江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2012年7月29日)

2012-07-29 22:59:41 | Weblog
               賛美礼拝(三位一体後第八主日)   2012.7.29
 
               「神様はワイルドだぜ」 創世記45:1~8

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第五日曜日となりました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。
 先週の金曜日から日曜日まで、JF(洗礼を受けた子どもたち)の会として19名が仙台富沢教会を宿泊所として被災地訪問、ボランティアの奉仕をさせていただきました。土曜日の1日をエマオという被災地のためのボランティア団体の紹介で、七郷という地で各数名ずつ農家を訪問し、畑仕事、雑草抜き、畑の掘り起こし、野菜の収穫等、あるいはカラオケボックスの解体作業等をさせていただき、みんな一生懸命に働いて汗を流しました。また、台湾からの方々もボランティアに来ておられたので、共に数人ずつ共に奉仕させていただきました。働きを終えて、夕方に、子どもたちが自分たちの経験した事を自分の口で感じたことを話しました。
 エマオのボランティアの働きでは、震災後1年半の間で小学生が参加したのは初めてだと担当の先生がお話しして下さいました。小学生の子どもたちは、本当に貴重な体験をしたのだと思います。
 また、被災した家屋がそのままの地域や学校を訪れて、津波の脅威とその結果に驚きを感じました。きっと、この経験が彼らのこれからの信仰生活に、青葉台教会の将来に大いに生きて来るのだと思います。今日の第二礼拝後に、被災地訪問のビデオを映しますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
 さて、7月になり夏休みになっての最後の礼拝の説教題は、「神様はワイルドだぜ」です。「ワイルドだぜ」という言葉は、お笑い芸人のスギちゃん(本名:杉山英司)という人が、漫談で使う言葉です、若い人々の間でブレイクして、人気が出て、テレビ番組に出まくり、コマーシャルにも登場しています。ソフトバンクの携帯電話のコマーシャルに現在出ています。現在、GTOというドラマにも出演しています。
 「ワイルドだぜ」というのは、「だ」は広辞苑では、「文末に添えて、軽く念を押し、意味を強めるご語。主に男性の会話にもちいるぞんざいな表現。」とあります。つまり「相手に認めてもらいたい」と相手の気持ちに近づこうとしている、相手と対等な友達のような関係」と言えます。漫談で相手の気持ちに近づくということでしょうか。
 私がこの「ワイルドだぜ」という言葉を見たり、聞いたりしていて思うことは、「すごいだろう。いいだろう。」と念を押しているような感じがするのです。「神様はワイルドだぜ」とは、「神様はすごいんだぜ。」「荒らしく見えてもそこには愛がある、そんなすごいお方」そのように感じるのです。
 さて、今日は創世記45章1節から8節を通して、「神様はワイルドだぜ」という題でお話ししたいと思います。

Ⅱ本論部
 一、今までのヨセフ
 今日の個所は、ヨセフ物語のクライマックスの記事です。兄たちの恨みの思いからエジプトに売られ、一日にして生活が一変したヨセフでした。お父さんの愛に育まれてての生活から奴隷としてエジプトでの労働生活、つらい生活が始まりましたが、神様が共におられ恵みを受け、ポティファルの家で財産全てを任され、神もヨセフのゆえにポティファルの家を祝福されました。けれども、主人の妻の誘惑と偽りにより、奴隷から囚人となりました。しかし、神様が共におられ牢獄の中でも恵みが与えられ囚人の全てがヨセフに任せられました。ある日、ファラオ王の給仕役の長と料理役の長が王の怒りに触れて、ヨセフのいる牢獄の中に入れられ、夢を見て悩んでいました。その夢をヨセフが解いて、ヨセフは給仕役の長がヨセフの夢の通りに、三日後に復職できたら、自分のことをファラオ王に無実の罪で牢獄に入れられていることを話してほしいと頼みましたが、給仕役の長はヨセフの事とヨセフの願いを忘れてしまいました。しかし、2年後に、ファラオが不吉な夢を見て、エジプト中の知者を呼び、夢を解くように命じた時に、給仕役の長はヨセフを思い出し、ファラオ王に申し出て、ヨセフはファラオ王の前に召し出され、王の夢を解き、飢饉に備えて、知恵ある人を立てて、エジプトを治めるようにとアドバイスしました。
 王と家来たちは、ヨセフの言葉に感心して、ファラオ王は「お前をわが宮廷の責任者とする」と総理大臣に任命したのです。
7年の大豊作の後に、大豊作が忘れられるような飢饉が訪れ、ヨセフの兄弟たちもヨセフの前に食料を買いに来ました。そして、ヨセフは兄弟たちをスパイだと言って、シメオンを人質に、自分の弟ベニヤミンを連れて来るように命じました。兄弟たちは、食料がなくなり再び、食料を買いにヨセフの前にベニヤミンを連れて来ました。そして、ヨセフは家来にベニヤミンの袋の中にヨセフの銀の杯を入れて、盗みをしたというように仕向けるように命じ、兄弟たちはヨセフの物を盗んだということで、ヨセフの元に連れてこられました。ユダは、自分たちがかつて弟(ヨセフ)の悲しみを理解せず、エジプトに売り飛ばし、父にヨセフが死んだと思わせた。そのことを神が暴かれ、自分たちは今このような目にあっている、とその罪を悔い改めたのです。その話を聞いた後が今日の個所になります。
 ヨセフは兄たちにエジプトに理不尽にも売り飛ばされて、とてもつらい経験、さびしい経験をしました。けれども、ユダを通して兄たちが自分をエジプトに売った事に関して心痛めていること、悔い改めていることを知りました。ですから、自分が今エジプトの総理大臣という立場を装うことができなくなって、兄弟以外の人々に出て行くように命じました。そして、ヨセフは兄弟たちに、自分が弟のヨセフであることを明かしたのです。
 ヨセフの歩みは山あり谷ありの連続でした。神様が共におられたのは事実でしたが、ぬれぎぬにより奴隷から囚人となりました。人生のどん底に落ちました。けれども、神様は見捨てませんでした。共におられました。けれども、忘れられるという辛い経験もしましたが、その忘れられることが2年後に恵みに変えられました。何か、喜んだり悲しんだり、上がったり落とされたりの生涯。「神様、もっとスマートにお願いします。恵みだけをお願いします。」とヨセフになり変って、神様にお願いしたいような気持ちです。私たちも自分の信仰生活を見て、もっとスマートに、恵みだけをいただきたいと願うように思うのです。

