江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(22年4月24日)

2022-04-26 12:11:54 | Weblog

他に関心を持ち続ける、 フィリピ4:10~20     4,24

  • フィリピは、マケドニアにある町で、アレキサンダー大王の父、フィリッポス王の名にちなんでつけられたと言われている。パウロが、欧州で最初に伝道したところと言ってもよい。異邦人女性信徒、紫布の商人リデイアの家族が救われたところとしても知られている。この教会とパウロの関係は良好だったようで、パウロは、私が愛し、慕っている兄弟たち、私の喜びであり、愛する人たちとまで言っています。それでも問題はあったようです。そこに、ローマの獄中から出した手紙といわれています。

 

  • 今日の箇所には、興味深いことが書かれています。10節に、「あなたがたが、わたしへの心遣いを、ついにまた表してくれた」とあります。心遣いとは、金銭を含む物心両面の贈り物でしょう。「今まで思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」とまで言っています。こんなことまで言っているのは、互いに信頼関係があったからだと思います。

 

  • 15節で「福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかに一つもありませんでした」と、また16節で、「テサロニケにいたときにも、あなたがたは、わたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」さらには、18節で「そちらからの贈り物を、エパフロデイトから受け取って満ち足りている」とまで言っています。また、Ⅱコリント11:9で、パウロはコリント教会の人々に「あなた方のもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。マケドニア州からきた兄弟たちが私の必要を満たしてくれたからです」と言っています。フィリピの教会は、パウロが離れていてもその宣教活動に関心を持ち続けていたことを示しています。関心をもち祈り続けていたのです。それも個人の篤志家の支えではなく教会としてささえたと。

  パウロは,Ⅱコリント8:2で、この人たちのことを「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。彼らは、力に応じてまた力以上に自ら進んで、聖なる者たちを助けるために慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした」彼らはまず、主に、ついで神のみ心に沿ってわたしたちにも自分自身をささげたのです。フィリピ教会の人々は、パウロの主の宣教活動に長い間いつも関心を持ちつづけ祈り、献金していたのでしょう。マザーテレサは、愛の反対は無関心だと言っています。フィリピ教会の人々が、関心を持ち続けたことは、主を愛し、そしてパウロを愛していたのでしょう。パウロも、フィリピ1:3~4で「わたしは、あなた方のことを思い起こすたびに、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っています」と、フィリピのために祈っているのです。さらに、あなた方の祈りと、イエスキリストの霊の助けによって救われていると感謝を示しています。

  • 私たちも、何か起こるとその時には関心を持ちますが、すぐ忘れてしまいます。人の大変さを聞き、祈っていますと言っても、祈りつづけているでしょうか。カトリック長崎大司教区の古巣司祭という方がいます。以前NHKTVでも取り上げられた方でご覧になった方もおられるとおもいます。五島列島の奈留島出身の方です。小学6年の時、その地の平松神父から長崎の神学校に行くよう説得されたそうです。長崎に向かう汽船に乗る日、とても不安そうにしている私に平松神父は、“大丈夫だよ。私がずっと祈っているから”と約束してくれたそうです。ちなみにこの古巣司祭はいま70歳台半ばです。平松神父はその日に、教会の中に私が神父になるまで祈るためのグループを作り、それから毎夕祈り始めたそうです。平松神父は数年前に亡くなったそうです。そのとき遺族の方から電話があり、あなたが出した手紙が、桐の箱に収められているので、受け取っていただけるかということでした。受け取ってみると、私が出した手紙が初めから順番に箱にしまわれていたのに驚いたそうです。そして、亡くなるまで毎日、あなたのことを祈っていましたとの話も聞かされました。私との約束を長い間、司祭になった後までも、忠実に果たし続けていたのです。平松神父の教会の祈りのグループでは、今も毎日欠かさず自分のことを祈り続けていることも知り、島を離れて55年間、私にずっと関心持ち続けていたことを知りました。私は、多くの人に祈られていたことを知ると同時に、わたしはいままで、どれだけの人と祈りの約束を交わし、それを忠実に果たしてきたのかと自らに問うていますと古巣司祭は語っています。

 

  • パウロは、フィリピの人の贈り物をあてにしていたのではありません。パウロは、どんな境遇の時でも、その境遇に満足することを習い覚え、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっていると言っています。パウロの伝道旅行で起こったことを考えると、その通りだと思います。フィリピの人々の献身は、神が喜んで受けてくださる、いけにえであり、パウロと共に戦っていたのでしょう。主の栄光のために。

 

  • 主は、「惜しんでわずかしか種を蒔かないものは、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は刈り入れも豊かなのです」(Ⅱコリ9:6)といっています。私たちも、何事も利己心や虚栄心からするのでなく、自分中心のことだけでなく他の人ことにも関心を持ち続け、祈りたいものです。
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日曜礼拝(22年4月17日)

2022-04-17 15:20:10 | Weblog

イースター礼拝(復活日)      2022.4.17

           「恐れながらも大いに喜ぶ」 マタイ28:1-10

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第三日曜日を迎えました。今日はイースター礼拝です。

イースター、復活祭、イエス様が死からよみがえられたことを記念する喜びの日です。

イエス様は、二人の犯罪人と共に午前9時から午後3時まで十字架につけられて死なれました。罪のない神の子が、裁かれ死を経験されたのです。それは、私たちの罪のためでした。イエス様の弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。十字架のイエス様を遠くから眺めていたのは女性たちでした。多くの人々の病を癒し、奇跡を行い、権威ある言葉を語られたイエス様は死なれたのです。弟子たちやイエス様に従った人々の思惑、イエス様を通して、ローマの支配から解放され、イスラエルの国を再興するという考えは、吹っ飛んでしまい、ただ、悲しみ絶望の中にいたのです。しかし、イエス様は死んで葬られて三日目によみがえられたのです。

