賛美礼拝(三位一体後第八主日) 2012.7.29
「神様はワイルドだぜ」 創世記45:1~8
Ⅰ導入部
おはようございます。7月の第五日曜日となりました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。
先週の金曜日から日曜日まで、JF(洗礼を受けた子どもたち)の会として19名が仙台富沢教会を宿泊所として被災地訪問、ボランティアの奉仕をさせていただきました。土曜日の1日をエマオという被災地のためのボランティア団体の紹介で、七郷という地で各数名ずつ農家を訪問し、畑仕事、雑草抜き、畑の掘り起こし、野菜の収穫等、あるいはカラオケボックスの解体作業等をさせていただき、みんな一生懸命に働いて汗を流しました。また、台湾からの方々もボランティアに来ておられたので、共に数人ずつ共に奉仕させていただきました。働きを終えて、夕方に、子どもたちが自分たちの経験した事を自分の口で感じたことを話しました。
エマオのボランティアの働きでは、震災後1年半の間で小学生が参加したのは初めてだと担当の先生がお話しして下さいました。小学生の子どもたちは、本当に貴重な体験をしたのだと思います。
また、被災した家屋がそのままの地域や学校を訪れて、津波の脅威とその結果に驚きを感じました。きっと、この経験が彼らのこれからの信仰生活に、青葉台教会の将来に大いに生きて来るのだと思います。今日の第二礼拝後に、被災地訪問のビデオを映しますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
さて、7月になり夏休みになっての最後の礼拝の説教題は、「神様はワイルドだぜ」です。「ワイルドだぜ」という言葉は、お笑い芸人のスギちゃん(本名:杉山英司)という人が、漫談で使う言葉です、若い人々の間でブレイクして、人気が出て、テレビ番組に出まくり、コマーシャルにも登場しています。ソフトバンクの携帯電話のコマーシャルに現在出ています。現在、GTOというドラマにも出演しています。
「ワイルドだぜ」というのは、「だ」は広辞苑では、「文末に添えて、軽く念を押し、意味を強めるご語。主に男性の会話にもちいるぞんざいな表現。」とあります。つまり「相手に認めてもらいたい」と相手の気持ちに近づこうとしている、相手と対等な友達のような関係」と言えます。漫談で相手の気持ちに近づくということでしょうか。
私がこの「ワイルドだぜ」という言葉を見たり、聞いたりしていて思うことは、「すごいだろう。いいだろう。」と念を押しているような感じがするのです。「神様はワイルドだぜ」とは、「神様はすごいんだぜ。」「荒らしく見えてもそこには愛がある、そんなすごいお方」そのように感じるのです。
さて、今日は創世記45章1節から8節を通して、「神様はワイルドだぜ」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、今までのヨセフ
今日の個所は、ヨセフ物語のクライマックスの記事です。兄たちの恨みの思いからエジプトに売られ、一日にして生活が一変したヨセフでした。お父さんの愛に育まれてての生活から奴隷としてエジプトでの労働生活、つらい生活が始まりましたが、神様が共におられ恵みを受け、ポティファルの家で財産全てを任され、神もヨセフのゆえにポティファルの家を祝福されました。けれども、主人の妻の誘惑と偽りにより、奴隷から囚人となりました。しかし、神様が共におられ牢獄の中でも恵みが与えられ囚人の全てがヨセフに任せられました。ある日、ファラオ王の給仕役の長と料理役の長が王の怒りに触れて、ヨセフのいる牢獄の中に入れられ、夢を見て悩んでいました。その夢をヨセフが解いて、ヨセフは給仕役の長がヨセフの夢の通りに、三日後に復職できたら、自分のことをファラオ王に無実の罪で牢獄に入れられていることを話してほしいと頼みましたが、給仕役の長はヨセフの事とヨセフの願いを忘れてしまいました。しかし、2年後に、ファラオが不吉な夢を見て、エジプト中の知者を呼び、夢を解くように命じた時に、給仕役の長はヨセフを思い出し、ファラオ王に申し出て、ヨセフはファラオ王の前に召し出され、王の夢を解き、飢饉に備えて、知恵ある人を立てて、エジプトを治めるようにとアドバイスしました。
