江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(21年5月30日)

2021-05-31 18:06:24 | Weblog

選ぶ生き方、ゆだねる生き方  創13:1~15    5,30

  • 先週はペンテコステでした。多くの人が集まっているところに聖霊が降臨し、教会が始まった日と言ってもいい日です。ユダヤ教でも、5旬祭とも7週の祭りともいわれています。過ぎ越しから7週間目で、モーセがシナイ山で律法を授与された記念日ともいわれ、ユダヤ教誕生の日ともいわれているそうです。
  • 今日の聖書箇所の、1~2節をみると、アブラムとロトが、エジプトからネゲム地方(カナン)に戻ってきたとあります。前の12章では、アブラムは、飢饉の避難先であるエジプトで、人間的思いから美人の妻サライを自分の妻だというと、自分が殺されるかもしれないと恐れ、妻サライを妹と偽って失敗しています。神が介入し救いの手を差し伸べたことにより助かったのですが、悔い改めたのです。しかし、エジプトでは一生懸命働いたのでしょう。2,5節をみると、アブラム、ロトとも多くの家畜や金銀の財産をたくわえ、それをもって戻って来たのです。4節に、アブラムが、ハランからこの地に来た時に、最初に祭壇を築き、主の名を呼んだところに来たとあります。エジプトでの失敗から立ち直る原点に戻ったということでしょう。私たちもうまくいかなかった時や、失敗した時に原点に戻ることの大切さを示唆しています。6節でアブラムとロトは、羊や牛等を沢山持っていたので、双方の家畜を飼うものの間で争いが起きたとあります。牧草地や放牧する場所を巡って争ったのでしょう。今でも、資産が多いとそれをめぐって争いがおこりやすいものです。世間ではよくあることです。同じようなことだったのでしょう。
  • アブラムは、失敗もしますが、信仰によって義とされ、すべての信仰者の父と言われるほど神への信仰の熱い人です。ロトもアブラムほどでなくとも、アブラムの信仰を側で見ていたことや悪い行為を避けていたことから、正しい信仰者だったとおもいます。いわば、ロトの信仰は私たちの信仰をも現しているのではないでしょうか。ロトはアブラムの弟の子で、父が亡くなったのでアブラムに同行したのだと推測します。
  • 8~9節でアブラムは、この家畜飼いの争いを平和裏に収めるにはどうしたらいいか考えたのだと思います。アブラムは、ロトにお互いの羊飼いの間で争うのはやめようと提案します。土地は目の前に多くあるのだから、右の土地にいくか左にいくか、好きな方を選びなさい。そして互いに分かれて暮らそうと、ロトにこれからの人生の選択を求めているのです。ロトの自立を促したのかもしれません。

  そういわれたロトは、10節で、早速に土地を眺めます。見るとヨルダン川流域の低地一帯は、主の園のように、エジプトの国のように見渡す限りよく潤っていたとあります。経済的により豊かになりそうに見えたのです。眼に見える目先のものにひかれて選択しているのです。

そこで、すぐにこの地を選んで移っていったのです。そして住民が邪悪なソドムに天幕を張ったとあります。ロトは、豊かなソドムの住民が欲にかられて邪悪であることはわかっていたのでしょう。アブラムは、何も言わずたんたんと反対の方に行きます。

  • アブラムは、なぜ自分でよい土地を選択しなかったのでしょうか。かれは、ロトより年長者であり、資産も多かったでしょうし、実力もあったでしょう。しかし、力を行使することによって解決しようとは、思わなかったのです。エジプトで、自分の思いで行動し失敗したことから神様に委ねたのです。だからロトの選択に対しても何も言っていないのです。自分の思い、欲から完全に解放されているのです。敬天愛人のことばで有名な、西郷隆盛は「命もいらず、名もいらず、地位もいらず、金も要らぬ人は始末に困るものなり」といっています。すべての欲から解放された人は扱いにくいと言っています。アブラムの態度は、それと同じような気がします。すべての欲から解放され、神さまにすべてゆだねているのです。

 一方、ロトは、年長者、叔父のアブラムになんの配慮も、遠慮もなく自分の欲、経済的価値からだけで選んでいるのです。謙遜さも、神に聞くこともないのです。自分中心なのです。しかし、両者の家畜飼いの争いは解決したのだとおもいます。争いを解決する仕方は、力を持った側の態度が問題解決のカギになることを示しているのかもしれません。

  • 私たちも、同じような立場に立った時にはどう行動するでしょうか。人生の岐路に立って選択に迷うときにどのようにするでしょうか。ロトと同じように自分に得になるような選択をしないでしょうか。物質的な欲をいつももっていないでしょうか。ある牧師がこんなことを言っていました。「選択に迷うときには、困難に見える方が主に示された道と思い、そちらに進むことにしている」と。ヨハネの21:18に「はっきり言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯をしめて、行きたいところにいっていました。しかし年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯をしめられ、行きたくないところにつれていかれる」とあります。信仰に迷いがあり、主に委ねることができないときは、どうしても自分の思いで選択してしまう。信仰が成熟するに従い主に委ねることができるようになることを主は望んでいるのだと思います。主に信頼して歩みたいものです。
  • ロトは、信仰者であったものの経済的、物質的欲から解放されず、それにとらわれていたのです。主に委ねるという選択ができなかったのです。のち主は、ロトが住んでいたソドムを滅ぼすと言い、ロトのその家族は助けると神が言った時も、ロトは自分の財産にとらわれ、ためらいを見せるのです。さらに後ろを振り向かず山へ逃げろと言われたときも別の場所に行きたいと迷いを見せるのです。他方、主は14,15節でアブラムを祝福するのです。ガラテヤ5:24~25に「キリストイエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。私たちは霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従って前進しましょう」とあります。アブラムはまさに主に委ねて、信頼して歩んでいるのです。主は信仰者、一人ひとりに聖霊を送り、その導きに従うように望んでおられます。聖霊の導きに従い続ければ成熟した信仰になり神に似たものになると祝福の約束をしています。

十字架のイエス様を見上げつつ、私たちを救ってくださったイエスキリストを信じ、すべてゆだねて歩みたいものです。

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日曜礼拝(21年5月23日)

2021-05-23 12:56:39 | Weblog

ペンテコステ礼拝(復活後第七)       2021.5.23

あのペトロの説教」 使徒言行録2:14~16、22~23

 Ⅰ導入部

 おはようございます。今日はペンテコステ、聖霊降臨日を記念する礼拝です。

 ペンテコステを記念する礼拝は、クリスマスやイースターと並んで、キリスト教会においては大切な礼拝です。ペンテコステ、聖霊降臨日、聖霊に満たされた人々は、力を受けて、イエス様の証人として用いられるのです。