 このよみがえり、復活がなかったとしたら教会は存在していません。私たちの青葉台教会は、このように存在していないのです。そして、ここに集う方々に出会うという事はなかったのです。パウロという人は、コリントの信徒への手紙15章14節で、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」

と語り、17節から19節には、「そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」と語っています。復活がなければ、イエス様の十字架と復活を信じているクリスチャンには意味がないことになります。イエス様を信じている人々にとって、死は終わりではないという復活の希望は、イエス様の復活によって与えられるのです。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」と語るのです。

 今日は、マタイによる福音書28章1節から10節を通して、「恐れながらも大いに喜ぶ」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、復活の事実は変わらない

 1節には、「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」とあります。金曜日の夕方から土曜日の夕方までの安息日が終わり、その夜を過ごして、週の初めの日(現在では日曜日)に二人のマリアが墓を見に行きました。マタイは、二人のマリアは「墓を見に行った。」としか記していませんが、マルコやルカには、香油や香料を持って墓に行ったことを記しています。金曜日の午後三時にイエス様が亡くなって、午後6時には安息日が始まるので、アリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取り、自分の墓に納めるまで、あまり丁寧に葬りの準備ができなかったことを女性たちは見ていて、安息日が終わって、イエス様の遺体に香料や香油を塗って、葬りの備えを十分したいと考えて、明け方に誰よりも早く墓に行ったのです。ユダヤ人の伝統的な考え方には、死んだ霊はその体から四日目に去るというものがあり、体が腐り、外観がそこなわれるのは四日目で、体の外観がしっかりしているうちは、霊はその体にとどまっていると思い、ユダヤ人は死んだら三日目までに墓に行き、体に香油や香料を塗ったと言われています。

 2節には、「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」とあります。マタイだけが地震が起こったことを記しています。この地震は二回目で、一回目は、イエス様が十字架で息を引き取られた時に起こりました。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり」(27:31)とあります。旧約聖書において、モーセに十戒が与えられる前に地震がありました。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。」(出エジプト19:18)と記しています。大きな地震は、イエス様が十字架にかかられて死なれた時と、復活された時に起こっています。神の言葉がモーセに与えられるという新しい歩みの時、地震があり、律法の旧い時代が終わり、新しい時代の幕開けを感じます。十字架と復活によって、地震が起こり新しい契約の時代への幕開けとなったのです。

 地震が起こり、天使が天から下り、墓穴をふさいでいた石を転がしたのです。4節には、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」とあります。3節にあるように、「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」とあり、番兵はこの世のものではないものを見て死人のようになったのです。この番兵も、マタイだけが記しています。4節にある「震え上がり」という言葉は、2節の「地震」という言葉と同じ言葉に由来しています。番兵たちは、自分自身の内に地震を経験しました。体も心も揺さぶられたのです。「死人のようになった。」とは、恐怖のあまり硬直状態、麻痺状態というよりも、失神して意識を失ったということでしょう。それほど恐れたのでした。

 なぜ、番兵がいるかというと、今日の箇所の前の27章62節から66節に、祭司長とファリサイ派の人々は、イエス様が三日目に復活すると言っていたことを思い出し、弟子たちが遺体を盗んで、イエス様が復活したと言いふらすと前よりも惑わされるので、三日目まで墓を見張るようにとピラトに願い出たので、番兵が墓を見張っていたのです。そして、この番兵がイエス様の復活の出来事の目撃者ともなるのです。どのようなたくらみ、悪があろうとも神様は見過ごしにはされません。復活によって証明されたように、かならず神様のみ業を見させて下さるのです。そのことを信じて待ち望みたいと思うのです。

 

 二、神の言葉に信頼する

 5節、6節には、「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」とあります。天使は、墓に来た女性たちに語りました。イエス様の復活の証人とするためです。イエス様の時代には、ユダヤ人は女性の証言には、価値をもっていませんでした。女性のいうことは、信用に値しないと考えていたからです。けれども、神様はユダヤ人のこのような背景の中で、イエス様の復活という重要な神様の業の最初の証言者として女性を選び、復活の喜びを伝える者とされたのです。全ての事には神様の深いご計画があります。イエス様の誕生の知らせは、社会的地位の低い羊飼いたちにまず伝えられました。そして、イエス様の復活の知らせは、信用がないとされていた女性たちに告げられたのです。特に、男性に見られるような体の強さや権力、合理的な判断、そのようなものは復活の証人としての資格にはならないということです。女性たちのイエス様への愛、献身的な愛が彼女たちをイエス様の復活の証人とさせたのではないでしょうか。神様の目には、目立たない、小さな、弱いとされている人々の上に注がれているのです。だったら、私たちの上にも、神様の目が注がれて、私たちも用いられるのではいでしょうか。