王と家来たちは、ヨセフの言葉に感心して、ファラオ王は「お前をわが宮廷の責任者とする」と総理大臣に任命したのです。
7年の大豊作の後に、大豊作が忘れられるような飢饉が訪れ、ヨセフの兄弟たちもヨセフの前に食料を買いに来ました。そして、ヨセフは兄弟たちをスパイだと言って、シメオンを人質に、自分の弟ベニヤミンを連れて来るように命じました。兄弟たちは、食料がなくなり再び、食料を買いにヨセフの前にベニヤミンを連れて来ました。そして、ヨセフは家来にベニヤミンの袋の中にヨセフの銀の杯を入れて、盗みをしたというように仕向けるように命じ、兄弟たちはヨセフの物を盗んだということで、ヨセフの元に連れてこられました。ユダは、自分たちがかつて弟(ヨセフ)の悲しみを理解せず、エジプトに売り飛ばし、父にヨセフが死んだと思わせた。そのことを神が暴かれ、自分たちは今このような目にあっている、とその罪を悔い改めたのです。その話を聞いた後が今日の個所になります。
ヨセフは兄たちにエジプトに理不尽にも売り飛ばされて、とてもつらい経験、さびしい経験をしました。けれども、ユダを通して兄たちが自分をエジプトに売った事に関して心痛めていること、悔い改めていることを知りました。ですから、自分が今エジプトの総理大臣という立場を装うことができなくなって、兄弟以外の人々に出て行くように命じました。そして、ヨセフは兄弟たちに、自分が弟のヨセフであることを明かしたのです。
ヨセフの歩みは山あり谷ありの連続でした。神様が共におられたのは事実でしたが、ぬれぎぬにより奴隷から囚人となりました。人生のどん底に落ちました。けれども、神様は見捨てませんでした。共におられました。けれども、忘れられるという辛い経験もしましたが、その忘れられることが2年後に恵みに変えられました。何か、喜んだり悲しんだり、上がったり落とされたりの生涯。「神様、もっとスマートにお願いします。恵みだけをお願いします。」とヨセフになり変って、神様にお願いしたいような気持ちです。私たちも自分の信仰生活を見て、もっとスマートに、恵みだけをいただきたいと願うように思うのです。
二、因果応報か
皆さんと共に、3節を共に読みましょう。「ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」 ヨセフはやっとの思いで自分のことを明かすことができました。本当はもっと早く自分の事を話したかったのかも知れません。そうすれば父にも早く会えたのかも知れない。ヨセフは胸のつかえがとれたことでしょう。一方、兄たちは、自分たちがエジプトに売り飛ばした弟のヨセフが、今目の前にエジプトを治める最高権威者である事を見て知って驚いたのです。
4節には、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。」と言っています。ヨセフにとって、自分がエジプトに兄たちに売られたという出来事は、本当に辛いことでした。そして、兄たちもやはりヨセフを売ったということは、一人ひとりの心の中に忘れることのできない出来事として、悪いことをしたという罪の意識を取り払うことは出来なかったのです。ですから、ユダは自分たちがヨセフに盗みを罪を着せられたとき、その事が影響していると考えたのです。
私たちも何か悪い事が起こると、問題が起こると自分のした悪いことが原因ではないかと自分を責めることはないでしょうか。きっと、あの事が今のこの問題を引き起こしていると苦しむことはないでしょうか。罪の呵責がないでしょうか。もうあるならば、罪の赦しをまだ経験していないか、イエス様の十字架の意味をまだ理解していないかのどちらかだと思います。イエス・キリスト様は、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪の全ての身代わりに十字架にかかって死んで下さり、全ての罪を赦して下さいました。私たちの犯す全ての罪が、イエス様の身代わりの十字架で赦されたのです。ですから、神様の前に、イエス様の前に、「ごめんなさい」と自分の犯した罪を告白したなら、その罪は赦されているのです。言い換えれば、その罪はすでに十字架によって赦されているのです。赦しが先です。悔い改めたから救われるのではなく、もうすでにイエス様の十字架の死で、その罪が赦されている。だから、イエス様の前に、「ごめんなさい」が言えるのです。