 二、因果応報か
 皆さんと共に、3節を共に読みましょう。「ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」 ヨセフはやっとの思いで自分のことを明かすことができました。本当はもっと早く自分の事を話したかったのかも知れません。そうすれば父にも早く会えたのかも知れない。ヨセフは胸のつかえがとれたことでしょう。一方、兄たちは、自分たちがエジプトに売り飛ばした弟のヨセフが、今目の前にエジプトを治める最高権威者である事を見て知って驚いたのです。
 4節には、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。」と言っています。ヨセフにとって、自分がエジプトに兄たちに売られたという出来事は、本当に辛いことでした。そして、兄たちもやはりヨセフを売ったということは、一人ひとりの心の中に忘れることのできない出来事として、悪いことをしたという罪の意識を取り払うことは出来なかったのです。ですから、ユダは自分たちがヨセフに盗みを罪を着せられたとき、その事が影響していると考えたのです。
 私たちも何か悪い事が起こると、問題が起こると自分のした悪いことが原因ではないかと自分を責めることはないでしょうか。きっと、あの事が今のこの問題を引き起こしていると苦しむことはないでしょうか。罪の呵責がないでしょうか。もうあるならば、罪の赦しをまだ経験していないか、イエス様の十字架の意味をまだ理解していないかのどちらかだと思います。イエス・キリスト様は、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪の全ての身代わりに十字架にかかって死んで下さり、全ての罪を赦して下さいました。私たちの犯す全ての罪が、イエス様の身代わりの十字架で赦されたのです。ですから、神様の前に、イエス様の前に、「ごめんなさい」と自分の犯した罪を告白したなら、その罪は赦されているのです。言い換えれば、その罪はすでに十字架によって赦されているのです。赦しが先です。悔い改めたから救われるのではなく、もうすでにイエス様の十字架の死で、その罪が赦されている。だから、イエス様の前に、「ごめんなさい」が言えるのです。
 5節を共に読みましょう。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」
 兄のユダを代表して、「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」(44:16)とあるように、自分たちの罪が明らかにされたことを示しています。けれども、ヨセフは、自分をエジプトへ売ったことを悔やむことも責めることも必要ない、と言ったのです。兄たちがしたことは人間のすることではありません。ひどいことです。あってはならないことです。それを悔やむことも責めることもないというのです。ここに許しがあります。ヨセフは恨んでも、責めてもいいのです。そのようなことを兄たちはしたのですから、けれども、ヨセフは許したのです。そこには、はっきりとした理由があったからです。私たちにも人が私に犯した罪を許す理由があります。それは、イエス様の十字架です。私たちは、イエス様の十字架で自分の罪が赦されたのですから、人が私に犯す罪も許す者になりたいと思うのです。


 三、全てが恵みに変わる
 7節を共に読みましょう。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」
 ヨセフがエジプトへ売られたのは、神がヨセフを先に遣わされたということ。エジプトでヨセフの家族を養い、大いなる救いを与えるためだとヨセフは言いました。そして8節です。共に読みましょう。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」 兄たちは、ヨセフをエジプトへ売り飛ばしましたが、ヨセフは「わたしをここへ遣わした」と表現しました。だから、そのことは神がした事ですと神様の背後にある導きを信じたのです。これこそが信仰だと思います。
 ヨセフとしては、辛い中で我慢し、頑張りもしました。努力もしました。その結果、報われることもあったでしょう。けれども、兄たちの理不尽な仕打ちも、自分の努力や頑張りを遥かに超えて、神様ご自身がこのことを成された。つまり、自分が兄たちによってエジプトに売られたのは神様のくすしきみ業であったのです。ひとつ、ひとつの事柄を見るとつらいことが多くあります。エジプトに売られた。奴隷になった。無実の罪で罪に問われた。忘れられたと一つ、一つの事柄はいやなことです。けれども、それを神様の導き、み業、神様の救いの過程だと見ると、その辛い経験が、嫌な経験が、恥ずかしい経験が、神様の恵みを、祝福を得るためだと見ることができるのだと思うのです。ですから、ヨセフは兄たちに、「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と言いきったのです。
 私たちも、自分自身の日常生活や信仰生活、家庭や社会生活において、一つひとつを見れば、いやなことつらいこと、悲しいこと痛いこと、恥ずかしいことがたくさんあります。そして、その一つ一つだけを見て、がっかりしたり、悲しんだり、落ち込んだり絶望したりするのではないでしょうか。その一つひとつの辛い経験は、神様が私たちをいじめておられるのではありません。罪を犯したから、悪いことをしたから、その報復で悪い事柄が起こるのではありません。神様の恵みと祝福を経験するためです。「神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」とヨセフが語った通りなのです。
 今苦しんでいますか。悲しみがありますか。痛んでいますか。恥ずかしい経験がありますか。それは全て祝福に変わります。恵みとなります。大丈夫、神様が共におられあなたの人生の祝福を約束をしているのです。なぜなら、すでに約2000年前に神の子、罪のないお方、イエス・キリスト様が私の、あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死に、よみがえって下さったことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。そして、神様と共に歩む人生が始まりました。ヨセフのように、神様が共におられても、悲しみや苦しみを経験します。それは神様が共にいるということを否定するものではありません。神様が共におられても、悲しいことや苦しいことも経験するのです。そかし、これらの経験は、神様の祝福を経験するためです。恵みを受けるためなのです。そのことを聖書は、今日私たち一人ひとりに語っているのです。

 Ⅲ結論部
 ヨセフの生涯は波乱に富んだ人生でした。もっとスマートに何とかならないかとも思います。神様が共におられるのなら、問題が何も起こらないように、いいことばかりをして下さったらいいのにと私たちは思います。ヨセフは辛い経験をしました。兄弟に裏切られ、主人の妻に裏切られ、夢を解いて幸せにしてあげた人から忘れられ裏切られました。けれども、そのような経験を通して、どの兄たちよりも自分がお父さんに愛される存在だと自負に、兄たちを見下げたり、自分中心で世界が回っているというような自己中心の彼が、苦難や悲しみを通して、ねられ、きよめられて、人格者となりました。もし、何も経験せずに、わがままなヨセフが総理大臣になっていたら、国を生かすどころか国を壊すものとなっていたのかも知れません。神様は、彼を総理大臣にするため、彼を訓練されました。必要な試練や悲しみ、痛みでした。
 兄たちに裏切られ、多くの人に裏切られ、忘れられる中で、神様が共におられることの大きな恵みを経験しました。人ではなく、神様に信頼することの確実性、真実をしりました。そして、全ての経験は神様の恵みと祝福に到達することだと身をもって知ったのです。
ヨセフのこの経験は、私たちの経験でもあります。今の苦しみが、悲しみが、痛みが、問題が、恥ずかしさが、弱さが、絶望が神様の意図した恵みと祝福へと導くのです。大丈夫、何も心配することはない。イエス様はいつもあなたのそばにいます。だから、問題があっても、マイナスが訪れても安心してイエス様に全てのことをゆだねましょう。自分だけで負うことはないのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われるイエス様のもとでいこい、元気をいただきましょう。
神様は、心やさしいお方、愛なるお方です。また、私たちを問題や困難に委ねる「ワイルド」なお方でもあります。いや、神様は祝福と恵みに満ちておられるお方なのです。「神様はワイルドだろ!」そのように思うのです。この神様に信頼して、この週も歩んでまいりましょう。
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日曜礼拝(2012年7月22日)

2012-07-22 15:24:20 | Weblog
『私たちの確信』


2012年7月22日
青葉台教会 礼拝
稲葉基嗣


【価値が揺れ動く時代】
様々な物の価値があまりにも簡単に揺れ動く時代に、私たちは生きています。
流行はあっという間に過ぎ去って行き、人々の好みは瞬く間に移り変わっていきます。
私たちが信じて疑わなかったものが、突然信じられなくなる時もあります。
昨日までの非常識が、今日から常識になることも、
今日までの常識が、明日から非常識になることだってあります。
そのような現実の中、私たちは信仰を持って、日々生きています。
度重なる試練、
自分の信仰に対する批判や非難の声、
信仰者としての理想と現実の間にある葛藤などに、私たちは直面します。
この世の中には、あまりにも多様な価値観があり、キリスト者としての価値観を脅かしま
す。
最早、真理は何処にあるのかさえわからなくなるほど、情報が溢れています。
人々は叫びます。
結局何が正しいことなのか、一体何処に真理があるのか、と。
そうやって、私たち自身も揺り動かされていることに気付きます。