 墓をふさいでいた石が転がされたのは、イエス様を墓から出すためではなく、空になっている墓を女性たちに見せるためでした。天使は、「恐れることはない。」といいました。神様が人間の姿を取って、人間の世界に来るというクリスマス、神の子の誕生は驚くべきこと、恐れることでした。そして、イエス様が死んでよみがえるという事も、驚くべきことであり、恐るべきことでした。十字架につけられた、つまり、死んだイエス様の体は、ここにはない。女性たちの心はイエス様の遺体に香油や香料を塗って、ふさわしい埋葬をしたいという願いでした。けれども、その遺体はここにはない。「かねて言われていたとおり」と、イエス様がご自分は苦しみを受け、十字架につけられ殺されるけれども、三日目によみがえると語っておられたのです。しかし、その復活の預言の言葉は、弟子たちも女性たちも心に留めていませんでした。どちらかというと、祭司長やファリサイ派の人々、イエス様を十字架につけた人々の方が、三日目によみがえるとイエス様が言っていたと、ピラトに、墓に番兵を置くように願ったのです。

 イエス様のよみがえりは、かねてからイエス様が言っておられた事だと確認し、復活された事を告げたのです。そして、「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と空の墓を見せたのです。空の墓はイエス様が復活したことの証拠です。

 7節には、「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」」とあります。イエス様の復活の事実を弟子たちに伝えるようにと告げました。弟子たちと言えば、ゲッセマネでイエス様が捕らえられた時、イエス様を見捨てて逃げてしまった者たちです。ペトロは、その後大祭司の中庭で、イエス様を三度知らないと否定してしまいました。そのような弟子たちにイエス様の復活を伝えるようにと告げたのです。普通なら、「弟子であるのにもかかわらず、イエス様を見捨てて逃げてしまった者たちにだけは伝えるな!」ということになるでしょう。イエス様は弟子たちの裏切りを知りながらも、彼らを愛し、彼らの失敗を赦し、受け入れ、彼らに希望を与えようとされるのです。私たちも弱い、罪深い者です。神様に見捨てられて当然の者ですが、イエス様は私たちも見捨てず、受け入れ、愛し、私たちにも希望を与えて下さるのです。

 三、喜びの知らせが届く

 天使は、イエス様が復活された事、ガリラヤで会えることを弟子たちに伝えるようにと言いました。8節には、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」とあります。婦人たちには、恐れと喜びがありました。「恐れながらも大いに喜び」と、全く相反する感情が彼女たちに湧いてきたのです。

それは、神様の真実の言葉を受け取った人の内に起こる感情です。イエス様の死を見つめていた婦人たちは、天使の言葉に希望が与えられました。イエス様の復活は、新しい出発と言えます。イエス様の死、墓に向かって今日という日を生きていた者が、復活されたイエス様に出会うために、今日という日を走り出す者に変えられたのです。イエス様の遺体を見ることにしか関心がなかった彼女たちは、生きる目的が与えられたのです。

 彼女たちは、天使の言葉、「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」という言葉によって、イエス様の言葉を思い出し、空っぽの墓を見て、イエス様の復活を信じたのです。そして、弟子たちに伝えるために走り出しました。9節には、「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」とあります。天使の言葉を信じて、走り出した彼女たちの行く手に、イエス様が「おはよう」と言われたのです。

「おはよう」とはギリシャ語では、「カイレテ」といい、「喜びなさい。平安を得なさい。」という意味があります。「恐れながらも大いに喜び」という感情を持つ彼女たちに、「喜びなさい。平安を得なさい。」と言われ、ご自身を示されたのです。彼女たちは、復活されたイエス様に「近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」のです。礼拝したのです。彼女たちは、イエス様の遺体に触れ、香料と香油を塗るつもりでしたが、復活のイエス様の足を抱き、礼拝したのです。10節は、もう一度ガリラヤで会えることを弟子たちに伝えるようにと語られたのです。

 イエス様が復活されたということは、それが事実かどうか客観的に証明することはできない事柄であり、それを信じるのか、信じないのかにかかる信仰の出来事です。聖書は、イエス様の復活の出来事を客観的に観察して、それが事実だとは証明しません。信じることによって変えられていった事実を伝えているのです。復活を目撃した人々によって、教会の中に伝承が形成されていきました。「キリストが死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえられたこと、よみがえったイエス様が弟子たちに現れたこと」という復活の伝承をパウロは、最も大切な教えとして受け、伝えたのです(Ⅰコリント15:3-5)。イエス様がよみがえられたということを信じることは難しい事かもしれません。しかし、この復活の出来事が、世界史を変えていったのは事実です。

 イエス様は、天使の言葉に従って走り出す婦人たちに、「喜びなさい。平安を持ちなさい」と語られました。私たちの生きていく社会、人間の世界では、神様のみ心、お心とは正反対の出来事が多くあるように思います。イエス様の十字架と復活を信じ、キリスト者として生きる私たちは社会の様々な状況の中で、家庭、学校、職場、サークル等の中で、苦しいこと、悲しいこと、辛いこと、痛いことを経験します。なぜ、このような病気になり、手術や苦しい治療を受けなければならないのか。それは、聖書を通して知る神様のみ心と社会の様々な場所での現実があまりにも違うという事でしょう。神様のみ心を妨害するものが至る所にあります。しかし、神様のみ心を妨害する人間の策略や知恵や力はむなしく終わるのです。神様はイエス様を死のままでは終わらせることなく、復活を通して死と罪を打ち破られたように、私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛みから必ず助けて下さるのです。イエス様の復活はそのことの証拠となるのですから、私たちは、神様を信じて、信頼して歩みたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 ロシアの小説家ドフトエフスキーは、若い頃、社会主義の影響を受けて革命運動に参加し、逮捕され、シベリアに流刑になりました。流刑地で読むことが許されていたのは聖書だけで、彼は四年間の獄中生活で、聖書を読みました。特に福音書を何度も読んだようです。そして、ある時、「時が歩みを止める」という経験をします。約二千年前に書かれた聖書の出来事が、「今ここにある」出来事としてよみがえり、時空を超えてイエス・キリスト様に出会う経験をするのです。そして、聖書を通して、世の出来事の意味がはっかりと見え始め、それを作品として発表し、その作品は多くの人々の人生を変えるものでした。「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」等の名作が生まれた背景はドフトエフスキーの復活の体験だと言われているようです。

