江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年12月31日)

2023-12-31 12:36:44 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第一)        2023.12.31

異邦人」  マタイ2:1~12

Ⅰ導入部

おはようございます。12月の第五の日曜日、大みそか、12月31日の年末感謝礼拝を愛するみなさんと共にささげることができますことを感謝いたします。先週、私たちは救い主イエス様の誕生をクリスマス礼拝、キャンドルライトサービスを通して、共にお祝いすることができました。全世界のキリスト教会がクリスマスのお祝いをしたのです。キャンドルライトサービスが終わって、すでにクリスマスツリーを片付けて、新年の準備がなされたのかも知れません。青葉台教会も以前はそうでしたが、最近はクリスマスツリーは、1月6日まではそのままにして置くようになりました。1月6日は、公現日、顕現日、エピファニーと言われ、救い主イエス様が人々の前に明らかにされた日とされています。ですから、1月6日まで降誕節、クリスマスの祝いの期間となっています。この日に東方の占星術の学者(博士)たちが救い主イエス様を訪ね礼拝した時となっています。

2023年1月1日は元旦初詣日曜礼拝から始まりました。聖書の個所は、今日と同じマタイによる福音書2章1節から12節でした。ですから、2023年は、最初の日、1月1日と最後の日、12月31日で、マタイによる福音書2章1節から12節で始まり、マタイによる福音書2章1節から12節で終わるということになります。

大みそか、2023年12月31日の礼拝は、マタイによる福音書2章1節から12節を通して、「異邦人」という題でお話しします。「異邦人」という歌が、以前ヒットしました。コマーシャルでもよく歌われていました。久保田早紀という人が歌いました。彼女はクリスチャンになり、久米小百合さんという名で、現在賛美を通して神様をほめたたえておられます。

 

Ⅱ本論部

一、異邦人に示された救い主誕生

1節を見ると、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、」とあります。新共同訳聖書にはないのですが、新改訳聖書や口語訳聖書には、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあって、「見よ」という言葉があります。この「見よ」という言葉は、「イドゥ」という言葉で、思いがけない驚きを表現する言葉のようです。はるばる東の国から長い旅をしてきた占星術の学者たちの姿を見て、驚きのあまり「見よ」、「見て見て」と示しているのです。それほど、東方の占星術の学者たちの来訪は驚きに満ちていたということです。9節にも、新共同訳にはありませんが、「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、」とあり、「見よ」と東方で見た星の出現に驚いているのです。ここには、2つの驚きがあります。一つは、東方の占星術の学者たちの訪問です。2節に、「言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」と、何の備えもなく突然、東方の国から来た占星術の学者たちから、ヘロデ王と宗教指導者たちは、ユダヤ人の王となるお方の誕生の知らせを聞かされたのです。ですから、東方の占星術の学者たちのエルサレム訪問は、始めから終わりまで驚きの出来事でした。

2つの目の驚きは、占星術の学者たちに救い主出現を示した不思議な星が、現れて救い主のいる所まで先導したということです。それは、驚きの出来事でした。神様は、ユダヤ人の王として生まれた救い主イエス様の誕生を、選民ユダヤ人を差し置いて、ユダヤ人ではない異邦人、律法の言葉も知らない、ユダヤ人から見たら、神様から遠くは離れている存在の異邦人である東方の占星術の学者たちに語らせているのです。ユダヤ人ではなく、異邦人の東方の占星術の学者たちが、救い主を礼拝する姿こそが、神様の確かな導きでした。学者たちの訪問によって、当時のエルサレムのユダヤ人指導者たちが、忘れていた旧約聖書のみ言葉を思い出さなければならないことを教えたのでした。エルサレムの宗教指導者たちは、ユダヤ人が長年待ち望んでいた救い主の誕生を異邦人から聞かされて、とてもショックだったはずです。自分たち、ユダヤ人は神の民、神様に選ばれた、特別な存在だと自慢していた。ユダヤ人ファーストでした。旧約聖書には、多くの預言者たちが、神様のみ言葉が異邦人の世界に広がるということを語っているのです。パウロも、異邦人が救われことを通して、ユダヤ人が救われることを示しています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(ローマ11:25-26)

神様の救いは、選民イスラエル、ユダヤ人だけに限定されているのではなく、世界を創造された神様の救いのみ業は、全世界の全ての民に与えられるという希望をマタイによる福音書は、神様の救いが、異邦人に与えられていることを、この東方の占星術の学者の訪問を通して語るのです。学者たちが、不思議な星に導かれて、救い主にお会いしたことから、神様の恵みの道は、異邦人からユダヤ人へ伝えられたのです。そしてまた、異邦人へ伝えられていくのです。

 

二、異邦人が神の言葉にたどり着く

東方の占星術の学者たちのことを、原語でマゴスと表現し、元来ペルシャの宗教者で祭司の働きを担った人という意味があるようです。マゴスは当時の天文学や薬学を用いて、神々を伝える働きをしていました。また、星座の研究によって、人々の運命を占いました。彼らは、星によって未来が占えると思っていたのです。ある星の下に生まれると、その星によって運命が定められると信じていたのです。星の運行は一定していて、宇宙の秩序を表していました。それが突然明るい星が現れ、特別な現象によって天体の秩序が乱れると、それは神様の創造の秩序を破って、何か特別なことが示されると考えられていたのです。

かつてユダヤ人たちは、バビロンの国に捕囚となりました。ダニエルはその国で豊かに用いられました。当時のネブカデネツァル王は、ダニエルを「お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。」(ダニエル5:11)とあり、「占い師、祈祷師、賢者、星占い師」と呼び、ダニエルの信じる神にネブカドネツァル王は、栄光を帰したのです。このような記録が強烈に残っていて、何百年もユダヤ人の神、ユダヤ人の王を求めていたということも考えられえるのです。かつて、過去のユダヤ人が残した証を神様は決して無駄にはなさらないのです。私たちは小さな信仰かも知れません。小さな証かも知れない。しかし、私たちがイエス・キリスト様を信じて歩んだ信仰の歩みの証を、神様は絶対に無駄にはなさらないのです。家族や友人たちにとって、やがて、いつか、神様の時に花開くということを聖書は私たちに語るのですから、2023年の自分の信仰の歩みを振り返りつつ、問題があった。課題もあった。不信仰だったのかも知れない。罪を犯してしまったのかも知れない。しかし、そのような私たちを見捨てず、切り捨てず、共におられて、私たちの信仰の歩みを導いて下さった神様に感謝したいのです。

3節から6節には、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」」とあります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と東方の占星術の学者たちから問われてヘロデ王も、時の宗教指導者たちも不安を抱きました。「寝耳に水でした。」ヘロデ王は、時の宗教指導者たちに、救い主はどこで生まれるのかとその場所を調べさせ、彼らは「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」と旧約聖書のミカ書5章1節の預言の言葉から、その場所は「ベツレヘム」という場所を示しました。東方の占星術の学者たちは、自分たちの専門の知識とユダヤ人が待ち望んでいた言い伝えによって、エルサレムまで危険を冒してまで、旅をしてきたのです。しかし、今は聖書、神様の言葉を聞いて、それを信じてベツレヘムに向かおうとするのです。聖書の言葉もあまり知らない彼らが、預言の言葉を信じて、その言葉によって救い主のもとに行こうとするのです。神様の言葉が、聖書の言葉が救い主のもとに導くのです。 

