江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年9月24日)

2023-09-24 15:15:21 | Weblog

ドンデン返しの行動変容   ガラテヤ1:11~24    2023,9,24

 

  • ガラテヤ書は、パウロが伝えた福音から早くも他の福音に乗り換えようとしているガラテヤ諸教会の人々にあてた手紙です。「自分たちが伝えた福音から離れたことに、あきれ果てている」 とまで激しい怒りを表しています。他の福音とは、エルサレムでイエスの弟子たちの影響をうけたユダヤ人キリスト者たちが、信仰だけでは不十分で律法を守ること、特に割礼という行為が必要だという教えをしていることです。パウロのイエス・キリストへの信仰だけで救われるというのとは違ったものです。彼らはパウロが、イエスさまの直弟子ではないし、使徒でもない、使徒たちから学んでもいない、さらに迫害者でもあったと言っていたようであります。

 

  • これに対しパウロは反論します。11節~12節で「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。この福音は人から受けたものでも、教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と主張します。イエスさまの直弟子ではないが、イエスさまから直接啓示を受けたのだと、だから人から権威づけられる必要はないし、使徒たちと同じなのだと、さらに、イエス・キリストを死者のなかから復活させた父である神によって使徒とされた(ガラ1:1)とまで言っているのです。私たちも権威づけるために他人―有名人、学者、上司等-の名を使うことによって権威づけることがあります。パウロはそれを否定し、イエスさまから直接教えを受けたのだと言っているのです。

 

  • そして自分の証として、過去において自分は、人一倍熱心なユダヤ教徒として徹底的に神の教会を迫害した。使徒9章に「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで大祭司のところへ行きダマスコの諸教会あての手紙を求めた」とあります。大祭司の権威を利用して弾圧したのです。迫害の理由の一つは、「木にかけられたものは、皆呪われる」(申21:22~23)と信じ、イエスさまは木の十字架にかけられたからです。「しかし、ダマスコに近づいたとき、突然天からの光が彼の周りを照らした。サウロは、地に倒れ、サウロ、サウロなぜ私を迫害するのかと呼びかける声を聞いた。主よあなたはどなたですかというと、答えがあった。私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすればあなたのなすべきことが知らされる」。そして弟子のひとりであるアナニアに主は「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために私が選んだ器である」と示したのです。パウロは迫害者から信仰を伝える器へとどんでん返しに行動変容させられた瞬間です。私たちも信仰に入る前と後では、パウロほどではないかもしれませんが、全く違う人生に変えられた人も多いのではないでしょうか。

 

  • 15節でパウロは、啓示の説明として「わたしを母の胎にあるときから選び分け恵によって召し出してくださった神が、み心のままに、み子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」と言っているのです。少々びっくりですね。母の胎にいるときから召し出してくださったと言っているのです。エレミヤ1:5に主の言葉が私にのぞみ「母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者としてたてた」とあります。ほぼ同じことが言われています。詩編,イザヤ書にも同じような箇所があります。私たちも、自分の人生を振り返ると、あの時のことが今の人生に導いているのだと思うことがあります。主は私たちも、生まれる前から信仰者として選び分けているのかもしれません。パウロにこのことが起こったのが、回心時に起こったのだとも考えられますが、いつ起こったのかは明確に述べられておりません。

 

  • このような啓示をうけたあと、血肉に相談することも、エルサレムにいって使徒たちのところへ行くこともしなかったというのです。アラビアに退いたというのです。アラビアというのはどこかはっきりしないのですが、ナバテア(ペトラ)国かともいわれています。ここに3年いたのではと想像されます。啓示の意味と今までユダヤ教徒として過ごしてきたこととの関係を静まって黙想したのではないかと思います。この3年間というのは、パウロにとってとても大事な期間だったのでは、いまいうレカレントとかレフレッシュの期間だったのです。この間、日々神と向き合い、祈っていたのでしょう。それによって確信を得、伝道を開始するように行動変容したのだと思います。イエスさまが伝道開始前に、荒野で40日40夜すごしたこと、モーセが、40年間ミデイアンの地で出エジプトに備えていたことにも通ずるものがあります。コロナによって外出に制約を受けた3年間というのも、ひょっとしたら、人々の行動変容を促すという意味があったのかもしれません。

 

  • 最近サバテイカル(sabbatical;長期休暇、骨休め)休暇ということが良く話題にな

ります。レカレント(recurrent)、学びなおしのため、2~3年留学する、あるいは国内の大学院で学ぶ、レフレッシュのために休暇、両親の介護のため休暇ということを、企業を退職することなしに認めるということが多くの企業で取り入れ始めています。確かに学生時代の学びやその後の社会経験だけでは、IT化等の急激な社会の変化についていけなくなります。時代の変化に伴い必要な行動変容のために一定期間のレフレッシュや学びなおしも必要なのです。パウロは、3年間も神と向き合い、祈り、交わり神さまにどうしたらいいのかと問い、答えをいただくことができたのです。

 参考:安息日(Sabbath,)

 

