イースター礼拝(復活日) 2022.4.17
「恐れながらも大いに喜ぶ」 マタイ28:1-10
Ⅰ導入部
おはようございます。4月の第三日曜日を迎えました。今日はイースター礼拝です。
イースター、復活祭、イエス様が死からよみがえられたことを記念する喜びの日です。
イエス様は、二人の犯罪人と共に午前9時から午後3時まで十字架につけられて死なれました。罪のない神の子が、裁かれ死を経験されたのです。それは、私たちの罪のためでした。イエス様の弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。十字架のイエス様を遠くから眺めていたのは女性たちでした。多くの人々の病を癒し、奇跡を行い、権威ある言葉を語られたイエス様は死なれたのです。弟子たちやイエス様に従った人々の思惑、イエス様を通して、ローマの支配から解放され、イスラエルの国を再興するという考えは、吹っ飛んでしまい、ただ、悲しみ絶望の中にいたのです。しかし、イエス様は死んで葬られて三日目によみがえられたのです。
このよみがえり、復活がなかったとしたら教会は存在していません。私たちの青葉台教会は、このように存在していないのです。そして、ここに集う方々に出会うという事はなかったのです。パウロという人は、コリントの信徒への手紙15章14節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
と語り、17節から19節には、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」と語っています。復活がなければ、イエス様の十字架と復活を信じているクリスチャンには意味がないことになります。イエス様を信じている人々にとって、死は終わりではないという復活の希望は、イエス様の復活によって与えられるのです。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と語るのです。
今日は、マタイによる福音書28章1節から10節を通して、「恐れながらも大いに喜ぶ」と題してお話し致します。
Ⅱ本論部
一、復活の事実は変わらない
1節には、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」とあります。金曜日の夕方から土曜日の夕方までの安息日が終わり、その夜を過ごして、週の初めの日(現在では日曜日)に二人のマリアが墓を見に行きました。マタイは、二人のマリアは「墓を見に行った。」としか記していませんが、マルコやルカには、香油や香料を持って墓に行ったことを記しています。金曜日の午後三時にイエス様が亡くなって、午後6時には安息日が始まるので、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、自分の墓に納めるまで、あまり丁寧に葬りの準備ができなかったことを女性たちは見ていて、安息日が終わって、イエス様の遺体に香料や香油を塗って、葬りの備えを十分したいと考えて、明け方に誰よりも早く墓に行ったのです。ユダヤ人の伝統的な考え方には、死んだ霊はその体から四日目に去るというものがあり、体が腐り、外観がそこなわれるのは四日目で、体の外観がしっかりしているうちは、霊はその体にとどまっていると思い、ユダヤ人は死んだら三日目までに墓に行き、体に香油や香料を塗ったと言われています。
2節には、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」とあります。マタイだけが地震が起こったことを記しています。この地震は二回目で、一回目は、イエス様が十字架で息を引き取られた時に起こりました。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり」(27:31)とあります。旧約聖書において、モーセに十戒が与えられる前に地震がありました。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出エジプト19:18)と記しています。大きな地震は、イエス様が十字架にかかられて死なれた時と、復活された時に起こっています。神の言葉がモーセに与えられるという新しい歩みの時、地震があり、律法の旧い時代が終わり、新しい時代の幕開けを感じます。十字架と復活によって、地震が起こり新しい契約の時代への幕開けとなったのです。
地震が起こり、天使が天から下り、墓穴をふさいでいた石を転がしたのです。4節には、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」とあります。3節にあるように、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」とあり、番兵はこの世のものではないものを見て死人のようになったのです。この番兵も、マタイだけが記しています。4節にある「震え上がり」という言葉は、2節の「地震」という言葉と同じ言葉に由来しています。番兵たちは、自分自身の内に地震を経験しました。体も心も揺さぶられたのです。「死人のようになった。」とは、恐怖のあまり硬直状態、麻痺状態というよりも、失神して意識を失ったということでしょう。それほど恐れたのでした。