【ヨハネの教会の人々の戸惑い】
今日開かれたヨハネの第一の手紙の読者である、著者ヨハネの教会の人々は、
この手紙を受け取った当時、戸惑いを覚えていました。
彼らは信仰の根本である、イエス・キリストへの信仰が揺らいだのです。
その原因となったのが、ヨハネの教会の人々の中に現れた偽教師たちの存在でした。
彼らは言います。



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キリストは人となってこの世に来たわけではない、と。
その上、彼らは自分たちは特別な信仰の知識を持っていると言って、
自分たちの理解するような信仰を持たない人たちを見下しました。
最終的に、このような偽教師たちは出て行きましたが、
残された人々は、戸惑いを覚え、信仰が揺れ動かされました。
本当に、今自分たちが信じているようにキリストを信じていいのだろうか、と。
このように戸惑いを覚えている教会に、ヨハネはこの手紙を書いたのです。

【水と血による証し】
ヨハネはこの手紙をもうすぐ終える上で、手紙の読者に確信をもってこう伝えています。

5:6を見てみましょう。
この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではな
く、水と血とによって来られたのです。(Ⅰヨハネ5:6)

水と血とは、それぞれキリストのバプテスマ(洗礼)と十字架を指している言葉です。
ここでヨハネは、キリストは「水だけではなく、水と血とによって来られた」(5:6)
と言うことによって、キリストの十字架上での死を強調しています。
というのは、偽教師たちがこう考えたからです。
イエスは、ただの人として生まれ、バプテスマの時にキリストの霊を受けた。
そして、十字架に架かって死ぬ前に、そのキリストの霊は彼から離れていった、と。
このような偽教師たちの誤った考えに対して、ヨハネは言うのです。
そうではない。
イエス・キリストは一人の方である。
水によって、洗礼によってイエスはキリストになったわけではない。
彼は生まれた時から、十字架の上で死んで、復活し、そして永遠に至るまで、人であり、
神なのである。
彼は確かに洗礼も、十字架上での死も経験されたのだ。
イエスはキリストなのだ、と。
なぜここまで、ヨハネはこの問題にこだわるのでしょうか。
それは、イエス・キリストが人であり、神としてこの地上での生涯を歩まないと、私たち
の救いが成り立たないからです。
神であるイエス・キリストは、私たちと同じように肉体をもってこの地上を歩まれること
によって、
私たちの弱さ、罪、そこから来るうめき、苦しみを全て担われたのです。
罪に苦しむ人間を救うために、神であるイエス・キリストは、人としてこの地上の生涯を
歩まれたのです。
この救いの理解は、決して歪ませてはいけなかったのです。
イエスは死んだ時、ただの人であって、キリストではなかったと考える偽教師たちの考え
は、



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私たちに与えられている救いをまったく無意味なものにしてしまうものだったのです。
だから、ヨハネは十字架の死においても、イエスはキリストであったと強調するため、
「水だけではなく、水と血とによって来られた」と語ったのです。

【聖霊による証し】
ヨハネは続けてこのように語ります。

そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。(Ⅰヨハ

ネ5:6)

水と血だけでなく、聖霊もキリストを証しするのです。
聖霊はキリストの内にある真理を証します。
ただ、私たちがイエス様の生涯を見るだけでは、その意味はわかりません。
聖霊が私たちに働きかけてくださっているからこそ、私たちは知ることができるのです。
キリストの洗礼の意味を。
彼自身は罪がないのにも関わらず、キリストは私たちに先立って、罪の悔い改めの洗礼を
受けられ、模範を示されました。
そして、私たちは十字架を見つめる時、知るのです。
キリストが私たちの罪を背負い、十字架の上で苦しまれたということを。
これらの出来事の内にある真理を、聖霊が私たちに証しするのです。
だから、8節では聖霊、水、血という順序に変わっているのです。

証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています。(Ⅰヨ

ハネ5:7~8)

聖霊が、私たちの心に水と血を封印するのです。
聖霊がキリストの出来事を私たちの内に書き記しているのです。
聖霊が私たちの目を開き、キリストの真理を見つめさせるのです。
だから私たちは願います。
主よ、聖霊を通して、私たちのこの心の目を開いてください、と。
パウロがエフェソの信徒への手紙で書き記した祈りを、私たちも共に祈りましょう。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あ

なたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、

心の目を開いてくださるように。(エフェソ1:17~18)

【キリストの死こそ、神の愛の証し】
さて、この霊と水と血の三者が証しするのはキリストですが、
この三者はキリストの死を指し示しています。
水と血という言葉は、この手紙の読者であるヨハネの教会の人々にヨハネによる福音書



page 4

19:34を思い起こさせました。
そこにはこう書かれています。
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水と

が流れ出た。(ヨハネ19:34)

そして、聖霊が与えられたのは、キリストの死後です(ヨハネ7:39)。
そう、霊と水と血の三者は、キリストの死を証しする点で一致しているのです。
しかし、キリストの生涯の中で、なぜ彼の死を一番に示すのでしょうか。
なぜこの三者は口を揃えてキリストの死を証しするにでしょうか。
彼の起こした奇蹟でもなく、彼の語った言葉でも、彼の行いでもなく、
なぜ、彼の十字架上での死を証しているのでしょうか。
この手紙の3:16にはこう書かれています。

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。(Ⅰヨハネ3:

16)

そう、私たちのために、彼は十字架に架けられたのです。
そして、私たちのために死なれたのです。
私たちの抱える罪をすべて背負い、彼は十字架の上で死なれたのです。
愛すべき人たちを愛せず、妬んだり、憎んだりしてしまう、この私の罪のために。
この世界の中で、誰からも愛されていないと思い、孤独を感じているこの私のために。
神に愛されているのに、神に背く生き方しかできない、この私のために。
主イエスは、すべて背負って、十字架の上で死んでくださったのです。
それは、私たちを愛し、この上なく愛されたからです。
このような私たちの抱える罪のために神から受ける裁きを全て、
キリストが負われたのです。
だから、ヨハネは高らかに宣言しています。

ここに愛があります。(Ⅰヨハネ4:10)

十字架上でのキリストの死、そこに示された神の愛が、
私たちの内で響き続けているのです。
たとえ、私たちの心がどれほど揺れ動かされようとも、
十字架に示された神の愛は、変わらず私たちに示されているのです。
神は独り子であるキリストを十字架に架けられる程に、私たちを愛してくださったので
す。
神は私たちに語りかけておられるのです。
私はあなたを愛している、と。
十字架を通してなされた、この神の愛の宣言が聞こえてこないでしょうか。



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【神による証し】
9節にはこう書かれています。

わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさってい
ます。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。(Ⅰヨハ
ネ5:9)

そう、十字架に示された愛こそ、ここに愛があるという、神の証しなのです。
私たちの信仰は、この神の証しに基づいているものです。
最早、私たちの信仰は、私たち自身には基づきません。
神が私たちに証をし続けているのです。
霊と水と血によって。
神の愛を。
聖霊は私たちの内にキリストの十字架に示された神の愛を刻むのです。
たとえ、この心が揺れ動こうとも、
神の証しに拠って立つ私たちの信仰は揺るがないのです。
この世界には、あまりにも多様な価値観があり、私たちの価値観を脅かします。
しかし、この世界の価値観は、簡単に移り変わっていきます。
その一方で、神の証しはただひとつの方向を指し示し続けています。
主イエス・キリストです。
だから、パウロがローマの信徒への手紙で書いているように、私たちもこう確信するので
す。

わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のも
のも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるも
のも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示さ
れた神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:
38~39)

【神の証しの結果、私たちに与えられたもの】
さて、このような神の証しの結果、私たちに与えられたものがあります。
それは永遠の命です。

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この
命が御子の内にあるということです。 (Ⅰヨハネ5:11)

永遠の命とは、父なる神と子なるイエス・キリストとの交わりに生きることです。
そして、その交わりに加えられた兄弟姉妹と共に生き、愛し合うことです。
この永遠の命を伝えることこそが、この手紙を書いたヨハネの目的でもありました。


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神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠

の命を得ていることを悟らせたいからです。(Ⅰヨハネ5:13)

「永遠」という言葉は、来るべき時代に属するという意味があります。
来るべき時代とは、神の御国のことです。
神の御国に属する命が、将来与えられるということではありません。
今、もう既に与えられているのです。

【私たちの確信】
私たちはこのような確信の上に立っているのです。
揺れ動くこの世の中にあって、私たちは確かなものを持っているのです。
だから、喜んで、この永遠の命に生きようではありませんか。
父なる神と子なるイエス・キリストとの交わりに生き、
その交わりに加えられた兄弟姉妹と共に生き、互いに愛し合うのです。
この地上で生きる限り、私たちの理想通りにそれらができるとは限りません。
しかし、それによって失望してはいけません。
私たちは少しずつ、少しずつ、神の御国に近づく歩みをしているのですから。
だから、永遠の命に生きる時、少しずつ、少しずつ、
その交わりが完成へと近づいていくのです。
だから、希望を持って、私たちは神と交わりを持つのです。
兄弟姉妹と愛し合うのです。
たとえ傷つけ合う現実があったとしても、この関係を望み見て、私たちは愛するのです。
主イエスが愛されたように。
この希望が私たちの確信です。
なぜなら、私たちはキリストの十字架上で示された愛という神の証を受け、
永遠の命に生きることを許されているのですから。
喜んで、私たちはこの永遠の命という交わりに生きようではありませんか。
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日曜礼拝(2012年7月15日)

2012-07-15 12:39:34 | Weblog
                 日曜礼拝(三位一体後第六主日)   2012.7.15

                 「絶妙のタイミング」 創世記40:20~23、41:37~45

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第三日曜日を迎えました。今日も暑さの中ではありますが、愛する兄弟姉妹と共に、私たちの救い主イエス様を礼拝できますことを感謝致します。
 先週、納豆は5粒食べたとお話ししましたが、今週はさらに前進しました。山中湖での、教会教育のカリキュラム委員会で、別荘での缶詰状態の作業で、中出先生が納豆を買っておられて、先週お話ししたように次回納豆を食べるなら、7月10日の納豆の日がいいということで、その日の夜、普通の納豆を10粒ほど食べました。あまり臭いとかまずいとかという感覚はありませんでしたので、次の日の朝、納豆の半分を食べました。今まで感じていた納豆のあの、クサーイという臭いは感じられなくて、そんなにおいしいとは思いませんでしたが食べることができました。金曜日の朝の、伝道専門委員会の朝の食事でも、納豆を一人分を食べて、克服することができました。これは本当にすごいことです。
 「納豆を食べることができますように」と祈っていたわけではありません。頑張って、苦労して、何度もチャレンジして食べることができるようになったというわけではありません。今まで感じていた臭さや納豆に対する拒否する感覚があまりなくなっていたのです。
 考えてみると、一ヶ月半前から食事を野菜中心に切り替え、お米やパンという炭水化物を食べないように、少なくして、肉も食べないように、極少量にしていたので、体の変化があって、「納豆を食べてみようかなあ」というようなとんでもない思いが与えられ、納豆を臭ってみたらそんなに臭くもない。別に何にもないというような感じで食べることができました。神様の導きというのは、そのようなものであることを感じました。
 伝道しなければならないとあれこれと考え、努力するというよりも、自然に「教会に来ない」「わたし教会に行っているの」と語ることができる。がんばらなくても、しなくければならないというのではなく、教会の奉仕を喜んで、感謝して鼻歌交じりで奉仕している。
礼拝に何としても休まないで頑張っていないと、というのではなくて、もう礼拝に出席することが自然で、喜びで、考えなくても教会に足が向いている。そのようなことではないかなあと納豆の件で感じました。私は、納豆を食べるのに32年間かかりました。それならば、人が教会に来るのに、救われるのに、もしかしたらそれなりの期間がかかる人もいると思います。ですから、私の家族は導かれないと自分を責めたり、がっかりしたり、あきらめたりするのではなく、自然に、喜んで、神様の導きに期待して歩もうではありませんか。「大丈夫、私に全てを任せなさい。」と言われるイエス様に信頼して、今日もイエス様に期待して、み言葉を待ち望みましょう。

 Ⅱ本論部
 一、忘れられて幸せかも
 先週、私たちはヨセフの歩みを通して、神様が共にいて下さることの恵み、幸いを見させていただきました。ヨセフは、牢獄(刑務所)に入れられ、奴隷よりもさらに悪い囚人となってしまいましたが、「主が共におられたので」看守長は、囚人を全てヨセフに任せました。ある日、ファラオ王の給仕役の長と料理役の長が王の機嫌をそこねたのか、失敗をして、ヨセフのいる牢獄(刑務所)に入れられ、二人共に夢を見たのです。
 二人がその意味が分からないで憂鬱な顔をしていたのでヨセフが尋ねると「夢を見たが、その意味が解らない、」と言うのでした。夢を解く力が与えられているヨセフは二人から夢の内容を聞いて解き明かしました。給仕役の長は三日後に仕事に復帰できる。料理役の長は、三日後に木にかけられるという内容でした。
 この時、ヨセフは給仕役の長に願うのです。「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」」
 夢の解き証の良い結果に、仕事に復帰できたあかつきには、便宜をはかってくれというものでした。この世のやり方ではないでしょうか。ヨセフとしては、確かに自分の罪のゆえでも、失敗のゆえでもなく、無実の罪で牢獄に入れられたのですから、無実なので最高の権力者であるファラオに取り計らって欲しいと願うのは当たり前です。「ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」と言ったように、そのことは当然、共におられる神様も御存知なのです。ヨセフは、ファラオ王の力、この世の権力に頼ろうとしたのです。そのようには思っていなかったのかも知れませんが、結果的にはそうなのです。
 私たちは、この世に生きる者としていろいろなものを与えられています。ですから、その与えられたもの、財や権力、役職、その他を使うことは許されています。けれども、その全ては神様から来ていることを忘れて、この世のそのもののみに信頼することは神様の喜ばれることではないと思うのです。ヨセフは、自分に与えられた夢を解くという力を通して、給仕役の長に恩を売り、牢獄から出ようと思ったのでした。
 23節を共に読みましょう。「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」これが現実です。頼りの綱であった給仕役の長は、仕事に復帰できた喜びのあまりでしょうか、ヨセフのこと、ヨセフの願いをすっかり忘れてしまったのです。
 私たちもお願いしたことを忘れられることがあります。私自身の事を忘れられるということもあるでしょう。ヨセフとしたら、自分の夢の解き明かしで給仕役の長は仕事に復帰できたのに、ヨセフは自分を忘れるとは何たることかと悲しんだことでしょう。しかし、この忘れられた、ということが、忘れられるということ自体を通して、このことが、これから後の祝福、神の大いなる業につながるのです。
 私たちも忘れられた、という経験が、苦しみが悲しみが生きて働く時があるのです。必ずマイナスと思えることを神様はプラスにして下さるのです。