私たちは、2023年の1年間、聖書の言葉に触れて、聖書の言葉を通して、神様に出会い、神様の導きの中で、信仰生活を歩んでまいりました。2024年も神様の言葉に信頼して、聖書に触れて、聖書を読んで、聖書を学んで、神様の言葉に満たされ、従って歩みたいのです。

 

三、異邦人が礼拝をささげるようになる

学者たちがでかけると、9節、10節には、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。あの救い主の誕生を知らせた星が現れたのです。その星を見て彼らは喜びに満たされました。そして、その星が救い主のいる所に導いたのです。

11節には、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。

「彼らはひれ伏して幼子を拝み、」とあります。2章2節には、「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、学者たちの目的は、救い主イエス様を礼拝することでした。彼らは自分たちの人生をかけて、イエス様を礼拝するために来たのです。遠い遠い国、ユダヤから約2千キロ離れた所からユダヤ人の王、救い主イエス様を礼拝することを第一としたのです。アブラハムは、行き先を知らないで、神様の言葉だけを握りしめて信じて旅に出たのも神様を礼拝するためでした。アブラハムは、要所要所で祭壇を築いて礼拝したのです。イエス様を礼拝することを第一にすることが、私たち信仰者の真の歩みだと思うのです。10節の「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」という喜びは、東方で見た星を喜んだのですが、その星が救い主のもとへ導くこと、長い長い旅をして来て、彼らを支えていたものは、救い主を礼拝できるという喜びだったのです。救い主イエス様にお会いできることを喜びとしたのです。長旅も、莫大なお金を使うことも、危険を冒してまで旅に出るほどの覚悟をもって、学者たちを押し出したのは、救い主イエス様に会うためであり、イエス様を礼拝するためであり、ユダヤ人の王救い主に対する愛があったからなのでしょう。ただ、新しいものとか、珍しいものを見るためだけなら、このような喜びはないはずです。学者たちの目線は、ずっとこの星に集中していたのです。それは、彼らが占星術の専門家、星の専門家だったからでしょうか。そではありません。彼らの目は、星そのものではなく、星が導くであろう救い主イエス様をしっかりと見ていたのです。

彼らは、救い主イエス様に会い、心からの礼拝をささげたのです。ユダヤ人の王に礼拝をささげることが、そもそも旅の目的でした。信仰の旅は、救い主イエス様に礼拝をささげることが目的地に達するといえるのでしょう。信仰者の人生は、イエス様に出会って、喜びに満ちた礼拝をささげることに向かうのです。また、私たち信仰者の生活のリズムでもあります。日曜日の礼拝は、喜びにあふれてイエス様に出会う場所です。一週間の歩みを通して、神様が私たちを日曜礼拝に導くのです。日曜日の礼拝を待ち焦がれることが、信仰的なことなのでしょう。エルサレムの宗教指導者たちは、エルサレムから約8キロしか離れていない場所ベツレヘムで生まれた救い主を礼拝するために行動しなかったのです。

神の言葉、律法に触れ、救い主を待ち望むユダヤ人にとっては、身近な存在であるから、慣れ親しんだ存在だから、救い主を礼拝することをないがしろにしたのかも知れません。

私たちキリスト者も、礼拝があまりにも慣れすぎて、親しみすぎて、礼拝をささげることから離れてしまうということがあるのかも知れません。だからこそ、約2千キロ離れた所から、人生をかけて、財をささげ、命を懸けて救い主を礼拝した東方の占星術の学者たちの礼拝の姿勢に学びたいと思いますし、礼拝の姿勢を模範にしたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

11節後半には、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。占星術の学者たちは、自分たちの大切なものをささげました。私たちも自分の大切なものをささげましょう、というのではありません。ここでは、何をささげるかというよりも、「宝の箱を開けて」というのが大切なことなのです。私たちの宝のある場所を開けるということでしょう。イエス様は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)と言われました。私たちの心こそ、宝の箱だと言っているのでしょう。私たちは、自分の大切なもので心満たす生き物です。愛する人がいると一日中愛する人のことを考えます。いつもいつも愛する人のことで、頭と心がいっぱいで何もできなくなるのです。私たちの心は、愛するもので、好きなもので、私たちの心は患うぐらいに、私たちの心の箱という宝の箱は、すぐに一杯になってしまうのです。そうすると、本来やるべきことができなくなり、見るべきものが見えなくなってしまうのです。自分の大切な宝が、自分の首を絞めてしまう。占星術の学者たちが、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。だから、帰りは荷物がないので軽くなったのです。それは、今まで持っていた宝物が、彼らにとっては、重荷になったということになるのでしょうか。

私たちは、自分にとっては大切なものがたくさんあります。財も、知識も、健康も、仕事も家も、車も、社会的な地位も、それぞれに大切なものです。しかし、そのことだけに、そのものだけに執着している限り、自分の宝の箱を開けない限り、人生の重荷は、自分にとっては重荷のままで残るのです。私たちの心の中には、自分を苦しめている過去の出来事、人に言えないこと、墓場まで持って行くべきことを全て、イエス様に打ち明ける、お委ねするなら解放されるのです。イエス様は、私たちの全ての重荷、罪の重荷を私たちに代わって背負って下さったのです。あの十字架の上に、罪のないお方が罪ある私たちの罪の身代わりに、神様に裁かれ十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげられた。死んで下さり墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の血と復活の力により、私たちの犯した全ての罪が赦され、清められ、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。

 私たちは、2023年様々な重荷を負って歩んで来たことでしょう。イエス様は今、私たちが握りしめている、負っている重荷を全て引き受けて下さるのですから、イエス様のもとに全ての重荷をおろして、イエス様にお任せし、2024年を迎えたいのです。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28-29)と聖書は語ります。g-@

 私たちは自分の宝の箱を開けて、イエス様の十字架と復活の恵みでいっぱいにしていただこうではありませんか。私たちは、イエス様を礼拝することを第一のこととして、自分の心をイエス様に明け渡す時、新しく生きるためのみ言葉、神の言葉が与えられるのです。

 2023年が今日で終わります。イエス様がいつもそばにいて、守り導いて下さったことを感謝しつつ、明日から始まる2024年の歩みに、イエス様を礼拝することを第一として歩みたいと思うのです。私のもとに来なさい、と言われるイエス様の身元に、全ての重荷をおろして、イエス様に全てをお任せして2023年を終え、イエス様に全てをお任せして2024年を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年12月24日)

2023-12-24 14:03:23 | Weblog

日曜礼拝(クリスマス)        2023.12.24

第一発見者」  ルカ2:8~21

Ⅰ導入部

おはようございます。クリスマスおめでとうございます。12月の第四の日曜日を迎えました。アドベントクランツに4本火がともりました。全世界のキリスト教会でクリスマスの礼拝が捧げられ、御子イエス様の誕生がお祝いされています。今日は礼拝後に、岩崎羽紀さんが洗礼を、イーサン君が幼児洗礼を、イーサン君のご両親の入会式が行われます。神様の豊かな祝福がありますようにお祈り下さい。