  • 16節で、主が「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」とあります。パウロは、手紙の中でしばしばイエス・キリストが十字架につけられた姿で示されたと書いています。3年間のなかで、この姿でイエスさまはパウロに示されたのかもしれません。パウロは、イエスさまの十字架による罪の赦しと復活を確信することができたのだと思います。だからその後、シリア、キリキヤ地方に行きすぐ伝道することができたのです。私たちも、十字架のイエスさまによる罪の赦しと復活を確信をもって歩んでいきたいものです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝(23年9月17日)

2023-09-17 15:17:15 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第15主日)   2023.9.17

老いこそ金メダル』  ヨシュア記13:1   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日は第一礼拝においては、中高生の皆さんも合同です。昨日は、小玉勇気さんと梶原結さんの結婚式が青葉台教会で行われました。神様と多くの方々に祝福された結婚式でした。お二人の新しい歩みの上に、ご家族の上に神様の豊かな恵みと祝福がありますようにお祈り致します。

明日は、敬老の日となっています。今日は、高齢者の祝福の時が持たれます。年を重ね、長い人生を送ってこられた方々を祝福したいと思います。年を重ねること、老いは肉体的にも、精神的にも劣ってしまうというのが現実でしょう。老いることに喜びを感じる。幸せを感じるという人は少ないのかも知れません。老いることで、様々な苦しみやしわ寄せや人間関係の問題を抱え込むことになり、この世で生きるということに辛さや痛みを感じるというのが現実なのかも知れません。

老いるということこそ、一生懸命に生きて来た証しなのです。老いは、人生の中でも最も素晴らしい時期なのです。老いはワクワクするものなのです。老いこそは待ち遠しいものなのです。老いるということは、新しい自分に出会うことでもあります。老いてこそ、新しい力を手に入れるのです。老人は何も持っていないのでしょうか。生きてただ存在しているというだけですでに大きな財産を生み出しているのです。老いは「老金期」であり、どんどん神様に近づいていく素晴らしい瞬間と言えるのではないでしょうか。

今日は、ヨシュア記13章1節を通して、「老いこそ金メダル」という題でお話し致します。今日はせっかく中高生の方々が合流しているのですが、中高生の方々もやがて老いを迎えますので、参考になさって下さい。

 

Ⅱ本論部

一、老人にも神様の大切な使命がある

ヨシュアは、モーセの後継者としてカナン征服という神様の使命のために走り抜いて来ました。全力をかけて神様の言葉に従って行動してきたのです。ある意味では、肉体的にも精神的にも疲れが溜まっていたことでしょう。そのヨシュアも年を重ねて老齢になりました。モーセの従者として40年間、そして、モーセの後継者としてイスラエルの民を率いて20年間、エジプトを出た時は30歳前後だったのでしょう。彼は90歳を超える年齢になっていたでしょう。ヨシュアは忠実に主に仕えてきたのです。それだけ、主に仕えて来たのでもう十分でしょう。引退して余生をゆっくり休んで下さいと神様からのご褒美でもあげたい気持ちです。しかし、神様のお考えは違う所にありました。

1節です。「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」とあります。口語訳聖書には、「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている。」とあります。まだまだ、占領すべき地が多く残っているので、もっと働かなければならない、戦い続けなければならない。休んでいてはいけない。もっともっと前進しなさいと言われたのでした。人間的に見るならば、「神様、何と酷な!」と言いたい所です。神様、ヨシュアは散々働いてきて疲れているのですから、高齢にもなりましたから、「もう休ませてあげて下さい。」と言いたいような気がします。しかし、神様は年を重ねても、神様の使命のために、大切な働きのために、働きなさい。「占領すべき土地はまだたくさん残っている。」「取るべき地は、なお多く残っている。」と言われたのです。酷と思えるような言葉、「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」という言葉の中には、神様の深い愛が溢れているようにも感じるのです。

私たち人間にとっては、特に、年を重ねた方々にとっては、幸せとは何でしょうか。年を重ねたので、老いたので、ただ休んで、何もせず、至れり尽くせりの世話をいっぱい受けて、何も働くことなく、休息だけが与えられて、休むということが幸せなのでしょうか。そうではないということを神様は御存じなのです。年を重ねるということは、老いるということは、老年期は素晴らしい可能性に満ちた時でもあるといえるのではないでしょうか。

聖書を見ると、神様は御自身の御心を遂行するためには、老人、高齢者を召し出すということがありました。モーセは、イスラエルをエジプトから救い出すために召された時は、モーセが80歳の時でした。アブラハムは、75歳の時、約束の地へ行くように召しを受けました。サラは、90歳の時、イサクを生みました。神様は老いた者に、高齢者に大きな使命を与え、そのために豊かに用いられるのです。召しを受けた老人たちは、驚くような力を発揮して、その使命を果たしたのでした。老いるということは、高齢者は、老年期というのは、大きな可能性を秘めた時期であるのです。それは、モーセやアブラハム、サラだけの事ではなく、私たちにも適用するのです。私たちは、もう年老いたとか、高齢になったと悲観的にとらえるのではなくて、年を重ね、様々な人生を経験し、老人になった今だからこそ、今までできなかったことができる大きな可能性を秘めた輝いた時が、来ているのですから、自分にも神様の使命があると信じて歩みたいと思うのです。

 