 二、何も起こらないはこれから起こるのです
 41章1節には、「二年の後、ファラオは夢を見た。ナイル川のほとりに立っていると」あります。ヨセフは給仕役の長に忘れられてしまいました。エジプトに奴隷として売られ、無実の罪で囚人とされ、もう落ちるところまで落ちたと思われるような経験をし、何かいいことが起こるかも?ファラオ王に自分の無実を話せるかも?そう願いたくした給仕役の長は、ヨセフのことをすっかり忘れていたのです。
忘れられて2年が経ちました。全ての人に忘れられたとヨセフは感じたのかも知れません。しかし、忘れておられないお方がいたのです。そのお方は、時の権力者に夢を見させるのです。恐ろしい夢、何とも不吉な夢、その夢の意味を知らないでは恐ろしい。もういてもたってもいられないそのようなファラオ王でした。
 18節には、「朝になって、ファラオはひどく心が騒ぎ、エジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めさせ、自分の見た夢を彼らに話した。しかし、ファラオに解き明かすことができる者はいなかった。」とある。 不吉な夢でした。しかし、エジプト中のどんな偉い人さえも、ファラオの見た夢を解き明かすことの出来る人は存在しなかったのです。
 19節には、「そのとき、例の給仕役の長がファラオに申し出た。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。」とあります。
 やっと思い出しました。2年経ってやっとです。ヨセフを思い出すためには2年という期間が必要でした。けれども、ヨセフにとっては、この2年間は長い2年間であり、辛い2年間でした。そして、この2年間がヨセフを、ヨセフの信仰を作り上げたと言ってもいいのではないでしょうか。
 給仕役の長に忘れられたということを通して、人ではなくて神に信頼する2年であったでしょう。そこには、何も起こらなくても、見える所が暗く、光が差し込んで来る気配が見えなくても、ただ神様を見上げて歩んだのです。先週、奴隷から囚人としてさらに悪い環境に置かれたとしても、「主がヨセフと共におられ、」とあったように、40章からは「主がヨセフと共におられ」という言葉は出てきません。出てきませんけれども、信仰の目を持って、「主はヨセフと共におられた」のです。そして、ヨセフを力づけ、励まし、強め、支えて下さったのです。
 私たちも、信仰生活の中で目に見るところ何も見えない。何も起こらない。良くならないということが確かにあります。しかし、それは神様が共におられないことを意味するものではありません。神様が働いていないということでもありません。ヨセフが忘れられる、ということが後の大きな祝福につながったように、何も起こらない。真っ暗で光が差し込まない。良くならないということ、そのものが神様の恵みと祝福を表すしるしなのです。

 三、この時のために
 給仕役の長は、ファラオ王の夢を誰も解くことがきないという状況の中で、2年前に自分と料理役の長が見た不吉な夢、その夢を解くことのできたヨセフのことを思い出したのです。ファラオの見た夢と自分の見た夢がつながったのです。ファラオ王に自分たちの見た夢を話したら、その夢を解いた人物がおり、彼の解き明かした通りに、料理役の長は木にかけられ、自分は仕事に復帰したことを告げたのです。
 わらをもつかむ思いで、ファラオ王はヨセフを呼び出すのです。夢を解ける人物こそが、夢を見て恐れおののいているファラオ王には、救世主となるのです。
16節には、ヨセフはファラオに答えた。「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」」 ヨセフはファラオ王から夢の内容を聞いて、7年の豊作と7年の飢饉について語り、知恵のある人物に国を治めさせ、備えるようにと進言するのです。
37節から40節まで共に読みましょう。「ファラオと家来たちは皆、ヨセフの言葉に感心した。ファラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人はほかにあるだろうか」と言い、ヨセフの方を向いてファラオは言った。「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにはいないであろう。お前をわが宮廷の責任者とする。わが国民は皆、お前の命に従うであろう。ただ王位にあるということでだけ、わたしはお前の上に立つ。」」
 一夜にしてヨセフは囚人からエジプト全国の責任者、総理大臣になったのです。そのきっかけは、2年前に忘れられたからでした。あの時忘れられて、ファラオ王が夢を見た時に、思い出されたから、ファラオ王の前に出て、ただ無罪の罪を告げることができ、牢獄を脱出すること以上のヨセフ自身も誰も考えることができなかった、神様の導き、神様の祝福があったのです。神御自身が、ヨセフをファラオ王の前に出させたのです。
 神様は、私たち一人ひとりを救う道をお考えになりました。それは偉大な力で敵を打ち破るとか、奇蹟や不思議な業を見せ付けて信じさせるというのではなくて、神のひとり子であるイエス様を人間の姿でこの世に送り、全人類の罪の身代わりに死ぬという、誰もが考えつかなかった救いの道でした。私たちの罪は、十字架の上で流されたイエス様の血、裂かれたイエス様の体、その命によって、身代わりの死によって、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられ、イエス様の復活により、永遠の命を持つ者とされたのです。
 ヨセフの信じる神様と私たちの信じる神様は同じです。ヨセフと共におられた神様と私たちと共におられる神様は同じです。その神様がヨセフを祝福し、ヨセフを用いて、神様のみ業をなされたように、私たち一人ひとりを祝福し、私たち一人ひとりを神様の働きのために用いられるのです。
 
 Ⅲ結論部
 私たちは、神様を信じているといってもこの世では苦しみや悲しみがあります。イエス様が共にいると言っても、人に忘れられたり、裏切られたり、仲間はずれにされたりされることがあります。けれども、神様は、辛い事ではあるけれども、悲しいことではあるけれども、苦しいことではあるけれども、その忘れられるということ、裏切られるということ、仲間はずれにされるということを通して、そのことの中に働かれて、一番良い時に、神様の時に、その苦しい、悲しい、辛い経験を喜びと感謝と祝福に変えて下さるのです。
 イエス様は言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:31) すでに世に勝っているお方が、私たちの信じる神様、イエス様なのです。だから、何も心配要らない。大丈夫。すべてお任せすればいい。マイナスもプラスに変えるお方なのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28) 万事、良い事も悪い事も、辛い事も悲しい事も益とする。祝福すると言われた神様に、イエス様にこの週も全てを委ねて歩んでいきましょう。
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日曜礼拝(2012年7月8日)