なぜ、番兵がいるかというと、今日の箇所の前の27章62節から66節に、祭司長とファリサイ派の人々は、イエス様が三日目に復活すると言っていたことを思い出し、弟子たちが遺体を盗んで、イエス様が復活したと言いふらすと前よりも惑わされるので、三日目まで墓を見張るようにとピラトに願い出たので、番兵が墓を見張っていたのです。そして、この番兵がイエス様の復活の出来事の目撃者ともなるのです。どのようなたくらみ、悪があろうとも神様は見過ごしにはされません。復活によって証明されたように、かならず神様のみ業を見させて下さるのです。そのことを信じて待ち望みたいと思うのです。
二、神の言葉に信頼する
5節、6節には、「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」とあります。天使は、墓に来た女性たちに語りました。イエス様の復活の証人とするためです。イエス様の時代には、ユダヤ人は女性の証言には、価値をもっていませんでした。女性のいうことは、信用に値しないと考えていたからです。けれども、神様はユダヤ人のこのような背景の中で、イエス様の復活という重要な神様の業の最初の証言者として女性を選び、復活の喜びを伝える者とされたのです。全ての事には神様の深いご計画があります。イエス様の誕生の知らせは、社会的地位の低い羊飼いたちにまず伝えられました。そして、イエス様の復活の知らせは、信用がないとされていた女性たちに告げられたのです。特に、男性に見られるような体の強さや権力、合理的な判断、そのようなものは復活の証人としての資格にはならないということです。女性たちのイエス様への愛、献身的な愛が彼女たちをイエス様の復活の証人とさせたのではないでしょうか。神様の目には、目立たない、小さな、弱いとされている人々の上に注がれているのです。だったら、私たちの上にも、神様の目が注がれて、私たちも用いられるのではいでしょうか。
墓をふさいでいた石が転がされたのは、イエス様を墓から出すためではなく、空になっている墓を女性たちに見せるためでした。天使は、「恐れることはない。」といいました。神様が人間の姿を取って、人間の世界に来るというクリスマス、神の子の誕生は驚くべきこと、恐れることでした。そして、イエス様が死んでよみがえるという事も、驚くべきことであり、恐るべきことでした。十字架につけられた、つまり、死んだイエス様の体は、ここにはない。女性たちの心はイエス様の遺体に香油や香料を塗って、ふさわしい埋葬をしたいという願いでした。けれども、その遺体はここにはない。「かねて言われていたとおり」と、イエス様がご自分は苦しみを受け、十字架につけられ殺されるけれども、三日目によみがえると語っておられたのです。しかし、その復活の預言の言葉は、弟子たちも女性たちも心に留めていませんでした。どちらかというと、祭司長やファリサイ派の人々、イエス様を十字架につけた人々の方が、三日目によみがえるとイエス様が言っていたと、ピラトに、墓に番兵を置くように願ったのです。
イエス様のよみがえりは、かねてからイエス様が言っておられた事だと確認し、復活された事を告げたのです。そして、「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と空の墓を見せたのです。空の墓はイエス様が復活したことの証拠です。
7節には、「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」とあります。イエス様の復活の事実を弟子たちに伝えるようにと告げました。弟子たちと言えば、ゲッセマネでイエス様が捕らえられた時、イエス様を見捨てて逃げてしまった者たちです。ペトロは、その後大祭司の中庭で、イエス様を三度知らないと否定してしまいました。そのような弟子たちにイエス様の復活を伝えるようにと告げたのです。普通なら、「弟子であるのにもかかわらず、イエス様を見捨てて逃げてしまった者たちにだけは伝えるな!」ということになるでしょう。イエス様は弟子たちの裏切りを知りながらも、彼らを愛し、彼らの失敗を赦し、受け入れ、彼らに希望を与えようとされるのです。私たちも弱い、罪深い者です。神様に見捨てられて当然の者ですが、イエス様は私たちも見捨てず、受け入れ、愛し、私たちにも希望を与えて下さるのです。
三、喜びの知らせが届く
天使は、イエス様が復活された事、ガリラヤで会えることを弟子たちに伝えるようにと言いました。8節には、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。婦人たちには、恐れと喜びがありました。「恐れながらも大いに喜び」と、全く相反する感情が彼女たちに湧いてきたのです。
それは、神様の真実の言葉を受け取った人の内に起こる感情です。イエス様の死を見つめていた婦人たちは、天使の言葉に希望が与えられました。イエス様の復活は、新しい出発と言えます。イエス様の死、墓に向かって今日という日を生きていた者が、復活されたイエス様に出会うために、今日という日を走り出す者に変えられたのです。イエス様の遺体を見ることにしか関心がなかった彼女たちは、生きる目的が与えられたのです。