 私たちもイエス様の復活を信じる時、人生の意味は変わります。宗教指導者、権力者によって、イエス様は十字架刑で殺されました。しかし、神様は、死んで葬られたイエス様をよみがえらせられたのです。そして、イエス様の十字架と復活を信じる者に、罪の赦しと魂の救い、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。

 神様は自然の力、地震を通して、神様の御業を行い、あるいは、祭司長たちは自分たちが送った番兵たちから復活の出来事の証言を通して神の業を見ました。当時、信用されなかった女性を、神様はイエス様の復活の証人とされ、彼女たちに現れ、天使の言葉が真実であることを示されたのです。どのような悪い事や辛い事が起ころうとも、イエス様は今も生きておられ、私たちを支え、守って下さるのです。神様について、神様の言葉に対して、「恐れながらも大いに喜び」というような半信半疑な思いを持つかもしれません。しかし、イエス様は、聖書を通して、神の言葉を通して、ご自身を現わして下さるのです。この週も、この方が私たちと共におられます。苦しみの中に、戦いの中に、共にいて、「恐れることはない。わたしだ。安心しなさい。大丈夫だ。」と私たちを支え。励まし、強めて下さるのです。安心して、イエス様に全てをお任せして歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(22年4月10日)

2022-04-10 14:20:56 | Weblog

日曜礼拝(棕櫚の主日)       2022.4.10

           「大逆転の人生」 ルカ23:26-43

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第二日曜日の礼拝です。今日は棕櫚の主日、イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入城された日です。今日から受難週となります。来週は、いよいよイースター(復活祭)の礼拝です。復活の前には、十字架に死があるのです。

 私が人生の最後、死を迎える時、愛する家族に見守られて、家内から「あなたの妻になって幸せでした。ありがとう。」子どもたちから、「お父さんの子で幸せでした。ありがとう。」青葉台教会の皆さんからは、「先生が青葉台教会の牧師でよかった。ありがとうございました。」と言われて、安心して、平安の内に召されて行くことができればいいなあと思います。 

 世界の救い主イエス・キリスト様の最後は、今日の聖書の箇所にあるように、罪がないのにもかかわらず、有罪の判決を受け、犯罪人2人と共に十字架刑にされ、見世物にされ、周りの人々からは、「他人を救ったなら自分を救え」「ユダヤ人の王なら自分を救え」「メシアなら、自分と我々を救え」と言われ、イカサマやろうと罵倒され、イエス様の心中は、体の激痛と共に穏やかではなかったでしょう。十字架にかかり裁かれることが、死ぬことがご自分の使命であるとわかっていても、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈らざるを得ない、孤独にこの世を去って行かれる時、共に十字架刑につけられた犯罪人が救われるのです。今日は、ルカによる福音書23章26節から43節を通して、「大逆転の人生」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、苦しい経験が恵みとなる

 十字架の判決を受けた囚人は、自らがつけられる十字架を担いで処刑場まで、歩かなければなりませんでした。鞭で打たれ、心身ともに疲れた身で、重い十字架を担いでイエス様は歩かれました。十字架刑というのは、すでにそこから始まっているのです。イエス様は、鞭打たれ、睡眠もあまりとっていないので、イエス様の体力は限界でした。イエス様には、もう十字架を担ぐ力は残っていませんでした。シモンというキネレ人は、過越しの祭りを祝うために、巡礼に来ていたようです。キネレは、北アフリカの地中海に面した所で、ギリシャの植民地であると言われ、ギリシャ語を話すユダヤ人たちが生活していたと考えられます。たまたまそこに居合わせたであろうシモンは、ローマの兵士によって、集まっている人々の中から選び出されて、イエス様が担いでいた十字架を背負わされたのでした。シモンは、体格が良く、色も黒かった。ですから、群衆の中でも目立った存在で、ローマ兵の目がつきやすかったのでしょう。シモンは、負いたくもない十字架を無理矢理に負わされたのでした。そして、イエス様の後を歩きました。多くの人々が、十字架刑を背負わされる犯罪人を見物しますが、事情を知らない人々は、実際に十字架を背負っているシモンが犯罪人と勘違いする人々も多かったでしょう。ですから、シモンに向かって、ヤジを飛ばしたり、罪を犯したことを指摘したり、犯罪者として責め立てる人々もあったでしょう。ですから、シモンは十字架を負わされたことがいやでいやでたまらなかったでしょう。「なんで俺が、どうして俺なんだ。なんでこんなことをしなければならないんだ」と納得がいかないのです。人生の中で最悪な日でした。十字架を担ぐことなど、誰もしたくはないはずです。マルコによる福音書を見ると、「アレクサンドロスとルフォスとの父でシモンというキネレ人」(マルコ15:21)とあります。「ルフォス」は、パウロがローマの教会に宛てた手紙の中に登場する人物です(ローマ16:13)。 

 シモンは、やがて信仰を持ち、キリスト者となり、教会の一員になったことを示しています。シモンは、死刑囚であるイエス様の十字架を無理に負わされて、イエス様の後をついて行くという体験を通して、イエス様の復活後に、キリスト者となりました。嫌で仕方のなかった十字架を背負う経験でしたが、彼は、本当の意味で十字架を負うてイエス様に従う者になったのです。私たちも、嫌な経験、苦しい経験、それらを通して、その経験が神様の恵みを体験することになるということを知っていたいと思うのです。

 28節からは、イエス様の姿に嘆き悲しむ婦人たちの方を向いて言われました。イエス様のために悲しんではいるけれども、本当に嘆き悲しむべきは、イエス様の苦しみではなくて、あなたがた自身と子孫のためにこそ、嘆き悲しむべきだと言われました。イスラエルの女性にとっては、子どもを産み、育てることができることは、神様の祝福のしるしでした。反対に、子どもが与えられない事は、嘆き悲しむべき事柄でした。しかし、子どもの与えられていない人々の方が幸福だという日が来るというのです。神様の怒りによって、裁きの日には、大きな苦しみが襲う。その時には、子どもを持つ人の方が、大きな苦しみを負うことになるのです。イエス様は、あなたがた自身の罪とそれに対する神様の怒り、裁きにこそ、恐れおののき、その罪を悔い改めて涙を流せと言われるのです。その事こそ、イエス様に従って行く弟子の姿であり、信仰者の歩みであることをイエス様は示しておられるように思うのです。イエス様の悲惨な十字架の死に対して、自分自身の罪を見つめることになることが信仰の始まりなのだと思うのです。

 

 二、苦しみの中にあって信頼がある

 三人が十字架につけられる死刑場は、「されこうべ」といわれる場所でした。ヘブライ語では、「ゴルゴダ」、ラテン語では、「カルバリ」といわれます。この場所に、三本の十字架が立てられ、イエス様を真ん中に、犯罪人が右と左に置かれたのでした。イエス様の十字架には、「ユダヤ人の王」という罪状書がありました。王であるイエス様に、左右に従っている家来のように、犯罪人を配置させたのです。そこには、ピラトのユダヤ人に対する皮肉とイエス様に対する侮辱があったと思われます。その場所に居合わせた誰もが、中心に位置しているイエス様が犯罪人の親分的存在であることを感じていたことでしょう。

 十字架刑の目的は見せしめです。人々に対して、ローマ帝国に逆らうことの恐怖を与えることでした。木につるすことの意味は、犯罪人に対する「呪い」の宣告でした。「キリストは、私たちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

 34節には、「〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕」とあります。イエス様は全ての人々の赦しを祈られました。イエス様は、犯罪人と共に十字架につけられることによって、罪人の仲間になり、寄り添って下さり、罪人と一体となって下さいました。イエス様は、絶望を味わう者の仲間となれたのです。34節は、カッコに挟まれていますが、多くの写本にはないけれども、古い写本にはあり、重要な文であるので、カッコにして本文に入れたようです。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」というイエス様の言葉は、やせ我慢して言えるような言葉ではありません。本心でなければ口にすることのできない言葉です。この言葉を民衆も、議員も、兵士たちも、犯罪人たちも聞いたのです。けれども、議員たちは、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」といい、兵士たちも、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」といい、犯罪人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と言いました。「自分を救え」という言葉こそ、人間の本質をよく表しています。人間は、他人の救いよりも自分の救いを求める者です。私たちの考える「救い」というものは、苦難や問題を取り除く、苦しみからの解放という意味での救いでしょう。しかし、神様の救いとは、苦しみを共にするという救いなのです。イエス様が十字架で苦しまれたのは、私たちの苦しみを共にするためでした。そのような苦しみの中にありながらも、父なる神様とのきずなは失われないという事を証明するためでした。今日の箇所にはありませんが、

46節には、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と祈られた。イエス様は、十字架の苦しみの中にあって、父なる神様への信頼を失うことはなかったのです。私たちも苦しみや悲しみ、絶望さえ経験します。そのような苦しみの中にあって、イエス様に対する信頼を失わないで、イエス様にこそ、希望があることを覚えたいのです。

 

 三、いつもイエス様は一緒にいる

 39節には、「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」」とあります。この犯罪人にとっては、十字架刑の苦しみは大変なものでした。「イエスをののしった。」とありますが、十字架刑につけられた者は、大変苦しみが大きくて、周りの人を呪う言葉を吐き続けるのが、普通であったようです。ですから、ローマ兵はあまりにもうるさい者の舌を切ってしまったようです。記録によると、舌を切られた者は少なくなかったようです。この犯罪人は、一番近くにいたイエス様に対して暴言を吐き続けたのでしょう。それを聞いていた、もう一人の犯罪人は言います。40節、41節です。「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 マタイやマルコの福音書には、二人の犯罪人がイエス様をののしったことを記しています。しかし、ここでは、この犯罪人は、「神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けている」と、神様の前に自分の罪を認めています。そして、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と、自分の犯した罪の結果によって、十字架刑についていることを認めています。そして、「この方は何も悪いことをしていない。」とイエス様には罪がないことを認めています。自分たちのように罪を犯した結果、十字架刑についているのではない事を知ったのです。この犯罪人は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」というイエス様の言葉を聞き、イエス様の姿を見ていたのです。そして、この方こそ、メシアであると信じたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という文章は、未完了過去で、過去のある時点から過去の別の時点まで継続している行為を指します。ですから、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉は、一度きりではなく、何度も語り続けられたということでしょう。ですから、この犯罪人は、何度も何度も、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」というイエス様の執り成しの祈りを聞き読けたのです。聞いているうちに、最初は、自分も先の犯罪人のように、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とイエス様を呪っていたのかもしれない。しかし、イエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という祈りを聞いているうちに、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」というように変えられたのだと思うのです。