 今日は、使徒言行録2章14節から16節、22節から33節を通して、「あのペトロの説教」と題してお話し致します。「ペトロの説教」ではなく、「あのペトロの説教」です。

 

 Ⅱ本論部

 一、ペンテコステに起こった出来事

➀ペンテコステとは何か

使徒言行録2章の最初には、ペンテコステに起こった出来事が記されています。イエス様が復活されて50日目、イエス様が昇天されて10日目のことでした。ペンテコステとは、ギリシャ語で50の意味があり、旧約聖書では七週の祭り(ユダヤ教の祭りのひとつ)と関係があり、レビ記23章15節、16節には、「あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。」と記されています。七週の祭りは、穀物の収穫の終わりを祝うものでした。

➁ペンテコステの現象

使徒言行録2章の最初には、120名の者たちに何が起こったのかが記されています。聖書は、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:1-4)とあります。

「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」ことと、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ということでした。「炎のような舌」と「ほかの国々の言葉で話しだした。」というのは関係があるのだと思います。

➂イエス様の約束の言葉の成就

イエス様は御自分が昇天する前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と約束なさいました。リビングバイブルでは、

2章4節を「その場にいた人々は、みな聖霊に満たされ、知りもしない外国語で話し始めたではありませんか。聖霊が、それだけの力を与えてくださったのです。」とあります。

120名の人々は、イエス様の証人となるのですが、聖霊を受けずしては証人にはなれないのです。ですからイエス様は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒言行録1:3-4)と言われたのでした。このようにイエス様の約束の言葉を信じて祈り続けた120名の一人ひとりの上に聖霊が降り、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2:4)のです。

私たちも、先の見えない苦しみを経験します。祈っても、祈っても良い答えが得られない事も経験しますが、聖霊降臨を経験した群れのように、私たちに語られているイエス様の言葉、神の言葉、聖書の言葉を信じて祈り待ち望みたいと思うのです。

 

二、あのペトロ

➀今までのペトロ

ペトロは聖霊に満たされて語るのです。その言葉や姿には、今までのペトロを知る人々にとっては不思議な光景だったのかも知れません。

4つの福音書には、ペトロの語ったことや行動が記されています。彼は情熱家で、直観的で、自信があり、大言を吐くこともあり、人間的にも、信仰においても、失敗の多い人物でした。聖霊によって、「あなたこそ生ける神の子キリストです。」と告白し、イエス様から褒められ、天国の鍵を授けようと言われた直後、イエス様が十字架に御自分がつけられることを語った時、ペトロはイエス様をたしなめ十字架を否定して、イエス様からサタン呼ばわりされたのでした。十字架を前にして、他の弟子たちは裏切っても、自分はイエス様と共に死ぬことを誓いながら、イエス様を三度知らないと裏切り、イエス様に従うことのできないペトロでした。イエス様を裏切り、絶望の中にいた彼を復活の主は、愛し受け入れ、新しい使命を与えたのでした。

➁聖霊を受けたあのペトロ

ペトロは、イエス様の昇天後、120名の者たちと共に、イエス様の約束の言葉を信じて祈り続け、イエス様の約束通り聖霊を受け、聖霊に満たされ、彼も神の偉大な業を語ったのです。情熱家で、直観的で、自信があり、大言を吐くこともあり、人間的にも、信仰においても、失敗の多い人物であったペトロも、約束の聖霊を受けて、キリストの証人としての働きを始めるのです。人生には取り返すことのできない失敗があります。けれども、聖霊を受けて、聖霊の導きで、私たちもどんなに弱くても、失敗があっても、キリストの証人としての働きを全うすることができるのです。

➂変えられたあのペトロ

14節には、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とあります。大祭司の屋敷の中で、おまえもイエス様と一緒にいたと言われてペトロは、知らないと否定しました。二度目、確かにいたと言われて、それも否定しました。三度目に、ガリラヤなまりで分かると言われた。決定的なのは、ゲッセマネの園で、イエス様が捕縛されようとした時、ペトロは刀でマルコスという人の耳を切り落としたのですが、このマルコスの身内が中庭にいて、「私見てたよ」と突きつけられましたが、ペトロは、イエス様のことなど知らない。呪いの言葉を口にしながらイエス様を完全に否定したのです。しかし、聖霊を受けたペトロは、他の弟子たちと共に立ち上がり、声を張り上げてイエス様のことをまっすぐに語るのです。

自分の命を惜しみ、自分を守ることに懸命になり、イエス様を否定したペトロですが、約束の聖霊をいただいて、聖霊に満たされて、あえて立ち上がり、目立って、イエス様について大胆に語るのです。弱い事が問題ではありません。弱くてもいいのです。自分中心でもいいのです。私たちも聖霊によって、ペトロのように変えられるのですから。

 

三、あのペトロの説教の内容

➀酒には酔っていない

ペトロは、使徒言行録2章13節にあるように、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と、聖霊を受けて他の国々の言葉で語り出したことを批判している、バカにしている人々に語るのです。14節には、「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とあります。路傍伝道です。私は関西聖書神学校の1年生の時、湊川伝道館という教会の奉仕で毎週土曜日、日曜日には路傍伝道をしていました。数人の神学生で賛美歌を歌い、代表の一人が台の上に立って説教するのです。湊川、新開地と聞いて分かる人は、神戸に住んだことのある人です。ガラの悪い所です。お酒を飲んでいる人がたくさんいて、商店街の中に湊川伝道館はありました。説教の当番の時は、大変です。原稿を見て話すわけにはいきません。聞いている人はほとんどいません。聞いている人は酒に酔っているおじちゃんです。原稿の内容を頭に入れて、機関銃のように喋りまくるのです。聞いてくれるのは、神学生ぐらいで、終わったという感じです。それでも、今から集会をしますから教会へどうぞとお誘いすると何人かは来られるのですが、やはり酒臭いおじさんぐらいです。私たちは、必要に迫られて何とかやりましたが、ペトロは聖霊に満たされて語るのです。朝の九時は、敬虔なユダヤ人にとっては、祈りの時であり、朝の祈りの前には、食事をしないのが習慣でした。だから、この時間に酒を飲んで酔うことは絶対にないのだとペトロは語るのです。

➁旧約聖書ヨエル書の預言の成就

ペトロは、120名の者たちが、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」という現象は、旧約聖書の預言者ヨエルの預言の成就だと語りました。「終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(2:17)とヨエル書に預言された内容、聖霊を受けた一人ひとりが、神の偉大な業を語っている。イエス様が、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、わたしの証人となる。」と言われたように、神による素晴らしい業だと力説しました。

私たちも神様の霊に満たされて、神様のご計画の中で神様の栄光のために用いられる者となるのです。能力のある人もない人も、貧しい人も富む人も、健康な人も病弱な人も、問題のない人も問題を抱えている人も、喜んでいる人も悲しみや苦しみを持つ人も、神様の霊に満たされて、神様の大いなる働きのために用いられるのです。牧師や伝道者、宣教師だけが神様のために用いられるのではなく、全ての人が神様の器となるのです。

➂イエス様の十字架と復活と昇天の証人

22節では、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。」とイエス様について語ります。そして、23節では、「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」と語ります。罪を指摘したのです。それは、直接にイエス様を十字架につけたユダヤ人だけの問題ではなく、神様に対するかたくなな心、神様を信じようとしない、必要としない心は、私たち人間の共通の問題です。この人間の罪、私たちの罪がイエス様を十字架につけたのです。

ペトロは、ユダヤ人がイエス様を十字架につけたとはっきりと語ると同時に、23節で、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡された」とあるように、十字架は神様の定めた計画である、神のみ業だと語るのです。それは、神様がイエス様を十字架につけるように、人々を仕向けたというのではなく、人は罪により、神に背いた結果、イエス様を十字架につけてしまったのです。24節には、「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」とあるように、イエス様は復活したのです。

32節、33節には、「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」とあります。

イエス様の内側に満ちていた聖霊が、イエス様の十字架と復活と昇天を通して、今全ての人々の上に注がれ始めたのです。イエス様によって現わされた神の国、神の力や救いの力が、失敗を繰り返し、無学なただ人と言われたペトロを通して現わし始めたのです。この聖霊のみ業は、ペンテコステから始まり、今も継続しているのです。

 

Ⅲ結論部

私たちの罪がイエス様を十字架につけて殺しました。しかし、イエス様は復活し、神の右の座に着き、聖霊なる神様を送って下さったのです。私たちは十字架と復活を通して罪が赦され、魂が救われ、復活の命が与えられ、イエス様の昇天を通して、聖霊に満たされて日々導かれ、イエス様の証人として歩むことができるのです。ペトロは変えられました。イエス様の愛によって、そして、イエス様が送られた聖霊によって強められたのです。変えられたのです。私たちもペトロを変えた聖霊によって導かれているのです。イエス様と同じ人格を持つ聖霊なるお方が、いつも私たちと共におられ、私たちを支え、励まして下さるのです。この週も聖霊に導かれて、安心して歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(21年5月16日)

2021-05-18 11:01:13 | Weblog

2021/5/16

青葉台キリスト教会礼拝

 愛する者のための祈り   (ピリピ書1章1:1~11) キリスト者学生会総主事 矢島志朗

はじめに

おはようございます。多くの方々とは「はじめまして」になるかと思います。、私はキリスト者学生会総主事の矢島志朗と申します。このたびこうして礼拝を共にさせていただけますことを心から感謝しております。日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会の会員、また勧士として奉仕しております。15年前からKGK主事の働きに導かれ、6年間中四国地区担当として、岡山を拠点に中四国9県の20ほどの学校を訪問し、宣教の活動をしておりました。8年前には副総主事・事務局長として東京に移りまして、事務局運営や卒業生の働きの担当をして、そして昨年の春より総主事の責任を担っております。

私は学生時代に信仰を持ちました。教会に導かれて、教会にいた大学の先輩に聖書研究会を紹介されて、KGKに関わるようになりました。今日ご出席されている田代秀樹さんとは、学内の聖書研究会で出会って以来の友人です。この時代に青葉台キリスト教会に持田先生がおられましたが、教会をお借りして、聖書研究会の集まりをさせていただいたこともあります。

この3月までの3年間、塚本良樹主事(結婚後に寿子主事も)が大変お世話になりました。皆様に本当によくしていただいたことを伺ってきました。心から感謝をしております。ありがとうございました。

お読みいただきました箇所から、この朝は「愛する者のための祈り」と題してメッセージをさせて

いただきます。

1.恵みと平安を(1-2節)

ピリピはという町はギリシアの北部、マケドニア地方にあった一都市で、交通の要衝であり、軍事

的拠点でありました。木材が豊富で,肥沃な平原に囲まれ,近くに金鉱や銀鉱があったそうです。

もともとピリピにはユダヤ人が少なく、第2回目の宣教旅行でパウロがトロアスという町にいた時、

幻の中で(使徒16:9~10)「マケドニヤに渡って来て、わたしたちを助けてください」という叫びを聞いて渡って伝道をし、ヨーロッパの最初の教会として成立しました。ピリピの人たちは純朴で、パウロと親しい交わりを持っていました。使者を遣わして労をねぎらったり、物質的な支援を惜しみなくしたりしていました。パウロもまた、何度かこの教会を訪れる機会を持ったようです。

 この手紙を書いている時、パウロはローマの獄中にいました。それを聞いたピリピの人たちは、エパフロデトに贈り物を持たせて派遣しました。エパフロデトはローマに着いてから重病になります。(「ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりました(2:27)」)。エパフロデトの回復後、パウロはピリピに送り返すにあたり、感謝の手紙を書いて彼に託しました。それがこの手紙なわけですが、それと同時に、教会の色々な問題への対処についても書いています(①会員同士の対立 ②ユダヤ主義者の危険 ③反律法主義者の問題)。総じて、友情に満ちた、心あたたまる書です。パウロは10以上の手紙を書いていて、送り先によっては非常に緊張関係にあるような教会もありましたが、このピリピ教会との関係は、とてもあたたかなものでありました。

 さて、1節で「聖徒」という言葉が出てきますが、これは「きよらか」というよりも、へブル的な

考え方で「他のものと異なっている」「分離している」という意味があります。

キリスト教は決して今、印象が悪い宗教ではないように思います。日本の歴史、近代化の歩みの中

で、そして今日もキリスト教の精神に基づいた働きは少なからず重要な貢献をしてきています。しかし15世紀のキリスト教伝来以降、長く社会では受け入れられず迫害のもとで殉教の血が流されてきました。今日において、キリスト者と言われる人が統計上で1%を超えることはありません。その意味では、キリスト者であることが、非常に珍しい存在として思われることもあるわけであります。

それは私が今まで学生たちと聖書を学ぶ中でも、しばしば聞いてきた声でありました。「他の多くの人とは違う」ということに、ともするとためらいや恐れを覚えてしまうということだと思います。「自分がクリスチャンであるということを公にする」ことが大きなハードルになる場合もあります。これは、学生と関わる中でも、よく耳にしてきたことです。しかし、聖書が言っているのは、違って当たり前だということです。「聖徒」であること自体、もう「異なっている」「分離している」存在なのです。人間ですから弱さはある、罪を犯すことがあれば間違いもある。でも、この1節にある「すべての聖徒たち」というのは、そうでない状態とは全く違うということを意味しています。