二、内なる人は日々新たにされる

神様はヨシュアにはっきりと、「あなたは年を重ねて、老人となった」と言われました。「まだまだ若い」とおべんちゃらは言いませんでした。確かに年を重ねて、肉体的にも精神的にも弱り疲れていることが事実であることを神様は知っておられました。「が、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」「取るべき地は、なお多く残っている。」と言われたのです。私たちの事を考えると、人格において取るべき所がある。人を愛することにおいて取るべき所がある。家族や友人に対してイエス様を紹介するという占領すべきこと、取るべきことが多くあるというのです。信仰の面において、リタイヤはないのです。

聖書は語ります。「若者は幻を見、老人は夢を見る。」(使徒言行録2:17)詳訳聖書には、「あなたたち老人たちは、神の示しによる夢を見るようになる。」とあります。聖霊が注がれる時、老人は夢を見るのです。夢も希望もないのではなく、夢を見るのです。

ヨシュアは110歳で召されました。ですから、この時から20年間あるのです。「余生を過ごす」という言葉がありますが、「余生」とは「残りの命」という意味で、社会では働きの能力的な基準で言われることのようです。本来の人生が終わって、後は残りの人生(余生)を過ごすという見方ですが、聖書は、神様はそのようにはお考えにはならないのです。

信仰生活という霊的な面においては、決して年齢にかかわりなく、成長を続けることでしょう。コリントの信徒への手紙第二4章16節には、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」とあります。リビングバイブルには、「ですから、私たちは決して落胆しません。肉体はしだいに衰えますが、うちにある力は日ごとに強くなっていきます。」とあります。「外なる人」とは、肉体的・身体的機能を持つ部分で見える部分です。「内なる人」とは、神様とのかかわりにおける霊的機能を持っている部分で見えない部分です。モーセの生涯は120年でした。申命記34章7節には、「モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。」とあります。この言葉は、肉体的なことよりも、モーセの内なる人が日々新たにされ続けていたことを意味しているようです。それゆえに、活力もうせてはいなかったのです。内なる人が日々新たにされ続けるなら、その延長線上に円熟した輝きが保証されるのだと思うのです。外なる人は衰えることがあっても、内なる人が新たにされ続けることによってもたらされる重みのある輝きと充実感、それは継続的な積み重ねの結果なのです。年を重ねることです。

ヨシュアは、「わたしとわたしの家は主に仕えます。」とヨシュア記24章で語っています。神様から与えられた相続地を受け継がせていただくために、家族全員が神様に仕えることを告白しているのです。

 

三、老人を神様は祝福される

私たちは誰でも健やかな老い、美しい老いを迎えられるようにと願っているのではないでしょうか。仏教では、この世を4つの苦しみに人生全体を集約しています。「生、病、老、死」、生きることの苦しみ、病むことの苦しみ、老いることの苦しみ、死に苦しみです。仏教では、老いていくということは、4つの苦しみの一つです。老いていくということは、やはり喜びというよりも、苦しみなのでしょう。全ての人間は老いを必ず経験するのです。

聖書は、年を重ねて老人、高齢者になることは神様の祝福と捉えています。老人がその共同体に、グループにいるということは、その共同体、グループが祝福されているという証拠だったのです。日本は世界一の長寿国です。ダビデ王の家系のその後の王たちの平均年齢は43.6歳でした。イスラエルでは、老人が共同体にいること自体が、その共同体や家族が神様に祝福されているという証しでした。老人は神様の祝福があるというのが、イスラエルの老人観です。レビ記19章32節には、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」とあります。老人を敬うことは、神様を敬うことにつながるということを示しています。老人、高齢者を大切にすることは、聖書の教えです。世界一の長寿国である日本は、聖書的に見ると神様に祝福されている国ということになります。しかし、現実には聖書の教えとは程遠い現実があります。

「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。」と神様はヨシュアに言われました。私たちは、何歳になっても、年を重ねても、老人になっても、完成というのはないということです。「まだたくさん残っている。」と神様は言われるのです。私たちは、生涯発展途上なのです。まだ完成はしていない。完成は、天国イエス様の御許に行った時でしょうか。「まだたくさん残っている。」とは、「あなたは年を取り、老人となったので、何もすることがありません。もうあなたは必要ありません。」ということではなく、その反対なのです。神様は、年を重ねたあなた、老人となったあなたが、まだまだ必要だということです。年を重ね、老人となり、何もできない自分を見て、そう感じる自分自身を必要ない。だめだ。何もすることがない。と決めつけてはならないのです。私たちは、息を引き取るまで、地上の生涯最後の最後まで、神様の大切な、神様に必要な器として、まだまだ用いられるということなのです。たとえ体が動かなくなったとしても、言葉が話せなくなったとしても、目が見えずらくなったとしても、あなたの存在、あなたがそこにいるだけで良いのです。あなたを見るだけでよいのです。あなたと交わり話すことができるだけでいいというのが、神様からのヨシュアに対するメッセージであり、また、私たちへのメッセージだと思うのです。

神様は私たちを愛し、イエス様を遣わし、私たちの罪の代わりに罰を受け、十字架につけられ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られましたが、三日目に甦らされて罪と死に勝利されました。私たちは、イエス様の十字架の死と復活により、全ての罪が赦され、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。私たちは、年を重ねても、老人になっても、この恵みに生きる者とされているのです。

 