2012-07-12 12:33:26 | Weblog
                日曜礼拝(三位一体後第五主日)   2012.7.8

               「そばにいるだけでいい」 創世記39:21~23

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第二日曜日を迎えました。今日も皆さんと共に礼拝をささげることができます恵みを感謝致します。
 先週の日曜日に、笹田麗子姉が「先生、おみやげ」とある物を下さいました。それは、何と納豆でした。米沢の納豆で、味噌のような普通の納豆のようにネバネバというよりも固形の感じで、臭いもするのはするのですが、普通の納豆よりもその臭いは弱いものでした。せっかくいただいたのだからと、牧師館に帰って教会の冷蔵庫に入れておいたのを思い出して、取りに行って食べることにしました。
 勇気を出して、神様に祈り、納豆を箱から出して、ビニールの袋から出して口に中に入れました。せっかくだからとこころに写真を撮ってもらいました。5粒の納豆を32年ぶりに食べました。関西聖書神学校の1年生の時、23歳のあの苦痛の1年、毎週火曜日の朝は納豆が出て、苦痛の連続でした。あれから、32年、納豆を再び食べるなんて思ってもみませんでした。
 Facebookに写真付きで投稿しましたら、多くの方々からコメントをいただきました。歴史的な始まりとかいろいろとありました。関西聖書神学校の同期の二人の先生からもコメントをいただき、納豆のことで多くの出会いや交わりがありました。今度は、普通の納豆に挑戦してみようかとも考えています。
 さて、今日は使徒言行録から離れて旧約聖書創世記39章21節から23節を通して、「そばにいるだけでいい」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 一、
 今日はヨセフについて見ます。アブラハム、イサク、ヤコブとイスラエルの信仰継承が続き、ヤコブには12名の息子が与えられました。その11番目が、今日登場するヨセフです。ヨセフはヤコブが年をとってから生まれた子であったので、ヤコブはヨセフをどの兄弟よりも愛しました。特別に扱いました。着る服も食べるものも、態度も明らかに他の兄弟とは違うものがありました。ですから、他の兄弟からは、お兄ちゃんたちからは嫌われていたのです。そのような毎日の日常席活の中で、ヨセフに対する腹立ちや怒り、そのような思いが解決しないでいると大変な事がおこるのです。チャンスがあるととんでもないことになります。
 兄たちは、ヨセフを商人に売り、父には獣に殺されたと偽ったのです。本当は殺してしまおうとまで言ったのですが、殺すことはとどまりましたが、見殺しにしたのも同然でした。
 父に大切に育てられたヨセフは、父のもとからも家族のもとからも初めて離されて、どんなに悲しんだことでしょう。どんなに辛かったでしょう。自分の将来に対して希望を持つことはできなくなりました。ただ奴隷として一生暮らしていかなければならないということだけは理解しました。
 言葉も環境も全く違うエジプトに連れられてきて、ヨセフは大変だったと思います。相談できる相手も存在しない。冗談を言う仲間もいない。頼りになる人もいない。ただ、与えられた仕事を黙々とこなしていく。そのような中で、エジプトの王様ファラオの宮廷の役人、侍従長ポティファルに買い取られたのです。
 聖書を見ると、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」とあります。
39章3節~4節には、「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」とあります。
 どうでしょう。奴隷としてエジプトに売られ、自分のこれからの生涯に何の望みも持てないヨセフ、愛する父から引き離され、心許す人もいない異国の地で、ただおひとり、ヨセフと共におられたお方がいたのです。主が、神様がヨセフと共におられたのです。
 私たちは、家族と共に住んでいます。同じ日本語を話す人々の中で同じ生活環境の中で暮らしています。冗談を言い合う仲間もいます。けれども、私たちはいろいろな苦しみや悲しみを経験します。誰も自分の事を理解してくれないと感じる時もあります。でも、あなたのその悲しみを痛みを理解し、丸ごと受け入れて下さるイエス様は、あなたと共におられるのです。そのことを忘れないでいてほしいと思うのです。

 二、
 ヨセフは、まじめでもあったでしょう。一生懸命に働いたでしょう。努力しました。がんばりました。しかし、そのこと以上に神様が共におられてヨセフのする全てのことをうまく計らわれたのです。リビングバイブルには、「いつも神様が助けてくださるので、何をしてもうまくいくのでした。」とあります。
 条件が整ったり、タイミングがよかったり、応援する人がいたりと私たちの状況を良くするという環境的なものはいろいろとあります。けれども、どんなに良い条件が整っても神様が働いて下さらなければ、良い結果には導かれません。いや、悪い条件すら神様は良いものに変えて下さるのです。
 ヨセフは奴隷の身であったのにもかかわらず、主人の全財産を任せられました。すごい信用です。それは、ポティファルが、神様がヨセフと共にいることを理解していたからです。「あいつに任せておいたら大丈夫だ」と。だから、聖書は、「主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ。」(39:5)とあります。
 神様は、神様を信じる者を通しても神様を知らない人々を祝福することができるのです。
神様は、私たち一人ひとりを通して、皆さんの家族を、会社を、学校を、そして教会を豊かに祝福して下さるのですから、私たち一人ひとりが、神様が共におられて、全てを祝福して下さると信じて歩みたいと思うのです。
 けれども、ヨセフは主人のポティファルの奥さんから、していいないことをしたと、ぬれぎぬを着せられて、主人の怒りを買い、監獄(刑務所)に入れられてしまいました。
 人生山あり谷あり、いろいろな事があります。いいこともあれば、悪いこともあります。
突然、ラッキーなことが起こるかと思えば、とんでもない事態に出くわすこともあります。
 ヨセフは、神様が共におられて彼のする全てを祝福して下さいました。けれども、今回の事からは守って下さらなかったのでしょうか。神様には、当然助けることもできました。守ることもできました。しかし、今回、神様はヨセフがぬれぎぬを着せられて刑務所に入ることを許されたのです。
 それは、ヨセフが何か悪いことをしたとか、罪を犯したとか、神様を怒らせたということではありません。神様の大きなご計画の中にあったことなのです。やがて、彼がエジプトの総理大臣になるための必要な備え、試練だったのです。
 私たちも自分の側の罪や失敗、問題のゆえではなくて困難や苦しみを経験することがあります。その苦しみや悲しみを経験することを神様が許される場合があります。それは、神様がこれから、あなたになさろうとされるご計画があるからなのです。

