日曜礼拝(三位一体後第13主日) 2023.9.3
『神様の不思議な選び方』 コリント一1:26~31
Ⅰ導入部
おはようございます。9月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。暑い8月も終わりましたが、9月もまだまだ暑い日が続きそうです。けれども、朝晩はやっぱり少しですが、温度が下がっているようにも感じます。残暑厳しい9月も、イエス様が皆さんと共におられて、全ての歩みを守り導いて下さるようにお祈り致します。
私たちは、キリスト者としてどのようなキリスト者像、クリスチャン像を持っておられるのでしょうか。家族や友人、誰からも後ろ指を指されないようなキリスト者、クリスチャンとして生きるということではないでしょうか。そして、そうなれない自分の信仰を不甲斐ないと感じて、日々悶々として信仰生活に送っているというのが現実でしょう。神様に選ばれた者、聖書の言葉に生かされる者というよりも、もしかしたら、ファリサイ派や律法学者たちのように、完全主義者のような生き方を目指しているのではないでしょうか。キリスト者、クリスチャンという完全武装をして信仰生活を歩んでいるのではないでしょうか。私たちは背伸びする必要はないのです。ありのままで神様に愛されているのです。
9月の第一日曜日の聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙一1章26節から31節を通して、「神様の不思議な選び方」という題でお話し致します。
Ⅱ本論部
一、神様に召され、選ばれて今の私がある
このコリントの信徒への手紙は、パウロが第二回の宣教旅行での時、AD50年頃にコリントを訪れ、約1年半福音を伝え、宣教して、その土台を据えてコリントの教会ができましたが、自分が去った後に、いろいろな問題やトラブルが起こって来たことを聞いて、それらの事柄について、コリントの教会を指導するためにエフェソから書き送ったものです。
また、コリントの教会は、いくつかの分派、グループがあり、お互いに対立していたようです。1章12節には、「あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。」とあり、パウロ自身も一つの分派の一人にされていたようです。パウロは、分派はよくないから仲良くしなさい、と言うのではなく、キリスト教会の中にどうして、このような分派や分裂が生まれるのか、その理由は、コリントの教会の人々が、知恵を求めているからだと言うのです。
26節を見ると、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」とあります。パウロは、コリントの教会の信徒の人々に、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」と問いかけました。
「召されたときのこと」とは、コリントの信徒の人々が、パウロの宣教を通して、十字架の福音に触れ、その救いの恵みに預かったこと、救われた時のことを思い起こしなさい、と語るのです。自分の知識や力で救われたのか。神様の召しによって、イエス様の十字架と復活を通して、信仰によって救われたのではないか、と言うのです。
また、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」というのは、今イエス様によって、コリントの教会に集められている人々が、神様によって、それぞれに召された、あなたがたの姿をよく見てみなさい、と言っているようにも思うのです。
コリントの教会の出身階層は、貴族階級出の人、権力とつながる権力者、知識人たちは、あまりいなかったようです。ギリシャ人の知識層から、もてはやされる知識人や哲学者などはあまりいなかったようです。「知恵のある者」という言葉は、具体的にこの世の知恵や経営的な知恵であり、有能な実業家や経営者という人々、指導性のある、頼りになる人材もあまりいなかったのです。そのようなコリントの教会の人々は、ギリシャ人から見れば、お粗末なメンバーであったというわけです。
しかし、神様の目から見れば、コリントの教会のメンバーには、神様のすごい力の現れを見ることができるのです。そこには、選んだ神様の意図があるのです。コリントの教会に、たまたま集まったというのではなく、神様に選ばれたのです。私たちも、ナザレン教会に導かれて救われたという方々もおられるし、他の教団、他の教会で導かれ救われましたが、今は転会して、青葉台ナザレン教会のメンバーになったという方々もおられるでしょう。自分で選んでその教会に行ったとか、導かれたと思われますが、実は、神様が選ばれ、導かれたのです。今、青葉台ナザレン教会に、私はたまたま導かれたというのではなく、神様に選ばれて、こうして礼拝に出席しておられるのです。私たちは、キリスト者であれ、求道者であれ、確かに神様に選ばれ、導かれているのです。そのことを覚えたいのです。
二、誇るものが何一つないからこそ
27節には、「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」とあります。神様の評価の基準は、人間的なものとは違うということがわかります。福音書を見ると、イエス様の行動は、ザアカイやファリサイ派のシモン以外には、有力者やエリートの人々と一緒に食事をされたということはほとんどないと言えます。いつも徴税人や遊女、罪人と言われる人々と共に食事をされたようです。