Ⅲ結論部

人は年齢とともに老化します。以前のような仕事ができなくなります。しかし、そのような人にも、「占領すべき土地はまだたくさん残っている。」と神様は言われるのです。バリバリに働くことができなくても、今の私にできる何かがあるのでしょう。たとえ何もできなくても、あなたの笑顔で誰かを励ますことができます。寝たきりになっても、誰かのために、牧師のために祈ることができます。死に際しても、イエス様を信じて天国に行ける、と天国の希望を残された家族や人々に伝えることができるのです。神様が、それぞれに「占領すべき土地はまだたくさん残っている。」というのは、何かはわかりませんが、神様は、私たち一人ひとりに、この励ましの言葉のゆえに、今与えられている環境で、今与えられている人間関係の中で、今自分にできる役割を見出して、聖霊に導かれて、神様に力をいただいて歩んで行きたいと思うのです。老いるということは、神様の目には素晴らしいことなのです。私たちは、その事を覚えて、老いることは金メダルに等しいことであることを覚え、この週もイエス様が私たちの存在そのものを認め、祝福していて下さることを信じて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝(23年9月10)

2023-09-10 12:43:58 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第14主日)   2023.9.10

救いが向こうからやって来た』  マルコ2:1~12   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第二の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できます事を感謝致します。台風の直撃で、千葉県では様々な被害が出ているのでしょう。モロッコでは地震がおきました。被害にあわれた方々の上に、神様の守りとお支えがありますようにお祈り致します。

皆さんには、友人がおられるでしょう。学校からの友人、社会人となってからの友人、サークルで出会った友人、クリスチャンとなってできたクリスチャンの友人と様々な友人がおられることでしょう。では、私たちは、その友人のためにどのような事ができるのでしょうか。共に食事をしたり、旅行をしたりという交わりができる友人、病気や怪我で入院されたらお見舞いに行くという友人。本人や家族に何かあったなら、手紙や電話、メール等で連絡し、安否を尋ねる友人です。でも、それら以上の事ができる、してもらえる友人がおられるでしょうか。

今日の聖書の箇所、マルコによる福音書2章1節から12節には、友人のために苦労して、非常識な事までやってのけた友人の話があります。友人にそうまでさせた人の話です。   

今日は、「救いが向こうからやって来た」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、そこまでやる4人とそこまでやらせる中風の人

2章の前の、1章40節から45節には、イエス様が重い皮膚病の人を癒された記事があります。イエス様は、重い皮膚病を癒され、清められた人に、「何も話さないように気をつけなさい。」と言われましたが、この人は癒されたことを大いに広めたので、イエス様は、公然と町に入ることができず、町の外におられましたが、人々は四方からイエス様のところに集まって来た、ということを記しています。そして、数日後、カファルナウムに来られました。1節と2節には、「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、」とあります。カファルナウムを中心としてイエス様は宣教活動をしておられました。「家におられると」の「家」とは、おそらくペトロの家ではないかと言われているようです。イエス様によって、重い皮膚病の人が癒されたことを伝え聞いた人々が、家一杯に戸口まで溢れるほどに集まって、イエス様の話を聞いていたのです。また、病人も多くいて癒しを求めていたのでしょう。

3節には、「四人の男が中風の人を運んで来た。」とあります。4人の男の人たちも、イエス様が重い皮膚病を癒されたことを聞いて、中風の人を運んできたのでしょうか。「重い皮膚病、治ることがないと言われた重い皮膚病を癒さるなら、中風も癒せるはずだ。」と信じて期待して、中風の人を運んできたのでしょう。ここまで運んで来るのには、大変な苦労があっただろうと予測できます。4節を見ると、「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。イエス様は、家の真ん中でお話しされていたでしょう。イエス様の所に中風の人を連れて行くことはできませんでした。誰もこの中風の人を担ぐ4人には気が付かなかったのでしょうか。気が付いたとしてもどうしようもなかったのでしょう。4人は、大声を上げて道を開けて下さいと叫ぶこともできたでしょう。集会中だからと遠慮したのかも知れません。人がいっぱいで入れないので、待っていようとか、またにしようとも考えなかったのです。とにかく、イエス様の側に中風の人を連れて行って、中風を治していただきたいという思いがあったのでしょう。

当時の家には、外階段があり屋上に行くことができたようで、彼らは中風の人を担いで

登り、屋根をはいでイエス様のおられるあたりに中風の人をつり落したのでした。当時の屋根は、簡単にはがせたようです。普通、家の中に人がいるのに、屋根をはがしたりはしないでしょう。非常識です。ペトロの家なら、ペトロが目を丸くして起こりそうです。ここには4人と中風の人の関係は何も書かれていません。しかし、4人は中風の人のために、病の癒しを願い、他人の目を気にせず、普段なら絶対にやらない非常識な行動に出たのです。4人にとっては、中風の人がそれだけ大切な人であったのでしょう。4人の人をそこまで行動させるだけのものが中風の人にあったのかも知れません。中風の人にとって、このような友人がいるということ、また、4人にとっては、そこまでさせるほどのものが中風の人にはあるという関係だったのだと思うのです。私たちも、4人のような友人がいること、また、非常識な事までさせるほどのものを持ち合わせたいと思うのです。

 