5節を共に読みましょう。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」
兄のユダを代表して、「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」(44:16)とあるように、自分たちの罪が明らかにされたことを示しています。けれども、ヨセフは、自分をエジプトへ売ったことを悔やむことも責めることも必要ない、と言ったのです。兄たちがしたことは人間のすることではありません。ひどいことです。あってはならないことです。それを悔やむことも責めることもないというのです。ここに許しがあります。ヨセフは恨んでも、責めてもいいのです。そのようなことを兄たちはしたのですから、けれども、ヨセフは許したのです。そこには、はっきりとした理由があったからです。私たちにも人が私に犯した罪を許す理由があります。それは、イエス様の十字架です。私たちは、イエス様の十字架で自分の罪が赦されたのですから、人が私に犯す罪も許す者になりたいと思うのです。
三、全てが恵みに変わる
7節を共に読みましょう。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」
ヨセフがエジプトへ売られたのは、神がヨセフを先に遣わされたということ。エジプトでヨセフの家族を養い、大いなる救いを与えるためだとヨセフは言いました。そして8節です。共に読みましょう。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」 兄たちは、ヨセフをエジプトへ売り飛ばしましたが、ヨセフは「わたしをここへ遣わした」と表現しました。だから、そのことは神がした事ですと神様の背後にある導きを信じたのです。これこそが信仰だと思います。
ヨセフとしては、辛い中で我慢し、頑張りもしました。努力もしました。その結果、報われることもあったでしょう。けれども、兄たちの理不尽な仕打ちも、自分の努力や頑張りを遥かに超えて、神様ご自身がこのことを成された。つまり、自分が兄たちによってエジプトに売られたのは神様のくすしきみ業であったのです。ひとつ、ひとつの事柄を見るとつらいことが多くあります。エジプトに売られた。奴隷になった。無実の罪で罪に問われた。忘れられたと一つ、一つの事柄はいやなことです。けれども、それを神様の導き、み業、神様の救いの過程だと見ると、その辛い経験が、嫌な経験が、恥ずかしい経験が、神様の恵みを、祝福を得るためだと見ることができるのだと思うのです。ですから、ヨセフは兄たちに、「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と言いきったのです。
私たちも、自分自身の日常生活や信仰生活、家庭や社会生活において、一つひとつを見れば、いやなことつらいこと、悲しいこと痛いこと、恥ずかしいことがたくさんあります。そして、その一つ一つだけを見て、がっかりしたり、悲しんだり、落ち込んだり絶望したりするのではないでしょうか。その一つひとつの辛い経験は、神様が私たちをいじめておられるのではありません。罪を犯したから、悪いことをしたから、その報復で悪い事柄が起こるのではありません。神様の恵みと祝福を経験するためです。「神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」とヨセフが語った通りなのです。
今苦しんでいますか。悲しみがありますか。痛んでいますか。恥ずかしい経験がありますか。それは全て祝福に変わります。恵みとなります。大丈夫、神様が共におられあなたの人生の祝福を約束をしているのです。なぜなら、すでに約2000年前に神の子、罪のないお方、イエス・キリスト様が私の、あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死に、よみがえって下さったことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。そして、神様と共に歩む人生が始まりました。ヨセフのように、神様が共におられても、悲しみや苦しみを経験します。それは神様が共にいるということを否定するものではありません。神様が共におられても、悲しいことや苦しいことも経験するのです。そかし、これらの経験は、神様の祝福を経験するためです。恵みを受けるためなのです。そのことを聖書は、今日私たち一人ひとりに語っているのです。