28節には、「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」とあります。神様がイスラエルを選ばれたのは、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」と申命記7章6節から8節に記されています。リビングバイブルには、「世界中で最も小さな民」でるゆえに選ばれたと言っています。イスラエルは、小さく、弱い存在だから選ばれたのです。
また、イエス様は12人の弟子を一晩中祈りの中で選ばれました。しかし、選ばれた人々は、多くは漁師であり、徴税人、国粋主義者、裏切り者とさんたんたるメンバーでありました。人間的に見るならば、問題の多い、イエス様の弟子としては、頭をかしげたくなるようなメンバーだったのです。そのように、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」のは、「地位のある者を無力な者とするため」だったのです。
「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」というのは、私たちの常識や価値観から見ると、不思議な事です。その不思議な理由、神様は、何故にそのような者を選ばれたのか。それは、29節にあるように、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」という理由です。誰一人神様の前には、誇ることがないようにするためなのです。知恵のある人、力のある人、地位のある人が選ばれたならば、「自分には知識があるから、力があるから、地位があるから選ばれた。」と自分を誇るわけです。自分は神様に対してもふさわしい者だから選ばれたと考え、自分を誇るのです。神様の選びというのは、私たちに選ばれるだけの知識がある、力がある、能力がある、地位があるからだということではないのです。
「誇る」とは、「頼る」と言い換えられるのかも知れません。誇るとは、自分の何かを頼みとすることでしょう。「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」は、神様の前に、誇るものは、何一つない人々なのです。知恵のある者に、知恵を捨てよ、とは言われないのです。知恵を誇るなと言われる。力ある者に、力を捨てよ、ではなく、力を誇るな、それだけにたよることはやめなさいと言われるのです。知恵を持ちながらそれを誇らない、力を持ちながら誇らない、富を持ちながらそれを誇らないということは、相当の謙遜が必要でしょう。私たちにとって、それはとても難しいことです。そのためには、自分の持つ知恵や力、富よりも、もっと大きな、力強い、深い恵みの前に立のです。イエス・キリスト様という偉大なお方、愛なるお方、救い主の前に私たちは立つのです。
三、イエス様に結ばれて、イエス様のものとなった私
30節には、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあります。私たちは、神様の前に誇るものは何一つありません。しかし、誇ることが何もない私たちに、イエス・キリスト様に結ばれているという誇り、イエス・キリスト様のものにされたという誇りを与えて下さったのです。私たちは、イエス様に結ばれた者として、ただイエス様を拠り所とし、イエス様により頼み、信頼してイエス様と共に歩む者とされているのです。
「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり」とありますが、この知恵とは、私たち人間には隠されている神様の救いの御計画とその実現に関する神様の知恵、この知恵の実現がイエス・キリスト様です。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」(コロサイ2:3)と聖書は語ります。「義となられた」とは、神様が私たち罪人に要求する義を、イエス様が十字架の死と復活を通して完全に満たして下さったことです。私たちは、信仰によって義と認められるのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:21)と聖書は語ります。「聖となられた」とは、イエス様が十字架の上で、父なる神様に「聖い、生きた供え物」として、御自分の体を全くささげつくして下さり、父なる神様に受け入れられたことです。私たちは信仰によって、イエス様に預かることによって、人は「聖なる者」とされるのです。「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」(コリントⅠ1:2)とパウロはコリントの教会の人々に言っています。「贖いとなられた」とは、イエス様の十字架の死によって、全人類を罪の縄目(拘束)から解放して下さったということです。贖いとは、元々奴隷を自由の身にするために、代価を支払うことです。罪の奴隷であった私たちを、自由にするために、イエス様が十字架の上で、その身代金(ご自身の血と身体)を支払って下さったのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント一6:20)と聖書は語ります。「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」とあるように、私たちが、義と聖と贖いとなったのではなく、イエス様が私たちにとってそうなられたのです。
