2013/05/26 青葉台教会主日礼拝メッセージ
変えてくださる方
使徒言行録 3:1-19
Ⅰ.ペトロとヨハネ
今日の箇所は、弟子たちが具体的に奇跡を行う初めての場面です。ペトロとヨハネが神殿に昇る所から始まります。
当時の熱心なユダヤ教徒は、日に三度、お祈りをしていました。この習慣を守っている人たちが、ユダヤ社会では尊敬されました。神殿でも日に三度、礼拝がささげられました。朝の9時、昼の12時、昼の3時。この礼拝にあわせて、神殿に行ける人たちは神殿で祈り、それが出来ない人たちは、各自の場所で祈っていました。ダニエル書にもダニエルが日に三度の祈りをしている場面が出て来ます。
ペトロとヨハネは、どうして、そのような熱心なユダヤ人に混じって神殿に入っていったのでしょうか。エルサレム神殿に来ている信心深そうな人達の多くは、決してペトロやヨハネと仲がよかったわけではありません。それどころか、彼らこそ、イエス様を死刑にするためにローマ人に引き渡したのです。また、神殿の一角には、“アントニア要塞”という名のローマ軍の要塞があります。この要塞の中庭でイエス様は拷問を受けました。もし、ユダヤの人々が騒ぎ出したら、ローマ兵がやってくるかもしれません。そして、「十字架にかかったナザレ人イエスの弟子」と判れば、逮捕され拷問にあい、殺されるかもしれないのです。
初夏の午後三時―祈りの時。日差しは明るく、あたたか。穏やかな表情で人々が集まってきます。しかし、狂気に歪んだその顔を弟子達は知っています。「十字架にかけろ」と熱狂して叫んでいる声を、聞いている筈です。怖くなかったのでしょうか。怒りで目が眩まなかったのでしょうか。
確かに、イエス様の教えは、エルサレムから宣べ伝えられなければなりませんでした。なぜなら、イエス様は、神様のもとから来たお方である事を証しするのが弟子たちの仕事だったからです。万物を創られた神、アブラハムに祝福を約束された方、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの人々を導きだした神。その方のもとから、イエス様はこの地上に来られた・・と証しするのです。その神様は、イエスラエルの人々に救いを約束されていました。その神様の救いの契約の象徴が当時のユダヤ人にとってはエルサレム神殿でした。もし、イエス様の福音の宣教がエルサレム以外の場所から始められれば、「救いはイスラエルから始まる」というその約束を神様が破ったか、イエス様が神様のもとから来られなかった事。そのどちらかになります。神様が約束を破る・・なんて事はユダヤの人々には考えられません。ですから、エルサレムから宣教を始めなければ、イエス様は他の悪霊と同じだ!とユダヤの人たちは誤解してしまいます。エルサレムからイエス・キリストの宣教が始まるのは、神様のご計画でした。
だから、恐怖も不安も怒りも必死に押さえて、我慢して、弟子達は、神殿に足を踏み入れたのでしょうか?
いえ、ペトロとヨハネは、我慢していたわけではありません。無理していたわけでも、必死になっていたわけでもありません。とても、自然に、喜びに溢れて、普通に神殿に足を踏み入れました。そして、イエス様の父である神様に祈りを捧げていました。 なぜでしょう?
