男5千人ですから、女性はもっと多かったでしょう。子どもたちも合わせると1万から2万人ほどでしょうか。それらの人々がイエス様のもとに集ったわけです。 イエス様は、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。ご自分では何をしようとしておられるか知っていたけれども、フィリポを試みる、テストするためであると聖書は記しています。 そのテストにフィリポは答えます。「めいめい少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と。 200万円分のパンでも足りないと計算しました。そこへ、アンデレが少年を連れきて言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 これが、知恵ある者、賢い者の答えでした。大勢の人数では200万円分のパンがあっても無理、何千人と言う人々の前では、5つのパンや2匹の魚は役に立たない。常識と計算、これが大人です。私たちなのです。しかし、この少年は違いました。どんなに人が多くても、どんなにみすぼらしい弁当でも、イエス様に食べていただきたい。イエス様に差し上げたいと心から願い、自分のためにお母さんが作ってくれた弁当をイエス様に差し上げたのです。イエス様が言われた通りに、「幼子のような者にお示しになりました。」と少年を通して、神様の驚くべき恵みの業を行われたのです。どちらが弟子なのか、わからないという感じですね。
 イエス様は、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と弟子たちに語られたことがあります。 つまり、傲慢な者、自分の力や知恵に頼るのではなく、心の謙遜な者、へりくだる者、自分の弱さを知る者、自分の弱さを認める者に、神様は恵みを示して下さるのです。あのペトロも自分の力でがんばろうとしたら、失敗しました。けれども、自分の弱さを認め、謙遜になってイエス様に信頼した時、新しい使命が与えられたのです。
 私たちはどうでしょうか。まだ、自分の知識や知恵に頼りますか。力に経験に頼りますか。イエス様は、幼子のような者、最も弱い者、倒れている者、自分にではなく神様に頼る者に恵みを与えて下さるのですから、弱さの中にこそ、キリスト様の力が発揮されることを覚え、イエス様に全面的に信頼していきましょう。

 ⒉休ませてあげます
 28節を共に読みましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 この言葉は、日本、いや世界中の教会の中で看板として一番有名なみ言葉だと思います。 信心深い正統派のユダヤ人にとっては、宗教というものは重荷であったようです。イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちについて、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)と言われました。
 リビングバイブルでは、「とうてい実行できないような命令を与えておいて、自分では、それを守ろうとしないのです。」とあります。 ユダヤ人にとっては、宗教は破る事のできない無数の戒律や規則であったのです。いつも肩凝りがひどくて、肩や首が重くてどうしようもないというような状態でした。
 大分県の民話に、「きっちょむさん」というお人よしの人が登場するようです。彼はある日、山を越えた村に馬を連れて荷物を運びに行ったそうです。馬の背中にうず高く荷物を積んでの帰り道、山越えの急な上り坂にさしかかった時、馬は見るからに疲れた様子です。そこできっちょむさんは、「よし、私が代わりにしょってあげよう」と、自分のしょいこに荷物を積み替えたそうです。「さあ、これで楽になっただろう」と言って、彼は馬の背にまたがって山を登り始めたというのです。 馬だけではなく、私たちの人生にもいろいろな重荷があると思います。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも」と言われました。疲れていない人はいないのです。重荷を持たない人はいないのです。子どもでも、誰でも何らかの苦しみや悲しみはあるのです。誰にでもストレスがあります。
 私たちは、真剣に生きようとするとやはり疲れます。真面目であればあるほど、熱心であればあるほどヘトヘトに疲れるでしょう。将来を真剣に考え、真実であろうとすると疲れます。傷つきます。ストレスもたまるでしょう。学校の事、勉強の事、仕事の事、人間関係の事、家族の事を考えると、やはり重荷があるでしょう。しかし、重荷があるということ、疲れるということは、見方を変えると素晴らしいことではないでしょうか。人生をただ惰性で生き、自己中心で自分の事しか考えないで生きている人よりも、はるかに素晴らしい人生でしょう。けれども、多くの人々は残念なことですが、その疲れをいやす場所を持っていない。その重荷を降ろす場所がないのです。だから疲れ果ててしまうのです。
 重荷や疲れをうさばらしにお酒を飲み明かすという人もいるでしょう。いろいろな所に旅行して、楽しんで何もかも忘れるという人もいるでしょう。勉学や仕事に没頭するという人もいるかも知れません。いろいろな方法で重荷や疲れを忘れようとするのですが、残念ながら、その結果問題が解決して、重荷や疲れが癒されるかというとそうではないのです。問題や心配、重荷や疲れや相変わらず、しっかりと残っているのです。それに気づくとストレスはさらにたまり、疲れが増し、重荷がさらに重くきつくなるのです。どこで自分の疲れを癒すのか、どこに自分の重荷を降ろすのかはとても大切なことです。 さきほどの「きっちょむさん」のお話しではありまあせんが、うまく行ったと思っても、前よりも悪くなるということがあるのです。だからこそ、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われたのです。

