江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2015年10月25日)

2015-10-27 00:19:58 | Weblog

「もう一人のスーパーヒーロー(主に従いとおした信仰の人、カレブ)」

ヨシュア記14:6~14                                                          2015/10/25(日)                                          満山 リベカ 

みなさん、おはようございます。
朝晩がかなり冷え込むようになってまいりましたが、体調は崩されていませんか?
本日は、主任牧師の江上先生がナザレン国立教会の創立52周年記念礼拝に招かれ、説教のご奉仕をなさっておられますので、私、満山リベカは、現在神学生なのですが、江上先生から説教の奉仕をするようにとの命を受けましたので、大変つたない者ではございますが、聖書のみ言葉をお分かちできればと思っております。

 

聖書にはたくさんの偉大なヒーローが出てきますが、今日はその中でも、特に神様に従いとおしたすばらしいヒーローをご紹介いたします。その人の名は「カレブ」です。

カレブは、旧約聖書の民数記、そしてヨシュア記、士師記に出ています。

その時代は、イスラエルの民をエジプトでの奴隷暮らしから解き放ち、エジプトから脱出させた偉大な指導者モーセが活躍いたしました。その出エジプトの物語は、「エクソダス」という映画も作られ、今年の1月頃日本でも公開され話題になりましたので、観に行かれた方も多いのではないでしょうか? また、モーセのあとを継いだ勇敢な指導者ヨシュアなど、有名なヒーローたちが出てきます。

今日はモーセやヨシュアと同時代を生きた、もう一人のスーパーヒーロー、カレブを取り上げたいと思います。カレブは、私たち神様を信じる者にとって大きな励ましであり、また本当に模範的な人物です。私、個人的には聖書の登場人物の中でも、もっとも魅力的に思う人物の一人です。彼は、神に対し厚い信仰をもち、普段は表には出て来ないですが、いざというときには揺るぎない確信のもとに人々を励まし、先頭に立つ人でした。そして、とても忍耐強く、目に見えている状況だけで判断せず、広い視野で物事を見て、いつも信仰を働かせ、先見の明があり、行動派で、何才になっても挑戦し続けることをやめない人でした。

カレブは、神様への熱い厚い信仰の持ち主でした。

今日はカレブの物語のうち、特に40才の時のカレブと、85才の時のカレブに焦点をあてて、カレブから学ぶ4つのポイントを見ていきましょう。

先ほど読んでいただいた聖書箇所は、85才になった時のカレブの姿です。

では、順を追って若き日のカレブからみていきましょう。

●若き日のカレブ

①神への信頼からくる確信がある:カレブがカナンへの偵察隊に選ばれたのは40 歳の時でした。(ヨシュア14:7)。イスラエルの指導者モーセは神様に「私があなたがたイスラエルの人々に与えようとしているカナンの地を偵察するために、イスラエルの各部族から一人ずつ、それぞれ指導者を出して、偵察に行かせなさい。」と言われたので、12名のものが、約束の地の様子を見に行く偵察隊として、送られることになりました。(民数記13章、14章に詳しく書かれています。) 40日後、12人の偵察隊はモーセのもとに帰ってきて、カナンの地はどうだったかを、モーセに報告しました。12名の偵察隊のうち、ヨシュアとカレブ以外の10人は皆怖じ気づき、こう言いました。

「ただいま偵察から戻ってまいりました。約束の地カナンは大変豊かで、果物もたくさん実るすばらしい土地でした!みてください、このぶどうを!!あまりにも立派で一房が大きすぎて、二人がかりでかつがないととても運べないほどのサイズです。ざくろやいちじくもたくさん取れます。まさに乳と蜜の流れる最高の土地です。しかし!そこに住んでいる住民はとても強く、町だって城壁に囲まれ、まるで要塞のように大きく堅固で、とてもじゃないけど攻め落とせそうにありません。しかも彼らはめちゃめちゃ巨人です。でかすぎます!我々が攻めていったって全く勝ち目はありません。あっという間にやられて殺されるだけでしょう。彼らに比べると我々なんて、いなごのような虫けらみたいですから。悪いことは言わない。モーセ、無理なもんは無理なんです。あの地は、あきらめましょう。」と言いました。

そんな時、積極的な思いを発言したのが、カレブでした。(民数13:30)。

「いやいや、断然上っていくべきです。そこを占領しましょう!必ず勝てますよ!」

しかし、イスラエルの人々は、10人の偵察隊のネガティブな意見を聞いて、ショックのあまり、声をあげて泣き叫び、夜通し文句をいいました。

「なんてこった!!!エジプトから苦労して脱出してきて、荒野でのつらい旅をして、結局これかい!!!約束の地には強くて巨大な敵がいて、我々はみんな殺されるんだ!ああ、ばからしい、だったらエジプトに引き返して、また奴隷に戻ったほうがマシじゃないか!!」

あまりにも不平不満ばかり言うイスラエルの民に対し、ヨシュアとカレブだけはこう言いました。

「何を言うのだ、あのカナンの土地はすばらしい豊かな土地だったじゃないか、もし、我々が神様の御心にかなうなら必ず神様があの土地を我々に与えてくださるのだ。我々には神様が共におられるじゃないか。彼らを恐れる必要なんかまったくないのだ。」

カレブは、こんな素晴らしい土地と町を神は与えてくれるという喜びと確信を持っていました。確かに大きな困難はあるでしょう。カナンの土地を手に入れるということは、もともと住んでいる強い巨人たちと戦わなくてはならないのですから。しかし、神様が我々と共におられ、しかもその神様がカナンの地を与えて下さるという約束をしてくれているのです。カレブは神の約束を心から信じ、感謝をしていたのでした。