今日は、ルカによる福音書2章8節から21節を通して、「第一発見者」という題でお話いたします。私の一番好きなドラマは、「相棒」というドラマです。杉下右京さんの推理で事件を解決していくのです。事件には、必ず第一発見者がいます。事件ではありませんが、神様が人間の世界に介入された最初、驚くべき出来事の第一発見者となった羊飼いに目をとめたいのです。

Ⅱ本論部

一、クリスマスは天における喜び

8節には、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。「その地方」とは、ベツレヘム近郊であり、町は丘陵地にあり、その周辺に放牧地域が広がっていてようです。羊飼いたちは、いつものように、自分たちの仕事をしていました。彼らの仕事は、動物、羊相手ですから、臭い、汚い、24時間365日のブラックの仕事で、仕事の性質上、神殿に行って礼拝も祈りもできない。食事をするときには手を洗うこともできない。宗教的な行為はほとんできない人々、宗教指導者たちから見たら、不信仰極まりない罪人とレッテルを張られ、どうしようもない人々として見捨てられていたのです。「野宿をしながら」とありますから、ホームレスです。聖書は、神様を知らない人を失われた者とか、迷える魂と表現します。自分の本来帰るべき故郷、ホームを探し求めている人々です。私たち人間は、私たちを創造された神様のもとに帰らない限り、いつまでも宿無しであり、野宿者、ホームレス、帰るべき家のない者なのです。羊飼いは、その代表でしょう。イエス様は帰るべき家のない人々のために、救い主として来られたのです。

クリスマスの夜、人間の世界は静かな夜を迎えていました。忙しかったのは天でした。クリスマスは、天上の出来事、父なる神様は,独り子なるお方、救い主イエス様を人間の世界に送り出すために、天使たちに命じて、羊飼いたちに救い主誕生を知らせることと、天使たちに救い誕生の喜びを表現するために、聖歌隊を編成し、賛美をささげさせるのです。普段通りの生活様式で、夜野宿しながら羊の番をしている労働者羊飼いは、何の状況もの見込めないままに、救い主誕生と天使の大合唱を聞くという栄光に預かるのです。クリスマスの季節は、多くの場所でクリスマスの演奏会が開かれています。バッハのクリスマスオラトリオやアベマリア、ヘンデルのメサイア、ベートーベンの第九と日本全国で、世界中で演奏が奏でられていることでしょう。ユーオディアのメンバーも大忙しでしょう。

それぞれのコンサートは素晴らしく、拍手喝さいでしょう。しかし、それらの演奏とは比べものにならないような、天使の大軍勢の大讃美が、救い主の誕生の時、天からささげられたことが記されています。今日はクリスマスイブの日、この世では多くの人々がクリスマスのお祝い、クリスマスランチ、クリスマスディナーとにぎあうことでしょう。12月24日の今日は、最高潮ににぎあうのです。しかし、クリスマスの華やかさやにぎやかさは、本来地上の人間が作り出すものではなくて、天においてすでにあったものなのです。私たち人間が、そのことを忘れてしまって自分たちだけで、クリスマスだからといって、にぎやかに楽しさを作り出そうとするのには無理がある、限界があるのです。

クリスマス、全世界の救い誕生の時、救い主のためには、人間の側には、何の準備もなく、突然もたらされたのでした。クリスマスは、人間の側で華やかさや楽しさを作り出すのではなく、思いもよらない、知らないうちに突然天からもたらされたものがクリスマスなのです。そして、クリスマスは神様からもプレゼントですから、救い主の誕生はすべての人々に与えられているものであり、すべての人々がクリスマスに招かれていることを覚えたいのです。

二、クリスマスはあなたのためにある

救い主の誕生は、全ての人々に招かれているのですが、その一番に救い主誕生の知らせと天使の大合唱を聞くために選ばれたのが羊飼いたちでした。毎日、与えられた働きを一生懸命に、貧しいながらも、頑張っていた羊飼い、夜の星を眺めながら、救い主の到来を祈り続けていたのでしょう。10節から12節には、「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」」とあります。

旧約聖書の時代には、神様のみこころは、アブラハムやその子どもたち、預言者という特別な人々にしか伝えられませんでした。しかし、クリスマス、救い主の誕生という神様のみこころは、羊飼いたちに直接、天使を通して人間の救いにとって最も大切なことが告げられたのです。ごく普通の労働者、ユダヤの社会では、裁判の席で、法廷の証言から羊飼いは除外されるという証人にもなれないという信用のない、まともな一人前の人間とはみなされなかった、不信仰だとレッテルを張られた羊飼いたちに、神様にとって最も重要なことが示されたのです。最も大切な出来事を知らされた羊飼いですが、その後聖書には、神様の働きにおいて特別な役割は何もしてないのです。ただ、救い主誕生のこの時だけに、救い主誕生の知らせを受けた者、告げられた者としてだけに登場しているのです。使徒言行録1章には、イエス様の12弟子の中でイエス様を裏切り死んだユダに代わって弟子の選出の記事がありマッテヤという人が選ばれますが、その後マッテヤのことは何も知らされていません。ただ、12弟子のひとりとして選ばれたことだけのために登場したのですが、そのことがペンテコステに大切な意味となりました。毎年、クリスマスが来るたびに、羊飼いのことが説教で話され続けているのです。神様は救い主誕生のことをどうしても人間に伝えたかったのです。そして、そのために選ばれたのが羊飼いだったのです。2023年、この年も苦労の連続、石川啄木ではありませんが「働けど働けどなお、わが暮らし楽にならず、じっと手を見る」と、どれだけ働いても自分の生活は楽にならない。羊飼いの生活であり、現代人の生活でもあるように思います。

その苦労しいる人々に、神様は語られるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と。救い主イエス様は、全世界の人々のためにお生まれになりました。しかし、あえて「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と羊飼いに語られたのです。神様は、あなたがた羊飼いのことをひと時も忘れていませんよ、一人ひとりが大切な存在なのだというメッセージです。傷つき、痛み、恐れ、苦労し、日々の仕事に一生懸命に働く羊飼い、いや私たちに、救い主はあなたのために生まれた、と神様は語られるのです。自分には関係がないと思っておられるかもしれない、あなたのために救い主イエス様は生まれたのです。傷ついている、痛い経験をしている、苦しい、悲しい状況にある、辛い、切ない、希望が持てないとしたら、そのあなたのために救い主イエス様はお生まれになったのです。

三、クリスマスは神様が人間と共に生きることを願われた

天使は言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 救い主のしるしは、しるしなので、目立つもの、あるいは、珍しいものでければならないでしょう。「しるし」の意味は、見間違いのない、異様な光景というような意味でもあるようです。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」という「飼い葉桶」は、原文は「ファトニ」と言って、家畜の餌をまくためのくぼみを意味します。家畜小屋を掃除する際に汚物を水で流す下水の開渠(かいきょ)「蓋をしていない水路」にもなる長い溝でした。そんなところに赤ちゃんを寝かしていることがしるしというのです。驚きです。普通絶対にない光景でしょう。これが全世界の人々の救い主として人間の世界に来られたしるしだというのです。