Ⅲ結論部
ヨセフの生涯は波乱に富んだ人生でした。もっとスマートに何とかならないかとも思います。神様が共におられるのなら、問題が何も起こらないように、いいことばかりをして下さったらいいのにと私たちは思います。ヨセフは辛い経験をしました。兄弟に裏切られ、主人の妻に裏切られ、夢を解いて幸せにしてあげた人から忘れられ裏切られました。けれども、そのような経験を通して、どの兄たちよりも自分がお父さんに愛される存在だと自負に、兄たちを見下げたり、自分中心で世界が回っているというような自己中心の彼が、苦難や悲しみを通して、ねられ、きよめられて、人格者となりました。もし、何も経験せずに、わがままなヨセフが総理大臣になっていたら、国を生かすどころか国を壊すものとなっていたのかも知れません。神様は、彼を総理大臣にするため、彼を訓練されました。必要な試練や悲しみ、痛みでした。
兄たちに裏切られ、多くの人に裏切られ、忘れられる中で、神様が共におられることの大きな恵みを経験しました。人ではなく、神様に信頼することの確実性、真実をしりました。そして、全ての経験は神様の恵みと祝福に到達することだと身をもって知ったのです。
ヨセフのこの経験は、私たちの経験でもあります。今の苦しみが、悲しみが、痛みが、問題が、恥ずかしさが、弱さが、絶望が神様の意図した恵みと祝福へと導くのです。大丈夫、何も心配することはない。イエス様はいつもあなたのそばにいます。だから、問題があっても、マイナスが訪れても安心してイエス様に全てのことをゆだねましょう。自分だけで負うことはないのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われるイエス様のもとでいこい、元気をいただきましょう。
神様は、心やさしいお方、愛なるお方です。また、私たちを問題や困難に委ねる「ワイルド」なお方でもあります。いや、神様は祝福と恵みに満ちておられるお方なのです。「神様はワイルドだろ!」そのように思うのです。この神様に信頼して、この週も歩んでまいりましょう。
「神様はワイルドだぜ」 創世記45:1~8
Ⅰ導入部
おはようございます。7月の第五日曜日となりました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。
先週の金曜日から日曜日まで、JF(洗礼を受けた子どもたち)の会として19名が仙台富沢教会を宿泊所として被災地訪問、ボランティアの奉仕をさせていただきました。土曜日の1日をエマオという被災地のためのボランティア団体の紹介で、七郷という地で各数名ずつ農家を訪問し、畑仕事、雑草抜き、畑の掘り起こし、野菜の収穫等、あるいはカラオケボックスの解体作業等をさせていただき、みんな一生懸命に働いて汗を流しました。また、台湾からの方々もボランティアに来ておられたので、共に数人ずつ共に奉仕させていただきました。働きを終えて、夕方に、子どもたちが自分たちの経験した事を自分の口で感じたことを話しました。
エマオのボランティアの働きでは、震災後1年半の間で小学生が参加したのは初めてだと担当の先生がお話しして下さいました。小学生の子どもたちは、本当に貴重な体験をしたのだと思います。
また、被災した家屋がそのままの地域や学校を訪れて、津波の脅威とその結果に驚きを感じました。きっと、この経験が彼らのこれからの信仰生活に、青葉台教会の将来に大いに生きて来るのだと思います。今日の第二礼拝後に、被災地訪問のビデオを映しますので、ぜひご覧いただきたいと思います。
さて、7月になり夏休みになっての最後の礼拝の説教題は、「神様はワイルドだぜ」です。「ワイルドだぜ」という言葉は、お笑い芸人のスギちゃん(本名:杉山英司)という人が、漫談で使う言葉です、若い人々の間でブレイクして、人気が出て、テレビ番組に出まくり、コマーシャルにも登場しています。ソフトバンクの携帯電話のコマーシャルに現在出ています。現在、GTOというドラマにも出演しています。