― 彼らには聖霊が与えられていたからです。パウロは、ローマ書8章でこう言っています「あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなくて、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、“アッバ、父よ”と呼ぶのです」。子は、父である神を知っています。つまり、「私たちを神の子として下さる聖霊」は、神様の事を私たちに教えてくださるのです。イエス様の十字架と復活を通して示された神様の愛を、ペトロやヨハネ達に教えてくれたのです。そして、「今もイエス・キリストは生きて働いて、あなた方と共にいます」と、おびえる魂にささやきかけたのです。弟子たちを深く愛して下さる、神の御子イエス・キリストが、自分たちと一緒にいて下さる、自分たちを愛の眼差しで見つめてくださるのです。おびえも怒りも不安も消え去り、静かな喜びで満たされたのです。
Ⅱ,足の不自由な男
ここに足の不自由な男がいました。彼は、「母の胎内にいる時から足が不自由であった」と原典で言われています。生れてから一度も立ちあがった事がなかったのです。そして、毎日、神殿に来る人々に「施し」を乞うていました。彼の日常と、神様は関係ない方でした。「確かに神様は天地を創られた全知全能のお方かもしれない。憐れみ深いかもしれない。しかし、それは罪のない立派な人にだけだろう。生れつき足が不自由のような罪深い自分とは関係ないのだ」と考えていたかもしれません。当時、体が不自由であるのは、本人か祖先の罪の結果だとされていたからです。
そんな彼が、ヨハネとペトロに、施しを乞いました。4節と5節で、ペトロとヨハネと足の不自由な男は、お互いに見つめ合います。眼差しの中で変えられる男・・十字架にかかる前夜の事を思い出します。主であるイエス様を三度否定したペトロ、その憐れなペトロを優しい大きな眼差しで包んだイエス様・・その眼差しの中で、ペトロは自分の罪と向き合う事が出来たのです。ペトロはつい2、3ケ月前の事を思い出していたでしょう。そのような交わりあう眼差しの中に、6節のペトロの言葉が響きます。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」
ペトロの持っているもの、それは、「イエスの名を信じる信仰」だと、後ろの16節でペトロは説明しています。自分の「イエス・キリストへの信仰」を、ペトロは、憐れみを乞う男に渡したのです。その信仰は、ペトロもまた、神様からいただいたものだ・・という事を、私たちは知っています。ペトロが自分で得たものではなく、神からの無償の賜物です。
私たちは、持っているものを誰かに与えると、その分、自分の持ち分は減ります。引き算です。しかし、非常に不思議な事ですが、イエス様への信仰は、誰かに伝えれば、伝えるだけ、増えていくのです。引き算の反対の足し算みたいに。それどころか掛け算のように増えていきます。
そして、ペトロは、右手を差し出し、座り込んでいる男を引き上げます。まるで、湖でおぼれそうな自分を引き上げてくれたイエス様を思い出しているようです。男は、自分の右手に人の温かみを覚えました。その直後、自分を引き上げる力を感じ、気づくと自分の足で立っていました。40年間立ちあがる事のなかった足が、大地を踏みしめています。通常、自分の体にいつもと違う異変を感じた時、戸惑い、混乱する筈です。ですが、驚くべきことに、彼はすぐに何が起こったか分かったのです。この人の気持ちは、夢のようだったと思います。筋肉と力が与えられ、歩き回り、踊り上がりました。神を賛美しました。そして、ユダヤ人たちから決して歓迎されていないペトロとヨハネと行動を共にしたのです。境内に入って、神に祈りを捧げたのでした。
彼は、先程まで、ほこりっぽい地面に張りつきながら、行きかう人々を見上げていました。希望のない時を送っていました。彼は死ねないから生きていたにすぎないのです。彼に施しをする人はいました。しかし、彼の眼をみつめる人、彼からの視線を受けとめる人、彼の事を知ろうとしてくれる人はいたでしょうか。いませんでした。彼が諦めの内に胸の奥深くにしまい込んだ呻き。その呻きに耳をかたむける人はいなかったのです。
憐れで孤独な存在、これは、足の不自由なこの男の人だけでしょうか?―いえ、イエス・キリストと出会う前のペトロを初め弟子たちの姿であり、私たち人間の姿なのです。
しかし、このような惨めで孤独である人間を、神様は愛し、救おうと決意され、聖霊を注がれるのです。イエス・キリストを信じる心を与えて、変えて下さるのです。
