日曜礼拝(降誕後第一) 2023.12.31
「異邦人」 マタイ2:1~12
Ⅰ導入部
おはようございます。12月の第五の日曜日、大みそか、12月31日の年末感謝礼拝を愛するみなさんと共にささげることができますことを感謝いたします。先週、私たちは救い主イエス様の誕生をクリスマス礼拝、キャンドルライトサービスを通して、共にお祝いすることができました。全世界のキリスト教会がクリスマスのお祝いをしたのです。キャンドルライトサービスが終わって、すでにクリスマスツリーを片付けて、新年の準備がなされたのかも知れません。青葉台教会も以前はそうでしたが、最近はクリスマスツリーは、1月6日まではそのままにして置くようになりました。1月6日は、公現日、顕現日、エピファニーと言われ、救い主イエス様が人々の前に明らかにされた日とされています。ですから、1月6日まで降誕節、クリスマスの祝いの期間となっています。この日に東方の占星術の学者(博士)たちが救い主イエス様を訪ね礼拝した時となっています。
2023年1月1日は元旦初詣日曜礼拝から始まりました。聖書の個所は、今日と同じマタイによる福音書2章1節から12節でした。ですから、2023年は、最初の日、1月1日と最後の日、12月31日で、マタイによる福音書2章1節から12節で始まり、マタイによる福音書2章1節から12節で終わるということになります。
大みそか、2023年12月31日の礼拝は、マタイによる福音書2章1節から12節を通して、「異邦人」という題でお話しします。「異邦人」という歌が、以前ヒットしました。コマーシャルでもよく歌われていました。久保田早紀という人が歌いました。彼女はクリスチャンになり、久米小百合さんという名で、現在賛美を通して神様をほめたたえておられます。
Ⅱ本論部
一、異邦人に示された救い主誕生
1節を見ると、「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、」とあります。新共同訳聖書にはないのですが、新改訳聖書や口語訳聖書には、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあって、「見よ」という言葉があります。この「見よ」という言葉は、「イドゥ」という言葉で、思いがけない驚きを表現する言葉のようです。はるばる東の国から長い旅をしてきた占星術の学者たちの姿を見て、驚きのあまり「見よ」、「見て見て」と示しているのです。それほど、東方の占星術の学者たちの来訪は驚きに満ちていたということです。9節にも、新共同訳にはありませんが、「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、」とあり、「見よ」と東方で見た星の出現に驚いているのです。ここには、2つの驚きがあります。一つは、東方の占星術の学者たちの訪問です。2節に、「言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」と、何の備えもなく突然、東方の国から来た占星術の学者たちから、ヘロデ王と宗教指導者たちは、ユダヤ人の王となるお方の誕生の知らせを聞かされたのです。ですから、東方の占星術の学者たちのエルサレム訪問は、始めから終わりまで驚きの出来事でした。
2つの目の驚きは、占星術の学者たちに救い主出現を示した不思議な星が、現れて救い主のいる所まで先導したということです。それは、驚きの出来事でした。神様は、ユダヤ人の王として生まれた救い主イエス様の誕生を、選民ユダヤ人を差し置いて、ユダヤ人ではない異邦人、律法の言葉も知らない、ユダヤ人から見たら、神様から遠くは離れている存在の異邦人である東方の占星術の学者たちに語らせているのです。ユダヤ人ではなく、異邦人の東方の占星術の学者たちが、救い主を礼拝する姿こそが、神様の確かな導きでした。学者たちの訪問によって、当時のエルサレムのユダヤ人指導者たちが、忘れていた旧約聖書のみ言葉を思い出さなければならないことを教えたのでした。エルサレムの宗教指導者たちは、ユダヤ人が長年待ち望んでいた救い主の誕生を異邦人から聞かされて、とてもショックだったはずです。自分たち、ユダヤ人は神の民、神様に選ばれた、特別な存在だと自慢していた。ユダヤ人ファーストでした。旧約聖書には、多くの預言者たちが、神様のみ言葉が異邦人の世界に広がるということを語っているのです。パウロも、異邦人が救われことを通して、ユダヤ人が救われることを示しています。「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(ローマ11:25-26)
神様の救いは、選民イスラエル、ユダヤ人だけに限定されているのではなく、世界を創造された神様の救いのみ業は、全世界の全ての民に与えられるという希望をマタイによる福音書は、神様の救いが、異邦人に与えられていることを、この東方の占星術の学者の訪問を通して語るのです。学者たちが、不思議な星に導かれて、救い主にお会いしたことから、神様の恵みの道は、異邦人からユダヤ人へ伝えられたのです。そしてまた、異邦人へ伝えられていくのです。
二、異邦人が神の言葉にたどり着く
