江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年5月5日)

2024-05-05 12:44:27 | Weblog

日曜礼拝(復活後第御五)    2024.5.5

            「また逢う日まで」 使徒言行録1:3~11

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。5月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。ゴールデンウィークの休みが終わると、五月病といいまして、勉強や仕事に対して疲れたり、仕事をしたくなくなったり、勉強したくなくなって、休みが終わっても仕事や勉強を休みたくなるということがあります。様々な所に出かけてリフレッシュすることも大事ですが、聖書を読むことや祈ること、礼拝を守ることで魂が癒され、霊的に祝福されることを私たちは大事にしたいと思うのです。

 今日は、使徒言行録1章3節から11節を通して、「また逢う日まで」という題でお話ししたいと思います。今まで、イエス様の昇天については、あまり触れてきませんでしたが、イエス様の昇天とペンテコステには、とても深い関係があることを思わされました。今日は、イエス様の昇天を中心に見ていきたいと思います。

 Ⅱ本論部

 一、聖霊をうけるための備え

 イエス様の昇天は、1章9節から11節に記されています。イエス様の昇天については、マタイ、ヨハネ福音書には記されておりません。ルカとマルコが記しています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(ルカ24:50-53)とあります。ルカによる福音書では、「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」とあり、イエス様が昇天される時、弟子たちを祝福されたこと、弟子たちが大喜びでエルサレムに帰ったと記しています。使徒言行録1章1節の「わたしは先に第一巻を著して」とあるのは、ルカによる福音書のことです。

 1章3節を見ると、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。イエス様は復活して40日間弟子たちや多くの人々にご自身を現わされたのです。イエス様は、復活してから40日目に天に上られたのです。今年は、5月9日の木曜日がイエス様の昇天日です。イエス様が昇天されてから10日目がペンテコステです。

40という数字は、試練あるいは準備の期間を現わします。ノアの洪水では雨は40日降りました。モーセはシナイ山に40日とどまりました。カナンの地の偵察は40日でした。エリヤはホレブ山まで40日歩きました。ヨナはニネベの町は40日したら滅びると言いました。イエス様は40日断食されました。弟子たちにとっても40日間は、訓練と準備の時となったのです。なぜ、40日間も必要とされたかというと、これから弟子たちが新しい働きをしていくための十分な備えのためであったのだと思うのです。イエス様が、復活されて確かに生きておられることを確証させるためでした。また、神の国について繰り返し語られたのです。

 4節、5節には、「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」とあります。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。旧約聖書において聖霊は、「新しい霊」と表現されています。エゼキエル書11章19節には、「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。」とあります。また、新しい霊が与えられる時には、「主なる神はこう言われる。『わたしはお前たちを諸国の民の間から集め、散らされていた諸国から呼び集め、イスラエルの土地を与える。」(エゼキエル11:7)と預言されているのです。ですからエゼキエル書には、「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」が語られているのです。弟子たちは、イエス様が「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われたもので、エゼキエル書のこと、旧約聖書の言葉が思い出されたのだと思うのです。ですから、新しい霊、聖霊とイスラエルの回復とのかかわりを確かめたくなったのでしょう。6節を見ると、「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」とあります。「尋ねた。」という言葉は、原語では「熱心に尋ねた」という意味があるようです。弟子たちは、「新しい霊、聖霊」が与えられることと「イスラエルの回復」とのかかわりについて、熱心に、納得いくまで尋ねたのでした。弟子たちが望んでいたことは、メシアの到来、イスラエルの回復、神の国の到来でした。

 二、聖霊が与えられるためにイエス様は天に上られた

 弟子たちの熱心な問いかけに対して答えられます。7節、8節です。「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と弟子たちは尋ねましたが、新改訳聖書第三版では、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。」とあり、知る必要はない事を示されました。それは、イスラエルの復興について、どうでも良いというのではなく、確かに父なる神様がご自身の権威をもって定めておられると言われたのです。

 約束された聖霊が何のために与えられるのかというと、それは弟子たちが、「イエス様の証人」となるためでした。5節の「聖霊による洗礼を授けられる」ということを8節では、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と言い換えられています。聖霊が与えられる目的は、弟子たちがイエス様の証人となるためです。「証人」(マルトゥス)という言葉は、「殉教者」という意味があります。命を懸けるほどに証言する力が与えられるということでしょう。榎本保朗先生の一日一章には、「証人になるとは、イエス様がその人の生活の原動力となり、いっさいの決定権を持っていること」と記されていました。それが聖霊のバプテスマの意味であり、それが弟子たちに与えられるということが、新しい使命となるのです。イエス様が示されたことは、イスラエル王国の建設ではなくて、イエス様を証しする人、イエス様の事を宣べ伝える人の成立でした。教会の成立と言ってもいいのでしょう。イエス様の昇天によって、実現していくのは、教会の誕生でした。弟子たちが聖霊に満たされて、イエス様の証人として遣わされていくことこそが、イスラエルの復興、回復となるのです。

 9節には、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」とあります。「」とは、神様が支配する領域です。神様の住まいを意味します。私たちは、主の祈りで最初に、「天にましますわれらの父よ」と祈ります。この天は、物理的な空の上というのではなく、父なる神様がおられる領域です。「天に上げられた」とは、イエス様がどこか遠い所に消えて行ったというのではなくて、時間と空間を超えているのです。「雲に覆われて」は、口語訳聖書では「雲に迎えられて」とあり、新改訳聖書第三版には、「雲に包まれて」とあり、リビングバイブルには、「たちまち雲の中に姿を消されました。」とあります。「雲」(ネフェレー)は、神様の栄光を現わします。モーセはシナイ山で雲の中で律法が与えられました。イスラエルの人々がエジプトを脱出して、荒野で幕屋における臨在は雲によって現わされました。ソロモン王が神殿を奉献した時、雲が現れ、祭司たちはその臨在に圧倒されました。イエス様の変貌の山で雲が沸き起こり。弟子たちを覆いました。雲は神様の臨在のしるしなのです。イエス様は、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」のです。神様の栄光を現わされたのです。

 三、イエス様が昇天された目的とは

 イエス様が昇天された目的は何かというと、父なる神様の右の座につき執り成すためでした。聖書は、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(マルコ16:19)とあります。右の座とは、権威を現わす位置であり、王の右の座は、王と共に国を治める王子の座なのです。イエス様が、父なる神様の右の座に着かれるということは、イエス様が父なる神様から全ての権限を委ねられて、全世界を治める王として即位されたということでしょう。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」

(エフェソ1:20-21) 「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)と聖書は語ります。

 また、イエス様が昇天された目的のひとつは、もう一人の助け主である聖霊を遣わすためです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネ14:16)「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)と聖書にはあります。「もうひとりの」とは、「性質の違う別のもの」ではなくて「性質の同じもうひとつのもの」という意味です。もうひとりの助け主である聖霊は、イエス様と全く同じ方なのです。聖霊が私たちと共におられるとは、イエス様が私たちと共におられることなのです。マルコによる福音書16章19節~20節には、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕」「主は彼らと共に働き」というのは、聖霊であり、イエス様なのです。聖霊は霊なるお方ですから、場所には限定されず、聖霊は世界中どこでも、いつでも、イエス様を信じる者、私たちと共におられるのです。

 10節、11節には、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」」とあります。イエス様が再び来られるという再臨について語られています。弟子たちの前からイエス様は天に上げられました。弟子たちは、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」イエス様を思い、天を見上げていたのです。イエス様とは別れ別れになってしまったのです。しかし、これで終わりではありません。イエス様は再び来られるのです。また逢う日があるのです。弟子たちは、イエス様が再び来られるのを待ちながら、新しい時代を歩み始めるのです。弟子たちは天を見上げていました。しかし、弟子たちは、イエス様の約束を信じて、聖霊が与えられて、イエス様の証人としての地上での歩みが始まるのです。

 Ⅲ結論部

 ハイデルベルク信仰問答には、「キリストの昇天は、私たちにどのような益をもたらしますか」とあり、天においてキリストが私たちの弁護者となって下さった。キリストがその肉体をもって天に上げられたことによって、私たちの体の復活を保証して下さった。復活の保証として神の霊を私たちに送って下さった、と答えています。

 地上での弟子たちは何をしていくのか。それは、イエス様が天に上られる前に語られた言葉の中にあります。8節の言葉。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という、イエス様の証人となることです。イエス様は、証人になりなさい。努力して、頑張って証人になりなさい、とは言われませんでした。イエス様ご自身が、聖霊を与えて下さるので、証人となるのです。イエス様の十字架と復活が自分の為であると信じ、イエス様を救い主と信じる者には聖霊が与えられ、聖霊に満たされた人は、イエス様の証人とされるのです。イエス様ご自身が、「わたしの証人となる。」と言われたのですから、イエス様を証しする力は、イエス様が私たちに与えて下さるのです。なので、私たちは、自分がイエス様の証人になれるのかどうかと心配する必要はありません。私たちは聖霊をいただいて、もうひとりの助け主を通して、イエス様の証人とされるのです。私たちは、自分の親しい人、影響を受けた人、尊敬する人の語った言葉や話し方が似てくるということがあるのでしょう。私たちは、自分の考えや力で頑張って語ったり、努力して証しするのではなくて、聖書を通してイエス様に触れ続けて、知らず知らずのうちにイエス様に似る者とされていくのでしょう。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」(Ⅰヨハネ3:2)と聖書は語ります。天に上られたイエス様は、再びおいでになられるのです。私たちはイエス様に似たものとされていくのです。私たちは、「また逢う日まで」とイエス様に会えることを期待しつつ、聖霊としてイエス様がいつも共におられ、助け主として私たちを支え守り導いて下さることを信じて歩みましょう。

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