彼女たちは、天使の言葉、「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」という言葉によって、イエス様の言葉を思い出し、空っぽの墓を見て、イエス様の復活を信じたのです。そして、弟子たちに伝えるために走り出しました。9節には、「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。天使の言葉を信じて、走り出した彼女たちの行く手に、イエス様が「おはよう」と言われたのです。
「おはよう」とはギリシャ語では、「カイレテ」といい、「喜びなさい。平安を得なさい。」という意味があります。「恐れながらも大いに喜び」という感情を持つ彼女たちに、「喜びなさい。平安を得なさい。」と言われ、ご自身を示されたのです。彼女たちは、復活されたイエス様に「近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」のです。礼拝したのです。彼女たちは、イエス様の遺体に触れ、香料と香油を塗るつもりでしたが、復活のイエス様の足を抱き、礼拝したのです。10節は、もう一度ガリラヤで会えることを弟子たちに伝えるようにと語られたのです。
イエス様が復活されたということは、それが事実かどうか客観的に証明することはできない事柄であり、それを信じるのか、信じないのかにかかる信仰の出来事です。聖書は、イエス様の復活の出来事を客観的に観察して、それが事実だとは証明しません。信じることによって変えられていった事実を伝えているのです。復活を目撃した人々によって、教会の中に伝承が形成されていきました。「キリストが死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、よみがえったイエス様が弟子たちに現れたこと」という復活の伝承をパウロは、最も大切な教えとして受け、伝えたのです(Ⅰコリント15:3-5)。イエス様がよみがえられたということを信じることは難しい事かもしれません。しかし、この復活の出来事が、世界史を変えていったのは事実です。
イエス様は、天使の言葉に従って走り出す婦人たちに、「喜びなさい。平安を持ちなさい」と語られました。私たちの生きていく社会、人間の世界では、神様のみ心、お心とは正反対の出来事が多くあるように思います。イエス様の十字架と復活を信じ、キリスト者として生きる私たちは社会の様々な状況の中で、家庭、学校、職場、サークル等の中で、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、痛いことを経験します。なぜ、このような病気になり、手術や苦しい治療を受けなければならないのか。それは、聖書を通して知る神様のみ心と社会の様々な場所での現実があまりにも違うという事でしょう。神様のみ心を妨害するものが至る所にあります。しかし、神様のみ心を妨害する人間の策略や知恵や力はむなしく終わるのです。神様はイエス様を死のままでは終わらせることなく、復活を通して死と罪を打ち破られたように、私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛みから必ず助けて下さるのです。イエス様の復活はそのことの証拠となるのですから、私たちは、神様を信じて、信頼して歩みたいと思うのです。
Ⅲ結論部
ロシアの小説家ドフトエフスキーは、若い頃、社会主義の影響を受けて革命運動に参加し、逮捕され、シベリアに流刑になりました。流刑地で読むことが許されていたのは聖書だけで、彼は四年間の獄中生活で、聖書を読みました。特に福音書を何度も読んだようです。そして、ある時、「時が歩みを止める」という経験をします。約二千年前に書かれた聖書の出来事が、「今ここにある」出来事としてよみがえり、時空を超えてイエス・キリスト様に出会う経験をするのです。そして、聖書を通して、世の出来事の意味がはっかりと見え始め、それを作品として発表し、その作品は多くの人々の人生を変えるものでした。「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」等の名作が生まれた背景はドフトエフスキーの復活の体験だと言われているようです。
私たちもイエス様の復活を信じる時、人生の意味は変わります。宗教指導者、権力者によって、イエス様は十字架刑で殺されました。しかし、神様は、死んで葬られたイエス様をよみがえらせられたのです。そして、イエス様の十字架と復活を信じる者に、罪の赦しと魂の救い、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。
神様は自然の力、地震を通して、神様の御業を行い、あるいは、祭司長たちは自分たちが送った番兵たちから復活の出来事の証言を通して神の業を見ました。当時、信用されなかった女性を、神様はイエス様の復活の証人とされ、彼女たちに現れ、天使の言葉が真実であることを示されたのです。どのような悪い事や辛い事が起ころうとも、イエス様は今も生きておられ、私たちを支え、守って下さるのです。神様について、神様の言葉に対して、「恐れながらも大いに喜び」というような半信半疑な思いを持つかもしれません。しかし、イエス様は、聖書を通して、神の言葉を通して、ご自身を現わして下さるのです。この週も、この方が私たちと共におられます。苦しみの中に、戦いの中に、共にいて、「恐れることはない。わたしだ。安心しなさい。大丈夫だ。」と私たちを支え。励まし、強めて下さるのです。安心して、イエス様に全てをお任せして歩んでまいりましょう。