「ワイルドだぜ」というのは、「だ」は広辞苑では、「文末に添えて、軽く念を押し、意味を強めるご語。主に男性の会話にもちいるぞんざいな表現。」とあります。つまり「相手に認めてもらいたい」と相手の気持ちに近づこうとしている、相手と対等な友達のような関係」と言えます。漫談で相手の気持ちに近づくということでしょうか。
私がこの「ワイルドだぜ」という言葉を見たり、聞いたりしていて思うことは、「すごいだろう。いいだろう。」と念を押しているような感じがするのです。「神様はワイルドだぜ」とは、「神様はすごいんだぜ。」「荒らしく見えてもそこには愛がある、そんなすごいお方」そのように感じるのです。
さて、今日は創世記45章1節から8節を通して、「神様はワイルドだぜ」という題でお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、今までのヨセフ
今日の個所は、ヨセフ物語のクライマックスの記事です。兄たちの恨みの思いからエジプトに売られ、一日にして生活が一変したヨセフでした。お父さんの愛に育まれてての生活から奴隷としてエジプトでの労働生活、つらい生活が始まりましたが、神様が共におられ恵みを受け、ポティファルの家で財産全てを任され、神もヨセフのゆえにポティファルの家を祝福されました。けれども、主人の妻の誘惑と偽りにより、奴隷から囚人となりました。しかし、神様が共におられ牢獄の中でも恵みが与えられ囚人の全てがヨセフに任せられました。ある日、ファラオ王の給仕役の長と料理役の長が王の怒りに触れて、ヨセフのいる牢獄の中に入れられ、夢を見て悩んでいました。その夢をヨセフが解いて、ヨセフは給仕役の長がヨセフの夢の通りに、三日後に復職できたら、自分のことをファラオ王に無実の罪で牢獄に入れられていることを話してほしいと頼みましたが、給仕役の長はヨセフの事とヨセフの願いを忘れてしまいました。しかし、2年後に、ファラオが不吉な夢を見て、エジプト中の知者を呼び、夢を解くように命じた時に、給仕役の長はヨセフを思い出し、ファラオ王に申し出て、ヨセフはファラオ王の前に召し出され、王の夢を解き、飢饉に備えて、知恵ある人を立てて、エジプトを治めるようにとアドバイスしました。
王と家来たちは、ヨセフの言葉に感心して、ファラオ王は「お前をわが宮廷の責任者とする」と総理大臣に任命したのです。
7年の大豊作の後に、大豊作が忘れられるような飢饉が訪れ、ヨセフの兄弟たちもヨセフの前に食料を買いに来ました。そして、ヨセフは兄弟たちをスパイだと言って、シメオンを人質に、自分の弟ベニヤミンを連れて来るように命じました。兄弟たちは、食料がなくなり再び、食料を買いにヨセフの前にベニヤミンを連れて来ました。そして、ヨセフは家来にベニヤミンの袋の中にヨセフの銀の杯を入れて、盗みをしたというように仕向けるように命じ、兄弟たちはヨセフの物を盗んだということで、ヨセフの元に連れてこられました。ユダは、自分たちがかつて弟(ヨセフ)の悲しみを理解せず、エジプトに売り飛ばし、父にヨセフが死んだと思わせた。そのことを神が暴かれ、自分たちは今このような目にあっている、とその罪を悔い改めたのです。その話を聞いた後が今日の個所になります。
ヨセフは兄たちにエジプトに理不尽にも売り飛ばされて、とてもつらい経験、さびしい経験をしました。けれども、ユダを通して兄たちが自分をエジプトに売った事に関して心痛めていること、悔い改めていることを知りました。ですから、自分が今エジプトの総理大臣という立場を装うことができなくなって、兄弟以外の人々に出て行くように命じました。そして、ヨセフは兄弟たちに、自分が弟のヨセフであることを明かしたのです。
ヨセフの歩みは山あり谷ありの連続でした。神様が共におられたのは事実でしたが、ぬれぎぬにより奴隷から囚人となりました。人生のどん底に落ちました。けれども、神様は見捨てませんでした。共におられました。けれども、忘れられるという辛い経験もしましたが、その忘れられることが2年後に恵みに変えられました。何か、喜んだり悲しんだり、上がったり落とされたりの生涯。「神様、もっとスマートにお願いします。恵みだけをお願いします。」とヨセフになり変って、神様にお願いしたいような気持ちです。私たちも自分の信仰生活を見て、もっとスマートに、恵みだけをいただきたいと願うように思うのです。
二、因果応報か