東方の占星術の学者たちのことを、原語でマゴスと表現し、元来ペルシャの宗教者で祭司の働きを担った人という意味があるようです。マゴスは当時の天文学や薬学を用いて、神々を伝える働きをしていました。また、星座の研究によって、人々の運命を占いました。彼らは、星によって未来が占えると思っていたのです。ある星の下に生まれると、その星によって運命が定められると信じていたのです。星の運行は一定していて、宇宙の秩序を表していました。それが突然明るい星が現れ、特別な現象によって天体の秩序が乱れると、それは神様の創造の秩序を破って、何か特別なことが示されると考えられていたのです。
かつてユダヤ人たちは、バビロンの国に捕囚となりました。ダニエルはその国で豊かに用いられました。当時のネブカデネツァル王は、ダニエルを「お父上のネブカドネツァル王様は、この人を占い師、祈祷師、賢者、星占い師などの長にしておられました。」(ダニエル5:11)とあり、「占い師、祈祷師、賢者、星占い師」と呼び、ダニエルの信じる神にネブカドネツァル王は、栄光を帰したのです。このような記録が強烈に残っていて、何百年もユダヤ人の神、ユダヤ人の王を求めていたということも考えられえるのです。かつて、過去のユダヤ人が残した証を神様は決して無駄にはなさらないのです。私たちは小さな信仰かも知れません。小さな証かも知れない。しかし、私たちがイエス・キリスト様を信じて歩んだ信仰の歩みの証を、神様は絶対に無駄にはなさらないのです。家族や友人たちにとって、やがて、いつか、神様の時に花開くということを聖書は私たちに語るのですから、2023年の自分の信仰の歩みを振り返りつつ、問題があった。課題もあった。不信仰だったのかも知れない。罪を犯してしまったのかも知れない。しかし、そのような私たちを見捨てず、切り捨てず、共におられて、私たちの信仰の歩みを導いて下さった神様に感謝したいのです。
3節から6節には、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」」とあります。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と東方の占星術の学者たちから問われてヘロデ王も、時の宗教指導者たちも不安を抱きました。「寝耳に水でした。」ヘロデ王は、時の宗教指導者たちに、救い主はどこで生まれるのかとその場所を調べさせ、彼らは「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」と旧約聖書のミカ書5章1節の預言の言葉から、その場所は「ベツレヘム」という場所を示しました。東方の占星術の学者たちは、自分たちの専門の知識とユダヤ人が待ち望んでいた言い伝えによって、エルサレムまで危険を冒してまで、旅をしてきたのです。しかし、今は聖書、神様の言葉を聞いて、それを信じてベツレヘムに向かおうとするのです。聖書の言葉もあまり知らない彼らが、預言の言葉を信じて、その言葉によって救い主のもとに行こうとするのです。神様の言葉が、聖書の言葉が救い主のもとに導くのです。
私たちは、2023年の1年間、聖書の言葉に触れて、聖書の言葉を通して、神様に出会い、神様の導きの中で、信仰生活を歩んでまいりました。2024年も神様の言葉に信頼して、聖書に触れて、聖書を読んで、聖書を学んで、神様の言葉に満たされ、従って歩みたいのです。
三、異邦人が礼拝をささげるようになる
学者たちがでかけると、9節、10節には、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。あの救い主の誕生を知らせた星が現れたのです。その星を見て彼らは喜びに満たされました。そして、その星が救い主のいる所に導いたのです。
11節には、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。
「彼らはひれ伏して幼子を拝み、」とあります。2章2節には、「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と、学者たちの目的は、救い主イエス様を礼拝することでした。彼らは自分たちの人生をかけて、イエス様を礼拝するために来たのです。遠い遠い国、ユダヤから約2千キロ離れた所からユダヤ人の王、救い主イエス様を礼拝することを第一としたのです。アブラハムは、行き先を知らないで、神様の言葉だけを握りしめて信じて旅に出たのも神様を礼拝するためでした。アブラハムは、要所要所で祭壇を築いて礼拝したのです。イエス様を礼拝することを第一にすることが、私たち信仰者の真の歩みだと思うのです。10節の「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」という喜びは、東方で見た星を喜んだのですが、その星が救い主のもとへ導くこと、長い長い旅をして来て、彼らを支えていたものは、救い主を礼拝できるという喜びだったのです。救い主イエス様にお会いできることを喜びとしたのです。長旅も、莫大なお金を使うことも、危険を冒してまで旅に出るほどの覚悟をもって、学者たちを押し出したのは、救い主イエス様に会うためであり、イエス様を礼拝するためであり、ユダヤ人の王救い主に対する愛があったからなのでしょう。ただ、新しいものとか、珍しいものを見るためだけなら、このような喜びはないはずです。学者たちの目線は、ずっとこの星に集中していたのです。それは、彼らが占星術の専門家、星の専門家だったからでしょうか。そではありません。彼らの目は、星そのものではなく、星が導くであろう救い主イエス様をしっかりと見ていたのです。
彼らは、救い主イエス様に会い、心からの礼拝をささげたのです。ユダヤ人の王に礼拝をささげることが、そもそも旅の目的でした。信仰の旅は、救い主イエス様に礼拝をささげることが目的地に達するといえるのでしょう。信仰者の人生は、イエス様に出会って、喜びに満ちた礼拝をささげることに向かうのです。また、私たち信仰者の生活のリズムでもあります。日曜日の礼拝は、喜びにあふれてイエス様に出会う場所です。一週間の歩みを通して、神様が私たちを日曜礼拝に導くのです。日曜日の礼拝を待ち焦がれることが、信仰的なことなのでしょう。エルサレムの宗教指導者たちは、エルサレムから約8キロしか離れていない場所ベツレヘムで生まれた救い主を礼拝するために行動しなかったのです。
神の言葉、律法に触れ、救い主を待ち望むユダヤ人にとっては、身近な存在であるから、慣れ親しんだ存在だから、救い主を礼拝することをないがしろにしたのかも知れません。
私たちキリスト者も、礼拝があまりにも慣れすぎて、親しみすぎて、礼拝をささげることから離れてしまうということがあるのかも知れません。だからこそ、約2千キロ離れた所から、人生をかけて、財をささげ、命を懸けて救い主を礼拝した東方の占星術の学者たちの礼拝の姿勢に学びたいと思いますし、礼拝の姿勢を模範にしたいと思うのです。
Ⅲ結論部
11節後半には、「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。占星術の学者たちは、自分たちの大切なものをささげました。私たちも自分の大切なものをささげましょう、というのではありません。ここでは、何をささげるかというよりも、「宝の箱を開けて」というのが大切なことなのです。私たちの宝のある場所を開けるということでしょう。イエス様は、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ6:21)と言われました。私たちの心こそ、宝の箱だと言っているのでしょう。私たちは、自分の大切なもので心満たす生き物です。愛する人がいると一日中愛する人のことを考えます。いつもいつも愛する人のことで、頭と心がいっぱいで何もできなくなるのです。私たちの心は、愛するもので、好きなもので、私たちの心は患うぐらいに、私たちの心の箱という宝の箱は、すぐに一杯になってしまうのです。そうすると、本来やるべきことができなくなり、見るべきものが見えなくなってしまうのです。自分の大切な宝が、自分の首を絞めてしまう。占星術の学者たちが、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬をささげました。だから、帰りは荷物がないので軽くなったのです。それは、今まで持っていた宝物が、彼らにとっては、重荷になったということになるのでしょうか。
私たちは、自分にとっては大切なものがたくさんあります。財も、知識も、健康も、仕事も家も、車も、社会的な地位も、それぞれに大切なものです。しかし、そのことだけに、そのものだけに執着している限り、自分の宝の箱を開けない限り、人生の重荷は、自分にとっては重荷のままで残るのです。私たちの心の中には、自分を苦しめている過去の出来事、人に言えないこと、墓場まで持って行くべきことを全て、イエス様に打ち明ける、お委ねするなら解放されるのです。イエス様は、私たちの全ての重荷、罪の重荷を私たちに代わって背負って下さったのです。あの十字架の上に、罪のないお方が罪ある私たちの罪の身代わりに、神様に裁かれ十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげられた。死んで下さり墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の血と復活の力により、私たちの犯した全ての罪が赦され、清められ、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。
私たちは、2023年様々な重荷を負って歩んで来たことでしょう。イエス様は今、私たちが握りしめている、負っている重荷を全て引き受けて下さるのですから、イエス様のもとに全ての重荷をおろして、イエス様にお任せし、2024年を迎えたいのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:28-29)と聖書は語ります。g-@
私たちは自分の宝の箱を開けて、イエス様の十字架と復活の恵みでいっぱいにしていただこうではありませんか。私たちは、イエス様を礼拝することを第一のこととして、自分の心をイエス様に明け渡す時、新しく生きるためのみ言葉、神の言葉が与えられるのです。
2023年が今日で終わります。イエス様がいつもそばにいて、守り導いて下さったことを感謝しつつ、明日から始まる2024年の歩みに、イエス様を礼拝することを第一として歩みたいと思うのです。私のもとに来なさい、と言われるイエス様の身元に、全ての重荷をおろして、イエス様に全てをお任せして2023年を終え、イエス様に全てをお任せして2024年を歩んでまいりましょう。