ここに、現実の困難さに直面した時、神を忘れてしまい自分の知恵や力でどうにかしなければと思う人間との違いを見出すことができます。

私たちは、頭では神に対する信仰と信頼の必要は知っているかもしれないけれど、いざ試練や困難が自分に襲いかかってきたときに、カレブのようなブレない信仰を持つことができるでしょうか?何も問題や悩みがないとき、神様を信頼し、感謝することは誰でもできるでしょう。しかし、試練や困難に直面したときこそ、信仰の真価が問われるのです。

 

カレブは普段表には出て来ません。しかし、いざという時の要所要所で大切な役割を果たしています。

カナン偵察に行った12名中のうち10 名は、カナン征服は絶対無理だと諦めていました。

しかし、カレブは怖じ気づく彼らを責める事なく、また非難するわけでもなく、ただ励まし説得しているのです。大多数の反対の空気の中で、カレブは勇敢に、彼らに神の約束を思い出させて説いていったのです。しかしイスラエルの人々は、カナン征服に行こうと積極的に勧めるモーセ、ヨシュア、カレブをなんと殺そうとしました。それは、自分たちを圧倒的不利な状態であるにもかかわらず、巨人と戦わせようとしていると判断し、モーセ、ヨシュア、カレブを憎んだからです。そんな時に神の介入がありました。(民数14:10〜31)。幾度も神に反逆するイスラエルの民は、モーセの必死のとりなしゆえに、神様は赦されました。

しかし、神様への不信仰の罪の報いとして、10 名の偵察者たちは疫病によって死にました。そして不平ばかりを言ったイスラエルの民はなんとその後40 年もの長い間、荒野の道をたどる事になりました。

 

エジプトからカナン(現在のパレスチナ)は、直線距離だと約300kmと言われています。実際の道のりにしても、まっすぐ向かえばおよそ500kmといったところです。ちょうど東京大阪間を歩きとおすイメージで、健康な成人男性なら約2週間もあれば歩きとおせます。

実際にイスラエルの民が移動したと言われているこのルートを辿ってみても、シナイ半島をぐるっと約1500kmといったとことなので、3か月もあれば十分の距離と思われます。しかし、そのカナンに向かう旅の道中、イスラエルの民があまりにも不信仰で不従順だったため、神様はあえて40年という時間をかけて、彼らを訓練されたのです。イスラエルの民が神様により頼み、従う者となるためにはこの40年の期間が必要だったのです。3か月で行けるところを40年、水も食べ物もない荒野の旅、どれほど辛く過酷な旅だったでしょうか。

 

そして、ヨシュアとカレブ以外の、20才以上の大人は40年の間に荒野で全員死にました。しかし、神様は、信仰の人カレブにはっきりとこう約束をされました。「しかし私の僕カレブは、別の思いを持ち、私に従い通したので、私は彼が見てきた土地に連れていく。彼の子孫はそれを継ぐ」と。カレブは、大多数のネガティブな声にまどわされず、ただ神様を信じ従い続けたので、神様から大きな約束をいただきました。

しかし、カレブはその後すぐ、約束の地をもらうことができたでしょうか?いいえ、そうではありません。カレブは、神様から祝福の約束をいただいた後も、イスラエルの民と運命を共にしました。彼は共同体と共に生き、彼らのために祈り、働き、その内側から彼らを支え導きつづけたのです。カレブは、まさに共同体の力となって仕えつづけたのです。私たちはカレブを模範として学ぶ必要があります。

私たち一人一人は、教会という神様が与えてくださったこの共同体を、時に外野のように外から批判していないでしょうか?そうではなく私たちはカレブのように、教会の内側から愛によって支え、仕え、導きながらよりよくして行くために力を注いでいるでしょうか?これは、私たち一人一人が問われていると思います。

 

●高齢となったカレブ

そしていよいよ、先ほど読んでいただいた今日の聖書箇所に入っていきます。

偉大なモーセの死後、イスラエルの民の指導者となったヨシュアは、荒野での長い長い40年もの旅の後、神様がイスラエルの民に約束された地に入り、征服してそれぞれ相続地を勝ち取っていく必要がありました。ヨシュアは主に従い、次々と征服していきました。神様は高齢となったヨシュアに、未征服地を含んだヨルダン川の西岸の土地を、九つ半の部族にくじ引きで公平に分配するよう命じ、ヨシュアはその通りに従いました。

そこにあのユダ族のカレブがやって来て、くじ引きによらず、ヘブロンの地を割り当ててほしいと願い出ました。なぜ、特例が認められたのでしょう。

 

積極的に生きる

カレブがカナンの地に偵察に行ったのは40才の時でした。それから、長い長い年月が経ちました。カレブは、荒野にて40 年、そしてカナンに入ってから先住民との戦いの日々の5 年間、の計45年間を経て、ついに85 歳になっていました。青葉台教会には、子供から信仰の大先輩まで、幅広い年齢層の方がおられますけれども、85才以上の方もおられると思います。さて、85才になったカレブはどんな様子だったのでしょうか?それではみなさん、共にヨシュア記の14章10節から12節を読んでみましょう。

「御覧ください。主がモーセにこの約束をなさって以来四十五年、イスラエルがなお荒れ野を旅した間、主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。 どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」

いかがですか?すごいですよね!
カレブは85才になってもなお積極的な生き方を求めているのがわかりますね。

カレブが高齢となっても健康で気力に満ちていたのは神様への強い信仰と、神様に対する固い信頼があり、常に積極的な生き方をしていたからではないでしょうか?