皆さんと共に、3節を共に読みましょう。「ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」 ヨセフはやっとの思いで自分のことを明かすことができました。本当はもっと早く自分の事を話したかったのかも知れません。そうすれば父にも早く会えたのかも知れない。ヨセフは胸のつかえがとれたことでしょう。一方、兄たちは、自分たちがエジプトに売り飛ばした弟のヨセフが、今目の前にエジプトを治める最高権威者である事を見て知って驚いたのです。
4節には、「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。」と言っています。ヨセフにとって、自分がエジプトに兄たちに売られたという出来事は、本当に辛いことでした。そして、兄たちもやはりヨセフを売ったということは、一人ひとりの心の中に忘れることのできない出来事として、悪いことをしたという罪の意識を取り払うことは出来なかったのです。ですから、ユダは自分たちがヨセフに盗みを罪を着せられたとき、その事が影響していると考えたのです。
私たちも何か悪い事が起こると、問題が起こると自分のした悪いことが原因ではないかと自分を責めることはないでしょうか。きっと、あの事が今のこの問題を引き起こしていると苦しむことはないでしょうか。罪の呵責がないでしょうか。もうあるならば、罪の赦しをまだ経験していないか、イエス様の十字架の意味をまだ理解していないかのどちらかだと思います。イエス・キリスト様は、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪の全ての身代わりに十字架にかかって死んで下さり、全ての罪を赦して下さいました。私たちの犯す全ての罪が、イエス様の身代わりの十字架で赦されたのです。ですから、神様の前に、イエス様の前に、「ごめんなさい」と自分の犯した罪を告白したなら、その罪は赦されているのです。言い換えれば、その罪はすでに十字架によって赦されているのです。赦しが先です。悔い改めたから救われるのではなく、もうすでにイエス様の十字架の死で、その罪が赦されている。だから、イエス様の前に、「ごめんなさい」が言えるのです。
5節を共に読みましょう。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」
兄のユダを代表して、「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」(44:16)とあるように、自分たちの罪が明らかにされたことを示しています。けれども、ヨセフは、自分をエジプトへ売ったことを悔やむことも責めることも必要ない、と言ったのです。兄たちがしたことは人間のすることではありません。ひどいことです。あってはならないことです。それを悔やむことも責めることもないというのです。ここに許しがあります。ヨセフは恨んでも、責めてもいいのです。そのようなことを兄たちはしたのですから、けれども、ヨセフは許したのです。そこには、はっきりとした理由があったからです。私たちにも人が私に犯した罪を許す理由があります。それは、イエス様の十字架です。私たちは、イエス様の十字架で自分の罪が赦されたのですから、人が私に犯す罪も許す者になりたいと思うのです。
三、全てが恵みに変わる
7節を共に読みましょう。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」
ヨセフがエジプトへ売られたのは、神がヨセフを先に遣わされたということ。エジプトでヨセフの家族を養い、大いなる救いを与えるためだとヨセフは言いました。そして8節です。共に読みましょう。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」 兄たちは、ヨセフをエジプトへ売り飛ばしましたが、ヨセフは「わたしをここへ遣わした」と表現しました。だから、そのことは神がした事ですと神様の背後にある導きを信じたのです。これこそが信仰だと思います。