天使が羊飼いたちに救い主誕生の知らせをした後、天使に天の大群が加わり、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と賛美したのです。神様はいと高きところの天の栄光が、地上に平和をもたらすために、救い主イエス様を地上に、人間の世界に送られたのです。弱い、小さな、見栄えのない姿の赤ちゃんを送ることによって、天の栄光は地上で、人間の世界で平和となるのです。救い主イエス様によって、天と地、神様と人間が結ばれたのです。クリスマスは、神様が独り子のイエス様を地上に送ることによって、絶望が絶望のままで終わることはないという希望のメッセージなのです。すべての人間が平和を願い求めます。だからこそ、平和の主であるイエス様が全ての人に与えられて大きな喜びとなるのです。イエス様がもたらす平和は、ローマ帝国のような絶対的な力による支配によって作られるものではなくて、布にぬくるまれて飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんの姿において、平和を示されたのです。神様は、弱い人々、貧しい人、平和を奪われた人、暴力によって痛みの中にある人の声を聴かれるのです。エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルに民の嘆きを叫びを聞かれ、モーセを送られました。救い主イエス様は、私たち人間の嘆き悲しむ声が聞こえる所まで、降りてこられたのです。イエス様は、人間とともに生きることから平和を作り出されるのです。イエス様は、私たちの悲しむ声、傷む声、嘆きを聞き、その私たち共に生きて下さるのです。イエス様は、私たちの罪を赦すために、私たちに代わって父なる神様に裁かれ、罰を受け、十字架にかかって尊い血を流し、命をささげ、死んで下さり、墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて、罪と死に打ち勝ち神であることを証明なさったのです。イエス様の十字架で流された血と復活により、私たちの犯した全ての罪が赦され、清められ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。このように、救い主イエス様は、私たちの罪を赦し、復活して勝利を与えるために、お生まれになったのです。それがクリスマスです。あなたの罪はイエス様の十字架と復活で赦されているのですから、感謝して、その救いを受けようではありませんか。

Ⅲ結論部

羊飼いたちは、天使の賛美を受け、自分たちのような者のために生まれて下さったイエス様に会いたいと願いました。そして、ベツレヘムに急いだのです。そして、しるしを頼りにイエス様を探し当てて、天使の告げた通りだったので大いに喜び感謝しました。羊飼いたちは、世界で最初の救い主の第一発見者になったのです。そして、自分たちだけが救い主の誕生を知るだけでは収まらず、天使の話したこと救いイエス様にあったことなどを伝えたのです。うれしくて、うれしくて黙っていることなどできなかったのです。

羊飼いたちは、天使の告げたとおりの救い主イエス様に出会って、神様をあがめ賛美しながら、帰って行ったのです。また、いつもと同じ生活24時間365日、臭い、汚い、きつい場所に戻っていきました。しかし、彼らの心には大きな喜びがありました。赤ちゃんイエス様の笑顔が心にありました。羊飼いたちは、天使から救い主誕生を聞きました。そして、救い主に会いに行き、喜びに満たされました。聞いただけではわからないのです。

来てみなければわからないことがあります。聖書の言葉も聞くだけでは、読むだけではわかりません。聖書を読んで聞いて、そして、信じて実行する時に、神様の深い恵みを体験することができるのだと思うのです。こうして、教会に来て見てわかることもあるのです。オンラインで礼拝に参加しておられる方々も、ぜひ一度、教会にお越しになって見て下さい。今晩のキャンドルライトサービスにお越し下されば感謝です。

「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と天の大軍は賛美しました。御心に適わない罪びとには平和が与えられないから、御心に適う人にならなければならないというのではありません。罪人である私たちは、すべて御心に適う人ではありません。その御心に適わない私たちを神様は、イエス様の十字架の死と復活を通して、「あなたは私の御心に適う」と言って下さるのです。私たちが、どういう人間かにかかわらず、イエス様を与えて下さった神様の愛によって、私たちは、御心に適う人にされ、神様との間に、平和が与えられているのです。私たちは神様によって与えられた平和によって、人間同士の間にも平和を築くことができるのだと思うのです。天における栄光が、救い主イエス様を通して、私たち人間の世界に平和が実現されていくことを願い祈りたいと思うのです。来週は、大みそか、2023年最後の礼拝です。2023年の最初の日1月1日は日曜礼拝で始まり、2023年の最後の日、12月31日は日曜礼拝で終わるという恵みの年として終わりたいと思うのです。この週もイエス様が共におられます。イエス様と共に、2023年の最後の週を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年12月17日)

2023-12-17 13:20:07 | Weblog

日曜礼拝(アドベント第三)       2023.12.17

イエス様がいないクリスマスなんて」  ルカ2:1~7  

  

Ⅰ導入部

おはようございます。12月の第三の日曜日を迎えました。クリスマスキャンドルに3本の火が灯りました。来週は、いよいよクリスマス礼拝を迎えます。そして、2023年もあと2週間となりました。2023年の日本漢字能力検定協会の12月12日の漢字の日に選ばれた漢字一字は「税」という漢字でした。増税やインボイス制度などの税に関する制度が変わったこと、増税メガネという岸田首相の呼び名も話題になりました。2014年も、「税」という漢字で、消費税8%に引き上げられた時以来の2度目になります。また、2位は猛暑の暑、「暑」、3位は戦い、「戦」、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマス等の戦争ということでしょう。皆さんにとっての今年の漢字一字は何になるのでしょうか。

今日は、ルカによる福音書2章1節から7節を通して、「イエス様がいないクリスマスなんて」という題でお話しいたします。

Ⅱ本論部

一、人類救済計画にローマ皇帝さえ用いられる

2章1節には、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」とあります。「そのころ」と聖書は時代を特定します。ローマ皇帝アウグストゥスの名前があります。彼の正式な名前は、ガイウス・ユリウス・カイサル・オクタビアヌスです。彼は、BC27年に元老院から「アウグストゥス」という称号を贈られました。BC27年からAD14年まで、41年間皇帝として統治しました。ローマ帝国の最初の皇帝です。当時の記録には、彼は「神」とか「全世界の救い主」と呼ばれ、彼の誕生は、グッドニュースとまで言われたのです。

イスラエルの敵であり、イスラエルを支配する皇帝アウグストゥスの命令によって、神様は神様ご自身の全人類の救済計画を進められるのです。ユダヤ人は、神様の約束がありながらも、その生活は脅かされ支配者に牛耳られていました。エジプトを脱出し荒野の放浪の果てにたどり着いた乳と蜜の流れる土地であったはずが、支配者による圧迫された生活でした。そのような支配された状況の中にあって、苦しみの中で神様のみこころである、救い主誕生という人類救済計画は進められるのです。