 何が違うのでしょうか?1節で「キリスト・イエスにある」という言葉で出てきます。このことについてある学者は「これはパウロにとって、キリスト教の本質そのもの」であり、「絶えずキリストにある大気の中で、キリストの御霊の中で生きること」と述べています。そう、「キリスト・イエスにある」者、キリストの大気、空気の中で生かされているのです。どこに行ってもそうです。この礼拝堂にいる時だけではない、机に座って聖書を読んでお祈りしている時だけでもない、日常の生活や働きの場でのこと、家庭、職場、コミュニティ、それらすべての場が「キリストの大気の中」「キリストにあって」という場なのです。

進みます、2節。恵み(カリス)とは、喜び、楽しみ、美しさ、魅力というという意味があります。キリスト・イエスによって、もともとあった美しさに新しい美しさが加えられていく、というイメージです。

平安(エイレーネー)とは。へブル人が互いに出会った時にかわす挨拶に用いられるです。これは無風状態の平和や、紛糾がないことを意味してはいません。この言葉と関係の深い動詞が「結合する」「織る」「一緒に」という意味を持っています。つまり、この平安というのは、たとえ争いが起こったとしても常に和解に向かっていく、そこから生み出されるということです。私たちの生活、たくさんの悩みがあり、人間関係で大変なこともすでに起こっていたり、これからも起こる。しかし常に和解を目指していける、そんな平安がありますように、ということです。

「恵みと平安があなたがたの上にありますように」というのは、神様が美しさを加えてくださること、

そして、常に人と人、あるいは神と人との関係において和解に向かい、そこから来る平安に生きる状

態にあること、それがパウロの祈りでした。これは、キリスト者すべてのための祈りでもあります。

ここで祈られている「恵み」と「平安」の中に、私たちは今も、今日も生かされているということで

す。このことに、深く思いを留めたいと思います。

 2.感謝の祈り(3-8節)

次にパウロの「感謝」を見たいと思います。ここに見出せるのは、ピリピの人たちの「存在」と「働

き」への感謝です。

一つは、「存在」への感謝です。3節に「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」とあります。すごい祈りであることを思います。この人がいてくださることを感謝します、○○さん、△△くんがいてくださることを感謝します、ということです。4節には「あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びを持って祈り、」とあります。祈るたびに喜びが湧いてくる、つまり、ピリピ教会の人々の存在そのものを喜んでいたのです。

私は未信者の家庭で育ち、大学に入って初めて私が触れたのは別の宗教であり、また異端でした。

しかしその後に、不思議な道を通って、信仰に導かれました。クリスチャンになって31年目です。関わりがあった友人や恩師で今も交わりがあって、その人の存在、顔を思い浮かべるだけで神を覚えさせられ、励まされるような人がいます。皆さんはいかがでしょうか、祈る時に喜びが湧いてくる、私たちは、そんな関係を持っていけるような兄弟姉妹として、この場に置かれているのだと思います。

そして「働き」への感謝ですが、パウロとピリピ教会の人たちは一緒に距離は離れても(ローマとピリピの直線距離は約1000㎞、)、共に神の働きにあずかってきたことが、大きな喜びでした。しかもその働きは、「神によって完成させられる」という確信に立ったもの、それもまた喜びでした。この6節にある「良い働きを始める」と、「完成する」という言葉は、どちらも犠牲をささげる儀式の初めと終わりに使う専門用語だそうです。私たちはキリストが犠牲によって救われました。それは「完全な犠牲」であって、私たちはその完全さの故に救われました。救いを成し遂げてくださったほどの確かさをもって、この福音宣教の働きも神が完成に導いて下さるとパウロは確信しながら、共に働く喜びに満ちていたのです。

 この手紙が書かれている時に、パウロは獄中にいる、不自由できわめて困難の中にいる時でありながら、共に存在し働くことを喜び、共に恵みにあずかってきたのだと言っています。このパウロのために、ピリピ教会の人たちは祈り、エパフロデトを送り、助けたのでした。ともに福音を伝えるわざにあずかって、恵まれていたのでした。

キリスト・イエスにあって歩む者、それは「分離された」「異なる」者同志、お互いにその存在を感謝し合い、キリスト・イエスがしてくださった完全なわざを喜び、そしてまた、私たちが取組む働きも完成してくださることを信じて、共に喜ぶ、そのような関係にいる者同士であるのです。

8節に「キリスト・イエスの愛の心」という言葉があります。パウロは、ピリピの人への愛に満

ち満ちていました。8節の「愛の心」は、本来は「内臓」を指します。この言葉と同根の動詞は共観福音書でイエスが「かわいそうに思う」「深くあわれむ」を表現するのに用いられています。それほどの思いでパウロはピリピの人々を慕っています。このように愛し合う者同士が今日、ここに集っているということを覚えたいと思います。

3.愛する者のための祈り(9-11節)

今日のテキストの最後の、パウロの祈りを見たいと思います。すごい祈りをささげているなあと思

います。大きく言えば二つです。一つは「愛が豊かになる」そのために「知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができるように」、もう一つは「純真で非難されるところのない者となり」「義の実に満たされる実が結ばれる」ということです。

9節で「識別力」という言葉には、本物と偽物を見分ける力という意味があります。愛が豊かになるためには、知識と識別力が必要であるということを教えられます。愛は盲目、何の知識も知恵も必要ではないということでなく、それらを高めるための努力が必要であることがわかります。

10節で「純真」という言葉が出てきて、これには「ふるいの中に入れられたものが、あらゆる不純

物をえりわけるまでふるわれる」というものがあります。ゆさぶられて練られる、苦しいこともある、でもそれらを通して非難されることのない者となる、その人が結ぶ実によって神様の素晴らしさがあらわされるようになるといいうことです。

 聖書が語る神様の救いの計画は、やがて神様の計画が成就して、新しい天と新しい地が訪れるというものです。その時に、神様は私たちがなした働きの全てを用いて、一つも無駄にすることなく、そのみわざを完成させてくださいます。そしてご計画を進める中で、私たちを練って、純真な者、非難されるところのない者、神の御栄えと誉れをあらわす者としてくださいます。

パウロが祈り願ったこの姿に一人一人が変わっていく、その根本にあるのは要になってくるのは、

その人自身の神様との関係、神様との交わりです。神様と親しくなるから、もっと神様を慕い求めることで、知識が身につき、識別力が身に着きます。神様の視点、判断力が養われていきます。神のことばを聞こうとし続ける、そして祈りをささげ、またみことばを聞き続けることで、そして試練の中でも練られていき、実を結んでいくことができます。パウロを一人一人が神様とそのような関係になることを見据えながら、熱心に喜んでピリピの人のために祈ったのです。

 祈りの喜びというのは、「私たちが愛し、親しくしている人々が神に向かっていくことができる」ように祈り合う喜びです。「守られますように」「うまくいきますように」「健康でありますように」もちろんそれらも尊い祈りであると思います。しかしそれだけではなく、他人には決してれない深い領域において、もっと深く「その人が神に近づくことができるように、神と深い交わりができますように」そして、「愛が豊かになりますように」「実を結ぶ者となりますように」と祈り合うことが、さらに深い喜びを私たちに与えてくださるということです。私が中四国地区KGKの働きで学校をある訪問をして、聖書研究会の最後に祈祷課題を分かち合う時に、いつも判で押したようにレポートの締め切りとテストの予定を教えてくれる学生がいました。それも大事な祈祷課題なのですが、「他にない?」と聞いたりしていました。信仰のこと、今思っていること等に関する祈祷課題も教えてもらって、祈りたかったからです。

このテキストに見られる関係、すばらしい関係ではないでしょうか。キリスト・イエスにある者同

士というのは、このような素晴らしい関係が既に与えられており、それを深めていくことが恵みとして、またチャレンジとして与えられています。

 「コロナ禍」が1年以上となり、と言われる状況で、制約があってなかなか会えないという事態は、むしろ何が神様との関係、お互いの関係の中で大切なのかにあらためて目を向き合わさせる機会となっているように思います。会うこともかなわない兄弟たちのために真に祈っていくべきことは何かを、この祈りからも教えられるように思います。オンラインでの交わり、また祈祷課題の交換、そして祈って、祈っているよ、というやりとりが随分増えて、その喜びをあらためてかみしめています。私たちは、祈り合える交わりの中に置かれている、これは今まで思ってきた以上にすごいことであることを、教えられています。 しかし一方で、弱い私たちがそうすらすらと、模範的に祈れるものではありません。そこは、祈らせてくださる方、ともにうめき、祈りを導いてくださり、祈りの言葉をもくださる聖霊の導きに信頼をして、祈りたいと思います。エペソ6:18を開きます。

「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りをつくして

エペソ6:18

「神様、私、祈れませんけど」「こんな思いを持っていますが」という正直な祈りから初めて、祈りを導いてくださる方にゆだねていきたいと思うのです。

私の親友である一人の方が、人間関係ですごく苦しむ中で、お風呂に入りながら正直な気持ちを神様に思いっきりぶつけたことがあったそうです。そうしたら「愛しているよ」という言葉が浮かんできたそうです。その時に彼が気づいたのは、自分は神様に愛されている、そして同じようにその相手役員も神様に愛されている、ということでした。その祈りをきっかけに変わりはじめ、やがて二人の交わりは変わり、祈り合う関係となっていったそうです。

私自身、変えられていく転機になった時は正直に祈った時、その中で神様の声を聴かせていただき、自分の視点が変えられ、祈りが変えられていく時であったと思い起こします。

今朝、共に開いたこのテキストにあるように愛と喜びの関係を持ちながら、お互いが神に近づくことができ、置かれているすべての場所でキリスト・イエスにあって生き、共に主に仕えていけるように、祈らせていただきたいと思います。

祈り

天の父なる神様、私たちがお互いの存在、働きを歓迎し合えることを感謝します。主よ、お互いが神に近づくことを励まし合い、祈り合っていけますように。誰一人孤独でなく、主にあってつながっている、神とつながり、兄弟姉妹同士、同労者同士、キリストのからだとしてつながっている、そのことを心の深みから覚えて歩んでいけますように、どうかお導きください。主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りいたします。

 

 

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日曜礼拝(21年5月9日)

2021-05-09 12:22:45 | Weblog

日曜礼拝(復活後第五)       2021.5.9

母の祈り」 使徒言行録1:6~14

 Ⅰ導入部

 おはようございます。5月の第二日曜日を迎えました。今日も会堂に集い、あるいは、各家庭や置かれた場所でのライブを通しての礼拝を、場所は違っても、共に心を合わせて、心を一つにして、心からささげることのできる恵みを感謝致します。

 緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の延長が決まり、トンネルをなかなか抜け出せない状況、問題が山済みの状態のように思います。私たちは、マイナスばかり、悪い事ばかり見てしまいますが、どのようなマイナス、悪い状況の中にあっても、確かに神様は生きておられ、私たちを守り、助け、最善へと導いて下さいます。今の苦しみや痛みを必ず、益に、恵みに変えて下さるのですから、イエス様に目を留めて、信頼して歩みたいと思うのです。

 今日は母の日です。お母さんに心からの感謝を現したいと思います。お母さん方、本当にいつもありがとうございます。神様の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

 今日は、使徒言行録1章6節から15節を通して、「母の祈り」と題してお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、弟子たちの思いとイエス様の願い

 ➀弟子たちの思い  イエス様は、十字架にかかり死なれましたが、三日目によみがえり、40日にわたって多くの人々の前に現れました。パウロは、コリントの信徒への手紙第一の15章3節から6節に、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。」と記しています。弟子たちは、イエス様の死の事実の前に撃沈しましたが、イエス様の復活で大いに回復し、力を得、希望が与えられたのです。ですから6節、「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」のです。イスラエルの国の復興、再興を願っていたのです。弟子たちの心からの願いは、イスラエルの国が再び独立して栄えることでした。しかし、イエス様は7節にあるように、そんなことは知らなくて良いと言われたのです。イエス様の願いはイスラエルの国の復興ではありませんでした。弟子たちの信仰の復興だったのです。

イエス様の遺言  イエス様は、1章4節、5節では、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と言われたのです。そして、8節、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と言われたのです。弟子たちにとっては、イエス様の証人となるためには聖霊が降る必要がありました。イエス様は、ヨハネによる福音書16章7節で、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたとところに来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」と言われました。イエス様が父なる神様の元に帰る時、弁護者、助け主、聖霊を送ると約束されたのです。

イエス様の弟子たちというのは、イエス様が共にいなければ何もできない人々でした。そのイエス様が弟子たちの元から去って行かれる。そこには、不安があり、恐れがあり、希望を持てない状況にありました。だからこそ、イエス様は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われ、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」と宣言され、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。わたしの証人となる。」と約束されたのです。

イエス様の昇天と弟子たちの拠り所  そのように約束されたイエス様は、弟子たちの見ている前で天に上げられたのです。私たちは毎週の礼拝で使徒信条を唱和します。その中に、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」とあります。イエス様が昇天して父なる神様の右の座におられるということは、今までの在り方とは全く違うということでしょう。弟子たちと共に地上におられたイエス様は、時間と場所に限定され、制限されていました。しかし、昇天されたイエス様は、これからは、イエス様と同じ人格を持つ聖霊なる神として弟子たちと共におられるというのです。それがイエス様の願いであり、イエス様の心でした。

イエス様が昇天されたということは、弟子たちからイエス様が離れたということです。イエス様との別離は、弟子たちにとっては恐れ、不安、心配だったでしょう。しかし、これからは聖霊様が共におられるから大丈夫なのです。ルカによる福音書24章51節から53節には、「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」とあります。弟子たちは、イエス様が昇天されて、意気消沈して、落ち込んで、肩を落としてエルサレムに行ったのかと思いきや彼らは、大喜びでエルサレムに帰り、神をほめたたえていたのです。イエス様がいなくなったというのに。それは、イエス様が去ると与えられるという弁護者、聖霊という形でイエス様が共にいて下さるという事を信じたからでしょう。イエス様が昇天されて、聖霊を与え、共におられることに期待したからでしょう。彼らはイエス様の約束の言葉を握りしめ、イエス様のお言葉に期待したのです

 

二、心を合わせて祈る

 ➀祈りをささげたメンバー  13節、14節には、イエス様の言葉を信じて共に集い祈りをささげたメンバー記されています。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」 ユダが抜けたので、マティヤを補充して12弟子と婦人たち、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちでした。

 女性たちは、ガリラヤからお供をして、いろいろな世話をしたのでしょう。イエス様の十字架を見届け、葬りの備えをし、最初の復活の証人となったのは女性たちでした。

イエス様の兄弟たちは、イエス様の働きを理解できずにいましたが、イエス様が十字架にかけられ、復活されて、イエス様を神の子として信じたのです。

イエス様の母マリア  口語訳聖書には、「特にイエスの母マリヤ」とあります。120人が集まっていたけれども、特にイエスの母マリアなのです。リーダーを失った弟子たち、群れでしたが、その群れの中にイエス様の母マリアがおられたということは特別な事なのです。やはり、イエス様の母という事で注目されたでしょう。イエス様を宿した時から出産、エジプトへの逃亡、ナザレでの生活、イエス様が12歳の時のエルサレムでの迷子騒動、突然、大工の仕事をやめて、弟子を作り教祖となった。そして、十字架と復活そのすべての証人であるマリアが、この群れの中にいたことは、大きな慰めだったでしょう。勇気が与えられたことでしょう。ここにこそ、イエ様の母マリアの存在があるのです。

共に祈る祈り  この人々は、心合わせて熱心に祈っていたのです。心を合わせるということは、初代教会の特徴です。主にある者たちが心を合わせると、共に祈ると素晴らしい事が起こるのです。何を祈っていたのかは記されていませんが、一つ考えられることは、イエス様が弟子たちに教えられた祈り、「主の祈り」が考えられます。彼らは、イエス様に祈ることを教えて下さいと願い、イエス様から直々に教えられた主の祈りをささげていたのでしょう。主の祈りが彼らに慰めと力を与えたのです。私たちは、毎週礼拝で主の祈りをささげますが、主の祈りが習慣ではなく、私たちにとって、主の祈りがイエス様の直々の祈りとして勇気と希望を与えるものでありたいと思います。

 

三、母マリアの存在

目立たない母  先ほど、この群れの中にイエス様の母マリアがいるということは、大きな慰めや励ましがあったことを話しましたが、マリアはこの群れのリーダーになって導いたというのではありません。弟子たちを指導して祈りを導いたわけでもありません。ただ、そこにいただけなのです。存在そのものが大きな慰め、希望でした。「特にイエスの母マリヤ」とありましたが、特別に何かをしたわけではないでしょう。そこにいるという存在意義が大きかったのです。私たちの家族の中にもお母さんはいます。掃除、洗濯、食事、家族の世話や健康管理と様々な働きがありますが、何もできなくても、そこにお母さんがいてくれる、お母さんの存在が家族にとっては大きな慰めであり励みなのです。

静かな祈り  母マリアは、クリスマスに見るように、突然の妊娠発表にも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になります 。」(ルカ1:38)と、命を懸けて神様の御子誕生の計画に従います。子どもたちの多い家族の中で、家事に、子どもたちの宗教教育、世話にあけくれたでしょう。特に、夫のヨセフは早くに亡くなったようですから、母としての責任と働きは大変だったと思います。日々の戦いの中で静かに祈る母親の姿を想像することができます。神に信頼する母の祈りをイエス様も見ておられたことでしょう。

母マリアは、ただ群れの中にいて、静かに祈っていたでしょう。イエス様のご生涯を思い出しながら、イエス様の語られた言葉を思い出しながら、イエス様のなされたみ業を思い出しながら、イエス様の十字架の死、復活、昇天の意味を考えながら、聖霊を待ち望みながら祈ったことでしょう。私たちは、イエス様の十字架と復活のゆえに、罪が赦され、魂が救われ、復活の命、永遠の命が与えられたのです。母マリアは、集まった者たちと心を合わせて、心を一つにして、熱心に祈ったのです。毎週の祈り会は、この時と同じように、心を合わせて、心を一つにして、熱心に神様のみ業が起こされるようにお祈りするのです。祈りには力があります。私たちも、共に祈る祈り、祈祷会での祈り、グループでの祈りを大切にしたいのです。

母の祈りには力がある 母マリアは、イエス様の生涯の中で、「心に納めて思い巡らしていた」(ルカ2:19.51)とあります。イエス様が神の子であること、神様から遣わされた方だと感じていたでしょう。イエス様が十字架刑につけられた時、どんなに悲しく辛い思いをしたでしょう。そして、復活された時は、どんなに喜ばれたでしょう。その時のマリアの言葉は記されてはいませんが、母親として自分の子どもを愛して、母としてできることは何でもしてあげたいと思ったことでしょう。今ここでは、祈りに専念したのです。

イエス様が昇天された今、母マリアは、イエス様の約束の言葉を信じて祈ったでしょう。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。わたしの証人となる。」という言葉、遺言として何度も思い巡らしながら祈ったのです。母親としてわが子を思いながら、祈ったのです。

母マリアの祈りの姿勢を見ながら、その思いを感じながら、その熱心さにつられるように、集まった人々は、心を一つにして熱心に祈りをささげたのです。そして、この祈りの先に聖霊が降るという聖霊降臨があるのです。

 

Ⅲ結論部

アメリカの第16代大統領のアブラハム・リンカーンの母は、彼が9歳の時に亡くなりました。彼の母はいつもリンカーンを膝の上にのせて、聖書を読み、賛美歌を歌い、毎日口に出してお祈りをしていました。大統領になった彼は、「私は母が私のために祈ってくれた祈りを今でも覚えています。母が声に出してくれた祈りは、私のこれまでの毎日の日々を守り、そして私の人生を導いてくれました。今、私がこのようにあるのは、全て母の祈りのおかげです。」と言ったのです。母の祈りには大きな力があるのです。

ペンテコステの前に、イエス様の約束の言葉を信じて、これから聖霊という形で共にいて下さるイエス様を覚えながら、120名の群れは祈りました。その中にイエス様の母マリアもいて、祈りに心を合わせたのです。この待ち望みの祈りに神様は答えて下さるのです。私たちも、祈りに答えて下さる神様を信じて、この週も祈りをささげたいと思うのです。私たちは、全能なる神様のみ業に期待して祈る一週間を歩みたいと思うのです。

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日曜礼拝(21年5月2日)

2021-05-02 12:11:27 | Weblog

日曜礼拝(復活後第四)       2021.5.2

全ては愛から始まる」 ヨハネによる福音書21:9~17

 Ⅰ導入部

 おはようございます。5月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に会堂に集い、あるいは、ライブを通してその場所で、共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。全国各地で新型コロナウィルス感染症の新規感染者が増加傾向にある中、ゴールデンウィークを迎えるという状況で、どうなるのだろうかと不安や恐れがあるように思います。

 このゴールデンウィークを人の流れが増えて感染者の増加を危惧する考え方と、人の流れが少なくなって感染者が減少するのではないかと安堵する考え方があるように思います。同じ状況ではありながら、感染者の増加か減少かという立場があるように、物事には表裏がありますが、私たちはどうしてもマイナス面をどうも見てしまうような状況が多いように思います。しかし、私たちの信じる神様は、良い状況の時も悪い状況の時も、神様の愛を注いでいて下さるお方です。私たちは、環境がどのような状況にあっても、私たちを愛していて下さる神様の愛を疑わないで、信じて、神様から目を離さないで歩ませていただきたいと思うのです。

 今日は、ヨハネによる福音書21章9節から17節を通して、「全ては愛から始まる」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、苦しみの場所が恵みの場所へ

 ➀9節には、「炭火が起こしてあった。」とあります。イエス様は弟子たちのために朝の食事の準備のために炭火を起こされました。ペトロが大祭司の中庭で、イエス様を三度も知らないと言ったのは、この炭火の前でありました。ヨハネによる福音書18章8節には、「僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」とあります。ペトロにとって、炭火とはイエス様を三度知らないと言った時のしるし、トラウマとなったのです。ペトロは炭火にあたるたびにイエス様を三度否定したことを思い出したでしょう。炭火を見るとよみがえる自分の失敗。思い出したくない事柄でした。ペトロの炭火による裏切りのしるしとなったトラウマを、炭火という状況の中で、イエス様はもう一度、炭火という状況をあえて備えられた所で「愛しているか」と問われるのです。手術をして悪い部分を取り除くように、イエス様はペトロの傷に触れて癒そうとされるのです。ペトロにとっては、炭火とは自分の罪、失敗を思い出し嫌な場所です。しかし、イエス様はその場所を、イエス様の愛の回復の場所、恵みの場所、イエス様の愛の注がれる場所と変えて下さるのです。

➁ペトロが大祭司の官邸の庭で、イエス様を三度知らないと否定した時鶏が鳴き、その時イエス様は振り向いてペトロを見つめられたと聖書は記しています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。」(ルカ22:61) ペトロは炭火を思い出すたびに、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」というイエス様のその時の顔が忘れられなかったと思います。恐い顔ではなかったでしょう。あきれ果てた顔でもなかったでしょう。一心にペトロを見つめる、ペトロの心を見透かしたような、愛の眼差しだったのではないでしょうか。

私たちが罪を犯した時、その事をイエス様は知っておられます。イエス様はペトロにしたように、罪を犯し、恐れている私たちを愛の眼差しで見て関わって下さるのです。

➂炭火がペトロの裏切りのしるしでありましたが、イエス様は、その炭火の前で「愛しているか」と問うことにより、また、ペトロが、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることにより、炭火という罪ある場所を愛の回復の場所として、癒しの場所としてペトロに回復を与え癒して下さったのです。

私たちも、自分が失敗した状況になったり、嫌な人物に会ったり、問題を起こしたその日付になると思い出す辛い事があるかも知れません。罪を思い出すことがあるのかも知れない。しかし、イエス様は、罪の場所を、失敗の場所を、思い出したくない日を、その場所を私たちの赦しのしるし、回復のしるしとして下さるのです。本当に感謝です。

 

 二、愛を問う

➀イエス様のペトロに対する問いは、「愛しているか」でした。イエス様がペトロに要求したのは、信仰ではありませんでした。「あなたには岩のような動くことのない信仰があるか」と問われませんでした。イエス様は、すでにペトロがイエス様を三度知らないという事を知り、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われていたのです。

またイエス様は、「私に従うことができる力があるか」とは問われませんでした。従う力は聖霊が与えてくれるでしょう。ヨハネによる福音書にあるイエス様の最後の晩餐の席では、聖霊、助け主が与えられることを語っておられました。聖霊による希望でした。

イエス様がペトロに要求されたのは、愛でした。愛の告白だったのです。夜中の激しい漁で体力を使い疲れ切っている状態、そして、イエス様を三度しらないと言って苦しんでいるペトロを最終的に打ちのめしてしまわないように、ノックアウトしないように、最大の配慮と愛をもって問いかけられたのです。聖書は「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13:13)と語ります。

➁イエス様は、最初「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われました。「この人たち以上に」とは、「他の弟子たち以上に」ととれますし、「他の弟子たちがイエス様を愛する以上に」ともとれますし、「今獲れた153匹の魚、船や網、家族や漁師という仕事以上に」と考えることができるでしょう。しかし、イエス様は愛であり、ペトロの奥底にある思いを知り、思いやることのできるお方が、ペトロの御自分に対する愛を仲間の弟子たちや他のものと比較して愛を競わせるということはなさらないでしょう。イエス様は、私たちのイエス様への愛や他の人のイエス様への愛を比較したり、競わせたりはなさらないのです。私たちは、私たちのイエス様に対する愛し方でいいのです。

➂イエス様はペトロに三度、「わたしを愛しているか」と問われました。それは、ペトロがイエス様の事を三度知らないと否定したから三度「わたしを愛しているか」と問われたのでしょうか。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と自信を持って宣言したのにもかかわらず、自分を守るために、命欲しさに一度ならずも、3度もイエス様を知らないと否定してしまったので、三度「わたしを愛しているか」と問われたのでしょうか。全く関係していないとは言えませんが、もしそうなら、「もう二度と私を裏切りませんか」とか、「私の事を二度と知らないと言いませんか」でよかったでしょう。

ペトロがイエス様を三度否定したという事実は変わりません。白紙にすることはできないのです。ドラマや映画のように、過去に戻って失敗した事をやり直すことはできないのです。しかし、イエス様は自分がイエス様を三度も否定したという事実が、彼を苦しめ、痛めていたので、「わたしを愛しているか」、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という応答によって、ペトロは、自分の小さな、弱い愛を、今の弱いままの自分を受け入れ、包んで下さるイエス様ご自身に全てをお委ねしたのです。

 

三、偽りのない愛を求めて

 ➀イエス様は、ペトロに三度「わたしを愛しているか」と問われました。何故三度だったのでしょう。それは、先ほど見ましたようにペトロがイエス様を三度否定したからでしょうか。聖書で、3という数字には意味があります。3は神様の世界を現わすと言われているようです。三回祈りを重ねるという事は神聖を現わすようです。パウロは自分の病気が癒されるように3度祈りました。3度の繰り返しと言うのは、物事の確実な立証や強調を意味するようです。三位一体の神様と表現しますが、それは神様の世界を現わし、神聖を示し、父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様の確実な立証、神様なのだという強調があるのです。イエス様がペトロに三度「わたしを愛しているか」と問われたのは、イエス様の愛の深さ、ペトロを心から愛しておられるという強調があるように思うのです。

➁17節の後半には、「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。」とあります。「悲しくなった」のです。それは、自分がイエス様を三度知らないと否定したので三度も問われたと思ったからでしょう。新改訳聖書や口語訳聖書では、「心痛めて」とあります。詳訳聖書には、「気に病んで」とあります。ペトロは、イエス様に三度「わたしを愛しているか」と問われたことがショックだったのです。

ここで「悲しくなった」と記されているペトロが経験した心の痛みや悲しみというのは、イエス様の愛を知らず、罪ある生活をしていた私たちが、イエス・キリスト様に出会い、イエス様に触れていただいて、自分の心の中に罪があること、汚れていること、罪人であることを知らされた時、そのように罪ある者であることを知った時の悲しみや痛みと似ているような気がするのです。この痛みは病を治すために、肉体にメスを入れて痛むように、今では麻酔がありますので、大丈夫でしょうが、麻酔が切れてからが大変です。痛みがあるのですが、それは癒しにつながる痛みなのです。痛みの先には、回復があり、癒しがあるのです。今私たちが痛み、苦しんでいても、イエス様によって回復するのです。

➂ここでよく言われるのは、「わたしを愛しているか」と「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」の愛という言葉の表現についてです。イエス様がペトロに1度、2度と「わたしを愛しているか」といわれた愛という言葉は、原語では「アガパオー」という言葉が使われています。これは、無償の愛、犠牲の愛、神の愛についての言葉です。それに対して、ペトロの「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」の愛という言葉は、原語では「フィレオー」という言葉が使われています。これは、人間的な、情緒的な愛、友愛と言われるものです。愛という言葉は日本語では同じでも、ギリシャ語では違うのです。イエス様が三度目に、「わたしを愛しているか」と問われた愛という言葉は、「アガパオー」神の愛ではなく、「フィレオー」友愛の愛という言葉を使われたのです。ペトロは到底、犠牲的な愛、無償の愛で答えることなどできませんでした。ただ友愛の愛で、愛ししていることはあなたが御存じですと答えるしかなかったのです。イエス様は、何が何でも、絶対に犠牲的な愛、神の愛で愛するのかではなくて、友愛の愛で愛するのだね、とペトロに寄り添って下さったように思うのです。

しかし、ヨハネによる福音書15章13節には、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と言われた愛という言葉は、「フィレオー」の名詞形の「フィロス」という言語が使われています。友愛の愛です。しかし、この友愛は、「友のために自分の命を捨てること」という意味のある愛であることがわかります。イエス様は、弟子たちを友と呼ばれました(ヨハネ15:15)。イエス様の友である弟子たちは、イエス様がご自分の命を捨ててまで愛された友であり、アガペーの愛、神様の愛が注がれている友なのです。そして、同じように、イエス様の愛、十字架にかかり尊い血を流し、命をささげるまでの愛を私たちに下さったのです。それだけではなく、イエス様は死んで葬られ、よみがえって、私たちの罪を赦し、魂の救い、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を下さったのです。

 

Ⅲ結論部

イエス様は、ペトロに三度「わたしを愛しているか」と問われましたが、イエス様はペトロの御自分への愛がわからなかったから問われたのでしょうか。「愛しているか」という質問そのものがおかしいような気もするのです。

夫と妻の会話です。妻が夫に、「私のこと愛してる。」と聞きます。夫は、「勿論、愛してるよ」と答えます。何とほほえましい夫婦でしょう。ここまでならば・・・ 妻がもう一度聞きます。「本当に!」夫は答えます。「本当に愛しているよ。僕は君にやさしくしているし、何か困った時は君を助けているし、結婚記念日や誕生日、それ以外にも高価なプレゼントをあげているよ。」と。とても良い夫だと思われますか。ここで、夫は自分が妻に対して、自分が妻を愛しているという事を「やさしさや助けることやプレゼント」ということで示そうとしているのです。本当に愛し合い、お互いに愛を感じているならば、「私を愛してる」と問うことは必要ないでしょう。「あなたが私を愛していることを私は知っているし、私があなたを愛していることは、あなたも知っている。」ということなのです。

私があなたを愛している根拠、証拠、「優しいから、助けているから、プレゼントをあげるから」を懸命に示さなければならないというのではなくて、私があなたを愛しているという根拠、証拠は「私ではなくあなたが持っている」ということなのでしょう。

「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」というペトロのイエス様に対する愛の根拠、証拠は、ペトロ自身が「あれです。これです。」と示すというのではなく、愛の根拠、証拠は、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とペトロが言った、イエス様ご自身にあるということなのです。

アガペー、神の愛で、犠牲的な愛で愛しますか、と問われても胸を張ってハイとは言えないのです。私たち人間の側の愛するという根拠は長くは続かないのです。本物の愛にはならないのです。イエス様の側から愛していただかなければ、私たちには愛することはできないのです。「私の愛の根拠は、あなたイエス様にあるのです。」というのがペトロの正直な答えであり、イエス様に愛されているからこそ、できた応答だと思うのです。ペトロは悲しみの中で、痛みの中で、愛を問われ、愛を問うという経験を通してイエス様に癒され、回復することができたのです。聖書には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)とあります。

私たちも罪を犯すことがあります。数々の失敗を通して苦しみ、痛みます。しかし、何があろうともイエス様の愛は変わりません。常に、私たちに「愛しているか」と問われ続け、私たちは「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と問い続けるのです。 

私たちは、イエス様の深い愛に触れ、愛に押し出されて、遣わされて行くのです。大丈夫。イエス様はあなたを愛しておられます。この週も、全てはイエス様の愛から始まるのです。私たちは愛されていることを感じ、自覚して、イエス様への愛を問い、愛されていることを感じながらこの週も過ごしてまいりましょう。

 

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