(ここでいう積極的とは、でしゃばりで向こう見ずで軽率という意味ではありません。カレブは、神様の御旨と導きに対して積極的であったのです。)

 

カレブは民数記13~14 章の事件偵察隊の話以後、今日のこの箇所まで一切、聖書に登場して来ませんでした。いわば彼は舞台の背後に退いていました。しかしこの45 年を経て、いよいよ約束の地カナンを分配する時、つまりあの神様の約束の成就する時になって、彼は第一番目に、前に出て来たのです。これはいかに彼がこの日を熱望してこれまでを歩んで来たかということがわかりますね。過酷な荒野の旅の中では幾度となく、その希望も消えかかりそうな時もあったでしょう。荒野での40年もの長い年月の間に、次々に仲間は死んで行きました。同世代はヨシュア以外誰もいなくなりました。そしてこの地に入っても、いつ先住民との戦いで命を落とすか分からない危険の中にありました。しかし主はこの日までカレブを生きながらえさせ、今、約束通り、相続地を与えて下さったのです。神はこのように、約束を必ず果たされる真実なお方なのです。長い間、待たされても、神に信頼する歩みがむなしく終わることは決してありません。ですから私たちは恐れずに神に信頼を置いて歩んで行くことができるのです。

それに比べて私たちはすぐに成果や結果が出ないと苛立ちやすいものです。祈ってすぐ答えが与えられないと、不満を述べ、大声で騒ぎ、失望して、約束を投げ捨ててしまう。そんな私たちは改めて、カレブは待ち続けた姿を思い出しましょう。荒野の40年、そしてカナンでも戦いの5年間は、カレブにとって、神の約束を信じる「忍耐」を学ぶ期間だったと言えます。

(へブライ人への手紙10:36)「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」とある通り、神が約束されたことは必ずなると忍耐をもって信じつづけることが重要です。

 

カレブは85才で元気で壮健でした。まだ、戦うこともできます。なぜ、彼はこれほど元気なのでしょう。カレブは、神の約束が実現する日に備えて、鍛錬を欠かさず、セルフコントロールを心がけて生きていたのだろうと思います。

「主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました」(10節)とあるように、85歳で生かされている事自体が、神の真実さのあかしだとカレブは理解しています。私たちが今、生かされている事は、神様の尊い使命実現のため、神が期待してくださっているということなのです。

 

更に困難な道を選ぶ:カレブはいつも全面的に神を信頼していました。
そして自分だけ良ければいいという考えではなく、いつも人々の盾として生きる人でした。そんなカレブが約束の土地の分配の際に、特権的に求めた相続地とはどこでしょう。普通は、緑多く、水豊かで、平坦で、平和な土地を望むと思います。

ところが、カレブは、平地ではなく「山地を与えてください」(12節)と言いました。

45年前、偵察隊たちが恐れをなした巨人族、ゴリアテの先祖アナク人が住む町、堅固な城壁をもつあの最も困難な土地ヘブロンを、あえてカレブは自ら進んで求めたのです。つまりは、更なる戦いの必要な場所でした。なぜでしょうか? それは、カレブの神に対する信頼は85才になってもいまだ衰える事は無く、むしろ歳を重ねるごとにますます確信は深くなっていたからです。またカレブがヘブロンの地を征服して治める事は、外敵からイスラエル全体を守る楯に、自らとなるという決断だったのです。そしてその後、カレブは見事にヘブロンを完全に征服することができたのです。

 

主に従い通す信仰を持つ:それこそが、カレブの特徴です。14章を見てみると、「主に従い通した」と、8節、9節、14節と、何度も繰り返し出てきます。

「従い通す」とはどんな事でしょう。強敵が目の前に立ちはだかっても、神の約束があるので、きっと征服できると信じる事です。たとえ、仲間の大多数が不信仰に陥り、自分が少数派になっても、決して信仰の妥協をしない姿勢です。また10年、20年、40年と約束が実現しなくても、神様の約束の実現を忍耐して待てる心のことです。

不信仰に陥ったイスラエルの民は過酷な荒野で40年間を過ごし、最終的には全員が滅びました。

偵察当時生きていて、約束の地に入れたのはヨシュアとカレブだけでした。

 

私たちに置き換えてみるとどうでしょうか?

神の約束があるけれど、まだ実現していないとします。あなたはどう考えますか。

目の前に大きな困難が立ちはだかりました。あなたはどうしますか。

大多数がもうだめだ、無理に決まってると言います。あなたは何と言うでしょう。

ずいぶん時間がたってどう見ても実現不可能という雰囲気です。あなたはどうしますか。

 

「従い通す」とは、神様を信頼し、困難に動じず、多数派に飲み込まれず、長い年月を待てる信仰です。
カレブの信仰、従い通す信仰、これを私の信仰として定着させたいですね。

ローマの信徒への手紙4:21にあるように、「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」

 

このように、カレブの信仰は、私たちにとってとても模範的なのですが、私たちが信仰生活において実践して行くときに、そうはいっても難しい時も多々あるでしょう。私たちの歩みも、イスラエルの民が通された過酷な荒野のように、苦しく、先が見えず、でこぼこで歩きにくく、まっすぐに歩けない、疲れ切ってしまう時もあると思います。目の前に巨大なアナク人のような、大きすぎる困難や問題に直面することもあるでしょう。また、人には気づかれなくても、自分自身の内側の見るとき、汚れや醜さ、孤独さや、過去に負った傷、痛みなど、深い深い闇を見て、希望を失いかけるときもあるでしょう。

そんな時はカレブの言った言葉、ヨシュア記14:12を思い出してください。カレブは、「主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。」と言いました。ここが一番大切です。「主がわたしと共にいてくださるなら」という条件付きで、カレブは勝利を確信していたのです。

私たちの前に、どんな苦しい荒野や、巨人のような強敵や、攻略不可能に見える険しい山が立ちはだかっても私たちは、この天地宇宙を造られ今も支配しておられる全能の神様が、私たちの味方であり、いつもともにいてくださり、日々守り、力を与え助けてくださるから、だから大丈夫と言うことができるのです。

私たち一人一人は、とても弱く、迷いやすく、罪深いものです。

自分の心の内側を見て「闇がない」と言える人はいるでしょうか?

