江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2013年5月26日)

2013-05-27 00:22:10 | Weblog

2013/05/26 青葉台教会主日礼拝メッセージ 

変えてくださる方

使徒言行録 3:1-19

 

Ⅰ.ペトロとヨハネ

今日の箇所は、弟子たちが具体的に奇跡を行う初めての場面です。ペトロとヨハネが神殿に昇る所から始まります。

当時の熱心なユダヤ教徒は、日に三度、お祈りをしていました。この習慣を守っている人たちが、ユダヤ社会では尊敬されました。神殿でも日に三度、礼拝がささげられました。朝の9時、昼の12時、昼の3時。この礼拝にあわせて、神殿に行ける人たちは神殿で祈り、それが出来ない人たちは、各自の場所で祈っていました。ダニエル書にもダニエルが日に三度の祈りをしている場面が出て来ます。

 ペトロとヨハネは、どうして、そのような熱心なユダヤ人に混じって神殿に入っていったのでしょうか。エルサレム神殿に来ている信心深そうな人達の多くは、決してペトロやヨハネと仲がよかったわけではありません。それどころか、彼らこそ、イエス様を死刑にするためにローマ人に引き渡したのです。また、神殿の一角には、“アントニア要塞”という名のローマ軍の要塞があります。この要塞の中庭でイエス様は拷問を受けました。もし、ユダヤの人々が騒ぎ出したら、ローマ兵がやってくるかもしれません。そして、「十字架にかかったナザレ人イエスの弟子」と判れば、逮捕され拷問にあい、殺されるかもしれないのです。

 初夏の午後三時―祈りの時。日差しは明るく、あたたか。穏やかな表情で人々が集まってきます。しかし、狂気に歪んだその顔を弟子達は知っています。「十字架にかけろ」と熱狂して叫んでいる声を、聞いている筈です。怖くなかったのでしょうか。怒りで目が眩まなかったのでしょうか。

 確かに、イエス様の教えは、エルサレムから宣べ伝えられなければなりませんでした。なぜなら、イエス様は、神様のもとから来たお方である事を証しするのが弟子たちの仕事だったからです。万物を創られた神、アブラハムに祝福を約束された方、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの人々を導きだした神。その方のもとから、イエス様はこの地上に来られた・・と証しするのです。その神様は、イエスラエルの人々に救いを約束されていました。その神様の救いの契約の象徴が当時のユダヤ人にとってはエルサレム神殿でした。もし、イエス様の福音の宣教がエルサレム以外の場所から始められれば、「救いはイスラエルから始まる」というその約束を神様が破ったか、イエス様が神様のもとから来られなかった事。そのどちらかになります。神様が約束を破る・・なんて事はユダヤの人々には考えられません。ですから、エルサレムから宣教を始めなければ、イエス様は他の悪霊と同じだ!とユダヤの人たちは誤解してしまいます。エルサレムからイエス・キリストの宣教が始まるのは、神様のご計画でした。

 だから、恐怖も不安も怒りも必死に押さえて、我慢して、弟子達は、神殿に足を踏み入れたのでしょうか?

いえ、ペトロとヨハネは、我慢していたわけではありません。無理していたわけでも、必死になっていたわけでもありません。とても、自然に、喜びに溢れて、普通に神殿に足を踏み入れました。そして、イエス様の父である神様に祈りを捧げていました。 なぜでしょう? 

― 彼らには聖霊が与えられていたからです。パウロは、ローマ書8章でこう言っています「あなた方は、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなくて、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、“アッバ、父よ”と呼ぶのです」。子は、父である神を知っています。つまり、「私たちを神の子として下さる聖霊」は、神様の事を私たちに教えてくださるのです。イエス様の十字架と復活を通して示された神様の愛を、ペトロやヨハネ達に教えてくれたのです。そして、「今もイエス・キリストは生きて働いて、あなた方と共にいます」と、おびえる魂にささやきかけたのです。弟子たちを深く愛して下さる、神の御子イエス・キリストが、自分たちと一緒にいて下さる、自分たちを愛の眼差しで見つめてくださるのです。おびえも怒りも不安も消え去り、静かな喜びで満たされたのです。

 Ⅱ,足の不自由な男

ここに足の不自由な男がいました。彼は、「母の胎内にいる時から足が不自由であった」と原典で言われています。生れてから一度も立ちあがった事がなかったのです。そして、毎日、神殿に来る人々に「施し」を乞うていました。彼の日常と、神様は関係ない方でした。「確かに神様は天地を創られた全知全能のお方かもしれない。憐れみ深いかもしれない。しかし、それは罪のない立派な人にだけだろう。生れつき足が不自由のような罪深い自分とは関係ないのだ」と考えていたかもしれません。当時、体が不自由であるのは、本人か祖先の罪の結果だとされていたからです。

そんな彼が、ヨハネとペトロに、施しを乞いました。4節と5節で、ペトロとヨハネと足の不自由な男は、お互いに見つめ合います。眼差しの中で変えられる男・・十字架にかかる前夜の事を思い出します。主であるイエス様を三度否定したペトロ、その憐れなペトロを優しい大きな眼差しで包んだイエス様・・その眼差しの中で、ペトロは自分の罪と向き合う事が出来たのです。ペトロはつい2、3ケ月前の事を思い出していたでしょう。そのような交わりあう眼差しの中に、6節のペトロの言葉が響きます。

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人、イエス・キリストの名によって立ちあがり、歩きなさい」

 ペトロの持っているもの、それは、「イエスの名を信じる信仰」だと、後ろの16節でペトロは説明しています。自分の「イエス・キリストへの信仰」を、ペトロは、憐れみを乞う男に渡したのです。その信仰は、ペトロもまた、神様からいただいたものだ・・という事を、私たちは知っています。ペトロが自分で得たものではなく、神からの無償の賜物です。

私たちは、持っているものを誰かに与えると、その分、自分の持ち分は減ります。引き算です。しかし、非常に不思議な事ですが、イエス様への信仰は、誰かに伝えれば、伝えるだけ、増えていくのです。引き算の反対の足し算みたいに。それどころか掛け算のように増えていきます。

そして、ペトロは、右手を差し出し、座り込んでいる男を引き上げます。まるで、湖でおぼれそうな自分を引き上げてくれたイエス様を思い出しているようです。男は、自分の右手に人の温かみを覚えました。その直後、自分を引き上げる力を感じ、気づくと自分の足で立っていました。40年間立ちあがる事のなかった足が、大地を踏みしめています。通常、自分の体にいつもと違う異変を感じた時、戸惑い、混乱する筈です。ですが、驚くべきことに、彼はすぐに何が起こったか分かったのです。この人の気持ちは、夢のようだったと思います。筋肉と力が与えられ、歩き回り、踊り上がりました。神を賛美しました。そして、ユダヤ人たちから決して歓迎されていないペトロとヨハネと行動を共にしたのです。境内に入って、神に祈りを捧げたのでした。

彼は、先程まで、ほこりっぽい地面に張りつきながら、行きかう人々を見上げていました。希望のない時を送っていました。彼は死ねないから生きていたにすぎないのです。彼に施しをする人はいました。しかし、彼の眼をみつめる人、彼からの視線を受けとめる人、彼の事を知ろうとしてくれる人はいたでしょうか。いませんでした。彼が諦めの内に胸の奥深くにしまい込んだ呻き。その呻きに耳をかたむける人はいなかったのです。

憐れで孤独な存在、これは、足の不自由なこの男の人だけでしょうか?―いえ、イエス・キリストと出会う前のペトロを初め弟子たちの姿であり、私たち人間の姿なのです。

 しかし、このような惨めで孤独である人間を、神様は愛し、救おうと決意され、聖霊を注がれるのです。イエス・キリストを信じる心を与えて、変えて下さるのです。

 これは2000年前の遠い中近東の話ではありません。現代の日本で、私たちの身の周りで起こっている事です。私たちもまた、イエス様の信仰によって、神様に変えて頂いた者たちなのです。

 Ⅲ 変えて下さる方

変えて下さる方は、ただ一人、イエス・キリストによって示された神、そのお方です。ペトロでもヨハネでも牧師でも教会の役員でもありません。でも、イエス・キリストへの信仰は、誰もいないところを風にのって伝わっていくものでもありません。必ず、福音を伝える者がいます。福音は、伝える者と伝えられる者との交わりの中に広がっていく・・と今日の聖書箇所は教えてくれます。ペトロは、この男と見つめ合い、そして手を差し伸べました。このように一人の人間として、相手を理解しようとし、相手と関係を持とうとし、相手の助けになろうという所に、聖霊は働き、信仰は伝わっていくのです。

 ですが、この男性は、当初、自分を変えて下さった方が分かりませんでした。ペトロとヨハネが自分を歩けるようにしてくれた・・・と思っていたようです。だから、11節にあるように、ペトロとヨハネにつきまとっていました。それは、この男が立って歩いているのを見て驚いた民衆もそうでした。ペトロとヨハネがこの男を変えたのだと思っていたのです。しかし、ペトロは、続く説教の中で「わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人をあるかせたかのように、なぜ私たちを見つめるのですか?」と間違いを指摘し、「イエスによる信仰がこの男を癒やした」とはっきりと宣言します。人には出来ぬ事を成して、人を変えて下さる方は、ペトロでもヨハネでもなく、イエス・キリストだと断言しています。この方こそ約束の救い主である。だから、イエス様の御名によって神様に立ち帰ろう!そうすれば罪から自由にされ、救われます・・と、エルサレムの真ん中、神殿で宣教するのです。

Ⅳ 聖霊の働きー信仰と伝道

 聖霊の働きは不思議です。聖霊によって変えられた人は、必ず、その証人とされます。その人のところで、恵みが止まる事はなく、他へと伝える者へと変えられて行きます。時間がかかっても、必要なステップを踏んで変えられていきます。

 しかし、イエス様の御名を伝えて行くとき、困難があります。この時も、ペテロの神殿でのメッセージをきっかけに、エルサレムでの迫害が始まりました。また、信仰を持って変えられても、戦い、葛藤はあります。繰り返し、くりかえし神様の前に立ち帰る事を迫られます。こんな弱い自分が何を伝えられるだろうか?と思う事もあるでしょう。

しかし、私たちは、自分を伝える必要はないのです。他の人間を伝える必要もないのです。私たちを変えて下さったイエス・キリストを伝えるのです。私たちが、誰かを変える必要はないのです。イエス・キリストの霊である、聖霊が働いて下さいます。

だから、いつでも聖霊が私たち自身を用いて下さるように、私たち自身を整えておく必要があります。そのために、私たちは、日々祈り、聖書を読みます。魂を整えて頂き、そして日曜日には、共に礼拝するのです。 それは、信じるため、信じ抜き、証人として鍛えて頂くためです。それがまた、私たちの命を豊かにするのです。賜物としての信仰は伝道へと発展します。そして、伝道を通じて、私たちにはより強い信仰が与えられるのです。

だから、弱さの中にあるとき、イエスを求めましょう。逆境の中にあるとき、もう祈る言葉さえも出ない時でも、聖霊は、呻きを持ってとりなしてくださる事、それだけを思い出しましょう。イエス様が私たちの魂の方向を神様へと変えてくださる事を信じましょう。自分の過ちに気づいたら、恐れずに悔い改めましょう。 神に立ち帰りましょう。そうすれば、必ず、神様は顧みてくださいます。

そして、変えられた恵みを他の方たちに伝えていくために、出来る事をしていきましょう。

 イエス様を宣べ伝える過程で、私たちはより豊かに信じる者とされます。喜びで満たされます。そしてさらに、主が豊かに用いられます。ペトロもパウロも他の弟子たちもそうでした。そして、この2000年間に起こされたおびただしい証人の群れがいます。そして青葉台教会も、この証人の群れに連なっています。この証人の群れこそ、聖霊が確かに働かれている証拠です。ここに皆さんが集っている事が、聖霊の何よりの証しです。

 聖霊の導きのもと、「大丈夫の神を信じ抜こう」・・変えて下さる方、イエス・キリストに全てを委ねましょう。全てを明け渡した後に、主は豊かに与えて下さいます。

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日曜礼拝(2013年5月19日)

2013-05-19 17:24:14 | Weblog

ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)   2013.5.19

         「待った甲斐がある」 使徒言行録1:8、2:1~13

  Ⅰ導入部

おはようございます。5月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。今日はペンテコステ礼拝、聖霊降臨日です。イエス様の約束された通りに聖霊が、信じる者たちの群れに与えられました。聖霊は今も働いておられます。聖霊に導きに従う事、聖霊と共に歩むことが私たちクリスチャンの大切なことだと思います。

信じる者の群れに聖霊が与えられました。群れが大事ですね。心を一つに、思いを一つにする群れが大切なのです。昨日、一番下の娘の運動会があり見学に行きました。なかなか行ってあげることができないので、行ける時にと思い行きました。赤と白に分かれて競技をします。お互いに自分のチームを応援するわけです。自分が赤ならば赤を応援します。白ならば白を応援します。それはお互いが赤白というチームで優勝目指して応援し頑張るわけです。最近は、男の子も女の子も別ではなくて混合で競技をするようですね。私たちの時は、男子と女子がはっきりと分かれていました。男の子の方がやっぱり体力もあり、荒いし、男子女子は別でしたが、最近は、女子のほうが体も大きいし、荒いし、混ぜても大丈夫なんですね。私たちの小学生の時は、騎馬戦は男子の花でしたが、女子も騎馬戦をしていました。それに大将が男女いて、やあやあと戦う前に頑張ろうと語るのです。

運動会もチームです。群れです。一つになって、応援し励まし合う。応援合戦というのもあるようです。一致し、お互いに励まし、支え合って優勝を目指すのです。

イエス様の約束の言葉を信じて、祈り待ち望む群れに約束の通りに聖霊が与えられました。今も信じる者の群れに聖霊が与えられること、与えられていることを覚えたいと思うのです。

今日は、使徒言行録1章8節と2章1節から13節を通して、「待った甲斐がある」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部

一、イエス様の約束の言葉を信じ抜く

 イエス様は復活されて40日間にわたり、御自分がよみがえられたことを多くの人々に示しました。パウロは、コリントの信徒への手紙15章では、500人以上の人々に現れた、と記しています(15:6)。イエス様のよみがえりは、多くの人々、特にイエス様を信じる人々にとっては大きな喜びであり、励みであったことでしょう。けれども、イエス様は天に帰って行かれたのです。父なる神様の元に戻られたのです。イエス様の十二弟子たちも、イエス様のよみがえりを喜んでいる多くの人々も、イエス様がこのままずっと一緒にいて下さることを心から望んでいたことでしょう。

 けれども、イエス様は聖霊を与えると約束されました。ヨハネによる福音所16章7節では次のように語られました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」

弟子たちは、イエス様がずっと一緒にいてほしいと願う。けれども、イエス様が去っていかなければ、弁護者なる聖霊は来ない。与えられないというのです。ですから、イエス様は、復活されて40日目に天に帰られました。その時、イエス様は、父の約束、聖霊が与えられることを約束しました。エルサレムにとどまり、父の約束されたものを待つようにと命令されました。

使徒言行録1章8節を共に読みましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

イエス様は父の約束されたもの、聖霊が授けられることを約束された後、聖霊が降ると力を受けると言われました。その力はダイナマイトのような力だと言われるのですが、それは何か大きなビルディングがダイナマイトで一瞬に崩れるように、そのような力でもあるのでしょうが、この力とは言葉の力、福音の力、宣教の力だと思うのです。

2週間前に行われた日本ナザレン教団の全国教会学校教師大会の講師は、言葉の大切さ、言葉の回復、言葉の力を力説されました。ペンテコステは、この言葉の回復、言葉の力の認識、イエス様の約束の言葉に絶大なる信頼の回復だと思うのです。

その言葉に力ある業が2章に記されています。

 二、神が決められた時がある

 2章1節には、五旬祭の日が来てとあります。これは、過越しの祭から50日目に当るイスラエル民族がホレブの山(シナイ山)で律法を授かった記念日に当る日、この日に聖霊が与えられたのです。イエス様が死からよみがえられて50日目に聖霊が与えられたのでした。ですから、意味もなく、突然与えられたというよりも、神様の決められた、そこには神様の意思、思いがあるように思うのです。

 今日は、午後から故渡辺敬子姉の納骨式が行われます。癌がご自分の体に見つかった時、自分はまだイエス様を信じて洗礼を受けていないので天国に行けないと思われ、洗礼を受けたいと願われ、入院しなければならないのでと3月3日の土曜日の日に、ご家族の前で洗礼を受けられ、その次の日から入院され闘いが始まりました。姉妹はクリスチャンとしてなかなか礼拝には出席できない状況、その入院生活が、癌との闘いを礼拝として守られ、多くの人々に励ましを与えて下さいました。

 癒されて一緒に礼拝を守ることができるようにと祈りました。癒されてではありませんでしたが、何度か礼拝を共に守ることができました。それは、牧師の私には何よりも大きな励ましでした。今年のイースターの日、3月31日に渡辺姉妹は天に召されて行かれました。主イエス様がよみがえられた日、その復活の信仰を握り締めて姉妹は天に召されました。そして、今日ペンテコステを記念する日に納骨式が行われます。くしくも、今日は姉妹の誕生日の日です。これは偶然ではありません。ご家族の方々は、今日が姉妹の誕生日なので、この日にと願われたことでしょう。しかし、この日がペンテコステ、聖霊降臨日、イエス様と同じご人格である聖霊様が与えられて力を受けたのです。

 ですから、渡辺敬子姉の死は神様が介入されたという以外には考えられない。イースターの朝に召され、ペンテコステ、しかもご自分の誕生日の日に納骨式が行われる。神様が導かれたとしか考えられない姉妹の死とその後の導きです。

 五旬祭の日、イエス様が復活されて50日目に聖霊が与えられたのは神様のみ業です。イエス様が、約束された聖霊、助け主が与えられたのです。イエス様の言葉を信じた120名の群れに、一人ひとりの上に炎のような舌が分かれて一人ひとりの上にとどまったのです。舌というのだから言葉に関係するのでしょう。聖霊に満たされた人々は、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したのです。

 三、神の言葉の回復と人間の回復

イエス様の約束の言葉を信じて祈り待ち望んだ人々の上に聖霊が降りました。そして、彼らは他の国の言葉で語りだしたのです。この120名の人々はおそらくユダヤ人でしょう。ヘブライ語かアラマイ語を話していた人々ですが、彼らは、9節から11節にあるように、アジア、アフリカ、ヨーロッパから集まった人々にわかるように、ヘブライ語やアラマイ語以外の言葉で語りだしたのです。

彼らは何を語ったのでしょうか。11節の後半には、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」とあります。「神の偉大な業」を語ったのです。

リビングバイブルには、「神の偉大な奇蹟の話を聞くとはなあ・・・」とあります。アジア、アフリカ、ヨーロッパから集まっている人々が、自分の国の言葉で彼らが話しているというのも大きな驚きではありましたが、それ以上に、神の偉大な業の話しを聞いたのです。

 イエス様の十字架と復活の話しでしょう。福音です。良き音ずれを語りました。神様が私たちを愛していること。その神様が私たちの持っている罪を赦す為に、私たち罪ある者が受けるべき罰をイエス様の上に置かれた。イエス様は、神様であり罪のないお方なのに、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって苦しみのきわみを受け、死んで下さった。しかし、死んで三日目によみがえられて神であることを証明された。イエス様は40日にわたり多くの人々に、よみがえりの事実を知らせ、天に帰られ、そして10日目に聖霊を与えて下さり、その恵みの福音をアジア、アフリカ、ヨーロッパから集まった人々に伝えたのです。

 創世記11章1節には、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。」とあります。そして、2節には、「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」とあります。榎本先生は、旧約聖書一日一章では「神の言葉に依存していた者たちが、その依存点をバビロンの平野に移した。つまり、人々は自己の全存在のグルンド(根拠、基盤)を神の言におくことをやめた。神の言を不確かなものにした。」と語っています。神の言を捨てた者たちが、ひとつに集まるとろくなことがありません。

だからでしょうか、神様は彼らの言葉を混乱させて、お互いの言葉が聞き分けられないようにしたのです。そして全地に散らされたのでした。 ペンテコステ、聖霊降臨日は全地に散らされていた人々が自分の国の言葉で神の偉大な業を聞いた日でもあります。言葉の回復が与えられた日なのです。もう一度神の言に帰るようにと言う神様の導きであると思うのです。

 かつてカトリック教会が、免罪符を買えば罪が赦されるというような腐敗した状況になった時、宗教改革を進めたマルチン・ルーテルは人間の何かではなく、神の言に帰るようにと進めました。

現代も、人よりも物、人よりもお金が優先されるような時代を迎えているように思います。学校も、病院も、もしかしたら、教会も人の幸せよりも、成績や業績、肩書き、製品、名誉、数字、教勢などが優先されてしまうような現実がそこにはあります。家族の中でも、お互いが自分の都合に良いものであることが優先されてはいないでしょうか。

ペンテコステは、言葉の回復、神の言の回復であり、人間の回復でもあると思います。唯一、言葉を交わして交わる存在である人間である私たちは、メールは勿論、便利で人の時間を取らないという意味ではいいかも知れませんが、声を掛け合う。話をする。話を聞くといった人間味のある、暖かさのある関係が崩れているようにも思うのです。

ペンテコステは、聖霊降臨日である、言葉の回復です。イエス・キリスト様の福音の恵みを知った私たち、その恵みをいただいた私たちこそ、夫婦の間で、家族の間で、学校や職場の間で、助けなるお方、癒し主であるお方、慰め主であるお方、弁護者であるお方に支えられ、守られて、私たちも聖霊様に導かれて、身近にいる人々に愛の言葉をかけようではありませんか。また、時間をとって、アイホンやスマートホン、パソコンでのメールのやりとりもいいですけれど、やはり会って同じ場所で、同じ時間を共有して、お話しをしたり、聞いたりする時間を持つことも、とても大切なことだと思うのです。その中で、神様の愛の大きさ、深さ、高さを感じることができればと思うのです。

 Ⅲ結論部

イエス様の約束の通りに聖霊が与えられ、イエス様の証人として神の偉大な業が語られました。聖霊をいただくためには、イエス様の約束の言葉を信じて、待ち望む、待ち続ける、祈り続けることが必要でした。けれども、イエス様が昇天されて10日目に聖霊が与えられたのです。神様は約束を絶対に守ります。あなたを愛しておられるお方は、あなたの幸せを願っています。けれども、現実は厳しいものがあります。信仰では、祈りでは、神の言葉を読んでも、解決しない事柄が確かにあります。マイナスに覆われてしまうような経験もあるでしょう。けれども、神様は変わらずに存在され、私たちに愛を注がれ続けておられるのです。そして、個人個人に最もふさわしい導きをされるのです。

今、現実に痛みと苦しみの中にあるかも知れません。試練の只中にありかも知れません。だからこそ、今日、ペンテコステ、聖霊降臨日の記念の日、それは神の言の回復なのです。神様の言を疑ってしまうような現実の中で信じるのです。神様が、イエス様が祝福すると、大丈夫と約束しているのですから、その約束の言葉を信じるのです。信じ抜くのです。

120名の人々は待った甲斐がありました。苦労した甲斐がありました。イエス様の約束は絶対です。待てば待つほど恵みも大きいです。私たちが今経験している苦しみや痛み、悲しみは、必ず恵みとなるのです。待った甲斐があったと必ずイエス様は私たちの口を通して言わせて下さるのです。大丈夫。私はあなたに必ず答える。そう言われるイエス様の約束の言葉を信じ抜いて、この週も歩ませていただきましょう。

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日曜礼拝(2013年5月12日)

2013-05-10 22:48:22 | Weblog

日曜礼拝(復活後第6主日)母の日   2013.5.12

         「神の慰めと母の慰め」 イザヤ66:13

 Ⅰ導入部

 おはようございます。5月の第二日曜日を迎えました。先週は、岩淵兄弟がお話しをして下さいました。感謝です。先週のゴールデンウィークのお休みはいかがでしたでしょうか。それぞれに良き休み、交わりとなったことだと思います。長い休み明けの今週のお仕事や勉強は大変辛いものがあったことでしょう。

 私は、ナザレン教団の全国教会学校教師大会が大阪で開催され出席いたしました。「教会学校の再生と活性化を目指して」という主題で、主講師としてバプテスト連盟の教会教育室・青少年伝道室室長の榎本譲師、研修講師としてナザレン教団山陰の米子教会の末宗兄姉、聖会と礼拝の講師として石田理事長を向かえ、良き学びと交わりをさせていただきました。

 「教会学校の危機は教会の危機」と語られ、伝道は人集めのアイデアではないと強調されました。また、「言葉は情報伝達のための機能や道具、記号ではなく、人格である。」とも語られ、言葉の大切さを強調されました。研修講師の末宗兄も「言葉を取り戻す。心を取り戻す」と言葉の大切さを語られました。教会学校の先生方が、言葉の大切さ、聖書から何を伝えるか。聖書からその人に届く言葉をいただいて語る時、それが神の言葉となると強調された主講師の導きを実践していただきたいと思わされました。

  さて、今日は母の日です。お母さん方、いつも、いつも家族のためにありがとうございます。お母さん方の陰の、表に出ての多くの愛情を感じております。いつまでも元気でいてください。そして、ますますお母さんであるという存在が神様に豊かに用いられますようにとお祈りしております。

 河野進という先生の詩があります。「年中無休」という題です。 「お母さんは、昼も夜も休まない。 お乳屋さん、子守さん、着物屋さん、そうじ屋さん、看護婦さん、散髪屋さん、炊婦さん、家庭教師さん、洗濯屋さん、お百姓さん、お風呂屋さん、生涯無給の奉仕屋さん、心配屋さん、こんな人、ほかにいるだろうか。」 子どもにとっては、母親は全てのようです。私たちは、このお母さんの愛を通して神様の深い愛を知ることができるのです。聖書はそう示しているように思います。

 今日は、イザヤ書66章13節のみ言葉を通して、「神の慰めと母の慰め」という題でお話したいと思います。

 

Ⅱ本論部

 一、わたしを忘れない神様

 13節を皆さんと共に読みましょう。「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」 新改訳聖書では、「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあり、口語訳聖書では、「母のその子を慰めるように、わたしもあなたがたを慰める。あなたがたはエルサレムで慰めを得る。」とあり、リビングバイブルでは、「わたしはその都で、幼児が母親に慰められるように、おまえたちを慰める。」とあります。

 イスラエルの民は、母のいない孤児のような状態に長くいたので、お母さんの慰め、お母さんの養いの比喩はとても印象的です。ここでは、天からのエルサレムの慰め、喜びが、お母さんが幼子を養育する様で表わされているのです。

 子どもは、必ずお母さんの慰めが必要です。けれども、最近のお母さんは、どちらかと言うと慰めと言うよりは、激励、おせっかい、命令というのが目立つのではないかと思うのですが?いかがでしょうか。

 同じイザヤ書49章15節には、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」 ここには、慰めどころか、母親が自分の子どもを忘れようとも、とあります。母親が、自分のおなかを痛めて産んだ子どもを忘れるようなことがあるのでしょうか。そんなことはあるはずがありません。あってはなりません。けれども、人間の世界には残念ながらそのような事柄が存在するように思います。

 育児放棄という言葉があります。言葉と言うよりも行動でしょう。子どもの面倒を見ないで、自分の好きな事に熱中するお母さんの様子をあるニュースで見たことがあります。パチンコに夢中になり、車に残した子どもたちが死んだというのはきりがありません。

 全国教会学校教師大会の講師の一人の末宗兄は、お母さんがじっと赤ちゃんの目を見ながらおっぱいをあげるというのが普通ですが、最近ではおっぱいをやりながらお母さんはスマホ、アイホンに夢中であり、それは子どもたちの成長のためには、よくないことであると強調してお話ししておられました。

 現在では育児放棄を超えて幼児虐待が後を絶ちません。親の愛情をたっぷりと受けて来なかった人々が親となり、どのように愛していいのか、接していいのかがわからないというのが現実なのかも知れません。子どもも親もどちらも犠牲者なのかも知れません。

 このように、母親が乳飲み子を、子どもを忘れることがあるのです。本来は、あり得ないような事があっても、たといそのようなことがあったとしても、神様は私たちを絶対に忘れたりはしないのです。忘れる事はないと宣言して、約束しておられるのです。

 

 二、母を大切にするのは神様の命令

「お母さんは、昼も夜も休まない。 お乳屋さん、子守さん、着物屋さん、そうじ屋さん、看護婦さん、散髪屋さん、炊婦さん、家庭教師さん、洗濯屋さん、お百姓さん、お風呂屋さん、生涯無給の奉仕屋さん、心配屋さん、こんな人、ほかにいるだろうか。」との詩にあったように、お母さんのすることはたくさんあります。お母さんの仕事は、その立場は、その責任というものは、大変なものです。厳しさがあります、ですから時には、子どものことを忘れたい。育児から離れて忘れたい、休みたいというのが多くの、いや全てと言っていいでしょう。お母さん方の現実だと思います。勿論、子どもには、お母さんの慰めが必要なように、そのお母さんにも、お母さんにこそ慰めが必要なのです。

 青葉台教会は、お母さん方を助ける所でもあります。お母さんが、しばし子どもから離れることができる、誰かが子どもの相手をして少しでも子育てや子どもから解放できるので救われているのだと思います。「お母さんは、昼も夜も休まない。」のですから、教会では気にせず休んでいただけたらと思うのです。教会では全面的にお母さんを支援したいと思うのです。

 お母さんの苦労はお母さんにならなければわかるものではありません。また、環境や況も違うので、お母さんと一口に言っても違いはあるでしょう。けれども、お母さんは苦労いが多いものです。報われることも少ないでしょう。ですから、聖書は、神様はお母さんを大切にするようにと命じているのです。

 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。」」(エフェソ6:1~3)

 神様は、母を敬うようにと命令しています。自分の存在の初めであるお母さんを敬うことが、子としてなすべきことであり、幸福となるという約束なのです。

 「父と母を敬いなさい。」というのは、神様がモーセを通してイスラエルの民に与えた人間に関する戒めの、第一に示されたものでした。お母さんを敬うのは、母としての働きが大変だから、厳しいから、重要であるから、だから敬いなさいというのではありません。

母という存在の故に、母とされたということがとても大切な事ゆえに、その子どもたちはお母さんを敬うのです。大切にするのです。愛するのです。

 「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」とあるように、私たちはお母さんの慰めをいただいて成長してきました。生かされてきました。お母さんの慰めは、私たちの人生の中でどんなに大きなものだったでしょうか。今、お母さんが健在な人も、お母さんが召されていない人も、神様からお母さんが与えられた者として、お母さんに感謝すると共に、慰めを豊かに与えて下さる神様に目を止めて、神様からの豊かな慰めを感じたいと思うのです。

 

 三、必ず慰めはある

 「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」と聖書は語ります。

 昨日、佐藤彰先生の牧会する福島第一聖書バプテスト教会の献堂式があり、平木姉と坂本姉と共に出席いたしました。原発に一番近い教会として、日本中で、世界中で有名になり、流浪の教会として考えられないような厳しい歩みをされてきました。昨年、佐藤彰先生を青葉台教会にお迎えして、先生と教会員の方々の震災を通しての大変な体験と神様のくすしきみ業を聞かせていただきました。 

 昨日の献堂式には多くの方々が出席されていました。賛美あり、信徒の方の証しあり、メッセージあり、祝辞あり、特別演奏ありと2時間半を超える充実したものでした。祝辞の中にもありましたし、メッセージの中にも語られていましたが、最後に副牧師の佐藤牧将司師が挨拶をされました。

 「この2年と2カ月の間に多くの涙を流しました。それは自分の今までの35年の生涯よりも多くの涙を流したと思います。でも、それは悲しみの涙ではなく、どうしてこんなにも皆さんがよくして下さるのだろうという感謝の涙、喜びの涙でした。」と。教会を追われ、家を追われ、故郷を追われて、どんなに辛い経験だったでしょうか。何度ももうだめかと思われるような所も通された。しかし、神様は見放さなかった。見捨てなかったのです。辛い所を通されれば通れるほどに、多くの慰めがあった。励ましがあった。日本中から、いや驚くほどに世界中からの祈りがあった。だから祈られていることを感じた。支えられている事を知った。多くの物資がいろいろな所から次から次へと送られてきた。その心と思いと祈りと共に送られてきた。そこには神様の大きな慰めがあったのです。

このように素晴らしい会堂が建てられて、佐藤彰先生を初め、教会員の方々、近隣の諸教会、献堂式に集った者、福島第一聖書バプテスト教会を覚えて祈り続けてこられた人々にとって、この会堂の献堂式は大きな、大きな慰めとなったのです。

 「母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」という聖書の言葉のように、神様は慰めを与えて下さったのです。

 そして、このような慰めは、佐藤彰先生だけではなく、福島第一聖書バプテスト教会だけではなく、青葉台教会の上にも、そして私たち一人ひとりの上にも、同じように神様の大きな慰めがあるのです。

 イエス様は、私たちを愛して私たちを罪から救うために、罪の赦しを与え、私たちの魂を救うために、十字架にかかって死んで下さいました。十字架の上で、尊い血を流して下さり、御自分の命を私たちの代わりに投げ出して下さったのです。ここにこそ、神様の愛があり、神様の慰めがあるのです。このような大きな犠牲があったからこそ、慰めが与えられたのです。

 

 Ⅲ結論部

 「わたしはあなたたちを慰める。」神様はこう語られます。けれども、私たちは厳しい現実に立たされているかも知れません。佐藤彰先生のように、福島第一聖書バプテスト教会の用に、何の予告もなしに困難が降りかかるという経験をされているかも知れません。けれども、大丈夫です。神様はあなたを忘れません。お母さんが乳飲み子を忘れたとしても忘れない、と言われるのです。いや、あなたを救うためにイエス様の命が、その血がささげられたのですから、神様は忘れるはずがないのです。覚えているのです。

 佐藤彰先生とその教会員の方々が通った厳しい歩み、その中にこそ神様は共におられたのです。だからこそ、佐藤先生も、その教会員の方々も、その口々に「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」と言っておらえたのです。

 苦しいことがいいわけありません。悲しいことが良いのではありません。そのような苦しみを、悲しみを通ったけれども、神様は慰めを与え続けて下さったということなのです。

 今日は、母の日です。お母さんと幼子の関係を通して、神様の愛と慰めを示しておられるのです。私たちは、お母さんに感謝し、神様に感謝するものでありたいと思うのです。  

大丈夫、私はあなたと共いる。そしてあなたを慰める。そう語られる、そう約束されるお方と共にこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2013年5月5日) 岩淵勲兄

2013-05-10 22:48:22 | Weblog

親の心、子知らず

2013,5,5

聖書箇所;ルカ15:25-32

聖書分解;25~28 兄の怒り/父のなだめ

     29~30 兄の弟との比較による怒り

     31~32 父の招き

1.今日は、子供の日、端午の節句ともいっていた。邪気を払うため菖蒲や蓬を軒にさし、ちまきや柏餅を食べた。男子の節句とされ幟旗(のぼり)や鯉幟を立てて男子の成長を願ったが、子供が少なくなったせいか見かけることが少なくなった。

 2.本日の聖書箇所は、“放蕩息子のたとえ”として有名な箇所。

15章は、イエスさまが徴税人や罪人を集めて話をし、食事していることに対し、フアリサイ派の人々や律法学者が文句を言ったので、その答えとして譬えで、はなされたとはじまっております。

ここで3つのたとえ話をしています。

 ①見失った羊のたとえ。

百匹の羊を持っている人が一匹の羊を見失い、それを見つけ出すまで探し求め、見つけた。それを喜んで羊を肩に担いで帰り隣近所の人と共に喜んでいる。ここでは悔い改める一人の罪人については、「悔い改める必要のない99人の正しい人についてより大きな喜びが天にある。(15:7)」

②無くした銀貨のたとえ。

 10枚銀貨を持っている女の人が、一枚の銀貨をなくしたが家中を探し、見つけて喜ぶ話。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。(15:10)」

 ③放蕩息子のたとえ。

 ある人に2人の息子がいた。弟が父に自分がもらうことになっている財産を分けてくれ。(2+1の2を兄⇒弟は1/3) 

弟はそれを金に換えて持って、家から遠くの国に出ていき、放蕩の限りを尽くして財産を使い尽くしてしまい、食べる物にも困ってしまい飢え死にしそうにまでなった。我に返って悔い改め父のところに行って、息子としてではなく雇人の一人にしてもらおうとして帰っていく。父は、遠くから息子を見つけあわれに思い走りより何も聞かずに無条件に喜んで受け入れた。この息子は死んでいたのが生き返り、居なくなっていたのに見つかった。そして祝宴をはじめたとあります。

  この三つのたとえ話は、いずれも失っていたものが、神さまのもとに帰るということを羊、銀貨、弟についていっております。

 3.本日の聖書箇所は、この3つのたとえを総括して、フアリサイ派、律法学者に対していっている。このことをイエスさまは、いいたかったのであります。

 4.まず25節―28節で兄が畑から帰って、祝宴に怒って中に入ろうとしなかったとあります。何故怒ったのでしょうか。弟が帰ってきたのに腹を立てたのでしょうか。父が肥えた子牛をほふった弟の扱いにしっとしたのでしょうか。20節の父は息子を見つけて憐に思い走り寄ったことと、はっきり対立する態度であります。

 29-30節で兄はいっています。「私は何年もお父さんに一度も背いたことなく仕えてきました。それなのに子山羊一匹すらもらったことがない。それなのに、あなたのあの息子(父といわずあなた、弟といわず、第3者的にあの息子といっている)は娼婦どもと遊んで身上を食いつぶして帰ってきたのに、肥えた子牛を屠ってやっている。」

 兄はすべてを因果応報的にとらえています。赦しといったものがない考え方。不従順な弟と自分を比較して、弟が同等に扱われること、あるいは自分が一層よく扱われていないことに不平をいっているのであります。兄は一生懸命に父に仕えてきた。愛があって、父の心を理解して仕えてきたのでなく、財産をすべて手にする権利と祝福を失うのが怖いからです。不安とおそれだけで、父親の顔色をうかがいながら、表面だけ従っていたのです。自分中心です。父親に気を遣いながらおどおど仕えていたのです。

 31-32節で父は兄に言います。欲しければいつだって、あなたは料理して友達を招いて宴会をすることができるではないか。それをあなたはしないだけだ。私はそれをしてはならないと言うほどけちではない。あなたは今日まで私と一緒に生きてきて私の心がわかっていないのか。兄への指摘は律法学者たちの思い違いへの指摘でもあります。あなたがたの熱心さは、愛からでたものでなく、体裁であり、メンツであり、祝福と利益が欲しいだけだ。あなたがたの信仰は、表面だけを取り繕ったもので天の父の心をあらわしてない、と兄や律法学者等にイエスは迫っているのであります。

 15章は軽蔑されるべき者、失われた者に対する天の父の考えられないほどの愛と赦しを伝えています。福音の中心。罪人や迷い出た者を見つけるまで捜しつづける神の愛を教えています。弱い者、愚かな者、いないほうがいいと思われる者ほど大切にされて大きな喜びを以って迎え入れられるのです。その条件は悔い改めだけです。何をしなければならないという律法主義につかまった奴隷のような生活から福音の自由と喜びに戻るようにイエスは教えています。このたとえは、神さまの愛、十字架の無条件の赦しは、悔い改める者に対し一言も責めないのです。

  私たちは迷い出た一匹の羊です。なくなった一枚の銀貨です。父に背を向けた放蕩息子です。そして兄さんのように、あなたの愛にすべて安心して任せることができず、律法学者のように生きていく者でもあります。それでもイエスさまは、弟だけでなく兄をも祝福に招いているのです。こんな私たちに対して、あなたは、イエスさまの十字架の救いのゆえに、私たちのわずかな悔い改めに、走り寄って迎え入れ一言も責めないで、最高の祝宴に招いてくださっているのです。招きに応じて今週も歩んでまいりましょう。

 

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