ヨセフとしては、辛い中で我慢し、頑張りもしました。努力もしました。その結果、報われることもあったでしょう。けれども、兄たちの理不尽な仕打ちも、自分の努力や頑張りを遥かに超えて、神様ご自身がこのことを成された。つまり、自分が兄たちによってエジプトに売られたのは神様のくすしきみ業であったのです。ひとつ、ひとつの事柄を見るとつらいことが多くあります。エジプトに売られた。奴隷になった。無実の罪で罪に問われた。忘れられたと一つ、一つの事柄はいやなことです。けれども、それを神様の導き、み業、神様の救いの過程だと見ると、その辛い経験が、嫌な経験が、恥ずかしい経験が、神様の恵みを、祝福を得るためだと見ることができるのだと思うのです。ですから、ヨセフは兄たちに、「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と言いきったのです。
私たちも、自分自身の日常生活や信仰生活、家庭や社会生活において、一つひとつを見れば、いやなことつらいこと、悲しいこと痛いこと、恥ずかしいことがたくさんあります。そして、その一つ一つだけを見て、がっかりしたり、悲しんだり、落ち込んだり絶望したりするのではないでしょうか。その一つひとつの辛い経験は、神様が私たちをいじめておられるのではありません。罪を犯したから、悪いことをしたから、その報復で悪い事柄が起こるのではありません。神様の恵みと祝福を経験するためです。「神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」とヨセフが語った通りなのです。
今苦しんでいますか。悲しみがありますか。痛んでいますか。恥ずかしい経験がありますか。それは全て祝福に変わります。恵みとなります。大丈夫、神様が共におられあなたの人生の祝福を約束をしているのです。なぜなら、すでに約2000年前に神の子、罪のないお方、イエス・キリスト様が私の、あなたの罪の身代わりに十字架にかかって死に、よみがえって下さったことにより、私たちの全ての罪が赦されたのです。そして、神様と共に歩む人生が始まりました。ヨセフのように、神様が共におられても、悲しみや苦しみを経験します。それは神様が共にいるということを否定するものではありません。神様が共におられても、悲しいことや苦しいことも経験するのです。そかし、これらの経験は、神様の祝福を経験するためです。恵みを受けるためなのです。そのことを聖書は、今日私たち一人ひとりに語っているのです。
Ⅲ結論部
ヨセフの生涯は波乱に富んだ人生でした。もっとスマートに何とかならないかとも思います。神様が共におられるのなら、問題が何も起こらないように、いいことばかりをして下さったらいいのにと私たちは思います。ヨセフは辛い経験をしました。兄弟に裏切られ、主人の妻に裏切られ、夢を解いて幸せにしてあげた人から忘れられ裏切られました。けれども、そのような経験を通して、どの兄たちよりも自分がお父さんに愛される存在だと自負に、兄たちを見下げたり、自分中心で世界が回っているというような自己中心の彼が、苦難や悲しみを通して、ねられ、きよめられて、人格者となりました。もし、何も経験せずに、わがままなヨセフが総理大臣になっていたら、国を生かすどころか国を壊すものとなっていたのかも知れません。神様は、彼を総理大臣にするため、彼を訓練されました。必要な試練や悲しみ、痛みでした。
兄たちに裏切られ、多くの人に裏切られ、忘れられる中で、神様が共におられることの大きな恵みを経験しました。人ではなく、神様に信頼することの確実性、真実をしりました。そして、全ての経験は神様の恵みと祝福に到達することだと身をもって知ったのです。
ヨセフのこの経験は、私たちの経験でもあります。今の苦しみが、悲しみが、痛みが、問題が、恥ずかしさが、弱さが、絶望が神様の意図した恵みと祝福へと導くのです。大丈夫、何も心配することはない。イエス様はいつもあなたのそばにいます。だから、問題があっても、マイナスが訪れても安心してイエス様に全てのことをゆだねましょう。自分だけで負うことはないのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われるイエス様のもとでいこい、元気をいただきましょう。
神様は、心やさしいお方、愛なるお方です。また、私たちを問題や困難に委ねる「ワイルド」なお方でもあります。いや、神様は祝福と恵みに満ちておられるお方なのです。「神様はワイルドだろ!」そのように思うのです。この神様に信頼して、この週も歩んでまいりましょう。