ローマ皇帝アウグストゥスが、神様のご計画の中で用いられるのです。ローマ皇帝の名のもとに全世界の住民登録の命令が出されました。全領土というのは、当時のローマ帝国の領土、地中海一帯のことです。この住民登録は、住民から「税」をとる徴税を目的とした登録です。イスラエルのこの年の漢字一字は、やはり「税」という漢字であったでしょう。時の権力者の命令は絶対で従わなければなりませんでした。どのような理由や都合があっても、この命令には従わなければなりませんでした。ベツレヘムに本籍がある人は、ベツレヘムにまで行って登録しなければならなかったのです。

4節には、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」とあります。5節には、「身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。」とあります。「いいなずけのマリア」とありますが、新改訳聖書や口語訳聖書には、「いいなずけの妻マリア」とあります。当時のいいなずけは、現在の結婚に等しい法的にヨセフの妻ですから、ヨセフと一緒に登録する義務があったことがわかるようです。発掘された陶器によると、ベツレヘムからナザレに移住をする人々があったようです。ですから、そのような人々はベツレヘムに行って住民登録をしたのです。

聖霊によって身ごもるという人類の歴史上でただ一人マリアだけに与えられたものであり、ただマリアだけが人類で初、そして、ただひとりだけの特別な経験でした。けれど、マリアのお腹が大きくなるにつれて、ナザレの人々はマリアの妊娠に疑問を持ったり、冷たい目で見るようになったのかも知れません。そのような時、時の権力者の命令でヨセフとマリアはベツレヘムに行くことになりました。時の権力者の自分の力を見せつけいけたいという欲望からの命令であったのかもしれません。しかし、神様は人間のそのような欲望さえも用いて、ローマ皇帝アウグストゥスをさえ用いて救いの計画を進められたのです。

聖書は語ります。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ5:1)ミカはベツレヘムで救い主が誕生することを預言していました。

旧約聖書の預言の成就として、救い主はベツレヘムで生まれることになるのです。

 

二、全くふさわしくない場所で救い主は生まれた

6節から7節の前半には、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」とあります。当時、男の子が生まれた時は、家族、近隣、地域の人々が共に喜び祝いました。バプテスマのヨハネが誕生した時は、近隣の人々も共に喜びました。「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。」

(ルカ1:57-58) けれども、世界の救い主イエス様の誕生では、親類、地域の人々からは見捨てられたようなものでした。布にくるんで、飼い葉桶に寝かせたのでした。異例の場所、イエス様をくるんだ布も新生児には、とてもじゃないですが、ふさわしいものではありませんでした。誰からも歓迎されない無き者のように扱われ、家畜同然の場所に追いやられたのです。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)と聖書は告げています。イエス様は、全世界の王、救い主としては、ふさわしくない場所、ふさわしくない世界に来られたのです。イエス様は、救い主として、ふさわしい場所、ふさわしいもてなし、ふさわしいところに落ち着くために来られたのではなかったのです。誕生されたイエス様は、政治的にも、社会的にも、人間的にも、人間としてはふさわしくない扱いを受けたのでした。このように、救い主でありながら、神様でありながら、最もふさわしくない扱いを受けたイエス様にこそ、私たちにとって、真実なふさわしさを見出すことのできる鍵があるように思うのです。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)

ベツレヘムは、ヨセフの知らない町ではありません。彼の故郷ですから、親類縁者もいたことでしょう。ヨセフが自分の名前を明かせば、故郷の人々は無下に扱うということはなかったのでしょう。ヨセフはダビデ王家の血筋です。血筋をとても大切にする民族です。古代の中東においては、旅人をもてなす文化というものは定着していたことでしょう。旅人に対しては、「どうぞお泊りください」と迎え入れるのが通常であったはずです。まして、出産が近いマリアを連れているのですから、それは当然でしょう。普通、村の女性に陣痛が起これば、村の共同体としてみんなが協力して助けたのです。出産の手助けをするのが普通でした。それなのに、マリアは、一人で産んで、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」

のでした。ユダヤ人の女性は、お産が軽いので一人で産んでしまうことも珍しくなかったようです。「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」(出エジプト1:19)とファラオ王から男の子なら殺せと命令を受けた助産婦は言っています。

「布にくるんで」の、この動詞は、「産着(うぶぎ)」という名詞から生まれた言葉のようです。協会共同訳聖書では、「産着にくるんで」と訳されています。人間に過ぎない者、アウグストゥスが、神とあがめられた時期に、あえて神様は、この時期を選んでと言いましょうか、まことの神様が、まことの人間となって全世界の救い主として来られたのです。家畜であふれる居場所に、人間の姿、最も弱い存在の赤ちゃんの姿で来られたのです。私たち人間には、絶対に考えられない、予想もできない神様の考えられたみ業でした。

 

三、私のために卑しめられた救い主

7節の後半には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」とあります。この「宿屋」には、2種類あったようです。1つは、「パンテオン」という言葉で、「商業施設としての宿屋」で、ちゃんとした旅館とかホテルを指しています。もう一つは、「カタルマ」という言葉で、「荷物を解いておろす」という言葉に関連して、スペース、空間、という滞在場所の程度の意味があるようです。人が集まる宿泊程度の建物ということでしょう。荷物を解いておろして休むことができればいい程度の空間です。この宿屋「カタルマ」という言葉は、「客間」とも訳せる言葉で、口語訳聖書では、「客間には彼らのいる余地がなかったからである。」となっています。また、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とありますが、「泊まれなかった」とはいっていないのです。当時の宿舎には、今で言えば駐車場、その代わりに家畜小屋が併設されていたようです。当時の旅の乗り物はロバでした。ロバの駐車場、家畜小屋があったのです。宿屋から追い出されたというよりも、この家畜小屋に移動してイエス様を産んだということでしょう。この家畜小屋は、洞窟であったと言われています。ベツレヘムには岩屋がいくつもあったようです。今でも、家畜や羊を雨宿りさせるために使われているようです。イエス様が生まれたとされる洞窟、岩屋に教会堂が建てられ、ベツレヘムの聖誕教会として知られています。

この宿屋とは、平屋の三部構造になっていて、真中が家族用の居間、客間の右側が客間、家族の居間と客間は、部厚い壁で仕切られ、居間の左側は、家畜小屋で、仕切りの壁が半分で、家畜が顔を出せるようになっていたようです。そして、居間との仕切りの居間側に飼い葉桶があったようです。マリアとヨセフは、宿泊所にいることができなくなって、併設する家畜小屋ないし、岩屋、洞窟の家畜小屋に移動して、そこで出産したのでしょう。当時、洞窟は墓場としても使用されていたようですから、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」の「布」は、死体を包む布であった可能性が高いのです。イエス様は、誕生されたその瞬間から十字架の死に向かっていたのです。世界の王、救い主として最もふさわしくない場所や環境でお生まれになったイエス様は、やがて神の子としては、最もふさわしくない場所、ゴルゴダで全人類の罪の身代わりに、父なる神様に裁かれて十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られ、三日目によみがえらされて、罪と死に勝利されたのです。十字架で流された血と復活の力により、私たち人間の犯した全ての罪が赦されて、清められ、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが、全ての人に与えられたのです。イエス様は、神様の立場をおしまず後にして、寒い、汚い、臭い、飼い葉桶に寝かされるという低さまで降りてきて下さいました。赤ちゃんはデリケートです。神であるお方が、小さく、弱く、人の助けを受けないと生きていけない存在となられました。救い主イエス様は今、この世の現実において、卑しめられている人々と同じ扱いを受け、ご自身が卑しめられることを嫌がられなかった。受け入れられたのです。それは、私たちを愛し、私たちのために、世界の全ての人々のためにそうして下さったのです。