二、全ての人には罪の赦しが最優先

5節を見ると、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」とあります。リビングバイブルには、「必ず治してもらえると、堅く信じて疑わない彼らの信仰をごらんになって、」とあります。「その人たちの信仰を見て」の「信仰」とは、4節にある「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」ということ、「必ず治してもらえると、堅く信じて疑わない彼らの信仰」でしょう。家の屋根に上り、屋根をはがして中風の人をつり降ろすという行為は、御言葉を語っているイエス様や御言葉を聞いている多くの人々から叱責されるかも知れない。人の目には、とんでもない、何をやっているんだと変な目で見られるかもしれない。しかし、イエス様は、彼らのそのような行動を「信仰」だと見て下さったのです。非常識で、信仰とは思えない、信仰とはみえない彼らの行動を「その人たちの信仰を見て」と信仰だと言われたのです。4人はこの時、自分たちのできることを、勇気を持って行いました。中風の人のために彼の病気の癒しのために。イエス様に何とか出合わせるために、中風の人のためにやるべきことをやったのでした。イエス様はそれを見つめておられて「その人たちの信仰を見て」と言われたのでした。イエス様を信じて、イエス様に期待して、誰かのために何かをする。自分のできるベストを尽くす。そこに信仰があるのだと思うのです。私たちも、困難の中にある方々のために、弱さや戦いの中にある方々のために、手を貸してあげたり、支え、励まし、共に行動するということの中に、「あなたの信仰」とイエス様は言って下さるのだと思うのです。

イエス様は、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されました。4人は中風の人の癒しを求めて来たのでしょう。しかし、イエス様は中風の人に「癒されよ」と彼を癒すのではなくて、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。イエス様は、中風の人が癒される前に、救われる必要があることを示されたのでしょう。全ての人間は罪人であり、罪の赦しが必要であると聖書は語ります。健康であっても、病気であっても、幸福でも、不幸であっても、全ての人は罪人であり、罪の赦しが必ず必要なのです。イエス様が、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのは、彼が病人である前に、一人の人間、罪ある人間であることをイエス様は知っておられたのです。「あなたの罪」の「」とは、ユダヤ教では、律法に反することをすれば、それが罪になります。律法を犯して罪を犯した結果、神様の裁きがあるのです。罪があるから、この人は中風になった。律法学者の図式には、病気イコール罪イコール神様の裁きというものでした。律法は、本来神様の裁きのための教えや戒めではなくて、むしろ、律法は神様の愛の表れなのです。病気は、罪ゆえの神様の裁きではなく、肉体の衰えや肉体的な弱さから来るものなのです。

病気よりも、はるかに深刻な病があります。100%死に至る病、聖書はそれを罪だと言います。イエス様は、中風の人を見て、まず死に至る病である罪を赦すことを最優先されたのです。中風はその人の罪から来てはいないからです。イエス様は、「子よ、あなたの罪は赦される」とこの人の罪意識を解放されたのです。イエス様は、ヨハネによる福音書9章では、病気はむしろ、病気を患う人の上に、「神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)と表現されました。

 

三、イエス様は罪を赦し、病を癒される

6節、7節を見ると、「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」とあります。イエス様の「子よ、あなたの罪は赦される」という宣言について、律法学者たちは、「神を冒涜している」と心の中で思ったのです。罪を赦すとは、神様だけの特権です。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」という律法学者たちの思いは間違いではありません。神様の特権を横取りする者は、石打の刑で殺されなければなりません。律法に通じている律法学者たちは、イエス様ご自身が、「子よ、あなたの罪は赦される」と御自分が、神様ご自身のように振舞われたので、「神を冒涜している」と思ったのです。

8節、9節には、「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」とあります。イエス様は、律法学者たちの考えを見抜いて、「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と言われました。「あなたの罪は赦される」というのは、目には見えないことで誰もその結果はわからないので、具体的に判定できません。口で言うだけなら簡単な事でしょう。しかし、「起きて、床を担いで歩け」と言うのは、その力がなければ、その結果はすぐに目の前で明らかになるので、見えるので、困難な事なのでしょう。実際、罪を赦すということは、神様にしかできないのですから、ある意味では、罪を赦すことの方が難しいのでしょう。しかし、人が認める形においては、病気を治す方が難しいと言えるのでしょう。

10節から12節には、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」とあります。人の子つまりイエス様には罪を赦す権威がある。つまり神様であることを知らせようと、中風の人に癒しの宣言を語り、彼の中風を完全に癒されたのです。イエス様は、目に見える形で、確かに罪を赦す権威がご自分にはあり、イエス様は父なる神様の元から遣わされて神の子であることを証明されたのです。私たちも罪人です。罪を犯し続けます。私たちが、自分がどんなに罪深い者であると感じていても、イエス様はその罪を告白する人には、全ての罪を赦して下さると約束しておられます。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9) この癒しの光景を見た人々は、「「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。」のでした。中風の人のために労した4人の友人の信仰が、中風の人を思う愛が彼を癒し救ったのです。

 