私たちが、神様の前に立つことができるのは、イエス様が私たちの罪のために身代わりに、十字架で罰を受け、死んで下さったこと、死んで葬られよみがえられたことによって、私たちは神様の前に義なる者と認められたのです。イエス様によって義と認められた私たちは、なお罪を犯す者であるのにもかかわらず、聖なる者として扱って下さるのです。聖なる者とは、神様に属する者ということです。私たちは、本来聖なる者、清い者ではありませんが、神様がイエス様の十字架の死と復活を通して、受け入れて下さったので聖なる者、清い者にされているのです。私たちは、イエス様の十字架の死によって贖われたのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)と聖書は語ります。
31節には、「「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」とあります。
私たちは、自分に誇れるものがあれば嬉しいものです。誰もが持つ思いでしょう。私たちが自分自身の何かを誇る時、本当に誇るべきお方、イエス・キリスト様を忘れてはいないでしょうか。私たちが救われたのは、自分の良い行いのゆえではありません。私たちが優れていたわけでもありません。私たちは、自分の知恵で信仰を理解したり、自分の知恵や力で信仰を決心したのでもありませんでした。神様が私たちに信仰を与えて下さり、聖霊によって私たちを救いに導いて下さったのです。私たちは、イエス様を誇りたいのです。
Ⅲ結論部
現在の青葉教会は、教会の外部の方々にどのように見られているのでしょうか。「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」とは見られていないでしょう。昔は、教会に集まっているのは女性と子どもだとよく言われていました。しかし、青葉台教会のみならず、多くの教会では、エリートの集まりというように見られていることがあるのでしょう。ですから、逆に、「私のような者は行く所ではない。」と思われている節もあります。いつの間にか、教会は立派な人の集まり、真面目な人の集まりというように見られているのではないでしょうか。もしそうならば、神様の選びとはかけ離れたものになっているのではないでしょうか。私たちは、知らず知らずのうちに、コリントの教会の信徒の人々のように、知恵を求め、立派さや、優秀さ、立派な人、医師や弁護士と立場ある人が救われるようにと祈り、そのような人が教会に導かれるようにとの魂胆の祈りがあるのでしょうか。つまり、上へ上へと行こうとする姿は、イエス様の弟子たちの姿でありました。「誰が一番偉いか」といつも競い合いました。イエス様が天から下り、仕える姿を取られたのに、弟子たちはイエス様の姿勢とは、正反対の自分たちが仕えられる姿を見ていたのです。
私たちのナザレン教会の創始者の一人、ブリジー博士は、貧しい人々、弱い人々、ホームレスの人々に対して仕える姿勢を示し、そのような働き(コンパッショネイトミニストリー)を大切にしました。このような支援活動は、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者」への働きとなり、ナザレン教団の中心的な働きとなったのです。
パウロには、誇るべきものがたくさんありましたが、イエス様の救いを受けて、それらの誇れるものは、取るに足らないものだとふんどのようだと言いました。
創世記3章には、人間が誘惑される記事がありますが、サタンは、エバに「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創世記3:5)と誘惑しました。すると、「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」(創世記3:6)と聖書は語ります。「賢くなるように唆していた。」とあります。偉くなりたい、賢くなりたいというのは、人間の心からの願いでしょう。しかし、それが罪へのきっかけとなったことを聖書は記しています。
知恵を求めること、賢く、偉くなりたいと思うことは、悪いことではないでしょう。しかし、その知恵が、知識が、自分を傲慢にさせて自分が一番偉い、自分の考えや行動がベストだと考える所に、コリント教会の、「「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」」というような分裂や党派があったのです。
私たちキリスト者は、弱くてもいいのです。無力でもいいのです。「それでもクリスチャンか」と見下されてもいいのです。「頑張って証しなくては」と、背伸びすることはないのです。私たちは、そのように、弱い者、無力な者、見下げられている者であるからこそ、神様の目は私たちに注がれているのです。そんな者を選んで下さったイエス様に心から感謝したいのです。家族の中で、学校や職場の中で、自分がキリスト者として置かれていること、選ばれていることを覚え、「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」というみ言葉を真摯に受け止め、ただ私たちの救い主イエス・キリスト様を誇りとして、頼りにして、この週も歩ませていただきたいと思うのです。