 ⒊わたしのもとに来なさい
 イエス様は、「わたしのもとに来なさい」と言われました。「Come to Me」ですね。疲れている私に、重荷を持つ私にイエス様は、「わたしのもとに来なさい」と言われるのです。幼い子どもたちは、どこへ行けば解決するか知っています。お母さんのところです。悲しい時、辛い時、お母さんの所に行くと抱きしめて励ましてくれます。だから、何かあると必ずお母さんを探すのです。お母さんの所に行けば、平安がやすらぎが与えられるからです。ですから、私たちもどこに行けば問題が解決されるのか、それはとても大切な事なのです。イエス様のもととは、聖書に触れるということも言えますし、礼拝に出席するということでもあるでしょう。 詩篇の127編の2節には「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」という言葉があります。リビングバイブルには、「神様は、愛する者に適当な休息を与えようとなさるお方です。」とあります。ですから、神様は礼拝中にも、「眠りをお与えになる」というなら、愛されている証拠となるのではないでしょうか。神様は愛する者に、休息を与える。イエス様は私たちに休みを与えると約束しておられるのです。
 29節を共に読みましょう。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 リビングバイブルには、「わたしはやさしく、謙そんだから、あなたがたにふさわしい荷物をあげよう。それを背負って、わたしの教えを聞きなさい。そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。」とあります。イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)と弟子たちに語られたことがありました。 「あなたがたにふさわしい荷物」が、「自分の十字架」なのでしょうか。 イエス様が与えて下さるふさわしい荷物を背負い、イエス様の教えを聞き、従う者の魂は安らかになると約束していて下さるのです。イエス様は、「わたしに学びなさい。」と言われました。「学びなさい」の「学ぶ」を名詞に直すと「弟子」と訳せるそうです。弟子はイエス様に学ぶのです。何を学ぶかと言うと、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。」とあるように、柔和、謙遜をイエス様から学ぶわけです。「柔和」とは、ただニコニコしているというのではなく、原文では、重荷を担ぎながらも、その重荷に打ちのめされない存在のことをいうそうです。私たちは、人生において重荷が多いほどに、辛くて顔が歪んでくるものです。しかし、この重荷は、主が与えられたもの、「、あなたがたにふさわしい荷物をあげよう」とイエス様が与えておられるという自覚を持つことができるなら、自分の十字架だと思えば、柔和になる。柔和な者とさせられるというのです。へりくだる者の人生には、神様の恵みが豊かに注がれるのです。
 30節を共に読みましょう。「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしのには軽いからである。」
 30節を詳訳聖書では、「なぜなら、私のくびきは益となる(役に立つ、有用な)ものであり、(粗(あら)い、堅い、とがった、または締めつけるようなものではなく、快適で、ゆるやかで、気持ちのよいものであり)、私の荷は軽い(負いやすい)からである。」とあります。
 炎天下、長い旅をし続けた旅人が、かなたに木陰を見つけて疲れを回復したことから「休む」という字ができたそうです。神様が私たちのために与えて下さる回復の木は、十字架なのです。私たちの罪の身代わりに十字架で血を流されたそこにこそ、私たちのリフレッシュ、回復があるのです。イエス様のもと、十字架のもとにこそ、まことの安息、平安があるのです。私たちはいつでも、イエス様の十字架のもとにこそ、疲れが癒され、重荷を置く事ができるのです。

 Ⅲ結論部
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエス様は全ての人々に語られました。私たちは、日々、聖書の言葉、生ける神様のことばを通して、いつもイエス様の恵みの十字架で疲れを癒す事ができるのです。この十字架にこそ、重荷を置く事ができるのです。また、礼拝を通して私たちは、イエス様の十字架のもとに荷を降ろし、平安と安らぎが与えられるのです。 どんなに疲れていても、どんなに問題が山積みにされていようとも、イエス様のみもとにこそ、私たちを回復させることができるのです。私たちはどこに、真の休息があるのか、どこが真の休息場であるのかを知っています。知っているのにもかかわらず、そこに重荷を降ろさず、疲れを癒そうとしないということがあるならば、いつかは倒れてしまうのです。ですから、一日も早く、イエス様の恵みの十字架のもとに駆けつけようではありませんか。
 この週も、み言葉に触れ、祈り会に参加し、礼拝の為に期待し祈る者とさせていただき、「休ませてあげよう」とイエス様は約束をしておられるのですから、休ませていただこうではありませんか。
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5月3日は大山兄の奨励のためありません

2009-05-10 16:29:14 | Weblog
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