これは2000年前の遠い中近東の話ではありません。現代の日本で、私たちの身の周りで起こっている事です。私たちもまた、イエス様の信仰によって、神様に変えて頂いた者たちなのです。
Ⅲ 変えて下さる方
変えて下さる方は、ただ一人、イエス・キリストによって示された神、そのお方です。ペトロでもヨハネでも牧師でも教会の役員でもありません。でも、イエス・キリストへの信仰は、誰もいないところを風にのって伝わっていくものでもありません。必ず、福音を伝える者がいます。福音は、伝える者と伝えられる者との交わりの中に広がっていく・・と今日の聖書箇所は教えてくれます。ペトロは、この男と見つめ合い、そして手を差し伸べました。このように一人の人間として、相手を理解しようとし、相手と関係を持とうとし、相手の助けになろうという所に、聖霊は働き、信仰は伝わっていくのです。
ですが、この男性は、当初、自分を変えて下さった方が分かりませんでした。ペトロとヨハネが自分を歩けるようにしてくれた・・・と思っていたようです。だから、11節にあるように、ペトロとヨハネにつきまとっていました。それは、この男が立って歩いているのを見て驚いた民衆もそうでした。ペトロとヨハネがこの男を変えたのだと思っていたのです。しかし、ペトロは、続く説教の中で「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人をあるかせたかのように、なぜ私たちを見つめるのですか?」と間違いを指摘し、「イエスによる信仰がこの男を癒やした」とはっきりと宣言します。人には出来ぬ事を成して、人を変えて下さる方は、ペトロでもヨハネでもなく、イエス・キリストだと断言しています。この方こそ約束の救い主である。だから、イエス様の御名によって神様に立ち帰ろう!そうすれば罪から自由にされ、救われます・・と、エルサレムの真ん中、神殿で宣教するのです。
Ⅳ 聖霊の働きー信仰と伝道
聖霊の働きは不思議です。聖霊によって変えられた人は、必ず、その証人とされます。その人のところで、恵みが止まる事はなく、他へと伝える者へと変えられて行きます。時間がかかっても、必要なステップを踏んで変えられていきます。
しかし、イエス様の御名を伝えて行くとき、困難があります。この時も、ペテロの神殿でのメッセージをきっかけに、エルサレムでの迫害が始まりました。また、信仰を持って変えられても、戦い、葛藤はあります。繰り返し、くりかえし神様の前に立ち帰る事を迫られます。こんな弱い自分が何を伝えられるだろうか?と思う事もあるでしょう。
しかし、私たちは、自分を伝える必要はないのです。他の人間を伝える必要もないのです。私たちを変えて下さったイエス・キリストを伝えるのです。私たちが、誰かを変える必要はないのです。イエス・キリストの霊である、聖霊が働いて下さいます。
だから、いつでも聖霊が私たち自身を用いて下さるように、私たち自身を整えておく必要があります。そのために、私たちは、日々祈り、聖書を読みます。魂を整えて頂き、そして日曜日には、共に礼拝するのです。 それは、信じるため、信じ抜き、証人として鍛えて頂くためです。それがまた、私たちの命を豊かにするのです。賜物としての信仰は伝道へと発展します。そして、伝道を通じて、私たちにはより強い信仰が与えられるのです。
だから、弱さの中にあるとき、イエスを求めましょう。逆境の中にあるとき、もう祈る言葉さえも出ない時でも、聖霊は、呻きを持ってとりなしてくださる事、それだけを思い出しましょう。イエス様が私たちの魂の方向を神様へと変えてくださる事を信じましょう。自分の過ちに気づいたら、恐れずに悔い改めましょう。 神に立ち帰りましょう。そうすれば、必ず、神様は顧みてくださいます。
そして、変えられた恵みを他の方たちに伝えていくために、出来る事をしていきましょう。
イエス様を宣べ伝える過程で、私たちはより豊かに信じる者とされます。喜びで満たされます。そしてさらに、主が豊かに用いられます。ペトロもパウロも他の弟子たちもそうでした。そして、この2000年間に起こされたおびただしい証人の群れがいます。そして青葉台教会も、この証人の群れに連なっています。この証人の群れこそ、聖霊が確かに働かれている証拠です。ここに皆さんが集っている事が、聖霊の何よりの証しです。
聖霊の導きのもと、「大丈夫の神を信じ抜こう」・・変えて下さる方、イエス・キリストに全てを委ねましょう。全てを明け渡した後に、主は豊かに与えて下さいます。