Ⅲ結論部

癒やされた中風の人は何も語らず、何もしていません、床に寝たままイエス様の所に連れて来られただけでした。彼にとっては、救いが向こうからやって来たという感じでしょう。ヨハネによる福音書に出て来るマルタ、マリアの兄弟ラザロもそうでした。彼は何もしていない。病気になって死んで、墓に葬られましたがイエス様によみがえらせていただいたのです。しかし、死んでよみがえらされたラザロを多くの人々が見に来て、ラザロは、彼自身は何もしていないのに、死んで生かされたというイエス様のみ業によって、ラザロの存在そのものが多くの人に、力強く証ししたのでした。

イエス様は、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」とあります。中風の人の言葉や態度や信仰に関係なく、「その人たちの信仰を見て」、中風の人に罪の赦しの宣言をされ、癒されたのでした。4人の中風の人の苦しみに心痛め、彼を担ぎ歩き、屋根をはいでつり降ろすことまでした、4人の中風の人に対する思いと愛によって、その愛と心を信仰だとイエス様は見て下さったのです。この4人の行動によって、良き結果が与えられましたが、私たちが友人のため、家族のため、弱り痛んでいる人々のために労した結果、愛のゆえに働いた結果、何も起こらなかった。かえって悪い結果になったということがあるのかも知れない。もしかしたら、その方が多いのかも知れません。そのような私たちの行動、行為をイエス様は信仰だと見ていて下さると私は信じたいのです。中風の人が一人で何も出来ないことを4人はしてあげたのです。イエス様の所には、中風の人は一人では行けないのです。私たちは祈れない人のために代わって祈る者になりたい。教会に行けない人のために、私が代わりに礼拝を守り、その人の祝福を祈りたい。それがとりなしだと思うのです。そのような歩みをイエス様は信仰だと見て下さるに違いないのです。私たちの家族や友人は、まだイエス様の救いを知らない。救われていない。けれども、私たちがイエス様を信じていることは、私が、あなたが家族に、友人にとって大きな意味があるのです。「「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」」(使徒言行録16:31)とありますが、このみ言葉は、私たちがイエス様を信じれば、やがて家族も救われますと取れますが、私がイエス様を信じたその信仰によって家族も救われるという意味にも取れるように思うのです。パウロは、コリントの信徒への手紙一7章12節から14節で「その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。」と言いました。信仰を持つ人の伴侶は、その信仰によって聖なる者。つまり救いの対象にあるのです。素晴らしい福音の恵みです。神様は私たち人間の思いも考えもはるかに及ばない救いを与えて下さいました。私たちの罪を赦すために、罪のないお方、神であるお方イエス・キリスト様を私たち罪人の代わりに、十字架の上で裁かれ、イエス様の尊い血が流され、命がささげられ、死んで葬られました。しかし、三日目によみがえらされて罪と死に打ち勝ち、神であることを証明されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの全ての罪を赦し、清め、義として下さり、死んでも生きる命、永遠の命を与え、私たちの信仰のゆえに、家族を愛する者をも救いの中に置いていて下さるのです。イエス様は、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。」とあるように、私たちの信仰を見て下さるのです。私たちが正しく、真面目に証しができるようなということではなく、家族を愛し、家族のために祈り、家族に仕える、愛するそのことを信仰と見て下さることを覚えて、私の信仰が、私の礼拝の姿が、私の祈りが家族や友人、愛する者の祝福になっていることを信じて、なおイエス様に期待して信頼して、この週も歩んでまいりましょう。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝(23年9月3日)

2023-09-03 12:39:07 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第13主日)   2023.9.3

神様の不思議な選び方』  コリント一1:26~31   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。暑い8月も終わりましたが、9月もまだまだ暑い日が続きそうです。けれども、朝晩はやっぱり少しですが、温度が下がっているようにも感じます。残暑厳しい9月も、イエス様が皆さんと共におられて、全ての歩みを守り導いて下さるようにお祈り致します。

私たちは、キリスト者としてどのようなキリスト者像、クリスチャン像を持っておられるのでしょうか。家族や友人、誰からも後ろ指を指されないようなキリスト者、クリスチャンとして生きるということではないでしょうか。そして、そうなれない自分の信仰を不甲斐ないと感じて、日々悶々として信仰生活に送っているというのが現実でしょう。神様に選ばれた者、聖書の言葉に生かされる者というよりも、もしかしたら、ファリサイ派や律法学者たちのように、完全主義者のような生き方を目指しているのではないでしょうか。キリスト者、クリスチャンという完全武装をして信仰生活を歩んでいるのではないでしょうか。私たちは背伸びする必要はないのです。ありのままで神様に愛されているのです。

9月の第一日曜日の聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一1章26節から31節を通して、「神様の不思議な選び方」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、神様に召され、選ばれて今の私がある

このコリントの信徒への手紙は、パウロが第二回の宣教旅行での時、AD50年頃にコリントを訪れ、約1年半福音を伝え、宣教して、その土台を据えてコリントの教会ができましたが、自分が去った後に、いろいろな問題やトラブルが起こって来たことを聞いて、それらの事柄について、コリントの教会を指導するためにエフェソから書き送ったものです。

また、コリントの教会は、いくつかの分派、グループがあり、お互いに対立していたようです。1章12節には、「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」とあり、パウロ自身も一つの分派の一人にされていたようです。パウロは、分派はよくないから仲良くしなさい、と言うのではなく、キリスト教会の中にどうして、このような分派や分裂が生まれるのか、その理由は、コリントの教会の人々が、知恵を求めているからだと言うのです。

