江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年1月28日)

2024-01-28 13:20:39 | Weblog

日曜礼拝(公現後第四)      2024.1.28

         「期待外れであっても」 列王記下5:1~15

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第四日曜日を迎えました。早いもので、今年もあと337日を残すこととなりました。私たちは、日々人を信じて歩んでいると言えます。インターネットで物の売り買いが行われます。買う側もその商品が必ず送られてくると信じ、相手側も商品到着してからの支払いなら、必ず支払ってくれると信じて売るのです。毎日天気予報士の「今日は雨が降ります。」という言葉を信じて傘を持って出かけるのでしょう。「今日は寒い日だ」と言われれば、厚着をしてでかけるのでしょう。「津波が来るので非難して下さい。」という言葉を信じて、すぐに高台に避難するのです。

人の言葉は信じるのに、神様は信じない。神様の言葉は信じないという人は多いのです。人間の言葉よりも、偉大で真実なお方、神様に目を留めること、神様の言葉を大切にしたいのです。けれども、神様の言葉を信じるということは、時には難しく感じることがあるのかも知れません。今日は、旧約聖書列王記下5章1節から15節を通して、「期待外れであっても」という題でお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、外見では見えない内側の悩み

 1節には、「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。」とあります。アラムは現在のシリアにあたります。イスラエルとアラムは、たびたび戦争をしていました。ナアマンは、アラムの王の軍司令官で主君に重んじられた勇士であり、気に入られていた存在でした。イスラエルの戦いにおいて、イスラエルの神様ご自身が、ナアマンを用いてアラムに勝利を与えたのです。異邦人のナアマンが神様に用いられたのです。ナアマンは、アラムの王から信頼も厚く、富める者であり、社会的な地位や名誉、富を手にしていた人でした。ナアマンの成功は、神様のおかげでした。けれども、聖書は、「重い皮膚病を患っていた。」と記しています。泣く子も黙るナアマンです。軍服を着ているナアマンの姿は勇ましいものですが、軍服を脱げば、治らない重い皮膚病という弱さがあったのです。世間的には、何不自由ない満たされていると思っている人であっても、実は深刻な悩みを抱えているということが案外あるのです。

私たちは、誰にでもひとつやふたつは悩みというものがあります。ナアマンにとっては、重い皮膚病を患っていることは、大きな悩みの種でした。この病気は、回復するどころか、悪化するという特徴があったようです。ですから、どんな大きな犠牲を払っても治りたいと願った。ナアマンは、権力も財力もありますから、あらゆる手を尽くして、重い皮膚病を治療したことでしょう。けれども、この病気を治すことはできませんでした。この病気を治すことはできないという悲しい現実に直面したのです。ですから、生きていても将来も希望もない日々でした。しかしこのことが、まことの神様を知るきっかけとなるのです。自分の力では、人間の何かでは解決できない問題に直面する時、私たち人間は、神様に心を向ける可能性が高くなるのだと思うのです。順調な時は、神様に目を向けなくても十分やっていけると思ってしまいます。けれども、私たちの力や考えでは、解決できない、どうしようもない時は、神様を知る機会となることがあるのです。私たちも、不幸や災い、苦しみや痛みを通さなければ、神様に出会わなかったという方々もおられるのだと思うのです。どうすることもできない状況で、神様は恵みを用意しておられるのです。

 2節、3節には、「アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」」とあります。戦争によりアラムに負けたイスラエルから捕虜として少女が連れてこられ、ナアマンの妻に仕えていたのです。敵国の軍司令官、もしかしたら、家族はみんな殺されたのかも知れません。憎んでも憎んでも憎み切れない存在のナアマンの妻に仕えていた。そのことも少女にとっては屈辱的なことであったのかも知れません。けれども、この少女は、イスラエルの神、まことの神様を信じていました。

自由を奪われ、祖国からも、家族からも引き離された何の力もない奴隷の少女でしたが、彼女から信仰を奪うことはできなかったのです。この少女は、環境がどうであれ、立場がどうであれ、神様を信じ、信仰を持ち続けていたのでしょう。ナアマンの病気のことも知り、癒しのために祈り、ナアマン夫妻のために祈っていたのでしょう。でなければ、「「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」とは言えないはずです。この言葉は、少女の信仰告白でもあります。、彼女は、イスラエルの預言者エリシャ、神の人の存在を知り、そのエリシャを用いてみ業をなさる神様を知っていた。信じていたのです。そして、この少女の信仰告白の言葉が、ナアマンにひとつの希望を与えることになるのです。この少女は、とっておきのグッドニュースを知っていたので、黙ってはおれなかったのです。そのことを告白する自由があったのです。私たちは、幸いにも、グッドニュース、良き知らせ、福音を持っているので伝えたいのです。

 福音の種は、小さな者によって蒔かれるのです。地位や権力、財力や名声を持つ者、つまりこの世で重要だと考えられている人々は、誰もナアマンの病気を治す方法を知りませんでした。イスラエルの捕虜、奴隷の少女はナアマンの病気を治す手がかりを知っていたのです。私たち人間の世界には、解決できないことがたくさんあります。どんなに偉い政治家でも、医者でも、権威ある者、財力のある者にも解決できないのです。しかし、聖書の神様、私たちの信じる神様、イエス様には解決があることを私たちは伝えたいのです。

 

 二、オレを誰だと思ってる?

 「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という奴隷の少女の言葉に、ナアマン夫妻は希望を見出し、アラムの王に、そのことを伝え、アラムの王は、イスラエルの王に手紙を送ると言います。5節の後半には、「こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。」とあります。リビングバイブルには、「そこでナアマンは、贈り物として、金六千シェケル(六十八・四キログラム)と銀十タラント(三百四十キログラム)、それに着物十着を持って、イスラエルへ出発しました。」とあります。少女の言葉に期待を持ち、自分の病気が治ることを夢見て、そのお礼に莫大な量の金や銀、晴れ着を準備したのです。安くみつくろっても3億円はするようです。ナアマンの意気込み、期待がうかがえます。

 アラムの王は、ナアマンの重い皮膚病を治して下さいとイスラエルの王に手紙に書きました。重い皮膚病は治らない病気です。それを治せとは、戦争を仕掛ける理由を作っているとイスラエルの王は恐れます。そして、嘆きのポーズ、衣を裂いたのです。そのことを、預言者エリシャは知ったのでしょう。8節です。「神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」」アラムで囚われの身となっている少女の信仰とアラムの王の手紙に恐れているイスラエル王の違いがわかります。9節には、「ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。」とあります。今でいえば、黒塗りのベンツの車で、高級なスーツでエリシャの家の入口に立ったということでしょう。時間をかけての旅、大人数の随員、多くの贈り物を持参しての到着でした。ナアマンは、今まで苦労し、辛い思いをしてきた重い皮膚病が癒されることを待ち望んだことでしょう。アラムの軍司令官という地位のゆえに、それなりの対応を期待したはずです。「これはこれは、遠いところをよくおいでくださいました。ナアマン様ですね。イスラエル王からの聞いております。お疲れになったでしょう。ここでお休みください。お茶をお飲みください。」のような対応を期待したのだと思うのです。けれども、現実は全く違いました。10節です。「エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」」イスラエルの国から見れば、アラムは大国です。その国の軍司令官、最高司令官です。その相手に対して、エリシャは顔を出さなかった。歓迎の挨拶もしない。ただ、使いの者、おそらくゲハジでしょう。彼に、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉だけを伝えたのでした。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という妻に仕える少女が言った言葉に、光を見出し、期待し、その預言者エリシャに対する思いも、良いものばかりだったでしょう。きっといい人で、自分を歓迎し、手厚い治療をしてくれて、病気を治してくれる。そんな思いでいたのに、期待外れだったのです。思い込み見過ぎがあったのです。