自分を取り巻く状況や、世の中を見ても、目まぐるしく動き、変化し、不安は増すばかりです。

 

●コーリー・テン・ブーム 1892~1983年。第二次世界大戦中に多くのユダヤ人をナチスから助けたオランダ人クリスチャン、ホロコースト生残者はこう言いました。

「世の中に目を向ければ、悩みが増すでしょう。自分の内側をのぞいてみても、落ち込むだけです。

しかし、あなたがキリストを見上げる時、心に安らぎが与えられるのです。」

まったくその通りだと思います。

 

私たち一人ひとりを造られた神様は、私たちがみな罪にまみれ、迷い出て、神様から遠く離れてしまって、苦しんでいるのをご覧になり、私たち人間を救うため、一人子イエスキリストをこの地上に送ってくださいました。神様は私たち一人一人を心から愛しておられるからです。イエス様は神の子でしたが、人間の姿をとって、私たちを罪から救うために、この世に来られたのです。

そして、ただの一度も罪を犯さなかったのに、すべての人々の罪を背負い、身代わりになって、十字架で命を捨ててくださったのです。そしてイエス様を救い主をして信じる者は、すべての罪が赦され、滅びから救われ、永遠の命がいただける道を作ってくださったのです。

ローマ10:11で、聖書はこう言っています。「主を信じる者は、だれも失望することがない。」

主とは、イエス・キリストのことです。イエスキリストを信じ、従うものは、死んだあと天国に行けるだけではなく、今生きているこの地上でも、イエス様がいつも一緒にいてくださいます。どんな時でも、どんなに苦しい時でも、どんなに周りに非難されても、イエス様はあなたの味方であり、かばってくださるのです。そして、私たちを愛で満たし、心に平安を与え、知恵と力を与えてくださるのです。

 

私たちも主に従いとおしたカレブのように、どんなときでも主の約束を握りしめ、どんな時でも助けてくださるイエス様とともに、忍耐強く歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2015年10月18日)

2015-10-18 15:50:53 | Weblog

 10月18日礼拝奨励  

 題: 本当の自由を知ろう!     ガラテヤ5:1、13~16

 

 本日の箇所(5:1,13)は、ガラテヤ書のなかで一番大事な言葉だとよく言われています。M、ルターは、此の箇所から宗教改革書として有名な「キリスト者の自由」を書いています。きしくも、10月31日は宗教改革記念日です。1517年10月31日にドイツのヴィッテンベルグ城教会にルターが「95か条の掲題」を掲げた日です。ローマ・カトリックを批判したもので、この日からプロテスタント教会はスタートしたといってもいいと思います。再来年は、500年祭ということでドイツでは、いろいろな行事が予定されているようであります。

 

 1節、13節でパウロは、私たちが救われたのは、召されたのは、自由を得させるためだと言っています。キリストが私たちを、恵みの賜物として、自由の身にしてくださったのだと。パウロは、この自由を“律法からの自由、開放”という意味で言っています。「 ~してはならない」「~しなければならない」という律法的行為をまもることは、救いの条件ではない。信仰だけで救われるのだ、そこに律法からの自由があるのだと言っているのです。今日の、わたしたちは、これを“罪からの自由”と言っていいと思います。この自由は、信仰をもったら、罪が赦されているのだから、何をやってもいいということでしょうか?

 

 ルターが、若いとき、町にぐでんぐでんに酔っ払って道に寝ていた男を見ました。その男にダメでないかそんなに飲みすぎてこんなところに寝ていては、神さまの罰があたるぞと。そうしたらその男がポケットから免罪符をだして神父さん、これがあるから大丈夫だよと言ったという話をしています。

 この話は、笑えない話です。今の社会をみると、この自由は、自己中心的で、人に迷惑かけなければ何をしてもいいのだという風潮があります。恋愛で思いが遂げられないと相手を、殺してしまうという事件がよくおきます。自己の自由を確保するために、他社の自由を制約するという寛容度のない、社会になっています。これは少しおかしいですよね!!

 

13節でパウロは、「この自由を肉に罪を犯させる機会にしないで、愛によってたがいに仕えなさい」と言っています。私たちは、常に自己を中心とし、自分に対する利害関係を基準として考え、行動する抜きがたい罪の傾向をもっています。これをパウロは、肉とよび、これに罪を犯させないように、愛を持って互いに仕えなさいと言っているのです。自由が目的そのものになって他の何物も眼中になくなりますと、他を抑圧、強制し、自由がなくなり倫理・道徳もなくなります。

今日の私たちも、この律法の縛りから解放されているのに、「~してはならない」「~しなければならない」という生き方をするなら、そこにクリスチャンとしての喜びはなくなります。

 

 ルターは、この自由を、「①キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であって誰にも服しない ②キリスト者は、すべてのものに仕える僕であって誰にでも服する」と言っています。パウロも、Ⅰコリント9:19で「私は全てのことにおいて自由であるが、すべての人の僕になった」と同様のことを言っています。

 ルカ19章に、取税人の頭で金持ちのザアカイの話があります。この男は背が低かったので、いま評判の男イエス様がエリコにきたと聞いて、ひとめ見ようとしたが、多くの人に邪魔されてみえなかった。それで見るために先回りしてイチジク桑の木にのぼって待っていた。

そこに通りかかったイエス様から、「降りて来なさい、今日あなたの家に泊まりたい」と声を掛けられた。いわば神さまが召命されたのです。ザアカイは、急いで降りてきて、喜んでイエス様を迎えたとあります。イエス様に従い信仰に入ったのです。そして、主よ、私の財産の半分を貧しい人々に施します。だれからかだましとっていたら4倍にして返しますと言ったのであります。

 

隣人に愛を注ぎ仕えた姿です。これが愛によって仕えなさいということです。愛は強制されるものでなく自発性に基づくものです。ヨハネ14;15で「もしあなた方が私を愛するならあなた方は私の戒めを守る」と言っています。神さまを、こころから愛する人はすすんで神さまの戒めを守ることができるということです。みなさん、心から神さまを愛しているでしょうか?

