主日礼拝(三位一体後第九主日) 2010.7.25
「お持て成しの心」 ルカ10:38-42
Ⅰ導入部
おはようございます。7月の第四主日を迎えました。今週いっぱいで7月も終わります。夏休みが始まった子どもたちは、夏休み後何日と数えながら過ごしているのかも知れません。
先週は、教会のファミリーキャンプが御殿場の東山荘で行われました。総勢48名という多くの方々が参加されました。神様の創造された自然の中で良き交わりの時が与えられました。皆様のお祈りに感謝致します。
19日の月曜日に、千葉の学園教会の献堂式が行われました。長い間、日本キリスト教短期大学のチャペルや教室を礼拝堂として間借りされてこられましたが、この度、学園教会の会堂を持つことになり、素晴らしい会堂が建築されました。18日に日曜日には、パイプオルガンのコンサートが行われ230名の方々がおいでになられたとお聞きしました。地域に開かれた教会、地域の人々に愛される教会としてすでに歩んでおられるのだなあと感じました。これからの学園教会の宣教のために、久米先生ご夫妻、ご家族、信徒の兄弟姉妹のために続けてお祈り下さい。
先週は、千葉の学園教会に車で行き中出先生と共に横浜に向かっておりました。ちょうど湾岸線から保土ヶ谷方面に向かっていた時、「長らくの運転ご苦労様です。お気をつけて運転して下さい。」と聞こえてきました。それは車のナビゲーションから聞こえてきました。朝には、「おはようございます。」との掛け声があり、ナビゲーションシステムを作られた方々が、運転する人々のために、このような案内を作成されたのだと思いますが、本当に配慮に満ちた「お持て成しの心」を感じました。私たちのあらゆる生活の中に、この配慮に満ちた「お持て成しの心」が大切なのだと思わされました。
お持て成しの心とインターネットで検索してみましたら、「お持て成しの心を意識する」というセミナーの報告がありました。これは日本スパ協会のセミナーで講師は、株式会社アステップ代表取締役の西内氏で、そのセミナーの内容が記載されていましたので少し紹介したいと思います。
「お持て成しを日本独特の美しき利他の精神と述べている。表裏のない気持ちを持ってお客様を迎えることがお持て成しであり、それが良く現れている日本の古い風習が「峠の茶屋」である。険しい坂道を息を切らして登ってくる人々に対して、峠の茶屋では全ての人に分け隔てなく無償で茶を振舞ったとされる。これこそが「お持て成し」の原点であると語る。」更に、「お持て成しは利己ではなく利他。見返りを求めない、純粋な心しか出せない思いやりの心遣いが基本。持て成す側の心がそこに入っていれば、自(おの)ずとお客様の心に伝わるものです。心が心に伝えるのです。そして、感動の連鎖がそこから生まれるのです。」」
私たちは、神様の愛と恵みをいただいて、「お持て成しの心を意識する教会」を形成していきたいと思うのです。
今日は、ルカによる福音書10章38節から42節を通して、「お持て成しの心」と題してお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈あなたはあなたらしく生きる
今日の聖書の箇所は、まさにマルタのイエス様一行に対するお持て成しのお話なのだろうと思います。38節には、ある村とありますがベタニヤです。エルサレムからは、3キロほどの所にあります。
イエス様は、このマルタ、マリア、ラザロの家にはよく訪問されたようです。兄弟三人でがんばって生きている彼らをイエス様は励ましておられたのだと思います。また、イエス様や弟子たちにとっては、心休まるあるいは歓迎される場所でありました。皆さんも、あの家に行けば、心休まるとか安心するとか。歓迎していただける。ご馳走していただけるという家があるのだと思います。イエス様も弟子たちも、いつもマルタの手料理に満足していたのでしょう。
マルタはイエス様とその一行を迎えてはりきっていました。久しぶりの訪問であったのかも知れません。だからこそ、心を込めて、精一杯のお持て成しをしようと思いました。あなたはゲスト、わたしはホステスという感じです。
39節を共に読みましょう。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」 マリアは最初から何もしないでイエス様の話を聞いていたように感じます。瀬尾要造先生は、「瀬尾要造ルカの福音書を語る」という注解書では次のように語っておられます。「客間に案内されたイエスは弟子たちを教え始められた。それを知った妹のマリアは、自分にあてがわれた仕事を終わると、急いで行き、主の足もとにすわり、イエスのことばに取りすがるようにして耳を傾けていた。その間姉のマルタは台所と食堂の間を忙しそうに行き来している。」
マルタとマリアの性格の違いがあります。瀬尾先生は、マルタは山海の珍味でもてなそうとしている、と語っておられます。マリアは静、マルタは動でしょうか。杉田先生が以前語って下さったように、「みんな違ってみんないい」のです。同じようにならなければならないということはありません。静かな人は静かなりに、ゆっくりな人はゆっくり。早い人は早く。動く人はよく動いて。みんな違うからこそいいのです。
この聖書の箇所から、マリアはイエス様のそばで、イエス様のお話を聞いてよい信仰で、マルタは忙しくしすぎて爆発してしまい、その信仰がちょっと!と言われ、マリアの方に軍配が上がるということがよくあります。
イエス様はマルタを愛しておられました。ヨハネによる福音書11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とあります。マルタとその姉妹とあります。マルタとマリアではなく、その姉妹とヨハネは記しています。まるでイエス様はマリアよりもマルタを愛しているかのようにも感じさせます。リビングバイブルには、「イエスは、マルタたち三人を心から愛しておられた。」とあります。イエス様は、マルタ、マリア、ラザロを同じように愛されていたと思いますが、リビングバイブルの言葉を見ると、マルタたち3人とあり、マルタが最も愛されていたと思わせるような感じもあります。
イエス様は、ご自分たちが訪れるたびに、持て成してくれるマルタの心を知り感謝しておられました。そして、持て成すことでイエス様に仕えているマルタの働きを喜んでおられたのです。私たちもそれぞれができる最善の形でイエス様に仕えているその姿勢をイエス様は喜んでおられるのです。ですから、他の人と比べたり、他の人の何かで一喜一憂したりしないようにと思うのです。
⒉批判することが問題
マルタは自分の得意の分野でイエス様に仕えることを喜びとしていました。40節を共に読みましょう。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」 マルタはイエス様とその一行を喜んで迎え入れました。いつもお忙しいイエス様と弟子たちに、心からのお持て成しをして日頃の疲れを癒していただきたいからです。イエス様の満足する顔、癒されたイエス様のお姿を見ることがマルタにとっては大きな喜びでした。けれども、その持て成しのためにせわしく働きすぎました。大勢の人々に持て成さなければならない状況の中でてんてこ舞いの忙しさでした。
リビングバイブルには次のように記されています。「一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさ。「「どんなごちそうで、おもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも・・・。」気をつかうことばかりです。とうとうイエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が、目が回るほど忙しい思いをしているのに、まあ、どうでしょう。妹ったら、何もしないで座ってるだけなんですから。不公平じゃございません?少しは手伝いをするように、おっしゃってくださいな。」」
人のために気を使うことは何も悪くありません。大切なことです。忙しくすること、それも別に悪くありません。忙しいということは、充実しているということでもあります。ここでマルタの問題は、気を使ったことでも、忙しいことでもありません。イエス様のためにと喜んで始めた奉仕が、いつの間にか気を使いすぎて、忙しすぎて、てんてこ舞いになり、落ち着きがなくなり、自分の思う通りにならないことで腹を立て、何もしないマリアの行為、座っているだけのマリアを批判しました。自分の一生懸命さと座っているだけのマリアと比べて、自分はがんばっているのに。自分だけがこんなに気を使い。てんてこ舞いで苦しい思いをして、マリアの行為が憎たらしくなりました。今の座っているだけの行為を憎たらしいと思うだけでなく、次から次へとマリアのあの事、以前のあの事と思い出されて怒りが頂点に達しました。それと同時に、自分がイエス様のためにこんなにも気を使い、てんてこ舞いで準備しているのに、私のがんばりを認めてくれないイエス様に対して、座っているだけで何もしないマリアの行為を当たり前のように感じて話を続けているイエス様に対しても怒りが込み上げてきました。今までのイエス様のマリアに対する行為を見逃してこられた事柄が思い出され、イエス様に対する批判が込み上げてきました。
ですから、イエス様が話しておられる最中にもかかわらず、その話に割って入って大きな声を張り上げて言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 この時のマルタの顔はどんな顔だったのか。どのような表情をしていたのかなあと思いました。恐らく、髪の毛を振り乱して、目が釣りあがり、怖い顔をしていたのだと思います。いつもの笑顔のマルタとは別人でした。 やさしそうなお母さん方は、子どもやご主人を叱る時には、おそらく怖い顔をしているのだと思います。人を批判したり、攻撃したりする時は、その表情はやはり怖いのです。平安や喜びはないのです。
喜んで笑顔でイエス様を迎え入れたマルタの表情や姿はどこにもありませんでした。その心には、平安もイエス様に対する愛も信頼もなかったのだと思うのです。ここにこそ問題がありました。私たちは、大丈夫でしょうか。心の中に平安や喜びを失うと人を批判したり、神様を批判したりするようになるのです。あなたの今の人に対する態度や神様に対する態度や思いはどうでしょうか。
⒊愛で初めて愛で終わる
マリアとイエス様を批判して、自分を手伝うようにとイエス様に詰め寄ったマルタに対してイエス様はやさしく語られたのです。41節と42節を共に読みましょう。「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」 まず、イエス様はマルタが多くのことで思い悩み、心を乱しているということを示されました。案外、私たちは自分の怒りや攻撃的な態度や言葉に気づかないものです。言われて「はっ」とすることも多くあります。マルタが今どういう状態であるかということを語られました。けれども、マルタの行為を責めておられるわけではありません。
リビングバイブルには、「しかし主は、やさしくマルタをたしなめました。」とありますから、マルタにも問題はあったのでしょう。マルタは自分の喜びの、そして愛の奉仕がいつの間にか、自分のしていることが一番大切で、重要で、マリアの態度を座っているだけ、つまり何もしていないと判断し、一生懸命に働く自分と比べてイライラし、それを容認しておられるイエス様に対してもイライラしました。イエス様への愛からというマルタの思いは、どこかへ吹っ飛んでしまい、大切な重要な働きをしている自分を手伝わないマリアに対して怒りと憤りを感じたのです。
忙しくてもイライラすることなく奉仕する人もいます。ですから、マルタもどんなに気を使い、てんてこ舞いの忙しさの中でも、マルタを悩ましたり、イライラしたりする事から守られる道もありました。イエス様に対する愛や仕えることの喜びと感謝、その喜びや感謝が疲れや忙しさよりも大きければ、マリアやイエス様を批判することはなかったのだろうと思うのです。
イエス様は、マリアの行為がマルタの行為よりも正しいとも良いとも言っておられません。もしそうなら、「ここへ来てマリアの横に座り話を聞きなさい。」と言われたことでしょう。 ただ、マリアの行為を批判したことに対して、必要なことはひとつであり、マリアは良いほうを選んだ、と言われたのです。
「必要なことはただ一つだけである。」ということを、瀬尾先生は次のように語っておられます。「「他のものを全部持ったとしても、他のものが全部揃ったとしても、それを持たなければ他のものが全部駄目になるというもの」である。すなわち「何を失っても、これだけは失ってはならないものが、必要なことはただ一つだけ」なのである。」
イエス様も全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうかと言われました。マリアはみ言葉に触れるという、なくてはならないことを選び、それを大切なものとしたのです。私たちも、全ての物を持っても、全ての物を揃えても、聖書の言葉に触れ、み言葉に従って歩まないならば、大切なものを失うことになるのだと思うのです。
マルタの持て成しは、いつの間にか、「お持て成しは利己ではなく利他。見返りを求めない、純粋な心しか出せない思いやりの心遣いが基本。持て成す側の心がそこに入っていれば、自(おの)ずとお客様の心に伝わるものです。心が心に伝えるのです。そして、感動の連鎖がそこから生まれるのです。」と最初お話しした事とは、まるで違う方向に行ってしまったのです。
Ⅲ結論部
瀬尾先生は、もう一つこの時のイエス様は十字架におかかりになる時とはそう遠くない時であり、そうした緊迫状態である時に、山海の珍味を食卓に並べられても、そうしたものを望んではおられなかった。群衆を避けて静かな場所を求めておられた。マルタはその事に気づかずに、いつものように持て成そうとした。しかし、マリアはそれに気づき、イエス様のそばでお言葉を聞いた。ですから、ここでの持て成しとは、いろいろとご馳走と作るというよりも、むしろ静かな場所と休息、そして、イエス様との交わり、主の言葉に触れるということが最高のお持て成しだったのだと思うのです。
私たちもおなかの調子が悪かったり、胃が痛いのにどんなにご馳走を並べられてもかえって辛いものです。それよりも胃にやさしいおかゆと休息の方が、最高のお持て成しになるのではないでしょうか。何でも多いことが大きいことが忙しいことが良いとは限りません。時には何もなくても静まることが大切な事だと思うのです。
神戸での教会教育委員会の折、ナザレン教団に入られた米子伝道所の末宗兄から贈られてきた1冊の本をいただきました。「いま子どもがあぶない」という本です。メディアに対する子どもたちの影響を示してくれる本です。テレビやビデオ、ゲームなどが日本の社会に入ってきて、子どもたちに多くの問題を与えている。不登校、引きこもり、切れる。子どもたちの犯罪、学級崩壊、ニート、フリーターは、子どもたちの脳が疲れている。慢性疲労なのでゆっくり休むことが大切であるということが記されています。何かをすることではなく、休むことが問題に対する対処、ある意味では持て成しなのです。
私たち自身にも、家族や近くにいる人々にも、重要なこと、大切なことが多くあるのでしょう。仕事や勉強、人間関係、あるいは楽しみもあるのでしょう。それも大切ですが、最も大切なことは、私と神様との関係です。その関係の如何(いかん)で、対人間関係が決まると言えます。働きすぎて、勉強しすぎて、忙しすぎて、がんばり過ぎて、ちょっとしたことにイライラし、別にたいしたことでもないことに腹を立て、クリスチャンとして恥ずかしい言葉を口にするような事があるかも知れません。それは、神様との関係、聖書の言葉を介しての神様とのかかわりに問題があるのかも知れません。
どうしようもない私たちの罪のために、命を投げ出し、十字架にかかって下さったイエス様の愛を思い、愛されていることを感謝し、聖書の言葉を通して神様と交わり、静まる時、神様の愛で満たされ、恵みで満たされると、今まで自分を悩ませていたことや腹の立つことに対して神様の目線で見ることができ、一段と高いところからその問題を見ることができるので、今まで自分を悩ませていたことや腹を立てていたことが本当に小さく、取るに足りないものであることがわかると心に平安と感謝、喜びがわきあがるのではないでしょうか。
私たちは、この週もみ言葉を通して、イエス様との深い関係を築き、落ちついた心、平安をいただいて、これから起こる様々な問題に対処することができるのです。イエス様こそ、最高のお持て成しの心を持つ方であることを覚え、この方と交わり、このお方との関係を保ち、私たちの周りにいる人々に、最高のお持て成しの心を持って仕えて生きたいと思うのです。
「お持て成しの心」 ルカ10:38-42
Ⅰ導入部
おはようございます。7月の第四主日を迎えました。今週いっぱいで7月も終わります。夏休みが始まった子どもたちは、夏休み後何日と数えながら過ごしているのかも知れません。
先週は、教会のファミリーキャンプが御殿場の東山荘で行われました。総勢48名という多くの方々が参加されました。神様の創造された自然の中で良き交わりの時が与えられました。皆様のお祈りに感謝致します。
19日の月曜日に、千葉の学園教会の献堂式が行われました。長い間、日本キリスト教短期大学のチャペルや教室を礼拝堂として間借りされてこられましたが、この度、学園教会の会堂を持つことになり、素晴らしい会堂が建築されました。18日に日曜日には、パイプオルガンのコンサートが行われ230名の方々がおいでになられたとお聞きしました。地域に開かれた教会、地域の人々に愛される教会としてすでに歩んでおられるのだなあと感じました。これからの学園教会の宣教のために、久米先生ご夫妻、ご家族、信徒の兄弟姉妹のために続けてお祈り下さい。
先週は、千葉の学園教会に車で行き中出先生と共に横浜に向かっておりました。ちょうど湾岸線から保土ヶ谷方面に向かっていた時、「長らくの運転ご苦労様です。お気をつけて運転して下さい。」と聞こえてきました。それは車のナビゲーションから聞こえてきました。朝には、「おはようございます。」との掛け声があり、ナビゲーションシステムを作られた方々が、運転する人々のために、このような案内を作成されたのだと思いますが、本当に配慮に満ちた「お持て成しの心」を感じました。私たちのあらゆる生活の中に、この配慮に満ちた「お持て成しの心」が大切なのだと思わされました。
お持て成しの心とインターネットで検索してみましたら、「お持て成しの心を意識する」というセミナーの報告がありました。これは日本スパ協会のセミナーで講師は、株式会社アステップ代表取締役の西内氏で、そのセミナーの内容が記載されていましたので少し紹介したいと思います。
「お持て成しを日本独特の美しき利他の精神と述べている。表裏のない気持ちを持ってお客様を迎えることがお持て成しであり、それが良く現れている日本の古い風習が「峠の茶屋」である。険しい坂道を息を切らして登ってくる人々に対して、峠の茶屋では全ての人に分け隔てなく無償で茶を振舞ったとされる。これこそが「お持て成し」の原点であると語る。」更に、「お持て成しは利己ではなく利他。見返りを求めない、純粋な心しか出せない思いやりの心遣いが基本。持て成す側の心がそこに入っていれば、自(おの)ずとお客様の心に伝わるものです。心が心に伝えるのです。そして、感動の連鎖がそこから生まれるのです。」」
私たちは、神様の愛と恵みをいただいて、「お持て成しの心を意識する教会」を形成していきたいと思うのです。
今日は、ルカによる福音書10章38節から42節を通して、「お持て成しの心」と題してお話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
⒈あなたはあなたらしく生きる
今日の聖書の箇所は、まさにマルタのイエス様一行に対するお持て成しのお話なのだろうと思います。38節には、ある村とありますがベタニヤです。エルサレムからは、3キロほどの所にあります。
イエス様は、このマルタ、マリア、ラザロの家にはよく訪問されたようです。兄弟三人でがんばって生きている彼らをイエス様は励ましておられたのだと思います。また、イエス様や弟子たちにとっては、心休まるあるいは歓迎される場所でありました。皆さんも、あの家に行けば、心休まるとか安心するとか。歓迎していただける。ご馳走していただけるという家があるのだと思います。イエス様も弟子たちも、いつもマルタの手料理に満足していたのでしょう。
マルタはイエス様とその一行を迎えてはりきっていました。久しぶりの訪問であったのかも知れません。だからこそ、心を込めて、精一杯のお持て成しをしようと思いました。あなたはゲスト、わたしはホステスという感じです。
39節を共に読みましょう。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」 マリアは最初から何もしないでイエス様の話を聞いていたように感じます。瀬尾要造先生は、「瀬尾要造ルカの福音書を語る」という注解書では次のように語っておられます。「客間に案内されたイエスは弟子たちを教え始められた。それを知った妹のマリアは、自分にあてがわれた仕事を終わると、急いで行き、主の足もとにすわり、イエスのことばに取りすがるようにして耳を傾けていた。その間姉のマルタは台所と食堂の間を忙しそうに行き来している。」
マルタとマリアの性格の違いがあります。瀬尾先生は、マルタは山海の珍味でもてなそうとしている、と語っておられます。マリアは静、マルタは動でしょうか。杉田先生が以前語って下さったように、「みんな違ってみんないい」のです。同じようにならなければならないということはありません。静かな人は静かなりに、ゆっくりな人はゆっくり。早い人は早く。動く人はよく動いて。みんな違うからこそいいのです。
この聖書の箇所から、マリアはイエス様のそばで、イエス様のお話を聞いてよい信仰で、マルタは忙しくしすぎて爆発してしまい、その信仰がちょっと!と言われ、マリアの方に軍配が上がるということがよくあります。
イエス様はマルタを愛しておられました。ヨハネによる福音書11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とあります。マルタとその姉妹とあります。マルタとマリアではなく、その姉妹とヨハネは記しています。まるでイエス様はマリアよりもマルタを愛しているかのようにも感じさせます。リビングバイブルには、「イエスは、マルタたち三人を心から愛しておられた。」とあります。イエス様は、マルタ、マリア、ラザロを同じように愛されていたと思いますが、リビングバイブルの言葉を見ると、マルタたち3人とあり、マルタが最も愛されていたと思わせるような感じもあります。
イエス様は、ご自分たちが訪れるたびに、持て成してくれるマルタの心を知り感謝しておられました。そして、持て成すことでイエス様に仕えているマルタの働きを喜んでおられたのです。私たちもそれぞれができる最善の形でイエス様に仕えているその姿勢をイエス様は喜んでおられるのです。ですから、他の人と比べたり、他の人の何かで一喜一憂したりしないようにと思うのです。
⒉批判することが問題
マルタは自分の得意の分野でイエス様に仕えることを喜びとしていました。40節を共に読みましょう。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」 マルタはイエス様とその一行を喜んで迎え入れました。いつもお忙しいイエス様と弟子たちに、心からのお持て成しをして日頃の疲れを癒していただきたいからです。イエス様の満足する顔、癒されたイエス様のお姿を見ることがマルタにとっては大きな喜びでした。けれども、その持て成しのためにせわしく働きすぎました。大勢の人々に持て成さなければならない状況の中でてんてこ舞いの忙しさでした。
リビングバイブルには次のように記されています。「一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさ。「「どんなごちそうで、おもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも・・・。」気をつかうことばかりです。とうとうイエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が、目が回るほど忙しい思いをしているのに、まあ、どうでしょう。妹ったら、何もしないで座ってるだけなんですから。不公平じゃございません?少しは手伝いをするように、おっしゃってくださいな。」」
人のために気を使うことは何も悪くありません。大切なことです。忙しくすること、それも別に悪くありません。忙しいということは、充実しているということでもあります。ここでマルタの問題は、気を使ったことでも、忙しいことでもありません。イエス様のためにと喜んで始めた奉仕が、いつの間にか気を使いすぎて、忙しすぎて、てんてこ舞いになり、落ち着きがなくなり、自分の思う通りにならないことで腹を立て、何もしないマリアの行為、座っているだけのマリアを批判しました。自分の一生懸命さと座っているだけのマリアと比べて、自分はがんばっているのに。自分だけがこんなに気を使い。てんてこ舞いで苦しい思いをして、マリアの行為が憎たらしくなりました。今の座っているだけの行為を憎たらしいと思うだけでなく、次から次へとマリアのあの事、以前のあの事と思い出されて怒りが頂点に達しました。それと同時に、自分がイエス様のためにこんなにも気を使い、てんてこ舞いで準備しているのに、私のがんばりを認めてくれないイエス様に対して、座っているだけで何もしないマリアの行為を当たり前のように感じて話を続けているイエス様に対しても怒りが込み上げてきました。今までのイエス様のマリアに対する行為を見逃してこられた事柄が思い出され、イエス様に対する批判が込み上げてきました。
ですから、イエス様が話しておられる最中にもかかわらず、その話に割って入って大きな声を張り上げて言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 この時のマルタの顔はどんな顔だったのか。どのような表情をしていたのかなあと思いました。恐らく、髪の毛を振り乱して、目が釣りあがり、怖い顔をしていたのだと思います。いつもの笑顔のマルタとは別人でした。 やさしそうなお母さん方は、子どもやご主人を叱る時には、おそらく怖い顔をしているのだと思います。人を批判したり、攻撃したりする時は、その表情はやはり怖いのです。平安や喜びはないのです。
喜んで笑顔でイエス様を迎え入れたマルタの表情や姿はどこにもありませんでした。その心には、平安もイエス様に対する愛も信頼もなかったのだと思うのです。ここにこそ問題がありました。私たちは、大丈夫でしょうか。心の中に平安や喜びを失うと人を批判したり、神様を批判したりするようになるのです。あなたの今の人に対する態度や神様に対する態度や思いはどうでしょうか。
⒊愛で初めて愛で終わる
マリアとイエス様を批判して、自分を手伝うようにとイエス様に詰め寄ったマルタに対してイエス様はやさしく語られたのです。41節と42節を共に読みましょう。「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」 まず、イエス様はマルタが多くのことで思い悩み、心を乱しているということを示されました。案外、私たちは自分の怒りや攻撃的な態度や言葉に気づかないものです。言われて「はっ」とすることも多くあります。マルタが今どういう状態であるかということを語られました。けれども、マルタの行為を責めておられるわけではありません。
リビングバイブルには、「しかし主は、やさしくマルタをたしなめました。」とありますから、マルタにも問題はあったのでしょう。マルタは自分の喜びの、そして愛の奉仕がいつの間にか、自分のしていることが一番大切で、重要で、マリアの態度を座っているだけ、つまり何もしていないと判断し、一生懸命に働く自分と比べてイライラし、それを容認しておられるイエス様に対してもイライラしました。イエス様への愛からというマルタの思いは、どこかへ吹っ飛んでしまい、大切な重要な働きをしている自分を手伝わないマリアに対して怒りと憤りを感じたのです。
忙しくてもイライラすることなく奉仕する人もいます。ですから、マルタもどんなに気を使い、てんてこ舞いの忙しさの中でも、マルタを悩ましたり、イライラしたりする事から守られる道もありました。イエス様に対する愛や仕えることの喜びと感謝、その喜びや感謝が疲れや忙しさよりも大きければ、マリアやイエス様を批判することはなかったのだろうと思うのです。
イエス様は、マリアの行為がマルタの行為よりも正しいとも良いとも言っておられません。もしそうなら、「ここへ来てマリアの横に座り話を聞きなさい。」と言われたことでしょう。 ただ、マリアの行為を批判したことに対して、必要なことはひとつであり、マリアは良いほうを選んだ、と言われたのです。
「必要なことはただ一つだけである。」ということを、瀬尾先生は次のように語っておられます。「「他のものを全部持ったとしても、他のものが全部揃ったとしても、それを持たなければ他のものが全部駄目になるというもの」である。すなわち「何を失っても、これだけは失ってはならないものが、必要なことはただ一つだけ」なのである。」
イエス様も全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうかと言われました。マリアはみ言葉に触れるという、なくてはならないことを選び、それを大切なものとしたのです。私たちも、全ての物を持っても、全ての物を揃えても、聖書の言葉に触れ、み言葉に従って歩まないならば、大切なものを失うことになるのだと思うのです。
マルタの持て成しは、いつの間にか、「お持て成しは利己ではなく利他。見返りを求めない、純粋な心しか出せない思いやりの心遣いが基本。持て成す側の心がそこに入っていれば、自(おの)ずとお客様の心に伝わるものです。心が心に伝えるのです。そして、感動の連鎖がそこから生まれるのです。」と最初お話しした事とは、まるで違う方向に行ってしまったのです。
Ⅲ結論部
瀬尾先生は、もう一つこの時のイエス様は十字架におかかりになる時とはそう遠くない時であり、そうした緊迫状態である時に、山海の珍味を食卓に並べられても、そうしたものを望んではおられなかった。群衆を避けて静かな場所を求めておられた。マルタはその事に気づかずに、いつものように持て成そうとした。しかし、マリアはそれに気づき、イエス様のそばでお言葉を聞いた。ですから、ここでの持て成しとは、いろいろとご馳走と作るというよりも、むしろ静かな場所と休息、そして、イエス様との交わり、主の言葉に触れるということが最高のお持て成しだったのだと思うのです。
私たちもおなかの調子が悪かったり、胃が痛いのにどんなにご馳走を並べられてもかえって辛いものです。それよりも胃にやさしいおかゆと休息の方が、最高のお持て成しになるのではないでしょうか。何でも多いことが大きいことが忙しいことが良いとは限りません。時には何もなくても静まることが大切な事だと思うのです。
神戸での教会教育委員会の折、ナザレン教団に入られた米子伝道所の末宗兄から贈られてきた1冊の本をいただきました。「いま子どもがあぶない」という本です。メディアに対する子どもたちの影響を示してくれる本です。テレビやビデオ、ゲームなどが日本の社会に入ってきて、子どもたちに多くの問題を与えている。不登校、引きこもり、切れる。子どもたちの犯罪、学級崩壊、ニート、フリーターは、子どもたちの脳が疲れている。慢性疲労なのでゆっくり休むことが大切であるということが記されています。何かをすることではなく、休むことが問題に対する対処、ある意味では持て成しなのです。
私たち自身にも、家族や近くにいる人々にも、重要なこと、大切なことが多くあるのでしょう。仕事や勉強、人間関係、あるいは楽しみもあるのでしょう。それも大切ですが、最も大切なことは、私と神様との関係です。その関係の如何(いかん)で、対人間関係が決まると言えます。働きすぎて、勉強しすぎて、忙しすぎて、がんばり過ぎて、ちょっとしたことにイライラし、別にたいしたことでもないことに腹を立て、クリスチャンとして恥ずかしい言葉を口にするような事があるかも知れません。それは、神様との関係、聖書の言葉を介しての神様とのかかわりに問題があるのかも知れません。
どうしようもない私たちの罪のために、命を投げ出し、十字架にかかって下さったイエス様の愛を思い、愛されていることを感謝し、聖書の言葉を通して神様と交わり、静まる時、神様の愛で満たされ、恵みで満たされると、今まで自分を悩ませていたことや腹の立つことに対して神様の目線で見ることができ、一段と高いところからその問題を見ることができるので、今まで自分を悩ませていたことや腹を立てていたことが本当に小さく、取るに足りないものであることがわかると心に平安と感謝、喜びがわきあがるのではないでしょうか。
私たちは、この週もみ言葉を通して、イエス様との深い関係を築き、落ちついた心、平安をいただいて、これから起こる様々な問題に対処することができるのです。イエス様こそ、最高のお持て成しの心を持つ方であることを覚え、この方と交わり、このお方との関係を保ち、私たちの周りにいる人々に、最高のお持て成しの心を持って仕えて生きたいと思うのです。