 三、
 皆さんと共に、21節を読みましょう。「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、」
 ヨセフは無実の罪で刑務所に入れられてしまいました。辛いことです、いやな事です。奴隷よりもさらに悪い条件である囚人となってしまったのです。しかし、聖書は、「主がヨセフと共におられ」と記しています。私たちは、神様が共におられろということは、イコール祝福だけだと考えます。神様が共におられるので、全ての事が祝福される。健康が守られ、経済が祝福され、仕事や勉強が順調良く進む。何事もうまくいく。それが神様が共におられるのだと考えます。けれども、聖書は、ヨセフが無実の罪を着せられたその状態の中で、奴隷から囚人というさらに悪い状態、犯罪人として刑務所に入れられたその事の中にあっても神様がヨセフと共におられたと語ります。そのマイナスと見える、困難な中にも神様は共におられる。いや、たとえ私たちがどのような状況にあっても神様は共におられるのです。ですから、神様はそのマイナスの状態でも恵みを施されました。看守長の目にかなうように導かれたのです。
 ヨセフは、天国から地獄に落とされたような経験をしました。けれども、ヨセフの言葉は何も記されてはいません。淡々と導かれる神様に従っているように感じます。水が高い所から低い所に流れるように、神様のなすがままに歩んでいるように感じます。成功して喜んで、困難があると悲しんでという一喜一憂ではなくて、何があってもビクともしない。
 ヨセフは、看守長の目かない、刑務所にいる囚人を皆ゆだねられました。ヨセフに任せておけば何の問題もない。
 23節を共に読みましょう。「監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」
 ここにも、「主がヨセフと共におられ」とあります。主がともにいるだけでいいのです。
 昨日は、7月7日七夕でした。子どもたちが幼稚園や保育園、小学校でもあるのでしょうか。短冊に望みを書いて、笹につるして自宅に持参したのではないでしょうか。昔、昔書いた覚えがあります。織姫と彦星が年に一度だけ天の川を渡り会える日として、晴れになるようにと願う人々もいるようです。織姫と彦星は仲が良すぎて仕事をしなくなったので、罰として離れ離れになった。しかし、全く会えないというのもかわいそうということで、年に一度の再会が許されたのです。愛する者同士、何もしなくてもいい。ただそばにいるだけでいいのです。その人と共にいるだけで幸せなのです。その人が目に映るだけで幸せなのです。私たちと神様との関係も共にいるだけで幸せな関係でいたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 創世記39章は、「主がヨセフと共におられる」という言葉が多く出てきます。主が共におられると言うことの祝福、恵みを示しています。ヨセフは奴隷から囚人という、一般的に見てマイナスのマイナスを経験します。もう夢も希望もない状態です。けれども、希望が見えない、夢なんか見られないという状況でも、神様が共におられると言うことは、希望がある、夢も見ることができる。夢だけで終わらない。神様の絶大なる祝福を経験することができるのです。
 奴隷や囚人は不幸。幸せにはなれないというのが常識です。でも聖書は、奴隷でも囚人でも幸福になれる。成功できると語ります。イエス・キリスト様は、全人類の罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。その身代わりの死によって、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦されました。イエス様が、十字架の上で語られた言葉の中、「完了した」という言葉があります。イエス様の十字架は失敗でも不幸でもありません。イエス様は、ご自分が十字架にかかり命を投げ出す。命を落とすことによって、全人類の、私のあなたの罪を赦す救いの道を開かれたのです。
 私たちは、自分が置かれた不幸と思える状況、失敗だと思える人間的な条件で幸せ、不幸せを考えるのではなくて、イエス様が共におられるかどうかだということを知る必要があるのです。
 あのポティファルは偽った妻の言葉を信用してヨセフを手放してしまいました。ヨセフのゆえに祝福されていたポティファルと家は、祝福を失ったのだと思います。ポティファルの妻の偽り、ポティファルの怒りや仕打ちでヨセフは囚人となりました。けれども、そのような人の偽りや理不尽な仕打ち、そのために悪くなった状況などが私たちの人生を決定づけるものではありません。私たちの人生を本当に決定付けるのは、誰と共にいるかなのです。誰があなたと共にいるかなのです。
 勿論、妻や夫がいるでしょう。兄弟姉妹がいるでしょう。会社や学校の関係者や友人がいるでしょう。けれども、あなたの人生を祝福し、あなたの人生を導くのは、イエス・キリスト様なのです。この方がいつも共におられます。調子の良い時も悪い時も、成功の時も失敗した時も、幸せを感じる時も不幸を感じる時も、イエス様は必ず共にいるのです。ですから、共におられるイエス様を感じることが、意識することが大切です。
 「いや治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(Ⅱコリント12:9) そう言われるイエス様があなたと共におられます。このお方がそばにいるだけで私たちは幸せなのです。
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日曜礼拝(2012年7月1日)

2012-07-01 12:50:34 | Weblog
        日曜礼拝(三位一体後第四主日)   2012.7.1

     「この紋所が目に入らぬか」 使徒言行録12:20~24

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第一日曜日の礼拝を愛する皆さんと共にささげることができます幸いを覚えて神様に感謝致します。2012年も前半が終わり、今日から後半戦を迎えます。2012年1月1日を迎えて、今年の抱負と誰もが思い描いたのだと思いますが、今年も半分を終え、それらの抱負や希望等はいかがでしょうか。残りの半年も、「大丈夫、私が共にいて、私が責任を持つ」と言われるイエス様に期待して歩んでまいりましょう。
 まだ梅雨の最中ですが、これから梅雨が明け本格的な夏を迎えます。昨日は、夏を思わせるような天気と暑さでした。これから多くの夏の行事が続きますが、神様の大きな恵みを体験できることを信じて歩ませていただいたいと思います。どうか、全てのプログラムが祝福されますように、お祈りと献げものをよろしくお願いいたします。
 先日、笑ってシェアというブログの「教会なう」という説教題が2000件ほどの応答があるとお話しましたが、先週、後藤献一先生から、facebookで御存知だと思いますが、と連絡いただき、3000弱の応答があることを知りました。どのような形でも、興味を持ち、教会や説教、神様に目を向けていただけることを感謝しました。
 今日の説教題は、「この紋所が目に入らぬか」です。「この紋所に目に入らぬか」という言葉で、あれかと連想された方々は時代劇が好きな方々でしょう。そう、水戸黄門という番組で、最後の一番いい所で、助さんだったか、格さんだったかが、葵の御門の印籠を取り出して、「ひかえおろう、ここにおわすお方をどなたと心得る。先の副将軍水戸光圀候にあらせられるぞ。御前の前である。頭が高い。」とやるやつです。私の父は時代劇が大好きでよく見ていましたから、当然私も見ていました。現在は牧師ですが、社会の先生になりたいと思っていました。歴史、日本史は大好きです。
 水戸黄門という番組は、日本の代表的な番組として長い間放映されてきました。水戸黄門役も現在で何代目でしょうか、里見浩太郎という俳優は、以前は助さん役でありましたが、バージョンアップして水戸黄門様の役をしています。月曜日の夜8時、多くの方々が見てこられたでしょう。でもやっぱり最近では視聴率も落ちてきたようです。
 月曜日に、湯けむりの里のお風呂に行けば、午後4時からサウナで水戸黄門の番組を見ることができます。別に、水戸黄門の宣伝ではありませんが、やはり見所は、「この紋所が目が入らぬか」というセリフと印籠だと思うのです。水戸黄門にとってなくてはならないものが、黄門様とこのセリフと印籠でしょう。
 私たちクリスチャンにとって、なくてはならないものはイエス・キリスト様と十字架と復活です。今日は、使徒言行録12章20節から24節を通して、「この紋所が目に入らぬか」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 一、神様の許しなしには存在しない
 イエス様のお約束の通りに、ペンテコステ(聖霊降臨)により120名の人々の上に聖霊が下り、力を受けて、イエス様の証人として一人ひとりが用いられました。特に、イエス様の弟子であった者たちが用いられました。
 また、人々の日々の配給問題で信徒の中から7人の人々が選ばれ、ステファノやフィリポが豊かに用いられました。けれども、ステファノの殉教により、エルサレム教会に迫害が起こり、使徒以外の人々、特にギリシャ語を話すユダヤ人たちは、エルサレムから迫害のために逃げ、その行く町々でイエス様を伝え、さらに多くの人々がイエス様を信じるようになりました。
 先週見ましたように、ペトロを通して異邦人への宣教の道が開かれて行ったのでした。異邦人が救われてきたので、使徒たちやヤコブ(イエス様の弟)といった代表者が集まり、エルサレム会議により異邦人たちへの対処の方法を決議しました。それから異邦人を中心とするアンティオキア教会が誕生し、かつて迫害者の急先鋒のサウロが復活のイエス様に出会い、パウロとしてバルナバの導きととりなしにより宣教のために豊かに用いられるようになります。
このアンティオキア教会からパウロとバルナバは宣教旅行をすることになるのです。
 12章は、パウロとバルナバが宣教旅行に遣わされる前の話ですが、12弟子の一人、ヤコブ(ヨハネの兄弟)がヘロデ王によって殺されます。そして、代表格のペトロをも捕らえ、殺そうとするのですが、神様は厳重な警備の中からペトロを救い出されるのです。
 ここに登場するヘロデ王とは、ヘロデ・アグリッパという王で、ローマで教育を受け、ユダヤ律法とあらゆる慣習とを細心の注意を払って守り、熱心にユダヤ民族の美徳を磨いていた。そのために国民には人気のあった王なのです。ヤコブを処刑したことで、正統派ユダヤ人の歓心を買おうとさらに教会の指導者たちを捕らえ処刑しようしたのです。だからペトロを捕らえ処刑しようとたくらんだのです。
 厳重な警護の中でペトロに逃げられたヘロデ王は、警備にあたっていた兵士を処刑しました。自分の思うことは何でもできる。自分に勝る力ある者は存在しないかのような権力を自分の欲しいがままに彼は持っていたのです。時の権力者は、まさにヘロデ・アグリッパ王でした。
 いつの時代にも、どの国にも権力者は存在します。そして、どちらかというと、自分の欲を満たす。神様ではなく人間の満足を推し進めるのです。私の毎日の祈りは、上に立つ人々、政治をつかさどる人々が、本当に神様を畏れ、神様を信じて、神と人々に仕える器が出てくるように、ということです。聖書には、「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」(Ⅰテモテ2:1-2)とあります。