26節を見ると、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」とあります。パウロは、コリントの教会の信徒の人々に、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」と問いかけました。

「召されたときのこと」とは、コリントの信徒の人々が、パウロの宣教を通して、十字架の福音に触れ、その救いの恵みに預かったこと、救われた時のことを思い起こしなさい、と語るのです。自分の知識や力で救われたのか。神様の召しによって、イエス様の十字架と復活を通して、信仰によって救われたのではないか、と言うのです。

また、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」というのは、今イエス様によって、コリントの教会に集められている人々が、神様によって、それぞれに召された、あなたがたの姿をよく見てみなさい、と言っているようにも思うのです。

コリントの教会の出身階層は、貴族階級出の人、権力とつながる権力者、知識人たちは、あまりいなかったようです。ギリシャ人の知識層から、もてはやされる知識人や哲学者などはあまりいなかったようです。「知恵のある者」という言葉は、具体的にこの世の知恵や経営的な知恵であり、有能な実業家や経営者という人々、指導性のある、頼りになる人材もあまりいなかったのです。そのようなコリントの教会の人々は、ギリシャ人から見れば、お粗末なメンバーであったというわけです。

しかし、神様の目から見れば、コリントの教会のメンバーには、神様のすごい力の現れを見ることができるのです。そこには、選んだ神様の意図があるのです。コリントの教会に、たまたま集まったというのではなく、神様に選ばれたのです。私たちも、ナザレン教会に導かれて救われたという方々もおられるし、他の教団、他の教会で導かれ救われましたが、今は転会して、青葉台ナザレン教会のメンバーになったという方々もおられるでしょう。自分で選んでその教会に行ったとか、導かれたと思われますが、実は、神様が選ばれ、導かれたのです。今、青葉台ナザレン教会に、私はたまたま導かれたというのではなく、神様に選ばれて、こうして礼拝に出席しておられるのです。私たちは、キリスト者であれ、求道者であれ、確かに神様に選ばれ、導かれているのです。そのことを覚えたいのです。

 

二、誇るものが何一つないからこそ

27節には、「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」とあります。神様の評価の基準は、人間的なものとは違うということがわかります。福音書を見ると、イエス様の行動は、ザアカイやファリサイ派のシモン以外には、有力者やエリートの人々と一緒に食事をされたということはほとんどないと言えます。いつも徴税人や遊女、罪人と言われる人々と共に食事をされたようです。

28節には、「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」とあります。神様がイスラエルを選ばれたのは、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」と申命記7章6節から8節に記されています。リビングバイブルには、「世界中で最も小さな民」でるゆえに選ばれたと言っています。イスラエルは、小さく、弱い存在だから選ばれたのです。

また、イエス様は12人の弟子を一晩中祈りの中で選ばれました。しかし、選ばれた人々は、多くは漁師であり、徴税人、国粋主義者、裏切り者とさんたんたるメンバーでありました。人間的に見るならば、問題の多い、イエス様の弟子としては、頭をかしげたくなるようなメンバーだったのです。そのように、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」のは、「地位のある者を無力な者とするため」だったのです。

「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」というのは、私たちの常識や価値観から見ると、不思議な事です。その不思議な理由、神様は、何故にそのような者を選ばれたのか。それは、29節にあるように、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」という理由です。誰一人神様の前には、誇ることがないようにするためなのです。知恵のある人、力のある人、地位のある人が選ばれたならば、「自分には知識があるから、力があるから、地位があるから選ばれた。」と自分を誇るわけです。自分は神様に対してもふさわしい者だから選ばれたと考え、自分を誇るのです。神様の選びというのは、私たちに選ばれるだけの知識がある、力がある、能力がある、地位があるからだということではないのです。

「誇る」とは、「頼る」と言い換えられるのかも知れません。誇るとは、自分の何かを頼みとすることでしょう。「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」は、神様の前に、誇るものは、何一つない人々なのです。知恵のある者に、知恵を捨てよ、とは言われないのです。知恵を誇るなと言われる。力ある者に、力を捨てよ、ではなく、力を誇るな、それだけにたよることはやめなさいと言われるのです。知恵を持ちながらそれを誇らない、力を持ちながら誇らない、富を持ちながらそれを誇らないということは、相当の謙遜が必要でしょう。私たちにとって、それはとても難しいことです。そのためには、自分の持つ知恵や力、富よりも、もっと大きな、力強い、深い恵みの前に立のです。イエス・キリスト様という偉大なお方、愛なるお方、救い主の前に私たちは立つのです。

 

三、イエス様に結ばれて、イエス様のものとなった私

30節には、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあります。私たちは、神様の前に誇るものは何一つありません。しかし、誇ることが何もない私たちに、イエス・キリスト様に結ばれているという誇り、イエス・キリスト様のものにされたという誇りを与えて下さったのです。私たちは、イエス様に結ばれた者として、ただイエス様を拠り所とし、イエス様により頼み、信頼してイエス様と共に歩む者とされているのです。

