江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

主日礼拝(2010年7月25日)

2010-07-25 12:31:13 | Weblog
                 主日礼拝(三位一体後第九主日)    2010.7.25
           
                    「お持て成しの心」 ルカ10:38-42

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第四主日を迎えました。今週いっぱいで7月も終わります。夏休みが始まった子どもたちは、夏休み後何日と数えながら過ごしているのかも知れません。
 先週は、教会のファミリーキャンプが御殿場の東山荘で行われました。総勢48名という多くの方々が参加されました。神様の創造された自然の中で良き交わりの時が与えられました。皆様のお祈りに感謝致します。
 19日の月曜日に、千葉の学園教会の献堂式が行われました。長い間、日本キリスト教短期大学のチャペルや教室を礼拝堂として間借りされてこられましたが、この度、学園教会の会堂を持つことになり、素晴らしい会堂が建築されました。18日に日曜日には、パイプオルガンのコンサートが行われ230名の方々がおいでになられたとお聞きしました。地域に開かれた教会、地域の人々に愛される教会としてすでに歩んでおられるのだなあと感じました。これからの学園教会の宣教のために、久米先生ご夫妻、ご家族、信徒の兄弟姉妹のために続けてお祈り下さい。
 先週は、千葉の学園教会に車で行き中出先生と共に横浜に向かっておりました。ちょうど湾岸線から保土ヶ谷方面に向かっていた時、「長らくの運転ご苦労様です。お気をつけて運転して下さい。」と聞こえてきました。それは車のナビゲーションから聞こえてきました。朝には、「おはようございます。」との掛け声があり、ナビゲーションシステムを作られた方々が、運転する人々のために、このような案内を作成されたのだと思いますが、本当に配慮に満ちた「お持て成しの心」を感じました。私たちのあらゆる生活の中に、この配慮に満ちた「お持て成しの心」が大切なのだと思わされました。
 お持て成しの心とインターネットで検索してみましたら、「お持て成しの心を意識する」というセミナーの報告がありました。これは日本スパ協会のセミナーで講師は、株式会社アステップ代表取締役の西内氏で、そのセミナーの内容が記載されていましたので少し紹介したいと思います。
 「お持て成しを日本独特の美しき利他の精神と述べている。表裏のない気持ちを持ってお客様を迎えることがお持て成しであり、それが良く現れている日本の古い風習が「峠の茶屋」である。険しい坂道を息を切らして登ってくる人々に対して、峠の茶屋では全ての人に分け隔てなく無償で茶を振舞ったとされる。これこそが「お持て成し」の原点であると語る。」更に、「お持て成しは利己ではなく利他。見返りを求めない、純粋な心しか出せない思いやりの心遣いが基本。持て成す側の心がそこに入っていれば、自(おの)ずとお客様の心に伝わるものです。心が心に伝えるのです。そして、感動の連鎖がそこから生まれるのです。」」
 私たちは、神様の愛と恵みをいただいて、「お持て成しの心を意識する教会」を形成していきたいと思うのです。
 今日は、ルカによる福音書10章38節から42節を通して、「お持て成しの心」と題してお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈あなたはあなたらしく生きる
 今日の聖書の箇所は、まさにマルタのイエス様一行に対するお持て成しのお話なのだろうと思います。38節には、ある村とありますがベタニヤです。エルサレムからは、3キロほどの所にあります。
 イエス様は、このマルタ、マリア、ラザロの家にはよく訪問されたようです。兄弟三人でがんばって生きている彼らをイエス様は励ましておられたのだと思います。また、イエス様や弟子たちにとっては、心休まるあるいは歓迎される場所でありました。皆さんも、あの家に行けば、心休まるとか安心するとか。歓迎していただける。ご馳走していただけるという家があるのだと思います。イエス様も弟子たちも、いつもマルタの手料理に満足していたのでしょう。
 マルタはイエス様とその一行を迎えてはりきっていました。久しぶりの訪問であったのかも知れません。だからこそ、心を込めて、精一杯のお持て成しをしようと思いました。あなたはゲスト、わたしはホステスという感じです。
 39節を共に読みましょう。「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」 マリアは最初から何もしないでイエス様の話を聞いていたように感じます。瀬尾要造先生は、「瀬尾要造ルカの福音書を語る」という注解書では次のように語っておられます。「客間に案内されたイエスは弟子たちを教え始められた。それを知った妹のマリアは、自分にあてがわれた仕事を終わると、急いで行き、主の足もとにすわり、イエスのことばに取りすがるようにして耳を傾けていた。その間姉のマルタは台所と食堂の間を忙しそうに行き来している。」
 マルタとマリアの性格の違いがあります。瀬尾先生は、マルタは山海の珍味でもてなそうとしている、と語っておられます。マリアは静、マルタは動でしょうか。杉田先生が以前語って下さったように、「みんな違ってみんないい」のです。同じようにならなければならないということはありません。静かな人は静かなりに、ゆっくりな人はゆっくり。早い人は早く。動く人はよく動いて。みんな違うからこそいいのです。
 この聖書の箇所から、マリアはイエス様のそばで、イエス様のお話を聞いてよい信仰で、マルタは忙しくしすぎて爆発してしまい、その信仰がちょっと!と言われ、マリアの方に軍配が上がるということがよくあります。
 イエス様はマルタを愛しておられました。ヨハネによる福音書11章5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とあります。マルタとその姉妹とあります。マルタとマリアではなく、その姉妹とヨハネは記しています。まるでイエス様はマリアよりもマルタを愛しているかのようにも感じさせます。リビングバイブルには、「イエスは、マルタたち三人を心から愛しておられた。」とあります。イエス様は、マルタ、マリア、ラザロを同じように愛されていたと思いますが、リビングバイブルの言葉を見ると、マルタたち3人とあり、マルタが最も愛されていたと思わせるような感じもあります。
 イエス様は、ご自分たちが訪れるたびに、持て成してくれるマルタの心を知り感謝しておられました。そして、持て成すことでイエス様に仕えているマルタの働きを喜んでおられたのです。私たちもそれぞれができる最善の形でイエス様に仕えているその姿勢をイエス様は喜んでおられるのです。ですから、他の人と比べたり、他の人の何かで一喜一憂したりしないようにと思うのです。

 ⒉批判することが問題
 マルタは自分の得意の分野でイエス様に仕えることを喜びとしていました。40節を共に読みましょう。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」」 マルタはイエス様とその一行を喜んで迎え入れました。いつもお忙しいイエス様と弟子たちに、心からのお持て成しをして日頃の疲れを癒していただきたいからです。イエス様の満足する顔、癒されたイエス様のお姿を見ることがマルタにとっては大きな喜びでした。けれども、その持て成しのためにせわしく働きすぎました。大勢の人々に持て成さなければならない状況の中でてんてこ舞いの忙しさでした。
 リビングバイブルには次のように記されています。「一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさ。「「どんなごちそうで、おもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも・・・。」気をつかうことばかりです。とうとうイエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が、目が回るほど忙しい思いをしているのに、まあ、どうでしょう。妹ったら、何もしないで座ってるだけなんですから。不公平じゃございません?少しは手伝いをするように、おっしゃってくださいな。」」
 人のために気を使うことは何も悪くありません。大切なことです。忙しくすること、それも別に悪くありません。忙しいということは、充実しているということでもあります。ここでマルタの問題は、気を使ったことでも、忙しいことでもありません。イエス様のためにと喜んで始めた奉仕が、いつの間にか気を使いすぎて、忙しすぎて、てんてこ舞いになり、落ち着きがなくなり、自分の思う通りにならないことで腹を立て、何もしないマリアの行為、座っているだけのマリアを批判しました。自分の一生懸命さと座っているだけのマリアと比べて、自分はがんばっているのに。自分だけがこんなに気を使い。てんてこ舞いで苦しい思いをして、マリアの行為が憎たらしくなりました。今の座っているだけの行為を憎たらしいと思うだけでなく、次から次へとマリアのあの事、以前のあの事と思い出されて怒りが頂点に達しました。それと同時に、自分がイエス様のためにこんなにも気を使い、てんてこ舞いで準備しているのに、私のがんばりを認めてくれないイエス様に対して、座っているだけで何もしないマリアの行為を当たり前のように感じて話を続けているイエス様に対しても怒りが込み上げてきました。今までのイエス様のマリアに対する行為を見逃してこられた事柄が思い出され、イエス様に対する批判が込み上げてきました。
 ですから、イエス様が話しておられる最中にもかかわらず、その話に割って入って大きな声を張り上げて言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 この時のマルタの顔はどんな顔だったのか。どのような表情をしていたのかなあと思いました。恐らく、髪の毛を振り乱して、目が釣りあがり、怖い顔をしていたのだと思います。いつもの笑顔のマルタとは別人でした。 やさしそうなお母さん方は、子どもやご主人を叱る時には、おそらく怖い顔をしているのだと思います。人を批判したり、攻撃したりする時は、その表情はやはり怖いのです。平安や喜びはないのです。
 喜んで笑顔でイエス様を迎え入れたマルタの表情や姿はどこにもありませんでした。その心には、平安もイエス様に対する愛も信頼もなかったのだと思うのです。ここにこそ問題がありました。私たちは、大丈夫でしょうか。心の中に平安や喜びを失うと人を批判したり、神様を批判したりするようになるのです。あなたの今の人に対する態度や神様に対する態度や思いはどうでしょうか。

 ⒊愛で初めて愛で終わる
 マリアとイエス様を批判して、自分を手伝うようにとイエス様に詰め寄ったマルタに対してイエス様はやさしく語られたのです。41節と42節を共に読みましょう。「主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」 まず、イエス様はマルタが多くのことで思い悩み、心を乱しているということを示されました。案外、私たちは自分の怒りや攻撃的な態度や言葉に気づかないものです。言われて「はっ」とすることも多くあります。マルタが今どういう状態であるかということを語られました。けれども、マルタの行為を責めておられるわけではありません。
 リビングバイブルには、「しかし主は、やさしくマルタをたしなめました。」とありますから、マルタにも問題はあったのでしょう。マルタは自分の喜びの、そして愛の奉仕がいつの間にか、自分のしていることが一番大切で、重要で、マリアの態度を座っているだけ、つまり何もしていないと判断し、一生懸命に働く自分と比べてイライラし、それを容認しておられるイエス様に対してもイライラしました。イエス様への愛からというマルタの思いは、どこかへ吹っ飛んでしまい、大切な重要な働きをしている自分を手伝わないマリアに対して怒りと憤りを感じたのです。
 忙しくてもイライラすることなく奉仕する人もいます。ですから、マルタもどんなに気を使い、てんてこ舞いの忙しさの中でも、マルタを悩ましたり、イライラしたりする事から守られる道もありました。イエス様に対する愛や仕えることの喜びと感謝、その喜びや感謝が疲れや忙しさよりも大きければ、マリアやイエス様を批判することはなかったのだろうと思うのです。
 イエス様は、マリアの行為がマルタの行為よりも正しいとも良いとも言っておられません。もしそうなら、「ここへ来てマリアの横に座り話を聞きなさい。」と言われたことでしょう。 ただ、マリアの行為を批判したことに対して、必要なことはひとつであり、マリアは良いほうを選んだ、と言われたのです。
 「必要なことはただ一つだけである。」ということを、瀬尾先生は次のように語っておられます。「「他のものを全部持ったとしても、他のものが全部揃ったとしても、それを持たなければ他のものが全部駄目になるというもの」である。すなわち「何を失っても、これだけは失ってはならないものが、必要なことはただ一つだけ」なのである。」
 イエス様も全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうかと言われました。マリアはみ言葉に触れるという、なくてはならないことを選び、それを大切なものとしたのです。私たちも、全ての物を持っても、全ての物を揃えても、聖書の言葉に触れ、み言葉に従って歩まないならば、大切なものを失うことになるのだと思うのです。
 マルタの持て成しは、いつの間にか、「お持て成しは利己ではなく利他。見返りを求めない、純粋な心しか出せない思いやりの心遣いが基本。持て成す側の心がそこに入っていれば、自(おの)ずとお客様の心に伝わるものです。心が心に伝えるのです。そして、感動の連鎖がそこから生まれるのです。」と最初お話しした事とは、まるで違う方向に行ってしまったのです。

 Ⅲ結論部
 瀬尾先生は、もう一つこの時のイエス様は十字架におかかりになる時とはそう遠くない時であり、そうした緊迫状態である時に、山海の珍味を食卓に並べられても、そうしたものを望んではおられなかった。群衆を避けて静かな場所を求めておられた。マルタはその事に気づかずに、いつものように持て成そうとした。しかし、マリアはそれに気づき、イエス様のそばでお言葉を聞いた。ですから、ここでの持て成しとは、いろいろとご馳走と作るというよりも、むしろ静かな場所と休息、そして、イエス様との交わり、主の言葉に触れるということが最高のお持て成しだったのだと思うのです。
 私たちもおなかの調子が悪かったり、胃が痛いのにどんなにご馳走を並べられてもかえって辛いものです。それよりも胃にやさしいおかゆと休息の方が、最高のお持て成しになるのではないでしょうか。何でも多いことが大きいことが忙しいことが良いとは限りません。時には何もなくても静まることが大切な事だと思うのです。
 神戸での教会教育委員会の折、ナザレン教団に入られた米子伝道所の末宗兄から贈られてきた1冊の本をいただきました。「いま子どもがあぶない」という本です。メディアに対する子どもたちの影響を示してくれる本です。テレビやビデオ、ゲームなどが日本の社会に入ってきて、子どもたちに多くの問題を与えている。不登校、引きこもり、切れる。子どもたちの犯罪、学級崩壊、ニート、フリーターは、子どもたちの脳が疲れている。慢性疲労なのでゆっくり休むことが大切であるということが記されています。何かをすることではなく、休むことが問題に対する対処、ある意味では持て成しなのです。
 私たち自身にも、家族や近くにいる人々にも、重要なこと、大切なことが多くあるのでしょう。仕事や勉強、人間関係、あるいは楽しみもあるのでしょう。それも大切ですが、最も大切なことは、私と神様との関係です。その関係の如何(いかん)で、対人間関係が決まると言えます。働きすぎて、勉強しすぎて、忙しすぎて、がんばり過ぎて、ちょっとしたことにイライラし、別にたいしたことでもないことに腹を立て、クリスチャンとして恥ずかしい言葉を口にするような事があるかも知れません。それは、神様との関係、聖書の言葉を介しての神様とのかかわりに問題があるのかも知れません。
 どうしようもない私たちの罪のために、命を投げ出し、十字架にかかって下さったイエス様の愛を思い、愛されていることを感謝し、聖書の言葉を通して神様と交わり、静まる時、神様の愛で満たされ、恵みで満たされると、今まで自分を悩ませていたことや腹の立つことに対して神様の目線で見ることができ、一段と高いところからその問題を見ることができるので、今まで自分を悩ませていたことや腹を立てていたことが本当に小さく、取るに足りないものであることがわかると心に平安と感謝、喜びがわきあがるのではないでしょうか。
 私たちは、この週もみ言葉を通して、イエス様との深い関係を築き、落ちついた心、平安をいただいて、これから起こる様々な問題に対処することができるのです。イエス様こそ、最高のお持て成しの心を持つ方であることを覚え、この方と交わり、このお方との関係を保ち、私たちの周りにいる人々に、最高のお持て成しの心を持って仕えて生きたいと思うのです。
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主日礼拝(2010年7月18日)

2010-07-18 10:32:07 | Weblog
                主日礼拝(三位一体後第八主日)    2010.7.18
           
                 「貯金は天国銀行へ」 ルカ12:13-21

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第三主日を迎えました。第一礼拝は、中高生の皆さんも合同で礼拝を守っています。今週から夏休みが始まり、子どもたちは、解放されて楽しい日々が続くことでしょう。宿題さえなければ、天国というところでしょうか。梅雨も明けて本格的な夏が始まりました。暑い日が続きますが、聖書の言葉に触れて、神様の恵みの中で暑さを吹き飛ばしていきたいと思います。
 PBA(太平洋放送協会)のメッセージ集11に「よく生きている人が偉い人」という題で次のような事が記されていました。「小学館から発行されている「ダックス先生と四十人の子どもたち」という本の中に、小学一年生の、なかにししゅうすけくんの詩が載っていました。「人」という題でした。
「えらい人よりも やさしい人のほうがえらい やさしい人よりも 金のない人のほうがえらいなぜかというと 金のない人は よくさみしいなかで よくいきているからだ」 たかが一年生、されど一年生という感じです。 六歳の子どもの純粋な目に映った偉い人、それは金の力にものを言わせたり、地位や権力で人をねじ伏せたりするのではない。そんな人は少しも偉くない。本当に偉い人は、さみしい中で、よく生きている人だというのです。 人間の価値観は、その人がどのような学歴を持った人であるとか、どのような肩書きを持っている人であるとか、どのような才能を持っている人であるかなどでは決まらないし、決め手はならないのです。 また、どのような家に住み、どれほどの豊かな生活をしているかでも決まらないのです。しかしながら、人間社会は残念なことに、なぜか、外見のことで人を判断してしまうのです。そのような考えで、優れた他者に比べて劣る自分を見た時、しらずしらず自分の内に劣等感が生じてきたり、自己卑下してしまい卑屈に生きる者になってしまいます。 でも、なかにししゅうすけくんの人間観は、たとえさみしさがあり、生活を脅かすような貧しさがあったとしても、「よく生きている人」こそ一番偉い人だというのです。」
 今日は、ルカによる福音書12章13節から21節を通して、「貯金は天国銀行へ」という題で、イエス様が裕福な人に対して語られたことをお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈神様を見る目
 兄弟同士の遺産争いなのでしょうか、イエス様の所へ一人の人が来て、兄弟が遺産を分けてくれるようにと願いました。当時、困った問題があればラビ(先生)に相談するということがよくあったようです。イエス様は、この相談に対して「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と言われた後、大切なことを語られました。
 15節を共に読みましょう。「そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」」
 財産を相続するという人ですから、お金を多く持っていたのでしょう。お金持ちだったでしょう。イエス様は、お金を持つ人、裕福な人に対して語られたのです。今日本は厳しい財政状態です。けれども、やはり他の国から見れば裕福な国であると見られることも多くあります。今の日本は、どこを向いているのでしょう。また、皆さんは何を目標に歩んでいるのでしょうか。イエス様は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」と言われましたが、これは人が豊かになる時も、彼のいのちはその財の一部ではないという原則から語られている言葉だと思います。そして、イエス様は、ひとつのたとえ話をされるのです。
 16節から19節まで共に読みましょう。「それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』」
ある金持ちと言われる人はどのような人であったのでしょうか。常識ある人で成功者です。彼の仕事は人間の生活に欠くことのできないものであるし、骨身を惜しまない努力は空しくなく、豊作だった。彼は穀物を蓄え、将来のために備えようとしたのは当然のことです。また、彼が自分の財産、得たものにより老後を安楽に暮らそうと考えたのは、当たり前のことで何も非難されるべきものではありませんでした。しかし、聖書は20節で「愚か者」と語ります。リビングバイブルでは「ばか者めっ」となっています。 なぜ、一生懸命に努力し、汗水を流し苦労して結果を得た人を愚か者扱いするのでしょうか。
 旧約聖書詩篇14編の1編には、次のような言葉があります。「神を知らぬ者は心に言う、「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」 新改訳聖書では、「愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。」とあります。ここでの愚かな者とは、「心の中で神はいない」という人だと言うのです。神様を神様としない。自分中心で生きているということでしょう。
 これもPBAのメッセージ集に書いてあったことです。「ある水族館で、目のない魚というのを見たことがあります。説明によりますと、これはもともと目がなかったわけではなく、深海の光のない真っ暗な洞窟の中で育ったため、目が退化してしまったのだということでした。人間も初めは、神様を見、神様と交わることが出来たのですが、神様に背いて、罪の暗闇の中でばかり歩いているうちに、神様を見る目がすっかり退化してしまっているということが出来そうです。」私たちは、日常の生活の中で神様を見ることができたら幸せだと思います。

 ⒉どこに価値を見出すか
 この金持ちは、豊作で物資に恵まれて満足していました。彼の心には神様を慕うというか、神様を求めようとする心はありませんでした。豊作に対して神様に対する感謝もありません。成功したのは、自分の努力、頑張りだと心は傲慢になりました。日本語の聖書には、「私」という言葉は出てきませんが、原語を見ると、「私」という言葉が11回も出てくるそうです。私の努力、自分の頑張りと私なのです。豊かなこの人の心には、貧しい人々に対する思いやりは微塵(みじん)もありません。ただ自分の安心と将来のために、自分以外の人のことは何も考えていないのです。本当ならば、神様に命を与えられ、生かされ、祝福されているのにもかかわらず、そのような謙虚な気持ちが全くありません。彼の健康が守られ、支えられ、多くの収穫があることも、多くの蓄えが出来たことも、全てが神様の導きでした。祝福の基である神様に目を留めないで、ただ物質、自分を喜ばせる穀物、物質にのみ目を留めているのです。私たちは、この金持ちと同じではないでしょうか。神様を見ていますか。それとも、この世のものにしか目を留めていないのではないでしょうか。
 お金や物質そのものは別に良いものでも悪いものでもありません。道徳的でも不道徳的でもありません。中性的なものでしょう。けれども、良いことにも悪いことにも使われるのです。お金や物質は、手段や道具としての価値があります。お金や物質に本質的な価値というものはありません。道具としてのみ価値があります。けれども、財産やお金、物質というものが、人間の関係を脅(おびやかし)かします。使い方を間違えると大変なことになるのです。ローマのことわざには、「お金は塩水のようなももの、飲めば飲むほど渇く」という言葉があるそうです。自分が中心となる時、貪欲に陥る時、愚か者になってしまうのです。
「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」とイエス様が語られた通りなおです。
多くの人々が、お金を得るために努力をしています。何も悪いことではありません。報酬として、努力した分はいただけるのです。ですから、みんな愛する人々のため、家族のためにがんばって努力するのです。家族を支えるためにはお金が必要なのです。
 旧約聖書の箴言10章22節には次のような言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」 リビングバイブルには、「神様に祝福されることほどすばらしいことはありません。どんなにがんばっても、人間にはこれ以上のことはありません。」
とあります。私たちを豊かにして下さるのは神様であるということを知ること、信じることがとても大切なことです。物の価値というものは、支払われたものによって決まります。1万円の商品には、1万円が支払われます。車には何百万というお金が支払われます。それだけの価値があるからです。
 では、私たちにはどのような価値があるのでしょうか。イエス様の命が支払われるほどの価値があるのです。神様は、私たち一人ひとりに「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と語られ、そのことば通りに、神様であるイエス様の血が十字架で流されたのです。私たちを救うために、イエス様の命がささげられたのです。私たちにはそのような価値があるのです。
 神様が私たち一人ひとりを創造し、生かし、私たちを罪から救うためにイエス様の命がささげられたことを知り、信じることが大切なのです。

 ⒊神の前に豊かになる
 20節を共に読みましょう。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」 神様によって与えられた祝福を貪欲のために取り上げられる。豊かな豊作と蓄えた穀物は自分のものにはならないというのです。その理由が21節にあります。
 21節を共に読みましょう。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 リビングバイブルには、「いいですか。この地上でいくらお金をため込んでも、天国に財産を持っていない者はみな、ばか者なのです。」とあります。 皆さんは、銀行や郵便局に預金しておられるでしょう。子どもの教育、病気になった時のため、老後の蓄え、将来の旅行のためといろいろと目的はあるでしょう。「備えあれば憂いなし」です。リビングバイブルでは、「この地上でいくらお金をため込んでも、天国に財産を持っていない者はみな、ばか者なのです。」 地上にお金をためることは何も悪いことではありません。けれども、天国に財産を持っていないとばか者だ、と言うのです。天国に財産を持つとはどういうことでしょうか。
 詳訳聖書では、「神との関係において富んでいない者」とあります。ヨハネの黙示録3章17節には次のような言葉があります。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」まさに、この金持ちのことです。裕福だ。豊作だ。何年分も楽しめ。しかし、実は惨めで、哀れで、貧しい者だと言うのです。
 私たちの住んでいる日本という国は、1998年以来、1年間で自殺者が3万人を毎年越えています。交通事故で亡くなる人々の約4倍以上だとも言われています。このような国は、先進国では日本だけだそうです。日本は、教養があるつもり、お金持ちのつもり、社会的な地位があるつもり、でも実は愛のない、清さのない、善を行う力がない国です。けれども、聖書はその弱さの中にイエス様の力が働くと約束しています。日本という国の弱いところに、不足しているところに、神様の、イエス様の完全な力が働くのです。
日本は今まで、自分の国のことしか考えてこなかったのでしょう。また、日本に住む私たちも自分の事しか考えてこなかったのです。私たちを創造し、生かしておられる神様抜きの歩みでした。私たちの罪を赦すために、十字架で命を投げ出して下さったイエス様抜きの歩みだったのです。神様との関係において富んでいない国でした。天国に財産を持たない民でした。これからは天国に財産を築きたいと思います。
 勿論、自分のためにも家族のためにも蓄えたいと思いますが、与えていて下さる神様を覚え、神様にささげると同時に、愛する隣人にささげたいとも思うのです。財や物質を必要としている人々のためにささげたいと思います。それが、天国銀行に蓄えることだと思うのです。これからは、地上の銀行だけではなく、天国銀行に多くのものを蓄えたいと思うのです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」ではなくて、神様の前に豊かな者として歩みたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 渡辺和子さんの書かれた「目に見えないけれども大切なもの」という本の中で、「むくいを求める心」という項目で次のような事が書かれていました。
「「こまった時に思い出され 用がすめば すぐ忘れられるぞうきん 台所のすみに小さくなり
 むくいを知らず 朝も夜もよろこんで仕える ぞうきんになりたい」(河野進) 
本当に、こんな生き方ができたら、どんなにいいかと思いながら、そうなれない自分と毎日一緒に暮らしている。「むくいを知らない」どころか、自分の存在、手柄を知らせようとしている自分。「まあ、きれいなお花」と修道院の誰かが言えば、「私がいただいた花なの」と、言わなくてもいいことを言っている。なぜ、黙って相槌(あいづち)が打てないのか。こんな私がぞうきんになり切れる日は遠い。
 でも、と思う。人間はやはり、どこかでむくわれていないと生きていけないものだ。
 岡山にいた頃、私は毎年四月頃、街頭募金にたったものだった。吹く風の冷たい年もあった。修道服で立っていると、お金を入れてくださる方が多いと言われて、立っていたものである。教えていた学生たちに、一緒に立ってくれないかと声をかけると、大抵の人は気持ちよく応じてくれたが、中には「いやです」と断る人もいた。理由を尋ねると、「街頭募金に立つなんて、結局、自己満足でしょう」と言う。  その言葉に一瞬たじろぎながらも思ったものである。所詮人間は神ではないのだから、100パーセントむくいを求めない仕事などできっこないのだ。自己満足だけを求めて街頭に立つことは、決してほめられたことではないけれど、良いことをした時、自然に満足感を覚えることは当たり前なのだ。それを素直に、謙虚に受け取ったらいい。詩の中のぞうきんも、人の役に立った時には、多分それなりの満足感を味わったに違いない。 「忘れられて喜ぶ教師になれ」と言われたことがある。ぞうきんになれということだったのだろう。今の私は、優等生のぞうきんにはなり切れず、まだ、ひそかな自己満足を求め、味わっている。でも、そんな私に「それでいいんだよ。ぞうきんになろうという気持ちだけは忘れないでいなさい」と優しく言ってくれる声がある。その声に支えられて、毎日を歩んでいる。」 私たちは、本当にむくいを求める者ですが、神様を見上げつつ、み言葉を通して励まして下さるイエス様を見つめ、愛する隣人を思いながら、天国銀行へ日々蓄えたいと思うのです。
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主日礼拝(2010年7月11日)

2010-07-11 12:58:37 | Weblog
                 主日礼拝(三位一体後第七主日)    2010.7.11
     
            「あなたはゲスト・わたしはホスト」 ルカ12:35-48

 Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第二主日を迎えました。ジメジメとした暑さが続いておりますが、皆さんお元気でしょうか。今日も神様のみ言葉と聖霊の導きの中で、心も体もイエス様の恵みで癒されたいと思います。
 最近は、ゲリラ豪雨と言って突然大雨が降り続くということがあります。傘を持っていなかったので、用意していなかったのでずぶぬれになったという経験があるのかも知れません。大丈夫だろうと、必要なものを持たずに出かけて大変な目にあったという経験があるかも知れません。「備えあれば憂いなし」という諺(ことわざ)があります。「常日頃から万一の場合の準備を怠らないでいれば、緊急の際もあわてなくすむ」というような意味があるようです。私たちは、人生においても、信仰においても、備えておくことがあるのだと思います。
 今日は、「あなたはゲスト・わたしはホスト」という題でお話したいと思います。ホストと言いますと、イケメンたちがたくさんいるというあのホスト・クラブとは違います。その人に仕える。心からその人の喜びを自分の喜びとして仕えるということを共に考えたいと思うのです。


 Ⅱ本論部
 ⒈準備のできている召使になる
 今日の聖書の箇所は、主人の帰りを待つ者の態度が記されています。主人にとって良い僕とは、よく働くことは勿論のこと、主人の思いを先に読んで、すべきこととそれ以上にできることだと思います。
 35節を共に読みましょう。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」 リビングバイブルには、「きちんと身じたくを整え、あかりをともしていなさい。」とあります。準備をしておきなさいということでしょう。なぜならば、36節を見ればわかります。36節を共に読みましょう。「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」主人が婚宴から帰ってくるというのです。イスラエルでの婚宴は、夕方から始まるので帰りは夜になるわけです。ですから、主人が帰ってくるので、帰って来た時に、主人が戸を叩いた時にすぐに戸をあけることができるように備えておくというのです。コンコンと戸を叩く主人を待たせてはいけないのです。トントン、スーと戸を開けることができる僕が良い僕なのです。
 先週ですが、教会のお昼の時、ベタニヤ会の方々はいつも旧牧師館の台所で交わりと昼食の時を持っておられます。私はいつもお伺いして、お菓子をいただいてお茶をいただいてお祈りして失礼するのです。先週は、いつものようにお祈りを追えて、アパルームへ行こうと戸を開けると、そこに高野姉でしたかお昼のカレーを両手に持ち戸の前に立っておられました。両手がふさがって、戸を開けることができないので、宮本兄でしたか、兄弟が戸を開けようとしたところに戸がサーッと開いたので、びっくりされたのです。本当に、タイミンングがピッタリだったのです。そのように主人が戸を叩くのと、僕が戸を開けるのが同時のように、グッドタイミングで開けることができるように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。」というのです。僕は主人のために働くのです。最善の奉仕をすることができるように待機するのです。それが僕なのです。 
 ただ、じっーと待つだけなら、時間がもったいないし、疲れるので、適当に時間をつぶして、主人が帰って来たら、ロバか馬かはわからないけれども、その様子が、雰囲気がわかれば、さっと戸の前に立って開ければよいと考える人もいるでしょう。けれども、良い僕とは、主人の帰りをずっと待つのです。36節をリビングバイブルでは次のように訳しています。「主人が結婚披露宴から戻るのを待っている人のように、こうしていれば、主人がノックすると同時に、戸を開けて迎えることができる。」
では、何故、そこまでするのでしょうか。
 37節を共に読みましょう。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」 主人が夜遅く帰って来た時、目を覚まして待っていた僕、その戸を開けることのできる僕は、幸いだというのです。なぜならば、主人自らが、帯を締めて、僕たちに食事の席に着かせ、そばに来て給仕するというのです。 リビングバイブルには、「そのように忠実な姿を見られる人は、ほんとうに幸せ者だ。主人は、感心なやつだと思い、食卓で、反対に自分のほうから給仕してくれるだろう。」とあります。
 僕は、ただ自分の仕事として待つというのではなく、義務感で待つというのでもなく、主人の思い、主人のやさしさ、主人の愛を受けた者として、主人を愛する者として、主人の配慮や好意を日頃から感謝している僕は、主人の帰りをただじっと待つくらいの犠牲は喜んでするのです。自分の主人が、いつも自分が主人にしているようなこと、僕である自分を食卓に招待して給仕までしてくれるという身に余る光栄を受けることができるというのですから、なおさら忠実に待つことができるのです。
私たちは、私たちのために命を十字架でささげて下さったイエス様の愛を知って、イエス様に愛されている者として、イエス様を愛する者としてどのような態度でいるのでしょうか。

 ⒉あなたはどちらの召使?
 38節を共に読みましょう。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」 主人の帰りが遅くなって、真夜中でも、夜明けでも、主人がノックしたら、すぐにあけて迎える僕、起きているところを見られる僕は幸いなのです。主人からのねぎらいがあるからです。だからこそ、目を覚まして待っているのです。
 僕は、主人の帰りをずっと待つのかの二つ目の理由は、主人がいつ帰ってくるのかがわからないからです。
 39節と40節を読みましょう。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」 
 ここでペトロが口をはさみます。41節を読みましょう。「そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、」 イエス様のお話は、弟子たちだけに話されたのか、みんなにはなしたのかとペトロは問いました。しかし、イエス様はペトロの問いには答えないで、もうひとつ別のたとえを話されたのです。
 42節から44節まで共に読みましょう。「主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。」 リビングバイブルでは次のように記されています。「イエスは、かんで含めるようにお答えになりました。「では、こう言えばわかるかな。主人の留守中、ほかの召使たちの面倒を見る責任を負わされた、忠実で賢い人たちに話しているのです。主人が戻った時、かいがいしく働いているところを見られるなら、ほんとうに幸せです。主人に全財産を任されるかもしれません。」」 召使ではあるけれども、忠実であれば主人の全財産を任されるということがあったようです。自分も召使の身分でありながら、他の召使ににらみをきかすことができたようです。信用された召使は、家の仕事をきりまわすだけではなく、その全財産を管理したのです。
 旧約聖書に登場するヤコブの子どもヨセフは、エジプトに奴隷として売られました。ポティファルの家に奴隷として、召使として売られましたが、神様の恵みのよって、家の全財産を任されるほどになりました。忠実に働いている召使は、それなりの褒美(ほうび)、祝福がありました。
 しかし、召使の中にはまた別の考えを持つ者もいたのです。45節、46節を共に読みましょう。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。」 主人は忙しいので、そんなに早くは帰らないだろうと考え、自分の好き勝手な行動をしていると主人は思いがけない日、予定よりも早く帰り、召使の悪いところを見て、その召使を厳重に罰して、その働きを取り上げるのです。表面だけをつくろうとする者は、必ずどこかでぼろが出るのです。
 47節を読みましょう。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」 主人の思い、心を知りながらそのことを実行しない者には厳しい罰があるというのです。私たちはどうでしょうか?

 ⒊わたしはホストでもありゲストでもある
 主人の心、思いを知って主人を待ち、忠実な働きをする召使と主人の思いや心を知っているのに、その心や思いを大切にしないで、自分の思いや考えを優先してしまう召使と2種類の召使がいます。主人の帰りを待つ者、その思いがある者は、与えられた働き、仕事に精を出し、忠実に働くことができるのです。イエス様は、このたとえでご自分の再臨、もう一度おいでになることを話しながら、そのことを覚えながら、与えられたその場所で、与えられた関係の人々に仕えるように、忠実に働くようにと勧めておられるのです。
 今日の説教題は、「あなたはゲスト、わたしはホスト」ですが、教会というところを考えた時、この題が浮かびました。私以外の全ての人は、私にとってはゲスト、大切な人です。そして、その人々に対して私はホスト、仕える者なのです。私たちは、アンコール教会、もう一度来ていただく教会を目指す者として、私以外の全ての人は、ゲストとして徹底的に仕える。給仕する僕のように仕える。私は全ての人に対してホストとして、心地よい時を持っていただく。それをお互いが意識したいと思ったのです。
 私たちのクリスチャンの生活に二つの面がないでしょうか。主人を意識する召使のように、神様の臨在を意識した信仰生活、それは教会に来た時の自分の姿かも知れません。他方には、神様の臨在など意識しない家庭や、職場、学校、社会での生活。まるで聖なる行動と俗なる行動を別々にして一線を引き、いったい本当の自分はどっちだろうかと考えてしまう。そんなことはないでしょうか。クリスチャンと言っても、二つの顔を持つクリスチャンではないでしょうか。神様は私たちの全ての面を知っておられるし、自分が聖なる時と感じる時も、俗なる時と感じる両方のその場に主は臨在しておられるのです。
 主人の帰りが遅いと決め付けて、主人の心を知りながらも自分勝手に行動する召使のように、この世にあって、神様を意識せずに自分勝手に信仰生活をするのではなく、イエス様、十字架の恵みを意識して、神様のイエス様のお心を知り、その思いに答えて生きる者でありたいと思うのです。
 私たちの教会は、癒される教会、神様の恵みに憩う教会でありたいと願います。そのためには、教会は神様が臨在されているのだから、何もしなくてもいいというのではなく、私たちを通して神様は働いて下さるのです。私たちは、青葉台教会に来られる自分以外の人々は、ゲストとして最大のおもてなしの思いをもって仕えていきたいと思うのです。わたしは全ての人にホストとして愛を持って、その人の喜ぶことを自分の喜びとして仕えたいのです。特に初めて来られた方々には、最高のおもてなしをしたいと思います。10人いれば、自分は9人に対してホストとして仕えます。しかし、また9人のとっては、わたしはゲストともなりうるのです。ゲストとホストがうまくかみ合えば、教会は恵み溢れる場所となるのです。
 神であるお方、イエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために、ご自分には罪がないのにもかかわらず、十字架で苦しみ、死んで下さいました。私たちを救うために、ご自分の命を投げ出して下さったのです。そのイエス様のお心、思いを知った者として、その愛をいただいた者として、その愛をいただいて、私のそばにいる人に、教会に来る人々をゲストとして、私たちは最高のホストとして仕えていきたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 主婦の方々は、日頃三食を準備して大変な毎日だと思います。しかし、時には、ホテルや旅館に泊まって上げ膳据え膳と、給仕してもらえるという喜びを感じるということがあると思います。来週は、教会のファミリーキャンプがあり、主婦の方々はゲストとしてのささやかな幸せを感じられる時があると思います。
 私たちが、ホテルや旅館、レストランに行くと、やはり高級と言われる場所でそこで働く人の姿勢やしぐさはさすがです。何か自分が偉い者になったかのように、そんな感じを与えてくれるように、仕えて下さいます。心地よい給仕や姿勢を感じます。また、そう感じない、いやな思いをするということもあります。
 私たちは、お互いに相手が最高のおもてなしを受けることができるように、その言葉においても、思いにおいても、行動においても、主人がノックすれば戸をすぐ開けられるような、配慮ができる者になりたいと思います。大きなことや大きなしぐさというのでもなく、小さなことにも、特別でない当たり前の事であっても、心を込めて、笑顔で、愛を持って仕えていければと思うのです。そして、そのような素晴らしい配慮や心遣いをうけた者は、ありがとうの感謝を精一杯表わしたいと思うのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く者としてイエス様の十字架を中心に回る、動く教会でありたいと思うのです。
 そのことの実践のために、私たちは聖書の言葉に触れ続けたいと思います。祈りを特にとりなしの祈りを大切にしたいと思います。聖霊の導きを、神様の臨在に敏感でありたいと同時に、人の心や思いに敏感でありたいと思うのです。
 青葉台教会の礼拝や集会に来ることが最大の喜びとなるように、教会に来て祈ることが幸せと感じられるように、1週間に1度は、教会に足を運び、主に心注ぎだして祈りたいと思うのです。日曜日や水曜日に来られない時は、いつでも教会は開いていますから、足を運んで主と交わってみて下さい。主があなたに何を求めておられるのか、どのようになることを望んでおられるのかをしばし静まって考えていただきたいと思うのです。青葉台教会は、あなたの元気の源です。あなたの魂と心を癒す場所です。そして、あなたが他の人に仕えて、その人を生かす場所でもあるのです。あなたはゲスト、そしてわたしはホストとしての働きを喜んでしたいと思うのです。
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主日礼拝(2010年7月4日)

2010-07-04 12:48:35 | Weblog
                  主日礼拝(三位一体後第六主日)    2010.7.4
       
             「苦しい時に歌うなんて」 使徒言行録16:25-34
Ⅰ導入部
 おはようございます。7月の第一主日を迎えました。この月も神様の導きに大いに期待して歩ませていただきましょう。南アフリカで開催されていますワールドカップですが、日本はパラグアイに0対0で、PK戦の末敗れました。よくがんばりました。日本の若者に、日本の全ての人々に勇気と希望を与えたのではないかと思います。
 7月1日のナーサリーコンサートのためにお祈りをありがとうございました。30組のお母さんとお子さんが集い、その他の方々を合わせると51名が集まり、バイオリンの工藤姉、ピアノの柳瀬姉の素晴らしい演奏が行われました。今週のナーサリーに参加したいという方々もおられたということで本当に感謝でした。今週のナーサリーのためにも引き続きお祈り下さい。
 さて、今日は使徒言行録16章25節から34節を通して、「苦しい時に歌うなんて」という題でお話ししたいと思います。この箇所は、16日の水曜日の朝の聖書の学びの時に、中出先生が語って下さった箇所でもあります。

 Ⅱ本論部
 ⒈神に訴(うた)う
 先週は、PBA(太平洋放送教会)から、森田兄と江橋姉が来て下さり、放送伝道についてのお話しをして下さいました。そのPBAから出ています「世の光」「ライフライン」メッセージ集第20集の中で、「なおも神をほめたたえる」(村上宣道師)という題で次のように書かれていました。
 「「歌う」というのは、「訴(うた)う」(訴える)」から出た言葉だと言われています。歌は必ずしも、楽しく愉快な気分からだけではなく、むしろ、とても歌えない状況の中で、何ものかを訴えたい気持ちの表れとして生まれてくるほうが多いかも知れません。「バイオリンの名器は、谷に落とされ、流れにもまれ、あちこちの岩にぶち当たりながら流れ着いた木からなるものもある」のだそうです。その深い音の響きは、くぐり抜けてきた苦難の経緯と無関係ではないでしょう。」とありました。
 今日、登場しますパウロとシラスは、「賛美の歌を歌った」とあります。詳訳聖書には、「賛美の歌をうたい続けており」とあります。リビングバイブルには、「主に祈ったり、賛美歌をうたったりしていました。」とあります。 パウロとシラスの、この賛美、歌というものは、どうやら嬉しい時の歌、愉快な歌、喜びの歌ではなかったようです。先ほどのPBAのメッセージ集にありましたように、「訴える、とても歌えない状況の中で、何ものかを訴えたい気持ちの表れとして生まれてくる」とありました通りに、パウロとシラスは、占いの霊に取りつかれていた女奴隷を、その霊から解放してあげたのに、彼女の占いの霊のおかげで金儲けをしていた人々に訴えられて、捕らえられ、正当な裁判にもかけられず、何度も鞭打たれて、ひどい目にあった二人、その晩、真夜中にパウロとシラスは賛美の歌を歌いました。良いことがあってうれしくて歌ったのではない。自分たちの思い通りに事が運んだから歌ったのでもない。痛みと悲しみとつらいという状況の中で、神様に訴えるような賛美だったのです。
 ヤコブの手紙5章13節には、「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」という言葉があります。詳訳聖書には、「あなたがたの中に、だれか苦しめられている{虐待されている、悪に悩んでいる}人がありますか。その人は祈りなさい。だれか喜んでいる人がいますか。その人は{神を}ほめ歌いなさい。」とあります。苦しんでいる人は祈りなさい。喜んでいる人は歌なさい、と聖書は語ります。苦しい時、悲しい時、辛い時、祈ることはできるでしょう。神様に訴えることができるでしょう。けれども、悲しい時、苦しい時、歌うということは困難です。けれども、喜びがある時の賛美、良いことがあった時の賛美ではないけれども、祈りと同じように訴えから出てくる賛美をパウロとシラスはささげたのでした。
 私たちの人生も、クリスチャン生活も、山あり、谷あり、嵐ありと苦労が多くあります。けれども、私たちには神様に訴えることのできる、祈りや賛美があるのです。私たちの状況を知り、私たちの心の中にある痛みや悲しみ、苦しみを知っていて下さる神様に、祈りをささげ、賛美をささげることができるのです。それは本当に幸いなことなのです。今、悲しんでいますか?苦しんでいますか?痛んでいますか?さあ、そこから私たちを愛し、命まで投げ出して下さったイエス様に祈りをささげましょう。賛美をささげようではありませんか。

 ⒉恵みを数えてみる
 パウロとシラスは真夜中に、喜べるような状態でもないし、感謝できるような状態でもありませんでした。ですから、感謝して、喜びをもって賛美したというよりも、神様に訴えるように賛美したのだと思うのです。パウロは、自分自身がどんな者であったのかをよく知っていました。クリスチャンを嫌い、クリスチャンを血眼(ちまなこ)になって探し、捕らえ、処刑に賛成し、クリスチャンを撲滅することを喜びとしていました。そんな者を愛し、受け入れ、救い、主の働きのために用いて下さるイエス様に、どんなに感謝しても感謝しきれないものがありました。ですから、パウロは、自分がイエス様のために、命を狙われようが、迫害されようが、神様に感謝をささげたのです。
 自分たちが、占いの霊に取り付かれて苦しんでいる女奴隷を助けたために、捕らえられ、鞭打たれ、苦しい経験をしました。16章の6節から自分たちの行き先を聖霊にとどめられ、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」という幻を見て、フィリピにやって来て、リディアとその家族が洗礼を受けるという素晴らしいスタートを切り、これからの伝道に期待を持っていたその矢先に、濡れ衣をきせられ、不正な裁判、嫉妬やねたみを買い、辛い、いやな経験をしました。あんなに出だしはよかったのに、今度は次から次へと悪い事ばかり、マイナスの事ばかりが続いたのです。
 神様に見捨てられたように感じる現実、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのに、牢屋の中にいるという現実、キズの痛み、「もうどうなってもいいと」人生を、信仰を投げ出したくなるような、そんな状況の中で、パウロとシラスは神様を見たのです。現実も見ました。けれども、その厳しい現実の中で神様に目を留めたのです。そして、神様に訴えたのです。神様に祈ったのです。神様に現実を話したのです。その中で、命が守られたこと、パウロはシラスと共にいること、シラスはパウロと共におられることを感謝したでしょう。どうしてこのような状況になったのかは、自分たちには理解できないけれども、わからないけれども、その痛みの中に、苦しみの中に、悲しみの中に、神様のみ旨、おこころ、導きがあることを信じたのです。
 パウロは、自分のような者、イエス様に敵対し、クリスチャンを苦しめた自分を苦しめることも、殺すことも出来たイエス様が、ダマスコ途上で自分に出会って下さり、アナニアやバルナバを通してクリスチャンの仲間入りが出来て、神様に異邦人の伝道のための器として選ばれ、イエス様の事を伝えることができることを何と幸いなことかと感じたのです。そして、イエス様を伝えるために受けた苦しみや痛み、悲しみを受け入れることができたのです。ですから、最初は神様への訴えでした。訴えが祈りとなり、祈りが賛美へと変えられたのではないかと思うのです。大事なことは、どのような状況の中でも、現実だけを見るのではなく、現実を見てもいい。しかし、そこで留まるのではなく、現実だけをみいるのではなく、そこからイエス様に目を留めるのです。そして、イエス様が自分にして下さった数々の恵みに目を留めるのです。まさしく、「数えてみよ主の恵み」なのです。
 今、苦しいですか。辛いですか、悲しいですか。痛いですか。現実は厳しいですか。しかし、苦しみだけに目を留めていませんか。辛いことだけに目を留めていませんか。痛いことだけに心を奪われていませんか。現実しか見ていないということはないでしょうか。目をつぶり、深呼吸をして、十字架に目を留めましょう。十字架でなして下さったイエス様の愛と恵み、赦しに目を留めましょう。私たちを救うために、ご自分の全てを投げ出して、十字架で身代わりに死んで下さったイエス様に目を留めて、イエス様から来る愛と恵み、赦しを心で感じようではありませんか。
 
 ⒊喜ぶという意志を持って
 今日は、第二礼拝後にギデオンの兄弟たちが証しをして下さいます。青葉台教会にも多くのギデオンの会員の方々がおられます。祈祷会でよく聖書配布の様子をお話しして下さいます。朝早く、あるいは夕方、学生たちが登校、下校する時間に聖書を配布されます。神様の言葉が日本を、世界を救います。暑い日も、寒い日も聖書を配布しておられます。頭が下がります。そのような準備と心からの伝道の篤い思いを無視するように、配布することを無下に断る教師たち、また、聖書を配布している方々を無視したり、バカにした態度、聖書を捨てたり、破ったりする生徒、さまざまな苦労やいやな事を経験されています。時には、学校の予定が変わり、登校や下校の時間が早く終わり、誰にも聖書を渡せなかったことがあることを度々聞いています。
 イエス様を知って欲しい。聖書の言葉を通して、今の難しい時代を生きている彼らに平安を持ってほしいと願い、聖書を配布しても、その思いと努力に対して何の成果も喜ばしい結果もないということがあるのです。けれども、また、聖書を準備して、またバカにするであろう、聖書を破ったり、捨てたりするかも知れない子どもたちに、笑顔を声をかけ、聖書配布しておられる兄弟姉妹は、厳しい現実の中にあって、イエス様を見ているのです。だからこそ、また神の言葉を届けているのです。イエス様の救いが素晴らしいから、聖書をもらって救われる人が過去に何人もいるから、また、ありがとうと笑顔で受け取ってくれる生徒がいるから、また、イエス様に力をいただいて聖書を配布し続けておられるのです。それは、本当に素晴らしいことであり、イエス様が喜んでおられることなのです。
 私たちも、愛する者、家族、友人に、愛を持って何かをしてあげても、その思いや心が通じない時があります。祈ってあげたいと思っても、祈ってほしくないと面と向かって言われることもあります。何かをしてあげたいと思ってもできない時もあります。クリスチャンとして、イエス様を証し出来ない、かえって、神様のみ名を汚してしまうこともあるかも知れません。そんな時、私たちはあきらめてはならないのです。がっかりしてはならないのです。イエス様がそばにおられるのです。聖霊様が内におられるのです。マイナス面ばかり見ていると何もできません。いや、何もしなくてもいいですから、イエス様に心を、思いを寄せましょう。現実から目をイエス様の十字架の恵みに移しましょう。イエス様を見ていると、十字架を見ていると、だんだんと心に熱い思いが沸いてくるのです。イエス様の愛が自分を包んで下さるのがわかります。そして、現実が何一つ変わらなくても、良くならなくても、イエス様に対して感謝が沸いてくるのです。喜びが湧き上がるのです。それは、常識や人間の業ではありません。神様の、聖霊様の業なのです。
 パウロは自害しようとしていた看守に言いました。「主イエスを信じなさい。」(31節) 何があってもなくてもイエス様を信じるのです。イエス様に期待するのです。イエス様は間違いないお方なのです。フィリピの信徒への手紙5章4節には、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」とあります。パウロは獄中生活の中で、この手紙を書きました。喜べない状況の中で、「喜びなさい」と言いました。フィリピの信徒への手紙は別名「喜びの書簡」と言われています。パウロは、最大のマイナスの只中で、イエス様を見つめることができたので、イエス様に目を留めることができたので、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と語りました。
 先日、水曜日の朝の学びで木坂先生が、フィリピのこの箇所から語って下さいました。「喜ぶ」ということは感情ではなく、意志であると語って下さいました。うれしいから喜ぶ、楽しいから喜ぶ、良いことがあるから喜ぶという感情ではなく、どんなに喜べない状況でも意志を持って、イエス様を見上げて喜ぶのです。イエス様を見るから、主にあって喜べるのです。喜ぶという意志を持って喜ぶのです。パウロは、主を見上げて意志を持って喜び、賛美をささげたのです。これが今日、聖書が私たちに示している模範なのです。

 Ⅲ結論部
 最初に紹介しました「世の光」「ライフライン」メッセージ集第20集の「なおも神をほめたたえる」(村上宣道師)の中で、続けて次のように記されていました。
 「聖書の中で、一番多くのスペースが割かれているのは詩篇です。この詩篇のもとの言葉はテヒリームといい、「ハレルヤ(主をほめよ)」という動詞から由来した名詞の複数形で(賛美歌)という意味です。この中には、賛美の歌や感謝の歌に分類されるものも多くありますが、嘆きの歌とされる詩篇の数も大変多いのです。イスラエルの歴史というのは、苦難の歴史でしたから、その中での神への切実な訴えが歌となり、それが賛美ともなっていったのだろうと思われます。 詩篇42、43編は、典型的な「嘆きの詩(うた)」とされるものです。この二つの詩篇は、もともと一つであったろうと言われているのですが、この中に「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜうめくのか。」と三度も繰り返されています。この作者を絶望にまで追い込んだ状況が何であったのかを詳しく知る由(よし)はありませんが、大変な極限状態にあったことは確かでありましょう。また、この二つの詩篇には、「いつ」「どこで」「なぜ」という疑問詞が幾つか見られ、特に「なぜ」は10回も繰り返されています。私たちの生活の中にも、このなぜという疑問はしばしば起きてくるのではないでしょうか。
 しかし、そうした苦しみのさなかで作者は、「わたしはなおも神をほめたたえる」と賛美をささげているのです。その秘訣は、ある英語の訳で見ますと「望みを神に置く」ことによってであることがわかります。たとえどんなに状況が絶望的だったとしても、全能の神、いつくしみの神に望みを置くなら、歌えるはずもない中で、「なお神をほめたたえる」ことができるということなのです。賛美は力です。」
 まさに、パウロとシラスは、絶望的な状況の中で、イエス様に望みを置いたので、賛美できるはずのない状況で、イエス様に目を留めて、賛美をささげたのです。私たちも、今たとえどのような状況、絶望的な中にあっても、望みをイエス様に置きましょう。望みを十字架に置きたいと思うのです。
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(31節)というみ言葉があります。けれども、このみ言葉の故に、まだ救われていない家族がいることで自分を責めていませんか。勿論、何らかの責任はあるのかも知れません。けれども、イエス様を信じたのに、まだ家族が救われていない。他の人はご主人も、奥さんも子どもも、孫まで救われているのに、私の家族はまだ救われていない、と落ち込んでいませんか。落ち込めば落ち込むほど、家族の救いは遠のきます。このみ言葉で大事なのは、「そうすれば、あなたの家族も救われます。」ではありません。「主イエスを信じなさい。」が一番大切なのです。まず、あなたがイエス様を信じること、どのような状況に置かれようとも、希望がないように見えても、主イエス様を信じることです。主イエス様に望みを置くことです。そこから、喜びと感謝があふれ、あなたが喜びと感謝の歩みをすれば、それでいいのです。後はついて来るのです。後のことばかり、気にする生き方ではなく、イエス様を信じてこの週も歩みましょう。
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