 11節、12節には、「ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。」とあります。ナアマンは怒りました。エリシャの家から立ち去りました。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」というのは、ナアマンの勝手な思い込みです。アラムという異教の国に住むナアマンは、呪術的なものに慣れていたのでしょう。「彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」とあるように、今までにナアマンの病気を治療するのに、そのようなことをしたに違いありません。長旅をして苦労してここまで来たのに、川で身を洗えというのなら、アラムの国には、「ダマスコの川アバナやパルパル」の方が綺麗だと憤慨しました。

 私たちも、神様の私たちの祈りに対する答えが、自分の願った、思ったことと違った場合、全く予想もしない結果を見た時、つぶやき、憤慨し、投げ出してしまうというようなことがないでしょうか。期待外れの神様の導きを経験することが私たちにもあるのです。

 

 三、単純であれ

 ナアマンは、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」という言葉を聞いて、期待して、重い皮膚病を治してもらうために来たのに、自分の期待通りでなかったという理由で、エリシャの態度が失礼だという、病気の癒しとは全く関係ない所につまずいてしまいました。案外私たちも、本筋と違うところに、枝葉の事に惑わされて、見るべきところ、考えなければならないところを見過ごして見落として、その目的を達せないということがあるように思うのです。ナアマンも希望を見出しながら、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」とそこに答えがありながらも、その癒しを失いそうになるのです。

 けれども、神様はここでもナアマンの癒しのために、神様の備えた人がいるのです。 

13節です。「しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」」

 エリシャが語ったこと、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」ということは、難しい事でも、無理なことでもありませんでした。あまりにも、簡単で、単純で、誰にでもできる命令でした。けれども、ナアマンにとっては、馬鹿げた、ありえない方法だったのです。ヨルダン川は汚くアラムの川の方がきれいだという理由はあっても、癒しの方法よりも、エリシャのナアマンに対する態度、癒しの方法、無礼な態度に怒りを感じたのです。家来たちは、誇るべきものがないという祝福があったので良きアドバイスをすることができたのです。

 簡単なことができないで、難しいことをやろうとするというのは、私たち人間の姿をよく表しているように思います。イエス様の十字架と復活を信じるだけで救われると聖書は語ります。簡単なことです。そんなことで救われるのですかと思う人もいる。滝に数時間打たれるとか、裸足でお百度参りするとか、自分の努力で頑張ると救われるような気になるのです。もっと聖書を読んでから、勉強してから、礼拝の生活が続けられたら、祈れるようになったら、あるいは、タバコや酒をやめられるようになったらと自分で自分の救いを難しくしてしまっているのです。そこにも、人間のプライドがあるのでしょう。簡単な事で、単純な事ならば、自分を誇ることはできないのです。しかし、難しければ、自分の努力や頑張りで成し遂げたなら、自分を誇ることができるのです。私たちは、簡単な聖書の言葉に従順になるという方法ではなく、自分の行いによる救いを求めてしまうものなのです。

聖書は、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)と語るのです。

 ナアマンは、家来たちの「あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。」という言葉に、素直に従うのです。ヨルダン川に行って、身を一度洗いました。何の変化もない。2度、3度、何の変化もない。少し良い兆しがあるとか、変化があるとかわかれば、4度、5度と実行できます。しかし、何の変化もないままに、4度、5度、6度と家来たちの励ましもあり身を浸しました。何の変化も良い兆しもありませんでした。しかしナアマンは、エリシャの言葉の通りに7度身を洗ったのです。すると、14節には、「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」とあります。リビングバイブルには、「彼の皮膚は幼子のようにつやつやしてきて、すっかり治ったのです。」とあります。「下って行って」という言葉は、「身を低くする。へりくだる。」という意味があるようです。「俺を誰だと思っているんだ。」という傲慢な思いから、素直にエリシャの言葉に神様の言葉に、降参した。従ったのです。このこと以外にナアマンの重い皮膚病は癒されなかったのです。

 

 Ⅲ結論部

 15節には、「彼は随員全員を連れて神の人のところに引き返し、その前に来て立った。「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。」とあります。ナアマンは、神様の言葉を信じて、従って重い皮膚病が完全に癒されました。体の癒しだけではなく、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。」とまことの神様を知り、信じ、救われたのです。ナアマンは、エリシャの言葉、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉を理解したから救われたのではないでしょう。私たちは、聖書を通して、神であるお方、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげられ、死んで下さり、墓に葬られ、三日目によみがえられて、罪と死に勝利されたことを信じています。それは、十字架と復活、福音を完全に理解したから救われたというのではないでしょう。救いは、恵みであり神様の賜物、プレゼントなのです。

 私たちは、期待外れの事が多くあるのかもしれません。しかし、自分の思い通りに行くことが幸せなのではなく、期待外れだからこそ自分を見つめ直し、神様に目を留めるのです。捕虜とされた少女は、期待外れの人生だったでしょう。しかし、彼女は最悪の環境の中で神様に目を留め、ナアマンの癒しのために用いられました。ナアマンの家来も、位も力もありませんが、ナアマンを愛し、ナアマンの癒しを願っていたからこそ、必要なアドバイスをすることができたのです。弱くてもいいのです。小さくてもいいのです。環境は関係ありません。神様は小さい者、弱い者を神様のみ業のために用いるのです。私たちは、ナアマンのように、奴隷の少女の言葉、家来の言葉に聞き、従ったように、私たちのそばに置かれている方々の意見や言葉を大切にして従いたいのです。神様のなさることは、派手なことではないのです。神様の業を妨げるのは、人の期待とプライドなのです。

今年も、自分の願ったことや祈ったことではなく、期待外れの事が多くあるのかもしれません。しかし、私の期待外れだからこそ、その背後に神様の確実な備えと祝福があるとこと信じて、期待して、この週も神様の言葉、聖書の言葉に触れて、信頼して歩んでまいりましょう。 

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日曜礼拝(24年1月21日)

2024-01-21 15:16:43 | Weblog

孤立から交わりへ         マルコ5:1~20(マタイ8:28~34,ルカ8:26~39)                  2024,1,21

  •  本日の箇所は、イエスさまと弟子たちが、舟でガリラヤ湖を移動中、激しい突風で舟が波をかぶり、弟子たちが恐れたときに、イエスさまが突風を静めたという話のあとのことです。この話は、マタイ、ルカにも出てきます。良く知られていた話だったのです。またこの章では、3つの物語が出てきます。今回の「汚れた霊につかれた人」のほかに、「ヤイロの娘」、「12年間長血をわずらう女」の物語です。いずれもイエスさまにより回復されたという話です。さて、1節、イエスさまは、弟子たちに向こう岸に渡ろうと命じ、着いたところがゲラサ人の地です(今のシリヤ)。イエスさまは、この地にくる目的があったのでしょう。そこは、異邦人の地で、ユダヤ人の弟子たちには居心地が悪かったのだと思います。それだけでなく、2節、舟から上がるとすぐに汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきたのです。3節~5節に、この人は、墓場に住んでいて、足枷や鎖でつながれていたが、それを引きちぎり砕いてしまい、さらには、叫けんだり,石で自傷行為をしていたとあります。マタイでは、凶暴な2人とあります。2人だったのかもしれません。この人の病気が何かは不明ですが、長い間、治療を受けていたのでしょう。それを尽くしてもダメだったので墓場に隔離,拘束されたのだと思います。この地の人々からは、人としての生活と人間性が奪われたのです。叫んだり、自傷行為をしたことから考えてみると、心の内面的なものが、爆発、発散していたのではないかと推測できます。

  社会からは、罪びと、汚れたものとして排斥されていたのです。人格のあ  る人として見られていなく、孤立していたのだと思います。

 6節、この男がイエスさまを、遠くから見ると、走り寄ってひれ伏して大声で「いと高き神の子イエス」と呼んだとあります。イエスさまを、いと高き神の子と信じて求めてきたのです。弟子たちでさえイエスさまが何者であるかわからないでいる時に、異邦人でしかも汚れた霊に取りつかれている人が、最初に「神の子イエス」と叫んだのは驚きです。汚れた霊にとりつかれていても、心の奥に見えるものがあったのかもしれません。あるいは、マルコ1:34に悪霊はイエスを知っていたとありますので、悪霊が言わしめたのかもしれません。1:21~27では、カファルナウムで汚れた霊に取りつかれた男が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫んだとあります。同じような記述で、悪霊が言わしめているのです。8節、イエスさまは、この男のなかにいる汚れた霊に気づき、この人から出て行けと命じます。汚れた霊も、イエスに、すぐ気づきこの地方から追い出さないで、豚の中に送り込んでくれと願います。イエスさまが、それを許すと汚れた霊どもは、2000匹の豚の中に入ります。豚の群れは崖を下って湖の中でおぼれ死んだのです。

 9節、イエスさまがこの男に「名は何というのかと」たずねます。名を聞くというのは、人としてその人を受け入れるということです。イエスさまは、何故このような生活をしているのかなどと過去のことは問わず、あるがままに受け入れているのです。この名もなき者を尊厳ある人として扱っているのです。私たちも、君とかそこの人と呼ばれるより名前で呼ばれた方が気持ちよく対応できますよね。イエスは、この人に自分がとりこになっている悪霊に支配されていることを告白するよう求めているのです。彼は、レギオン(ローマの軍団、6000人)大勢だからと答えます。それは、彼を支配していた多くの悪霊の軍団という意味です。イエスさまは、彼が悪霊に気づき、心を正気に戻らせるために、自分が何者であるかを告白させることが必要なことだと思っていたのです。そして、悪霊を追い出し、この男は、服を着、正気になって座ったのです。イエスさまは、この男を汚れたものとは見ていないのです。社会の犠牲者と見ているのです。希望などないと思っていたこの男に憐れみを注いでいるのです。イエスさまは、このことのためだけにこの地に来たのです。

 14節~17節で豚飼いたちは、2000匹もの豚が死んだので、この大損害をびっくりして町に行って知らせたのです。さらにこの男が正気になったのをみて、恐ろしくなったのです。これ以上の損害をださないよう、イエスに、この地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。イエスさまの示された恵みの業を恵みとしてみず、恐れと見たのです。イエスを受け入れなかったのです。わたしたちも、しがちなことです。昨年、マスコミで大きく取り上げられた中古車販売・修理をする会社がありました。利益を上げるために車にわざと傷をつけ修繕したりしていたのです。悪いと知りながら、上司から要求されたことに従っていたのです。利益という偶像に従った結果だったのでしょう。わたしたちも、利益、名誉、地位、評判などを心の中心におくと同じ過ちを起こします。この豚飼いたちも神には目をとめず、資産としての豚からくる利益を偶像化して心の中心に置いたのです。これ以上の損害がでないようにするため、イエスさまを恐れて、追い出したのです。私たちも何らかの犠牲、損害を要求されても、イエスさまを喜んで迎えることができるでしょうか、私たちにも問うているのです。

 神はすべての人を愛し、キリストを通してあがなわれ、回復されることを望んでおられるのです。イエスさまは、そのため十字架ですべての人の罪の贖いのために、いのちと血をそそぎだし、復活したのです。考えられないような犠牲が私たちのためにされたのです。神様の愛です。神は人間を神に似たものとして創造し、自由意志を持つものにしたのです。だから神の先行的贖いにたいして、それに応答するかどうかの判断は人に委ねられています。この恵みに対し豚飼いたちのように神の招きに応答しないという選択の自由があります。神は、救いの手をすべての人に差し出しています。神は,一人でも滅びることを望まず、すべての人が、神を受け入れることを望んでいるのです。(第2ペテロ3:9)しかし、人々の意思に反してご自分の意思を押し付けることはなさらないのです。

 15節には、汚れた霊に取りつかれていた人が、服を着、正気になって座っていたとあります。心の根本的変化があったのです。イエスさまは、この人を愛し、彼の体と霊、生活を回復したのです。18節にこの人がイエスさまと一緒に行きたいと願ったとあります。イエスさまは、それを許さないで、自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにして下さったことをことごとく知らせなさいと言われました。彼を家族と社会での愛のある交わりへ復帰し、人間関係を回復させようとしたのです。彼は、イエスがいかなる人であるか認め、イエスの救いときよめの業を経験したのです。彼はイエスには従っていけなかったが、事実上の弟子になったのです。そして彼は、イエスさまを愛し、イエスさまがしてくれたことを、異邦人の社会の中ではじめての証し人となったのです。私たちも、十字架の恵みを受けたものとして、受けた祝福を人に伝えたいものです。祈りましょう。

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日曜礼拝(23年1月14日)

2024-01-14 12:40:34 | Weblog

主日礼拝

2024年1月14日

あなたには何が見えていますか?

詩篇18篇1〜31節(新共同訳)

 

1導入部

みなさん、おはようございます。一言、お祈りをします。…

昨年7月以来の奉仕になりますので、はじめましての方もいらっしゃるかと思います。最初に自己紹介をしたいと思います。塚本良樹と申します。私は、2018年から2021年3月まで、この教会で青年担当牧師、ユースパスターとして奉仕していました。本当にお世話になりました。また、この教会で結婚式を挙げさせていただきまして、本当に感謝しています。今は年に2回のペースで来させていただき、ご奉仕させていただいています。

さて、私がこの教会にいたときから、詩篇を連続して語らせていただいていました。詩篇じゃなかったときもあったのですが、今日は詩篇の続き、18篇から語らせていただきたいと思っています。ただ詩篇18篇は長いので、今日は前半31節までを語らせていただきます。

なお、他の詩篇でもそういうことがあるのですが、新改訳・口語訳の翻訳の聖書をお持ちの方は1節ずれるので、私が言う節から1引いて聞いていただければと思います。

 

2本論部

一 死から救い出された経験

 それでは、早速1節から(口語訳・新改訳だと2節)をご覧ください。

 

18:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。】

 

この詩篇は、ダビデが、その敵から救われたときの歌であるとあります。具体的にどんな状況かは分かりませんが、5、6節(口語訳・新改訳だと4、5節)を見る限り、絶体絶命の状況から、死を覚悟した状況から救われたときだったと思われます。5、6節をもう一度お読みします。

 

18:5 死の縄がからみつき/奈落の激流がわたしをおののかせ

18:6 陰府の縄がめぐり/死の網が仕掛けられている。

 

陰府」というのは死後の世界であり、死の力に引っ張られそうになっていた状況から、救い出されたことが見て取れます。確かに、ダビデはサウルという王様から長い間、命を狙われていました。間一髪で、ということもあったのですが、死の危険から、絶体絶命の状況から救い出された経験をもっています。

みなさんも、絶体絶命の状況から救われたという経験があるでしょうか。私は、アメリカに留学していたことがあるのですが、私がいたロサンゼルスは車の運転が非常に荒い地域で、何度か死にかけた、交通事故に遭いかけたことがあります。

あるいは、私の友人で、最近、奥様が危篤状態から奇跡的に回復したという方がいます。あるいは、今回の震災でも、瓦礫の下から救い出されたという方のニュースを聞きましたが、命が助かった。死を覚悟した状況から救われたなら、人はそれを神に感謝すると思います。

 

二 神を賛美するダビデ

ダビデは、神にいのちが助けられた経験を踏まえ、このように神に対して、感謝の祈りを捧げています。2節から(口語訳・新改訳だと1節から)をご覧ください。

 

18:2 主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。

18:3 主はわたしの岩、砦、逃れ場/わたしの神、大岩、避けどころ/わたしの盾、救いの角、砦の塔。

18:4 ほむべき方、主をわたしは呼び求め/敵から救われる。

 

ここでは、神様をさまざまなものに例えて賛美しています。「」、「岩、砦」。「逃れ場」とは避難所のことです。まさに、今多くの方が避難所におられますが、ダビデは言うのです。神こそが、真の避難所である。そこに逃げ込むなら、つまり頼るなら、絶対に大丈夫な存在である。

続いて、神は「大岩」である。そして、「避けどころ」も避難所です。「盾、救いの」。「」は力を象徴します。「砦の塔」も守られる場所です。

神がまさにそのような方であることが示された。だからこそ、神を「慕う」、つまり愛している。「ほむべき方」、つまり賛美されるに相応しい方だと、素晴らしい方であると歌っています。

 

三 神を賛美することが難しい現実のなかで、苦しむ人に寄り添うこと、嘆くことの大切さ

そのように詩篇18篇を読んでいくとき、今の私自身には葛藤が生まれます。今現在、私たちが置かれている状況のなかで、この詩篇を普通に読むのに難しさを覚えるのです。

この詩篇は、敵から助けられた、命が助かったときに、神を賛美している歌だと申し上げましたが、私たちはその一方で、助けられなかった、命が助からなかった人たちのニュースをたくさん聞いています。

この元旦から、いや思い返せば昨年から、私たちは、悲惨な現実をたくさん見てきました。戦争、政治的な混乱、そして自然災害、事故。たくさんの命が失われました。

私たちは悲惨な現実を目の前にするとき、それでも神を賛美するというのは簡単なことではありません。今も、ニュースをつけると、たくさんの悲惨な現実が目に入ります。

もちろん、それを知り、そこに向き合い、悲しむ人々の心に寄り添う必要があります。北陸の被災者の方々のために、あるいはウクライナの、イスラエル・パレスチナの人々のために、私たちにできることは何かということを考える必要があります。特に、現在、多くのキリスト教団体が被災地に入っています。そのために祈り、経済的なサポートをすることは大切なことです。

そして、もちろん、このような現実を前にするとき、なぜ、こんなことが起こるのか、神様はなぜ止めてくださらなかったのか、問いたくなります。もちろん、そのような正直な感情を、そのまま神様にぶつけること、祈り叫ぶことは大切です。最初に申し上げたように、私はこの教会にいたとき、詩篇から連続してメッセージを語ってきました。詩篇の多くを書いたと言われるダビデは、長く苦しい期間を過ごしていました。そのなかで、正直に、悲しみも疑いも、怒りも、赤裸々に祈っています。だからこそ私たちも、正直に祈ることが大切です。

 

四 神の力のスケールを賛美するダビデ

 神を賛美することが難しい現実のなかで、現実に向き合い、苦しむ人に寄り添うこと、そして正直に嘆くことは大切なことです。しかし、それでも、私たちは神を賛美することができるとすれば、なぜなのでしょうか。

そのヒントが、続く8節から(口語訳・新改訳だと7節から)になります。ここでは、不思議な表現で、ダビデは神を賛美しています。

 

18:8 主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。

18:9 御怒りに煙は噴き上がり/御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。

18:10 主は天を傾けて降り/密雲を足もとに従え

18:11 ケルブを駆って飛び/風の翼に乗って行かれる。

18:12 周りに闇を置いて隠れがとし/暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。

18:13 御前にひらめく光に雲は従い/雹と火の雨が続く。

18:14 主は天から雷鳴をとどろかせ/いと高き神は御声をあげられ/雹と火の雨が続く。

18:15 主の矢は飛び交い/稲妻は散乱する。

18:16 主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し/あなたの怒りの息に世界はその基を示す。

 

ここでは、自然界の情景に喩えて、神を賛美しています。8節に「主の怒り」、9節に「御怒り」とありますが、神は、ダビデが苦しんでいるのを見て、怒(いか)られるのです。人々が苦しんでいるのを見るとき、神はそれをご存知で、怒(いか)られるのです。その怒りは自然界の現象に喩えられるほど大きいものであると語るのです。

ここでは、神の怒り、あるいは神の行動が、雲に、風に、霧に、光に、雹、雨、雷に喩えられているわけですが、もちろんこれは文字通り、雷が鳴ったら神様が怒っているなどと言いたいわけではありません。ちなみに「ケルブ」というのは神の乗り物とされる天使のような存在ですが、要は、神の力、神の助けというのは、それほどの大きなスケールのものであるということです。

17節(口語訳・新改訳だと16節)からはこのようにあります。

 

18:17 主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。

18:18 敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。

18:19 彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり

18:20 わたしを広い所に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。

 

 神様が、私たちを助けられるとき、それは、「高い天から御手を遣わして」、「大水の中から引き上げ」るほどのことである。それほどの方が、私たちを「救い」、「支え」、「導き」、「助け」、「喜び迎え」てくださっているゆえに、「」の「」がどれほどのものであっても、恐れなくて良い。恐れる必要がない。

ダビデは歌っているのです。普通に、物理的に目の前を見れば、神様は全然力がないように見えるかもしれない。でも、違う、神様の力というのは、本当は、これほどのスケールなのだということを歌っているのです。

 

五 目が閉じてしまうとき

 この詩篇18篇の内容を理解する鍵となる箇所が、旧約聖書の列王記の下巻という書物にあります。聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、列王記下のなかで、あるとき、イスラエルのある町が敵に包囲されていたとき、エリシャという預言者の召使いが、エリシャに対して、「街が敵に取り囲まれている!エリシャ様、この状況でどうしたらいいですか?」と聞いたのです。それに対してエリシャはこう言います。

 「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」。そして、「主よ、彼の目を開いて見えようにしてください」と祈ったところ、召使いは火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのが見えた。そのような箇所があります(列王記下6:15〜17)。

 確かに、私たちも、同じように見えなくなることがあります。このエリシャの召使いのように、目が閉じてしまっていることがあります。特に、今現在私たちの目の前に広がる困難な、どうしようもないと思えるような現実を前にするとき、神の力のスケールを実感できなくなる、信じられなくなることが、目が閉じてしまうことがあるのです。

 

六 天の現実の実現

だからこそ、この朝、私たちが見たいのは、もう一つの現実です。私たちの目の前に広がる現実とは違う、神様視点の現実です。それが、あなたには見えているでしょうか。

詩篇18篇と列王記下とともに、このもう一つの現実を描いている有名な書物が、新約聖書の最後にヨハネの黙示録という書物です。非常に難解な書物というイメージがあるかと思いますが、基本的に構成はシンプルで、天における理想的な現実と、地の上の悲惨な現実が交互に描かれます。

確かに、この地の上では、悲惨な現実があります。しかし、主は、ヨハネの黙示録を通して語っているのです。目の前の現実とは違う天の現実がある。そこでは、この詩篇18篇で描かれているように、はっきりと、神の力が、そのスケールの通りに分かる。

私たちは先月クリスマスをお祝いしましたが、イエス様がこの地上に来られたとき、そのような天の現実を部分的に現してくださいました。そして、今も教会という場所においては、特に礼拝において、賛美を歌うなかで、祈るなかで、聖書が開かれるとき、天の現実を垣間見ることができます。でも、それはあくまでも限定的で、やがて、イエス様が来られるその日、天の理想的な現実が、この地上に実現するのです。天と地がひとつになるという表現をされることもあります。

詩篇18篇で描かれたような、エリシャとしもべが見たような、そして黙示録で描かれたような神の力が、はっきりとこの目で見えるようになると言うのです。

 

七 ハッピーエンドが待っている

これは以前もお話ししたことですが、私は映画やドラマを観るときには、最新版でなければインターネットに「ネタバレ」のウェブサイトがあると思うのですが、観る前に、終わりがどうなるかをチェックしておくことが多いんです。そして、私にとってはハッピーエンドが望ましいのです。

ただ、チェックすると言っても、あくまでもチラッとです。そうでないと楽しみがなくなってしまうので。そして、そうすると、安心するんです。ああいろんなことがあっても、ドキドキすることがあっても、最後はこうなるんだな。最後はハッピーエンドなんだなって分かる。そうすると、安心して映画を観れるわけです。

何が言いたいのかというと、クリスチャンの「希望」とはそのようなものであるということなのです。困難はあります。苦しみがあります。ハラハラドキドキするんです。そして、映画では、ハッピーエンドの映画だと人は死にません。死んでしまったら、それはハッピーエンドではない。しかし、現実では、誰にも死を避けることはできません。ここにいる全員が、やがて死にます。ダビデのように、死の危険から救い出されることがあったとしても、やがては死を迎えます。災害が起きると、私たちは思い知らされるのです。いつ、若い人が後などという保証はどこにもありません。来年のこの礼拝を、この地上で捧げられるかは分からない。

しかし、イエス・キリストに信頼する者は、イエスの十字架の血潮と、復活の力、聖霊の力、神の力により、イエスが再び来られる日、天の現実がもたらされるその日、私たちはよみがえり、イエスさまと顔と顔を合わせて出会い、永遠に生きることができる。

 

五 苦しむとき、それでも「祈り」と「みことば」に生きる

でも、それまでの間は、この地上においては、苦しみがあるのです。この詩篇18篇の21節からに書かれているのは、苦しみのなかにあったときのダビデの生き方です。お読みします。

 

18:21 主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。

18:22 わたしは主の道を守り/わたしの神に背かない。

18:23 わたしは主の裁きをすべて前に置き/主の掟を遠ざけない。

18:24 わたしは主に対して無垢であろうとし/罪から身を守る。

18:25 主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。

 

ここで言う「正しさ」は、神さまとの関係における正しさであり、24節にある「無垢」という言葉も、神様との交わりが保たれている、神様から離れていない状態を意味します。つまり、祈ることを、あるいは礼拝することを辞めないということです。

21節の「手の清さ」というのは、実際の行動としての正しさですが、23節にあるように、「主の掟」、つまり聖書のことばから離れないことによって可能となります。

祈るなかで、聖書を読むなかで、慰められ続けることで、神様から離れることなく生きることができるとすれば、それは自分の力ではありません。ただ、神の「慈しみ」、愛ゆえに可能である。26節からをご覧ください。

 

18:26 あなたの慈しみに生きる人に/あなたは慈しみを示し/無垢な人には無垢に

18:27 清い人には清くふるまい/心の曲がった者には背を向けられる。

18:28 あなたは貧しい民を救い上げ/高ぶる目を引き下ろされる。

18:29 主よ、あなたはわたしの灯を輝かし/神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。

18:30 あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし/わたしの神によって、城壁を越える。

18:31 神の道は完全/主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に/主は盾となってくださる。

 

六 納得が与えられる日が来る

ここに書かれているのは、神は、正しく報いてくださる方であるということです。今は、不正が蔓延しているように見えても、やがて、正義を実現してくださる日が来る。その日、私たちには納得が与えられるのです。

私たちは、私たちの人生で起こるすべての出来事に意味があるということは知っています。でも、どんな意味があるかということは、ほとんどの場合、分からないのです。

もちろん、分かるときもあります。今回の震災も、ひょっとしたら、もっと年月が経ったときに、被災された方が、これも良いことだった、神の恵みと言える日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。

でも、少なくとも、被災地にいない私たちが、この苦しみはこのためだったとか、これも神様のみこころだと、そんなことを、今、家族をなくし、家をなくし、寒さのなかで、不便さのなかで、将来への不安のなかで涙も流すこともできず、立ち尽くしている方々の前で口が裂けても言えない。

でも、それでも、確かに私たちに言えるのは、これまで、確かに神は、悪すら、私たちの罪すら用いて、私たちの目から見れば、最悪に思える出来事すら用いて、みわざを、驚くべきことをなしてくださったということです。

今回の震災が起こった北陸、特に石川県、能登半島は、全国のなかでも特に仏教、浄土真宗の影響が強く、教会が少ない、小さい教会が多く、宣教が困難な地域です。東日本大震災の被災地である東北の太平洋側も、教会がほとんどない地域でした。北陸はそこまでではありませんが、それでも教会が少ない地域です。

だから神に裁かれたなどと言いたいわけでは決してありませんが、私が祈っているのは、この大きな悲しみを通して、神の愛が、この地にいる人々の心に届くことです。クリスチャンが、教団教派を超えて協力して被災地にある方々に寄り添い、イエス様の愛で仕えていくとき、東日本大震災のときにそうだったように、必ず、イエス様の愛に出会う方が起こされる。主のみわざがなされると思うのです。

 

3結論部

でも、それでも、そうだとしても、目の前の現実を見るとき、「なぜこんなことが」という問いは残るのです。意味があるってことは分かっていても、どんな意味かは分からない以上、嘆かざるを得ないことはある。だからこそ、繰り返しますが、疑いも悲しみも怒りも正直に叫んでいい。

でも、それでも、疑いを、悲しみを、怒りを正直に叫びつつも、目をあげて、天の現実を見たいのです。祈るなかで、みことばを開くなかで、私たちの目の前にある現実とは違う現実を見たいのです。

あなたには、今、何が見えているでしょうか。やがて、すべてを新しくしてくださる神の力を信じつつ、目の前の現実を見つつ、それを超えた天の現実を見上げつつ、それでも、この現実のなかでも賛美しつつ歩む生き方へと、この朝、主はあなたを招かれています。この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(24年1月7日)

2024-01-07 12:56:16 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第二)        2024.1.7

         「神様の愛を味わう」 ルカ6:27~36

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。新年あけましておめでとうございます。2024年が始まりました。2024年の最初の日曜礼拝を愛する皆さんと共に持つことができますことを感謝します。

 クリスマスや正月を終えて、たくさんの美味しいものを食べた2週間を送られたのでしょうか。新しい年、2024年の元旦初詣礼拝を終えて、牧師館におりましたが、午後4時過ぎですか、「あれ、何か傾いているような。地震かな」と感じましたが、そんなに揺れたわけではないので、そのまま過ごしていましたが、何と石川県を中心に能登半島地震が起きていたことを後で知りました。大変大きな地震で被害も大っきかったです。新年早々、地震で尊い命が奪われ、多くの人々が家を失い、寒い中避難所での不安の中での生活が続いています。1月1日から2024年は地震から始まったと思っておりましたら、2日には羽田空港の滑走路で、航空機同士の接触事故があり、大変な火の手があがりました。理事長時代に、羽田空港を何度も利用しましたが、このような事故は経験しませんでした。日本航空の客室乗務員の方々の普段の訓練の賜物で、客室乗務員としてお客様の安全第一を考え行動するおかげで、全員無事に救出されました。海外の新聞やニュースでは、このような事故があって死者がゼロは奇跡だと報じていました。2024年の正月から地震や事故、あるいは火事等で、不安な年をだと感じる方々もおられるでしょう。神様がおられるのなら、どうしてこのようなことが起こるのか。どうして守って下さらないのか、と感じる人々も多くおられることでしょう。神様を信じる私たちも、神様の愛を疑ってしまうのでしょうか。神様の愛と地震や災害が起こること、事故が起こることは関係のないことと言えます。私たちの世界には、自然災害が起こります。事故も起こります。だからと言って、神様を信じない人が、神様はひどいお方だと決めつけるのはおかしいことでしょう。

 2024年の最初の日曜日は、「神様の愛を味わう」という題で、ルカによる福音書6章27節から36節を通してお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、それでもクリスチャンと呼ばれて

 一般的に見て、この世の人々はクリスチャンをどのように見ているのでしょうか。暗い、つまらない、まじめというように言われていたり、愛の人、愛が深いとみる人々もいるのでしょう。または、クリスチャンは、酒は飲まない、タバコも吸わない、ギャンブルはしない、世間的な話はしないという清廉潔白なイメージがあるのでしょうか。それは、昔昔の話でしょうか。皆さんが教会に来て、クリスチャンになる前に、クリスチャンのイメージはどうでしたでしょうか。初めて、教会の礼拝に来て、回りを見たら、みんな真面目そうで、清く、正しく、美しくというように見えた、という方々も多くおられます。そのようなイメージがクリスチャンにあるので、逆にそうでなかった。愛がない、まじめでない。クリスチャンの態度や言葉につまづいて、教会やクリスチャンに対して心閉ざすという人も多くいるのです。クリスチャンは偽善者だと言うわけです。では、当の本人である私たちクリスチャンは、クリスチャンをどう見ているのでしょう。やはり、まじめで、熱心で、信仰的で、愛の人でというようなイメージがあるように思うのです。ですから、この世の人もクリスチャン自身も、クリスチャンに対しての見方,考え方が間違っているのだと思うのです。クリスチャンは、まじめだとか愛の人だとか、清く、正しく、美しくというような事柄は、キリスト教の本質ではないのです。クリスチャンであっても、愛の人もいる。愛のない人もいる。熱心な人もいる。熱心でない人もいる。清く、正しい人もいる。しかし、清くなく、正しくない人もいるのです。クリスチャンとは、自分の心の中に罪があることを正直に認め、その罪の身代わりにイエス様が十字架にかかり、身代わりに死んだけれども、復活されたお方、つまり、イエス・キリスト様を救い主と信じて、罪から解放されてイエス様と共に人生を歩むようになった人と言えるのでしょう。クリスチャンになったら、罪を犯すようにはならない、失敗しない。問題がないということではないのです。クリスチャンでも自己中心になりますし、罪を犯しますし、失敗もしますし、悪口も言いますし、人を無視することもあるのです。世の中には、クリスチャンでなくても、まじめな人、堅い人、正しい人、酒を飲まない人、タバコを吸わない人、ギャンブルをしない人、優しい人、愛の人は多くいるのです。ですから、クリスチャンはまじめで、優しくて、愛があって、清くて、正しくてというようなことはクリスチャンの特徴にはならないのです。しかし、クリスチャンをそのように見ますし、そのように見られているのも事実なのです。クリスチャンは、そのようなものに、プラス神様の愛なのです。

 

 二、敵を愛せない自分を見るのではなく神様の愛を見る

 人間関係の問題は、私たちが日常生活を送るとき、最も現実的に基本的な問題と言えます。私たちは、一人では生きていくことはできないのです。ですから、他の人とのかかわりは避けることができないのです。27節には、「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」とあります。イエス様は、「」と言われましたが、皆さんには、「」という人がおられるでしょうか。私たち人間の世界では、全ての物事に、「敵」を設定して自分を正当化します。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスは、相手は敵です。人間の心を操るには、「敵」の存在を語り、強調し、敵がいるから、今の自分たちは苦しむのだと主張するのです。しかし、神様の目には、人間が勝手に作り上げた区分、つまり「敵」を問題にはされないということなのです。神様は、敵さえも用いて人を救うということもあるのです。

 私たちの日常生活における人間関係において、はっきりと、「敵だ」いう人と自分に良くしてくれる人、つまり「敵」と「味方」にはっきりと分かれているのでしょうか。自分にとってはっきりと、「敵」あるいは、「味方」と思える人がとどれほどいるのでしょうか。「敵」と思われる人はそんなにいないのでしょう。ですから、敵でも見方でもないという人が案外多くいるのかもしれません。それは、少し話しずらい人、一緒にいるとちょっと窮屈な人、一緒にいるとイライラする人、自分をそんなに大事に思ってくれないような人と、「敵」でも「味方」でもないけれど、なんとなく、正しい関係、深い関係になりにくい人という方がいるのではないでしょうか。イエス様が言われた、「敵を愛し」と言われた「」と思われる人だけではなくて、自分にとっては、少しかかわりにくい人、一緒にいると何となく嫌な人、できたら付き合いたくない人を大切にする、愛するということが含まれているように思うのです。「敵を愛する」とは、全ての人に神差の愛をもって接するということなのでしょう。そんなことは可能なことなのでしょうか。「敵を愛しなさい」「全ての人に神差の愛をもって接しなさい」と言われて、私たちは、自分の弱さや未熟さ、不完全さを思う存分知らされるのだと思います。私たち人間は、どこまで行っても欠けがあり、不完全なものなのです。だからこそ、私たちが日常生活の中で、隣人とかかわっていくためには、絶対に神様の愛が必要であることを聖書は語るのです。

 私たちは、不完全であり、不真実なので、「言わないでいいことも言って人を傷つけた」とか、「愛のない行動をした」とか落ち込むことがあると思います。クリスチャンなのに、「愛がない」とか「不信仰だ」と感じることがある。しかし、そのような者だからこそ、神様の愛が必要なのです。こんな者さえも変わらずに愛して下さる、神様の愛に触れて生きたいのです。どうしようもない人間同士だから、神様はイエス様を人間の世界に送って下さったのです。イエス様はご自分の体を犠牲にしてまで私たちを愛して下さったのです。私たちは、自分の不完全さ不真実さを見るのではなくて、神様の愛の完全さを見ていきたいのです。私たちは神様の愛を知っていながらも、愛を受けていながらも、対人関係において良い関係を築けないでいる自分自身を正直に認め、自分のそのままを神様に明け渡すということから始めたいと思うのです。そして、お互いのために祈ることから始めたいのです。私たち人間の力だけでは、どうすることもできない関係をイエス様に全てをお委ねして、祈りたいのです。

 

 三、神様の愛にたっぷりとつかる

 キリスト教は愛の宗教だと言われます。「あなたの敵を愛せよ」と聖書にあり、敵を愛せないと天国には行けません、と言われたら、誰一人天国へは行けないでしょう。私たちはどこまで行っても、神様の愛を知り体験しようとも、自己中心なのです。そんな者をもいつも変わらずに、そのままで愛して下さる神様の愛を感じることです。愛されているという事実を疑わないことです。

 32節から34節の言葉は、私たちがいつもしている人間的なものです。この世の愛、人間の愛でしょう。それは神様を知らなくてもやっていることです。35節には、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」とあります。ここには、重ねて「敵を愛しなさい。」とあります。私たちは罪人ですから、私たちの内側にある愛は、自己中心的な愛しかありません。ですから、自分にとって敵である人を愛することはできないのです。「敵を愛しなさい。」と言われたイエス様は、ご自分が敵を愛する愛を示して下さり、見せて下さったのです。イエス様は弟子たちにも、多くの人々にも裏切られ、不正な裁判にかけられ鞭打たれ、笑われ、からかわれ、馬鹿にされ、唾をかけられ、無実の罪で両手両足を釘で打たれ、十字架につけられ死なれたのです。イエス様は十字架の上で、「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られたのです。自分の敵のために祈られたのです。イエス様の心の内側にあるのは、どんな人をも愛し、一人でも、多くの人に神様の深い愛を伝えること、見せることだったのです。私たちは、「敵を愛しなさい。」という愛を、自分の内側に見出そうとするのではなく、愛に溢れている神様の愛、イエス様の愛にこそ見出すのです。聖書は、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。「敵を愛しなさい。」と言われて、愛のない自分を見るのではなく、愛に溢れているイエス様、神様の愛に目をとめ、罪深い、醜い、汚れた私をも愛されているという事実を信じ、そのような愛を感じて生きるのです。36節には、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」とあります。神様は情け深いお方、憐れみ深いお方だと言います。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5:45)とマタイは記しています。神様には敵も味方もないのです。私たちは、この無限の愛、いつも私たちの上に、注がれ続けている愛をたっぷりと味わいたいのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちが、「敵を愛する」ということは、相手に対する憎しみや恨みを忘れてしまうという消極的なものではなくて、神様が自己中心的で、打算しかない罪ある私たち人間を愛して下さったように、お互いを覚えて、お互いのために祈るということだと思います。イエス様は十字架刑の苦しみの中で、私たちのために祈られました。私たちは、イエス様のこの祈り、「父よ彼らを赦し給え」という祈りによって、罪人であるにもかかわらず、汚れているのにもかかわらず、自己中心であるのにもかかわらず、私たちは、神様の深い愛、無限の愛を受けることが、いただくことが赦されているのです。イエス様は、十字架の上で自分を苦しめ、罵倒する者、十字架につけた者たちのために祈られたのです。私たちは、このイエス様の愛の祈り、イエス様の愛をいただいて、満たされて、私たちも自分に対して敵と思われる人、敵ではないけれども、合わない人、一緒にいたくない人、イライラする人のために祈りをささげる者となりたいのです。そのためにも、自分を見ないで、イエス様の愛に、変わらない愛に、触れたいのです。そのためには、神様からのラブレターである聖書に触れ、み言葉を読み、み言葉から神様の愛を確信し、そのままで愛されていることを感謝して、神様との祈りの中で、祈りたくないない人への祈りをイエス様に導いていただきたいのです。私たちは、この週も、2024年の1年間も、神様の愛イエス様の愛に触れ、この愛を毎日たっぷりと味わいたいのです。愛のイエス様が、いつも私たちと共におられます。何があっても大丈夫です。どんなことが起ころうとも、イエス様の愛を疑わず、信じて、イエス様の愛を味わう歩みをしてまいりましょう。

 

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元旦礼拝(23年1月1日)

2024-01-02 12:07:13 | Weblog

元旦初詣礼拝          2024.1.1

       「てんやわんやの人生だから」 創世記39:1~6。19~23

 

 Ⅰ導入部

 新年あけましておめでとうございます。昨年は皆様に大変お世話になりました。心から感謝致します。2024年の年も、よろしくお願いいたします。2024年も、あと364日となりました。昨日は、2023年最後の礼拝、年末感謝礼拝をささげました。2023年から2024年カウントダウンで、新しい年を迎えました。2023年11時59分59秒から、たった1秒過ぎて、2024年12時で新しい年となりました。2023年の1年間いろいろあったのでしょうが、1秒過ぎて、リセットして、新しい歩みとなりました。昨年、悲しいこと、辛いこと、苦しいことを経験された方々は、そう簡単にリセットして、新しい歩みをすることは難しいのかも知れません。私たちの心に、どのような辛い、悲しいことがあっても、時は過ぎていきます。神様がその苦しい、悲しい、辛い心に触れて下さり、神様からくる平安で満たして下さいますように心から祈ります。新しい年が、皆様の上に神様の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。

2024年の元旦初詣礼拝は、「てんやわんやの人生だから」という題で、創世記39章1節から6節と19節から23節を通してお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様に目をかけられたヨセフ

  今日は、ヤコブの子どもヨセフについてです。ヨセフ物語は教会学校でもよく話される個所です。父ヤコブの愛を一人占めして、父の守りの中で、ある意味で高慢に、兄たちにも強い態度でおれたヨセフは、兄たちに反感、殺意さえも持たれて、兄たちによって、イシュマエルの商人に売られ、エジプトに連れて行かれることになったのです。初めて父ヤコブのもとから離され、父の助けもない、自分の故郷からも愛する家族からも離されて、言葉もわからない、宗教も文化も、生活様式も違うエジプトの地に奴隷として連れて行かれたのです。自分の思いで行動することもできません。命令されたことは、即座に忠実に実行しなければならない。家畜と同じ、労働力としてだけの存在でした。兄たちに対する恨みや憎しみの思いで満たされたことでしょう。しかし、兄たちを憎んでも、人のせいにしても解決しないのです。奴隷の生活は変わらないのです。ヨセフは全てのものを奪われ、丸裸にされて、ある意味で初めて自分の意志で、神様を見上げた、神様を見つめたのではないでしょうか。父の信じる神、アブラハム、イサク、ヤコブの神様は、かつてヨセフにとっては、身近なものではなかったのでしょう。その神様に、自分の今の環境を許されたことにつぶやいたのかもしれません。

 しかし、神様を見つめた時、すべてを失い、奴隷という自由のない自分に対して、神様が共におられることを感じた、信じたのではないでしょうか。ヨセフが神様を神様と認めるための、信じるための神様の計らいだったのかも知れません。

 奴隷としてエジプトに連れてこられたヨセフを買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人、侍従長のエジプト人ポティファルという人でした。2節には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。」とあります。ヨセフは奴隷でありましたが、「うまく事を運んだ。」とあります。多くの奴隷がいたことでしょう。ほとんどの奴隷の仕事は、外です。重労働です。しかし、聖書は、「彼はエジプト人の主人の家にいた。」とあります。神様が共におられて、主人の家の中での仕事をしていました。ですから、主人に仕事を見られるということもあるのでしょう。3節、4節には、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」とあります。主人は、ヨセフのすることなすこと、すべてがうまくいくことが、ヨセフ自身の働きは勿論のことながら、ヨセフの信じる神様が、彼のすることを、その仕事を祝福されていることを知ったのです。ヨセフは家の中にいたので、ヨセフの祈りの姿を主人はよく見たのかも知れません。主人は「ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」のです。萩本欣一さんは、芝居の仕事を始めた時、歌も踊りもさんざんで、ものにならないと言われたそうです。しかし、一番上の人に、芝居も歌もう一つだけれど、返事がいいし、一生懸命だと一番上の人に目をかけられたそうです。人生の成功は、歌がうまいこと、踊りが素晴らしいことだけれども、上の人に気に入られることが出世の成功につながることだと、萩本欣一さんの首を切ろうとした人が言ったそうです。ヨセフは、彼の性格、努力もあったでしょうが、何よりも、「主が共におられ」ることであり、ヨセフ自身もそのことをよく理解していたのだと思うのです。私たちの2024年の今日からの歩みが始まります。何があるかはわからない。すべてを失い、丸裸になるかも知れない。だからこそ、神様を見つめなおすという時になるのかも知れません。ですから、イエス様はいつも私たちと共におられることを疑うことなく信じて歩みたいのです。

 

 二、祝福の基となったヨセフ

 5節には、「主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。」とあります。ヨセフに全てを任せたら、何もかも祝福されたのです。祝福はヨセフ、主人ポティファルにとどまらず、農産物の収穫も家畜も増え、祝福され。他の奴隷たちの働きも祝福されたのです。6節には、「主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。」とあります。リビングバイブルには、「ヨセフさえいれば、何の心配もありません。」とあります。奴隷ヨセフに、家の全財産を管理させたのです。ありえないことですが、ヨセフに任せたほうが、祝福される、全てがうまくいくことが主人にわかったのです。

 神様は、ヨセフと共におられたように、私たちと共におられるお方です。そのように約束しておられますから、今共におられるのです。私たちの2024年歩みを祝福して下さるのです。そして、私たちと家族だけではなく、私たちがかかわる親戚、職場の同僚、学校の友達、サークルの仲間、私たちがかかわる全ての仕事、働き、人々を神様は祝福して下さるのです。神様はアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2-3)と約束されたのです。私たちは神様によって、神様が共におられるので、祝福の基となるのです。そう信じてこの年を歩みたいのです。

 6節の最後には、「ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。」とあります。イケメンでスタイルもよかったのです。それは、ヨセフの長所、良いところでした。その長所が、良いところが誘惑の原因となったのです。私たちの悪い所、弱さが誘惑につながるのではなく、良い所、自慢できる所、長所が誘惑の的になることを聖書は語るのです。あなたの音楽的な才能が、芸術的な才能が、勉強がよくできることが、仕事が良くできる所が、得意のすることが誘惑の的になるのです。

 ヨセフが父の愛を独り占めして、のほほんと優雅に暮らしていた状態ならば、誘惑に簡単に負けていたでしょう。しかし、ヨセフは全てを失い丸裸にされ、頼るものが神様しかいないこと、自分がいかに弱く小さな者であるかを知り、認め、いつも神様の目を意識し、共におられることを感じ信じていたので、誘惑に勝利しました。しかし、サタンはヨセフと共に神様がおられて、祝福されていた時、絶頂期の時に誘惑し、無実の罪なのに、ヨセフを監獄にいれるのです。

 主人ポティファルは、妻の言葉に怒り、ヨセフを王の囚人をつなぐ監獄に入れました。通常、主人の妻と関係を持とうとしたなら、即死刑です。しかし、主人はそうしなかったのは、妻の証言のあやふやさや妻の性格等をよく知っていたのでしょう。しかし、この王の囚人をつなぐ監獄にヨセフが入れられることで、エジプト宰相の道が開かれていくのです。ヨセフにとって、奴隷以下の囚人にまでなりさがったという悲しい出来事は、神様にとっては、将来ヨセフの家族をはじめ、イスラエル民族を救うことになるのです。私たちの2024年の歩みが、私たちにとって最悪の出来事であっても、神様にとっては、意味あることであり、神様ご自身は、私たちを救うために、祝福するために、み業を進めておられるということを信じて、なおイエス様が共におられることを疑うことなく、信頼たいのです。

 

 三、何があっても神様はヨセフと共におられた

 20節には、「ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。」とあります。ヨセフにしてみれば、自分は誘惑から避けて、自分を守ったのに、神様はどうして助けて下さらないのか、と神様につぶやきたい思いであったでしょう。聖書は、「ヨセフはこうして、監獄にいた。」とあります。ヨセフは、自分が無実の罪で監獄に入れられたことを受け止めたということでしょう。事の成り行きの中に神様が共におられることを信じたのです。だから、21節から23節には、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」とあります。神様が共におられるということは、何という幸いなことでしょう。自分が今どのような状況に置かれていても、大した問題ではないのです。自分の人生を狂わせるような状況であろうとも、どうしようもない状況であろうとも、苦しみや悲しみがどんなに深くあろうとも、たとえ絶望の中に置かれようとも、一番大切なことは神様があなたと共におられるという事実なのです。

 私たちは、神様を信じていても、神様が共におられても、間違いを犯し、失敗を繰り返します。それでも、愛なる神様は、聖なる神様は、私たちのそばから離れることなく、見捨てることなく、見限ることなく、共にいて下さるのです。神様は何があっても、私たちがどのような者であっても、離れることはないのです。神様は、ヨセフと共におられましたが、ヨセフは試され、無実の罪で訴えられ、監獄で囚人となりました。これに関しては、うまくいっているとは言えないでしょう。それでも、神様はそこに共におられるのです。苦しみや悲しみ、恥ずかしさを経験したヨセフから神様は離れることはなかったのです。全てのことが良いことも悪いことも超えて、全てのことが神様の導きの中に確かにあったのです。神様が、どのような時もヨセフと共におられたように、いつまでもいつも、神様は、私たち一人ひとりと共にいて下さるのです。

 神様が共におられるということは、無病息災、商売繁盛という生活を送るという意味ではありません。神様の確かなご計画の中に、何があろうとも、どのようなことを経験しようとも、私たちが神様に生かされるということが、神様が私たちと共におられるということだと思うのです。私たちが、人生で経験することは、全ての事において意味があります。それは、私たちが本当に神の子となるためであり、神様のご計画がなり、神様の栄光があらわれるためなのです。神様がいつも共におられることを信じたいのです。

 

 Ⅲ結論部

ノートルダム清心学園の理事長でありました渡辺和子先生は、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれました。本の中で「私は変わりました。そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸になったりしては、私は環境の奴隷でしかない。人間と生まれたからには、どんな所に置かれても、そこで環境の主人となり自分の花をさかせようと決心することができました。・・・咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったには間違いではなかったと、証明することなのです。」と言っておられます。また、「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものになるために。」とも言っておられます。まさにヨセフですね。

 奴隷になったら終わりではないのです。囚人になったからおしまいではないのです。奴隷であろうが、囚人であろうが、栄えることができるのです。絶望的な状況、悲しい情けない状況にあっても、勝利することができるのです。たとえ、人に誤解されても、黙って神様に全てをお任せして、忍耐をもって神様の導きを待ち望むことができるのです。イエス様は 

私たちの罪を赦すために、お生まれ下さり、神様に裁かれて十字架につけられ、尊い血を流し、命をささげられました。死んで下さり、墓に葬られましたが、3日目によみがえらされて、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架で流された血と復活の力により、私たちの犯した罪、2024年に犯すであろう全ての罪を赦し、清め、義とし、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。私たちは、この恵みにあずかって2024年を歩んで行くのです。

私たちは、20224年の1月1日元旦を迎え、これから365日何があるのか、未来のことはわかりません。しかし、何があっても大丈夫です。てんやわんやの人生かもしれない。様々な苦しみや辛い事が起こるかもしれない。しかし、その苦しみや辛い経験や絶望を経験して倒れそうな、いや倒れてしまう私たちとイエス様は共におられるのです。何があろうとも、イエス様がいつも一緒にいて下さるのですから、マイナスをプラスに、問題を恵みと祝福に変えて下さるのです。そのことを信じて、2024年の全てをイエス様にお委ねして、お任せして、安心して、落ち着いてイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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