 

 「ゴンギツネ」という小学生の国語の教科書に載っている有名な話があります。新見南吉(にいみ なんきち)という人が書いたものです。こんな話です。

 「兵十という名の御百姓さんが、病気の母のためにウナギを取ってきた。いたずらキツネの “ごん”がこれを盗みます。母親が数日後に死亡します。ウナギは母親に食べさせるものだったと知った“ごん”は、後悔します。お詫びのためそれから毎日,山で“栗と松茸”をとってそっと、兵十の家にとどけたのです。ある日、兵十は、家に来た“ごん”を見つけ、このいたずら“きつね”めがといって、火縄銃で“ごん”を撃った、撃たれた“ごん”をみると手に、“栗と松茸”があるのをみて、毎日届けてくれていたのはおまえだったのか!ゴンは、ぐったり、目をつぶったまま、うなずいて死んだという話です。」悔い改めて、他人(隣人)のために報いを求めず仕えていく愛に満ちた話です。

 パウロは、14節で「隣人を自分のように愛しなさい」と言っています。イエス様は、この言葉を第2の掟とし、この前に第1の掟として、「心を尽くし、精神を尽くし,思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」と言っています。(マタイ22:37~40)神さまへの愛があれば、喜んで神の勧めに従うことができるし、隣人を愛することもできるのです。神さまは,御子をつかわし、我々に十字架で愛を示してくださいました。私たちが神さまを愛する前に、神さまが私たちを愛してくださいました。

 

 そして神さまは、わたしたちの罪を赦して下さいました。人間は、生まれながらに持っている抜きがたい罪の性質から、いつも罪を犯すのであります。自己中心的考え、行動から私たちが犯す罪を神さまは、一つ一つ赦しているのです。なんと幸いなことでしょう。わたしたちが、この罪赦されていることを心から思うときに、神さまありがとうございます、感謝しますと言えるのであります。神さまを愛し、神さまに全面的に服するものとなる者であります。そして、日々聖書を開き、御言葉を求め祈る生活へと導かれるのです。16節で「み霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」と言っています。御霊はいつも、私たちの助け手、とりなし手として、わたしたちの内にいます。この御霊が働いてくださるように心から祈るのです。その導きに従う生活をしていけば、罪赦され、罪から自由になっていることを思い、神に感謝し、神を愛し、隣人を愛することができるのであります。愛するというのは、自分の価値観、考えで愛するのではなく、相手を相手のために愛することです。

救ったものに神はそのことを望んでいるのであります。

 今週も、御言葉を求め、祈りつつ歩んでいきたいものです。

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日曜礼拝(2015年10月11日)

2015-10-11 20:52:41 | Weblog

マタイによる福音書 724節~27節  『継続は力なり』

 

 今日は主任牧師の江上先生が、目黒教会での特伝のご奉仕に行かれているということで、神学生の私が、未熟ですがメッセージをさせて頂きます。そして、今日は何の日だか皆さんご存知でしょうか? 今日は、最初にナザレン教会が出来たことをお祝いする日なのです。最初のナザレン教会は、1895年10月にアメリカのカリフォルニア州ロサンゼルスで結成されました。日本のナザレン教会の最初は、京都で1907年に始められました。ちょっとした豆知識として、覚えていただけたらと思います。

 

先ほど拝読して頂きました、この家の土台のたとえ話は、マタイによる福音書5章から続く、イエス様が弟子たちと群衆に語った、「山上の説教」の最後のお話です。この「山上の説教」には、神の国の憲法とも言えるような主の教えや思いが、ぎっしりと詰まったところなのです。

イエス様は、その場にいた群衆にのみ語ったのではなくて、場所や時代を越えて当時生きていた人々、これから生まれてくる人々、すべての人々に向けて語られたのです。

 

家や建物を建てる時に最も大切なのは、その土台です。例えば、東京タワー。東京タワーは、高さ333メートルありますが、その土台というと、4つの太い柱がありまして、その4つの柱の地下には、15メートルもの柱が埋まっているそうです。

そして、3年前に完成された、東京スカイツリー。東京スカイツリーは、高さ634メートルありますが、その土台がどのくらいあるか、皆さんわかりますか? スカイツリーの土台は、3つの太い柱で出来ていて、その柱を埋めるために、なんと50メートルも掘って、柱が埋まっているそうです。

 

建物を建てる時に土台が大切であるという事は、世界中どこへ行っても同じことなのです。特に当時のイスラエルのような砂漠地域に住んでいる人々にとっては、それはすごく現実的な問題だったのです。

イエス様が「岩の上に自分の家を建てた賢い人」のことをお話しされたとき、当時のイスラエルの人々が誰でもよく知っている経験をお話しされたのです。当時のイスラエルでは、家はレンガで、乾季(雨の少ない時期)に建てられていました。その家を建てている時は、雨が降って、川があふれて、嵐のような風が吹いても、どれくらい耐えられるか、その家が丈夫かどうかは、見た目では判断できなかったのです。実際に、雨が降り、川があふれ、嵐のような風が吹いてその家を襲うことがないと、それに耐えられるか、耐えられないかわからかったのです。

 この話の中の「雨が降り、川があふれ、風が吹いている」状況とは、人生の中でおとずれる様々な試練や、困難やあらゆる誘惑のことを表しているのです。

「岩の上に自分の家を建てた賢い人」は、イエス様の御言葉に、素直に従い実行している人のことを指しています。また、「砂の上に建てた愚かな人」は、イエス様の御言葉に逆らい、聞いてはいるものの、実行しない人の事を指しています。

 

イエス様の御言葉を聞いても実行しなければ、どのようになってしまうのか。例えば、旧約聖書の列王記から預言書に至るまで色々なところに偽預言者が登場しています。彼らが語ることは神様の御心ではなく、時には自分達の地位を守るために使った、王様に媚びる為に出た言葉でした。つまり人の欲望が土台となっていたのです。その王様が偽預言者の預言の言葉に従った結果、イスラエルは他の国に滅ぼされてしまいました。「岩の上に建てた賢い人」も、「砂の上に建てた愚かな人」も、どちらも同じように家を建てています。外からの見た目はあまり変わりません。その違いがはっきりとするのは、嵐のような試練が起きた時にわかると、この箇所で記されています。賢い人の家はどんなにひどい嵐が来ても倒れることはありません。でも、砂の上に建てた愚か者の家は、嵐が来ると倒れてしまうのです。しかも「その倒れ方はひどかった。」とあります。

 「岩」とはイエス様の事なのです。イエス様の御言葉を人生の土台とするとは、イエス様の御言葉を聞くだけではなくて、実際に従うことです。イエス様のおっしゃるような「岩の上に自分の家を建てた賢い人」になるには、日々の小さい事の積み重ねが大切だと思うのです。

サッカーに例えますと、基本技術をしっかりと身に着けないと、いざ試合になった時に、ボールを止めることが出来なかったり、ボールをしっかり蹴ることが出来なかったりします。サッカーでは基本技術が非常に大切なのです。基本がしっかりしているからこそ、派手な技が出来たり、観客を喜ばすような大胆なプレーが出来るのです。これはサッカーに限らず、あらゆることに当てはまることだと思います。文字を書く時も、姿勢を正して、手首の角度など基本姿勢があると思います。 

ではそれは、どうしたら身に着くかというと、やはり日々の地道な訓練が必要不可欠になってくると思うのです。日々、コツコツと同じようなことをすることによって、体に染みつき、そして身に着いてきて、自分の物になってきて、自然と出来るようになってきます。それは私たちの信仰生活でも、同じようなことが言えると思うのです。私たちクリスチャンの基本と言ったら何になるでしょうか? それは毎日聖書を読んで御言葉に触れること。神様からのメッセージを聞くこと。お祈りや賛美をすることです。でも、無理に頑張り過ぎたりしないように、自分の出来る範囲で、自分のペースでやって行けば良いのです。ここで大切なのは無理をしないで続ける、ということです。無理をせず小さいことを続けていけば、必ず身に着き、そして力になります。

神様は私たち、お一人お一人に多くの恵みを与えて下さっています。イエス様が十字架につけられ、我々の罪を全部背負い、身代わりで死んで下さり、そしてその後に復活されました。それによってイエス様の十字架の死によって、それを信じる私たちの罪、今までの罪もこれからの罪も全部、赦されているのです。

神様は私たちに約束をして下さいました。

①人生にはいつでもやり直しがきくこと。

②人生の中で起きる出来事は、全て益になり、プラスになること。

③人は誰もが、役に立つ存在であって、すでにもう世の光であること。

④人生の終わりは、人生の初めよりも更に良くなっていること。

これが福音なのです。

イエス様という土台の上に自分の家を建てましょう。自分の考えやお金、他人の評価、地位や名声という土台の上に建てた家は、はたから見たら立派に見えますが、試練の時に違いが出てきます。それらは永遠には続きません。すべては一時的でとてももろいものだからです。

しかし、イエス様を土台にして自分の家を建て上げた人々は、その人の家はしっかりと頑丈であり、どんな荒波にのまれようとも、びくともしないのです。

イエス様は御自分のことを、ヨハネによる福音書14章6節にありますように「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました。つまり、イエス様こそが真実なのです。何事にも左右されることのないお方です。ヤコブの手紙 1章22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」さらにヤコブの手紙 2章26節には「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。」とありますように、御言葉をただ聞くだけの者にならないで、行う者になりなさいと聖書には記されています。

 

サッカーの試合をやっていますと、選手は監督からの指示や采配がとても重要になってくるのです。その監督からの指示で、指示されたポジションに行くと、ボールが流れ込んで、得点をすることが出来、思いもよらないスーパープレーが出来ることがあります。

私たちにも、人生の素晴らしい指導者、イエス様がおられます。その御言葉は確かであって、間違いがないのです。タイミングも正確で、時にかなった、その時にしかない指示を出されます。

 

あるクリスチャンのブラジル人サッカー選手を最後に紹介して終わろうと思います。

1993年、日本のプロサッカーリーグ、Jリーグが開幕したときに、ビスマルクというブラジル人選手がいました。ご存知の方も多いと思います。

ビスマルクは、ゴールを決めた後や、試合終了のホイッスルが鳴った後、片膝をついて眉間をつかみ、神様にお祈りをしていました。彼は熱心なクリスチャンのJリーガー・サッカー選手だったのです。

ビスマルクは24歳の若さで日本に来たその目的を「主イエス・キリストの証し人として日本に来た」と、言っているほどです。

「牧師は教会で、宣教師は遣わされた国で、クリスチャンは与えられた場所で、イエス・キリストの福音を語り、僕はグランドでイエス・キリストを指し示し、福音に生きるのだ。その時の聴衆は、応援に来られたサポーターなのだ。そこで僕は、僕自身が今仕えているイエス・キリストがどういうお方かをサッカーを通して、言葉や行動で語るのだ。」

そうビスマルクは、サッカーを通してこのイエス・キリストを、大胆に語ろうと決意していたのです。

ビスマルクは、「僕のすべてはサッカーではない。僕のすべては、イエス・キリストなのだ。」と、日本でプレーし続けました。

ビスマルクは試合に臨む時、常にベストな状態を心掛けていました。それは、ビスマルク自身の最善を主に献げるためだからです。一生懸命に練習すれば良い試合が出来るし、結果的には良いプレーができ、イエス・キリストを語るチャンスがある。救い主イエス・キリストを多くの人々に話したいし伝えたい、そのために力の限りを尽くして練習し、全試合、精一杯、神様の栄光のためにプレーをしていました。

ある日の試合前にビスマルクは、控室で祈っていました。

「これからグランドに立ちプレーする僕の全てが、神の国のものでありますように。僕の体は聖霊の宮ですから、僕が生きているのではなく、僕のために命を投げ出して下さった方が生きているのです。この体を通してイエス・キリストの栄光を顕わして下さい。」と、祈っていました。そして、ゴールを決めた時も、その場にひざまずいて「主の栄光がありますように。」と祈っていました。

試合が終わった時も「神様、試合を守り、導いてくださって感謝します。チームメイトはグランドでとても良い活躍が出来ました。また、怪我もなく守って下さったことを感謝します。そして、僕もプレーを通してイエス・キリストのことを伝えるチャンスができ、神様の栄光のためにプレーできたことを感謝します。」と、尽きない感謝と賛美を、グランドにひざまずいて主に献げたのです。

ビスマルクは、イエス・キリストの福音を伝える宣教師として日本へ遣わされたと確信しています。

ビスマルクは、この救い主イエス・キリストに従い、神の国に属することなら、雑用のボール拾いでも荷物持ちでも何でもやらせて頂きたいと願っていたほどでした。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」とイザヤ書 55章8-9節に記されています。

今起っていることは、我々の目から見れば、困難なことかもしれませんが、必ず意味のあることです。神様の視点は、私たちの視点とは全く異なります。神様は、今だけではなく過去も未来も、すべてを見通しておられるのです。

ローマの信徒への手紙 8章28節には、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と、記されています。

神様は私たちお一人お一人にご計画をお持ちです。たとえ現在が苦しみや悲しみや痛みの中にあったとしても、神様を信じて従う者を、神様は決して失望には終わらせません。どんなことでも神様は見事にアレンジして下さり、最後には良き事に変えて下さるのです。ですから私たちはどんな時でも、安心して生きていくことが出来るのです。

いきなり大きな事をやるのは、難しいです。ルカによる福音書 16節10章に「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」仮にもし出来たとしても、「砂の上に家を建てた愚かな人」のように、崩れるのもあっという間でもろいです。焦ることなく自分のペースで、「岩」というイエス様という土台の上に一歩一歩忠実に人生を建て上げて行きましょう。

今日のメッセージの説教題は、『継続は力なり』とつけさせて頂きました。大きな事を成す必要はありません。それぞれが今置かれている場所で、与えられた小さな事を一つ一つ忠実に心を込めて行っていくことが大切なのです。

どんな状況であってもどんなときであっても、私たちに必要な知恵と力を下さり、私たちを支え、行くべき道を示して下さるイエス様と共に、これからの信仰生活も一歩一歩忠実に歩んで参りましょう。

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日曜礼拝(2015年10月4日)

2015-10-04 13:01:41 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第二十)      2015.10.4

元罪人へのインタビュー」 ルカ15:11~24

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝いたします。中岡姉と樋口姉の賛美とピアノ感謝でした。 今日は、ルカによる福音書15章11節から24節を通して、「元罪人へのインタビュー」と題してお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、思うようにならない人生だけど

 今日の説教題「元罪人へのインタビュー」で、今日の箇所がすぐにわかったという人はあまりいないと思います。ニュースでよく元信者とか、元何々という人がインタビューを受けている場面があります。顔を隠し、声を変え、インタビューに答えるという場面を見たことがあると思います。悪いことをした、罪を犯した人が当時の様子を語るわけです。自分の、その時の心境を切々と語るわけです。

 今日の聖書の箇所は、最も有名な放蕩息子のたとえ話です。父からもらった財産を湯水のように使い果たし、飢饉に見舞われて食べる物も食べられず、仕事にありついたけれども、食べることができない。もう、俺の人生は終わりだと悟った時、父を思い出した。自分の家を思い出した。そこには、豊富な食べ物があり、喜びがあり、楽しみがあった。家族や仲間がいたのです。そのことを思い出した時、彼は我に返ったのです。その時、インタビューしたら、18節、19節の言葉だと思ったのです。

 皆さんと一緒に、18節、19節を読みましょう。「ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』」

 お父さんに何か言いたいことはありますか、との質問に「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と父に向って叫ぶのです。

 この男、次男はいいかげんな男だったでしょう。兄とは違い仕事も適当、まじめにしいない。さぼってばかり。やる気がない。お父さんの目をごまかして、いつも仕事から逃げ、人生からも逃げていた。そんな彼は、いつも兄と比べられる。りっぱな兄、できる兄、まじめな兄、勤勉な兄、誰が見ても、兄の方が上、りっぱ、そんな兄と比べられて、いつも劣等感を持ち、ひねくれていた。だから、家を飛び出したいといつも思っていた。そのためにはお金がいる。そして、ある日、思い切って父に、自分がもらえる財産を要求した。すると、父はあっさりと財産を分けてくれた。莫大な財産を手にした弟は、自分が偉くなったような、りっぱになったように錯覚し、家を出て、遠い所に行き、仕事もせず、毎日、贅沢に遊び暮らした。悪友と言われる人々が群れて来た。そして、金を使い果たした時、その友は、離れて行った。誰一人彼のそばにとどまる者はいなかった。

 落ちていく人間のワンパターン。よくテレビドラマや映画に出てくる内容でしょう。私たちの人生にも、何をやってもうまくいかないという時があるのだと思うのです。

 

 二、本心に立ち返る時がある

 テレビドラマや映画では、さらに落ちて、悪に手を染めて死んで行くというものでしょう。しかし、この弟はそうならなかった。もう自分の人生が終わりだ、という時お父さんを思い出したのです。いや、お父さんだけではなく、天に対して、神様に対して悔い改めたのです。

 小さい時、父から神様の事を聞いていたでしょう。ユダヤ人なら、トーラー、聖書の言葉、律法を教えられたでしょう。この時彼は、父に対して申し訳ないことをした。罪を犯したと悔い改めたのです。それだけではなく、子どもの頃、父から教わった神様に対して罪を告白したのです。

時があります。子どもの頃、教会に来ていたけれども、今は来ていないという子どもや孫がいるでしょう。今、自分の子どもや孫が、かつては教会に来ていても今は来ていないことにがっかりすることはありません。時があります。必ず、お父さんやお母さんの信仰を思い出す時があります。子どもの頃、教会や教会学校で語られたイエス様の十字架の愛を思い出す時があります。もしかしたら、それはあなたの告別式かも知れません。でも、必ず、そのような時を神様は導いて下さいますから、この父のように、待つことです。信じて待つことです。祈りながら待つことです。神様は、あなたの心の苦しみや痛みをよくわかっておられるのですから。大丈夫です。安心してイエス様にお任せしましょう。「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)

 不真面目で、まだ父親が死んでもいないのに財産を求めるような非常識な人間、どうしようもない彼ではありましたが、「我に返った」のです。リビングバイブルには、「やっと目が覚めました」とあります。現代訳聖書には、「その時、彼はやっと自分の悪かったことに気付き」とあります。

悔い改めたわけです。私たち人間は、罪を犯します。罪を犯さない人間は誰一人存在しません。私たちは、アダムとイブが犯した罪、その罪の性質を引き継いでいるのです。だから、悪いことを教えられなくても、人間は罪を犯すのです。私たちには罪があります。そして、罪ある者は裁かれると聖書は記します。しかし、神様は私たちを愛して、その裁きから私たちを救うために、イエス様をこの人間の世界に送られたのです。それがクリスマスです。そして、罪ある私たちが、本来裁かれなければならないのに、神様は私たちを愛して、私たちの罪を赦し、私たちの魂を救うために、罪のないお方、神の子であるイエス様を十字架につけて、私たちの罪の身代わりにイエス様が裁かれ、尊い血を最後一滴まで流、その命を持って、死を持って私たちを救って下さったのです。

 

 三、すでに赦されている罪

 この弟は、父を思い出し、神様を思い出して、悔い改めて、父親の元に帰って行くのです・父親は、この変り果てた弟を見て、自分の息子であるとわかり、走り寄って彼を抱きしめたのです。弟は、父に悔い改めますが、父は、それを止めて、彼に息子であることを認めるしるし、服を着せ、指輪はめ、足に履物を履かせ、そして、子牛をほふってパーティーを開いたのでした。

 今日の説教題は、「元罪人へのインタビュー」です。元罪人。この弟は、父親に謝って、父親に悔い改めて、初めて許されるのではないかとお考えになるかも知れません。しかし、この父親は、おそらく、この弟が出て行った時から、この弟が莫大な財産を持って行って、どうなるのかはわかっていたでしょう。ですから、この父は、この息子が家を出て行った時から、もうすでにこの弟の罪を赦していたのだと思うのです。

 この話は、神様の愛について記されてある箇所です。あなたがどのような罪を犯そうが、何をしようが、もう許されているんです。何故ならば、もうすでにイエス・キリスト様が、あなたの罪の身代わりに十字架にかかり、あなたの身代わりにさばかれ、あなたの身代わりに血を流し、あなたの身代わりに死んで下さったのです。ですから、あなたが過去にどのような罪を犯したとしても、今どのような罪を犯していても、未来どのような罪を犯すとしても、あなたの罪はイエス様の十字架のゆえに、神様の前に罪が赦されているのです。だからこそ、神様ありがとう。ごめんなさいと神様の心を開くことができるのです。大丈夫。あなたは救われています。あなたを救われた神様を信じて、この神様に、自分を委ねて、イエス様と共に人生を歩んでいきましょう。

 イエス様は、十字架で死んで墓に葬られましたが、三日目によみがって神であること証明されました。私たちには、イエス様の復活によって、永遠の命が与えられているのです。

私たちは、罪赦された元罪人なのです。心配しないで、聖書を通して語られる神様の言葉に信頼して歩みたいと思うのです。

 神様は、あなたが真面目になって、頑張って結果を出して、誰もが認める実力を持つようになった、あなたを受け入れる。認めるというのではありません。あの弟息子、放蕩息子が、ボロボロのままで、落ちぶれたままで、汚いままであったように、そのままのあなたを受け入れ、認めて下さるのです。

 罪を犯さないことは大切なことでしょう。それ以上に、罪あるままで、神様の元に来ることです。いや、神様をそのままで迎えることなのです。そのことを神様はあなたに求めておられるのです。

 

 Ⅲ結論部

 大丈夫。神様はあなたをそのままで愛しておられます。そのままの姿で神様に心を開きましょう。この週も共におられるイエス様と共に歩んでまいりましょう。

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