 今もイエス様の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という執り成しの祈りは続いているのです。私たちが行うことが罪だと知って犯す罪も、知らずに犯す罪も、イエス様は私たちのために執り成していて下さるのです。ですから、このイエス様の執り成しの祈りのゆえに、取り返しのつかない罪というものは、

なくなったのです。私たちは、いつでも、どこからでも、やり直すことができるのです。何度挫折し、何度失敗し、何度罪を犯しても、何度信仰が揺らいでも、私たちはイエス様の執り成しの祈りのゆえに、何度でもやり直すことができるようになったのです。

 その犯罪人はイエス様に言います。42節です。「そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。」この犯罪人は、いつの日か実現する神の国への希望を告白しました。「救って下さい」とか、「天国に連れてって下さい」とは、自分の犯してきた数々の罪を思えば言えなかったのです。しかし、イエス様は43節には、「するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」とあります。「救って下さい」とか、「天国に連れてって下さい」とは言えない彼に、イエス様は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されたのです。ザアカイに、「今日救いがこの家を訪れた」と言われたように、「あなたは今日救われた。あなたは私と共に天国に行く」と言われたのです。この犯罪人は聖書を読むことはありませんでした。聖書を学ぶこともなかった。祈りの生活もなかった。礼拝の経験もない。洗礼も受けていない。献金もしていない。良いことを何かしたわけではない。ただ、悔い改めて、自分の罪を認めて、イエス様をメシア、救い主と信じたのです。ただそれだけで罪の赦しが与えられ、イエス様と共に行く天国の道が開かれたのです。救い主イエス様に出会うのに、遅すぎるということはないのです。人生の最後、死に際にイエス様に出会い、悔い改め、救われ、天国に導かれたのです。救われるために、何かをする必要はありません。イエス様を信じるだけでいいのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、悔い改めた犯罪人に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。「楽園」とはパラダイスです。パラダイスは、イエス様の復活以前には、「アブラハムのふところ」と同義でしたが、復活と昇天後には、パラダイスは、第三の天(神の臨在の場所)となっています。この犯罪人は、死後すぐに楽園、パラダイス、神の臨在の場所に移されるのです。

 罪人である私たちが、イエス様を十字架の死に追いやりました。しかし、十字架上でのイエス様の父なる神様への執り成しの祈りのゆえに、また、イエス様が十字架の上で、神様の怒りを一身に受けて下さったゆえに、私たちの罪は赦され、恵みを受ける者とされたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が与えられたのです。

 キネレのシモンは、犯罪者が担ぐ十字架を無理に負わされて、その経験は誰にも言えない。いいたくない屈辱でした。しかし、彼も十字架上でのイエス様の言葉、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を聞いたのではないか、イエス様の十字架刑を見たのではないかと思うのです。そして、自分の国へ帰り、イエス様を救い主と信じて、十字架を無理に担がされたことを恵みとして受け入れることができたのではないでしょうか。あの時は、何故と思った。しかし、イエス様の担ぐべき十字架を担がせていただいたことを誇りに思えたでしょう。私たちが今経験している苦しい事、辛い事、病の治療や苦しみ、その意味はわかりません。しかし、やがて、そのことを感謝できる、受け入れることができるようにイエス様はして下さることを信じたいです。

 イエス様を信じた犯罪人は、十字架刑にされるというのが、彼の人生の総決算でした。けれども、彼は、イエス様の執り成しの祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を通して、自分の罪を認め、イエス様を救い主、メシアとして信じて救われ、天国に導かれたのです。大逆転の人生でした。私たちの人生は、罪人として滅びるものでした。しかし、イエス様の十字架の身代わりの死と復活によって、信じることによって救われ、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエス様が言われたように、私たちは神の国へ導かれるという、私たちの人生も大逆転の人生なのです。この恵みを覚えて、この週もイエス様を見つめ、イエス様と共に、イエス様に全てをお任せして、歩んでまいりましょう。今週は、受難週ですので、イエス様の十字架の苦しみを思いながら歩みましょう。来週は、イースターです。イエス様は死んだまま、墓に葬られたままでは終わらないのです。復活して、死と罪に勝利されたのです。死んでも生きる希望が私たちにはあるのです。

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日曜礼拝(22年4月3日)

2022-04-03 16:52:20 | Weblog

日曜礼拝(受難節第五)       2022.4.3

    「記憶にございません」 ルカ22:31-34,54-62

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2022年度が始まりました。4月3日第一日曜日の礼拝です。受難節の第五の日曜日です。来週は、棕櫚の主日、受難週となります。私が青葉台教会に遣わされて22年目になります。コロナの状況が3年目になりますが、コロナ禍にあって、私たちは、神様の導きを信じて、信頼して、この年度も歩ませていただきたいと思います。

 今日は、ルカによる福音書22章31節から34節と54節から62節を通して、ペトロについて、「記憶にございません」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様のゆるしの中にある試練

 イエス様は、弟子たちとの最後の食事の席で、御自分を裏切る者がいることを語られました。その中で、弟子たちは、誰が一番偉いのかという議論をし、仕える者なるようにと教えられました。31節、32節には、「「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」」とあり、ペトロ一人に語られました。シモンとは、ペトロの本名です。イエス様がペトロに初めて出会った時に、ペトロという名前をつけられ、それからはペトロと呼んでおられました。しかし、今回は、「シモン」と、彼の本名を呼ばれました。シモンとは「小さい石」という意味で、ペトロは、「岩」という意味、イエス様はペトロの信仰が岩のようになるとペトロと名付けられました。名前を呼ぶという事は、相手への愛情を示すことで、2度呼ばれるのは、相手を愛しつつ、相手の陥っている問題、その人自身が気づいていない罪や弱さを指摘しようとしておられるように思います。

 これからペトロを含め、弟子たちは信仰が揺さぶられるのです。イエス様は、ペトロの信仰がなくならないように祈られたのは、誰よりも早くペトロが立ち直り、仲間の弟子たちを力づけるためなのです。

 「ふるいにかける」とは、粒の大きさによって、必要なものと要らないものを分けることで、「小麦のようにふるいにかけること」は、脱穀において、収穫すべき麦とその他のもの、もみがらやゴミを選別して分けることです。弟子たちは、イエス様に従っている本物の弟子か、それとも、見せかけの偽物の弟子かを選別されようとしているのです。これから、イエス様が捕らえられて、十字架につけられ、弟子たち自身に危険が及ぶという試練に遭う時、弟子として本物か偽物かが明らかになってくるというのです。その結果は目に見えていました。弟子の誰一人として弟子として全うできる人はいなかったのです。

 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」とありますが、サタンは自分の力ではできないのです。自分の思い通りにはできないのです。「神に願って聞き入れられる」必要があったのです。神様の許可なしには、何もできないのです。ですから、サタンは、神様に対抗できるような存在ではないということです。神様の支配のもとに、サタンの存在は許されているのです。サタン自身の力が、人間を苦しめたり、悲しめたり、試練を与えることを、神様が認めておられる、許されているということでしょう。ですから、私たちが経験する全ての試練は、神様のみ手の中にあるということを示しているのです。最終的な支配は、神様がちゃんと握っておられるのです。

神様がサタンの力によって、私たちに苦難や試練を与えるということではありません。サタンが私たちに苦難や試練を与え、試みるという事は、神様の知らない所でなされているのではないということを私たちは覚えておきたいのです。今、試練の中にある方々がおられるでしょう。そこには、神様の眼差しが注がれているという希望があるのです。

 

 二、私が頑張らねばから恐れがくる

 33節には、「するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。」とあります。ペトロは、イエス様の言葉、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」という言葉を否定しました。「立ち直ったら」は、挫折を前提とした言葉です。自分は挫折などしません、ということです。「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言い切りました。自信満々です。イエス様が一緒なら命を捨てます、というイエス様に対する愛ではなく、イエス様に従って、自分の使命を死んでも果たします、という決意、覚悟なのです。マルコによる福音書14章29節には、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」というペトロの決意、覚悟なのです。ペトロは、覚悟して、決意してイエス様に従うことが信仰だと思っているのです。すると34節です。「イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」」 ペトロは、鶏が鳴くまでに、3度イエス様の事を知らないというと言われたのです。

 ペトロは、マタイによる福音書16章では、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白し、イエス様から「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とまで言っていただいた。ペトロは、自分こそが、自分でなければという思いが先行してしまいます。自分はイエス様の一番弟子。自分は他の弟子よりも頑張って、決意して、覚悟して、イエス様に仕えねばならないと感じていたので、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」というイエス様の言葉には不服だったでしょう。マタイやマルコの福音書では、イエス様がペトロに3度私を知らないという言葉の後に、「ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」」(マルコ14:31)とペトロは自分の決意、覚悟を語っています。信仰とは、覚悟や決意して、イエス様を信じることではありません。信仰生活は、頑張るというものではないのです。

 54節の最後には、「ペトロは遠く離れて従った。」とあります。イエス様を愛するがゆえの行動でしょう。愛とは共にいることです。そのために自分を顧みないのです。ここには、恐れを越えてイエス様について行こうとするペトロの姿があります。しかし、ペトロはイエス様の近くに行くことはできないのです。遠く離れていました。それは恐ろしいからです。自分自身を守ろうとしたのです。愛とは共にいることですが、愛とは反するものが、この時のペトロにはあったように思うのです。ヨハネの第一の手紙4章18節には、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。・・・恐れる者には愛が全うされていないからです。」とあります。愛とはそういうものです。恐れや不安から自分を守ろうとする感情は、愛とは矛盾する心です。私たち人間には、そのような複雑なものがあるのです。愛しているけれども恐れ、信仰を持って生きようと願うけれども不信仰な生き方をしてしまうのです。

 55節、56節には、「人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。」とあります。ペトロは、人々に紛れ込んで火に当たっていたのです。女中は焚火の火にあたるペトロの顔をじっと見たのです。朝ドラでは、「暗闇でしか見えぬものがある」とありましたが、光に照らされて見えるものがあるのです。ペトロの顔がはっきり見えて、イエス様と一緒にいた人物だとわかったのです。ペトロはとっさに、57節です。「しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。」イエス様に対する愛と恐れのはざまで、女中の一声に恐れをなしてしまったのです。イエス様を知らないと言ってしまったのです。

 

 三イエス様の眼差しは私たちを癒す

 58節には、「少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。」とあります。マタイやマルコの福音書には、一度目の否認の後、「門の方、出口の方に出て行く」ということが記されているので、中庭から出て行こうとしたのかも知れません。しかし、出ていく前に、二度目に

お前もあの連中の仲間だ」と言われ、「いや、そうではない」と答え、出るに出れなくなったのかも知れません。そして、59節には、「一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。」とあります。エルサレムという中心の町で、ペトロのガリラヤのなまりがイエス様と一緒だとばれたのです。60節には、「だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。」とあります。ペトロはイエス様のことを「わたしはあの人を知らない」と言ったのは、最初だけで、2回目、3回目は「いや、そうではない。あなたの言うことは分からない」とあいまいな答え方をしました。

 人は1回嘘をつくと、その嘘を本当に見せるために、また嘘をつくしかなくなるのです。最初の否定「わたしはあの人を知らない」を本当にするためには、「いや、そうではない」と嘘をつくしか、否定するしかないのです。そして、3回目の「あなたの言うことは分からない」というように言わないと、1回目と2回目の答えが嘘になってしまうのです。だから、最初に嘘をついたことが、2回目、3回目の嘘を誘発したのです。3回の否定は、1回目に嘘をついたことが3回目の否定につながっているのです。

 3度の嘘を言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いたのです。ヨーロッパの古い教会には、屋根の上に鶏が飾られています。紀元9世紀に、時のローマ教皇ニコラウス一世が、修道院や教会に鶏を設置するようにと命令したようです。鶏は夜明けを告げる鳥です。暗い時代にあって、夜明けは近いと希望を告げる鶏。復活の希望を伝えるものです。

 61節には、「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」とあります。ペトロは、鶏が鳴いてはっとしてイエス様の言葉を思い出したのではなく、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」ので、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出したのです。イエス様を知らないとは言ったけれども、ペトロ自身がイエス様の事をよく知っていること、自分はイエス様の弟子であることを自覚したのです。イエス様の眼差しを受けて、イエス様の深い交わりのぬくもりがよみがえり、イエス様の眼差しを通して、自分が何者であるのかがはっきりしたのです。

 「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言ったペトロは、彼の本当の姿ではありませんでした。「わたしはあの人を知らない」とイエス様を否定したことがペトロの本当の姿だったのです。それが、62節にある「そして外に出て、激しく泣いた。」というペトロの涙だったのです。イエス様にどこまでも従いたいと願いながらも従えない。イエス様を愛したくても愛せない。イエス様と一緒にいたくても共にいることができない。情けない、罪人の姿。これがペトロの真の姿でした。ペトロは、自分の弱さ、自分の罪深さを知りました。ここから新しいペトロの歩みが始まります。私たちも、自分の本心、罪の姿を知ることなしに、イエス様にある新しい歩みは始まらないのです。

 イエス様は、罪ある私たちの罪を赦して下さるために、罪がないのにもかかわらず、十字架の上で、父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられ、神様と共に新しく歩むことができるのです。それは、私たちが自分にも罪がある。罪人だと認めることから始まるのです。

 

 Ⅲ結論部

 ペトロは、3度イエス様を否定したことに気づいていませんでした。鶏が鳴いても気が付かず、イエス様が振り向いてペトロを見つめて、気が付いたのでした。ペトロは、イエス様に気づかせていただくまで、自分では気が付きませんでした。遠く離れて従ったということでしょうか。イエス様から離れると私たちも、イエス様の言葉を忘れてしまうのかも知れません。しかし、イエス様の語られた言葉を忘れてしまうような、自分をイエス様の弟子であることに記憶がないかのようにふるまう者にも、イエス様は眼差しを向けて下さるのです。たとえ、私たちがイエス様から遠く離れてしまったとしても、私たちは、なおも、イエス様の温かい眼差しの中にあることを忘れないでいたいのです。

 イエス様は、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたように、ペトロがご自分を見捨てることを御存じの上で、そう言われたのです。ですから、イエス様は、ペトロがご自分を3度否定してもお責めにはならないのです。イエス様は、ペトロに一言も語りませんでした。ただ、ペトロを見つめられたのです。ペトロは、イエス様の眼差しの中に、自分のために祈っていて下さるイエス様の恵みと憐れみ、愛を見たのです。ペトロはイエス様を3度否定しました。3度とは、徹底的に否定したという事です。それでも、イエス様は、ペトロを見捨てることなく、受け入れて下さいました。ペトロは、イエス様とのつながりを断ち切ろうとしましたが、イエス様はペトロとのつながりをなおも持とうとして下さったのです。ペトロがイエス様にどんなに不誠実でも、イエス様はペトロに誠実なのです。同じように、私たちは、ペトロのように、ペトロ以上に、イエス様に対しあいまいであったり、ごまかそうとしたり、イエス様を否定したり、断ち切ろうとする弱い者です。罪深い者です。だからこそ、イエス様は罪深い、罪を犯す私たちを救うために、人となり、人間の世界に来て下さり、十字架にかかり死んで、よみがえられたのです。

 「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とは、ペトロに語られただけではなく、イエス様を見失い、挫折し、倒れ、どうしようもない私たちにも語られたお言葉です。イエス様は、いつでも私たちのためにとりなしの祈りをしていて下さるのです。私たちは、失敗しない、挫折しないキリスト者になることではありません。私たちは、誰もが失敗もし、挫折もするのです。ヤコブの手紙3章2節には、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからである。」というみ言葉があります。その私たちの信仰がなくならないように、イエス様は祈り励まして下さるのです。私たちの背後には、イエス様の大いなるとりなしの祈りがあるのですから、立ち直ることができるのです。そして、兄弟姉妹を励ますことができるのです。私たちは、イエス・キリスト様にあって、励まされ、励ますことができるのです。私たちは、いつもイエス様の温かい眼差しが注がれていること、試練の中にあっても、神様のみ手の中にあることを覚え、イエス様に守られ、支えられていることを信じて、この週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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