  
 二、人が神になる
 20節には、この時の権力者ヘロデ王は、ティルス(ツロ)とシドンの住民にひどく腹を立てていた、とあります。それはティルスとシドンの町の人々にとっては恐ろしいことでした。王が腹を立てたままでいると大変なことになるからです。
 ヘロデ王がティルスとシドンの港を用いなければ収入源はひどい打撃を受けることになります。また、食糧は供給されていたので、それを断たれたら命を落とすことになるからです。ですから、王の侍従であるブラストに取り入って和解を願い出ました。賄賂やいろいろな便宜と言われるものが横行したのでしょう。王の侍従ブラストも、この件で甘い汁を吸うことができたのではないでしょうか。相手の弱みを握るといくらでも、その弱みにつけこんでお金やいろいろなものを要求するようになるのです。それが人間です。
 水戸黄門のドラマを見ても、悪代官が登場して、表の顔は正義でも裏の顔は、人の弱みにつけ込んで私服を肥やすというお決まりのストーリーです。でも、これは悪代官だけではなく、人間である私たちも、同じようにそのような罪の性質を持つのです。
 21節と22節を、皆さんと共に読みましょう。「定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。」 
 この定められた日というのは、8月1日の皇帝誕生日ではないかとも言われています。とにかく、ティルスとシドンの人々にとっては、この日はとても大切な日であったのです。
 この時、ヘロデ王は全体が銀と素晴しい織物でできている衣装を身にまとい、朝早く円形大劇場にやって来た時、朝日がその衣装に当ると衣の銀が反射してキラキラ輝いたので、会衆から見たら、後光が差しているかのようにも見えたのでしょう。そのような現象と自分たちの町の緊急状態の時、ブラストに取り入ってもらったティルスとシドンの人々や同じように王にへつらう人々が、「神の声だ。」と言いだしたので、それを聞いた人々もみんなヘロデ王に向かって、「神様だ!」と叫び出し、拝む者たちもあったのでしょう。
 「神だ」と言われて、誰もが悪い気分ではないでしょう。いい気分なのでしょう。人間の世界にも、野球の神様、サッカーの神様とその各部門で、人間ではあるけれども神様と呼ばれている人々がいます。特別にその部門で、他の人よりもよくできるとか、優秀な人々に、神とつけられるのです。
 ヘロデ王の場合は、そのようなものではなく、絶対的な権力を持つ者として、王を取り巻く人々が、別に神様だとは思わないけれども、神様には程遠いけれども、そう言っておいた方が、こちらの益になる。都合がいい。結果オーライということでしょう。人間の損得、自己中心性、そして罪の問題と関係しているのだと思うのです。
 私たちも、神様の声を聞くよりも、人間の声、サタンの誘惑の声、この世の声に惑わされることが多くあるのではないでしょうか。だからこそ、日々、聖書の言葉に触れて、「神様の細きみ声」をしっかりと聞いて歩みたいと思うのです。

 三、神が人となった
 23節を共に読みましょう。「するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。」 これが、時の権力者、多くの人々がその権力におびえ、恐れをなしたヘロデ王の最後です。口語訳聖書と新改訳聖書は、「虫にかまれて息が絶えた。」とあります。どのような病気かはわかりませんが、主の天使がヘロデを打ったのです。神に打たれて死んだのです。何故神に打たれたのか。それは、イエス様の弟子のヤコブを剣で殺したから、ペトロを捕らえて処刑しとうとしたからではありませんでした。
 聖書は、「神に栄光を帰さなかったからである。」と神様に打たれた理由が記されています。 リビングバイブルには、「神だけにふさわしい栄光を横取りし、身のほど知らずにも、人々の礼拝を受け、神に栄光をお返ししなかった報いです。」とあります。ヘロデ王は、神様の受ける分を横取りした。神の領分を自分のものとしてしまったのです。神様のものを盗んでしまったのです。
 私たちは、ヘロデ王のように神様のものを横取りにしていることはないでしょうか。財も時間も、賜物も与えられた全てのものを自分のものだけにしているということはないでしょうか。それなのに、私たちが裁かれないのは、イエス・キリスト様が私に、あなたに代わって神様に裁かれたからです。あの十字架の上で、私たちの罪のために、罪のないお方、神であるお方が、私たちの罪を全てかぶって下さり、私やあなたが苦しまなければならないのに、イエス様が苦しみ、尊い血を流して、御自分の命を呈して私たちの罪を赦し、救って下さったからなのです。ですから、私たちは裁かれないのです。イエス様がすでに裁かれたからです。もう、あなたはイエス様の十字架によって、父なる神様から裁かれることはない。罪赦されて救いの中に置かれている。そのことを感謝して、認めればいいだけなのです。素直に感謝して、罪赦されていることを認めたいと思うのです。

Ⅲ結論部
 黄門様が「オレは水戸の黄門様だ!」と言っても葵の御門の印籠がなければ、何の力にもなりません。印籠を失ってその力を発揮できなかったという物語もありました。あの印籠が証拠となって、黄門様が先の副将軍であることが証明されるので、みんながひざまずくのです。
 私たちは、自己中心で自分のことがやっぱりかわいい。自分があぶなくなれば、人をも裏切り、蹴落とします。それが私たちです。長いものには巻かれろと相手によって態度を変えます。そして、神様の与えて下さったものを平気で全てが自分のものであるかのように考え、自分勝手にし、心の王座に自分が座る。まさに、イエス様の席を奪い、横取りしてしまっているのです。けれども、そんな者をもなお愛し、受け入れ、そのままの私を、そのままで受け入れて下さるのです。イエス様は、私たちの責めるべき全てのものを挙げられても、御自分の体を見せて、「この紋所が目に入らぬか」ではありませんが、御自分の傷ついた体を、その証拠として父なる神様の前に、いつも執り成していて下さるのです。ですから、私たちの全ての罪が赦され、神様の前に罪なき者、罪赦された者として歩むことができるのです。
 この紋所は、イエス様の十字架と復活です。私たちは、この紋所から目を離さず、ここから来る赦しと救い、永遠の命の恵みを感謝して受けたいのです。この週も、聖書に触れて、神の救いの源、紋所(十字架と復活)を見上げて、感謝して歩みたいのです。

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