「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」とありますが、この知恵とは、私たち人間には隠されている神様の救いの御計画とその実現に関する神様の知恵、この知恵の実現がイエス・キリスト様です。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」(コロサイ2:3)と聖書は語ります。「義となられた」とは、神様が私たち罪人に要求する義を、イエス様が十字架の死と復活を通して完全に満たして下さったことです。私たちは、信仰によって義と認められるのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:21)と聖書は語ります。「聖となられた」とは、イエス様が十字架の上で、父なる神様に「聖い、生きた供え物」として、御自分の体を全くささげつくして下さり、父なる神様に受け入れられたことです。私たちは信仰によって、イエス様に預かることによって、人は「聖なる者」とされるのです。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」(コリントⅠ1:2)とパウロはコリントの教会の人々に言っています。「贖いとなられた」とは、イエス様の十字架の死によって、全人類を罪の縄目(拘束)から解放して下さったということです。贖いとは、元々奴隷を自由の身にするために、代価を支払うことです。罪の奴隷であった私たちを、自由にするために、イエス様が十字架の上で、その身代金(ご自身の血と身体)を支払って下さったのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント一6:20)と聖書は語ります。「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあるように、私たちが、義と聖と贖いとなったのではなく、イエス様が私たちにとってそうなられたのです。

私たちが、神様の前に立つことができるのは、イエス様が私たちの罪のために身代わりに、十字架で罰を受け、死んで下さったこと、死んで葬られよみがえられたことによって、私たちは神様の前に義なる者と認められたのです。イエス様によって義と認められた私たちは、なお罪を犯す者であるのにもかかわらず、聖なる者として扱って下さるのです。聖なる者とは、神様に属する者ということです。私たちは、本来聖なる者、清い者ではありませんが、神様がイエス様の十字架の死と復活を通して、受け入れて下さったので聖なる者、清い者にされているのです。私たちは、イエス様の十字架の死によって贖われたのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)と聖書は語ります。

31節には、「「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」とあります。

私たちは、自分に誇れるものがあれば嬉しいものです。誰もが持つ思いでしょう。私たちが自分自身の何かを誇る時、本当に誇るべきお方、イエス・キリスト様を忘れてはいないでしょうか。私たちが救われたのは、自分の良い行いのゆえではありません。私たちが優れていたわけでもありません。私たちは、自分の知恵で信仰を理解したり、自分の知恵や力で信仰を決心したのでもありませんでした。神様が私たちに信仰を与えて下さり、聖霊によって私たちを救いに導いて下さったのです。私たちは、イエス様を誇りたいのです。

 

Ⅲ結論部

現在の青葉教会は、教会の外部の方々にどのように見られているのでしょうか。「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」とは見られていないでしょう。昔は、教会に集まっているのは女性と子どもだとよく言われていました。しかし、青葉台教会のみならず、多くの教会では、エリートの集まりというように見られていることがあるのでしょう。ですから、逆に、「私のような者は行く所ではない。」と思われている節もあります。いつの間にか、教会は立派な人の集まり、真面目な人の集まりというように見られているのではないでしょうか。もしそうならば、神様の選びとはかけ離れたものになっているのではないでしょうか。私たちは、知らず知らずのうちに、コリントの教会の信徒の人々のように、知恵を求め、立派さや、優秀さ、立派な人、医師や弁護士と立場ある人が救われるようにと祈り、そのような人が教会に導かれるようにとの魂胆の祈りがあるのでしょうか。つまり、上へ上へと行こうとする姿は、イエス様の弟子たちの姿でありました。「誰が一番偉いか」といつも競い合いました。イエス様が天から下り、仕える姿を取られたのに、弟子たちはイエス様の姿勢とは、正反対の自分たちが仕えられる姿を見ていたのです。

 私たちのナザレン教会の創始者の一人、ブリジー博士は、貧しい人々、弱い人々、ホームレスの人々に対して仕える姿勢を示し、そのような働き(コンパッショネイトミニストリー)を大切にしました。このような支援活動は、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」への働きとなり、ナザレン教団の中心的な働きとなったのです。

 パウロには、誇るべきものがたくさんありましたが、イエス様の救いを受けて、それらの誇れるものは、取るに足らないものだとふんどのようだと言いました。

創世記3章には、人間が誘惑される記事がありますが、サタンは、エバに「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と誘惑しました。すると、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」(創世記3:6)と聖書は語ります。「賢くなるように唆していた。」とあります。偉くなりたい、賢くなりたいというのは、人間の心からの願いでしょう。しかし、それが罪へのきっかけとなったことを聖書は記しています。

 知恵を求めること、賢く、偉くなりたいと思うことは、悪いことではないでしょう。しかし、その知恵が、知識が、自分を傲慢にさせて自分が一番偉い、自分の考えや行動がベストだと考える所に、コリント教会の、「「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」」というような分裂や党派があったのです。

 私たちキリスト者は、弱くてもいいのです。無力でもいいのです。「それでもクリスチャンか」と見下されてもいいのです。「頑張って証しなくては」と、背伸びすることはないのです。私たちは、そのように、弱い者、無力な者、見下げられている者であるからこそ、神様の目は私たちに注がれているのです。そんな者を選んで下さったイエス様に心から感謝したいのです。家族の中で、学校や職場の中で、自分がキリスト者として置かれていること、選ばれていることを覚え、「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」というみ言葉を真摯に受け止め、ただ私たちの救い主イエス・キリスト様を誇りとして、頼りにして、この週も歩ませていただきたいと思うのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする