2021/5/16
青葉台キリスト教会礼拝
愛する者のための祈り (ピリピ書1章1:1~11) キリスト者学生会総主事 矢島志朗
はじめに
おはようございます。多くの方々とは「はじめまして」になるかと思います。、私はキリスト者学生会総主事の矢島志朗と申します。このたびこうして礼拝を共にさせていただけますことを心から感謝しております。日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会の会員、また勧士として奉仕しております。15年前からKGK主事の働きに導かれ、6年間中四国地区担当として、岡山を拠点に中四国9県の20ほどの学校を訪問し、宣教の活動をしておりました。8年前には副総主事・事務局長として東京に移りまして、事務局運営や卒業生の働きの担当をして、そして昨年の春より総主事の責任を担っております。
私は学生時代に信仰を持ちました。教会に導かれて、教会にいた大学の先輩に聖書研究会を紹介されて、KGKに関わるようになりました。今日ご出席されている田代秀樹さんとは、学内の聖書研究会で出会って以来の友人です。この時代に青葉台キリスト教会に持田先生がおられましたが、教会をお借りして、聖書研究会の集まりをさせていただいたこともあります。
この3月までの3年間、塚本良樹主事(結婚後に寿子主事も)が大変お世話になりました。皆様に本当によくしていただいたことを伺ってきました。心から感謝をしております。ありがとうございました。
お読みいただきました箇所から、この朝は「愛する者のための祈り」と題してメッセージをさせて
いただきます。
1.恵みと平安を(1-2節)
ピリピはという町はギリシアの北部、マケドニア地方にあった一都市で、交通の要衝であり、軍事
的拠点でありました。木材が豊富で,肥沃な平原に囲まれ,近くに金鉱や銀鉱があったそうです。
もともとピリピにはユダヤ人が少なく、第2回目の宣教旅行でパウロがトロアスという町にいた時、
幻の中で(使徒16:9~10)「マケドニヤに渡って来て、わたしたちを助けてください」という叫びを聞いて渡って伝道をし、ヨーロッパの最初の教会として成立しました。ピリピの人たちは純朴で、パウロと親しい交わりを持っていました。使者を遣わして労をねぎらったり、物質的な支援を惜しみなくしたりしていました。パウロもまた、何度かこの教会を訪れる機会を持ったようです。
この手紙を書いている時、パウロはローマの獄中にいました。それを聞いたピリピの人たちは、エパフロデトに贈り物を持たせて派遣しました。エパフロデトはローマに着いてから重病になります。(「ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりました(2:27)」)。エパフロデトの回復後、パウロはピリピに送り返すにあたり、感謝の手紙を書いて彼に託しました。それがこの手紙なわけですが、それと同時に、教会の色々な問題への対処についても書いています(①会員同士の対立 ②ユダヤ主義者の危険 ③反律法主義者の問題)。総じて、友情に満ちた、心あたたまる書です。パウロは10以上の手紙を書いていて、送り先によっては非常に緊張関係にあるような教会もありましたが、このピリピ教会との関係は、とてもあたたかなものでありました。
さて、1節で「聖徒」という言葉が出てきますが、これは「きよらか」というよりも、へブル的な
考え方で「他のものと異なっている」「分離している」という意味があります。
キリスト教は決して今、印象が悪い宗教ではないように思います。日本の歴史、近代化の歩みの中
で、そして今日もキリスト教の精神に基づいた働きは少なからず重要な貢献をしてきています。しかし15世紀のキリスト教伝来以降、長く社会では受け入れられず迫害のもとで殉教の血が流されてきました。今日において、キリスト者と言われる人が統計上で1%を超えることはありません。その意味では、キリスト者であることが、非常に珍しい存在として思われることもあるわけであります。
それは私が今まで学生たちと聖書を学ぶ中でも、しばしば聞いてきた声でありました。「他の多くの人とは違う」ということに、ともするとためらいや恐れを覚えてしまうということだと思います。「自分がクリスチャンであるということを公にする」ことが大きなハードルになる場合もあります。これは、学生と関わる中でも、よく耳にしてきたことです。しかし、聖書が言っているのは、違って当たり前だということです。「聖徒」であること自体、もう「異なっている」「分離している」存在なのです。人間ですから弱さはある、罪を犯すことがあれば間違いもある。でも、この1節にある「すべての聖徒たち」というのは、そうでない状態とは全く違うということを意味しています。
何が違うのでしょうか?1節で「キリスト・イエスにある」という言葉で出てきます。このことについてある学者は「これはパウロにとって、キリスト教の本質そのもの」であり、「絶えずキリストにある大気の中で、キリストの御霊の中で生きること」と述べています。そう、「キリスト・イエスにある」者、キリストの大気、空気の中で生かされているのです。どこに行ってもそうです。この礼拝堂にいる時だけではない、机に座って聖書を読んでお祈りしている時だけでもない、日常の生活や働きの場でのこと、家庭、職場、コミュニティ、それらすべての場が「キリストの大気の中」「キリストにあって」という場なのです。
進みます、2節。恵み(カリス)とは、喜び、楽しみ、美しさ、魅力というという意味があります。キリスト・イエスによって、もともとあった美しさに新しい美しさが加えられていく、というイメージです。
平安(エイレーネー)とは。へブル人が互いに出会った時にかわす挨拶に用いられるです。これは無風状態の平和や、紛糾がないことを意味してはいません。この言葉と関係の深い動詞が「結合する」「織る」「一緒に」という意味を持っています。つまり、この平安というのは、たとえ争いが起こったとしても常に和解に向かっていく、そこから生み出されるということです。私たちの生活、たくさんの悩みがあり、人間関係で大変なこともすでに起こっていたり、これからも起こる。しかし常に和解を目指していける、そんな平安がありますように、ということです。
「恵みと平安があなたがたの上にありますように」というのは、神様が美しさを加えてくださること、
そして、常に人と人、あるいは神と人との関係において和解に向かい、そこから来る平安に生きる状
態にあること、それがパウロの祈りでした。これは、キリスト者すべてのための祈りでもあります。
ここで祈られている「恵み」と「平安」の中に、私たちは今も、今日も生かされているということで
す。このことに、深く思いを留めたいと思います。
2.感謝の祈り(3-8節)
次にパウロの「感謝」を見たいと思います。ここに見出せるのは、ピリピの人たちの「存在」と「働
き」への感謝です。
一つは、「存在」への感謝です。3節に「私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。」とあります。すごい祈りであることを思います。この人がいてくださることを感謝します、○○さん、△△くんがいてくださることを感謝します、ということです。4節には「あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びを持って祈り、」とあります。祈るたびに喜びが湧いてくる、つまり、ピリピ教会の人々の存在そのものを喜んでいたのです。
私は未信者の家庭で育ち、大学に入って初めて私が触れたのは別の宗教であり、また異端でした。
しかしその後に、不思議な道を通って、信仰に導かれました。クリスチャンになって31年目です。関わりがあった友人や恩師で今も交わりがあって、その人の存在、顔を思い浮かべるだけで神を覚えさせられ、励まされるような人がいます。皆さんはいかがでしょうか、祈る時に喜びが湧いてくる、私たちは、そんな関係を持っていけるような兄弟姉妹として、この場に置かれているのだと思います。
そして「働き」への感謝ですが、パウロとピリピ教会の人たちは一緒に距離は離れても(ローマとピリピの直線距離は約1000㎞、)、共に神の働きにあずかってきたことが、大きな喜びでした。しかもその働きは、「神によって完成させられる」という確信に立ったもの、それもまた喜びでした。この6節にある「良い働きを始める」と、「完成する」という言葉は、どちらも犠牲をささげる儀式の初めと終わりに使う専門用語だそうです。私たちはキリストが犠牲によって救われました。それは「完全な犠牲」であって、私たちはその完全さの故に救われました。救いを成し遂げてくださったほどの確かさをもって、この福音宣教の働きも神が完成に導いて下さるとパウロは確信しながら、共に働く喜びに満ちていたのです。
この手紙が書かれている時に、パウロは獄中にいる、不自由できわめて困難の中にいる時でありながら、共に存在し働くことを喜び、共に恵みにあずかってきたのだと言っています。このパウロのために、ピリピ教会の人たちは祈り、エパフロデトを送り、助けたのでした。ともに福音を伝えるわざにあずかって、恵まれていたのでした。
キリスト・イエスにあって歩む者、それは「分離された」「異なる」者同志、お互いにその存在を感謝し合い、キリスト・イエスがしてくださった完全なわざを喜び、そしてまた、私たちが取組む働きも完成してくださることを信じて、共に喜ぶ、そのような関係にいる者同士であるのです。
8節に「キリスト・イエスの愛の心」という言葉があります。パウロは、ピリピの人への愛に満
ち満ちていました。8節の「愛の心」は、本来は「内臓」を指します。この言葉と同根の動詞は共観福音書でイエスが「かわいそうに思う」「深くあわれむ」を表現するのに用いられています。それほどの思いでパウロはピリピの人々を慕っています。このように愛し合う者同士が今日、ここに集っているということを覚えたいと思います。
3.愛する者のための祈り(9-11節)
今日のテキストの最後の、パウロの祈りを見たいと思います。すごい祈りをささげているなあと思
います。大きく言えば二つです。一つは「愛が豊かになる」そのために「知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができるように」、もう一つは「純真で非難されるところのない者となり」「義の実に満たされる実が結ばれる」ということです。
9節で「識別力」という言葉には、本物と偽物を見分ける力という意味があります。愛が豊かになるためには、知識と識別力が必要であるということを教えられます。愛は盲目、何の知識も知恵も必要ではないということでなく、それらを高めるための努力が必要であることがわかります。
10節で「純真」という言葉が出てきて、これには「ふるいの中に入れられたものが、あらゆる不純
物をえりわけるまでふるわれる」というものがあります。ゆさぶられて練られる、苦しいこともある、でもそれらを通して非難されることのない者となる、その人が結ぶ実によって神様の素晴らしさがあらわされるようになるといいうことです。
聖書が語る神様の救いの計画は、やがて神様の計画が成就して、新しい天と新しい地が訪れるというものです。その時に、神様は私たちがなした働きの全てを用いて、一つも無駄にすることなく、そのみわざを完成させてくださいます。そしてご計画を進める中で、私たちを練って、純真な者、非難されるところのない者、神の御栄えと誉れをあらわす者としてくださいます。
パウロが祈り願ったこの姿に一人一人が変わっていく、その根本にあるのは要になってくるのは、
その人自身の神様との関係、神様との交わりです。神様と親しくなるから、もっと神様を慕い求めることで、知識が身につき、識別力が身に着きます。神様の視点、判断力が養われていきます。神のことばを聞こうとし続ける、そして祈りをささげ、またみことばを聞き続けることで、そして試練の中でも練られていき、実を結んでいくことができます。パウロを一人一人が神様とそのような関係になることを見据えながら、熱心に喜んでピリピの人のために祈ったのです。
祈りの喜びというのは、「私たちが愛し、親しくしている人々が神に向かっていくことができる」ように祈り合う喜びです。「守られますように」「うまくいきますように」「健康でありますように」もちろんそれらも尊い祈りであると思います。しかしそれだけではなく、他人には決してれない深い領域において、もっと深く「その人が神に近づくことができるように、神と深い交わりができますように」そして、「愛が豊かになりますように」「実を結ぶ者となりますように」と祈り合うことが、さらに深い喜びを私たちに与えてくださるということです。私が中四国地区KGKの働きで学校をある訪問をして、聖書研究会の最後に祈祷課題を分かち合う時に、いつも判で押したようにレポートの締め切りとテストの予定を教えてくれる学生がいました。それも大事な祈祷課題なのですが、「他にない?」と聞いたりしていました。信仰のこと、今思っていること等に関する祈祷課題も教えてもらって、祈りたかったからです。
このテキストに見られる関係、すばらしい関係ではないでしょうか。キリスト・イエスにある者同
士というのは、このような素晴らしい関係が既に与えられており、それを深めていくことが恵みとして、またチャレンジとして与えられています。
「コロナ禍」が1年以上となり、と言われる状況で、制約があってなかなか会えないという事態は、むしろ何が神様との関係、お互いの関係の中で大切なのかにあらためて目を向き合わさせる機会となっているように思います。会うこともかなわない兄弟たちのために真に祈っていくべきことは何かを、この祈りからも教えられるように思います。オンラインでの交わり、また祈祷課題の交換、そして祈って、祈っているよ、というやりとりが随分増えて、その喜びをあらためてかみしめています。私たちは、祈り合える交わりの中に置かれている、これは今まで思ってきた以上にすごいことであることを、教えられています。 しかし一方で、弱い私たちがそうすらすらと、模範的に祈れるものではありません。そこは、祈らせてくださる方、ともにうめき、祈りを導いてくださり、祈りの言葉をもくださる聖霊の導きに信頼をして、祈りたいと思います。エペソ6:18を開きます。
「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りをつくして
エペソ6:18
「神様、私、祈れませんけど」「こんな思いを持っていますが」という正直な祈りから初めて、祈りを導いてくださる方にゆだねていきたいと思うのです。
私の親友である一人の方が、人間関係ですごく苦しむ中で、お風呂に入りながら正直な気持ちを神様に思いっきりぶつけたことがあったそうです。そうしたら「愛しているよ」という言葉が浮かんできたそうです。その時に彼が気づいたのは、自分は神様に愛されている、そして同じようにその相手役員も神様に愛されている、ということでした。その祈りをきっかけに変わりはじめ、やがて二人の交わりは変わり、祈り合う関係となっていったそうです。
私自身、変えられていく転機になった時は正直に祈った時、その中で神様の声を聴かせていただき、自分の視点が変えられ、祈りが変えられていく時であったと思い起こします。
今朝、共に開いたこのテキストにあるように愛と喜びの関係を持ちながら、お互いが神に近づくことができ、置かれているすべての場所でキリスト・イエスにあって生き、共に主に仕えていけるように、祈らせていただきたいと思います。
祈り
天の父なる神様、私たちがお互いの存在、働きを歓迎し合えることを感謝します。主よ、お互いが神に近づくことを励まし合い、祈り合っていけますように。誰一人孤独でなく、主にあってつながっている、神とつながり、兄弟姉妹同士、同労者同士、キリストのからだとしてつながっている、そのことを心の深みから覚えて歩んでいけますように、どうかお導きください。主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りいたします。