Ⅲ結論部

瞬きの詩人水野源蔵さんは、「救いの御子の降誕を」という詩を作りました。「 一度も高らかに クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない 一度も声を出して クリスマスを祝うあいさつをしたことがない 一度もカードに メリークリスマスと書いたことがない だけどだけど 雪と風がたたく部屋で 心の中で歌い 自分自身にあいさつをし まぶたのうらに書き 救いの御子の降誕を 御神に感謝し喜び祝う 「わが恵み汝に足れり 水野源三第一詩集」より」

私たちは、自分にできないないこと、ないことを直ぐに悲観します。しかし、水野源蔵さんは、何もできない中で、自分と同じように弱く、小さくなって下さったイエス様に目をとめて、こんなに弱い者だけれども自分のできること、心で賛美し、自分に挨拶をし、瞼の裏にメリークリスマスと書き、わたしのために生まれて下さったイエス様の誕生を、自分のできる形で、精一杯にお祝いしたのです。

 今、クリスマスと世間は楽しく、おかしく、ツリーやケーキ、プレゼントと浮かれ気分かも知れません。それとは、対照的に辛く、悲しく、痛み、弱さの中におられるかも知れません。だとしたら、そのあなたのためにクリスマスはあるのです。イエス様が、救い主として来られたのに、だれにも歓迎されず、誰も知らないところで、片隅に追いやられた所でお生まれになった。あなたの苦しみを、悲しみを、辛さを、痛みを誰よりも理解し、体験しておられるイエス様は、あなたのために生まれ、あなたを救い、あなたを支えられるのです。イエス様は、汚い場所、悪臭に満ちている所にお生まれになりました。清い、きれいな、問題のないところではありません。私たちの心がいかに汚れていようとも、悪臭に満ちていても、イエス様は、そのあなたの心に宿って下さるのです。多くのクリスマスは、救い主イエス様抜きのクリスマスです。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」というみ言葉の通りです。イエス様がいないクリスマスはありえないのです。私たちは、私の心に宿られるイエス様のご降誕を心から、感謝してともにお祝いしたいのです。

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日曜礼拝(23年12月10日)

2023-12-10 15:54:37 | Weblog

不安から喜びに   ルカ1:39~45        2023,12,10

 

  • ロウソク2本に灯がともり、今日はアドベント第2主日です。今年も、世界中でいろいろのことが起きました。ウクライナとロシアの戦争、ガザ(ハマス)とイスラエルの戦争もまだ先が見えません。地球沸騰化ともいわれている温暖化の影響による大洪水、サイクロン、森林火災、火山の爆発等も世界中で頻発しました。いま、COP28が中東、ドバイ(UAE)で行われています。一日でも早く世界中に平和で平安な時が訪れますよう祈りたいものです。そんな中でも、クリスマスの時は、世界中の町にクリスマスソングが流れ、クリスマス市が開かれ、多くの人々を平安な気持ちにします。平和の神であるイエスさまの誕生にふさわしく世界中に愛と希望があふれます。第1次大戦の時、戦争中のドイツ軍とイギリス軍がクリスマスに、双方が聖歌を歌い合い、お互いクリスマスを祝い、その間停戦したということもありました。戦闘中のところでも、せめてこのシーズンだけでも停戦し、家族と共にクリスマスを祝うことができることを願いたいものです。そして、世界中の人々を救いに招いている平和の神、イエスさまの誕生を心の底から祝いたいものです。

 

  • 今朝の聖書箇所は、突然、主の召しにより受胎告知を受けた2人の女性(マリアとエリサベト)の分かち合い(交わり)の話です。マリアは天使ガブリエルから「あなたは、身ごもり男の子を生む、イエスと名付けなさい。さらに、その子は聖なるもの、神の子と呼ばれる」(ルカ1:31,35)と言われ、びっくりし、不安がおそったのだと思います。天使に「神にはできないことはない」(1:37)と言われ、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(1:38)といったものの不安があったのでしょう。天使はそのことがわかり、マリアに助け舟として、親類のエリサベトも、高齢であるが男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6ケ月になっていると話したのです。それを聞いて、マリアはエリサベトにも同じようなことが起こっていることが分かったのだと思います。ナザレから約100km離れた所に住んでいる彼女のもとに急いで走ったのです。その場所はエルサレム郊外の、緑豊かな町エン・カレムと言われています。人間的には、ありえないことが起こった2人の女性、だれとも分かちえなかったのでしょう。2人が出合い、互いに見つめ合って確認し合ったのではと思います。エリサベトは、身ごもって5ケ月の間身を隠していた。彼女は主が私に目をとめ、人々の間から私の恥を取り去ってくださった。当時の社会では不妊の女と言われることがどんなにつらく、恥ずかしかったのでしょう。それでも、妊娠がはっきりわかるまで5ケ月も身を隠していたのです。マリアは、結婚前なので、それ以上に悩みは深かったのだと思います。

 

  • この2人の女性の共通点をみてみましょう。①天使から受胎を告げられる(エリサベトは既婚、マリアは未婚) ②男の子が生まれ、名も決めれた ③成長したあとの使命まで決められた。エリサベトの子、バプテスマのヨハネは、「主に先立って行き、その道を整える」(1:76)と、マリアの子、イエスは、「偉大な人となり、いと高き方の子、聖なるもの、神の子」(1:35)といわれる。そして、のちには2人とも子を失うことになるのです。

 

  • 他人の痛み、悩み、不安を理解、わかるということは難しいことです。同じ体験をしたものにしかわからないものがあるのです。おなじ病気をしたものが、励まし合うことができるが、体験していない人は本当の痛みはなかなかわからないものです。マリアとエリサベトはまさに、同じ不安、痛みをもっていたのです。突然、主の使いから受胎告知され、そのうえ生まれる前から全て決められるという母親の気持ちはどんなものでしょうか。不安でたまらなかったでしょう。特に、未婚のマリアの不安は想像できないくらい大きかったのでしょう。自分の身に起こったことを、いいなづけのヨセフにも両親にも言えなかったマリア。不思議で、考えられないような体験を同じようにしているエリサベトに会って、どんなにか慰められたでしょう。ともに励ましあったことでしょう。マリアは3ケ月も滞在したのです。それだけ不安が大きかったのだとおもいます。2人の出会いを主がすべて取り計らってくださったのです。3年前くらいから、多くの人に読まれている「ネガテイブ・ ケイパビリテイ」(答えの出ない事態に耐える力)という本(帚木蓬生、朝日新聞出版)があります。よくわからない、もやもやしたことにあったとき、答えをだすことを急がず、心にとめ耐えて時の流れの中で答えを見つけ出していくという考え方、対応の仕方というものです。マリアをみると、受胎告知も、もやもやとして、よく理解できず、どうしたらいいのかわからなかったのだと思います。ルカ2章に、イエスさまが馬小屋で誕生したとき羊飼いたちがきて、天使がイエスのことを話してくれたと聞いたとき、マリアは、不思議に思いながら「これらの出来事をすべて心に納めて思いめぐらしていた」(2:17~19)とあります。さらに同じ章には、イエスさまが12歳のとき、両親に過ぎ越し祭にエルサレムに連れていかれ、帰りにイエスがいないことにきづき探しに戻ったマリアに「わたしが自分の父の家いるのは当たり前だということを知らなかったのですか」(2:49)と言われ、このときもマリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(2:51)とあります。まさにネガテイブ・ ケイパビリテイを実践できた人だったのです。

 

  • マリアがエリサベトに挨拶したらエリサベトの胎内の子は喜んで踊った。そしてエリザベトは聖霊に満たされて声高らかに「あなたは女の中で祝福された方です。私の主のお母さまがわたしのところにきてくださるとは」(1:42)と、主のお母さまと言い、イエスさまが主であると言っているのです。聖霊が言わしめているのです。そして「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じたかたは、なんと幸いでしょう」(1:45)とマリアに言ったのです。マリアは心から「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」(1:38)と心の底から受け止め、主にすべてを委ねたのです。そしてマリアは主を賛美するのです。

 

  • アダム以来、人は多くの罪を犯し、神と離れてしまった。神はそれを憐れみ、その罪をあがなうためにひとり子を人としてこの世に降したのです。私たちの罪をあがなうための犠牲としてイエスさまを降したのです。十字架で私たちの罪をあがない、復活し昇天しわたしたちを招いているのです。神は人を愛し、最大のプレゼントとしてイエスさまをくださったのです。アドベントの時、わたしたちはこのことを覚え、イエスさまの誕生を心整えつつ、待ち望みたいものです。
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日曜礼拝(23年12月3日)

2023-12-06 09:51:18 | Weblog

         日曜礼拝(アドベント第一)       2023.12.3

       「とどめのことば」  ルカ1:26~38    

Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。アドベント(待降節)第一の日曜日です。早いもので、2023年も11ヶ月と2日が過ぎました。2023年度の締めくくりの月、12月をとうとう迎えました。2023年は、皆さんにとりましては、どのような年だったでしょうか。良いことも悪いことも、喜ぶことも悲しむ事もあったことでしょう。それぞれが様々な経験をしてきました。そして、12月を迎え、クリスマスを待ち望む月、待降節を迎えて、私たちは、神様がすべての人に平等に与えて下さった救い主イエス様の愛と恵み、クリスマスを感謝して、イエス様の誕生を共に喜びたいのです。11ヶ月の間、何があったにせよ、クリスマスはあなたのためにあるのです。

 映画やドラマの世界では、決め台詞(ぜりふ)というものあります。「同情するなら金をくれ」(家なき子)、「承知しました」(家政婦のミタ)、「倍返しだ」(半沢直樹)、「この紋所が目に入らぬか」(水戸黄門)、「この桜吹雪がお見通しだ」(大岡越前)などがあります。

 今日は、ルカによる福音書1章26節から38節までを通して、「とどめのことば」と題してお話いたします。神様の言葉は、決め台詞(ぜりふ)以上にとどめの言葉なのです。

Ⅱ本論部

一、人間にはわからない神様の驚くべき選び

 26節、27節には、天使ガブリエルがナザレに住む、ダビデ家のヨセフのいいなずけのマリアの所に遣わされたことが記されています。6か月前には、祭司ザカリアとエリサベト夫妻の所に遣わされていました。その時から6か月のことでした。聖書の中でマリアについて、クリスマスの記事では、あまり詳しくは記されてはいません。マタイによる福音書では、「マリア」としか紹介していません。マルコやヨハネによる福音書にはクリスマス物語はありません。ルカによる福音書では、ヨセフのいいなずけ、ナザレに住んでいること、祭司ザカリアとエリサベトという親戚がいることだけです。どのような女性であったのか、聖書は詳しくは説明していません。ですから、私たちは、マリアについてあまり知らないのです。全世界の救い主の母になる人の素性を詳しく説明しなくていいのだろうか。神様は、救い主の母になる人をいろいろな女性と比べて、審査して救い主の母と決定されたのだろうか。救い主の母についての情報は必要ないのだろうか。そのような疑問が聞かれそうです。日本でも、海外でも、天皇や大統領、皇室や王室の人と結婚するとなると、その人物についてあらゆる角度、家柄、家族、財産、学歴、人格等などが調査されて、誰が見ても、ふさわしい人物とされるのだと思うのです。ましてや、全世界の王、救い主の母親となる人物ですから、相当な審査と選出が神様の側でなされて当然なのでしょう。しかし、神様が選ばれた人物は、エルサレムという政治経済の中心的な場所、王の住む場所ではなく、ガリラヤのナザレの村に住む人でした。ガリラヤは、暗黒の地と呼ばれた場所で、救い主の母親の場所としてはふさわしくなかったのかもしれません。また、マリアは、田舎娘であり、年も若く、特に目立つこともない普通の人でした。

 神様は、全人類を罪から救うために、救いの実現のために最も必要な人を選ばれたのです。それは、人間の目には不思議に思えるのです。納得がいかないのです。そんな人でいいのと言いたくなるのです。しかし、神様は、このマリアに目を留めて下さったのです。

マタイによる福音書1章には、救い主イエス様の系図が記されています。系図にはあまり女性の名前はないのですが、問題ありの遊女ラハブ、イスラエルの宿敵モアブ人ルツ、ダビデと不倫したウリヤの妻(バテシバ)、そして、マリア、ある意味では、救い主の系図にはふさわしくない女性たちが記されているのです。皇室、王室ならば、その名前は取り除かれていたことでしょう。

 マリアには、問題はありませんでしたが、救い主の母としてはどうでしょうということです。神様の選びは、人間の考えや思いは一切関係ありません。神様の選びは一方的です。そして、確かであり、最もふさわしいのです。人間の考えとは違うのです。私たちは、家族や親戚の中で、友人たちの中で、最初にクリスチャンになったという方もおられるでしょう。なぜ、私なのか理由はわかりません。他の人より、高貴で、優秀で、立派で、クリスチャンとしてふさわしいからという理由ではないでしょう。けれど、神様は私を選び、あなたを選び、先にクリスチャンとして立てられたのです。そして、それは確かなことなのです。それは、あなたを用いて神様は素晴らしいことをなさろうとしておられるのです。

二、問わずにおれない神様のみ業

 28節には、「天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」」とあります。天使は開口一番に、「おめでとう」と言いました。「アベ・マリア」という言葉の出典は、ここにあるようです。「アベ」とは、ラテン語で挨拶の用語です。聖書の中で「おめでとう」と訳されているのは、ここだけのようです。原語(ギリシャ語)の「カイロ」という言葉は、「ご挨拶申し上げます」とか「こんにちは」等の挨拶用語です。しかし、ここでは「カイロ」という挨拶の言葉を訳した人々は、意図的に「おめでとう」という言葉をあてたようです。この言葉は、挨拶の言葉ではありましたが、他の挨拶とは当然違った挨拶だと考えて、「おめでとう」と訳したのでしょう。

 原語の「カイロ」の本来的な意味は、「喜ぶ」という意味です。パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、「喜ぶ」という動詞も名詞も共に「鍵」の言葉として用いています。この喜びの根拠は、神様の一方的な好意にあずかったゆえです。ルカによる福音書の2章10節の「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」の「喜び」です。天使の言った「おめでとう」の言葉は、単なる挨拶程度のものではなくて、新しい霊的な夜明けを意味する希望に満ちた喜びの挨拶でした。

 「恵まれた方」と天使はいいました。この呼び方は、単なる呼びかけの言葉ではなく、マリアの将来の使命を表す預言的で尊称をもって呼ぶ呼び方のようです。預言的尊称というのだそうです。旧約聖書に登場するギデオンに対して天使は、「大勇士よ」と呼びかけました。それは、ギデオンの将来の使命を表す尊称でした。30節から31節には、マリアが神の子イエス様の母親になるという使命が与えられたのです。イエス様の母となるマリアは、血縁によってつながるユダヤ民族の枠を超えて、全ての民の上に立つ存在となるのです。マリアが処女として、男性によらない聖霊によって、神の子を宿すということは、マリアがユダヤ民族の仲介なしに、世界の全ての民にイエス様の名を示す聖霊の力によって、世界の支配者なる神の子を宿すということなのです。

 34節には、「マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」」とあります。貞節と純潔を重んじるユダヤ社会ですから、マリアの質問は当然のことだったでしょう。問わずにはおれなかったのです。自分が神の子の命を授かる者としての真剣な問いでした。後には引けない切実な問いだったのです。そのようなマリアの姿勢は、神様を信じる者の真実な態度だと思うのです。私たちも、信仰生活の中で、神様に従って歩む時、大きな壁にぶつかることもあるでしょう。苦しみや悲しみも経験するでしょう。そんな時、私たちは、神様に問うていいのです。問わずにおれないのです。信仰的であればあるほど、私たちは、神様に、「何故ですか。どうしてですか。」と問うのです。後に引けない状況、私たちは神様に目を向けたいのです。

三、神様がそういうのだから、そうなる

 マリアの真剣な、問わずにおれない、後に引けない問いに、神様は答えて下さるのです。35節です。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」」とあります。ここには、「聖霊」、「いと高き方」つまり父なる神様、「神の子」つまりイエス様という三位一体の神様が啓示されています。三位一体とは、神様が3人いるというのではなく、神様はただお一人ですが、その働きにおいて3つの表現があるのです。マリアは聖霊の力によって、神様に包まれるのです。歴史上、マリアだけに起こる出来事だったのです。使徒言行録では、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒言行録)とイエス様は弟子たちに告げられ、ペンテコステの日、弟子たちは聖霊に満たされ、包まれて、神様の言葉を語ったのでした。しかし、聖霊によって神の子を身重るのは、歴史上マリア一人だけでした。天使は、36節では、親類のエリサベト、不妊の女性が妊娠して6か月になっていると不可能が可能になる例を伝えました。そして、語るのです。37節です。「神にはできないことは何一つない。」と。「神様がそうなると言われたら、必ずそうなる。」ということです。子どもができない体と言われ、しかも年老いたエリサベトは神様の言葉の通リに妊娠した。そのように神様が語られたことはそうなる。そして、今マリアに語られたことも実現すると宣言したのです。

 マリアは答えます。38節です。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりに、この身に成りますように。」」とあります。天使が語った言葉は、マリア自身にとっては、びっくりするような、考えられないような内容でした。けれども、親戚の不妊のエリサベトの妊娠、そして、「神にはできないことは何一つない。」というとどめの言葉にマリアは全てを神様にお委ねしたのです。全てを信じ、全てを受け入れたから、「お言葉どおりに、この身に成りますように。」と応答したのではないでしょう。話の内容が大きすぎて、マリアの理解を越えている。「そんな馬鹿な」とも思える。神様は、ナザレの田舎の目立たないただの普通の貧しい私に目を留めて下さった。そして、こんな者にも、神様にとってすべきことがある。与えて下さった。この先には、神様に選ばれたからといって、エスカレーターのように、ただ自動的に祝福の道を歩むのではない。この先には、いばらの道、危険な道、人々のあざけりや冷たい視線が予想されるのです。けれども、そんなマリアの人生に、「恐れることはない。」「主があなたと共におられる」「聖霊があなたに降り、あなたを包む。」「神にはできないことは何一つない。」と次から、次からへと神様はとどめのことばを与えて下さったのです。そのことをマリアは深く感謝したのだと思うのです。

Ⅲ結論部

 人間の罪の赦しを実現するために、なぜ聖霊による受胎、神様が人として生まれてこなければなかったのでしょうか。最初の人間、アダムの罪によって、人間は死ぬ存在となってしまいました。そのために、父なる神様は人間が再び神様の許に戻れるように人間の救済を計画され、実行されたのです。そして、罪の赦しを実現するためには、誰かが犠牲になって罪の償いをしなければなりません。それを神様ご自身が引き受けられたのです。私たち人間に対する愛がそうさせたのです。私たち人間の罪の罰を全て受ける以上、罰を罰として受けなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在となる必要があるのです。神様は、人間に律法を与えられたお方ですから、律法の上に立つお方です。しかし、それならば、罰を罰として受けることはできないのです。罰を罰として受けるためには、律法の効力の下にいる人間と同じ立場に立つ者でなければならなかったのです。このために、イエス様が人間の子として、人間の母親マリアを通して生まれる必要があったのです。聖書は、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)と語ります。イエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって尊い血を流し死んで、墓に葬られましたが三日目に甦らされて罪と死に打ち勝たれ、神であることを証明されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。このために、マリアは神様に選ばれ、イエス様の母となるのです。

 マリアは、神様に選ばれ、神様はマリアにイエス様を委ねられたのです。神様が共におられるというのは、ただ横にいて困った時に助けて下さるというのではありません。神様ご自身が、私たちのその痛みを神様ご自身が痛みとして受け、私たちの苦しみ神様ご自身が苦しみとして受けて下さることなのです。神様ご自身が、神様のその命を私たちと共に生きて下さるということなのです。

 マリアにはマリアの役割が与えられたように、私たちには私たちの役割が与えられています。会社員として働くということ、主婦として働くということ、家族の介護をすること、子どもの世話をすること、様々なことがあるでしょう。それらの事柄を突き詰めていくと神様のご計画の中で、私たちのキリスト者としての役割があるのです。私たちは素晴らしいことのために用いられます。自分の小ささや弱さ、能力、才能、努力を越えて、神様の言葉が日々与えられて、み言葉に応答する時、神様の驚くべきみ業が起こされていくのです。「神にはできないことは何一つない。」とあなたにも語られています。このみ言葉を握りしめて、イエス様に目を留めて、この週も歩み、待降節を歩みたいのです。

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